奈良教育大学学術リポジトリNEAR
教科書出版の自由 ― 杉本判決の法理 ―
著者 松元 忠士
雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要
巻 7
ページ 25‑35
発行年 1971‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10105/6225
教科書出版の自由
杉本判決の法理
松 元 忠 士
政治学教室)
は じ め に
本年7月17日,東京地方裁判所民事二部で下された教科書検定処分取消訴訟事件判決は、現行教科 書検定制度と本件検定不合格処分が違憲,違法であるとする原告の主張に正面から応え,教育法の基 本的な諸原則を明らか一にしたものとして注目すぺきものであっ烏
すなわち,判決は教科書検定制度の司法的判断の論理的前提として、国民の教育を受ける権利教 師の教育の自由、学問の自由,教育行政の教育内容不介入の原則等の国家と国民。教師問の重要な教 育規範の諸論点を廻避すること左く.それらの規範の実定的存在性具体的規範構成について積極的 かつ明快在判断を示したのであっ走。そこに示された見解論証結論とは.いくつかの疑問一検討 の余地を残しているとはいえ.従来の憲法学界の通説的見解をのり越え,憲法,教育基本法の理念に たちかえって「国民の権米山を回復せんとする極めて意欲的た姿勢を示したものと言平価することがで きる。唯判決は本件訴訟の眼目であった教科書出版の自由について,それを憲法2I条1項によって 保障されるとしながら,「表現の自由も無制約庄ものてば安く,公共の福祉の見地からの必要かつ合 理的制限に服するものなることぱいうまでもない」とし,思想内容の審査にわたらない範囲内で現 行の教科書検定制度を合憲と判示したのである。この点本件検定不合格処分の違憲違法性の結論に 影響するところは左かったが,若干の理論的問題を残したといえよう。
本稿は,以下本件訴訟の提起した最も核心的な論点,教科書出版の自由について本判決の示した法 理とその問題点を検討してみることとする。
1 国民の教育楮 一基本的前提
杉本判決は本案の判断に当って,原告の主張を「教育を受ける権利拾よび教育の自由を侵害すると の主張について」と,「憲法21条拾よび同23条違反の主張について」に分かち,後者の「ω学問の自
由と表現の自由」の項で教科書執筆出版の自由について論じている。判決のこの区分と構成論法 は可成り意図的であるように思われる。つまり・教育基本権の本論が前者にありながら.これを規範 的根拠にして教科書検定制度が違憲,違法であることを理由として,原告が本件各検定不合格処分の 取消しを求めることを否認しむしろ後者に於て,原告の訴訟上の利益を認め,検定制度についてい わゆる運用違憲の判決を下したのであった。判決のこの態度は,すでに前者の国民の教育権と教育の
自由の規範論の展開に於て,十分検定制度の違憲性が推定されるにも拘わらず,これの結論を「原告
が本件各検定不合格処分の取消訴訟について有する利益」の観点から避けえたということもその理由 の一とし在がら,むしろ「国民の教育権」「国民の教育の自由」については原告の主張に対する規範 内容の回答に止め・初めから憲法21条の教科書執筆・出版の自由の保障と,従って検定制度の思想内 容の事前審査性それの合憲的運用の検討に重点を巻き,前述の緒論を導いている。
このように,本判決は国民の教育を受ける権利,教育の自由の教育基本権の規範論理から本件教科 書検定制度の違憲の判断を廻避したことが大きな特徴となっている。そのため原告の教科書執筆 出 版の自由とこの教育基本権の規範論理とが分断され・これとは切り離された形で前者の独自のr表現 の自由」権の規範論理を基軸にして検定制度の違憲性の審査が処理されている。しかしながら、前者 と後者の論理的関連は教科書が教育の素材として「教育内容」を構成しているという観点に於て違っ ているのであって,この視角からの教科書検定制度の規範的妥当性の判断が可能在のである。
ここに「教育を受ける権米山拾よび「教育の自由」の判旨のrコで,教科書執筆 出版の自由の論理 的前提となる部分を示すと以下のと拾りである。
ll〕この規定は(憲法26条一筆者記す),憲法25条をうけて,いわゆる生存権的基本権のいわば文化 的側面として,国民の一入一人にひとしく教育を受ける権利を保障し,その反面として.国に対し右 の教育を受ける権利を実現するための立法その他の措置を講ずべき責務を負わせたものであって,国 民とくに子どもについて教育を受ける権利を保障したものということができる。12j子どもは未来に右 ける可能性を持つ存在であることを本質とするから,将来に呑いてその人問性を十分に開花させるべ
く自ら学習し事物を知り,これによって自らを成長させることが子どもの生来的権利である。(3揃 言己の子どもの教育を受ける権利に対応して子どもを教育する責務をになうものぱ親を中心とした国民 会俸であると考えられる。すなわち,国民は自らの子どもぱもとより,次の世代に属するすべての者 に対しその人聞性を開発し文化を伝え,健全な国家および世界の担い手を育成する責務を負うも のと考えられるのであって.家庭数奇私立学校の設置をとはこのような親をはじめとする国民の自
然的責務に由来するものというべきものである。このような国民の教育の責務は,いわゆる国家教育 権に対する概念として国民の教育の自由とよばれる。(4〕国家は.右のような国民の教育責務の遂行を 助成するためにもっぱら責任を負うものであって,その責任を果たすために国家に与えられる権能は,
教育内容に対する介入を必然的に要請するものではなく,教育を育成するための諸条件を整備するこ
とであると考えられ.国家が教育内容に介入することは基本的に許されないというべきである。(5廠
育の内的事項については,すでに述べたようなその特質からすると.一般の政治とは別個の側面をも
っというぺきであるから.一般の政治のように政党政治を背景とした多数決によって決せられること
に本来的にしたしまず、教師が児童,生徒との人間的なふれあいを通じて,自らの研鎖と努力とに
よって国民全体の合理的を教育意思を実現すべきものであり,また,このような教師自らの教育活動
を通じて直接に国民全体に責任を負い,その信託にこ走えるぺきものと解せられる。16現代国家の理
念とするところは,人間の価値は本来多様であり,また多様であるべきであって,国家は人間の内面
的価値に中立であり,個人の内面に干渉し価値判断を下すことをしない、すなわち国家の権能には限
りがあり人間のすべてを統制することはできない、とするにあるのであって,…・・……・児童、生徒の
心身の発達段階に応じ,必要かつ適切な教育を施し,教育の機会均等の確保と,教育水準の維持向上
のための諸条件の整備確立に努むべきことこそ福祉国家としての責務であると考えられる。(71公教育 としての学校において直接に教育を担当する者は教師であるから,子どもを教育する親をいし国民の 責務は,主として教師を通じて遂行されることにをる。この鱒係は、教師はそれぞれの親の信託を受 けて児童,生徒の教育に当たるものと考えられる。18廠育に当たって教師は学問■研究の成果を児童 生徒に理解させ、それにより児童生徒に事物を知りかつ考える力と創造力を得させるべきものであ るから。教師にとって学間の自由が保障されることが不可欠であり,児童,生徒の心身の発達とこれ に 対する教育効果と科学的にみきわめ,何よりも児童生徒に対する深い愛情と豊富な経験をもつこ とが要請される。してみれば、教師に対して教育をいし教授の自由が尊重されなけれぱをらないとい うぺきである。・・………・教師の教育の自由もまた,親の教育の責務.国民の教育の責務と不可分一体 となすものと考えるべきである。ωこのような教育的配慮が正しくなされるえめには,児童,生徒の 心身の発達,心理 社会環境との関係等について科学的を知識が不可欠であり.教育学はまさにこの
ような科学である。すなわちこうした教育的配慮をなすこと自体が一の学問実践であり、学問と教育 とは本質的に不可分一律というべきである。してみれば,憲法23条は、教師に対し学問研究の自由 はもちろんのこと学問研究の結果自らの正当とする学問的見解を教授する自由をも保障していると解 するのが相当である。o①教青は本質的に自由で創造的凌精神活動であって,これに対する国家権力の 介入が極力避けられるぺきものであり,右の下級教育機関に拾ける公教育の画一化の要請にも拾のず から限度があるというぺきものであるし、また下級教育機関における公教育内容の組織化は法的拘東 力のある画一的,権力的在方法としては国家としての公教育を維持していく上で必要最少限度の大綱 的事項に限られ,それ以外の面については,教師の教育の自由を尊重しつつ,これに対する指導助言,
参考文献の発行等の法的拘東力を有しない方法によることが十分可能であり,……・・こうした方法に よるべきである。
以上判決に示された教育基本権の論理的内容は.公教育のそれぞれの構成主体の機能的関係を教 育の文化科学的凌本質に即してまず基本的に正しく肥えている。判決が教育についての取源的欲求の主 体が子どもであり.従って教育に対する基本的権利が子どもに保障されねぱをらぬことから出発して いるのは教育基本権を正しく位置づけているといえる。判決は更に子どもの学習権を保障する定めに 教育を授けることが国民的課題であるとし走うえで教育の本質について次のように述べる。「教育 の本質は,このような子どもの学習する権利を充足レその人間性を開発して人格の完成をめざすと ともに,このことを通じて,国民が今日まで築きあげられた文化を次の世代に継承し,民主的,平和 的在国家の発農ひいては世界の平和をにをう国民を育成する精神的,文化的ないとなみであるという ぺきである」oかかる普通主義的人文主義的教育観は,憲法,教育基本法の理念をかざることなく 謳い上げたものであり、ここに教育が政治の目標となったり,手段となるべき示唆的言葉を見出すこ
とができない。むレ5,かかる理念は教育が政治を指導した結果に外ならず・かかる教育の本質からし て「子どもを教育する責務をになうものぱ親を中心として国民全体であると考えられる」のである。
この子どもを教育する責務は親の子に対する自然的責務であり,これが国家に対する時権利に転化
する。なぜなら,親の子に対する自然的責務は排他的で本来的なものであ久第三者に対して対抗権
を有するからである。かかる親の責務は親の子に対する自然的の愛情と共同社会の一.負としての社会
的義務に由来しているのであり・本来親自身が社会的八問として果すべき責務なのである。判決はこ のよう庄責務を「国民の自然的責務」といい,「このような国民の責務は.いわゆる国家教育権に対 する概念として国民の教育の自由とよばれる」としている。ここで「国民」という言葉が使われ走の は,現代に於て複鵜高度の文化を担いうる次の世代を育成する仕事は,もはや親の能力を越え,親 の恣意に委ねられるべきで看く・全国家的に親の共同義務として組織化されているからである。これ がr公教育としての学校教育」であるが,そのrコの「普通教育」が法律で全国家的に義務づけられる ことにより「国民の」子どもに対する責務となったのである。しかし この国民の責務は親義務の共 同化として組織されたのであって,その結果親の責務が本質的に変ったわけではなく,その意味で依 然国民の子どもに対する「自然的責務」なのである。たとすれば,国家の教育に対する関係は「国民 の教育責務の遂行を助成する定めにもっぱら責任を負うものであって」,従って国家の権能は「教育 を育成するための諸条件を整備することであると考えられ,国家が教育内容に介入することは基本的 には許されないというぺきである」。これば国民の教育幅 教育の自由の帰着であり,教育に対する 国家の責務の基本原則であ乱
この基本原則は.国民の総意が法律に反映されるとされ,国政が法律によって行われる議会制民主 主義の建前によっても覆えされることは在く,逆に教育が「政党政治を背景とした多数決によって決 せられることに本来的にしたしまず、教師が児童,生徒との人間的なふれあいを通じて,自らの研鍍
と努力とによって国民全体の合理的を教育意思を実現すべきもの」であることが判示される。
憲法26条の規定は,従来その権利性についてはプログラム規定と解し.規範内容については教育の 機会均等を定めたものとするのが通説拘見解であった。即ち、前者について「ここにいう権利とは,
国家が教育の機会均等につき酉d癒すべきことを国民の側から権利としたものであって,国家は立法及 ぴ政策を決定するにあたってこうした点を充分顧慮しなけれぱならぬということ,更に一歩進んでぞ 川 の趣旨を実現するために適当な手段を講ずる責任があるということを内容とする」 と。また,後者 については「この教育を受ける権利はすべての国民がひとしく有するものである。・・・・・・…「すべて」
国民が「ひとしく」有するというのは,両者あいまって教育に倉ける主体的平等を規定するものであ ll l
り,先に述べた教育の機会均等を意味するに他なら琉い」 と述べているのがその代表的見解である。
憲法26条についてのこの解釈は。杉本判決の見解と比較した場合,「権利としての教育」の歴史的 背景権利の性格内容の分析的把握を欠いている。その理解が極めて実体的内容に乏しく.形式的 である。被告はほぼこの解釈に立脚して,教育の内的事項と外的事項とを区別することなく.憲法26 条第1項に定める国民の教育を受ける権利を保障する責務を負うのは国であるから.「国が公教育制 度を設けて国民の教育を受ける権利を保障することは,むしろ同条が要請しているところである。」
とする。教科書検定制度はこの要謝=こたえて公教育の適切な運営を図るために設けられているので あるから同条の趣旨に合致するというのである。重た.「この教育を受ける権利の内容については.
同条項は「法律に定めあるところにより」と定めて法律に留保しているのであり,国が教科書の検定 を行なうことは,法律に紗て定められている」のであるから同条違反ではないと主張して以,し
かし この主張ぱ・杉本判決の示す如く。教育の本質についての分析を欠き条文の形式的解釈に終始
しているといえよう。もし被告の主張するように,憲法26条の国民の教育を受ける権利を保障する国
の責務桃教育内容,方法についてもわたるとすれぱ,普通教育は法的に国民に義務づけられている のであるから、憲法26条の国民の権利規定にも拘わらず実質的に教育権は国家に移り、国民は国の 施す如何なる教育内容にも結果的に服さ左けれぱならず.国民の権利は国に対する義務に転化する。
この解釈は,教育を受ける権利が「将来においてその人問性を十分開花させるべく自ら学習し,事物 を知か これによって自らを成長させることが子どもの生来的権利であるという教育権の性格 ま た教育がそうした「国民を育成する精神的,文化的ないとなみ」であり,その本質に巻いて個性の創 意にもとづく文化的いとな何あるという教育の本質を全く無視し足ものといえる。判決はこのような見 解に対して,教育内容がその本質からして「一般の政治のように政党政治を背景とした多数決によっ て決せられることに本来的にしたしま」在いことを指摘し,教育内容については,「教師自らの教育 活動を通じて直接に国民全体に責任を負い。その信託にこたえるぺきものと解せられる」と判示した のである。してみれば,憲法鯛条の解釈は同23条教育基本法10条等の規範的関連に於て,教育の本 質に即して行われるべきであろう。
判決は教育活動が政党政治に対して独自性をもつことを主張する一方、他方に於て福祉国家として の現代国家の理念という観点からも、国家が人間の内面的価値に介入しない原則を明らかにする。即 ち,「現代国家の理念とするところは,入間の価値は本来多様であ久 ま定多様であるべきであって,
国家は人間の内面的な価値にrコ立であ久個人の内面に干渉し価値判断を下すことをし清い,すなわ ち国家の権能には限りがあり人間のすべてを統制することはできない,とするにある」と述べている。
ここに判決のいう現代国家の理念は.日本国憲法の保障する宗教.芸術,学陽思想等の精神的自由 についての基本的人権の原理でもあり、教育が公教育として全国民的に組織されているからといって (31
教育だけが現代国家の理念,基本的人権の原理の例外であるという根拠はない。公教育の内容の問題 は,前に述べ走ように他の基本的人権の生活領域と同様、権力的強制と相容れない性格のものである から,教師が国民の信託を受けて教育科学に基づき自治的に解決することになる。そのことが,国家 が自己の限界を自覚して人間の内面的価値の多様性を尊重するゆえんである。
以上,憲法26条の規範論は,子どもの学習権をrコ核として.国民の子どもに対する教育責務からく る国家に対する教育の自由、従って国家の教育内容不介入の原則を子どもの学習権の性格教育の本 質をふまえて判示したものといえる。国民に教育に対する権利があり,国家が教育内容に対する権利
も権限もないとすれば,国の教科書検定制度は教育内容にわたらない範囲内で運用されなければ庄ら ない。教科書は教育課程にそって教科の内答を具体的に展開した学校教育に於ける重要な教材である から・教科書内容に 対する国の規制は教育内容に対する介入である。唯,教育内割。いても判決は・
r下級教育機関に拾ける公教育内容の組織化は法的拘東力のある画 的権力的を方法としては国家 としての公教育を維持していく上で必要最少限度の大綱的事項に限ら牝それ以外の面については,
教師の教育の自由を尊重しつつ,これに対する指導助書 参考文献の発行等の法的拘東力を有し庇い
方法によることが十分可能で」あると述べている。この部分は教科書検定制についてでなく,下級学
校の教育の自由について判示した部分であるが,教科書に対する国家の介入についても同様に適用さ
れるであろう。ここで問題なのは,必要最少限度の大納的事項であればなぜ権力的庄方法が許される
のかであり,その根拠が明らかにされるべきである。即ち,教育内容に対する国の介入が否定される
とすれば,大綱的事項であっても介入しうる根拠はないとするのが筋の通る論理であると考えられる からである。次に,訴訟上の問題として,国が検定処分で具体的な権利侵害を犯した場合.本条をも って国に対抗しうるかどうかということであるが,この点憲法26条よりも23条を根拠とすべきであ ると考える。唯,本判決のように憲法26条論(国民の教育の自由),23条論(教師の教育の自由)を 展開しながら.いきなり切り変えて21条で検定制度の違憲,合憲を判断するのも問題というべきであ
る。
判決は憲法26条論に続いて,23条を根拠に教師の教育の自由を論じている。教師に教育の自由が認 められる結果、教科書の採択に当たっても教師の関一与が保障され、児島生徒にもっとも適した教材 を判断する適格が認められることになる。教師の教育の自由のrコで,教科書採択の自由は憲法26条に 基づく児童,生徒の学習権を実質的に保障する機能の一つとして重要である。国民に教科書執筆,出 版の自由が保障されるとすれば、数多くの教科書のrFからより秀れた内容の教科書を選択し,規準以 下のものを淘汰する仕事は実際に教育を担当する教師にふさわしい役割といえよう。教師が自ら教育 経験にもとづき教科書を自由に選択することが、教科書に教育経験の成果を反映させうる方法であり,
児童生徒の生活意識と能力にふさわしい教科書を児童、生徒のため選びうることになる。この項の 判決の趣旨には異議をさしはさむ余地はないように思われるが・憲法23条の解釈問題としては従来の 通説的見解を破ったものとして,更につっ込んだ検討が期待されねばならない。
2 教科書執筆・出版の自由
判決は教科書を執筆し,出版することも「学問的見解(学説を発表する一形態」であるという観 点から,憲法23条21条を根拠に教科書執筆.出版の自由を認める。即ち,「憲法23条は………憲法 が思想および良心の自由,表現の自由の保障に加えて本条を設けたのは,学間の研究は常に新しいも のを生み出そうとするいとなみであって,歴史の発展に寄考するところが大きかった反面,それだけ にときに為政者による追審を強く受付できたことにかんがみ,とくにこれを制度的に保障したもので あると考えられる。」としたのち,小中,高校等の下級学校に於ても本条の学問の自由が保障され ることを判示する。この見解は,既に判決が「教育の自由」の項で,「こうした教育的配慮をなすこ と自体が一つの学問的実践であり,学問と教育とは本質的に不可分一体というべきである。してみれ ば,憲法23条は.教師に対し、学問的研究の自由はもちろんのこと学問研究の結果自らの正当とする 学問的見解を教授する自由をも保障していると解するのが相当である。」と,下級学校での学問と教育 の一体不可分性を説いているところから,当然の論理的熾結である。更に,判決は下級学校で教育の自 由の保障が否定される根拠として「下級教育機関における教育はその本質上教材,教課内容1教授方 法左どの画一化が要求されること」を上げる見解を否定し児童,生徒の心身の発達段階に応じて児 童,生徒を教えるという教育的配慮自体が「一つの学問的実践」であるとして、憲法23条を根拠に教 師の教育の自由を認めているのであるかξ),同様の理由をもって下級学校の教科書に「学問研究の結 果を発表する自由は含まれない」とすることはできない。前項で述べたように少くとも憲法26条の
「子どもの教育を受ける権利に対応して子どもを教育する責務をに在うものは親をr]心として国民全
体である」とすれば,学問の研究者はこのような国民に課せられた責務を果たすため,「国民の一人
として.字間研究の成果を教科書の執筆出版という形で次代を担う子どもたちに伝えるという出版 の自由を有するものというべきである」o
ところで 判決は以上のように憲法23条の趣旨から論理を展開しながら,あっさりと「学問的見解 の発表の自由は上記のような本条の治革ならびに憲法が23条とは別個に表現の自由について条項を 設けてこれを保障していることにかんがみ,憲法2I条によって保障されていると解するを相当する」
として,教科書に学問研究の結果を発表する自由を憲法21条に移して論ずる。ここで「上記のような 本条の沿革」が学問的見解の発表の自由をどうして「憲法21条によって保障されていると解するを 相当とする」のか必ずしもその理由が明確ではない。更に「憲法が23条とは別個に表現の自由につい て条項を設けてこれを保障していることにかんがみ」どは,単に技術的左理由によってなのかそれ とものちに憲法21条2項の検閲禁止のところで検討する「思想内容の審査」の存否に焦点を絞る意図 によってか,或いは別の考慮によるのか不明である。判決がいともたやすく憲法23条から21条へ教科 書執筆 出版の自由の規範的根拠を移したため,23条は21条へ解消されたのか,それとも両条とも重 畳的に保障されるのか曖昧になっていることは否めない。後考の場合「教科書出版の自由を制約す る検定制度が右21条2項の禁ずる「検閲」にあたらず,同条一項の許容する合理的制約の範囲を越え ない場合であっても,な寿教科書出版の自由を保障寸る憲法23条とのかかわりで,検定制度による制 約の合雛がテス1されねぱならなかったはずだ」4主い戸批判も提出される。更に判決の教科書執
筆 出版の自由が.執筆者の「学問的見解(学説)を発表する一形態」としてだけで安く.国民の教 育の自由という観点からも憲法23条の規定が援用されたのかどうか。この意味は判決の明文の解釈か
らは出てこないように思われる。もし判決がこの意味をも表現しているのだとしたら,高等学校以下 の普通教育における教育が第23条の学間の自由の対象とならない趣旨の昭和38年5月22日の東大ポポ ロ劇団事件に関する最高裁判決が,教師に対するのと同様教科書執筆者にも適用されるのかどうか。
この問題は最高裁が国民の教育の自由を認めているか否かにかかっ・て奉り,認めるとすれば,例え態法 23条の学問の自由に教師の教育の自由が含まれ在いとしても,国民の教科書執筆 出版の自由が保 障されるとするのが論理に合っているといえる。従って教科書執筆者の教科書執筆 出版の自由が憲 法。。条の学問の自由の保障に含まれるとしたからとい。で直ちに前記最高裁判決に矛盾す姐はい
えない。なぜなら,国民の教育の自由が教師の教育の自由と同質でないことは本判決も認めるところ であり,国民の教育の自由は憲法23条の外に全く考えられないことはをいからである。
判決は教科書執簑,出版の自由を憲法23条,21条に求めたことについて,その理由を下級学校の教育に 於ても真理教育をその本質的要素とするところから学問の自由が尊重されなければならない点にある
とし私判決は「学校教育における教育水準の維持向上を確保し,適切庄教育内容を保障する」必要
性 拾よび「児童,生徒の心身の発達段階に応じ.必要かつ適切在教育」を施す教育的配慮の必要性
等が学問の自由と矛盾要件であるとは把握せず・前者については前述の如く大綱的規準の範囲に拘束
力を止め.後者については教科書執筆一出版者の自主性に委ねた。この〜=とは教科書執筆 出版の自
由の当然の論理的帰着といえるカ、在おこの自由には教師の教科書選択の自由が対応することについ
ては判決の判示するところである。
3 教科書検定制度と竈法21条2項
判決は,現行教科書検定制度の検定が憲法21条2項の「検閲」に該当するか否かの検討に当たって,
r検閲」概念を以下のように定義づける。即ち・同条項にいうr検閲」とは・ 「これを表現の自由に ついていえば公権力によって外に発表されるべき思想の内容を予じめ審査し不適当と認めるときは・
その発表を禁止するいわゆる事前審査を意味」すると。続いて「「検閲」は・思想内容の審査に関す る限り,一切禁止されていると解すべきである」とする。 これは極めて伝統的な検閲概念であり,
判決はこの概念を前提として学校教育法21条にもとづく教科書検定の法的性格諭をくり拡げている。
その要点は次のと拾りであ私
ω教科書検定は,申請に係る図書が教科書として適切であるか否かを客観的基準に照らして審査し それがその基準に合致しているかどうかを公の権威をもって認定する行為であると解せられるから,
それ自体の法的性格としてはいわゆる確認行為の範喀に属する行為であるというぺきであろうが,学 校教育法21条は検定を経底い教科書の使用を禁止するという法的効果を付与し,実際上検定を経看い 教科書を発行することを禁止する機能を暴走しているというべきであるから,かような機能にかんが み,同条にいう教科書検定は実質的には事前の許可たる性格のものと解するを相当とする。
12厳科書検定は,一般の図書が本来は有しない.教科書としての資格を新たに付与するものであっ て,いわぱこれにより一種の特権を与えるものであるから,いわゆる特許行為に属すると解する見解 もあるが 教科書を教科書として著作し、発行することも,基本的には憲法21条が表現の自由として 保障しているところであって,教科書検定によって新たに教科書としての資格を付与されるのでは左 いというぺきであるから,教科書検定を特許行為と解する右の見解をらぴに被告の主張は相当でない。
13厳科書検定は,その法的性楮は事前の許可と解せられるのであるが,しかし出版に関する事前許 可制がすべて検閲に該当するわけでないことぱいうまでもをい。してみると、右の審査が思想内容に 及ぶものでない限り,教科書検定は検閲に該当しないものというぺきである。なお㍉ここで思想内容 の審査とは,政治思想の審査のみならず,広く精神活動の成果に対する審査をいい,したがって学問 研究の成果としての学問的見解(学説)に対する審査も当然にこれに含まれると解すべきである。
(4激科用図書検定規則1条1項ことに教科用図書検定基準の定める検定の基準はたしかに原告の主 張するように教科書の思想内容を審査する恐れのあるものというぺきであるから,その運用に当たっ ては,教科書に盛られた思想の内容の審査にわたらないように厳に戒心すべきであるが しかし,の ちに述べるように教科書検定制度は本来児童・生徒の心身の発達段階に応じ。必要かつ適切な教育を 施し教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るという国の責任を果走すためにその一環として行 オ)れるものであるから、これにより教科書の思想内容と審査することば許されず,さらに教科書の内 容への介入にも一定の限界があるにしても.在おその意義が認められるべきである。してみると,現 行の教科書検定制度自体が思想内容の審査にわたるもので検閲に該当すると断定するのは相当でない
といわざるを得ない。
(5厳科書検定は,国が福祉国家として,小学校■中学校,高等学校に拾いて児童,生徒の心身の発
達段階に応じ、必要かつ適切な教育を施し、教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るというその
責任を果たすために,その 壊として行なうことをその趣旨とするものであるから,その限度に赤い て教科書執筆 出版の自由が制約を受けてもそれは公共の福祉の見地からする必腰かつ合理的な制限
というべきであって,表現の自由の侵害にならないと解するを相当とする。
t6現行致科書検定制度は,違憲とはいえず,したがって現行教科書検定制度が憲法2I条拾よび同28 条に違反ナるとする原告の主張は採用できないが、その運用を誤るときは,憲法の保障する表現の自 由を侵害ナるとのそしりを免がれない。
問題の第一点は,判決が教科書検定の法的性格の認定に関して.確認行為誰去とりながら.学校21 条の規定の法的効果と,それによる実際上の教科書発行禁止機能から実質的事前許可説(許可行為謝 をとったことである。即ち,判決は「教科書検定は,申請に係る図書が教科書として適切であるか否 かを客観的基準に照らして審査し,それがその基準に合致しているかどうかを公の権威をもって認定 する行為であると解せられるから,それ自体の法的性格としてはいわゆる確認行為の範幅に属ナる行 為であるというぺきであろうが,しかし,学校教育法21条は………検定を経をい教科書の使用を禁止 する・…・・…という法的効果を付与しさらにこれによって実際上検定を経底い教科書として発行す ることを禁止する機能を果しているというべきである」から同条にいう教科書検定は実質的には事前 の許可たる性格のものと解するを相当とすると。判決はのちに教科書検定の範囲を一定の限度に限 定する〜=とによク検定制度が憲法21条2項の「検閲」に該当せず、同条1項の表現の自由をも侵害し ないとして,検定制度の合憲の判断を下している。判決は客観的基準に照らして審査する合憲の検定 制度を措定し、これを前提にかかる判断を下したのである枇 とすると先に学校教育法21条の法的効 果をもって実質的事前許可説をとったのは不合理と言えないだろうか。判決のように検定制度合憲説
をとるなら,検定制度を担保するためにも学校教育法21条が必要注はずであり,同規定はその範囲に 止められるべきぱずである。だとすると,判決が述べるように同規定が実際に教科書発行禁止機能を 営んでいるのではなく,客観的基準に照らして審査していない検定処分(脱法行為)かか\る機能を 許容しているとみるべさではないだろう加判決は「日教育基本法一○条の趣旨」の121のところで.
「教科書の誤記・誤植・・…・…」等の思想内容にわたらない客観的基準の検定範囲を判示して拾り,こ れらの基準を前提として初めに確認行為説をとったとみられるのであるが,それを実質的事前許可説 へ切り変えた理由は不可解である。或いは,被告の「法律上も事実上も当該図書の出版は禁止されず,
発表の自由は確保されているのであるから,教科書検定は検閲に該当し哀い旨(の)主張」に対抗ナ るためであろうか。たとすれば意法21条は教科書を著作 出版する自由をも保障していると答えるだ けで十分なのである。逆に、現行の教科用図書検定基準による検定が,その基準の内容自体によって
「検閲」に該当するなら,初めから現行教科書検定か確認行為ではなく事前許可であることを判示 し.首尾一貫すべきであったと考えるのである。
第二に,判決は「r検閲」は,思想内容の審査に関ナる限り,一切禁止されていると解すべきである」
という見地に立ちをがら,なおも教科書検定制度の意義を認めている。そしてその存在理由を判決は,
「教科書検定制度は本来児童生徒の心身の発達段階に応じ,必要かつ適切を教育を施レ教育の機会
均等と教育水準の維持向上を図るという国の責任を果たすためにその一襲として行われる」ことに求
めているのである。こ㌧で判決のいう「児童生徒の心身の発達段階に応じ,必嘆かつ適切在教育を施
す」とか,r教育水準の維持向上を図る」といっ定理由を以て,思想内容にわたらない技術的事項に 限定される検定制度の正当性を主張することができるであろうか。いずれも否定的である。これらの 検定制度の存在ヨ…董由は・いずれも教育内容の価値判断にわ走る包括的な表現なのである。この存在理 由に対し判決の認める検定制度は・判決が「■教育基法I0条の趣旨」の12のところで述べているよう に,r教科書の誤記,誤植その他の客観的に明らか亥誤り,教科書の造本その他教科書についての技 術的事項および教科書内容が教育課程の大綱的基準の枠内にあるかの諸点」にすぎない。これらの事 項は教科書検定権者の価値判断を要し往い客観的な認定事項なのである。たとすれば判決がこの技 術的.客観的事項に限定された教科書検定制度を正当化する理由として前述の価値判断を許容する包 括的な存在理由を上げたのは不合理といわねぱ在らない。だからこそ・判決は教科書執筆 出版の自 由を前提として前述の前半の理由について.児童.生徒の心身の発達段階に応じた適切な教育的配慮 は.教科書の執艶出版をする者が自主的に行うべきものと判示したのではなかったか。児童生徒 に対する教育的配慮を一方では教科書執筆出版考に委ねながら、他方では行政庁が教科書検定を行 う必要かつ合理的制限の理由にするのは自己撞着である。更に,次の「教育水準の維持向上」について も,被告もこのことを理由として教育内容に関する行政を実施し,教科書険定の必要性の根拠の一と しているのである。もし判決が前述の技術的,客観的事項のみ在らず,「大綱的基準Jの範囲内であ れば 教育内容についても教科書検定が認められるとするとする在らば,その理由が問われるぺきで
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第三に,判決ばより基本的を視点として.」現行の「教科用図書検定基準」で定められている「検定の 基準」が,思想内容の審査にわたらないかどうか実質的に判断すべきではなかったかという疑問であ る。一般に制度の合憲,違憲性は.その「運用状況」即ち行政処分の状況をはなれて法令自体の違憲 性を論じうるかまたはその全体を総合してはじめて法令の違雛が定まるかぱ〕抽象的には決めら
れないが。それは法令自体の内容によって決まる。つまり,法令の内容が多義的でいく通りかの解釈 が可能な場合は,その一つの解釈が法令の違憲を意味するからといって直ちに法令自体の違憲を判断 することぱできないからである。この場合は個々の処分の事例に応じて処分の合憲.違憲を半蜥する 外は凌い。これに対して,法令の内容について解釈が一義的に明白で,それが直ちに違憲と認定され る場合には.その法令はその行政処分の状況を検討するまでもなく,違憲と判断される。
ところで、教科用図書検定基準(昭和33年文盲盾省告示第86号,昭禾脇年8月26日文部省告示第289 号による改正前の基準)は、絶対条件と必要条件とを定め.前者のいずれかを欠くときは申請図書は 絶対的に不適格となる。絶対条件の甲で特に問題となるところは, 「制(立場の公正、」のところで
「政治や宗教について,特定の政党や特定の宗派にかたよった思想,題材をとり,またこれによって,
その主義や信条を宣伝したり,あるいは非難し走りしているようなところはをいか一」と規定してい
る点である。こ\で「特定の政党や特定の宗派に」と限定されているとはい㌧ながら,「かたよった
思想.題材」とか,「その主義や信条を宣伝し走り.あるいは非難したり」とかの表現は,判断の基
準をどこにおくかによって結果が異なり,極めて主観的に左右される内容といわねぱなら長い。殆ん
ど客観的に,一義的に判断できないのである。更に,必要条件の「121(正確性)」のところでは,「一
面的な見解だけをとりあけている部分はをいか」とあり,こ㌧に至っては判断の基準を殆んど検定
権者に委ねているとみる外はない。「一面的な見解」とは,それを判断する者の立場によって異って くるのであり,必然的に判断者の価値判断をもって思想の審査をともなうといわねぱならない。そう だとすれば,この基準に基づく検定は「思想的内容の審査にわたる」ことが避けられないのであり,
従。て検定制度はそれ自体違憲というぺきであメljとの点判決がr教科書の思想内容を審査する恐
れのあるものというぺきであるから.その運用に当っては,教科書に盛られた思想の内容…・一・の審 査にわたらないように厳に戒心すべきであるが」としているのは全く納得がゆかないのである。
以上判決のいくつかの問題点を指摘し走がそれにも拘わらず,判決の基本的意義は何ら失われ るものではない。判決が国民の教育権を基本的前提にして、教科書執筆 出版の自由を論証レその 規範的根拠を明らかにしたことは高く評価すべきである。この判決によって国民の教育権に関する論 議狐憲法理論の面からも一層本格的に深められることが期待されよう。
註 川
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