• 検索結果がありません。

本稿では、 ソシュールの 一般言語学講義

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "本稿では、 ソシュールの 一般言語学講義"

Copied!
7
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

本稿では、 ソシュールの 一般言語学講義

1

(以下、 講義 と略) のデリ ダによる読解を取り上げる。 デリダは、 彼の著作 グラマトロジーについて

2

の中で、 ソシュールが文字をめぐって展開している議論の、 いわゆる 「脱構築 的 ( )」 読解を行っている。 ここでは、 その読解の射程と限界を たどり、 文字の構成的機能について照明を当てる。

講義 において文字は、 音声言語と比べて著しく低い位置づけしか与えら れない一方で、 言語体系を説明する際の格好の比較対象として、 絶えざる参照 が行われる。 その意味では、 講義 中の文字は、 アンビヴァレントな扱いを されていると言える。

まず、 講義 の序論の段階で、 言語学の真正な対象からは文字が排除され ることが宣言される。

1

邦訳を適宜参照したが、 訳文は引用者による。 必要に応じて原語を示した。 [ ] 内の日本 語は、 引用者による補足である。 以下同様。

2

( と略記)

ソシュールの 講義 については、 現在、 編集以前の学生による講義ノートや、 ソシュー ル自身の手になる原資料が出版されているが、 特に参照はしていない。 ここでは、 テクス

(2)

「言語 ( ) と文字 ( ) は、 二つのはっきりと異なる記号体 系である。 後者の唯一の存在理由は、 前者を表記することである。 言語学 の対象を定義するのは、 書かれた語と話された語の結合ではない。 話され た語だけが、 言語学の対象を構成する。」 45

文字が言語学の対象から排除される理由の一つは、 文字体系の言語体系に対 する外在性である。 言語はそれ自体で閉じた体系を成しているのに対し、 文字 はそれを表記するために後から付け加わった体系に過ぎず、 言語の外部に留まっ ているというのである。

「このように、 文字は、 [言語の] 内的体系とは、 それ自身としては無関係 であるにも関わらず、 それが絶えず言語を書き表すやり方を無視すること はできない。 その有用性、 欠点、 そして危険を知ることが必要である。」

44

それゆえ、 文字は言語にとって外部に留まっているにもかかわらず、 不可避の 危険性もはらんでいる。 序説の中では、 文字表記が言語の発音に (悪) 影響を 与えた例がいくつも挙げられている。 しかし、 そのように外部から常に影響を 受けざるを得ない、 「閉じた」 内部とはいったいどういうものなのかという疑 念が生じてくる。

文字体系が言語学の対象から排除されなければならない、 もう一つの理由は、

それが自然なものではないからだ。

「まず、 語の書記映像 ( ) は、 恒久的で堅固な対象とし て、 我々の心を捉える。 時間の経過に従って言語の統一を構成するには、

音よりも適しているように思われる。 [文字による] この絆が、 いかに表 面的で、 全く人為的な統一を作り上げているとしても、 自然であり唯一の 真正な絆、 すなわち音による絆よりも、 ずっと容易に把握されるのである。」

46

(3)

音と意味の結びつきを 「自然なもの」 と規定する一方で、 文字の優れた特性を 称揚せざるを得ないアンビヴァレントな態度が読み取れる。 それは、 これ以降 の記述においても同様である。

「人工的なものを直ちに自然なもので置き換えなければならないだろう。

しかし、 なにしろ、 これまで言語の音は研究されてこなかったのだから、

それは不可能である。 というのも、 書記記号から引き離されてしまえば、

音はもはや漠然とした観念しか表現せず、 たとえ虚像ではあっても、 文字 による支えのほうがやはり選ばれてしまうのだから。」 55 デリダは、 ここで文字を排除するための論拠とされている 「自然の ( )

/人工の ( )」 という対立を問題にする。

ところで、 講義 においては、 言語記号の表現面と内容面の間には、 いか なる根拠付けられた関係も無い ( ) ものとされ、 その関係は、 「恣意 性 ( )」 と呼ばれる。

「記号表現 ( ) を記号内容 ( ) に結びつける絆は、 恣意 的である。 あるいはまた、 記号は、 記号表現を記号内容に結びつける連合 関係の全体として理解されるのだから、 より簡単に次のように言うことが できる:言語記号は恣意的である。」 100

これを記号の第一原理とした上で、 記号と類似した、 伝統的な用語の 「象徴 ( )」 との違いにも注意を喚起する。

「言語記号を示すために、 より正確には我々が記号表現と呼ぶものを示す

ために、 これまで象徴という語が用いられてきた。 しかし、 正に我々の第

一原理があるために、 それを容認することには差し障りがある。 象徴には、

(4)

この場合の意味するものと ( ) と意味されるもの ( ) との間には、 自然な絆の痕跡が存在する。」 101

ここで再び 「自然な絆」 が持ち出される。

文字と言語の関係が問題である場合には、 文字は自然ではないという理由で、

言語学の対象から排除される。 言語記号と象徴が比較される場合には、 それと は反対に、 象徴は自然な絆を残しているという理由で、 真正な記号とは認めら れないのである。 「自然な」 という語は、 文字との関係では肯定的な意味合い で用いられ、 象徴との関係では否定的な意味合いで用いられる。

デリダはここに見られる矛盾を指摘した上で、 講義 で示されている記号 の第一原理により忠実に議論を展開する。 もし、 「意味するもの」 と 「意味さ れるもの」 との関係が恣意的で、 根拠付けのないものである場合に、 記号とい う名称が用いられるのであれば、 文字も言語と同様に記号の名に値する。 それ ゆえ、 第一原理に従えば、 「言語記号と書記記号を根本的に区別することは、

禁じられなければならない」

3

だろう。

そればかりではない。 音声は、 文字によって 「意味されるもの」 であると同 時に言語的な意味内容を 「意味するもの」 であるという二重性を持った存在で あるのに対して、 文字のほうは音声との関係で言えば、 純粋な 「意味するもの」

である。 また、 音声よりも文字のほうが持続性という点においては優れている。

こうしたことを根拠に、 デリダは文字の概念を拡張し、 記号一般の意味で用い ることを提案する。

「ところで、 特定の諸記号、 話された諸記号、 そして、 ましてや書かれた 諸記号の全体を、 根拠付けを欠いた設定と見なした時から、 それぞれの記 号表現の間の、 あるいは記号表現のそれぞれの種類の間の、 あらゆる自然

3

(5)

な従属関係、 あらゆる自然な階層秩序を排除しなければならなくなるだろ う。 もし、 文字 ( ) が書き込むこと ( ) を、 まず何 よりも記号の持続的な設定 (これこそ、 文字の概念の唯一の還元不可能な 核である) を意味するならば、 文字一般は、 言語記号の全領域を覆うこと になる。」

4

さらにデリダは、 文字の概念の拡張の首尾一貫した帰結として、 記号学 ( ) という名称を 「文字学 ( )」 に置き換えてみせ る。 彼は、 ソシュールによる記号学の定義をそっくりそのまま借用する。

「我々はそれを文字学と名づけよう。 [中略] それはまだ存在していないの で、 どんなものになるか今述べることはできない。 しかし、 それは存在す る権利をもっており、 その位置は予め定められている。 言語学は、 この一 般的な科学の一部門でしかない。 文字学が発見するであろう諸法則は、 言 語学にも適用できるであろう。」

5

こうしてデリダは、 音声と文字の間にある、 西欧の伝統的な階層秩序を逆転し て見せるのである。

しかし、 こうした秩序の逆転も、 従来考慮されることのなかった、 文字のも つ重要な機能に十分な光を当てることにはなっていない。 それは、 音声を体系 的な分節音として把握することを可能にし、 言語を正に記号として現れさせる、

文字のもつ構成的機能である。

音声は、 そもそも物理音に過ぎず、 それ自体として知覚された場合には、 そ の都度の個別的で、 バラバラの印象を与えるものでしかない。 ソシュールが強

4

(6)

調するように、 意味という裏付けがあってこそ、 音声による諸印象の間に統一 がもたらされるのである。

ただし、 その統一は単位としての意味に対応している限りでのものである。

それは、 表裏一体の 「意味するもの」 と 「意味されるもの」 の連合関係を超え ない範囲に留まる。 したがって、 それは 「語」 の単位を分割するようなもので はない。 分節された音という知覚を可能にするには、 それに見合ったカテゴリー、

それに対応する 「意味するもの」 が必要である。 それこそが、 表音文字なので ある。

ところで、 こうした文字の機能の理解は、 講義 で提示されている或る論 拠の中に予め含意として存在しているのである。 それは、 言語を体系として成 立させている価値の議論の中で、 一枚の紙の表裏として語られる。

「心理学的には、 言葉による表現を考慮しなかった場合、 我々の思考は、

無定形で不分明なかたまりに過ぎない。 哲学者たちと言語学者たちは、 記 号の助けがなければ、 我々は二つの観念を明瞭にかつ安定的に区別するこ とができないだろうということを一致して認めてきた。 思考は、 それ自体 としてみた場合には星雲のようなもので、 そこには、 必然的な区切りをも つものなど存在しない。 予め作られた観念は存在せず、 言語が現れる以前 には判明なものは何もないのである。」 155

「言語はまた、 一枚の紙に比較することができる。 思考が表で、 音が裏で ある。 裏を同時に切り離すことなく、 表だけを切り離すことはできないの である。 同様に、 言語においても、 思考から音を分離することも、 音から 思考を分離することもできないのである。」 157

ここで語られているのは、 「意味するもの」 と 「意味されるもの」 が相互に支

え合い、 お互いを構成する原理である。 表音文字と音声の関係も、 同様に 「意

味するもの」 と 「意味されるもの」 の連合関係なのだから、 デリダがそうした

(7)

ように、 上の原理を拡大して適用することが可能であろう。 すなわち、 不分明 な音声に区切りを与え、 判明な姿に作り上げるのは文字なのであると。

講義 の中にはこのように、 それを徹底的に展開していけば、 慣習的な思 考を批判的に捉えるための論拠の萌芽が含まれている。 ソシュールが提起した 記号の概念も、 彼自身によっては十全の展開を見ずに萌芽のままに残されてい る。 とりわけ、 文字に対しては、 アンビヴァレントな態度が示されるものの、

結局、 その伝統的な評価には手が付けられないままに終わっているのである。

デリダの言う脱構築的読解とは、 あるテクストで展開されている論述をいわ

ば乗っ取って、 その内部の諸論拠それぞれを忠実に展開し、 その論拠どおしを

戦わせるという形態のものである。 したがって、 テクスト中のどの論拠を取り

上げるかという選択次第で、 読解の結論もまた異なるものとなる。 デリダによ

る 講義 の読解は、 音声と文字の間に設けられている、 西欧の伝統的な価値

位階の逆転を目指すものであった。 しかし、 それが、 音声との関係の中で、 あ

るいは言語記号全体の位置づけの中で、 文字のもつ十全の意義を引き出し得て

いるとは必ずしも言えないのである。

参照

関連したドキュメント

いかなる使用の文脈においても「知る」が同じ意味論的値を持つことを認め、(2)によって

255 語, 1 語 1 意味であり, Lana の居住室のキーボー

が有意味どころか真ですらあるとすれば,この命題が言及している当の事物も

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その

本論文での分析は、叙述関係の Subject であれば、 Predicate に対して分配される ことが可能というものである。そして o

あれば、その逸脱に対しては N400 が惹起され、 ELAN や P600 は惹起しないと 考えられる。もし、シカの認可処理に統語的処理と意味的処理の両方が関わっ

(自分で感じられ得る[もの])という用例は注目に値する(脚注 24 ).接頭辞の sam は「正しい」と

2) ‘disorder’が「ordinary ではない / 不調 」を意味するのに対して、‘disability’には「able ではない」すなわち