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﹁経済学﹂を Ec昌Omics と呼ぶぺきか︑それともPO−itica−EcOnカmy という古典的名称の伝統を維持ないし
復位することの方がただしいかは︑かならずしも便宜の問題でほなく︑との学問の方法に関連して重大な意味をも
︵1︶ つことは︑‖周知のようにモータス・ドップも強調したところだった︒ドップほ︑近代経済学︵EcOnOmics︶ が交換
現象の 〝経験科学″的・超歴史的説明につねにとどまることを批判し︑その背後にある社会的・歴史的・階級的関
ヽヽヽ
係にまでたちいるということのうちに︑P01iti8−EcOnOmyの真の意嘩での実践的伝統が存し︑この視角の尊重に
よってはじめて資本主義の運動法別の包括的解明をおこなうことも可能となるものだという点を︑種々の角度から
論証することによって︑PO−itica−EcOnOmyを擁護していノる︒だが同時に︑川実践的〟 ということにかんし︑これ
ヽヽヽ はドップがおそらく十分に強調しなかった側面だが︑ポリティカル・エコノ︑\\−の伝統には︑当然ながら俗流的要
素もふくまれており︑とくに資本主義的な経済政策・社会政策の立案や実施をめぐる問題領域において︑俗流的視
角が重要な﹁実践的﹂意味をもってきたということも︑留意に催いするだろう︒
基礎政策範疇についての覚え沓
基礎政策範時についての.覚え書
− 経済政策論と社会政策論のために
木
︵四六こ
身
︵四六二︶ 二
第三十三巻 第四号
すなわち︑ポリティカル・エコノミーの実践的伝統といわれるものには︑二重の意味−一方において経済現象
を社会︵とくに︑狭義では資本主義社会︶の下部構造全体との不可分の関連において分析し︑﹁経済体制そのもの ヽヽヽヽ の本性とその動きにかんする問題に回答をあたえる﹂ ︵ドップ︶という理論上の問題意識と同時に︑他方では︑そ
のような理論上の問題意識がどうであろうと︑とむかく経済にかんするプル汐ヨア的思惟の帰結を︑一定の利害判
断の脈絡のもとに︑現実の資本主義国象の経済政策・社会改良の立案や実施に直接役だてるという俗流実践的要請
が︑ふくまれている︒実際︑このあとの意味に・おいて︑ポリティカル・エコノ︑\︑−ほ近世においてなによりもまず︑
社会の下部構造の近代化=資本主義化のあらしに対処しての︑絶対主義王室の国庫の保全や︑特権商人の利得の是
否や︑二困の富の象徴としての金銀なり貿易差額なり︑そしてついには労働生産物の︑増加策や予また以上に呼応
しての浮浪窮民の取締り・治安策・ヅ怠惰な労働貧民〟の鼓舞策︑等々をめぐる時事的政策立案論パンフレットの
彪大な集成として︑成立したのだった︒社会科学としてのポリティカル∴エコノ︑︑︑−が︑じつはこのような俗流的
政策立案をおこなうべきものでなく︑なによりもまず経済現象の底にある本質的因果関連とその歴史性を客観的に
把握し︑そこに歴史・的経済諸法則︑とりわけ資本主義の歴史的運動法則を開示すべきであり︑普た同時にこれを基
礎として既存の皮相な現象論ないしその超歴史的敷朽や︑ブルジョア的利害に規定された改発立案論として鱒俗流
ポリティカル・エコノ︑︑︑−を徹底的に批判すべきであるという認識︵﹁経済学批判﹂の立場︶︑また︑そこにこそ科
ヽヽヽ 学の典の実践性があるのだという認識は︑マルクスによってほじめて具体化された︒こうして俗流実践論ほ︑﹃資本
論﹄第山巻の成立八六七年︶ と同時に︑その方法的根拠を喪失したはずなのであった︒
しかし︑ブルジョア経済学のアカデミー化が︑むしろそれ自身のなわほりのなかで︑自然科学とのアナロ汐−に
おいて︑あるいほコント=ミル=マージ.ヤル風に︑あるいほメンガー==∴‖ノッケルト=ウェーバー風に︑あるいほワ
ルラス=パレート風に︑かなり独白な径路ですすむこととなった経絡は︑周知のとおりである︒〝経験科学″・〝純
粋科学〟・〝近代理論〟の一興としてのEcOnOmics﹀EcOnOmetrics が︑こうして編成された︒しかし︑もともと
経済学の成立契機だったし存在理由でもあるところの政策実践問題を無視しては︑ブルジョア経済学も鼎の軽重を
問われる以上︑それなりの解決の系譜をもつ︒すなわち︑この課題を古典派からうけつぎ︑とりわけ終始いさまし
く掲げたのは︑ドイツ歴史派の経済学だったが︑シュ雪フーたらがたとえ方法論争・価値判断論争の上で克服され
たとしても︑EcOnOmicsほあらためてなんらかのかたちで ︵すなわち︑いまやテクノロジカルに︶その﹁応用﹂局
︵2︶ 面においてW由erater derぎーkswirtscha叫t瓜としての実践意識をふるいおこし︑政策問題に答えなくてはならな
かった︒− このような意味で︑EcOnOmics白身もまた︑どんなにアカデ︑\\ックに︑選択技術論風になろうとも︑
不断にPO−itica−EcOロOmyに復帰するという要請を感じているといっていい◆のである︒だから︑かつての古典派
や講壇社会主義の経済学者とかぎらず︑現代においても ー いな︑﹁資本主義の山般的危機﹂といわれる現代にお
いてこそまさに︑禁欲的な〝純粋科学″の学徒が︑研究途上のある日︑突然にインスパイアされて1かれが有能
ケインズやワルター・オイケン︑ティンバーゲンあたりを筆 であればあるはど︑この啓示は必然的なのだが卜︑
頭に︑熱烈なポリユノリカル・エコノミスト︵官庁派経済学者︑政策立案家︶として活躍しはじめるという事例が︑
いくらでもある︑いな︑一国および世界の資本主義の転回期にはつねにあらためて急増してくるものとしても︑な
んらあやしむにたりないだろう︒そして︑ブルジョア経済政策論の系譜は︑けっきょくこのような政策立案論を合
理化し︑それを価値判断批判の方法哲学に接ぎ木することで︑つくりあげられてきたといえるだろう︒
だが反面︑一歩をすすめてかんがえれば︑マルクスないしドップが支持する意味でのポリティカル・エコノ︑︑︑−
の立場にとっても︑じうはきわめで基本的な問題が放置されたままになっている︒それは︑いったい﹁政策﹂とい
︵四六三︶ 三
基礎政策範疇紅ついての覚え番
うものをどう経済学的にうけとめるかということである︒
ヽヽヽ
ひろくみるとき︑経済掛題なり社会問題にかんして﹁政策﹂という概念が学問的に実質上︑﹁政治﹂ 山般から二
応分岐した独白な国家活動をあらわすものとして論じられはじめたのほ︑おそらくドイツ講壇社会主義着たち以来︑
︵8︶
つまり後進国ドイツでの独占資本主義の発足以来のことであり︑けっしてふるいことではないが︑以後今日にいた
るまで︑ドイツはじめヨーロッパ大陸の各国では︑依然として原則的に同一用語をもってこの両概念を使いわけて
きた模様であ.って︑■アングロサグソン的なこPO︼itics﹀︶とこP01icy−との区別や︑ニEcOnOmic PO−icy︒︶ へれSOCia−
︵1︶ PO−icy﹀︶などの用語の普及も︑ごく最近のことにすぎない︒たとえば ﹁政策科学﹂こPO−icy Sciences諾を提唱する
︵5︶
ラスウェルのように︑特別の術語を用いて政治における政策現象/の優位に着目すること自体が︑学問的には︑目あ
たらしいことに属するといっていいだろう︒阻治中期にわがくにの官僚や帝国大学教授たちがドイツに留学し︑講
壇社会主義者の樹立した各種﹁政策学﹂をそのままわがくにに導入したこと隼より︑学問上はじめから術語として
の﹁政治﹂と﹁政策﹂との区別を確立できたことは︑いわば一種の傍目八目的洞察による人リットだったといえる
かもしれない︒
ところで︑PO≡ikという用語に﹁政治﹂と﹁政策﹂の二義をみとめながらも︑用語ほそのままですませるとい
うドイツ・アカデ︑︑\ズムの伝統ほ︑価値判断論争や鴛二次大戦後の社会民主党的および﹁社会学﹂的な政策学教科
︵6︶
書流行の時代を経て︑今日につづくのにたいして・憂もっとも︑ここでも﹁政治﹂から﹁政策﹂を区別するという
認識は︑﹁理論﹂・﹁歴史﹂との対比における﹁政策﹂の認識論のほなやかさにくらべると︑きわめてしずかに進
行したといえそうだが︑ − マルクス経済学ないしマルクス主義理論でほ︑この区別を問題とした文献が︑聾者の
︵7︶
知るかぎり︑今日にいたるまで絶無だということほ︑まことにおどろくぺきことにおもわれる︒もっとも︑これに
第三十三巻 罪四号 ︵四六四︶ 四は理由があるだろう︒つまり︑ドイツ社会民主党︑ましてやロジャ社会民主党の左派論客たちの気分を推しはかっ
てみるなら︑かれらほおそらく︑PO−itikuヨ○日当買aという語にふくまれるこのような二義の区別の意義について
かんがえること自体︑改良主義の存在理由を肯定すjものだといった見地から︑この区別に実益どころか︑重大で
有害なブルジョア・イデオロギーの証左をみいだそうとしたにちがいない︒むしろかれらは︑全体としてのPO−itik﹀
コ○毒丁宗aそのものの党派性・階級性の方にこそ問題をみいだし︑この点を強調することにもっぱら精力を集中さ
せたといってよく︑ここから﹁わが先の政策︵PO−itik︶コ○臼∃宗aことか﹁社会主義の政策︵PO−i−ikuヨ○畠丁宗a︶﹂
といった語法を︑さらには︑それを英語にそのまま移して︑=party p01icy∵こOur pO−icyミ∵.SOCia−ist pO−icyご
という語法をも︑漸次普及させたと︑いえるだろう︒
︵1︶ MauriceH.DObb⁝PO−itica−EcOnOmy andCapi邑iひm︐SOmeEssaysinEcOnOmicTraditiOnこ呂ごNnded・こセ羊こtF
imp.−−讃○−岡稔訳︑﹃政治経済学と資本主義﹄︑岩波書店︑山九五二年︒とくに初版序文を参照︒
︵2︶ マックス・クェー.ハーの徒ロベルト・ヴィルブラントが総括した価値判断論争の技術論的帰結が︑科学者の政策立案是認
の根拠として︑三十年彼の今日︑なおエコノメトリシャンを動員しえていることは︑留意に催いする︒くg−・RObert
Wi−brandt⁚Derく○−kswirt a−s Berater derく○−kswiユscbaft−卜¢N00.
︵3︶ ドイツでほ︑ひさしく社会諸科学が∀Staatswis∽enSC訂ftenAと称されてあやしまれなかったはど︑国家が市民社会を蔽
ってきた︒もともと﹁政策﹂という概念は︑国家と市民社会との明確な分離認識を前提とする︒歴史上の手続きとしては︑
まず︑官房的ないし絶対王室的意味でのPO−itikが形成期市民社会に対応して最初にあり︑市民革命がいったんこれを山朋
し︑あらためてブルジョア国家が市民社会︵=資本主義︶の矛眉に対応しようとするとき︑はじめて近代的な政策範疇が成
立するというのが本筋だと︑いえるだろう︒ところがドイツでほ︑市民社会がかろうじて形成・統∵されるやいなや︑ほ
基礎政策範疇についての覚え讃 ︵四六五︶ 五
げしい矛盾㌫為讐是し︑カイザー=ビスマルクのボナパルタイズム国家が誕苧対応したものだから︑そういうPO−itikの
急激でしかも不完全な変貿過程をつらぬいた﹁国家﹂の優位の持続が︑﹁政策﹂概念の分岐を目だたせたといってよい︒
︵4︶ただし︑SOCla妄言というのは邦語の﹁社会蛋﹂紅は該当せず︑﹁社会福祉政策﹂ぐらいの意味のようで誉︒昭和
ヽ 三十三年度版窟生白雷﹂ほ︑おそらくこれの訳語として︑﹁社会的政策﹂という語を用いている︒ふつう労働問題対策
をふくまず︑そのかわり教育政策などを大きくふくむ︒ともかくしかし︑PO育という用語がこの方面でも普及しだした
ことが︑問題である︒
︵5︶D−L2rner紆H・D・1as等号eds・︶⁚→hePO盲Scienc2S盲cent→rendsinScOp2andM乳訂皐−芦なお︑ラスウ
ェルの主張の位置について︑は︑東京大学出版会︑議撃社会学﹄︑別巻︑所収の永井陽之助氏の稿﹁政治学﹂をみよ︒
︵6︶だいたい﹁政策学﹂の古典的教科苔といえほ︑みなドイツ庶産だが︑その続出期ほ︑闇ヤコブ︑ゾーデソ︑ヲクなどの官
房派時代︵十九世紀初︶︑惚フィ是ブィッチ︑コンラート︑シュモラーらのビスマルク時代︑付さらに竺次戦後︑ク
手バー亜流雷び社会民主党派の二つの立場からそれぞれ逃避的と急進ロマン的に︑大且還産される時代︑と区分する
ことができる︒
︵7︶本稿の目的ほー︑なかばこの事偶の解明に︑なかばは横棒的な政策理論樹立のための基本的条件の検討覧る︒本稿にふれ
られていない論点を﹂般た補充する意味で︑井藤半弼博士退官記念論文集窟会政策の基本問題﹄︑千倉畜房︑−九六〇
年︑所収の拙稿︑﹁現代社会政策論の課題﹂の参照を乞いたい︒
二
もとより近代国家のブルジョア的本質︑国家表の階級的本質一般︑またしたがっ′て国家による﹁政治﹂の党派 ヽヽヽヽヽ 性は︑はやくはすでにマルクスがス四三年にアユルド・ルーゲにあてた手紙で﹁政治的国家は︑人間の実践斗
第三十三巻 滞四号 ︵四六六︶ 六︵1︶ 争の内容目録である﹂とかいて以来︑とくに唯物史観の確立以来︑かれやエンゲルスにより︑下部構造による政治
ヽヽヽ の被規定性の論点とともに︑終始端的に強調された論点だったが︵後述参照︶︑革命的情勢との関連で国家の〝ポリ
ティーク〟の階級性を指摘し︑また︑これと対抗しこれを批判するものとしてのプロレタリアートの〝ポリティー
ク〟の実践綱領を掲示するという発想慣行が︑やがて社会民主党の論客たちによって定着させられていたわけであ
︵2︶ る︒ちょうどあらゆる階級にとっての普嵐的な﹁社会問題﹂なるものはないのとおなじように︑あらゆる階級にとっ
ての普遍的なポリティークというものもなく︑あるのはただ階級の数だけの諸﹁政策﹂だけだ︑という認識ほ︑マル
クス主義理論の根幹的伝統として︑そのままレーニンにもうけつがれた︒
だからレーニンは︑不自由なコ○日当宗aという用語を駆使して︑これを﹁政治﹂という意味に用いる山方︑たとえ
バリーチカバリ1車力 れらの政党の﹁政策﹂︑またそれらに支えられるものとしての政府の﹁政策﹂︑また以上のすべてに対抗するものと パ日ソーーチカバリーチカ ばナロードニキやカデットやメソソニヴィキα﹁政策﹂︑■修正主義の﹁政策﹂︑仙般にプル汐ヨアー1地主階級やそ
バリーチカ バリーチカ しての革命的な﹁社会民主党の政策﹂︑﹁プロレタリアートの独裁にふさわしい政策﹂についてきわめ・て頻繁に語
︵3︶
パリチカンストグオ り︑しかも︑この最後のもの以外は︑じつほ﹁政治術策﹂にすぎないという発想法を︑しめしている︒こうして︑
レーニンたちにとっては︑けっきょく革命政党の﹁政策﹂だけが︑綱領に盛られるべきものとして︑﹁政策﹂の名に傾
いしたのであった︒だから︑さすがのツァーリ政肝が︑不穏の労働事情と国際情勢とに押されて︑労働者災害補償
法・エ場総代法を通過させ︑また労働者共済組合法案を日程にのせた一九〇三年︑レーニンほ︑﹁さよう︑われわれ
︵4︶ はいま疑いもなく改長の時代に際会している﹂と述べたが︑このような﹁さながら一時代を構成するいろいろの改
︹5︶ 艮﹂を︑かれは革命的勢力の圧力による﹁上向線上の改良﹂と規定し︑革命の前ぶれだとみたのである︒﹁改良は革
命的プロレタリア一斗の階級斗争の副産物である︒副産物を手に入れることを〝自分〟の仕事とすることは︑白由
︵四六七︶ 七
基礎政策昭疇についての党え醤
︵四六八︶ 八 第三十三巻・軍門号
︵6︶
主義的なブルジョア改良主義におちいることを意味する﹂というのが︑レーニンの一貫した・かんがえかたであっ
た︒
だが︑そのようなものとしての革命的な﹁政策﹂=﹁上向線上の改良﹂ほ︑二重の意味において︑現実の国家のお
こなう政策のひろがりに︑はるかにおよばないほずである︒第一に注意すべきほ︑革命政党が︑ふつう革命そのも
のによる以外におよそ手のつけようのない︑したがって直接の修正を要求することもはとんどないところの︑つま
り︑もっぱらブルジョア汐−とその国家が占有をはしいままにしているところの︑一半の重要な政策領域があり︑
しかも日々拡大しているということだ︒それは︑ふつうにせまい意味で﹁経済政策﹂と呼ばれている領域であるが︑
実際︑レーニンたちは︑革命を境として︑ソダイエト国家の側にたってはじめて独自な意味で﹁経済政策﹂について
語りはじめた仇だったし︑この領域の夷の重要性が判明するのは〝新経済政策〟時代にほいってからだったといっ
てよい︒もっとも︑資本主義国家の経済政策も︑それが﹁社会問題﹂に具体的にかかわるかぎりにおいて︑つまり︑
経済政策の諸形態が同時に社会政策の手段ともなるかぎりにおいて︑斗争の対象なり﹁副産物﹂となるだろう︒第二
に︑︵社会︶改艮とか社会政策といわれるもののうちにも︑革命的政党なりプロレタリアートの要求という契機によ
ヽヽヽ るよりも︑むしろ主として国家の本質にもとづいて国家なりそれを支える利害蔓それは︑現実の問題としてほ︑
資本家的なものとともに諸中間層的なも欄をもふくみうるだろう妾の例からすすんでおこなわれるような側面
と︑その特有の方式とが︑現実化しうるし︑しているということである︒いま︑現存の資本主義国家の編みだして
ヽヽヽゆく政策が︑およそこれらをふくむ全体として現実に展開し︑革命的要求によって獲得される﹁上向繰上の改良﹂
も︑革命的状況の熟さないかぎり︑つまり︑資本主義がノトマルに蓄恕・実現過程を進行させるかぎり︑国家の
バリチーチェスキ ー ﹁政策﹂全体のなかでは︑残念ながら一半の比重以上を占めることが困難だとすれば︑そこに政治主義的な解釈の限界も︑明瞭とならざるをえない︒すなわち︑政治主義的解釈の脈結からは︑なるはど政策現象の進展における階級
斗争という重要な契機︵生産関係的契機︶を認識し︑また政策の成果がはたして斗争の﹁副産物﹂であるかどうかな
識別・批判することはできるし︑この二作業の重要さはいくら強調してもしすぎることはないが︑しかし現実にほ
むっと複雑な契機機構︵生産力的契勝と生産関係朋契機との結合︶によって︑巨大なひろがりをもって打ちだされ
てゆくところの資本主義国家の政策全体の歴史的・必然的実在性や.限度の問題︑また︑政策諸内容の量的堆積の進
展が一定限界内でながらも質的忠味と効果を獲得してゆかないかといった︑政策の機能展開性・相対的独立性︑な
いし政策の下部構造にたいする修正作用の拡大の問題などほ︑全然捕捉されえないことになる︒
先・後進国の別を問わず︑ブルジョア的生産諸関係の展開︑もしくほ末尾開に発する﹁社会問題﹂に対処するもの
ヽヽヽヽ としての社会改良や︑物的生産諸力にむすびついた一国の価値・剰余価値の生産・実現体系を直接に保全するため
ヽヽヽヽ の経済改艮が︑たんに争わるへき一つのイデオロギーとしてでほなく︑また︑たんに﹁資本主義の組織化﹂といった
表現でつつみきれるものではかならずしもなく︑現実の歴史的国家の﹁政策﹂として︑ある相対的独立性をもって推 ヽヽ ヽヽ 進され︑一定の客磯的な機能をすでにもつばあいにほ︑たとえ政策の成立・展開の契機という点や︑またその効果
の﹁利用﹂にかんしてほ政治主義的解釈の余地がすくなくないとしても︑全体としての﹁政策﹂問題の次元は︑レ
ーニンが基本線上でかんがえたものとは︑ち.がったもの上して︑あらためてわれわれにとって重要となる︒しか
も︑独占資本主義段階︑とくに﹁資本主義の一般的危機﹂時代といわれる現代における国家の進出︑その機能拡大
とともに︑まさにこの次元での﹁政策﹂問題が︑われわれに分析を迫ってくるのではないか︒レーニンは︑改良が
﹁二面的性格﹂をもつことをみとめつつも︑それがブルジョア汐−によってあたえられる﹁政府のやる改良﹂・﹁支
ヽヽヽヽ配階級が権力をその手にのこした上であ狩える譲歩﹂・﹁統治者の支配を強化する−改良の下付を代償として強
︵四六九︶ 基礎政策範疇についての覚え書
︵四七〇︶一〇
第三十三巻第四号
︵−︶ 化する卜道具としての改良﹂であるかぎり︑ナンセンスであり︑﹁革命軋階級斗争の副産物﹂であるかぎりにおい
てこれを肯定利用する︑という態度を二質させている︒しかし︑改良の二つ︵もしくはそれ以上︶のイデオロギー
をあきらかにすることと︑資本主義の劃走段階におうずる改良そのものの客観的な︑相対的に独自なこ定役割を問
うこととは︑べつの問題だといわなくてはなるまい︒このあとの点は︑レーニンが︑はからずもストループェ批判
︵8︶
の▼腐り︑逆説風に﹁違性的〟なのは資本主義を発展させる政策であって︑それを批判する政策ではない﹂ことを
みとめた以外︑おそらくまったく触れることがなかったようだが︑しかもまさにそのような〝理性的〟な政策の史
的︵帝国主義下での︶クローズ・アップ状況こそが︑じつはある意味ではベルンレユタインの修正主義からヒルフ
ァーディソグの﹁組織された資本主義﹂にいたる主張︑その他さまざまの改良主義の主張の︑地盤となっていたと︑
いえなくもないのである︒
このようにして︑レーニンたちは︑﹁政策﹂の問題の半分軋しか回答しなかったことになる︒社会民主党=‖‖レーニ
ン的な﹁政策﹂の党派性認識は︑そのメリットにもかかわらず︑国家のつくりだす日常政治活動血般からの﹁政策﹂の
歴史的分岐・自立化にかんする事実認識から︑いわば切断されている︒た七えぼソ同盟﹃経済学教科責﹄が政策問
題について二言も触れなかったことがわがくにの社会政策論者におどろきと不満をよびおこしたのでもわかるとお
り︑マルクス経済学が︑マルクス自身による示唆︵後述参照︶をぺつとすれば︑まったく国家の政策範疇にかんす
る根本規定を欠ぎ︑そのためこの間題について社会政策論でのような本質論の混乱をまきおこさせるか︑それと
も︑問題自体をプル汐ヨア・アカデ︑︑\ズムの観念的方法論による料理法にゆだねてしまうという結果となったの
曙﹁政策﹂そのものについていうかぎり︑およそ以上の事情にもとづくものと解されるのである︒他方︑マルクス
主義国家論そのものの内容と推移が︑この事惜全体を硬直したかたちでさらに支えたとみていいのだが︑この点を
つぎに検討tよう︒
︵1︶ 冒ルクス=エンゲルス選集﹄︑大月杏店版︑補警︑ニ二三ぺージ︒以→の引用で︑特記しなければ︑﹃選集諒同版を
さす︒
︵2︶参照︑マルクス︑﹁道徳的批判と批判的道徳﹂︑還集﹄︑第二巻∵六三−六八ぺ1ジ︒
︵3︶舎旨→已若葉←﹁政治﹂よりも党派的﹁政策﹂あ意味でつかっ号音れ︑邦訳全集版でもだいたい﹁要﹂と訳
されている欝は︑額数にあるが︑箸の点検した儲をあげれば︑盲のと晋︒B・芦旨苧CO喜eH芦P
空きcTp・亭00N→・言p垂・筆→・かこ→亨軍→・言p・苧芸00・NN岩室芦c→p・N蚤ユニ→p吏
璧声塁:冒リp・雪空空軍∽−NN芸N雪空璧芝芝誉;−冒p・N∽;−ご→p・N00ー・ 軍∽
∽苧−:冒p・−N芸冨0=・−00らp・室ニ¢らp・撃→・Nご→p・−芦NO∽⁚ブNぎ→p﹂軍学→・芦cTp・
撃T・芦cTp・寧の;璧→p・空−態・撃畢軍事∽;誉→p・慧完訳冒−ニソ全集﹄︑大月雷︑軍
義垂克占四︑罪四肇室︑欝五迭四一\〇・四三七︑欝六巻九九⊥〇一・一六七・ニ玉手⊥莞︑第十巻二五八
−九︑窄工巻六丁二・三八五・完二・四六四−五・匹八二︑竿二慧二二三吾妻工言二九・二五四
主・三三五・三五七・五〇四・五〇八・五=卑−六・至二主︑第十五彗○圭一・欝十六彗三ハ・三六七人︑
竿七巻ご竺・㌻七六1七︑竿八竺七二等允彗九七︑竺十三肇一〇八・二三〇︑竺十八彗九一・四八
二︑望十巻三六二三︑彗十二軍三七三畠︑望十二彗四・垂チエ=ハ五・三六八・三木ニ・三七六・四六五︑
第三十⇒巻四七−八︑各ぺー汐︒また︑コ○≒買a宍→冒の用語例としては︑CO⁝eH芦→・ぎ→亨NN㌣軍T・ぎTp・
軍ニ○うp・Nご野→・−−ちp・きこぎ→p・畢→・∽ぎぢ芦邦訳︑第六巻二五三1太一︑第九逸三八六︑竿 巻二五・二〇一︑罪十一巻四六四︑▲第十三巻五五︑讐一十二巻四五九︑各ぺージ︒
︵4︶二5︶ ﹁改展の時代﹂︑CO貞⁝旨→・のら1p・・整−芦邦訳︑璽ハ巻︑五二宕丁圭三ぺージ︒
︵四七こ一一
基礎政策範熔虹ついての覚え轟
︵四七二︶ 一二 第三十三巻 第四骨
︵6︶ ﹁決議案をどう寧いてはならないか﹂︑COヂ一ゴーN−CTp・望T00・邦訳︑第十二巻︑二三四ぺー汐︒以下︑論旨の若干例︒
ヽヽヽヽ ﹁われわれは︑斗争を遂行する.労働者の能力をたかめるような︑すなわら東条件の改善が政治的意識の嬰絡︑警察の後
ヽヽヽヽヽヽ 見︑同一場所への紫綺︑〝慈善家〟′への隷属︑人間的尊厳の辱かしめ︑等々と結びつかないような︑そういう労働者状 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 態の改善のためにだけ斗争する︒専制が.いろいろ息施し物とえせ改革とを代償として︑革命からまぬがれようとする傾向
ヽヽヽヽヽヽヽヽ の強い・︵そしてそういう傾向がますます強くなりつつある︶はかならぬロシアでは︑われわれほあらゆる〝改展主義者″
からはっきりと自分を仕切らなけれぼならない︒われわれもまた改漫のために斗争する︒だが︑まさに〝あらゆるやり方
ヽヽヽ で〟斗争するのではなく︑ただ社会民主主義的なやり方でのみ︑ただ革命的にのみ︑改長のために斗争するのである︒﹂
COヂT.の︸CTp.−島・¢・邦訳︑第六巻︑一六八ぺー汐︒﹁歴史の呉の推進力ほ︑革命的な階級斗争である︒改艮は︑この
斗争の副産物である︒副産物というわけは︑改良は︑この斗争をよわめ︑にぶらせようとする試みが成功しなかったこ
ヽヽヽヽ ⁝:われわれは︑革命的斗争の利益にとって無条件に有利で︑プロレタリアー と︑等々をあらわしているからである︒ バリーチカ ︑︑︑︑ トの自主性と自覚と戦争力を無条件にたかめるような改良のスローガンだけをかかげながら︑自主的な政 策を行う︒
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 上からの改艮を︑害のないものにするのである︒/そればかりではない︒このよう このような戦術によってのみ︑⁚⁝
な戦術紅よってのみ︑われわれは重大な改良を現実に前進きせる︒これほ逆説のよう軋みえる︒だがこの逆説は︑国際社
会民主主義運動の全歴史によって確証されている︒﹂COヂT・ニーCTp・箪邦訳︑男十山巻︑六一1二ぺージ︒
︵7︶ COヂT●丹c↓p・N−ごT・の︶CTp・∽NNい↓・Nの●C→p・芦邦訳︑第四巻二言二︑第六巻三六五︑第二十六巻山〇八︑各ぺージ︒
︵8︶ ﹁ナロードニキ主養の経済学的内容﹂︑COヂT・−﹀CTp・会議●邦訳︑第一巻︑五四〇ぺ一−ジ︒
三
ヽヽ
いったい︑国家の﹁政策﹂を云々するばあいには︑当然ながら国家そのむのの本質把膵が前提となる︒マルクス
の﹃資本論﹄全三巻が︑﹁国家﹂を︑その他の多くの項目とともに捨象した 〝開かれたシステム〟 たるにとどまった
こと︑他面︑かれが﹃経済学批判﹄の序文冒頭や︑とりわけ︑かきのこした草稿﹃経済学批判要綱﹄ の﹁序説﹂お
よび第二ノートにおいて︑完成すべきポリティカル・エコノミⅠの体系のデッサンの基本六項目中に﹁国家﹂をく
︵1︶
ぁえていること︑なおまたこの六項目をエンゲルスやワイデマイヤーへも手紙で知らせていることは︑周知のとお
りである︒残念ながらこのデッサンはあまりにも簡単で︑上向とともに捨象から復位されるべき諸項目の内容がど
ヽヽヽヽヽ んな意味でかんがえられていたのか︑けっしてかならずしもあきらかでなく︑これは﹁国家﹂ − ただし︑ポリテイカ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ>ヽ.ヽヽヽヽ ル・エコノ︑︑︑−が論ずべきものとしての − についてもいえるのだが︑それにしても基本的な若干の見当は︑つけ
られはしないだろうか︒
︵2︶
すなわち︑まずさしあたり﹃要綱﹄の﹁序説﹂の文脈に即してみれば︑﹁生産の各形態は︑それに固有な法的諸
関係︑支配諸形態︑等々を生みだす﹂ものであって︑そのようなものとして国家は存在するのにはかならない︒け
れども︑ブルジョア的に願倒した浅薄で無概念な観念作用が︑﹁有機的に結びついているものを偶然的に相互に関
連させ︑単なる反省関係にさせてしまう﹂結果︑なにか特別の超歴史的な主体であるかのようになって︑いわば客
ヽヽヽヽ
体がえせ主体に転倒し︑﹁司法・警察・等々による所有の保護﹂に任ずるという表象をうけとりながら︑いわゆる
分配にはいりこむものとみなされる1 つまり︑国家は︑その本質においてほたんなる観念的上部構造の中心的一環
なのだから︑本兼はなにも超絶した主体性などはないし︑したがって下部構造にたいしてもーなんら本当k有効な
︵四七三︶ 〟三 基礎政策範疇についての覚え沓
︵四七四︶ 劃四
第三十≒巻 罪四号
作用をするはずもない︒1だいたいマルクスはこうかんがえていたようである︒ただし︑モ﹂で﹁えせ主体﹂と ︵B︶
いう語は聾者の解釈で用いたのだが︑これ一はつぎのような根拠からである︒すなわち︑マルクスは他の機会に︑人
間またはその共同体︵山定形態の家族︑等︶がそのあらゆる生存関係の本来的﹁主体﹂であり︑その生存条件が人間
にとって本来的﹁対象﹂存在であること︑JかL︑労働をつうじて生存条件が人間やその本来的共同体に合体され
ヽヽ111ヽ︑︑ てゆくやいなや︑歴史が生じ︑まず私有財産︑やがて資本といった︑本来の﹁客体﹂が﹁主体﹂にとってかわりノ︑
反対に人間が疎外されてゆくということ︑以上の趣意を基本的にみとめていたとかんがえられるからである︒
号﹂で︑さらにこのことを国家にかんして袈づけるような文脈としてV ﹃ドイツ・イデオロギー︒1︑フォイエ
ルバッハ﹄︵一八由五年肇︶の第二幕のなかの︑つぎの文革があげられよう︒
﹁社会的活動の・固定化︑われわれの手におえず︑われわれの期待にはずれ︑われわれの計算をだいなしにするような︑われ
われを圧する物的強力へわれわれ自身の娃産物が膠着することほ︑従来の歴史発展における主要契機の一つである︒そして︑ はかならぬ特殊利害と共同利害とのこういう矛盾をもとにして︑共同利黎は国家として︑現実の各個の︑また総体の利害から
きりほなされて︑一個独立な姿をとる︒と同時に︑それほ幻想的な共同性として出現するのである︒しかしそのさい︑これほ
つねに︑血肉︑言語︑比較的大規模な分巣︑その他の利害というような︑各家族集団や種族集団のうち.に存在する諸紐籍とい
うこの実在的な基礎のうえにたつのであり︑1とくに︑われわれがあとで展開するように︑分業によってすでに制約されつ
つ︑すべてこの種の人間集団のうらでき㌢はなされ︑そのうちの三が他のすべてを支配する諸階級という実在的な基礎のう
えにたってノいるのである︒とのことから論結され︑ることは︑国家内部のいっさい\の斗争︑すなわち民主制︑貴族制︑君主制の
あいだの斗争遠挙権のための斗争等々ほ︑種々の階級相互間の現実的斗争がおこなわれるさいにとる幻想的な諸形態にはかな
らないということ︵ドイツの慧芸たちは︑われわれが蒜仏年誌−や蒜聖家族しのなかで︑この点匿ついての手引をじゅ
ぅぶんにあたえておいたにもかかわらず︑すこしもわかっていない︶︑さらにまた︑支配にむかって努力しつつあるすべての階
級ほ︑プロレタリアートのばあいでのようにその階級の支配がふるい社会形態全体と支配血般との廃棄の条件となるぼあいに
しても︑自己の利害を同時に劇般的なものとして表現するためには−いずれの階級にしても最初の瞬間にはこのようにせざ
ヽヽ る争えないのである−−1まずもって政治的髄力を傘取しなければならないということ︑これである︒個人はただ各自の特殊な
ヽヽ ものを︑すなわち自分たちにとって自己の共同利害と合致しないものだけをもとめ︑およそ山般的なものは共同性の幻想的な
形態をとるからこそ︑この一般的なもの聴かれらにとって〝外的な″︑かれらから〝独立の〟利害として︑それ自身ふたたび
特殊な︑そして独特な〝一般″利害として主張されるのである︒あるいほまた︑かれら自身が︑民主制のもとでのように︑こ
ぅいう分裂のうちにたがいに敵対しあわなければならない︒だから他方において︑共同の︑あるいほ幻想上共同の諸利害にた ヽヽヽヽ いしてたえず現実的に対立しているところのこれら樽殊利害の実践的な斗争は︑国家としての幻想的な〝一般〟利害による実
践的な干渉と制徹とを︑当然に必要ならしめる︒社会的な力︑すなわちいろいろの個人からなる分業紅よって制約された協働
というものからうまれる倍加された生産力は︑この協働自体が自発的でなくて自然発生的であるために︑これら個人にとって
はかれら自身の結合された力としてあらわれずにかれらのそと紅たつ︑いわば外的な強力としてあらわれるのである︒しかも︑
この強力がどこからきてどこへさるかほかれらの知るとこ・ろでほなく︑したがってかれらほもはやそれを支配することができ
ない︒むしろかえって︑いまやそれは独特な︑人間の恵欲と実行とから独立な︑いな︑なによりさき瞥﹂の意欲と実行とを統
︵4︶
制するような一系列の様相と発展段階とをたどりすすんでゆくのである︒﹂
あるいはすこしルソーめいてもみえ︑初期マルクスの啓蒙家的姿勢が問題だとしても︵四三年には︑まだかれはル
︵5︶ ︵6︶ −ゲへの手紙で︑国家と﹁理性﹂との関係を語っていた︶︑この文章の趣意は︑晩年のエンゲルスが再確認したものだ
った︒この文章や︑またこのころかいた他の諸論文︑たとえば﹃ヘーゲル法哲学批判序説﹄・﹃論説〝プロイセン壬と
社会改革〝への批判的評鼓﹄・扁聖家族二第六軍盲︑三b︶﹄などでしめされた国家仙般および近代国家の本質=
基礎政策範疇についての覚え沓
︵四七五︶ 仙五︵四七六︶一六 第三十三逸−筍四号
︵7︶ 強力規定は︑けっきょくそのまま︑﹁それ自身がひとつの経済的力能﹂として︑ポリテ′ィヵル・エコノ︑︑\−の構想の
なかでの﹁国家﹂の意味にふくまれているとみていいことは︑明白である︒念のため近代国家の本質規定について ヽヽヽヽヽ
の叙述を︑﹃神聖家族﹄から引用しておく︒
ヽヽヽヽ1︑1111111﹀11︑1︑ ﹁われわれは︑近代国家による人嘩の慧簑古代国家紅よる奴隷の承認となんらのちがった意味をももっていないというこ
ヽヽヽヽヽ︑︑︑︑ とを指摘した︒すなわち︑古代国家が奴隷制を自然的基礎としたようた︑近代国家は︑市民社会告然的基礎とし︑そのように ヽヽ︑︑︑︑︑ また︑市民社会の人間を︑すなわち︑独立の︑ただ個人的利害と無意識的な自然的必要との紐帯転よってだけ他の人間と連関
ヽヽヽヽヽ している人間を︑つまり営利労働と自分ならびに他人の利2的欲求との奴隷を︑その自然的基礎としている︒近代国家ほ︑こ
の自然的基礎を︑このまま普孟的な人種として承認した︒しかし︑・近代国家がこれをつくりだしたのではない︒近代国家とい ヽヽヽヽヽヽ うものは︑それみずからの発展にょってふるい政治的紐帯警﹂えておしすすんできた市民社会の所産であったが︑いまや︑こ
の近代的国家は︑それみずから人権彗口誓って自分の白生地と基盤とを承認したのである︒したがって︑茅ヤ人が政治的 ヽ ヽ ヽ ヽ ︵8︶
﹂ に解放されるということと︑ユダヤ人に〝人権〟をあたえるということほ︑相互制約的な行為である︒ だが︑マルクスのポリティカル・言ノミーの構想中の﹁国家﹂に以上のような本質規定がふくまれているとい 111111111︑︑︑︑︑︑︑︑︑
ヽヽヽヽヽ1 うことは︑このはかにはなにもふくまないことを︑意味しない︒いな﹂とくにポリティカル・エコノ︑︑︑−の二項冒として︑あらためて﹁国家﹂が措定される以上︑むしろすでに多くの論作において規定ずみの国家・近代国家の本 ヽヽヽ
貿を前提として︑なにか独自なものがねらわれているはずなのである︒まさにそういう意味関連をこそ︑マルクス
︵9︶ は﹁プルモア社会の総括︒国家そのものにたいする関係からみる︒﹂と表現したのにちがいない︒で竺の表現
は︑どんな意味をあらわしているのだろうか︒
︵1︶エンゲルスあて︑一八五八年四月二日付︑およぴワイデマイヤーあて︑二八宜九年二月言付︒Zur賢tikderpO−itisc訂n
OkOnOmie﹀M.・E.・LJnst●Ausg●−MOS訂uこ曇︸SS・NO∽邑∽・還集﹄︑補巻3︑二四二・二五二ぺージ︒
︵2︶ 参照︑K.Mar舛⁚Grundrisseder只邑ikderpO−itiscbeロ穿OnOmie﹀Di忠NAusg.︸−¢芦SS・り一声−声高木幸二郎監
訳︑閂経済学批判要綱﹄︑大月沓店︑第一分冊︑九−一〇ぺージ︒宇高基軸訳︑﹃経済学批判﹄︑世界古典文庫︑三二七1九
ぺージ︒向坂逸郎訳︑﹃経済学批判空新潮社マル=エソ選集版︑二〇山ぺー汐︒﹃選集﹄︑捕逸3︑二五五−二九二・二九
三ぺー汐︒ただし︑引用訳文ほ筆者において取捨︑以下おなじ︒
︵3︶ ﹃経済学・哲学手稿﹄︵一八四四年筆︶の界三手稿がそれだが︵参照︑﹃選集﹄︑補巻4︑三三〇−・五八ぺー<こ︑フォイエル
.ハッハ的人間主義・﹁主体﹂主義の傾斜のゆえをもってこの論旨を軽視してほならないと筆者ほかんがえる︒次郎註︵10︶
をみよ︒
︵4︶ ﹃選集﹄︑第一巻︑三二−四ぺー汐︒傍点は原訳文のもの︑以下おなじ︒
︵5︶ 同︑補巷4︑二二二−三ぺージ︒
︵6︶エンゲルス︑﹁ルードグィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結﹂︑﹃選集﹄︑鹿十五巻︑四九七ページ参照︒
︵7︶ Das只apita−﹀M.由ト.・1.A宏g.﹀−¢UN︸切d﹂﹀S.遥−.長谷部訳︑背水文膵版︑第四分冊︑山一四四ぺージ︒
︵8︶ ﹃選集h︑補巻5︑三二七−八ぺージ︒
︵9︶ Grundrisse−SS● N00−Pエ高木監訳︑第一分冊︑三〇ページ︒宇高訳︑三六〇ページ︒向坂訳︑ニー九ぺージ︒﹃選集﹄︑
補巻3︑二八八ぺージ︒なお︑Grundrisse︹Heft目︺︶ S.−訝を参照︒
四
周知のようにマルクスは︑﹃経済学批判﹄の序文︵一八五九年︶ の冒頭に︑﹁私はブルジョア経済の体制をつぎ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽ の順序でかんがえる︒ − 資本︑土地所有︑賃労働︑それから国家︑外国貿易︑世界市場︒はじめの三項許のもと
では︑私は近代ブルジョア社会がそれに分裂しているところの三大階級の経済的生活諸条件を研究する︒他の三項
︵1︶
日の関連はおのずからあきらかである︒第一巻は資本をとりあつかう⁝⁚⁝﹂とかいている︒また︑﹃要綱﹄の﹁序
説﹂にしたがえば︑﹁︹ポリティカル・エコノ︑︑\−の︺篇別はあきらかにつぎのようにされるべきである︒1︑仙
︵四七七︶ 叫七 基礎政策範疇についての覚え青
︵四七八︶一八
攣二十三巻 第四号
般的に抽象的な諸規定︒したがってこれは多かれ少なかれすべての社会形態にあてはまる︒ただし︑さきに論じた
意味においてである︒2︑ブルジョア社会の内部編成をつくりあげているところの︑そして基本的諸階級が依存し
ているところの︑諸範疇︒資本・賃労働・土地所有︒それらの相互関係︒都市と農村︒三大社会階級︒それらのあ
いだの交換︒流通︒信用制度︵私的︶︒3︑国家という形態でのブルジョア社会の総括︒国家そのものにをいする関
係からみる︒﹁不生産的﹂諸階級︒租税︒国債︒公信用︒人口︒植民地︒移住︒一4︑生産の国際的関係︒国際分業︒
丁こ 国際交換︒輸出入︒為替相場︒5︑世界市場と恐慌︒﹂ここでしめされているような﹁ブルジョア経済の体制﹂のら
研究︑つまりポリティカル・エコノミー研究の構想がその後も基本的にかわらなかったであろうことほ種々の点か
推定できるが︑もしそうだとすれば︑いわゆる﹃資本論﹄︑全三巻は︑たしかに﹁近代社会の経済的運動法則を暴露 ︵3︶︑︑︑︑︐︑︐︐︑︑
すること﹂を﹁最後の窮極目標﹂としたにせよ︑直接には︑ほだかの資本そのものの即日的運動のメカニズムとそ
︵4︶ ごに内在する諸法則を追求すること ー ﹁資本の一般的分析﹂−−−に問題を限定したわけだった︒したがって︑﹃資
本論﹄の理論構成では︑国家をふくめてここにあげられた仙般諸項目の分析はもちろん︑たとえば競争とか信用と
いった︑いわば資本の運動の対自的側面についての正面からの考察も︑捨象されなくてほならなかったわけであ
る︒農本仙般の運動のメカニズムとその諸法則は︑もちろん資本主義経済の骨格である︒しかし︑資本主義経済会
体の論理次元は︑資本仙般の高度に抽象的な論理次元にくらべて︑ほるかに現実に密接したものでなくてはならな
い︒たんに資本一般の自立的・即自的運動のメカニズムや諸法則だけでなくて︑﹁近代社会の経済的運動法則﹂を
も暴露するためには︑多くの補完が必要なわけだ︒
ついでながらここでただちにでてくることは︑われわれが経済政策とか社会政策といった︑総じて﹁政策﹂とい
う︑一方では﹁主体﹂的には資本どいうよりむしろまず国家そのものに︑他方︑﹁対象﹂的にほ資本および賃労働
とともに土地所有にも︑それぞれすぐれて関連した問題をとりあげようとするほあいには︑﹁資本の一般的分析﹂
ヽヽヽヽ
にかぎられた﹃資本論﹄の論理だけから直接になにかの総括をひきだそうとしても︑それはおそらく無理だという
︵5︶
ことである︒たとえば︑庭会政策の﹁主体﹂を﹁社会的総資本﹂だと簡単にきめてしまうわけには︑いかない︒い
わんや︑政策一般の意味や︑政策の﹁主体﹂としての国家の意味の論定なしに︑﹃資本論﹄だけのタームで社会政
賞の〝本質〟を論ずることは︑できないはずなのである︒おなじ脈絡は︑社会政策論者たちによって社会政策の﹁対
象﹂をめぐり論議されているところの﹁貧困︵化︶問題﹂なるものについても︑あてはまる︒たしかに︑﹃資本論﹄
常山巻第二十三章のいわゆる﹁資本制蓄積の一般的法則﹂は︑資本の直接的生産過程の総合的結果としての︑賃労
ヽヽヽヽヽヽヽ ヽ 働者階級の貧困化の︑資本の側からの抽象的な論理的必然をしめしている・︒それは︑たんに〝疎外された労働″の帰
ヽヽ
絵二般として当然質的な諸側面をふくむというほかりでなく︑狭義では︑その帰結がなによりとくに資本の生産過
程の論理に即して︑つまり価値の盈の相対比例︵可変資本部分の相対的減少︶ という面をとおして︑あらわれ︑そ
︵7︶ ︵¢︶
のことによって賃労働者の生活をみじめにさせるような基本動向をもつということなのである︒資本主義社会の
﹁社会問題﹂としての﹁貧困﹂がこのような基本動向の表面化を中心とするものであることは︑いうまでもない︒
しかし︑資本主義社会が現実にかかえ︑近代国家が処理対象ともするところの﹁社会問題﹂としての﹁貧困﹂は︑
ヽヽヽ
現実の問題であって︑みぎのような基本動向だけがその成立契機のすぺてなのではない︒まず山方では︑賃労働者
自身の側での主体的運動︵階級斗争︶が︑個別に局面を修正する紆ろう︒さらに︑その局面全体が資本象階級や国
家にとっての﹁社会問題﹂としてあらわれ︑社会政策がおこなわれれば︑さきの基本動向を重に修正するだろ
う︒また︑不均等蓄着が︑局面の転嫁をおこすだろう︒他方では︑流通過程での〝二次的搾取″が︑資本主義の進行
ヽヽヽヽ
におうじて強化され︑逆の修正要因として重要となるだろう︒最後に︑土地所有をめぐる諸条件が参加しながら︑
︵四七九︶ 一九 基礎政策範疇についての覚え番
︵四八〇︶ 二〇
第三十三巻 第四号
資本対質労働をめぐる本来の貧困とはべつの意味の貧困が︑周辺的に︑しかし彪大に︑展開すること︵レーニンの
︵8︶ いあゆ.る﹁境界地帯﹂での貧困︶︑資本主義は不断にその周辺を確保するものであること︑も︑けっして無視でき
ない◇ − およそこういった諸事情は︑基本動向そのもの︑つまり﹁資本制蓄積の⁝般的法則﹂︵貧困化︶にとっ宅
は︑その実現の修正緒要因にすぎず︑﹃資本論﹄ ﹁での問題ではない﹂わけである︒﹃資本論﹄の論理構造がこう
いったものであることは︑案外見忘れられがちである︒
ともかく︑マルクスが構想していたポリティカル・エコノミーの体系のなかでの﹁国家﹂のとりあえずの文脈上
の相対位置は︑およそ以上のようなものであるが︑では︑一歩をすすめて︑その国家が﹁ブルジョア社会の総括﹂
という意味を担うのは︑具体的にはどういうことだろうか︒この点については︑﹃資本論﹄の枠を一でて﹁近代社会
の経済的運動法則﹂の解明を完成するために必要な補完作業がどんなものであるべきかについて︑あらかじめ見当
をつけておくことが必要だろう︒にわかな断定はゆるされまいが︑大まかにいってこの補完はお︑そらく二つの局面
をもつものとおもわれる︒その一つは︑マルクスのあげた﹁資本﹂以外の基礎的諸経済範疇項目について︑それぞ
れ独立した規定と分析作業をおこなうということであろう︒もう山つは︑﹁資本﹂以外のこれら諸項目についての
分析を結集して︑ふたたび資本主義そのものの運動法則を検討しなおし︑なんらかの総合的帰結1﹁ブルジョア
経済の体制﹂全体の歴史的動向に批判的見とおしをあたえるという作業であろう︒ここではまず︑第劇の補完作業
の局面に照らして︑﹁国家﹂がどう規定されうるかを︑さぐってみたい︵琴一局面については︑第七節を参照︶︒そのば
あいの諸項目は︑すべてがかならずしも同次元のものではないようである︒すなわち︑大まかにながめてもこの諸
項目は︑闘いわば資本の運動の論理に直接むすびついた︑狭義の経済的諸項目︑たとえば﹁競争﹂・﹁信用﹂・
﹁恐慌﹂・﹁外国貿易﹂・﹁世界市場﹂などのように︑歴史的内容におとらず理論的因果関連の追求の余地をすぐ
れてのこすとかんがえられる諸分野︒闇おそらくすぐれて階級的な力関係をめぐる歴史的および実際的内容を中心
に検討を要するとおもわれる点で独自な下部構造項目としての︑﹁賃労働﹂および﹁土地所有﹂︒㈲ひとり上部構
造項目のはずでありながら︑経済︵下部構造︶にたいしておそらく独自な作用をおよぼし︑その実在によってはじ
めてブルジョア社会そのものの実在を総括こ完成させるがために考察すべきものとしての︑﹁国家﹂︒11以上の
三種に分類できそうである︒ところで︑いま以上の脈絡において︑われわれがさしあたり問いたいのは︑つぎのこ
とである︒すなわち︑マルクスがそのポリティカル・エコノ︑︑︑−の構想において︑下部構造に属する種々の範疇項
目のなかに︑とくにただ仙つ︑﹁乱家﹂という元来上部構造範疇であるはずのものを混ぜた理由が︑﹁プル汐ヨア
社会の総括﹂という国家の独自な役割なり表象によるとして︑このような役割は︑どんな意味で可能か︑というこ
とだ︒この点については︑さきに引用したマルクスの ﹃フォイエルバッハ﹄の文章が︑若干の重安な示唆をあたえ
︵9︶ ているのでほないかとおもわれる︒
すなわち︑常山に︑われわれほすでにそこから︑特殊利害と共同利害との矛盾から共同利害が﹁国家﹂として自
立化し︑外的な強力としてあらわれ︑それが血縁的・地縁的諸紐帯という実在的な基礎のうえに︑﹁幻想的な共同
ヽヽヽヽ
性﹂を獲得するということをたどり︑まさにその意味で国家がえせ主体としてあらわれるとみとめてもいいことを
推定したし︑また︑だからこそ︑国家は特殊利害の実践的斗争にたいする実践的干渉・制御︑つまり︑﹃要綱﹄の
﹁序説﹂のいわゆる﹁司法・警察・等々による所有の保護﹂という任務表象をうけとるものであることを︑跡づけ
たのだった︒国家における︑このよ▲うな︑幻想的な共同性にもとづくところの︑いわば幻想的な主体性の獲得と︑
それにもとづいての︑ブルジョア社会のための任務表象︑したがってまた︑ブルジョア社会全体を秩序づけるため
ヽ
ヽヽ ヽヽ
のものであるかのようにあらわれるところの︑いわゆる国家の機能ないし作用の皮相的普遍性︑1﹁プル汐ヨア
基礎政策詭暗についての覚え書 ︵四八こ 二ユ
︵四八二︶ 二二
第三十三巻 第四号
枚会の総括﹂と咤とりあえずまさにこういった事態を意味するのではないか︒もっとも︑これだけではまだ︑い
わば静態的な﹁総括﹂にすぎないだろう︒
しかし第二に︑マルクスのこの文脈にほ︑もっと積極的な論点がひそかに包含されているようにおもわれる︒そ
してそれは︑おそらくかれの他の叙述にはみられないところの独自な潜在論点でもあるようである︒かれほ﹁共同
ヽヽヽヽ︑︑︑︑ の︑あるいは幻想上共同の諸利害にたいしてたえず現実的に対立しているところのこれら特殊利害の実践的な斗争
ヽヽヽヽ は︑国家としての幻想的な〝一般〟利害による実践的な干渉と制御とを︑当然に必要ならしめる︒﹂とのべている︒ ヽヽヽ つまり︑たとえ共同利害が幻想的であっても︑それと特殊利害との対立は﹁現実的﹂なのであり︑したがってまた︑
特殊利害の﹁実践的な斗争﹂に対抗する﹁実践的な干渉と制御﹂も︑.歴史的過程として実在することになる︒だと
すれば︑﹁国家としての幻想的な〝一般〟利害による実践的な干渉と制御﹂の︑・つまり国家の諸機能の︑弁証法的
な展開が必然的に予想されるはずだ︒このような展開の基礎としての﹁幻想な共同性﹂は︑いつまでもその﹁幻想
的﹂起源側面を指摘されるだけでは︑すまなくなる︒これは︑ちょうど単純商品が交換において他商品と対立しあ
う瞬間に︑﹁価値﹂を担いはじめる過程に似ており︑そのほあい︑マルクスは商品の物神的性格を強調すると同時
に︑﹁価値﹂の幻想性ではなく︑逆にその実休性を強調したのだが︑おなじように︑国家の幻想的共同性は︑共同
利害と特殊利害との二者対抗性にもとづく﹁実践的な干渉と制御﹂という実在的機能の成立の瞬間に︑えせ実体的 ヽヽ なものに転ずると︑いえなくほないだろう︒そうすると︑たんに幻想的であることを超えた意味での︑国家のえせ
ヽ︑1︑︑ 主体性がそこになりたっていることになる︵えせ主体性というのは︑国家が本来的共同体から区別されるかぎり︑
︵用︶ なんら本当の共同体性がそこにないからである︶︒すると︑あたかも﹁価値形態﹂が展開したのと似た意味で︑国家
の﹁実践的な干渉と制御﹂という機能も︑たとえもともと幻想的根拠からあらわれたとしても︑多少とも相対的に
独立して︑歴史的理論的な展開を︑もたなくてはならないことになる︒そして︑﹁プル汐ヨア社会﹂は本来歴史的・
動的過程な︑のだから︑国家もまたその機能の歴史的展防によって︑それに対応しないわけにはいかない︒この動的
過程によって︑はじめて国家が本当に﹁プル汐ヨア社会の総括﹂でありうることになるのではないか︒だが残念な
ことに︑マルクスはこの論点を︑自分でそれと謡ってか識らずか︑暗示しながらも︑その後放置し︑埋没させてし
まったということができよシ︒その結果︑マルクスの主張全体としては︑非機能的国家観というか︑国家機能の静
態的把握が︑周知の国家本質観とむすびついて︑支配せざるをえなくなったといえるだろう︒
︵1︶2ur琴iti⁝erpO−i−isc訂nOkOnOm−2︸M・由・・1・トA宏g・こ強芦S・∽・宇高訳︑一九ぺー汐︒向坂訳︑彗てへー汐︒還
集払︑補巻3︑一ぺー汐︒ついでながら︑一宇高訳が末尾を﹁資本を論じる男山部常芸崩は・⁚⊥としているのほ︑誤訳︒
︵2︶ Grundrisse﹀S.N00−P訳文は前節註︵7︶を参照︒
︵3︶Dasぎpita−.苧E.ナ1.Ausg.こ器N﹀琶.IY SS・T00・長谷部訳︑青木文膵版︑第一分m︑七三ぺー汐︒
︵4︶Das只apita−︸監●−Ⅰ:u S・N声長谷部訳︑背木版︑第九分冊︑三四三ぺージ︒
︵5︶社会政策の主体を﹁社会的総資本﹂とみる通説︵大河内理論︶の難点についてほ︑すでに矢島・大陽寺両教授による有力
な指摘があるが︑総資本の理性が資本の利害の代表者か︑効果か目的か︑といぅかたちで主体規定をあらそうまえ疫︑い
ったい﹁主体﹂とはな乾か︑なぜ﹁政策﹂には﹁主体﹂があるのか︑また︑現実の国家が︑それの総括するブルジョア社
会の三位.一体的構造にたいして︑どんな﹁主体﹂性をもって具体的にあらわれるのか︑といった根本前提を検討すること
が︑ぜひ必要とおもわれる︒参照︑矢島悦太郎︑﹁社会政策の本質忙ついて﹂︑﹃経商論慕﹄︑一九五〇年十二月号︒同︑﹁社
会政策の類型紅ついて﹂︑同誌︑一九五山年十二月骨︒大陽寺順二﹁社会政策の主体と総資本の立場﹂︑ご橋論叢﹄︑一
九五五年七月号︒同︑﹁社会政策本質論争の現段階﹂︑同誌︑山九六〇年十月号︵一橋大学創立八十五周年記念号︶︒
︵四八三︶ 二三
基礎政策範疇についての栄え讃
︵四八四︶ 二四
第三十三巻 第四号
︵6︶現実に賃労働者の生活がみじめになるということは︑せまく解すれば︑価値面をとおして直接的生産過程および流通過程
での労働者個人の二議の被収窄︑ないし過程そのものからの排除が︑その個人の所属する家庭での生活資料の代謝過程に ヽヽヽヽ 反射して︑使用価値調達面を相対的またほ絶対的に萎縮させるという状況山般をいうわけだから︑ぜひとも家庭経済とい
う範疇の媒介が必要である︒主婦労働の問題もこの事態に関連する︒参昭︑拙稿︑﹁価値法則と配分法則−近代家族経
済の意味検討をかねてー﹂︑﹁香川大学経済論叢﹄︑山九六〇年五月号︒
︵7︶ 参照︑拙稿︑﹁貧困化問題の若干論点﹂︑ご橋論叢竺九五七年十二月号︒
︵8︶ヨeH琴CO貞莞H皐→・か︸C→p・巴ふ・邦訳︑第四準二四八ぺー汐︒なお︑貧困問題の体制全体的な理解のために︑
資本・土地所有・賃労働の三者間の関係を略述した文脈として︑Grundrisse−SS・−00デ芦をみよ︒
︵9︶既述のようにこの段階でのマルクスの啓蒙家的傾斜がもちろん注意されなくてほならない︒しかし現代社会の問題をかん
がえるばあい︑たとえば機械化と﹁人間疎外﹂の問題のように︑初期マルクスの発言がかえって重要となることもある︒
︵10︶﹁主体﹂の意味にかんして前節で用いた両経済学・哲学手稿等のマルクスの見解は︑かれのポりエソィヵル・エコノ︑\︑−諸
範疇が〝疎外された労働〟を基礎としていたと解されるかぎり︑これを﹁人間主義﹂的として棄却すべきでなく︑むしろ逆
に︑これを﹁国家﹂についても厳密に適用するのが二買した解釈だとおもわれる︒そこで︑その前提論点を再確恋してお
く︒−およそ︑始原的な意味では︑人間盲たほその共同体︶はぃそのあらゆる生存関係の主体である︒もし︑この生
存条件が︑たんに人間にとって対象的存在にとどまりつづけるなら︑主体軋ほ変化が生じないし︑歴史も生じえない︒歴
ヽヽヽヽ 史は︑生存条件が人間に合体されてゆくことによって︑成立する︒こうして︑まず私有財産が︑労働をつうじて︑人間そ ヽヽ のものに合体されへかくて私有財産が主体となる︒ついで栗本が︑主体となるわけた︒ただし︑この過程とともに︑人間
はたえずますますentfremdenされてゆくことになる︒この矛盾の解決ほ︑主体がan与df賢sicJに人間にかえること
によって︑すなわち︑社会主義社会とともに︑はじめて可能となる︒以上の意味において︑主体はつねに厳密に歴史的な
定在であり︑その若干形態は物神的紅のみ意味をもつ︒−−十筆者はこの︑鹿級社会のもとで展開しうる物神的主体の方
ヽヽヽヾ を︑えせ主体と名づけてみたわけである︒なお︑この点については︑不十分ながら︑前掲拙稿﹁価値法則と配分法則﹂︑お
よぴこれとおなじ題名での経済理論学会第二回大会︵一九六〇年五月二十二日︑於立教大学︶における筆者の報嘗の要旨
︵本誌次号掲載予定︶をみられたい︒ついでながら︑資本の主体化︵人格化︶過程転ついては︑マルクス︑﹃直接的生産過
程の諸結果﹄︵﹃選集﹄︑第九巻︑三七七−九ぺー汐︶参照︒
五
すなわち︑かれはすでに他方において︑そのころ︑国家の機能のうちとくに﹁行政﹂なるものの無意味さを指摘
しょうとつとめた評論を難いていた︒アーノルド・ルーゲの匿名著書への批判として﹃フォルグまルツ﹄にのせた
﹁論説〝プロイセソ壬と社会改革″ への批判的評註﹂ ︵仙八四四年︶が︑それである︒念のため︑その論旨な†瞥し
よちノ︒
この評論で︑かれは﹁国家と社会制度とは︑政治的立場からみれば︑あいことなる二つのものではない︒国家ほ
社会制度である︒国家が社会的弊害をみとめるかぎりで︑国家はこれを人力のおよば薙い自然法則︹人口法則︺ のな
かにもとめるか︑国家から独立した私生活︹貧麗のぁるい心がけ︺のなかにもとめるか︑または国家に依存する行政の
︵1︶ 反目的性︹行政上の偶然またほ故意のいたらなさ︺のなかにもとめるか︑いずれかである﹂ とのぺ︑国家が行政措置によ
って対処しょうとする貧窮状態などの害悪=社会的欠陥の原因が︑じつは国家白身の本質のなかにあること︑しか
も︑国家もその諸政党も︑この事態を看取しえないものであることを指摘し︑市民生活の諸矛盾・非社会性からう
まれる諸結果にたいしては﹁無力が行政の自然法則である︒﹂ ﹁近代国家は︑いやしくもその行政の無力を揚棄し
ヽヽヽ ヽヽ
ようとすれば︑現代の私生活を揚棄しなければなるまい︒﹂ ﹁国家は︑行政の形式上の偶然的欠陥だけを目にいれ
︵四八五︶ 二五 基礎政策範疇についての覚え書