分析哲学における行為論は,ある一冊の本の出版をきっかけにして大きな 展開を遂げた。『インテンション』と題されたその本は,原著にして100頁に も満たない。しかし,この本において示されたいくつもの洞察は,後の研究 に引き継がれ,著者である G. E. M アンスコムは,いまもこの分野において もっとも重要な貢献をなした哲学者の一人に数えられている。彼女の洞察の 中でも,『インテンション』の中核をなしているのは,「人は自分が意図的に していることを,観察によらずに知っている」というものである(Anscombe 2000: 14)
一見したところこの主張は正しい。その証拠に,今何をしているのかと問 われれば,われわれはその問いに即座に答えることが出来る。たとえば,朝 食を作っているのだ,本を読んでいるのだ,駅へと向かっているのだ,といっ た具合である。このとき,われわれは自分が何をしているのか確かめるため に,自分のしていることをまじまじと眺めるわけではない。それゆえ,自分 が何をしているのかを知るために,自分のしていることを一切観察する必要 はないように思われる。この点は他人が何をしているのかを知る場合と比較 すればはっきりするだろう。他人が何をしているのか知るためには,その人 がしていることを観察しなければならないのである。
しかしそのような主張は,いささか軽率なものであるとも思われる。朝食 の目玉焼きを作っているとき,私は目玉焼きの焼け具合を観察している。ま た,滞りなく本の頁を繰るためには,自分の手許を見る必要がある。また,
行為者性と実践的知識
竹 内 聖 一
駅への道筋をたどるにも,道を間違えて見当はずれの方角へ行ってしまわな いよう自分の行き先に視線を向けている。つまり,何かをするとき,われわ れは常に自分のしていることを観察しているのである。それゆえ,自分が何 をしているのか知るためにも,自分のしていることを観察しなければならな いのではないか。
かくして,われわれはより控えめな見解へと後退することになる。つまり,
私が自分の行為について観察によらずに知っているのは,その行為において
「自分が何をするつもりでいるのか」ということ,すなわち意図にかんする知 識に過ぎない。そして,「自分が何をしたことになっているのか」,すなわち 意図的行為についての知識は観察によって得られると考えるべきなのである。
彼女の主張がもっともらしく見えるのは,両者を混同しているからだ―。
この見立ては正しいだろうか? 私にはどうもそのようには思われない。
アンスコムほどの哲学者が,このような単純な間違いを犯すとは思えないの である。とはいえ,彼女の議論の運びはきわめて錯綜したものであり,こう した見立てを誘うのも致し方ないことのように思える。それゆえ,われわれ はまず,『インテンション』という書物の中へと分け入り,錯綜した彼女の議 論を解きほぐしていかなくてはならない。
ではなぜそのような手間をかけてまで,アンスコムの主張の真意を明らか にすべきなのか? それは,人が示す振る舞いのうちで,行為とそうでない ものとの違いは何か,という問いに答えを出すためである。
1 行為の謎
ひとが示す振る舞いのうちで,行為とそうでないものの違いは何か? こ れは行為論と呼ばれる研究領域において中心的な位置を占める問題である。
どのような種類の問題であるかを理解してもらうために,まずは,以下のよ うな朝のエピソードをとりあげよう。
今朝私は,誰かがヴァイオリンを練習する音で起こされた。少しの間 まどろんだ後,私は起き上がり,顔を洗い,ひげを剃り,服を着て,階 段を下りていき,その途中で玄関の明かりを消した。コーヒーを注ぎ,
台所の敷物のへりにつまづいて,『ニューヨーク ・ タイムズ』誌をとろう としてコーヒーをこぼした。(Davidson 1971: 43)
このエピソードをしばらく眺めた上で,私の行為を述べている部分と,そ うでない部分とに分けてみてほしい。おそらく結果は誰がやっても同じだろ う。起こされることや,つまづくことは私の行為ではない。他方,それ以外 の部分はいずれも私の行為を述べている。判断に迷うのは,まどろむことだ ろう。その気になればいつでも起きられるのに,あえてベッドにとどまろう としたのであれば,まどろむことは私の行為であると言いたくなる。他方,
昨晩ひどく夜更かししたために,起き上がるのに相当な努力を要したとすれ ば,まどろむことは私の行為ではなく,ヴァイオリンの音に起こされるのと 同様,単に私の身の上に起こったこと―自然にそうなってしまうことの一 種だと言いたくなるだろう。
どのようなエピソードを提示されても,われわれはそこに描かれているの が人の行為なのか,そうでないのかということを判断できるように思われる。
しかし,なぜそのように判断したのか,と問われて答えられる人は少ないの ではないか。
先に引用した論文において,デイヴィドソンがすでに指摘しているように,
われわれの使っているあらゆる動詞が行為を表現するものだとは限らない。
もしそうだとしたら,「哲郎があくびした」も,哲郎の行為を述べた文だとい うことになってしまう(もちろん,わざとあくびをしたという可能性もある わけだが,話を複雑にしないために,ここではそれは無視しておくことにし よう)。しかし,このあくびが思わず出てしまったものだとしたら,あくびす ることはやはり哲郎の行為とは言えないだろう。つまり哲郎はあくびをした のだが,あくびをしたことは哲郎の行為ではない(!)のである。
そこで,今挙げた事例の「思わず」という部分に注目する人もいるかもし れない。ある人のしたことが行為でないのは,その人がそれをしようとは思っ ていなかった場合である。それならば,ある人のしたことが行為であると言 えるのは,その人がそれをしようと思ってやった場合ではないか,と。しか し,この解答もうまく行かない。冒頭のエピソードの最後の部分に注目して ほしい。そこには「コーヒーをこぼした」とある。通常,コーヒーをこぼす ことは,(思わず出たあくびとは違って)私の行為であると見なされている。
しかし,この場合私はコーヒーをこぼそうと思ってこぼしたわけではないの である(ここでも,わざとこぼしたという可能性は度外視しておくことにし よう)。すると,こうなる。同じように「しようと思ってやったわけでないこ と」に分類される二つの出来事のうち,あくびをすることは行為ではないが,
コーヒーをこぼすことは私の行為なのである。両者を隔てているのはいった い何なのだろうか?
さて,ここまで読んだところで,そもそも何だってそんなことが問題にな るのか,と考える人もいるかもしれない。そこで,これを問題とすべき理由 を述べておくことにしよう。
一つには,日常生活において,われわれが非難されたり責任を追及された りするのは,自分の行為である出来事が原因となって生じた結果についての みだ,ということがある。コーヒーをこぼすという事例について考えてみよ う。もし私がコーヒーを飲んでいるときに,いたずら好きな友人がやってき てその腕を揺すったために,私のカップの中にあったコーヒーがあなたの服 の上に移動したとすれば,非難や責任追及の的となるのは私ではなく,その 友人だろう。しかし,私が新聞をとろうとしてテーブルの上のカップを倒し,
同じことが起きたとすれば,あなたは私を攻撃目標に定めることとなる。他 方,不幸にも急な心臓発作に襲われて,私がコーヒーカップを取り落として しまったためにコーヒーをこぼしたのだとすれば,そこに非難や責任追及の 対象となる人物はいないのである。
このように,ある出来事が私の行為と言えるかどうかということが,その
出来事を原因として生じた出来事に対して,私の責任を追及したり私を非難 してよいかどうかの基準となっている。(1) 従って,われわれがいったいどのよ うな原理に基づいて,ある出来事がある人の行為であると判定しているのか を究明することには十分な意味がある。それはこうした判定が決してわれわ れの気まぐれによるものではないことを示すことにつながる。そしてそうし た原理を明らかにすることで,ある人が自分のしたことについて非難や責任 追及の対象となるのは,その人のしたことが行為である場合に限られるのは なぜなのか,ということを考える手がかりが得られるはずなのである。
そしてもう一つ,もしわれわれのしたことのうちで,行為とそうでないも のの区別が何なのかうまく言えないとしたら,自分たちの行為と,動物がし ていることとの間の区別や,自分たちの行為と自然現象との間の区別もやは りうまくは言えないだろうということが挙げられる。というのも,すでにみ たように,まどろむことやあくびすることは,われわれにとって,自然にそ うなってしまうとしか言いようのないことなのだった。翻ってわれわれは,
動物や台風などの振る舞いはいずれも自然にそうなってしまうものだと考え ている。あくびやまどろむことはそれらと連続的なものであるという見方に 異を唱える人は少ないだろう。もしこうした動きと,われわれが行為に分類 している動きとをうまく区別できないとしたら,結局のところ,動物や台風 の振舞と,我々の行為とをうまく区別することもできないということを認め ざるを得ない。では,人間の行為が,動物や台風などの振る舞いと本質的に 何ら違いはない,というこうした見方は妥当なものと言えるだろうか。これ はわれわれの直観に大いに反することではないだろうか。
これら二つの問題は,実は同じ一つの問題の二つの側面であるとも言える。
動物の振る舞いや自然現象と,われわれの行為との間に何か本質的な違いが あるという直観は,われわれのしたことのうちで,行為と言えるもののみを 非難や責任追及の対象とするというわれわれの姿勢と表裏一体をなすもので ある。いずれの場合にも,われわれは,自然に生じてしまう動きと,自然に 生じたのではないような動きを区別しているからだ。そしてどういうわけだ
かわれわれは,自然に生じたのではない動きには何か特別なところがあると 考えているのである。人が自然に生じたのではない動きをするとき,そのひ とには行為者であるという性質が帰属させられる。以下ではこの性質を行為 者性と呼ぶことにしよう。
では,どのようにしてわれわれは,ある人に行為者性を帰属させているの だろうか。まずは,デイヴィドソンの考えをみてみることにしよう。
2 デイヴィドソンのプログラム
1)行為者性帰属の基準
行為者性の問題に対するデイヴィドソンの解答は,以下のスローガンに集 約されている。それは次のようなものである。
[ある人がある出来事の行為者であると言えるための基準]
ある出来事について,「s は意図的に x した」を真にするような記述 x が存在するとき,s はその出来事の行為者である。(Davidson 1971: 46)
どういうことか。そもそも問題となっていたのは,思わずあくびをするこ とと,うっかりコーヒーをこぼしてしまうことのうちで,なぜ後者のみが行 為とされるのか,ということであった。そこで,この二つの事例に問題のス ローガンを適用してみることにしよう。まずあくびの場合,私が「思わず」
あくびしてしまったのであれば,ここには「私が意図的にやった」と言える ような出来事は何も起きていない。他方,新聞をとろうとしてうっかりコー ヒーをこぼしてしまった場合にはそうではない。この場合「私は意図的に新 聞をとろうとした」と言える。そして,私が手を伸ばしたことは,コーヒー をこぼすことでもあった。(つまり,両者は同じ出来事であった)したがっ て,コーヒーをこぼすことは私の行為と言えるのだ。要するに,私のしたこ とを意図的なものとする記述が少なくとも一つあるときに限り,私がしたこ
とはその他の記述の下でも私の行為であると言える,と彼は主張しているの である。
ここにはいろいろと注意すべき点があるので,少し立ちどまって解説して おくことにしよう。まず,私がすることは,様々な仕方で記述することが可 能であるという点が重要である。例えば私が鼻歌で『リンゴ追分』を歌って いるとして,私がやっていることは「鼻歌を歌う」という記述の下では当然 意図的だろう。しかし,それは「周囲の人の気分を害する」とか「リンゴ追 分を鼻歌で歌う」とか,「音痴であることを他人に知らせる」と記述すること も可能なのである。しかし,それらの記述の下では私のやっていることは意 図的ではないということがありうる。(私は自分のしていることが,そのよう に記述されうるということにすら気づいていないかもしれない)つまり,私 のしたことはある記述の下では意図的だが,別の記述の下ではそうでないと いうことがありうるのだ。(2)
つぎに,それら様々な記述を受ける「わたしのやっていること」というの が,どのような観点から,同じ一つの出来事とされるのかという問題がある。
というのも,われわれは「鼻歌を歌うこと」によって「周囲の人の気分を害 する」という語り方をしばしばするからだ。この場合,前者と後者は因果関 係に立っているように思われ,したがって別々の出来事であると考えるべき ではないかと思われるのである。(3)
この問題に対するデイヴィドソンの解答は次のようなものである。確かに われわれは二つの行為の間に因果関係があるかのような語り方をする。しか し,このような語り方を字義通りに解釈すれば混乱に陥る。なぜなら,その 場合,実際に主張されているのは,「鼻歌を歌う」という行為と「周囲の人の 気分が害される」という出来事の間の因果関係だからである。私が「周囲の 人の気分が害される」という出来事を引き起こすには,「鼻歌を歌う」だけで 十分なのであり,それとは別に私がなすべきこと(すなわち,「周囲の人の気 分を害する」と記述されるような行為)など,何もありはしない。
デイヴィドソンによれば,「周囲の人の気分を害する」というのは,「鼻歌
を歌う」と記述されている行為に与えられた別の記述と考えるべきである。
もちろん,「鼻歌を歌う」という行為が「周囲の人の気分を害する」と記述さ れるためには,実際に「周囲の人の気分が害される」という出来事が生じる のでなくてはならない。そしてそのときには,「私は周囲の人の気分を害し た」と語ることも可能になるだろう。しかしこのことは,私が最初の行為に 加えてもう一つ別の行為をしたということを意味しない。新しく生まれた記 述は,新たに生じた結果に言及して,もとの行為を再記述しているにすぎな いのである。つまり,増えたのは私がなした行為の数ではなく,私のなした 一つの行為に対する記述の数なのだ。
こうした図式を,われわれのなすあらゆる意図的行為に適用してみよう。
すると,暗算するとか,想像するといったような,ごくわずかな例外を除け ば,われわれがなす意図的行為において,結果による再記述の対象となって いるのは,われわれが自分の身体を動かすことと言えるだろう。デイヴィド ソンにならって以下ではこうした行為を原初的行為と呼ぶことにしよう。
(Davidson 1971: 49)たとえば,「鼻歌を歌う」も,「周囲の人の気分を害する こと」も,鼻とのどをある仕方で動かすという私の原初的行為から新たな結 果が生じるたびに,その結果に言及する仕方で私の身体運動を再記述したも のに他ならない。「新聞を取ろうとする」も「コーヒーをこぼす」も,私が腕 をある仕方で動かすという原初的行為を,同様の仕方で再記述したものに他 ならない。つまり,あらゆる意図的行為において,結果による再記述の対象 となっているのは,原初的行為―行為者が自分の身体をある仕方で動かす こと―なのである。かくしてデイヴィドソンは次のように結論する。すな わち,われわれのなしている行為のすべては結局のところ,身体運動である,
と。(Davidson 1971: 59)
さて,以上の議論をふまえた上でなお残されている問題は何だろうか。私 のしたことを意図的なものとする記述があるとき,私のしたことはその他の 記述の下でも行為であるといってよい。すなわち,私がその他の記述におい て言及されている結果をひきおこしたことは,「自然にそうなってしまったこ
と」ではない。なぜわれわれがこのような実践をしているのかということも もちろん興味深い問題なのだが,ここでは別の問題を検討することにしよう。
デイヴィドソンによれば,意図的に行為するときにわれわれがすることとい うのは結局のところ,私の身体運動につきているのだった。では,私の身体 運動が意図的である,すなわち原初的行為と言えるのはどのような場合なの だろうか。デイヴィドソン自身認めているように,この問題を解決しなけれ ば行為者性の問題を解決したことにはならないのである。(Davidson 1971: 55)
そこでわれわれの問題は以下のようになる。あらゆる再記述の対象となる,
そしてそれゆえに,あらゆる行為者性帰属の起点となる身体運動が意図的で あるかどうかは,どのようにして判定されるのか。その基準はいったい何な のかということである。
2)行為の因果説
どのような場合に私の身体運動は意図的と言えるのか。素朴に考えるなら ば,その身体運動をしようという思いがあるならばそれは意図的であるが,
そうでないならば意図的でない,という答えが浮かぶ。1節で見たようにコー ヒーをこぼしたこと自体は私が思わずしたことであったが,それと同じ出来 事である,新聞を取ろうと腕をのばしたことは私がしようと思ったことであ り,意図的であったというわけである。
哲学において,この「しようという思い」は「意志作用」と呼ばれている。
意志作用に訴えて,行為とそうでないものとを区別しようとする考え方によ れば,私の身体的動作が行為であると言えるのは,それが意志作用を原因と している場合に限られる。すなわち,意志作用説によれば,われわれが意図 的に行為するときにはいつでも,われわれはまず意志作用を働かせ,その後 に,その意志作用が原因となって身体運動が生じるということになる。
問題はなぜ意志作用を原因とする振る舞いを行為と見なせるのかというこ とだ。二つの選択肢がある。一つは意志作用自体に能動性があると主張する 道である。しかし,この場合,その能動性を説明するために,ふたたび意志
作用に訴えなければならなくなり,この説明が無限に続くことになる。する と我々は指を少し動かすにも,その前に無限回の意志作用を働かせているこ とになる。これでは説明として妥当とは言えない。これを避けるならばもう 一つの道をとらざるをえない。それは意志作用自体に能動性はない,と主張 する道である。そうすると今度はなぜ能動性のない原因から生じた身体運動 をわれわれの行為と見なすことができるのかをうまく説明できなくなってし まう。意志作用自体には能動性がないと認めることは,意志作用自体は自然 に生じてしまうものだと主張しているのも同然であり,これではそもそも行 為の能動性を説明できなくなってしまうからである。(4)
かくして意志作用説のように行為を因果的に説明しようとする立場はいっ たんは打ち捨てられる。しかし,デイヴィドソンが行為の因果説を唱えて因 果的説明を復活させることになる。(5) 彼によれば,われわれが自他の行為を説 明する際に挙げる理由は,その行為をする際に行為者がもっていた欲求と信 念へと分析することができる。(6) たとえば,ある人物が街角で手を挙げた理由 は,その人のタクシーを止めたいという欲求と,手を上げることはタクシー を止める手段であるという信念へと分析可能である。そして,ある人がこれ らの理由の「ゆえに」手を挙げたと言えるためには,欲求と信念とを原因と して問題の身体運動が生じていなければならないはずだ,と彼は主張するの である(これらの欲求と信念を持っていたが,たまたま道の向こうに友人の 姿を認めたために手を上げた人物のことを考えれば,デイヴィドソンの主張 にもうなずけるものがあるだろう。この場合,この人物は「タクシーを止め たい」という理由の「ゆえに」手を上げたとは言いがたいからである)。
同じ因果説を唱えながら,なぜ行為の因果説では無限後退に陥らずにすむ のだろうか。それは,意志作用が心的な行為であるとされていたのに対し,
欲求と信念はいずれも心的状態であって,行為ではないからだ。かくしてデ イヴィドソンの立場は無限後退に陥ることなしに行為を因果的に説明するこ とができるのである。
以上をふまえるならば,身体運動が意図的かどうかということにかんする
デイヴィドソンの基本的な立場は以下のようなものであると言えるだろう。
すなわち,その身体運動が,その身体運動を説明できる行為者の欲求と信念 とによって引き起こされているとき,その身体運動は意図的であると言え る。
3)因果説の挫折
しかし,行為の因果説は大きな難題に突き当たることになる。それは,逸 脱因果と呼ばれる問題である。この問題を示す事例として二つのタイプの事 例をあげることができる。(7)
[事例1]
ある登山家がロープでもう一人の人を支える重さと危険から逃れたいと 思い,ロープを握る手をゆるめれば重さと危険から逃れることが出来るこ とを知っている。このような信念と欲求が,彼をひどく狼狽させ,彼の手 をゆるめさせてしまう。
[事例2]
ある男が遺産を相続したいがために自分の叔父を殺したいと思っている。
彼は叔父が家にいると信じており,家へと車で向かう。叔父を殺したいと いう欲求は彼を興奮させ,彼の運転は乱暴になる。家への途上,彼は歩行 者をひき殺す。そしてその歩行者は偶然にも彼の叔父であった。
これらのいずれの事例においても,行為者の欲求と信念が行為者の身体運 動を引き起こしている。すなわち,行為者の身体運動は,行為者の心的状態 によって因果的に説明することが出来る。ところが,行為者の心的状態は,
行為者のしたことの理由にはなっていない。第一の事例で考えてみよう。こ の場合,この登山家自身に尋ねてみても,事情を聞いた周囲の人々に尋ねて みても,登山家が意図的に何かをなしたということは否定されるだろう。そ
してデイヴィドソンによる行為の基準に照らすならば,ある出来事を意図的 なものとする記述が何もない場合,その出来事が行為と見なされることはな いのであった。
すなわち,因果説の指定する原因によって生じた身体運動であれば,何で あれ行為であるというわけではないのである。これは,因果説による行為者 性の特徴づけがうまく行っていないことを意味している。ある人のなしたこ とを合理化「できる」特定の心的状態が,その人の身体運動を因果的に引き 起こしてもいるとき,それらの心的状態がその人のしたことを実際に合理化
「している」とは限らない。それゆえ,行為者の信念と欲求を原因として生じ た身体運動は意図的であるという定式化では不十分なのである。
しかし,考えてみるとこれは奇妙である。というのも,われわれにしてみ ればこの事例に出てくる振る舞いが行為ではない,あるいは当人が意図的に したことではない,というのはあまりにも明白なことであるように思われる からだ。それなのに,なぜ因果説を採用したとたんに,その明白な事柄を主 張できなくなってしまうのだろうか。
ただし,ここで公正を期すために以下の点を強調しておくべきだろう。行 為の因果説を唱えた際のデイヴィドソンの目的はあくまでも,行為の説明は 因果的説明でもなければならないということを指摘することにあった。つま り,行為の因果説そのものは,行為者性の分析として提出されたものではな いのである。それゆえ,行為者性の分析として不十分であるというかどで,
行為の因果説を批判するのはある意味で不適切であると言わねばならない。
ただし,行為の因果説が行為の説明として妥当なものであるためには,行為 の因果説の枠内で行為者性の分析を与えなければならないというのもまた事 実である。つまり,行為者性の分析は行為の因果説の当初の課題ではなかっ たのだが,最終的な課題ではある。それゆえ,行為の因果説をどのように拡 張すれば,行為者性の分析を与えることができるのかを問うこと自体は決し て不適切なことではないと思われる。
3 フランクファートの診断
フランクファートによれば,行為の因果説のこのような失敗は,あらかじ め定められたものである。彼は次のように指摘する。(Frankfurt 1988: 69-71)
行為の因果説は,その考察の対象である行為という出来事が生じているとき に行為が示す性質には注目せず,行為の因果的前史,すなわち,何が行為者 の身体運動を引き起こしたのかということにのみ注目する。そのため,因果 説には,行為とされる出来事と単なる出来事との間には,それ自体でみるな らばいかなる違いも存在しないという主張が含意されている,と彼は指摘す る。違いは,あくまでもこれら二つのものを引き起こす因果過程に求められ るべきなのである。しかし,もしこのように想定するとすれば,逸脱因果の ような反例が際限なく生じることになる。なぜなら,行為の原因が満たすべ き要件をいかに精密に定式化しようとも,それらの原因が行為者の身体運動 を引き起こした後に生じる例外的な出来事を排除することはできないからで ある。では,フランクファートは行為と単なる出来事の間にはどのような違 いがあると考えているのか。彼は以下のように述べている。そして,これこ そが行為の因果説に欠けている要素だと指摘するのである。
ある人物が行為を遂行しているとき,彼は,必ずある仕方で自分の身 体運動と接点を持っている。他方,もしその身体運動を彼が生じさせて いるのではないとすれば,彼はそのような仕方では自分の身体運動と接 点を持ってはいないのである。(Frankfurt 1988: 71)
フランクファートが行為者と身体運動の関わりを重要視する理由は,それ が,行為者による自らの身体のコントロールを解明する手がかりとなってい るからである。上に挙げた逸脱因果の事例が「逸脱」となるのは,いずれの 事例においても行為者の身体運動が行為者のコントロール下にないからであ る。そしてこの,行為者による自らの身体のコントロールは,因果説が指摘
するように欲求と信念だけを考慮に入れておけば解明できるようなものでは ない。なぜなら,そのようなコントロールは,行為が開始される前に生じる のではなく,行為が開始され終了するまでの間を通じて生じるものだからで ある。
ここで,デイヴィドソンが原初的行為を身体運動と位置づけていたことを 思い出していただきたい。逸脱因果がわれわれにとって問題であるようにみ えるのは,人が意図的に行為している場合と,逸脱因果によって身体運動が 生じている場合とを見比べるとき,この両者において,身体運動自体は同一 であると,われわれが暗黙のうちに仮定しているからではないか。つまり,
同じ原因から同じ結果が生じているにもかかわらず,一方は意図的行為であ り,他方はそうでないという想定が逸脱因果の問題の前提となっているので ある。だからこそ,デイヴィドソンは原因と結果を結びつけている因果経路 に注目し,意図的行為が生じるには「適切な因果経路」を通じて身体運動が 引き起こされるのでなければならない,と主張したのだろう。(Davidson 1973:
79)
しかし,私の見立てでは,同じ原因から同じ結果が生じているという前提 そのものが疑わしい。というのも,登山家が思わず手を緩めるときと,意図 的に手を緩めるときとでは,両者の身体運動そのものが異なっていると考え られるからだ。なるほど,いずれの身体運動も,「手を緩める」と記述するこ とは可能だろう。しかし,記述が同じでも,出来事のタイプまでが同じであ るとは限らない。この程度の粗い記述であれば,複数のタイプの出来事に当 てはまってしまうのではないか。
さて,もう私の言いたいことはお分かりだろう。意図的に手を緩めた登山 家は自分の手の動きをコントロールしていたと言いうる。他方,自分の思い の恐ろしさに狼狽して手を緩めてしまった登山家の方はそうではない。この 場合,手の動きは登山家のコントロールの下にはなかったと言うべきだろう。
それゆえ,フランクファート同様に私も,逸脱因果の問題からの脱出口は,
行為が開始される地点ではなく,行為がまさに行われている最中に起きてい
ることに注目することであると主張したい。すなわち,信念と欲求の組がど のようにして身体運動を引き起こしたのかということではなく,信念と欲求 が身体運動を引き起こした後に,身体運動がどのようにコントロールされる のかということに注目するのである。
4 実践的知識の果たす役割
さて,ようやく冒頭で紹介したアンスコムの主張が,目下考察している問 題にどう絡んでくるのかを論じる準備が整った。
『インテンション』においてアンスコムは,意図的行為を特徴づける際にデ イヴィドソンとは全く異なるやり方を採用している。デイヴィドソンが意図 的行為の原因に注目して特徴づけを行ったのに対し,アンスコムはまさに意 図的行為が遂行されている最中に起きていることに注目して特徴づけを行っ たのである。それは既に述べたように,意図的行為をしている際,われわれ は自分が何をしているのかを観察によらずに知っているというものであった。
そして彼女はその知識を実践的知識(8)と名付けたのである(Anscombe 2000:
13-15; 49-57)。
先ほどの逸脱因果の事例を振り返ってみることにしよう。第一の事例にお いて,もし登山家が意図的に手を緩めたのであれば,そのとき登山家は自分 が何をしているのか観察によらずに知るだろう。他方,自分の思いの恐ろし さにおののいて手が緩んでしまったのであれば,そのことを登山家が知るの は,まさに自分のしたことを観察することによってである。(9) この事例では微 妙すぎて納得できないという人には,さらに事例2を試してみてもらいたい。
アンスコムの基準によれば,道を歩いていた叔父をひき殺すことが意図的で なかったと言えるのは,この男が叔父をひき殺したことを知るのは,自分が ひき殺した人物が叔父であることを観察してはじめて知るからなのである。
私のみるところ,先に紹介した議論においてフランクファートが言及して いる,行為者とその身体運動の接点の役割を果たしているのは,アンスコム
の言う実践的知識である。自分のしていることが何であるかを知っているこ とが,行為する上でどのような意味を持っているかは明らかだろう。そのよ うな知識をもつことによってはじめて,自分の身体運動や,それをとりまく 周囲の環境が,行為者に対してある意味を持つようになる。すなわち,行為 者にとって,それらは自分の行為に対する目標や障害といった意味を持つよ うになるのである。そしてそれにより,行為者は自分の身体運動や自分の手 にした道具,あるいは自分の周辺の環境に対して,適切な対応をとることが 可能となる。
登山家の事例について考えてみよう。もし彼が仲間をなんとかして引き上 げようとしているならば,仲間の身体が安定する場所へと移動することが重 要となるだろう。周囲を見回す彼の視線はそうした場所を探そうとするはず である。また,仲間と自分をつなぐローブがほつれていたり,金具が緩みか けていたとすれば,彼の目にはそれらは目的達成を阻む障害と映るだろう。
他方,もし彼が仲間を自分から切り離して自分だけ助かろうとしているなら ばどうか。彼はむしろ,切り離しがスムーズに行きそうな場所を探そうとす るだろう。また,通常ならばロープや金具の問題点と見えるものも,今の彼 にとっては障害とはならず,むしろ好都合と映るだろう。つまり,実践的知 識を通じて,環境を一定の意味をもったものとして眺めることは,行為者が 自らの身体運動を含む周囲の環境と相互作用するために必要不可欠な要素な のである。そして,そうした適切な相互作用こそ,行為者が自らの身体をコ ントロールしているということに他ならないと私は考える。(10)
こうした行為者と環境との相互作用は,さきに逸脱因果の事例として挙げ た事例1と2のいずれにおいても見いだされないものである。事例1に登場 する登山家をみてみよう。この登山家はまさに自分の手が緩んでいくのをた だ呆然と眺めていただけである。このとき「呆然と眺めていた」という表現 に実質を与えるのは,登山家が自分と仲間を切り離すことを確実なものとす るために自分の身体運動をいっさい調整しなかったという事実なのである。
また,事例2に登場するドライバーはどうか。この場合,このドライバーは
周囲の環境と相互作用していないわけではない。だが,彼にとって,歩行者 をひき殺すことは自分の目的を達成するために不可欠の事柄と見なされてい るわけではない。それゆえ,かりに歩行者が車をかわしたとしても,ドライ バーは,わざわざ引き返してひき殺そうとはしなかっただろうと想定するこ とができる。
いずれのケースにおいても,信念と欲求が原因となって生じた身体運動は,
ある重要な点において,その身体運動が意図的になされた場合とは異なるも のであったと言える。意図的になされた身体運動の場合には,かりに環境が 異なっていたら身体運動にも何らかの違いが生じていただろうと言える。こ れに対し,単に信念と欲求が原因となって生じた身体運動の場合には,そう した想定はできない。そして,このような反事実的想定が成り立たないがゆ えに,たとえ同じ記述を受ける「ロープから手を離す」という身体運動であっ ても,一方は意図的になされたものであり,それゆえに行為であるとされ,
他方は意図的ではなく,それゆえに行為でもないとされるのである。
アンスコム自身は意図的行為の基準としてどのようなものを挙げていたか。
それは次のようなものである。
[アンスコムの提案する意図的行為の基準]
意図的行為とは,ある意味で用いられる「なぜ」という問いが受け入 れられるような行為である(Anscombe 2000: 9)
この基準を理解するには,「なぜ」という問いが受け入れられない場合がど のようなものかを知る必要がある。この基準を提案する際にアンスコムが想 定している「なぜ」という問いとはたとえば,「なぜあなたはホースを踏みつ けているのか」というような問いのことである。このとき,行為にはある特 定の記述が既に与えられているということが重要である。
アンスコムによれば,この問いが受け入れられない典型的な状況とは,相 手が「私は自分がそういう振舞をしていることを知らなかった」と応じる場
合のことである。(Anscombe 2000: 11)この解答は行為者が自分のしている ことをその記述のもとでは知らなかったということを示す。残念ながら,ア ンスコム自身はこの解答がなぜ「なぜ」という問いを拒否しうるのか,その 理由を明らかにしてはいない。しかし,私の見るところではその理由は以下 のようなものであると思われる。
この場合,行為者はたとえ自分の足からホースが引き抜かれたとしても,
それに抵抗することはないだろう。そもそも行為者は自分がホースを踏んで いることすら知らないからである。つまり,行為者はホースを踏みつけると いう記述の下では自らの身体運動を調整してはいなかったのだ。この点と,
これまでに述べてきたことを合わせると以下のように結論することができよ う。すなわち,行為者がある記述のもとで自分が何をしているかを知らなかっ たということは,行為者が,行為がその記述のもとで目指しているものを実 現すべく,自らの身体運動を調整してはいなかったということを示唆してい る。それゆえ,行為者が,「自分がそういう振舞をしていることを知らなかっ た」と応じた時点で,われわれは「なぜ」という問いを撤回するのである。
調整されていなかったという点で,行為者の振舞は逸脱因果の事例同様,少 なくともその記述のもとでは,何らかの理由によって合理化されるものでは ないと考えられるからだ。
しばしば指摘されるように,デイヴィドソンとアンスコムは,行為の因果 説と反因果説という二つの陣営の代表者と見なされてきた。この見方は決し て間違いではないだろう。現にアンスコムは『インテンション』の至るとこ ろで,行為を因果的にとらえようとする立場に異を唱えている。したがって 両者の対立点の一つは,行為の説明とはどのようなものであるべきかという 点にある。それは確かである。しかし,両者は,行為者性をどのように特徴 づけるのかという点でも対立している。デイヴィドソンは身体運動の原因に のみ注目する。他方,アンスコムは身体運動がどのように進行したのかとい うことに注目するのである。アンスコムの実践的知識の概念は,こうした対 立軸の中においてみたときに,もっともその意義をみてとりやすい。という
のも,実践的知識とは行為者が自らの身体運動を調整する上で大きな役割を 果たす知識だからである。
しかし,実践的知識をめぐるアンスコムの主張はさまざまな謎に包まれて いる。そもそもわれわれは自分のしていることをあますところなく,観察に よらずに知っていると言えるだろうか。それは不可能ではないだろうか。(す でに指摘したように,目を閉じて自分のやりたいことをやり遂げることがで きるかどうかを考えてみれば,アンスコムの主張の途方もなさを直ちに理解 できるだろう)また,実践的知識自体は,なぜ観察によらずに得られたもの でなければならないのか。たとえ観察によって得られたものであっても,調 整に役立てることはできるのではないだろうか。他にも,アンスコムの議論 を丁寧に追いかけてゆくと,その先にはあからさまな矛盾と思われるものが 次々に出てくる。これらを整合的に読み解くことはできるのだろうか。こう した問題については,また別の機会に検討することとしたい。
註
1) ある結果についての責任追及や非難の対象と,その結果を生み出した行為の 主体とは必ずしも一致するわけではない。たとえば,ある人物が行ったことに ついて,その人物の監督者(たとえばその人物の上司)もまた責任を問われる というケースがある。この場合,監督者はその結果を生み出した行為に全く寄 与していないとしても,その責任を問われるのである。これはある人物が組織 の一員として行為した場合によく見られることである。とはいえ,ある人物が 個人の資格で行ったことについては,行為主体と,責任追及や非難の対象とは 一致することが多いだろう。それゆえ本稿では,個人の資格で行われた行為に 考察の対象を限定する。
2) はじめにこの点を指摘したのはアンスコムである。以下を見よ。Anscombe 2000: pp.11-12; Anscombe 1979.
3) これは一般に「行為の個別化」と呼ばれる問題である。デイヴィドソンとア ンスコムはこの点に関して同じ立場を取っている。すなわち,「哲郎はφするこ とによってψした」と我々が語るとき,哲郎はφとψの二つの行為をしたと見 なすのではなく,哲郎のなした一つの行為に対してφとψの二つの記述が可能
であるに過ぎないと見なすのである。これに対し,同様のケースにおいて哲郎 は二つの行為をしていると主張するのは,ダントーやゴールドマンである。
(Danto 1965; Goldman 1970)さらに,それらのどちらとも異なる立場として ファインバーグの見解を挙げることができる。ファインバーグの見解に照らせ ば,φすることはその部分としてψすることを含んでいるということになる。
(Feinberg 1965)
4) 意志作用に対するこうした批判は,ライルに由来するものである。以下を見 よ。Ryle 1949: 62-82.
5) デイヴィドソンの行為の因果説については,以下の論文を見よ。Davidson 1963. またその解説としては,以下の文献の3章が優れている。Evnine 1991.
6) ここでは,欲求も信念も日常的な言葉遣いとは異なる仕方で使われているこ とに注意されたい。通常,欲求というと,どうしてもそれをしたいという切実 な気持ちを指すことが多いが,ここで言う欲求とはそれほど強い思いである必 要はない。積年の願いだけでなく,一瞬の出来心も同じように欲求に分類され るのである。
また,信念は「信条」のように絶対に譲ることのできない思いをさすことが 多いが,ここで言う信念とは「当人が正しいと考えている事柄」のすべてを指 している。たとえば,「オーストラリアの首都はメルボルンである」と発言し て,それは間違いだと指摘されてすぐにその発言を撤回する人も,撤回するま では「オーストラリアの首都はメルボルンである」という信念を持っていたと 言いうるのである。
7) 事例1はデイヴィドソン自らが取り上げているものである。(Davidson 1973)
事例2はチザムのものである。(Chisholm 1966)
8) 実践的知識はしばしば「技能知」(know-how)の別名として使われる。しか し,アンスコムはそのような使い方はしていない。紙幅の都合上,両者の違い をここで十分に説明し尽くすことはできないが,どう違うのかをある程度明示 しておくことは有益だろう。技能知とは,自転車の乗り方とか,水泳の仕方に 代表されるような知識である。通常,知識と言われて思い浮かぶ「日本の首都 は東京である」とか,「江戸時代は200年あまり続いた」といった知識(これら は事実知と呼ばれる)とは異なり,技能知を言語であますところなく表現する ことはできない。自転車の乗り方をどのように細かく述べたとしても,その記 述をすり抜けてしまう部分があるのだ。
さて,私の見るところ,実践的知識とは,特定の目的を持ち特定の状況にお かれた主体にとって最善の選択肢となる行為とは何かを示す知識のことである。
たとえば,目的地に行くのに,電車に乗っていくと乗り換えが多くなって時間 がかかるという場合に,「自転車で行くのがよい」と判断する主体は実践的知識 の持ち主であると言える。この意味での実践的知識と技能知とが異なる種類の 知識であることは明らかだろう。まず第一に実践的知識は技能知とは異なり,
言語であますところなく表現することが可能である。第二に,実践的知識とは,
技能知を活用することのできるレベルにまで,自分のすべきことを細分化する 知識である。つまり,実践的知識とはどのような技能知を活用すべきかをわれ われに指し示す知識なのである。
9) ここには微妙な問題がある。それは自分の手が緩んでいくこと自体は,それ が意図的であるかどうかにかかわらず,当人には直接知られるのではないか,
という問題である。この疑問に対しては,もう一つ別の事例を挙げることで両 者の違いを際立たせておくことで答えたい。私が自分自身で字を書いていると き,私は意図的に手を緩める登山家と同じ仕方で自分の手の動きを知ると言え る。他方,誰かが私の手をつかんで字を書いているとき,私は,おののきによっ て手が緩んでしまった登山家と同じ仕方で自分の手の動きを知るのである。
10) この点は野矢が意図概念を分析する上で提示した「行為の可能な障害と調整 の物語」というアイデアに依拠している。以下を見よ。野矢 2010: 34-50.
文 献
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(2012年12月21日受理,2013年12月28日採択)