言語の不安
一 ソシュールとデリダー
片 山 洋之介
デリダは1963年に出された『力と意味』(『エクリチュールと差異』に所収)
の中で,構造主義の発想を言語の不安に関連づけている。彼によれば,現代,
「言語についての不安一それは言語の不安であり,言語そのものの内での不 安でしかありえない一というただならぬ動き」(ED. p.9)があらゆる領域に 広がっており,構造主義の発想もこの動きの内にとり愚かれているのである。
デリダは構造主義にこと寄せているが,彼の脱構築という発想自体,この言 語の不安という問題状況をぬきにしては考えられない。それがどのような事態 なのか,デリダ自身そう明確に語っているわけではない。本稿のテーマはそれ をできる限り明確にして一あるいは,明確に語れる事柄ではないということ を明確にして一問題を引き出すところにある。方法として,言語の不安とい う事態をソシュールの『一般言語学講義』にぶつけて解釈し,そこから,デリ ダがどういう一歩を進めているのかを考えてみたいと思う。
「力と意味』ではソシュールは全くとりあげられていない。ここではジャン・
ルッセの『形式と意味,コルネイユからクローデルに至る文学構造への試論』
という書物がとりあげられ,「言語のもとで,この書物の作業と最良の成果の もとで,我々読者の不安と著者自身の不安とが一致するような,そうした重い 不安をあばき出す」(ED. p.14)ことが試みられている。だが1967年の『グラ マトロジーについて』の第一部においては,デリダはソシュールへの批判を通 じてエクリチュール論を展開した。ここでは冒頭で言語の不安ともいうべき時 代の状況が描かれている。意味によって縁取られていた言語がその「縁取りの 消滅」d6bordementによって危機に瀕し,みずからの限界としてのエクリチュ 一ルに出会う。デリダはその有様を展開する中で,「特権的な範例としてソシュ 一ルの企てとテキストに接近する」(Gr. p.44)のである。
本稿では,まずデリダのいう言語の不安とはどのような事態かを素描し(1),
それを念頭に置きつつ『一般言語学講義』の解釈を試みる(2×3)。そこで改めて ソシュールとの関係でデリダのエクリチュールという概念を問題にしたい(4×5)。
言語の不安は言語の限界へ,「根源の不在」という問題に導かれるだろう。そ こで,「他の形而上学」ともいうべきものが展望されることになるだろう。大 きなことを言えば,いわゆる構造主義からポスト構造主義への展開の一面をこ うしたテーマで問題にすることにより,その中で「実存主義的」な問題を甦ら せてみたいと思う。それも,デリダが強い影響を受けたニーチェ,ハイデガー のものというより,彼がほとんど評価しないサルトルの実存主義である。最後 の点は展望としてしか述べられないが,私自身はサルトルの思想は「主体性の 哲学」とか「人間主義」として片づけられるものだとは考えていない。ここで 言語の不安というテーマを取り上げたのも,その思い込みからである。
1
セ語の不安とはどのような事態なのか。『グラマトロジーについて』の冒頭 の部分を援用しつつ,『力と意味』に即して,その諸相をとり出しておこう。
「言語についての不安inqui6titude sur langageは,言語の不安であり,
言語そのものの内での不安inqui6titude du langage et dans le langage lui一 m6meでしかありえない」とデリダは言う。(本稿ではまとめて「言語の不安」
とよぶことにするが)これが「ただならぬ動き」だとは,どういう射程の中で 問題にされているのだろうか。
(i)言語の不安とは,主体の意識状態というような狭いものではない。そ れは世界が奥行を失い,平板化することの不安である。言語を生き生きと活動 させる意味が力を失い,言語が肥大化することの不安である。もしも我々が
「語り尽せぬ」豊かな世界に生きているとするならば,言語は意味に縁取られ, , これを表現にもたらす役割を任うだろう。メルロ=ポンティも言うように,我々
が言語を語る営みの中で常に新しい意味が開かれるであろう。しかし世界が奥 . 行を失い,意味を生む力を持たぬとき,意味から解放された言語はまさに言語
として,そのようなものとして力をふるうのである。こうした状況をデリダは
「言語のインフレーション」と表現している。
「言語の問題は,そのタイトルのもとで何が考えられようと,疑いもなく,
他の諸問題と並ぶような一つの問題などでは決してなかった。しかし現代にお けるほど,その意図や方法やイデオロギーにおいて極めて多様な探究,極めて
異質な言述の世界的地平に,言語の問題がそのようなものとしてcomme tel 侵入してきたようなことはかつてなかった。〈言語〉という語の価値低下自体 が,そのことを証ししている。言語という語が信用貸しされることによって語 彙がたるみ,力を失っていくこと、骨を折らずに人を誘惑しようとし,人は流 行に受動的に身をまかせていること。前衛の意識,即ち無知。一こうしたすべ てが,そのことを証ししている。このく言語》という記号のインフレーション は,記号そのもののインフレーションであり,絶対的なインフレーションであ り,インフレーションそのものである」(Gr. p.15)。
言語が生活や知識のすべての領域に広がっていくのは,まさに言語の価値低 下に対応するものである。常に新しいキャッチ・フレーズが求められ,言葉で 人を動かそうとし,また人が動かされるということは,それだけ言葉が重みを 失ったということだ。言語という語のインフレーションー通貨が多くなりすぎ て価値が低下するということ。のちに見るようにソシュールも言語の「価値」
を通貨の価値になぞらえているが,そのように言語が通貨に比較されること自 体,言葉という記号の任う価値が薄っぺらになったということだろう。それ自 体は二次的なものであるはずの交換価値が,つまり「何かの」記号が,何かを 離れて一人歩きしてしまう。このように言語が軽くなるとは,生そのものが軽 くなっていることを示している。言語のインフレーション(価値低下)は価値 低下そのものである。言語の意味内容に重きがおかれなくなるということは,
我々の生きる世界そのものが意味の奥行を失いつつあることだ。逆に言えば,
生自体が単なる記号となるような自体が生まれているからこそ,言語の問題が 生のあらゆる領域に侵入してこざるをえないのである。
言語についての不安は人間という主体が意識するものだとしても,意味喪失 という状況は主体が意識して作り出したわけでもないし,変えうるものでない。
この不安は世界の不安であり,言語自身の不安である。言語の不安がどこから 発してどこに向うのか,デリダは言語自身の運動として語ろうとする。
(ii) 昨今,書物から作者の思想とか作品の内容(言いたいこと)を引き出 そうとする伝統的な批評は古臭くなり,作品が自立したものと考えられるよう になった。デリダ自身「テキスト外なるものは存在しない」(Gr. p.227)と言 う。そこではもっぱら作品の形式がとりあげられる。あるいは具体的な内容も 形式にとりこまれ,作品の全体を「構造」として見出そうとする試みが成され ている。デリダによれば,こうしたことが起こってきたのも,意味とか内容が
創造的な力を失って中和化された結果,構造の輪郭がよりはっきりと現れてき たからだ。デリダはそこに我々の時代の「弱さの力」(ED. p.12)を見ている。
しかしそれはやはり力の衰退であり,何かを欠いているという意識ではあるに は違いない。構造とは「いわば廃嘘と化した町の,骨組みだけになった建築物 のようだ。この町にはもはや意味や文化は住んでいない。でも見捨てられたわ けではなく,町はそれらにつきまとわれている」(ED. p.13)。言語はもはや 意味に安らぐことはできなくなっているが,意味の退潮後の単なる形式に安ら ぐこともできないのである。では構造に欠けており,これにつきまとっている
「意味」とはどういうものだろうか。それはもはや形式の中にとりこまれてし まうような内容ではない。むしろ形式そのものを生成させ,方向づける何らか の力と考えられる。
生物学や言語学,また文学の領域においても,構造主義は,そのつどの形態 を,それに固有の仕方で一貫性と完結性を持つ全体としてとらえようとした。
その場合,テロス(目標,終末)とか理念的な規範に照らして対象を把握する ような形而上学を拒否し,理念型に包括できぬものを偶然の列に追いやるよう なことは極力避けようとしたのである。社会から逸脱しているかにみえる病理 現象も構造として組織化されているのであり,良き全体を崩壊させるものとみ なされてはならない(ED.p.44)。 そこにこそ構造主義的な発想の意義がある のだが,しかしこうした方法を実際に貫くことは困難である。全体としての構 造をとらえるためには,やはり,何らかのテロスを想定せざるをえないのでは ないか。諸意味は全体の中ではじめて意味を持つとすれば,そのためには,全 体がテロスへの予想のもとに生気を与えられていなければなるまい。構造主義
はこれをできるだけ避けようとしながら,暗黙の内にテロスの支配に服するし かなかった。デリダはルッセの著作を通じて「あらゆる構造主義に含まれてい る暗黙の形而上学」(ED. p.41)を明るみに出そうとする。(これについては のちにソシュールに即して問題にしよう。)構造主義は,テロスに服従するま いという願望と,その願望が実現できないという事実のあいだで生きているの である。
(iii) この両義性は,生成と構造の関係として見ることもできよう。具体的 な内容は全体的な構造の内に位置づけられてはじめて意味を持つ。しかしこの 位置づける全体そのものが,構造主義が無規定なままに残しておこうとするテ ロスによって意味づけられているのだとすれば,構造は閉じたものではなく,
生成へと開かれていることになる。そこで構造は生成の「力」と一体化しよう とさえする。つまり力をも形式化して形を与え,「意味の意味」(ED. p.45)一 個々のものを意味づける全体を意味づける意味一を把握しようとするのであ る。だが力を形態化することは,生成をも閉じさせる危険をおかすことになろ う。「意味を理解する行為そのものの中で意味が隠れてしまう。生成の構造を,
力の形態を理解(包括)compredreすることは,意味を獲得することにおいて 意味を失うことである」(ED. p.44)。
力について語ることはできないし,力の意味を問うことができない。語られ,
意味づけられるものは現象していなければならないが,力は現象を意味づける ものなのだから。力について語り,力を形態化して理解することはこれを見失 うことである。敢えてこれについて語ろうとするならば,「自分の外に出て自 分の根源を語ることは言語にはできないという,言語の無力を目指すべきな のだ。力とは,それなくしては言語が言語でありえないような 言語の他 1 autre du langageなのである」(ED. p.45)。言語の不安は,それ自身に導 かれて言語の限界にまで至らざるをえないのだ。言語は「自分の限界が消滅す るかにみえるまさにそのときに,つまり自分を超えているかにみえた無限の所 記(語り尽せぬ意味)に含み込まれ縁取られることによって自分に安らうこと をやめるまさにそのときに,自分自身の有限性に送り返されたと感じている。」
(Gr. P.15)
以上,デリダに即して言語の不安の諸相を取り出してみた。要約すると,
(i)言語の不安は,言語を縁取る意味内容から解き放たれ,言語がまさに 言語として世界を蔽うという状況を示していた。そこで(ii)言語自身の形式 が,言語の外にあるとみえた意味内容をもとりこむようになる。しかしこれも 不安の深まりを示しており,内容をとりこんだ形式としての構造の中において
も,言語は安らうことができない。(iii)形式を形式たらしめている力が暗黙 に想定され,言語はそれについて語ろうとするのである。しかしそれは言語を して言語たらしめているものである以上,言語の他であり,これについて語る ことはできない。言語は自分自身の限界に出会わざるをえない。
もちろんデリダ自身はこんな段階を追っているわけではないが,意味から解 放されて自立し,不安に陥った言語が「言語の他」としての意味を求めざるを えないという,一種の弁証法が展開されているとも読める。言語の他としての
力(意味の意味)が,あたかもヘーゲルの「精神」のように,言語の不安(疎 外)の中で現れ始めているかのようだ。何らかのテロスを持った運動が現代,
構造主義の広がりという形をとって現れてきたかのように語られるのである。
しかしその運動は「言語の他」へと向う以上,ヘーゲル的な弁証法一一他者を 概念の内にとりこむ歴史一の破壊に至らざるをえない。実際,デリダは言語 の不安の内に,時代の不安以上のものを見ている。一「現代における,言語 の前での,あるいは言語の中での我々の境地は,単に歴史の諸契機というよう なものではない。それはむしろ歴史の根源としての言語による驚きなのだ。歴 史性そのものによる驚き」(ED. p.10)。
言語の不安が「歴史の根源としての言語の驚き」だとすれば,言語の限界は 世界の限界であるのみならず,歴史の限界ということになろう。歴史の根源と いうものがあるとすれば,それは歴史がテロスに至って見えてくるものだろう。
デリダはそこに位置して言語の不安を語っているのだろうか。そうであるとも,
そうではないとも言える。たとえば『声と現象』(1967)の終り近くで,彼は 次のように言う。「現前の形而上学の内部においては…歴史の終末finとして ではないとしても,その囲いcl6tureとしての絶対知が存在することを,我々 は端的に信ずる。我々は文字どおりに信ずる。こうした囲いが起こったことを 信ずる」(VP. p.ll5)。一現代における言語の不安というただならぬ動きは
「現前の形而上学の支配してきた歴史が囲われた」という射程の中で問題にさ れているのである。だが「囲い」は「終末」と同じではない。『ポジション』
と題された対話(1971)では次のように語られている。「私が発表した最初の 諸テキスト以来,私が脱構築的な批判を組織立てようと試みたのは,超越論的 所記としての,テロスとしての意味の権威に対抗してである。言いかえれば,
最終的には意味の歴史として規定される歴史,ロゴス中心的,形而上学的に…
表象される歴史の権威に対抗してである」(Pos. p.67)。一一とすれば,たと えこれまでの歴史の対抗するにせよ,その歴史が終末に達したと語ることは,
それもまたテロスの支配に服することになるだろう。
彼は「テロスへの不服従」という構造主義の願望を共有する。しかし構造主 義もまた暗黙の内にテロスを求めざるをえなかった。言語の不安の深まりの内 にも構造主義の暗黙の形而上学を見出したテリダは「テロスへの不服従という 願望が不可能である」という認識に至る。だから「解放されることを実際に試 みるのではない。解放されることは我々の歴史を忘れることだから。そうでは
なく,解放されることを夢見るのだ」(ED. p.46)。といった言い方も出てくる のだろう。テロスを求める現前の形而上学は,決してテロスに達することはな い。テロスとしての意味は破壊されるべきだが,しかしそれは決して破壊され ないこと,我々の世界に常につきまとっていることを認めねばならない。この ことを認めなければ破壊することもできないとデリダは言う。
こうした微妙な,袋小路に入りかねないような問題に,我々はどう近づけば いいのだろうか。西洋の歴史全体を形而上学として閉じさせるデリダの思想を ヘーゲル,ニーチェ,ハイデガーとの関連で問題にすることもできるし,ユダ ヤ的な終末論の伝統として思想史的に問題にすることもできよう。そうした射 程はどうしても念頭におかざるをえないのだが,西洋の歴史全体を問題化する
ことなど私にはできないし,やろうとも思わない。むしろ,デリダが言語の不 安を通じて語る「言語の他」ないし「他jという概念が,我々にとって(おそ らく西洋以上に)問題であるように思われる。言語の不安が,「外」にして外 ならざる「他」を我々の世界に現前させるのだとすれば,それはどのような事 態か。歴史の外に出ることなく歴史を囲うデリダの脱構築にも,この「他」と いう概念から近づくことができると思うのである。
一だが先走りすぎた。一つの作業として,まずソシュールをとりあげ,そ こから改めてデリダに戻ることにしよう。
2
w一般言語学講義』(以下『講義』と略す。)はソシュール自身の手になるも のではなく,彼の死後,弟子たちによって整理編集されて出版された(1915)
ものである。そのようなところから「原資料」が発掘され,ソシュール自身の 思想に迫っていこうとする試みが成されている。こうした企てはもちろん意義 のあることではあるが,『講義』というテキスト自体が自立して現代思想に波 及していった以上,この波及の広がりを考慮せざるをえないであろう。デリダ は『グラマトロジーについて』において次のように言う。「我々が関心を持つ のはソシュールその人の思想そのものではなく,一つのテキストである。そこ に書かれたことは…1915年以来,衆知の役割を演じてきた。『一般言語学講義』
というタイトルのもとで人が読み取り得たもの一また同時に人が読み取り得 なかったもの一が我々にとって重要なのであり,ソシュールの隠されたく真 の〉意図などは排除したのである」(Gr. p.107)。
こうしたテキスト論自体「デリダその人の思想そのもの」だと言い返すこと もできようが,しかし「ソシュール」という固有名詞も現代の問題の中で問わ れる事柄であることは,その通りだと思う。前節で見たように,デリダは『力 と意味』で構造主義の言語の不安という問題の中でとらえた。ここではソシュー ルには言及されていないが,言語が主題になるのだとすれば当然構造主義の原 型としての『講義』が問題になるだろう。ソシュールのもたらす「観方の転換」
が言語の不安という問題にかかわっているのかどうか,我々なりに考えてみよ う。テキストを引用しつつ,問題点を列挙する形で進めていきたい。
(a) 「ラングの地盤に身を置く」ことについて一ソシュールは言語現象が 多面的であることを指摘し,「どんな側面から問題に接近しても,言語学の十 全な対象はどこにも提示されない」(p.24>と言うが,直ちにその「唯一の解 決策」を示している。すなわち「何よりもまず,ラング(言語構造)の地盤に 身をおき,これをランガージュ(言語)の他のあらゆる現われの規範とすべき なのである」(p.25)。しかしこの解決策は問題をいっそう鮮明にしたというべ きだろう。「ラングは,ランガーシュの本質的だが特定の一部分にすぎない」
にもかかわらず,なぜラングの地盤に身を置くことによって,渾然としたラン ガージュの内に「自然な秩序を導入することになる」(p.25)のだろうか。
これについてはラングとパロール(語り)の問題として論議されてきた。た しかにソシュールはランガージュをラングとパロールとに区別し,「そのいず れかをまず選ばなければならなかった」(p.138,139)と言っている。パロール は「意志と知能による個人的行為」であり,一方ラングは「パロールの実践に よって同じ共同体に属する主体に沈澱した財宝であり,各人の脳,より正確に は個人の総体の諸脳のうちに潜在的に存在する文法体系」である (p.30)。ソ シュールはくまず〉受動的,潜在的な社会システムとして言語をとらえようと した。構造主義の原型がソシュールに求められるのも,第一にこの点において である。
しかしやはり落ち着かないものが残る。果して「ラングかパロールか」とい う問題だったのだろうか。そうだとすればソシュールを「社会学主義」ときめ つけることもできるし,パロールの復権をソシュールから引き出すこともでき よう。実際,ソシュールは言語現象の多面性を認めているし,パロールを無視 したわけではなかった。〈主体か構造か〉という問題は,実存主義と構造主義
またマルクス主義の解釈ともからんで一時期さかんに論議されたが,両者は二 者択一ではなく,循環であることをまず認めねばならないだろう。主体の実践 としてのパロールなくしてラングはなく,すでに形成された制約としてのラン グがなければパロールはありえない。そのことを承知の上でソシュールがラン グの地盤に身を置いたのだすれば,そこにはどういう要因があったのだろうか。
(b)記号の定義について一「言語記号が結ぶのはものと名前ではなく,概 念と聴覚現象である」(p.98)。「言語記号は二面性を持った心的実在体entit6 である。…この規定は重要な用語問題を提起する。我々は記号signeを,概念
と聴覚映像の結合とよぶ。しかし通常の用語法では,記号という用語は,一般 に聴覚映像だけを指す。…我々は記号という語を全体を指すためにとっておき,
概念と聴覚映像をそれぞれ所記signifi6,能記signifiantとよぶことを提唱す る」(p.99)。一この「用語問題」はどういう事態を示しているのだろうか。
通常の用語法では概念が「意味」と考えられ,言語記号はそれを表示する音 節とされるが,そうなると「語以前に存在する既成概念を想定する」(p.97)
ことになってしまう。それに対しソシュールは概念に所記という名前を与え,
能記(感覚される音節)と分ちがたく結びつくものとした。所記を意味とよぶ としても,それは能記を離れてはありえず,両者の結びつきが記号とされるの である。ものであれ概念であれ,記号以前に存在する意味などありえないとい うソシュールの発想は,現在広く受け入れられている。我々の外部にも内部に も「なまの自然」というものは存在せず,我々はすでに言語化された世界,記 号の世界に生きているのである。
だが,事態がそのようであるとしても,この記号概念はわかりにくく,混乱 を引き起こす。彼自身も,たとえば「ラングは諸観念を表現する諸記号の体系 である」(p。33)などと,自分の定義に反するかのような言い方をせざるをえ ない。記号という以上,それはやはり「何かの記号」でなければならないので ある。ソシュールの定義に従うと「何か」は記号の内に含まれてしまうが,そ れはもはや「記号」とは言えないだろう。記号の意味は記号の外に実体として 存在するのではないにしても,記号それ自体に内在するものではないのだ。そ の事態を示すために,彼は「価値」という概念を導入することになるだろう。
ソシュールの「用語問題」は,記号一意味という概念そのものを問題化するの である。能記一所記という用語を使えばそれで済むというような事柄ではない。
(c)言語記号の恣意性について一「能記と所記とを結ぶ絆は恣意的arbit一
raireである。あるいは…より簡単に言語記号は恣意的であるということがで きる」(p.100)。ここで 恣意的 とは,自由勝手ということでなく, 動機が ない immotv6(p.101)ということ。また 偶然的 fortuit(p.121)とも 言われている。能記と所記(たとえば猫という概念とネーコという音節〉とは 分ちがたく結びついているが,そのように表示されねばならぬという理由はど こにもない。一この「恣意性」の原理はどのような広がりを持っているのだ
ろうか。
ソシュールは「記号の恣意性という原理はだれによっても反駁されない」
(p.100)と言うが,そんなことはない。プラトン以来,現代においても大いに 問題にされている事柄である。(バンヴェニスト,ヤコブソン,メルロ=ボン ティなど。)ソシュールは恣意性の原理から多くの帰結を引き出すが,その帰 結を通じて,彼がなぜ言語記号の恣意性を第一原理としたのか,その動機を問 いたくなる。
もう少し『講義」からの引用を続けよう。一「象徴(たとえば鳩一平和)
は,その性格上,全く恣意性ではない。…そこでは,能記と所記とのあいだに 自然的な絆の残津がある」(p.101),「あらゆる言語的革新に対する集団的惰性 の抵抗。ラングは,すべての社会制度の内で,自発的な決定にまかされること が最も少ない制度である。それは社会大衆の生と一体を成す」(p.107),「記号 の恣意性そのものが,それを変えようとするすべての試みから守る」(p.106)。
言語は「自然的」でもないし「人為的」でもないとソシュールは言うのであ る。社会が自然な生を土台にするものなのか,あるいは契約によって成り立つ のかと問うことは,社会が現にこのように存在することの「理由」を求めるこ とであろう。その場合,純粋な自然状態と原始契約を想定する社会契約説のよ うに,何らかのフィクションが求められるだろう。それは我々に一種の落ち着 きを与えてくれる。社会とか権力の根拠が示され,それゆえに社会を変革する 理由も示されるのである。しかしソシュールは言語記号の恣意性を強調するこ
とによって,一切のフィクションを拒否しているように思われる。言語は自然 な生を土台にするものではないし,人間の自発的な意志によって形成されたも のでもない。つまり我々がその内で生きている言語のシステムが現にこのよう であるということの理由はなく,「集団的惰性」というしかないのである。理 由もなく存在するゆえに変える理由もない。変わりはするが人間の意志によっ て変え得るものではない。言語のシステムは恣意的であるゆえに強制的である。
言語は根拠なきシステムであり,理由なき強制として我々を包んでいる。
ソシュールが記号の恣意性ということで我々に語りかけるのは,何かやりきれ ぬ,我々の無力である。恣意性という概念からは自由の可能性も引き出せるは ずだが,『講義』からはそのニュアンスは引き出せない。(b)の記号の定義が恣 意性と結びつくとき,この定義は重いものになる。能記一所記は分ちがたく結 びついており,その全体が記号とされたのだが,その結びつきには何の理由も ない。つまり記号は意味によって賦活されるものとは考えてはおらず,それゆ えに記号の外部にも内部にも意味が存在しないかのような定義が与えられてい るのであろう。記号は意味から解き放たれた。しかしこのことは,言語の理由 なき強制力がのしかかることである。ソシュールの記号論には,いわば「軽さ ゆえの重苦しさ」という状況が表現されている。
この言語のあり方は,社会生活の全域へと広げられていく。ソシュールが記 号という概念を言語記号以外の領域に広げるとき,「記号」は一層わけのわか
らないものになるがそれには触れない。彼は「社会的生のさなかでの記号的生 を研究する学」を構想し,言語学はこの記号学の一部門だとした。記号学はま た,より広い社会心理学の一部門だとされている(p.33)。そうなると言語く 記号く社会という序列が立てられているようにみえるが,彼自身は逆に,言語
の特殊な構造を,社会的生の全体へと敷街しようとするのである。
「恣意性という性格こそ,言語を他のすべての社会制度から根本的に引き離 すものである」(p.110),「言語はたとえ特殊な体系にすぎないとしても,言語 学は全記号学の規範型となり得る」(p.101),「記号学が組織され,全く自然的 な記号に基づく表現様式を受け入れると仮定しても,その主要な対象はやはり 記号の恣意性に基づく体系の総体であろう」(p.100),「ひとは,言語を他の諸 制度に結びつけるような特徴,つまり多かれ少なかれ我々の意志に依存するよ
うな特徴しか考慮していない。その結果,特殊に言語に属し一般に記号体系に 属する性格を見落して,目的からそれてしまう。なぜなら記号はある程度常に 個人ないし社会の意志を逃れるものであり,そこにこそ記号の本質があるのだ から。…この性格は言語においてのみよく現れるのだが,ひとが研究すること の最も少ないものの内に示されているのだ」(p.34)。
先の(a)「ラングの地盤に身を置く」ということも,こうした言語の特殊性と 規範性との関連で考えられるのではないだろうか。つまり,「ランガージュの 中でのラングの位置」は「シーニュの中でのラングの位置」ないし「社会生活
の中でのラングの位置」に重ね合わされていると考えられるのである。
言語は社会生活のさまざまな様態の一つにすぎない。しかし「個人ないし社 会の意志を逃れる」言語が記号そのものの本質とされ,この記号的生が社会的 生のさなかに置かれている。言語記号の恣意性は言語に特殊でありながら,社 会生活の基調を成すとされている。これは論理的に納得できることではない。
ここには「言語の問題が世界のすべてに広がっていく状況」〔前節の(i)〕が 表現されていると考えられないだろうか。それは言語の外延の広がりとともに
その内実が空虚になっていく状況であった。社会が絶えず新しい意味を生み出 す活力を持っているならば,言語の実践はそうした意味を表現にもたらす活動 となろう。しかし社会が活力を失い,人々の忙しげな動きも惰性の力に呑みこ まれていくとき,言語もまた多弁の広がりの中で力を失っていくのである。言 語の創造力よりも言語構造の強制力が支配し,それが社会全体の基調となって いく。パロールとラングは理論的には循環であるとしても,実践が構造の惰性 の重さに呑み込まれていくような状況の中では,ラングの地盤に身を置かざる をえないのである。
記号の定義にせよ,記号の恣意性にせよ,また「ラングの地盤に身を置く」
にせよ,意味ありげな世界に素朴に生きている人の口からは出てこない発想だ と思う。社会生活の全域に広がる「言語の不安」の影が,矛盾に満ちた『講義』
の言説を蔽っているようにみえる。このことは,ソシュールが価値ないし差異 の概念を見出す手続きの内に,微妙だがより鮮明に示されている。節を改めて それを見ていくことにしよう。
3
id)意味,価値,差異について一「価値valeurと意味significationとは 同義語か? 我々はそうは思わない」(p.158)。通常の用語法では,記号によっ て表示されている内容が意味とよばれる。しかし前節(b)で見たような,ソシュ 一ルの記号の定義から導かれることは,記号の意味は記号の外に実体として存 在するのではなく,また記号それ自体に内在するものではないということであっ
た。では意味はどこに見出されるのか。それは他の記号との関係においてであ る。だが関係の中での位置として規定されるものはもはや意味とはよばれ難く、
「価値」という言葉に置き換えられる。
ソシュールは価値には二つの要因が必要だとし,言語を貨幣になぞらえてい
る(p.159−160)。たとえば百円玉の価値は,異質な何か(キャラメルー箱)
と交換され,かつ同質のもの(十円玉)と比較されることによって定まる。
(そうすっきりしないが)貨幣価値のあり方を示すのは後者である。同様に記 号において,ある能記がある所記に対応するのは,他の語と比較されることに
よってだというわけである。彼はまた,たびたびチェスの駒を引き合いに出す。
駒の一つ一つはそのつど局面において,他の駒との関係で全体の中で機能する。
こうしたアナロジーによって彼は,記号の意味と呼ばれているもの(能記と所 記との結びつき)は,実はシステムの中で,他の記号との「差異」diff6rence
によって定まるのだということを示そうとしている。
「我々は,予め与えられた諸観念にではなく,システムから生まれる諸価値 に出会う。諸価値は諸概念に対応すると言うとしても,諸概念は純粋に差異的 であり,それらの内容によって積極的にではなく,シテスムの他の諸項との関 係によって否定的に規定されるのだということを,我々は暗に了解している。
それらの最も正確な性格とは 他のものがそれでないところのものである d 6tre ce que les autres ne sont pasということである」(p.162),「ラング の内には,積極的辞項のない差異しかない」(p.166)。
記号という概念そのものが,差異を前提にして初めて可能なのである。記号 はその相対的な位置一他のものとの差異 によって働き,価値を持つ。記 号による了解が可能なのも,我々がすでに分節された差異のシステムの内に生
きているからなのだ。「意味」という言葉にはどうしても一つ一つの記号が積 極的に任う内容というニュアンスがつきまとうので,ソシュールはこの言葉を 避けた。デリダはさらに踏みこんで記号という概念そのものの破壊を目指すこ
とになろう。
〈個よりもシステムが先立つ〉〈実体から関係へ〉〈意味から差異へ〉とい う発想は現代思想に幅広い影響を与えた。この発想はソシュールだけのもので はない。さまざまな哲学者,科学者によって,近代の世界像を根本から転換さ せるほどのものとして語られている。〈個〉それ自体が自立して存在するわけ ではなく,また意味のあるく全体〉が予め与えられているわけでもない。世界 は関係の網目,差異の戯れとしてのシステムとみなされねばならぬ。こうした 観方は,現代哲学において今や当然のこととみなされている感がある。
しかしながら,これを当然の常識と考えるのはまたドクサであろう。これら の発想は世界をとらえる通常の観方を転換するのだが,通常の用語法には一理
もないのだろうか。ソシュールに即して言えば,言語が「積極的辞項のない差 異しかない」という事態を,彼は「言語に対する驚き」を通じて見出したこと が想い起されねばなるまい。彼自身そう安んじて価値とか差異を語っているわ けではないのである。以上では彼の方法の帰結を述べたのだが,遡って差異が 見出される過程を追ってみよう。
(e)単位と価値について。ソシュールの驚き。一「単位unit6の根本的重 要性にもかかわらず,価値の側から問題に接近することが望ましい。我々にとっ ては,それが原初的な様相だから」(p.154)とソシュールは言う。一言語に おいて,なぜ価値が原初なのだろうか。ここでの「我々」とはどんな人なの
か。
ソシュールは共時言語学を展開するにあたって,その「困難」を指摘するこ とから始めている(p.142)。彼はまず言語を要素の集合と考えようとし,要素 となるべき単位を求めようとする。単位となるべき実在体entit6があるとす れば,聞かれた音の連鎖が区切られ,その個々の区切りが常に同じ概念を表し ているのでなければならない。ところが実際に言語を考察すると,こうした実 在体はどこにも見出せないのである。ソシュールは具体的な実例をあげ,区切 られた同一の能記が常に同一の所記とが結びつくとは限らないことを(または その逆も)示す。日本語の例で言えば,「手をはなして」と「面白いことを塾 なして」とは音は同じだが概念が違う。「みかづき」と「まん.胞」とは概念 は同じだが音が違う。一日本語で考えることは問題があるかもしれないが,
forceとかmoisとかの語を例としてソシュールが言おうとしていることは,
これ以上のこととは思えない。
我々(凡人)には,こうしたことがそんなに奇異とは感じられぬ。同音異義 や異音同義があるのは別に困ったことではなく,それらは文脈の中でそのつど 識別される。ひとは現実にコミュニケーションを行っており,その中で一つ一 つの言葉は有意味となり,ニュアンスを持つのである。だがこの当然の事実に 対し,ソシュールは驚きを表明する。
「言語は奇妙な驚くべき性格を示す。言語はまず初めには知覚され得る実在 体を提供しない。にもかかわらず,それらが実在していること,それらの戯れ が言語を構成していることを疑うことができない。疑いもなくそこに,他のす べての記号学的制度から言語を区別する一特徴がある」(p,149),「たしかに語
る主体sujets parlantsはこれらの困難iを認識していない。彼らにとっては意
味あるものはすべてどんな程度であれ具体的な要素として現われ,それを会話 の中で間違いなく分別する。しかし諸単位の素早い微妙な戯れを感じとること と,方法的分析によってこれを説明することは別のことなのだ」(p.148)。
そこでソシュールの方法的分析は,通常は自明とみえている「同一性」iden一 tit6へと向う。言語の同一性は実体としての同一性ではなく,形式としての同 一性(他との関係で定まる同一性)だと彼は言う。すなわち能記と所記が結び ついて有意味な記号となっているのは,語る主体がその記号を他の記号と素早 く戯れさせ,関係づけているからなのだ。だから一つ一つの記号をそれ自体と して主題化して単位を見出そうとしても,見出すことができないである。
そこから(d)で見た価値,差異が導かれることは容易に理解できる。我々
(凡人)にとっては,彼の理論の帰結を理解するよりも,この理論の出発点と なっている驚きを了解することの方がむずかしい。なぜ言語が驚くべきものと して見えるのだろうか。
まず言えることは,「価値が原初」となるのは,すでにひとが住みついてい る言語の世界から身を引き,その世界を方法的に記述しようとする一一種の 現象学的還元を行使する一ような「我々」にとってだということ。そして,
この「我々」たる言語学者ソシュールは,「単位が原初であるはずである」と いう強い要請を持っていること。語る主体はすでに言語を実践してしまってい るから,何が原初かというような問題は起らないが,彼らにとっては個々の記 号の一つ一つが有意味であり,それらの要素を戯れさせてコミュニケーション を行っているかにみえる。ソシュール自身,科学としての言語学を構想すると き,この実践的経験に応ずるかのように,まず「言語には単位がなくてはなら ぬ」という要請から出発する。(時枝誠記氏『国語学概論』のようなソシュー ル理解は,理由がないわけではない。)
もし単位が見出されるならそれにこしたことはないだろう。観念と音とが結 びついて意味を形成しているような要素単位があるとすれば,それらの配置を 研究することによって,言語は合理的に説明されることになる。それは言語の 実践にも適合しているように思われるのだ。しかし言語はその要請に応じてく れない。ソシュールは言語の単位は知覚されないという困難に直面する。「常 に同一の」能記一所記の結びつきは言語の内には見出されない。にもかかわら ず,そんな困難など知らぬげに,語る主体は一連の音を分節させて自由にコミュ ニケーションを行っている。ソシュールはその事実に驚き,「分節が発生する
現場」へと導かれるのである。
語る主体はすでに意味の中に生きているが,ソシュールは意味について語ろ うとした。だが意味を任う単位を見出そうとするとき,意味そのものが消え失 せてしまう。「ラングは,はじめに区切られた諸記号の集まりとしては提示さ れない。もしそのように提示されるならば,諸々の意味とその配置を研究すれ ば十分だろう。だが実際は,ラングは不分明な塊une masse indistincteなの である」(p.146)。一「ラングは不分明な塊」という表現は戸惑いを与える。
「ラングの地盤に身を置く」というとき,それは否応なく我々がそこに投げこ まれている,すでに形成された潜在的システムとされていた。しかしここでは そのシステムの発生が問題にされている。ソシュールは,無意味な塊からラン グが発生する現場に居合わせる。「観念の物質化があるわけでもないし,音の 精神化があるわけでもない。〈観念一音〉が分節を伴い,二つの不定形の塊の あいだにラングが構成されて諸単位を生み出すという,いわば神秘的な事実が 問題なのだ」(p.156)。分節が生ずるのは観念によってでも音によってでもな い。ただ不分明な塊の内に分節化(差異化)が起ったという事実があるばかり であり,この分節化によって観念と音とが結びつくのである。ラングが「積極 的辞項のない差異」という様相を呈するのは,分節を生み出しているかのよう にみえる実質(観念とか音)を消去し,「分節化が起った」という事実をその ままに,一つの神秘としてとらえる目に対してである。
いわばソシュールは,言語を合理的に説明しようとする要請に導かれて,言 語発生時の非合理な事実を観るに至ったかのように思われる。「人間にとって 自然なものとは,語られるランガージュ(分節化に適した声音装置)ではなく,
ラング,すなわち分明な諸観念に対応する諸記号のシステムを構成する能力で ある」(p.26)とソシュールが言うとき,(これは「人間の自然は生理的なもの にではなく社会的なものの内に求められる」ことを言おうとしているのだが)
そこには同時に,カオスの内に差異をもたらす人間の能カーしかも人間はこ れをごく自然に行っていること一への驚きが伴っているように思われる。本 稿では取り上げることができないが,メルロ=ポンティがパロールにおける
「表現の神秘」を語るのもこうした場面においてである。無意味の地の中での 意味の発生一それはメルロ;ポンティがサルトルの影響を受けつつ問い続け
たものであった。
(f)価値,差異と恣意性。起源の問題。一「(能記と所記との絆が)恣意
的でないならば,価値の概念はその性格の何ものかを失うであろう」(p.157),
「恣意的と差異的とは二つの相関する性質である」(p.163)一一この関係につ いては,これまで述べたことから明らかであろう。ある記号における能記と所 記との絆は恣意的であり,有意味な結びつきではないとされるからこそ,記号 の「意味」(能記と所記との結びつき)がその記号自体にではなく,他の記号 との差異に求められたのである。逆に,そうだとすれば,差異,すなわち区切 りの与えられ方も恣意的である。差異のシステムはすでに与えられており,ラ ングは我々にとって自然のごとくであるとしても,そのあり方にはやはり理由 がないのだ。
以上のような,ソシュールが差異を見出す過程そのものが「言語の不安」と 言い得るものではないだろうか。一言語の内に意味を任う単位を求めて見出 せず,無意味のカオスに直面する。そこでカオスの中に差異が生れるという神 秘的な事実に居合わせる。言語はそこで,意味内容を任うというより,「他と の関係」としての形式においてとらえられる。いやむしろ,内容自体が形式に よって生み出されるものとされている。この形式も何かの力によって生かされ ているわけではなく,無意味の地を背景に生れたとしか言いようのないもので ある。一これはデリダが構造主義における言語の不安として語っていたこと であった。〔第一節の(ii)〕
ではそこで,この形式としての差異を生みだす力〔デリダが「言語の限界」
として語っていたもの(iii)〕が問題にならないだろうか。それは言語の起源 の問題にかかわってくる。ソシュールは言語への驚きを通じて,分節(差異)
が発生する現場へと導かれた。そこまで行けば,不分明なカオスの中からどう して差異が生れたのかと問いたくなろう。だが彼は神秘的な事実と言うのみで,
「どうして」という問いは拒否する。恣意性(動機なし)という概念は,この 拒否の表明とも読める。「どうして分節が生れたか」というのは言語の起源へ の問いである。これは結局のところ形而上学的な問題だ。天地創成の神話が
「カオスからの分化」として語られ,古代の形而上学はそれを背景に持つこと が思い出される。人間が言葉を持つとは,それ自体として無差別な塊の内に,
分節化された世界を現出させることだ。言語の起源への問いは世界の起源への 問いに重なるのである。これについては,ソシュールは問わない。
「実際,いかなる社会も,先立つ世代から相続し,そのままに受けとるべき 所産として以外にはラングを識らないし,これまで識ったことがない。それゆ
えに,ランガージュの起源originの問題は,一般に考えられているほどの重 要性を持たない。それは提起すべき問題でさえない」(p.105),「言語とは,そ のすべての部分が共時的連帯の中で考察されうるし,そうしなければならぬ体
系である」(P.124)。
彼が考えている起源は,もし可能ならば実証科学によっても問われ得る起源 であろうし,共時性に対する通時性は「歴史」を問題にするのであって,何も 形而上学的な起源にまで遡ろうとするものでない。だからソシュールは,ここ では歴史を拒否しているのであって,形而上学の拒否を語ろうとしているので ない。ここに形而上学的な問題を持ちこむのはこちらの読みこみである。しか し分節が発生する現場にまで彼が導かれた以上,拒否という形であれ,形而上 学が問題にならざるをえないだろう。ソシュールとデリダの接点も,その場面
に見出されるのである。
デリダにとって,言語の不安は「歴史の起源としての言語の驚き」であった。
彼が「原エクリチュールarchi−6critureは,その概念はく記号の恣意性〉およ び差異というテーマによって要請されてはいるが,科学の対象としては認識さ れることができないし,将来も決して認識されることができないだろう」(Gr.
p.83)と言うとき,デリダはソシュールの驚きを一歩進めようとしているよう に思われる。実証科学によっては問うことのできぬ言語の起源(この「形而上 学的」な起源を,以下「根源」とよぶことにする),すなわち言語をして言語た
らしめているものを問い,言語自身の出会う限界としての原エクリチュールへ と向かうのである。
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セ語の限界一世界の限界であり,歴史の限界でもあるもの一を語るのは 形而上学の領域に入りこむことであろう。ソシュールはその近くにまで導かれ
ながらそうした領域への問いを拒否した。そこに彼の知的誠実を見ることがで きるかも知れない。だがデリダによれば,形而上学を禁欲しているかにみえる ソシュールが,実は暗黙の形而上学に囚われているのだという。我々にはそう 簡単に相槌を打てることではないが,デリダのいう形而上学とはどういうもの かを問題にしなければならない。その暗黙の支配がどうして「見えてきた」の だろうか。
そこで『講義』に関して,デリダがとくにこだわっているのは,序説の第六
章「書による言語の表記」Repr6sentation de la langue par rるcrtureのと ころである。ソシュールは次のように言う。
「エクリチュールは,それ自体としては内的体系とは無関係である。」「ラン グとエクリチュールとは,異なる二つの記号体系である。後者の唯一の存在理 由は前者を表記(代理)するrepr6senterことだ。言語学の対象は,書かれた 語と話された語の結合とは規定されない。話された語はそれだけで言語学の対 象を構成する。にもかかわらず書かれた語は,話された語の像imageにすぎ ないのに,それとあまり密接に交じり合う結果,主要な役割を奪ってしまう。
ひとは音声記号の表記(代理)に,音声記号そのものと同じくらいの,さらに はそれ以上の重要性を与えてしまうのである。人を認識するのに顔を見るより も写真を見た方がいいと思うようなものだ」(p.44,45)。
このソシュールの文章の内にデリダは「エクリチュールによる汚染を告発す るモラリストの口調」(Gr. p.52)を嗅ぎとり,これをプラトンの『パイドロス』
の一節(274c−278d)に重ね合わせるのである。『パイドロス」のその部分を 要約すると一
ソクラテスは,文字発明のミュトスを語りつつ,文字は決して記憶や知恵の o
妙薬ではないことを述べる。文字に頼ることは「外から」思い出すことであり,
自分の力によって「内から」思い出すことをしなくなることだ(275a)。また 文字から知識を得ようとしても,書かれたもの自体は沈黙していて,語ったひ との肉声は聞こえない。その上,言葉がいったん書かれると,事柄を理解でき ぬ人の目にもさらされ,自分の力では自分の身を守ることができないのである
(275d−e)。ではどのような言葉が真実の言葉か。それは「学ぶために語られ,
本当の意味で魂の中に書きこまれる」ような言葉である(278a)。真実の言葉 は自分を守ることを知っており,語るべき人々には語り,そうでない人には語 らない(276a)。他の人にこれを語る場合にも,その人の魂の内に,元の血筋 を受けた言葉(ロゴス)を生れさせることを求めるべきなのである(278a)。
書かれた言葉は真実の言葉の影遷 δ砿・りにすぎない(278b)。この区別をわ きまえない人は真理の名において非難されるべきである(277e)。
以上『パイドロス』において,言葉の問題は魂の問題と結びついている。真 実の言葉を求めて書かれた言葉を排除することは,同時に魂の純粋さを保持す る要求であった。自己の「内」に生まれる言葉は,他者に伝えられる場合にも,
その人の内に同じ血筋を持った,同一の言葉を生まれさせるものではなくては
ならない。ロゴスを共にする人との交流,あるいは共にするようにとの呼びか け,そこにこそ真実の言葉がある。書かれ物質化された言葉は他者との交流に おいても自分自身の中においても,こうした純粋性を汚す危険を持っている。
文字の危険を自覚し,それはあくまで「影」であること,その最良の役割は
「内」なる想起を引き起こすところにあることを肝に銘ずべきなのである。
ここには,言葉の純粋性が「書かぬ人」ソクラテスを通して昇華された形で 表現されている。デリダはこうしたエクリチュールの卑下が現代に至るまで西 洋哲学を支配してきたと言う。「哲学の全歴史はそのギリシア的源泉から出発 して考えられる」。それは「我々の言語の可能性であり,我々の世界の基層な のだ」(ED. p.120,122)。そしてソシュールもまた,エクリチュールをラング の内的体系から排除し,内と外,真実と像,現前と表象(代理)を区別するこ
とにおいて,この支配の下にあるというのである。『ジュネーヴの言語学的サー クル』(1968,『哲学の余白』に所収),『記号学とグラマトロジー」(1968,『ポ ジション』に所収)などにおいても,デリダはこの「ソシュールの形而上学へ の囚われ」を執拗に指摘する。
ソシュールが能記一所記の一体性において記号を定義したことは超越論的所 記を否認することであり,伝統的な形而上学を批判する役割を果たすものであっ た。しかし彼が話された語に特権を与えるとき,この一体性は能記が「所記と の一体化」を求めるものとなってしまい,超越論的所記を権威づけるものになっ てしまう。「…音声は所記的概念に最も緊密に結びついたたものとして意識に 与えられる能記的実質である。…この能記は私が発するやいなや私に聞こえ,
私の純粋で自由な自発性に依存しているように思われ,いかなる道具も付属品 も,世界に囚われたいかなる力も必要としないように思われるのである。能記 と所記とは一体になるように思われるだけではなく,この混同の中で能記は消 滅するか,透明になるように思われる。概念はあるがままに自分自身に現前し,
この現前以外の何ものをも指示しないかのようだ。能記の外面性は縮減された
かにみえる」(Pos. p.32)。
デリダはこれに続けて,「もちろんこの経験は幻想である。しかし一つの構 造のすべて,一つの時代のすべてが,この幻想の必然性の上に組織されたのだ」
と言う。彼によれば,話された語に特権を与えることは,能記が所記のすぐ近 くに居ることへの希求であり,常に同一の意味を保持しようという要求である。
これが現前の形而上学として,西洋の真理概念や魂と肉体の関係を規定してき