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フランクフルト国民議会における学問の自由条項の 成立

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

フランクフルト国民議会における学問の自由条項の 成立

著者 松元 忠士

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 40

号 1

ページ 37‑49

発行年 1991‑11‑25

その他のタイトル Die Entstehung des

Wissenschaftsfreiheit‑Artikel in der deutschen Verfassunggebenden Nationalverssammulung zu Frankfurt am Main.

URL http://hdl.handle.net/10105/1781

(2)

フランクフルト国民議会における学問の自由条項の成立

松 元 忠 士 (奈良教育大学法律学教室)

(平成3年4月30日受理) it U tb (;

「学問とその教授は自由である」という、いわゆる学問の自由の基本権は1848年のフランクフ ルト憲法に初めて登場し、プロイセン憲法に継承されて以来、ドイツ憲法独自の伝統を築くこと となった。この基本権は、確かにアメリカ、フランス等の近代憲法の人権カタログには全くみら れず、ドイツ法文化の独自の基本権とみられてきた。しかし、この基本権はその意味や規範的性 格が学説上も当初から走っていたわけではなく、基本権の規範構造の理解の仕方が歴史的に大き く変遷してきたというのが実情であるO ワイマール憲法の前期には、教育制度と関わりのない一 般的市民的自由と解されてきたし、後期においてはその独自の規範構造の認識から…ドイツ大学 の基本権''というよび名でその制度的性格が強調された。これに対し、ボン基本法の下では制度 的規範のほかに、個人権や参加権まで多様な法的意味と性格が確認されている。この基本権には、

ドイツ法文化の独自の要素が認められるとしても、この点を余りに強調し過ることは正しい規範 認識を妨げることになろう。この基本権が一般的市民的自由権に対して独自性をもっているとす れば、それはその民族文化的性格に基づくというよりもむしろ学問や教育という事物の社会的文 化的特性により多く規定されたものと考えられる。学問の自由の基本権についてその制定の意図、

規範の対象、基本的性格等の課題を憲法制定過程に逆のぼって探求することは、憲法制定会議と いう会議体の性格から自ら限界があるが、それにも拘わらずそこから得られた成果は、基本権の 学問的認識に少なからず寄与すると考える。本稿は、学問の自由条項は、教育制度の改革と密接

に結びつけられて、教育制度上の基本権として捉えられ、制定されたという観点から、国民議会 の審議過程を追求した。従って、学問の自由条項をそれだけ単独で取り上げることなく、他の教 育諸条項との関連を考慮しながら考察を進めた。

I 匡L民議会開会前の基本権要求運動

三月革命期に至るまで、カールスバード体制の下でも西南ドイツでは急進的自由主義者達の人 権要求運動が、イッツシュタイン(Itstein)らの指導の下で継続的に行われていた。一八三九年 秋には、イッツシュタインとベルカー(Welcker)らが提唱し、ブルム(Blum)、パインリッヒ・

シモン(HeiurichSimon)、ヨウ・ヤコビイー(joh.Jacobey)、らの他績邦の代表も加わり、ドイ ッの自由の諸目標の達成を目ざして、バッターシャイムで最初の集会が開かれtz(1)これにはバー デンやザクセンの住民が参加し盛り上りをみせた。

一八四七年九月一九日にオフエンブルグにおいて開かれた集会は、広汎なまとまった自由権を 含む「バーデンにおける国民の諸要求」 (Forderungen Volkes in Baden)を決議して注目をあ びた。この綱領は将来の憲法にもりこまれるべき諸要求をかかげたものであるが、そこには、 ‑

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38 ¥j¥ L Ijl 上

連の自由権とともに次の条項を含んでいた。=我々は良心の自由と教授の自由を要求する。一一 如何なる権力も決して教師と学ぶ者の間にわり込んではならない、如何なる宗派も学校教育から 切り離されるべきである>,(2)。こ、では、教授の自由の文言が良心の自由と並列して、個人権の 系列で、大学教師のみならず、下級学校の教師にまで区別されることなく用いられている。

しかし、このような人権の要求が公然と広く集団的に主張されるようになったのは、一八四八 年の三月革命以降である。同年三月にハイデルベルグにおいて開かれた五十一人集会は、ドイツ の各界の人々に呼びかけ、ドイツ憲法制定のための準備議会を招集することを決議した(3‑。この 時に集まった五十一人は、憲法の基礎についても意見の一致をみて、S.T.ヴェルカ一により起 草された委員会報告を発表した。この報告の「主要なドイツ人の自由権と国民の市民権の保障」

の117、iの個所に、=すべてのドイツの教育施設における教育の自由(FreiheitderBildungin aliendeutschenLehranstalten)が記されている(4)。こ、では学校教師の教育の自由のみならず、

学校設置の自由をも含めた広い意味の教育の自由の文言が用いられている。

三月三十一日に準備議会が開かれた。この会議では、この会議を招集した前のハイデルベルグ 集会の七人委員会が討論の基礎となるはずの穏健な綱領を提出した。が他方共和主義者のV.ス トルヴェ(Struve)が憲法綱領を提出し、両者は会議冒頭から鋭く対立した。ストルヴェの綱領 は聖なるかつ不可譲の人権''を強調するもので、急進派を代表するものであった。会議では両方 とも否決され、憲法草案の起草をやり直すこととなった。会議には、=国民の権利"…自由権"=基 本権"等について多数の提案が提出されたが、準備議会により任命された五十人委員会は、これ らの諸提案を整理し、ドイツ国民の=基本権の諸要求''として公表した。この諸要求は個々の基 本権の関連性を考慮することなく雑然と羅列したものであったが、ここにも=教授の自由と学習 の自由(Lehr‑undLernfreiheit)の基本権が含まれてい7(5)

‑6。

準備議会では前二者の草案が否決されたのを受けて、ヤウプ(Jaup)、ビーダーマン(Biederman)、

ヴェネデイ(Venededy)らが、それぞれ憲法草案について提案を行い、次に予定されている国 民議会の審議にそなえた。ヤウプ議員の詳細な国民の権利に関する提案においても、その9のと ころに教授の自由と学習の自由を有するすべての教育施設の教育の自由(FreiheitderBildungin alienLehranstaltenmitLehrfreiheitundLehrnfreiheit)が言区われている。この条項案は前のヴェ ルガ‑の案をより具体的に補充しようとするものであった。ヴェネデイ議員は、その詳細な提案 の数字6のところで、教授の自由と学習の自由の条項をとり入れている(6)。この条文案は、すで にドイツ大学において承認されている教師と学生の権利を基本権に高め、下級学校にも及ぼそう とするものである。ヤウプ議員の提案は、ヴェルカ一議員がかつてバーデン議員において行った 委員会報告の中の「最も重要なドイツ人の自由権と国民の市民権の保障」に習ったものという(7‑、

ただ、ヴェルカ一議員の教育の自由(FreiheitderBildung)は、学校設置の自由の意味をも含ん だ広い概念で、具体性を欠き、漠然としているため多くの支持を期待できなかった。

ヴェネデイ議員は、「教授の自由と学習の自由」とあわせて、「すべての階級;生業、職業のた めの国費による学校教育」(数字10)をも主張した。最後に、アイゼンストック(Eisenstuck) 議員はヤウプ提案に対する五点の追加条項を提案したが、その数字2の所で「基礎教育と専門教 育を施すのは自由である」という学校設置の自由をもり込んでいる(8)

議長は提起された諸提案を次の国民議会で吟味し、適切な考慮を払うよう勧告すべきか否かを

諮って、これを勧告することに決定した。五十人委員会においてまとめ、準備議会で決定し、公

表されたものが「ドイツ国民の基本権と諸要求」である。この勧告の中には、ヴェルカーやヤウ

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プの「教育の自由」は含まれていず、前述のヴェネデイの「教授の自由と学習の自由」条項がも り込まれている。

全国的な国民の基本権制定の動きに対応して、全ドイツ政府は三月一〇日の決議により、全権 委任をもってフランクフルトに派遣し、連邦憲法修正の準備のために専門的助言をもって、連邦 議会を援助するために、全国に信望ある十七人を招いた。この、いわゆる十七人の名士は憲法草 案を作り上げるために、四月五日に議長マックス、フォン、ガ‑ゲルン(MaxvonGagern)の

出席の下にダールマン(Dahlman)、ヨルダン(jordon)、バッサーマン(Bassermann)、アルブ レヒト(Albrecht らから成る‑委員会を設け、ダールマンとアルブレヒトが委員会に課せられ た任務遂行の作業に専心し、四月十五日にその成果を十七人委員会の総会に提出した。この草案 は「ドイツ連邦憲法草案」(der Entwurf der deutschen Reichsverfassung)として審議され、四月 二五日の会議で決議され、連邦議会(四月二七日第四二回会議)に提出された(9)。草案は最終的 には、 「ドイツ連邦基本法」 (Deutschen Reichsgrundgesetses)の名称をつけられ、のちにフラン クフルト憲法制定国民議会に設けられた憲法委員会の第‑草案のモデルとなった。これに対し、

ドイツの各政府はこの草案を好意的に受け取らなかった。

十七人参与の草案は、その上V節q)の個所に、これまで公表された多数の基本権提案の中 で初めて「学問の自由」 (FreiheitderWissenschaft)の条項をとり入れ、のちにドイツ憲法史の 独自の原則を確立することになる最初の糸口を作ったものとして重要な意義を有している。ドイ ッ大学の原則的規範として伝統的に「教授の自由」が承認され、広く使用されてきた(10)のに対し、

「学問の自由」は、慣習法的に確立しているとはいい難い、学者用語であった。十七人の会議の 準備委員会で、このまだ十分成熟していない「学問の自由」の条項を提案したのはダールマンで あった(ll)。彼がドイツ大学においてすでに慣習法的に成立しているとみられ、この三月革命期に 基本権案としても広く支持を受けていた「教授の自由」を避けて、 「学問の自由」を選んだのは、

主としてプロイセン政府や保守勢力を念頭においての戦術的考慮によるものであった。ダールマ ン自身、長い間その著書「政治学」 (DiePolitik)において、ドイツ大学はその発達した特性、

とりわけ教授の自由なしには存続することができない、として教授の自由について詳しく論じて いたのである(18。

四月十五日の会議の討論内容については、簡略的ではあるが貴重な記録が残されており、 「教 授の自由」が敬遠され、 「学問の自由」が選ばれた理由が端的に理解される。十七人の会議は十 五日午後から教育基本権の条項を討議した。まず、ドロイセン(Droysen)が自由な小学校を提 案したが、ヤウプがダルムシュタットでの経験からこれに反対した。ステフア(Stepher)は、

領邦学校と都市学校の区別を知りたいと望んだo ウ‑ラント(Uhland)がいま一度教授の自由 をとり出し、彼の国で非常に活発な関心を呼んでおり、次の選挙で疑いなく影響が出るだろうと。

「それは大学と最も関係が深い。そうだ、最近特定の哲学と教会の哲学との間で紛争が、教授の 自由はその権利をどこまで行使できるのかという問題が起きている」という。ウ‑ラントは教授 の自由が何を意味するのか知りたいと望んだ。これに対し、ダールマンは「学問の自由」を「主 張」したいと述べた。即ち、 「私は一年前にこの自由は自然科学においてのみありえ、他の分野 ではそれは一定の規範に従属しなければならないと主張する文部大臣の演説を開くことができ た」と。ドロイセンがこれにつけ加えた。 「教授の自由は国民主権と同様雑種的表現である。政 治家が教授の自由を望ましいと公言することには明白な道徳的な汚点がある」と(1司。

グールマンの発言は極めて短い。だが、ダールマンがプロセイン政府からフランクフルトでの

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蝣Ill

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憲法草案起草のため、十七人の信望ある人士の一人として選ばれ、彼自身立憲君主制支持の立場 からきわめて穏健な憲法構想の実現を目ざしていたことを考慮するとき、学問の自由条項の選択 の動機は明白である。教授の自由の条項は、プロセイン政府の反発が予想され、ダールマンはこ の条項の回避をやむを得ないとみたのである。また、ダールマン自身教授の自由を学問的真理と、

大学の学問的性格とのみ関連づけて説いており、この自由を下級学校に適用することに消極的態 度を取ってきたのであった(14)このような考慮から、 「学問の自由」条文を選んでみたものの、

一般的に、この文言が一体大学で適用されるのか、そこでの教授の自由を含むのか、何を意味す るのかその不明確さは何ら解決されていなかった。ダールマン自身は、自らの明確な意味を考え ていたとしてもである。

I 憲法委員会における学問の自由の基本権の審議

五月十八E=こフランクフルトのパウロ教会で開会したドイツ制憲国民議会は、同二十四日に三 十人の委員から成る憲法委員会を設け、憲法問題の審議、とりわけ基本権草案のとりまとめを委 任したO憲法委員会はこれを受けて審議の土台となる草案を作成するため、グールマン、ミュー ルフェルド(Miihlfeldt)、モール(Mohl)等から成る準備委員会を設けるとともに、前述の十七 人の草案を審議の基準とする提案を否定し、 "完全に新しい草案"を作成し、国民議会に提出す ることを決めた(15)。十七人の参与の草案はドイツ諸政府からも、一般の世論からも支持と賛同を 得られず、憲法委員会においても敬遠された。

準備委員会は、十七人の参与の草案に対するこのような否定的態度にもかかわらず、この草案 を土台としてこれを修正補足するやり方で新しい草案を仕上げて委員会に提出したのであった。

(六月一日完了)。この草案は"完全に新しい草案"どころか、皮肉にも十七人の基本権案のひき 写しに近いものであった(lq。ダールマンがこの草案の唯一の起草者ではなかったのにしろ中心的 役割を演じたことは疑いない。

準備委員会草案は、教育条項についても十七人案も若干捕足しているのみで基本的に変更はな い。即ち、後者が「Ⅳ節ドイツ国民の基本権」において、 p)職業選択の自由と国内外における そのための教育の自由、 q)学問の自由」としていたのを、前者は「ドイツ国民の基本権」のと ころで、 「2、職業選択の自由と国内外におけるそのための教育の自由、公立小学校と実業学校 における資産無能力者の無償教育、 3、学問の自由と公の施設の教師に対する法律の能力証明の 留保の下において、学校教育による学問の普及の自由」と記している(171諸規定は一層詳しく補 充されているのみで、基本的変更は見当らない。ただ、この草案でダールマンが提案した学問の 自由が市民的自由としての基本権ではなく、大学及び下級学校等の教育制度に適用される基本権 であることを明白にしたことは少なからず注目される。ここでは、まだ教授の自由を回避しよう とする意図の下で、しかし下級学校にも学問的教育の自由を定めようとする苦心の文言が洗練さ れない表現となっている。

憲法委員会は、準備委員会の草案をもとに審議を行い、六月十日に完了した。その審議結果に もとずいてヴェゼラーとドロイセンが徹底的に文案の修正を行った。修正された草案は、六月十 四日から十九日まで再度評議にかけられ、ヴェゼラーが前文をつけて委員会で採択された。確定

された憲法委員会草案は七月三日に国民議会の第三十一回会議に提出され、その審議に付され

た(咽O

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草案における教育に関する基本権条項は、 Ⅳ節に四ヶ条、 17条学問とその教授の自由、 18条学 校設置の自由、 19条小学校と下級実業学校の授業料無償、 20条職業選択と職業教育の自由等であ る。学問の自由については、 「§17、学問とその教授は自由である」 (DieWissenschaft and ihre Lehreisfrei)と定められ、ここで初めて学問的教授の自由が登場した。この規定は、全く新し い法文の導入ではなく、前述の準備委員会草案の修正であり、法文の明確化である。

十七条の学問とその教授の自由の法文案は、憲法委員会において最初にブルムによって提案さ れ、ヴェゼラーがわずかな字句の修正をして審議したあと、十二対十の僅かな票数で採択され た(19 この法文案に対する十人の反対がどのような理由によるものであったかは記録上必ずしも はっきりしていない。教授の自由そのものに対する反対とダールマンのように戦術回避策の双方 が混っていたと思われる。

リチノウスキイー侯爵(Lichnowsky)は、ドイツ国民は教授からなっているのではない。す べての学校教師に自分は自由な学問の自由な教師だと信じこませる危険に対しても反対である、

という理由で学問の自由条項の削除を提案した。シモン(Simon)は、自由な出版と表現が保障 されているのだから、同じように学問の自由の形式的な保障は適切でないとみなし、ベルギー憲 法の当該条項(教育の自由条項一筆者)の採用を提案した。

これらの意見に対し、アレン(Men は教授の自由、学問の自由を国家の審査独占の危険に 対する対抗としてのみ、国家の中で場所を維持しなければならないとし、この条項を支持した。

ヴァッサーマンは、この条項を全く独自の、宗教の自由という見地から、カトリック教会に対す るプロテスタント教会の保護としての理解を示した。この条項を積極的に推進したヴェゼラーは、

学問は少数者の活動額域ではなく、国民の重要な共同財の一つであること、学問は自由によって のみ財となるとしてリチノウイスキーに反論した。ヴェルカーは学校設置の自由を望み、その保 障を"自由な学問の教授から''の必然的な結論とみなした。ラサール(Lassaulr)は学問的であ

るだけでなく、非常に広い学校教育の自由(unterrichtsfreiheit)としてこの条項をみなした。

学校設置の自由の意味での学校教育の自由はソイロン(Soiron)の提案で学問の自由から切り離 されて別条として採択された¢:())。

委員会の審議は、ダールマンの提唱になる学問の自由を維持しつつ、教授の自由についてもこ れを再び取り出し、学問の自由が一般的、市民的自由としての基本権ではなく、学校教育制度に 妥当する基本権であることを明確にすると同時に、濫用の懸念をもたれている教授の自由に、学 問の教授という枠をはめ、学校教師の権利を保護することとなった。一般世論の要望の強い学校 設置の自由の意味での教育の自由は、これを広義の教授の自由から抽出することを止め、独立の 条項とした。十七条の学問の自由条項については、これを下級学校教師への適用を排除する見解 は全く出されなかったが、その意味の理解の仕方は多様であることが示された。教授の自由の復 活は、国家が学校教師の適格性を審査し、望ましくない教師を一方的に排除しようとする警察国 家的な不快な介入に対する強い防衛意識が働いたものであったfeu

Ⅱ 学校委員会における学問の自由条項の審議

憲法委員会の基本権草案は七月三日に国民議会に提出された。他方同議会には学校と教育制度

に関する多数の請願がなされており、しかも七日には学校制度と教会問題について審議するため

の一つの特別委員会の設置を求める請願が総会で議案としてとり上げられるに至った。提案は総

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会で審議採決の結果、教会事項を扱う委員会はとり止めになり、もっぱら学校制度間題を扱う、

十五人の委員会からなる「学校制度と教育制度のための委員会」 (以下学校委員会と略称する) の設置が議決された但功十五人の委員の選出は、十五の分科会から一人ずつ行われ、十一日の国民 議会で承認された。このあと、学校委員会は直ちにエンゲル(Engel)議長の下で憲法委員会の 提出した基本権草案の審議に入った。委員会の構成は七人の学校関係者(校長四人と教員三人) と四人の大学教授が中心となり、党派的には左派が決定的比重を占めた担頚。

学校委員会はその委員の専門的知識と豊かな経験により、教育基本権条項について明確な構想 をもち、憲法委員会の教育基本権草案を修正し、補充し、新しい条項を導入することにより、国 民議会の審議に主導的役割を演じた。即ち、学校の教会からの分離、聖職者の学校監督の廃止、

青少年の教育を受ける権利の導入によって教育の自由の制度上の保障を確保すると同時に教師に 国家官吏としての地位を付与することで、教師の地位の向上をはかろうとするものであった。こ こには、近代教育思想とその法原理が全面的に展開されているといってよい。

委員会が新たに設けた学校、教育制度に対する国家の監督規定(19条)は、一見教育の自由の 原則と相反する規定として受けとられるもので議論のある点であった。しかし、委員会の多数派 は教会が国家から切り離され、学校が国家に留まらなければならないとすれば、学校に対する監 督と責任を明示しなければならないと考えた。国家の学校監督を定めることにより、学校の教会 からの分離、聖職の学校教育‑の介入の廃止を疑問の余地のないものになると考えたのであった。

国家の学校監督は、決して学校教育への介入を意図するものではなく、その権能は教育施設の外 的事項に限定されると考えられた糾。従って、委員会の審議でもこのことを懸念して、国家監督

については専門家から、有識者によって行われるべきだという意見が直ちに多数の支持を得た。

議長のエンゲルも、 =私も同様に学校もまた官僚主義的保護から出来るだけ解放されるという意 見だ'とこの点を確認した¢勾Oさらに、委員会は念を入れて、十九条に全学校制度と教育制度は

「国家行政の別個の部門をなす」と、わざわざ一般行政からこれらを区別する文言を追加したの であった。

十九条はこのあと、 「聖職者の監督それ自体は廃止される」とする確認規定を入れ、国家の学 校監督の下で例外的にしろ聖職者の監督の残る余地を一切排除しようとした。

委員会は教育の自由が実質的に保障されるためには、教師の専門職としての地位の向上が不可 欠と考えた。 「公立学校教師は国家官吏の権利を有する」という規定は、教師の地位の向上と保 護を目的とする。

委員会における教育基本権案をめぐる見解の対立は根本的なものではなく、部分的であった。

少数意見は多数意見が学校設置の自由について「刑を受けていないすべてのドイツ人にとって自 由である」としていたのに対し、別の条件をつけて「当該国家官庁に技術的資格に関し、道徳的、

学問的な証明を行っている場合にはすべてのドイツ人にとって自由である」との定めを求めた。

さらに、多数意見がドイツ青少年の「一般的な人間教育と市民教育」を受ける権利を定めていた

のに対し、少数意見はこれを単に「教育」 (Bildungund Unterricht)を受ける権利とすることを

主張した。多数意見は、国家主義教育と宗教教育について公立学校でそれらの実施について義務

を負わないこと、ドイツの青少年がそれらの教育を強制されないことを明記しておこうとするも

のであった。次に、少数意見は多数意見が「教会の監督それ自体は廃止される」としていたのに

対して、 「すべての公立学校は国家の施設であり、すべての宗教団体から独立である」と、学校

の宗教的中立の原則を確立しようと努めた担母。 「学問とその教授は自由である」という条項につ

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いては特に異論はなかった。がこの教授の自由条項は、とくに下級学校においては上記の教育の 自由と深い関連を有しており、宗教教育の容認がなされ、国家の教育内容への監督が認められば、

大きく後退する危険をはらんでいた。

Ⅳ 国民議会における第一読会の審議

学校委員会のⅣ節の教育条項案は、九月十一日に報告者パウア‑ (Theodor Paur)の名で「基 本権のⅣ節について提案する補足と変更に関する学校制度と国民教育委員会の報告」として国民 議会に提出された。国民議会は同月十八日に基本権のⅣ節に関する討論を開始することについて 賛成多数でこれを議決し、直ちに教育条項の審議に入った。このE=二は多数の改善提案、追加提 案が行われ、審議は次回に継続されることになった。

十七条の学問の自由条項の討論においては、この基本権について多様な理解の仕方が示され、

さらにこの基本権を定めることに対する異論も提起されたO シュラーダー(Schrader)は、学問 は学校の目的ではないとし、十七条を学校に適用することに疑念を表明した。彼は学問的問題は ギムナジウムの上級クラスにおいては勿論討論できるが、それも青少年の教育に必要な限りにお いてのみそうするのだという。十七条については様々な意味のあることを指摘したうえで、学校 おける学問的教授の自由は教育課題により制限されるという考えを示した日刊。

ケッテラー(Ketteler)は、教会の立場から学問の自由は学校規定の頂点にあって他の諸規定 と緊密な関係にある大原理では決してなく、四節の他の部分とは孤立した規定だと論じた担由。こ の見解は教育の自由が決して学問の自由からの帰結ではなく、親権からのそれであるとすること により、市民的自由主義的教育原理を放棄するというのではなく、僧侶の教育観念を実現するた めに、自治体の学校参加と親権について教会の影響力を残そうとするものであった。この十七条 の孤立戦略の立場では学問の自由の基本権は、学校とかかわりのない一般規定ということになり、

学校においては何らの役割を果さないことになる。

十七条に対してくり返しあらわれた異論は、学問の自由は基本権によっては規定できないし、

規定する必要はないという意見であったO ロェ‑ (Loew)議員は十七条はその対象についてそ の方法について国法において特に述べなければならないかのように、余りに一般的な条文を含ん でいるとし、遺憾の意を表したw

十七条の学問の自由条項については、このように様々な批判的意見が出されたものの、同条文 を削除すべLとする提案は、採決の結果多数の票差で敗れ棄却された。この提案を支持する議員 が一〇〇票ほどあったが、この立場にあっても一般的学問の自由規定ではなく、もっと具体的な 大学の自由を求める意見もあったとされる。削除提案の支持者達が必ずしも学問の自由そのもの

に対する反対者であったわけではなかった(301。

十七条の学問の自由条項は、国民議会の左派から中央派にかけて巾広い支持を受けて採択され たが、左派にあっては教授の自由にアクセントがあり、下級学校教師に対しても広く適用すべL とする傾向にあったのに対し、穏健派にあっては、この規範の中心的対象は大学にあり、下級学 校における学問的教授は教育課題により制約されるとする傾向にあり、ここでも様々な理解の仕 方が入り混っていた。

十八条、十九条、二十条については、二十五日、二十六日の両日の会議で本格的な討議が行わ

れ、多数の対案も提出されて採決が行われた。

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教育の自由(十八条)については、二十五日の会議でまず最初に学校委員会の少数意見が投票 に付された結果、一八〇対一七六票のわずか四票差の多数で採択された。その文案は、 =授業を 行い、及び教育施設を設立することはすべてのドイツ人にとって自由である''であった。

次に、同条二項の資格条件について、学校委員会の少数派の提案が投票に付された結果、多数 の支持で採択された。その文案は、 =ドイツ人がその道徳的、学問的或いは技術的能力を当該国 家官庁に証明した時にば'である。この後、審議は、十九条の教育無償、それから国家の学校監 督条項に入った。教育無償条項については多数の対案が出され、次の二十六日の審議に持ち越さ

1!'二、

二十六日の会議では、まず国の学校監督条項について討論に入り、四つの提案が提出されたが、

結局学校委員会の多数派の案、即ち"すべての教育制度は国の上級監督を受ける''の文案が採択 された。その行政は"国の行政の別個の分野をなす"とする条項案は否決された。このあと、ド イツ青少年は一般的人間教育と市民教育を受ける権利を有するとする条項、親や代理人は下級学 校について定められている教育を受けさせずに児童を放置してはならないとする条項、公立学校 教師は国家官吏の権利を有するとする条項、等が次から次へ採択された。教育無償については、

=小学校と下級職業学校の教育については授業料は支払われない"という条文案が採択された。

最後に、貧民学校は行われないという条項と職業選択と職業教育の自由の条項が採択され、教育 条項について審議を終了した(38。

教育条項の審議において、最大の焦点であり、論争点は公立学校の教会からの分離、聖職者の 学校監督の排除にあった。確かに、公立学校と教会の結合、聖職の学校監督という旧体制を主張 する立場は少数であったが、教会との関わり、宗教教育を残そうとする動きは少くなかった。国 民議会の左派陣営は、 ≪新しい教育学≫の立場から、自由な人間形成の理想をめざし、教育の自 律性を擁護し、教授の自由を確立するため、公立学校の教会からの分離と聖職者の学校監督の廃 止を大原則として明文化することを強く要求した(3譲。この点で他の会派とも提携し、教会派と対 決したのであった。これに対し、教会派の議員(5人)は教会の利益を弁護し、教会は学校の授 業や教育に従事する権利義務をその聖なる創立者によって優先的に受けていること、国民教育に 宗教教育を加えるため、小学校は教会に所属すると主張した(3朝Oこのような主張は、穏健な自由 主義者グループの同調を得ることも無理であったが、宗教教育の重要性について再認識を迫る契 機となりうるものであった。地方には旧い伝統的拘束から脱し得ない人も少なくなく、外部から 教会と学校の結合を求める多数の請願が国民議会に寄せられており、穏健派にとっても無視でき ない動きであった。かくして、穏健な自由主義の立場に立つ中央派を中心に、左派の公立学校の 教会からの徹底した分離主義を抑え、これを緩和し、教会との関わりを残そうとする動きも出は じめていた。このような動きは国民の基本権を最終的に決定する国民議会の第二読会の採決に公 然と現われることになる。

Ⅴ 国民議会における学問の自由条項の成立

国民議会の第一読会で採択された基本権草案は、その法文の体裁、全体の構成上の整理、調整

のために、再び憲法委員会に戻された。同委員会は、草案の法文の形式的な整理、調整にとどま

らず棲棲条文の内容の修正に強引に手を出した。委員会の準備委員会は仝草案を新たな節に区分

し、教育基本権をⅣ節に移した。学校委員会が提案し、採択された十八条は不体裁なものとして

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多くの条項に解体された。委員会はさらに内容にも立ち入り、学校委員会の提案として採用され た行政法的規定の非組織的要求を出来るだけ制限し、教会に学校制度に対する一定の影響力をと り戻そうと努めた。即ち、新しい草案の二十三条において「すべての教育制度は国家の上級監督 に服し」とあった文言から「すべて」を取り除き、 「聖職者の監督それ自体は廃止される」の条 項に、 「神学的教育と宗教教育を除いて」の文言を挿入した。憲法委員会のこのような修正は、

教育の自律性を堅持しようとした学校委員会にとって不快な後退であった鵬.

基本権草案は憲法委員会の修正と編集を経て、十二月六日に開かれた国民議会の第二読会に付 記された。教育基本権の諸条項案は十二月十五日の総会で審議が開始された。この日、最初の審 議は二十二条に移された学問の自由条項であった。この条項については、これを修正する対案も 出されず難なく採択された。しかし他の条項については、それぞれ四つから五つもの対案が出さ れ活発な討論が行われた。学校委員会も憲法委員会により後退せしめられた幾つかの点について 積極的に対案を出しまき返しに出た。

学校委員会は、二十三条で宗教教育を除外しないで無条件に「聖職者の監督それ自体は廃止さ れる」とする提案を提出したが、投票で敗れ、委員会の少数派の「宗教教育を除いて」を挿入す る案が採択された。国民議会の総会では、すでに公立学校に教会の影響を残すためのこうした例 外条項を設ける意見が多数を占める状況となっていた。

しかし、学校委員会も二十四条の教育の自由条項、二十五条の公立学校教師の官吏としての権 利条項、同条二項の小学校教師の任命条項等についての提案が採択され、近代教育制度の本体を 定着させることに寄与した。これに対して、憲法委員会は二十五条一項の青少年の教育に対する 公立学校による配慮、同二項の子供を就学させる親や代理人の義務条項、二十六条一項の無償教 育の条項についての提案で支持を受け、近代教育制度のより現実的な実現に寄与したといえる。

この日の審議では、二十四条二項として「家庭教育は何ら制限を受けない」とする条項が新た に採択され、教育の自由の巾を拡げた。最後に、二十七条の職業選択と職業教育の自由の条項が 異論なく採択されて、教育条項の審議をすべて完了した(36)。

第二読会の審議は、近代教育制度の確立という点からはその本体をなんとか維持しつつも、一 定の後退を示した。学校の教会、宗教からの分離を緩和した点、青少年の教育を受ける権利をと り止め、公の学校により十分配慮するとする規定にとって替えられた点で、教育制度の自由主義 的改革はその市民的教育原理を十分貫徹しえなかったといえる。このような後退は、復古的勢力 が次第に増大し、三月革命が変容しつつある状況の下での現実的解決であった。国民議会の最後 の審議は、出来るだけ近代的市民的教育原理を基本権の形式で維持しようとするグループ(左派) と世論の動向を考慮し、各ドイツ政府に受け容れられるよう目立って進んだ改革的部分を抑制し、

憲法の成立を計ろうとするグループ(中央派)のせめぎ合いであった(3カ。

二十二条の学問とその教授の自由条項が、一見難なく広い支持を受持を受けて成立したのは各

党派の原理上の争点とならなかったからである。この条項の規範的意味については多様な理解の

仕方があり、一部にこの条項そのものに党派的反対があったとしても、中央派も左派も学校教師

の自律的な教育活動の保護が何らかの程度必要な点で一致しえたのであった。この条項の適用に

ついて、無視しえない争点が生ずるとすれば、大学ではなく下級学校であった。大学教師が学問

の自由を享受することについては、カールスパート決議に基づく警察国家体制の下でもプロイセ

ン政府は異論はなかったのである(3噂。少くとも建前においてはそうである。これに対し、下級学

校については、宗教教育の実施、学校の教育課程に対す政府の教育政策について、依然として領

(11)

46

」蝣'.こ'し!t I.

邦政府や保守勢力はこれらを堅持する意向であり、下級学校教師の教授の自由に対しては否定的 態度を取らざるを得なかった。国民議会の多数派を形成していた中央派グループはこうした動向 を十分考慮しつつ、二十二条の下級学校‑の適用については、これを正面から否定はしないが、

極力これを抑制する態度を取ったといえよう。下級学校教師の教授の自由の制限は、二十二条の

「学問」の意味を強調することにより解釈技術上も困難はなかった(39)。

国民議会の第二読会は、十二月二十一日基本権とその実施法律の審議を終えたが、同議会はす でに同月十七日に仝ライヒ大臣の副署の下で政摂ヨハン大公により、憲法に先立って「ドイツ国 民の基本権に関する法律」として公布された。実施法によると基本権の二十二条、二十四条、二 十五条は直ちに効力が生ずるものとされ、これに対し二十三条、二十六条、二十七条の実施は州 法に委ねられた(40。

基本権の教育条項(二十二一二十九条)は、一八四九年三月二十六日のドイツ連邦憲法の一五 二一一五八条として引継がれ実施されたo基本権は公布後、オーストリイー、プロイセン、バイ エルン、ハノーファーとほか二三の小国を除いて承認されたが、その運命は各国における旧勢力 の復活とともに危うくなり、四月初めにプロイセンがこれを拒絶し、他の諸国もこれに習ったこ とにより最終的に絶えた(41)しかし、学問の自由条項は、フランクフルト憲法崩壊後もプロイセ ン憲法により継承され、ドイツの憲法伝統として定着することとなった。

お わ り に

三月革命期にパウロ教会で憲法制定国民議会が開かれるまでに教育に関する基本権の要求が広 く行われていたが、その権利内容は教授の自由(Lehrfreiheit)か教育の自由(Freiheit der Bildung) であり、前者が一般的であったといえる。それはドイツの教育界、とりわけ大学においてすでに 不文の法ないし慣習法として認められていたのであり、国法学説においても説かれていたもので あった。

これに対し、学問の自由(Freiheitder Wissenschaft)条項案の登場は、国民議会により設け られた憲法委員会のダールマンの提案によるものであった。しかし、彼の提案した学問の自由は 直ちに教授の自由が挿入されることにより修正され、この修正された定式が国民議会で最後まで 堅持され承認された。この修正の理由、動機が何であったかは審議録からは十分示されていない が、重要な意味をもつ。教育に関する基本権の審議の全体的状況からかなりの程度判断は可能で ある。即ち、一般的な教授の自由の定立については、ドイツ各政府や保守勢力の強い反発が予想 され、他方学問の自由のみでは、下級学校であれ、大学であれ、教師の地位と教育活動が保障さ れるためには教授の自由の導入が必要であったといえる。パウロ教会での基本権の審議において、

一般的な市民的自由としての学問の自由の基本権の主張は極めて例外的であった。ここにおいて、

本稿の結論として指摘しなければならないことは、教育、学問のいずれの基本権にしろ、すべて は絶対主義的教育制度の改革と緊密に結びつけられ、近代的市民的教育原理を確立するために教 育制度上の基本権として制定は推進されたということである。その際、大学と下級学校の制度上、

機能上の相違は十分認識されており、とりわけ下級学校において教授の自由がどこまで保障され

るかは教育制度、教育行政の改革にかかっていたといえる。それゆえ、学校委員会の多数派が基

本権の内容として教育目的を「一般的人間教育と市民教育」に限定し、青少年に教育を受ける権

利を確立しようとしたのは、このような改革に的確に添うものであった。しかし、このような努

(12)

力はすべて挫折し、国民議会の多数派は、国の学校監督の権能に教育政策の裁量を認める方向に 向い、下級学校における教授の自由の抑制、制限を教育上正当化していたと思われる。フランク フルト憲法崩壊後の教育行政は、下級学校の教授の自由を否定し、学問と教育を親合するのでは なく、両者を峻別するに至った。パウロ教会の基本権の審議も、学問と教育とのかかわり、その 統合のあり方を十分探求することなく作業を完了したのであった。

( 1 ) Rudolf Roske, Die Entwicklung der Grundrechte des deutschen Voekes vom Jahre 1848. S. 16.

Roske, a. a.0., S. 18

( 3 ) ulrich Freyer, Das Vorparlament zu Frankfurt a. M. imJahre 1848. S. 21‑22.

(4) Roske.a,a,0.,S.28.

( 5) Jucho, Verhandlungen des deutschen Parlaments Bα. I, S. 134, 195.なお、自由主義者と共和主義者と の対立については、 Nanette G. Katzenstein, Das Vorparlameut, S. 51.

(6 ) ulrich Freyer, a. a. 0., S. 133. S. 135.

7) ulrichFreyer, a, a.0., S. 137‑138.

Ulrich Freyer, a. a. 0., S. 136,

(9 )十七人の憲法草案の起草過程、討論、集約等については、 Rudolf. Hubner, Der Verfassungsentwiirf

der siebzehn Vertrauensmanner, S. 14ff,

(10)三月革命前期において少くとも大学においては、国法理論においても多く教授の自由が精神的自由の 一部として説かれ、承認されていた。この一郎二ついて、 Andreas Hasser, Wissenschaftliche Lehrfreiheit in der Schule, S. 153ff.

(ll) Rudolf Hubner, (hsg.) Aktenstiicke und Aufzeichnungen zur Geschichte der Frankfurter Nationalver

sammlung. aus dem Nachlalもvon Johann Gustav Droysen. S. 76.

(12) F. C. Dahlmann, Die Politik 1847. S. 252.

(13) RudolfHubner, a. a.0.,S76.

(14) F,C. Dahlmann,a. a.0.,S. 252‑253.

(15) Ernst Eckhardt, Die Grundrechte der Deutschen, S. 36‑37.

(16) ErnstEckhardt,a. a,0リS.43,

(17) RudolfRoske, a. a.0., S.40‑41.

(18) RudolfRoske, a.a.0.,S.44.

(19)憲法委員会の基本権の審議の記録については、 J. G. Droysen, Die Verhandlungen des verfassungsauss‑

chusses der deutschen Nationalversammlung. I, Teil, 1849. S. 19f.

(20) J. G. Droysen, a. a.0., S. 565.

(21)憲法委員会の草案にある学問の自由の文言のみで、大学や下級学校の教授活動への国家による侵害を 防ぎうるか、下級学校においては、さらに教会による不当な束縛を排除しうるか、という問題が常に意 識されていたと考えられる。

(22) K. D. Konrad Dietrech HaBier, Verhandlungen der Deutschen Verfassunggbenden Reichverfassung Frankfurt am Main 1848/49. Band I, S. 83,

(23) H, A. Strauss, Staat, Burger, Mensch, S, 46.

(24 H,A.Strauss,a.a.0.,S.47.

(25) Franz, Wigard (Hrsg)., Stenographische Berichte iiber die Verhandlungen. der deutschen constituiren‑

den Nationalversamnlung zu Frankfurt am Main, 1848, Bd. 2, S. 788.

(26 以上の学校委員会の内部の意見と対立については、 Kanrad Dietrich Halller, a. a. 0., Band2. S, 255.

(27) Wigard,a. a.0.,S.2230f.

(28) Wigard,a. a.0.,S.2182ff.

(13)

48

松 元 忠 士

(29) Wigard,a.a.0.,S. 2242.

(30) Hasser. a. a. 0., S. 200.

(31) Hal;ller, a. a, 0., S. 299‑300.

(32) HalさIer, a. a. 0., S. 304‑305.

(33) strauss,a. a.0., S.47.Wigard, a. a.0., S. 786.

(34) Strauss,a.a.0., S.47.

(35) Friedrich schliinz. Die Entstehung des Artikels IV der Grundrechte der Deutschen Verfassung von 1848.S.265.

(36)国民議会の第二読会の議事については、 Hafゝler, a. a. 0., S. 576.

(37)国民議会において数の上からも指導力からいっても最も強力なグループは中央右派であった。シュ クーダルマン、大内宏一訳、 「1848年ドイツ革命史」 164頁。しかし、少数派の左派が教育条項の審議採 決で常に敗れたわけではなく、ある意味では少数派にもかかわらず議案を通したといえる。

(38)プロイセン政府は、カールスバード決議の下で大学教師の行動を慎重に監視しつつも、日学間的方法 や教授方法に直接介入"することを避け、教授の自由を侵さない方針をとっていた EberharBiissem,

Die Karlsbader Beschlusse von 1819, S. 375.

(39)下級学校はただ定まった、とり決められた知識とのみかかわり、大学は学問の創造的統一一を課題とす る説くドイツ理想主義がすでにこの理論的見解を提供していた Max Wunt, Der Sinner Univerrit云tim Deutschen ldealismus. S. ll.

(40) Ernrt Eckhart, Die Grundrechte, S. 58‑60.

(41 この最後の局面について、 Veit Valentin, Geschichte der deutschen Revolution von 1848‑1849, S, 381.

(14)

Die Entstehung des Wissenschaftsfreihei卜Artikel

in der deutschen Verfassunggebenden Nationalverssammulung zu Frankfurt am Main.

Tadashi MATSUMOTO

(Department of Law, Nara University of Education, Nara 630, Japan ) (Received April 30, 1991 )

Die Garantie des Wissensehaftsfreiheit‑Artikel, seitdem er in § 152 der Frankfurter lReichver‑

fassung von 1849 und in Art 20 der preussischen Verfassungsurkunde von 1850 genommen war, sind fur die deutschen Verfassungstradition angesehen worden. Aber er hat ihre rechtliche Kon‑

turen erst in der staatswissenschaftlichen Diskussion liber Art. 142 der Weimarer Verfassung

genommen.

Dabei wies Smend in seinem Referat nach, dafゝ die Freiheit der akademischen Wissenschaft

und Lehre vor allem die angemessene Rechtstellung einer grotlen offenthchen Institution bedeutet.

In der Frankfurter Natianalversammulung kniipfte das Grundreeht der Wissenschaftsfreiheit von An fang an an der Budungsanstalt an. Die Wissenschaftsfreiheit, die Dahlman lm Verfassungs‑

ausschulもvorschlug, war nicht mehr das individuahstische Recht. Ubrigens handelte es sich um

die Lehrfreiheit in Lehranstalten. Die Wissenschaftsfreiheit stand in engem Zusammenhang mit Bil dungsfreiheit. Deshalb schlofi sich die Lehrfreiheit nicht nur die Hochschullehrer entsprechender Sicherungen als ein Stand‑Privileg an, sondern die Schullehrer entsprechender Sicherungen. Aber trotzdem man in der Nationalversammulung an die Spite der Schulartikel einen leitenden Grund‑

gedanken stellte, fehlschlug er an das Prinzip der Wissenschaftsfreiheit und Lehrfreiheit das Recht

auf allgemeine Menschen‑ und Biirgerbi】dung arlzufiigen.

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