言語の知識
飯田 隆
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母語の「知識」
「日本語を知っている」 この本の読者の多くは、日本語がいつもまわりで話されている場所に住ん でいることだろう。そうした環境で、自分の知らないだれかについて、「あの ひとは日本語を知っている」と言われるのを耳にしたら、どういう推測をす るだろうか。いちばんありそうな推測は、そのだれかが「外国人」である、あ るいは、もう少し正確な言い方をすれば、もともと日本語が母語でないよう なひとだということではないだろうか。 考えてみれば、まわりで話されている言葉が日本語でないようなところで も、事情は変わるまい。日本でであろうが、外国でであろうが、だれかのこ とを指して「あのひとは日本語を知っている」(あるいは、それに対応する別 の言語の文—たとえば、「She knows Japanese」—を用いてもよい)と言うな らば、それを聞いたひとは、話題になっているその人物の母語はたぶん、日 本語ではないと推測すると思われる。つまり、ふつう、われわれは、日本語 が母語であるひとに関しては、そのひとが「日本語を知っている」とは言わ ない。それに対して、母語以外の言語についてならば、その言語を「知って いる」と言うことにおかしなところは何もない—「私は英語を知っている」、 「あのひとは八つもの言語を知っている」といった具合に。 だが、こうした観察は、日本語を母語とするひとについて言われた「あの ひとは日本語を知っている」が誤りだということを示しているのだろうか。 こう結論づけることは性急だろう。何よりも、日本語を母語とするひとにつ いて、そのひとが「日本語を知っている」と言うことがどれだけ変に響こう とも、そのことをもって、日本語を母語とするひとは「日本語を知らない」 と言いたくはないだろうからである。(日本語を母語とするひとに関しても、 「あいつは日本語を知らない」と言っておかしくない場面はある。しかし、こ うした言い方が適切であるとき、このことで言われていることは、たとえば 私がスワヒリ語を知らないのと同様な意味で、日本語を知らないということ ではない。この点については、後でも触れる。)母語を「知っている」と言うのはなぜ奇妙なのか では、日本語を母語とするひとについて、そのひとが「日本語を知ってい る」と言うことが、何か「奇妙だ」「おかしい」と思われるのはなぜだろうか。 ひとつの説明はこうである。 ある文を「おかしい」とか「おかしくない」と判断するとき、多くの場合、 われわれは、その文を用いた主張がなされるような文脈が想像できるかどう かに頼っている。そうした文脈を想像する典型的なやり方は、その文を、会 話的なことばのやり取りのなかに置くことである。実際、そうしてみるなら ば、日本語を母語とするひとについて、「あのひとは日本語を知っている」と 言うことがおかしいのはなぜか、少なくともその理由の一部はわかるように 思われる。 つまり、日本語が母語であるひとについて「日本語を知っている」と言う のは、ふつうの大人について「あのひとは自分の名前を知っている」と言う のがおかしいのと同様である。記憶喪失にかかっているひとについて、「こ のひとは自分の家族も住所も職業も知らないが、自分の名前だけは知ってい る」と言うことは十分考えられる。また、幼児について「もう自分の名前を 知っているの、おりこうね」と言うこともおかしくない。だが、こうした特 別な場合を除けば、「自分の名前を知っている」という主張は、当然成り立つ こととして、会話の場面でわざわざなされることはない。ふつうの大人をつ かまえて、「このひとは自分の名前を知っている」と言うことはたしかに奇妙 である。だが、それゆえ、「ふつうの大人は自分の名前を知らない」と言うな らば、それは、奇妙なだけでなく、はっきり誤りだろう。 母語の場合も同様に考えることができよう。ふつうの大人は、まず例外な く、何かひとつの言語を母語として身につけている。母語とはそのひとの言 語であり、何がそのひとの言語であるかは、常にと言うわけではないが、し ばしば、そのひとがどこの国・どこの社会から来たひとであるかということ から推測できる。ひとは当然自分の生まれ育った社会で通用している言語を 身につけているだろうと考えられるからである。その点で、ひとは、同じ社 会の他のひとびととはことさらに異なった何かを身につけたわけではない。 何かを「知っている」という主張は、知っているひとと知らないひととの対 照が存在しないところでは、何の役割も果たせない。したがって、ひとが自 分の母語を「知っている」という主張は、その言語がひとびとの共通の母語 である社会のなかでなされた場合には、ことさら奇妙に響く。また、そうで ない場合でも、あるひとの母語が何であるかを言うとき、われわれはふつう、 そのひとがこれこれの言語を「知っている」とは言わず、そのひとはどこそ このひとだと言うのである。だが、母語を「知っている」とは言わないとい うことは、母語を「知らない」と言うことが正しいということにはならない。 ふつうの大人について「自分の名前を知っている」と言うことは奇妙である
が誤りではないのと同様、日本語を母語とするひとについて、そのひとが「日 本語を知っている」と言うことは奇妙ではあるが、誤りではないということ になろう。 そして、「日本語を知っている」というこの言い方は、多くの言語学者、ま た、言語哲学の分野で活躍する多くの哲学者が積極的に用いるものでもある。 母語の「知識」には何が含まれるのか だが、言語学者や一部の哲学者が用いる「日本語を知っている」というこ の言い回しは、さまざまな点で特殊である。まず、この言い回しを積極的に 用いるひとびとが、そこに何が含まれていると考えているのかを、はっきり させる必要がある。そうするいちばんよいやり方は、そこに何が含まれない と、そうしたひとびとが考えているのかをみることである。 (1) 日本語を母語とするひとについてさえ、そのひとが「日本語について (よく、少し)知っている」と言うことは、まったく問題なくできる。そ のとき、そのひとが知っている事柄は、たとえば、日本語における品詞 の区別であるとか、日本語のさまざまな単語の語源であるとか、日本語 の方言がどのように分布しているかといった事柄であろう。そして、こ うした事柄についてたくさんのことを知っているひとと、ほとんど知ら ないひとの両方がいるということは確実である。ここから、こうした事 柄についての専門家の存在が可能となる。「日本語を知っている」とい うここでの言い方によって意味されているものは、こうした事柄ではな い。したがって、この意味で「日本語を知っている」ことに関しては、 専門家と非専門家という区別は存在しない。 (2) 文字を読んだり書いたりすることに関しては、もちろん、日本語を母語 とするひとのあいだでも顕著な相違がある。漢字をたくさん知っている ひともいれば、ごく少しの漢字しか知らないひともいる。(英語で言え ば、むずかしい単語でも正確に綴れるひとと、ごく簡単な単語でも綴れ ないひとのちがいに対応する。)言語学者の言い方での「日本語を知っ ている」ということのなかには、こうした読み書きに関する事柄は含ま れない。 (3) 読み書きに関する事柄を除外したとしても、日本語を母語とするひと のなかには、たくさんの単語を使いこなすひともいれば、ごく少数の単 語で事足りているひともいる。また、同じく日本語を母語としながら、 弁舌さわやかにことばを巧みに操るひとがいる一方で、ためらいながら とつとつと喋るひとがいる。こうしたちがいが出て来る原因はさまざ まだろうが、そのひとつとして、どれだけ多くの語や言い回しを知って いるかといった、知識の多寡があることはまちがいないだろう。だが、
言語学者が言う意味での「日本語を知っている」によれば、そのなかで の個人差がどれだけあろうとも、自在に使える単語や言い回しの数が ある一定以上の水準に達しているひとびとについて、かれらはみな同 じく「日本語を知っている」と言えるのである。 つまり、言語学者や一部の哲学者が「日本語を知っている」—あるいは、一 般的に「ある言語を知っている」—ということで指示しようとしているもの は、母語として日本語を—もっと一般的に言って、ある言語を—身につけた ひとの状態である。このことを確認したうえで、いま挙げた三つの点を見直 してみよう。第一に、母語を身につけているかどうかは、その言語について のさまざまな特殊な知識をもっているかどうか[(1)]とは無関係である。第 二に、通常の場合、母語の習得は文字の習得に先立つ。このことは、個人史 的に立証されるだけでなく、無文字社会の存在が示すように、系統史的にも 立証されうる事実である。よって、母語を身につけているかどうかは、文字 の読み書きができるかどうか[(2)]とも無関係である。最後に、ひとは、あ る段階—通常は、成長過程のうちの比較的早い段階—で、母語を身につけて いると言える状態に到達する。この段階で獲得した能力が広範に失われるよ うなこと—たとえば、深刻な言語障害—がない限り、母語を身につけている という状態は維持される。母語を身につけたと言える状態にいったん到達し、 それが維持されている限り、それ以後の言語的学習、たとえば、新しい単語 や言い回しを覚えること[(3)]は付加的なものにすぎない。 もちろん、こうした特徴づけに何の問題もないわけではない。(1)–(3) のい ずれについても、それによって排除されるものと排除されないものとをはっ きり境界づけることは困難だろう。だが、こうした問題はいまは問わない。 ただ、先にも触れたように、日本語が母語であるひとについてさえ「あいつ は日本語を知らない」と言っておかしくない場合のことについて、ひとこと 述べておこう。こうした場合、そのひとが「知らない」ことは、言語学者の 言う意味で「日本語を知っている」ために必要な事柄ではない。それは、た ぶん、(2) および (3) でそこから排除された事柄である。つまり、漢字をどう 読むかを知らないとか、ある単語なり言い回しを知らないといったたぐいの ことである。日本語の使い方に関していくらずさんであっても、そのひとの 母語が日本語である限り、ひとは、言語学者の言う意味では「日本語を知っ ている」のである。 母語の「知識」は程度をゆるさない それでもなお、日本語を母語として「知っている」ことと、たとえば、私 がドイツ語を「知っている」こととでは、その「知り方」がずいぶん違うよ うに思われる。
「私はドイツ語を少し知っている」といった文を考えてみよう。ドイツ語 ではなく日本語が母語であるひとが、こう言うことには、まったく問題はな い。だが、その同じひとについて「あのひとはドイツ語は少ししか知らない が、日本語ならばよく知っている」と言うことは、奇妙でないだろうか。こ の奇妙さは、「日本語を知っている」と言うことにまつわる奇妙さにつきるも のではない。 日本語が母語であるひとでも「自分は日本語をよく知っている」と、奇妙 でなく言うことができる場合はある。だが、そのためには一定の文脈が必要 である。二通りの場合が考えられる。ひとつは、自分の母語が日本語である ことを相手に知らせようとする場合である。たとえば、日本語に関しては通 訳はいらないと相手に伝えるために、こう言うような場合がこれにあたる。 このとき、「日本語をよく知っている」は、「私の母語は日本語だ」以上の意 味をもたない。他方、話し手の母語が日本語であることが会話の当事者のあ いだでよく知られている場合になされる「日本語をよく知っている」という 発言は、多くの場合、会話があまり穏当ではない方向に向かっているときに なされる。「日本語をよく知っている」という発言は、たぶん、一種のいら だった口調でなされ、これ以上念を押す必要はないとか、もう説明はたくさ んだといったことを意味する。(例をひとつ挙げておこう。「明日は必ず来て ね。」—「うん。」—「明日だよ。」—「日本語はよく知っている。明日と言 えば明日のことだぐらいわかるさ。」)いずれの場合にしても、母語に関して 「よく知っている」という表現が用いられるとき、この「よく」には、他と比 較して「それよりもよく」といった意味はなく、「十分に」という意味しかも たない。 だが、もっとはっきりしているのは、「少し知っている」・「いくら か知っている」といった表現の方である。母語について、それを「少しだけ 知っている」とか、「いくらか知っている」とか、「ある程度知っている」と か言うことは、どのような場合でも奇妙である。こうした言い方ができるの は、母語以外の言語に関してのみである。 さて、母語以外の第二言語については「少し知っている」とか「よく知っ ている」といった言い方ができるのに、なぜ母語についてはそうできないの だろうか。 言語学者ならば、(1)–(3) で排除されたたぐいの知識—こうした知識に関 しては、同じ言語を母語とするひとびとのあいだでも顕著な個人差が存在す る—を差し引いてしまえば、母語として「日本語を知っている」ひとのあい だでは、その言語能力におおきな違いがないという「経験的事実」を挙げる かもしれない。(またしても、こうした「経験的事実」がどう確立されるかと いう問題は問わないことにしよう。たとえば、(1)–(3) で挙げられているよう な事柄を「差し引いて」残るものは、正確に言って何だろうか、また、仮に それを同定できたとしても、異なる個人どうしでの比較は、どのような基準 に従い、どのように行うのだろうか。)だが、ここで問題となっているのは、
そもそも、経験的な事柄なのだろうか。 言語はひとつの全体として学ばれる 母語を身につけるとは、それまで言語をもたなかった状態から、言語をも つ状態に移ることである。そして、ただひとつの語、ただひとつの言い回し を使えるようになったというだけでは、言語を身につけたとは言えない。そ れどころか、ある発声なり身振りなりが、「語」や「言い回し」と言えるのは、 それが、他の発声や他の身振りから成る全体のなかにある決まった位置をも つからこそである。つまり、言語は必ずあるひとつの全体として学ばれる。 それ以外に言語をもつ仕方はない。これは経験的な事実というよりは、何を もって言語とみなすかという、言語の概念に由来する真理であると思われる。 (ただし、人間が言語をもつということは明らかに経験的事実の問題である。) もちろん、母語を身につける最初の段階と、後の段階とでは、語の数も言い 回しの数もちがうだろう。だが、そのもっとも初期の段階においてさえ、こ どもが発する音や行う身振りのあいだに、たがいに関連しあういくつかの要 素が区別できるのでなくては、言語をもつようになったとは言えない。(言語 を習得する過程において、こどもは、いくつかの異なる「言語」を順次身に つけて行くのだという、言語学上の仮説は、この点から言っても興味深い。) したがって、最初の言語が全体として学ばれたのでなくては、そもそも言 語をもったことにはならない。それに対して、日本語を母語とするひとが、 たとえば、ドイツ語を「少しだけ知る」ということは、十分可能である。そ れは、母語以外の言語を学ぶときには、母語に頼ることができるからである。 ドイツ語のごく少数の単語、ごく少数の言い回ししか知らなくとも、その単 語や言い回しに対応する日本語の単語や言い回しを知っているならば、日本 語のなかでそうした単語や言い回しが占める位置を知っていることによって、 もとのドイツ語の単語や言い回しがドイツ語全体のなかでどのような位置を 占めるかを推測できる。ドイツ語を習い始めたひとにとって、まだ習ってい ないドイツ語の部分を補足するのは、そのひとの母語である。つまり、部分 的にしかドイツ語を知らなくとも、ドイツ語のその部分は、母語という全体 のなかに位置づけられることによって、十分理解可能なものとなる。ドイツ 語に習熟すればするほど、母語によって補足される部分はどんどん減って行 く。そして、そうした補足がまったく必要なくなったときには、そのひとは ドイツ語を「身につけた」と言えるだろう。 母語の「知識」は知識か このように、母語として「日本語を知っている」ということは、母語を「身 につけている」ということの別名である。だが、なぜそれを「知っている」と
いう言葉で言い換えるのだろうか。 言語学者や一部の哲学者がひんぱんに用いる、母語を「知っている」とい う言い方は、多くの批判を招いてもきた。母語を身につけていることを「知っ ている」という言葉で指すことが、通常の語法からずれているとしても、問題 はそこにはない。むしろ問題なのは、こうした言葉を用いることで、母語を 身につけたひとの状態を、知識の一種とみなすことにある。こうした見方に 反対するひとびとが、しばしばそれに対置するのは、母語を身につけている ことは、ひとつの能力であるという見方である。そして、この能力は、「知っ ている」という言葉によってではなく、「わかる」とか「話せる」といった言 葉によって指されるべきだということになる。 こうした対立は、単なることばづかいの問題ではなく、母語を身につけて いるひとの状態をどう把握するのが正しいかという問題である。なぜならば、 「日本語を知っている」ではなく、「日本語がわかる」や「日本語を話せる」と いった主張であっても、日本語が母語であるひとに関してなされたとしたら 奇妙だという事情は、まったく変わらないからである。
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言語と歩行
歩くことと話すことのちがい 母語を聞き分けたり話したりする能力は、たとえば、歩く能力と似た側面 をもっている。通常の場合、人間は一定の条件下で一定の時期に達すると、 「自然に」歩けるようになるのと同様に、まわりで話されている言語を「自 然に」理解し、同様に「自然に」自分でも使えるようになるからである。こ こで、「自然に」と言うのは、言語の場合でも歩行の場合でも、一定の環境さ え用意されているならば、教わらなくともできるようになるといった意味で ある。 しかしながら、歩行と言語のあいだのちがいも大きい。何よりも、われわ れには、歩けるようになることにくらべると、話せるようになることは、「知 的な」達成だと考える傾向がある。また、歩けるようになることではなく、話 せるようになることの方が、「こころの発達」にずっと密接にかかわると考え る傾向もある。なぜ、われわれにはこう考える傾向があるのだろうか。歩行と 言語の比較をもう少し続けてみよう。 まず目につく顕著なちがいは、歩行 が基本的に個人的な達成であるのに対して、言語は、社会的な—つまり、他 人と関係をもつ—達成だということである。歩けるようになるためには、ま わりのひとびとと同じような仕方で歩く必要はない。それに対して、ことば が使えるようになるためには、まわりのひとびとと同じ仕方でことばを使う ことが、ぜひとも必要である。第二のちがいは、いま述べたこととは、一見相反する。すなわち、ひとは どこでも同じように歩くが、ひとが話すことばは、地域によって大幅に異な るということである。だが、これがいま述べた事柄と矛盾するものでないこ とは、ちょっと考えてみればわかる。人間の身体の構造から言って、二本の 足を用いて身体を移動させるやり方には、それほど多種多様なやり方がある わけではない。他方、人間が発することのできるさまざまな音のさまざまな 組み合わせに意味を与える仕方は、原理的には無数にありうる。したがって、 そうした仕方のうちのどれを用いるかは社会によって異なりうるのであり、 ひとは自分が生まれ落ちた社会でのやり方を身につけなくてはならない。 こうしたちがいのもとにあるのは何だろうか。それは、歩くための特別の 決まりというものはないのに、言葉を話したり理解したりするために守らな ければならない決まりがあるからではないだろうか。出すことのできる音は さまざまであるにもかかわらず、自分の発声が言葉として受けとめてもらえ るためには、それは他のひとびとが言葉として出すものと似ていなくてはな らない。ひとつひとつの言葉をそれなりの順序で発するのでなくては、何が 言いたいのかを理解してもらうことはできない。同様に、それぞれの言葉や 言葉の連なりを他のひとびとが用いるのと同じような仕方で、自分でも用い るのでなくては、言葉を発することによって意図していたことを実現するこ とはできない。つまり、言葉を用いる正しいやり方というのがあり、そうし たやり方を正しいと互いに認めているひとびとのあいだでなければ、言葉は 言葉として機能しないのである。 規範的評価の対象となる活動と、規範的評価を基礎にして成り立つ活動 だが、こうした異論がありえよう。—歩くための特別の決まりがないとか、 正しい歩き方がないということは、事実ではない。ひとの歩き方もまた、そ のひとがどのような社会で育ったかによって影響されるし、何が正しい歩き 方であるかは社会によって異なる、と。 ひとつの用語を導入しよう。あることが正しくなされたかどうかという判 断を下すことを「規範的評価」と呼ぼう。いま考えているような異論に答え るために大事なのは、規範的評価の対象となる活動と、規範的評価を基礎に して成り立つ活動とを区別することである。 説明しよう。人間以外の動物の多くが営む活動は規範的評価の対象とはな らない。たとえば、野生の熊が鮭を捕ることに関しては、それが成功に終わっ たか失敗に終わったかが問われるだけであって、正しく鮭をつかまえたかど うかが問題にされることはない。それに対して、人間の営む活動—そして、 人間の生活の一部となっているようなペットの活動—のほとんどすべてに関 して、それが正しくなされたかどうかを問題にすることができる。人間を他 の動物と並ぶもうひとつの動物としている、生存にかかわる活動—食べるこ
と、排泄すること、性的な営みを行うこと—についてさえ、それが正しくな されたかどうかは問題となりうる。人間にとっては、ただ食べることだけが 問題となるのではない。何を食べるか、どこで食べるか、いつ食べるか、ど のような姿勢で食べるか、何を使って食べるか、そうしたさまざまな事柄す べてにわたって、どうするのが正しくどうするのが正しくないかが決まって いると言ってよい。これはもちろん、人間が社会のなかで生きているという ことと深く関係する。よって、正しい食事のあり方というものも、社会によっ て変化する。 人間の活動であれば、食事や排泄についてでさえその正しいやり方がある のだから、正しい歩き方というものが社会ごとに決まっているとしても何の 不思議はない。だが、正しくない食べ方をしたとしても、食べたという事実は 変わらないのと同様、正しい歩き方からはずれた歩き方をしたとしても、歩 いたという事実に変わりはない。歩いたかどうかは、正しく歩いたかどうか とは独立なのである。それだけではない。歩くということは、一連の動作— 直立した姿勢で、足を交互に前に出す—から成り立っている。こうした動作 のひとつひとつが規範的評価の対象となることは十分考えられる—実際、正 しく歩いたかどうかは、歩くことを構成する個々の動作がなされたかどうか だけでなく、その各々が正しくなされたかどうかによって判定されよう。し かしながら、歩いたということそのことは、そのことを構成する一連の動作 が正しい仕方でなされたかどうかと独立である。足を正しい仕方で進めよう がそうでなかろうが、姿勢を正しい形に保っていようがそうでなかろうが、 ともかく、ある一連の動作がなされたのであれば、ひとは歩いたことになる のである。 つまり、歩行や食事のような活動は、規範的評価の対象となるが、そうし た活動がそもそもなされたかどうかを判定する際に、規範的評価が必要とな ることはない。それに対して、人間の活動のなかには、単に規範的評価の対 象となるだけでなく、規範的評価を基礎にして成り立っている活動がある。 こうした活動は、「規範的活動」と呼ばれるのにふさわしいだろう。規範的活 動の最たるもの、それこそが言語的活動である。 規範的活動としての言語的活動 言語的活動が、その各々が正しい仕方でなされたと評価されねばならない 一連の行動から成り立つということが、いちばんよく実感できるのは、まだ あまり習熟していない外国語を用いる場合であろう。たとえば、英語を話す ときには、正しく発音しなければならないし、正しい単語を選んで、それら を正しい順序で言わなければならない。同様に、英語を聞くときは、音の違 いを正しく聞き分けねばならないし、ひとつひとつの語が何を意味している かを正しく理解し、それらが組み合わされているその仕方が何を意味するか
を正しく理解しなければならない。ここで出てきた一連の「正しく」は、も ちろん、程度を許す。こうした「正しく」はすべて「ある程度正しく」で置 き換えてよい。だが、この「ある程度」にまったく達しないときに生じる事 態は、「英語を話そうとしたのだが、話せなかった」とか「英語で言われたこ とを理解しようとしたのだが、理解できなかった」という具合に記述される ことになろう。 母語の場合でも、事情はまったく変わらない。ただ、前にも述べたことだ が、例外的な場合を除けばひとは何らかの言語を母語として身につけている。 そして、母語を身につけているということはそのまま、母語を用いた言語的 活動を構成する行動を「ある程度正しく」できるということである。つまり、 たいていのひとは母語に関して、ある程度正しく発音したり、ある程度正し い単語を選んで、ある程度正しい順序で言ったり、言われたことをある程度 正しく理解したりできる。したがって、母語を用いた言語的活動が、ある規 範に律せられており、そうした言語的活動を行うひとが、その規範に従って いるということ、すなわち、日々の言語的活動が規範的活動であることは、 改めて言う必要のない自明なこととして、かえって意識されないのである。 ひとつ注意すべきことがある。それは、「正しく話す/正しく話さない」と か「正しく理解する/正しく理解しない」といった表現で指される事態に、 二通りの場合があることである。 第一の場合は、規範的活動を構成する一連の行動の一部が、そこで要求さ れる「ある程度の正しさ」に達しない場合である。たとえば、英語で何かを 言ったのだが、定冠詞を言うべきところを不定冠詞を言ったとか、語順が少 しおかしかったとか、いくつかの単語の発音がまちがっていたといった場合 が、これに当たる。もちろん、母語の場合でも、こうしたことはしばしば起 こる。言葉の意味を取り違えていたとか、本で覚えた言葉を使って読み方が 間違っていて恥じをかいたといった経験は、だれにでもあろう。 ところで、規範的活動もまた、規範的評価の対象となりうる。つまり、そ うした活動がなされたことは疑いない事実であるとしたうえで、その活動が 正しい仕方でなされたかどうかを問題にすることができる。これが、言語的 活動について「正しい」とか「正しくない」と言うときの、もうひとつの場合 である。言語的活動を構成する一連の行動はすべて「ある程度の正しさ」を 満たしているにもかかわらず、なされた言語的活動が規範的評価の観点から 見て何か欠けているということがある。たとえば、発音の面でも、文法の面 でも、また意味の面でも、その限りでは問題のない日本語を話しているのだ が、相手にきわめて失礼な話し方をしているひと、また、とても流暢にしゃ べっているのだが、その話が全体としてまったくつじつまがあわないような ひと、こうしたひとに関して、われわれは「あいつの話し方はなっていない— 正しくない」と言う。 この第二の場合の「正しい/正しくない」は、歩行や食事について「正し
い/正しくない」と言われるときと同様である。言語が、歩行や食事と異な るのは、第一の場合に言われるような「正しい/正しくない」の区別がある ことによる。そして、言語学者や一部の哲学者が言う意味で「言語の知識を もっている」ということは、この第一の場合の「正しい/正しくない」とい う区別を身につけていることに他ならない。口を開けばうんざりさせるよう な話し方をするひと、相手の言うことをいつも取り違えてはとんちんかんな ことを言うひと、こうしたひとでも、ここで話題となっている意味で「日本 語を知っている」という点では変わりがないのである。
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言語と規則
ゲームができることと、規則を知っていること 規範的活動のもっとも明瞭な例は、規則がきちんと定められているさまざ まなゲームである。できるだけ簡単なゲームがよいだろうから、トランプの 神経衰弱を例に取ろう。このゲームに参加しているひとは、ゲームの各局面 ごとに何らかの行動を取らなければならないが、その行動は規則によって定 められたものと合うものでなくてはならない。たとえば、このゲームの参加 者は、自分の順番が来たとき、また、そのときに限り、場にあるカードのな かから二枚だけをめくらなければならない。自分の順番が来ないのにカード をめくったり、三枚以上めくったりした場合には、その行動は、規則に反し た「不正な」ものとされる。こうしたゲームの場合、そのゲームを構成する 一連の行動の各々が正しくなされたか否かは、明示的に述べることのできる 規則に照らして判定される。つまり、ゲームのもつ規範性は、規則の存在に 由来する規範性である。 こうしたゲームを行える能力が、ゲームの規則の知識に基づいていると考 えることは自然である。ひとはどのようにして、神経衰弱のようなゲームが できるようになるのだろうか。ふたつのやり方が考えられる。ひとつは、こ のゲームの規則を、それとして、ひとから教わるやり方である。もうひとつ は、ひとが神経衰弱をやっているのを何度か見て、そこから規則を推測する ことである。このどちらの場合でも、神経衰弱ができるようになったひとは、 その規則がどのようなものであるかを「知る」ようになったのでなくてはな らない。 それゆえ、多くのゲームに関しては、それが「できる」という言い回しは、 しばしば、それを「知っている」という言い回しと交換可能である。「麻雀を 知っているか」という問いかけは、ふつう、「麻雀ができるか」という問いか けと同じである。この場合、「知っている」とは、麻雀の規則を知っていると いう意味である。そして、麻雀の規則を知っているならば麻雀ができるはず であり、その逆も正しいと、われわれはふつう考えている。ただし、すべてのゲームについて、「知っている」と「できる」とが交換可能であるわけでは ない。野球やサッカーについては、それを「知っている」からといって、必 ずしもそれができるとは限らないことをもまた、われわれはよく承知してい る。(ゲームのあいだにあるこうした相違はたぶん、つぎのような事情によ る。麻雀や神経衰弱のように、そのゲームに実際参加する以外に楽しみよう のないゲームと異なり、野球やサッカーのようなゲームは、参加しなくとも それを見物するだけで十分楽しめる。そして、見物して楽しむためには、そ うしたゲームの規則が何であるかを知る必要があるから、そのゲームに実際 参加する意図がなくとも、規則を覚えることには意義があるのである。)し かし、ここで重要なのは、野球やサッカーの場合でも、それができるのなら ば、その規則を知っているはずだと、ふつう考えられていることである。つ まり、ゲームという規範的活動に参加する能力の基礎にあるのは、そのゲー ムを律している規則の知識にある。 「言語の知識」を規則の知識と同一視することができれば... 言語的活動の規範性を、ゲームのもつ規範性になぞらえて考えることには、 大きな魅力がある。言語的活動もまた、ゲームの場合と同様に、それを律す る規則があり、言語的活動に参加できるためには、そうした規則を知ってい る必要があると考えるならば、言語学者や一部の哲学者の言う意味での「言 語の知識」がもつとされる性質の多くが、自然に説明されるからである。 (1) まず、こう考えるならば、言語を獲得することが、歩けるようになるこ ととは異なり、何か「知的な」達成であるという、広く受け入れられて いる印象に根拠を与えることができる。言語能力は、言語的活動を律 する規則の知識に基づくことになるからである。「母語の知識」といっ た言い方もまた正当化される。「日本語が話せる、わかる」を「日本語 を知っている」に置き換えてよいことは、「麻雀ができる」を「麻雀を 知っている」に置き換えることが許されるのと同様の理由で許されるこ とになるからである。 (2) 同じ言語を身につけているひとのあいだでも、ことばを巧みに操れる か否かという点では、大きな個人差がある。こうした個人差にもかかわ らず、同じ言語を身につけている限りでは、同一の知識をもっていると 考えてよいとする言語学者の立場は、そのままでは受け入れがたいも のとみえる。しかしながら、ゲームとの類比がここで有効にはたらく。 同じゲームを覚えたひとのあいだでも、そのゲームをどれだけ巧みに 行えるかに関しては大きな個人差がある。実際、勝敗を競うことを目的 とするゲームの多くについては、こうした個人差があることが、ゲーム の魅力の大きな部分を占める。しかし、へぼな将棋指しであろうが、将
棋の名人であろうが、「将棋ができる」という点では同じである。「将 棋ができる」と判定されるために必要なことは、将棋の規則を知ってい ることだけだからである。規則を知っていることと、その規則をどれだ け巧みに応用できるかということとは、別のことである。言語の場合も まったく同じである。本来「言語の知識」と呼ばれるべきものは、言語 の規則を知っていることであり、その規則をさまざまな局面でもっとも 有効に使えるかどうかを、そこに含める必要はない。 (3) しかしながら、規則そのものの知識を、それの運用にあたっての知識か ら区別するだけでは、同じ言語を身につけているひとのあいだに存在す る個人差のすべてを説明することはできない。もっとも明瞭なのは、ひ とによって、知っている言葉や言い回しが大きく相違することである。 こうした相違は、規則の運用に関する知識における相違というよりは、 知っている規則そのものの相違のように思われる。ゲームとの類比がこ こでも助けとなる。ある程度複雑なゲームの場合には、そのゲームが 「できる」と言われるひとのすべてが知っているとは限らない規則が存 在する余地がある。それは、たぶん、つぎの三つの場合のいずれか— ただし、二つ以上の場合に同時に属するケースもあろう—である。(a) ごくたまにしか生じないゲームの局面にのみ適用される規則、(b) 後か ら新しく導入される付加的規則、(c) ローカルにしか適用されない付加 的規則。こうした類の規則に関しては、それを知っていることは、その ゲームを「知っている」ための必要条件ではない。この類比を言語の場 合にどう適用したらよいかは、ほとんど自明であろう。 (4) 最後に、身につけた言語について、それを「少し知っている」とか「よ く知っている」と言うのがなぜ奇妙であるかを、ゲームとの類比でさら に明らかにすることもできる。神経衰弱や七並べのような単純なゲーム に関しては、それを知っているか・知らないかの区別があるだけであっ て、その知り方に程度が存在する余地はない。それでも、こうしたゲー ムはただひとつの規則から成っているわけではない。ゲームを規定する 複数の規則の全体を覚えなければ、そのゲームを覚えたことにはならな い。より複雑なゲームの場合には、前項 (3) での (a)–(c) に分類される ような副次的規則を知らなくともよいが、それでもなお、それ以外の規 則を全体として知っているのでなくては、そのゲームを「知っている」 とは言えない。 第一の反論—母語は規則を通じて習得されるのではない このように見てくると、言語的活動をゲームになぞらえて、その規範性の 由来を規則の存在に求めるという考えに、多くの利点があることは明らかで
ある。実際、言語学者や哲学者は、「文法規則」とか「意味論的規則」といっ た具合に、言語に関して規則を語るのが常である。だが残念ながら、この考 えがそのままでは維持できないこともまた、あまりにも明らかではないだろ うか。ゲームを覚える—できるようになる—には、二通りのやり方があると 先に述べた。ひとつは、規則を教わるやり方であり、もうひとつは、他人が そのゲームをやるのを繰り返し観察して、そこから規則を推測するやり方で ある。ひとが言語を覚えるのも、このいずれかのやり方によると考えられる だろうか。母語ではない外国語を覚える際にはたしかに、このどちらかの方 法によるだろう。学校で教わったり、本やテープを通じて外国語を学ぶ場合 が、第一の種類のやり方であり、実際に現地で暮らすうちに覚えるというの が、第二の種類のやり方だろう。しかしながら、母語を覚える過程は、この どちらでもない。われわれには、幼児のときに、日本語の規則を教わった記 憶もなければ、日本語の規則に関して推測を立てた記憶もない。 また、実際、そうした仕方で母語を身につけるということは不可能のよう に思われる。人から教わる場合でも、経験から推測する場合でも、ゲームの 規則はそれとして提示される必要がある。両者の場合のちがいは、その提示 の様式のちがいでしかない。一方では「これが規則だ」という形で提示され るのに対して、他方では「これがたぶん規則だろう」という形で提示される というだけである。いずれの場合も、規則は、その表現を通じて提示される。 そして、表現は理解される必要がある。規則をそれとして教わる場合には、 提示された表現がどのような規則を述べているのかが理解される必要があり、 経験を通じて推測する場合には、その推測の表現を自らに対して提示できる 必要がある。生まれ落ちてきた赤ん坊は最初から母語以前の「言語」をすで に身につけているのだとでも考えないかぎり、こうしたことは明らかに不可 能である。 第二の反論—規則の知識は言語的行動の説明のなかに場所をもたない ゲームは、その規則によって特徴づけられる。それゆえ、ゲームの規則を 述べることは、その規則によって特徴づけられるゲームの完全な記述を与え る。同様に、もし仮に日本語の規則というものがあったとするならば、その全 体を述べることは、日本語の完全な記述を与えることになろう。だが、ゲー ムの場合、規則は、単に、ゲームの記述を与えるだけではない。ゲームの規 則は、そのゲームの参加者の行動を説明する際に本質的な役割を果たす。野 球の規則を抜きにしては、ボールを投げたり打ったりといった一連の行動を、 いい年の大人がしていることは、まったく不可解となろう。野球の規則に訴 えることによってはじめて、グラウンドのなかの大人たちの行動は説明でき るものとなる。もちろん、こうした説明は、野球のようなゲームがひとびと の生活のなかにおいてどのような意義をもつかという、もっと広範囲にわた
る説明のなかに位置づけられねばならないが、そうした説明を前提とするな らば、この大人たちの行動の説明は、おおよそ、つぎのようなものとなろう。 すなわち、かれらは野球というゲームをしているのであり、野球の規則では、 こうすべきだということを知っているから、それにかなった振る舞いをして いるのだといった具合である。この説明において、ゲームの参加者がゲーム の規則を知っているということは、決定的に重要である。この事実を欠いて は、こうした説明は成り立ちえない。ゲームの特定の局面で、ひとがある特 定の振る舞いをしたことの説明は、その特定の局面において適用されるべき 規則をそのひとが知っていて、その規則からその際何をなすべきかを引き出 したことに求められるからである。つまり、ゲームの規則は、ゲームの記述 を与えるとともに、ゲームの参加者におけるその知識を通じて、ゲームの参 加者の行動の説明を与えるという、二重の役割を果たしている。 言語的活動において規則がこの二重の役割を果たしていると考えることが できるだろうか。ゲームの規則がゲームの参加者の行動の説明を提供できる のは、その規則の知識をゲームの参加者に帰属できるからであった。こうし た規則の知識の帰属を正当化するものとして、ふたつの事実が挙げられよう。 (1) ゲームの特定の局面において、ひとがある特定の行動を取ったことを、 規則を引き合いに出して本人が正当化できること。 (2) ゲームができるようになる過程において、規則を学んだり推測したと いう経験が必要であること。 ところが、言語の場合には、このどちらも成り立たない。先にも述べたよう に、母語を学ぶ過程において、規則がそれとして現れることはない。また、あ る言い回しが正しいとか間違っているという判定を下す際に、何らかの規則 に訴えるということはないわけではないが、そうした規則が持ち出されるの は、言語学者の言う意味での「母語の知識」に属する部分ではなく、文字の 読み書きに関する事柄であるとか、必ずしも一般的でないような言い回しに 関する事柄のように、本来の意味での「母語の知識」から排除された部分に ついてである。たとえば、日本語の「てにをは」の使い方を例に取ろう。も ちろん、「てにをは」の使い方がおかしいひとは、日本語を母語とするひとの なかにも、いないわけではない。だが、明らかに正しいとされたり、明らか に誤りだとされたりするケースについては、日本語を身につけたひとならば、 即座にその正誤を判定できる。だが、その判定をどのような規則に訴えるこ とによって行ったのかと聞いても、はかばかしい答えは返ってこないだろう。 せいぜいのところ、「この場合にはこうは使わない」とか「これでおかしくな い」といったことぐらいであり、「この場合」とは一般的に言ってどのような 場合であるのかとか、「おかしくない」のはどのような場合であるのかといっ たことを規則の形で述べた答えが戻って来るとは期待できない。
結びに代えて—言語的規則の身分 ここまで見てきたように、言語的活動をゲームとの類比によって説明しよ うとすることは、大きな障害にぶつかる。とりわけ、言語とゲームとの類比が くずれるのは、ゲームの規則がその明示的表現を通じてはたらくという点に ある。ゲームがその規則の明示的表現を通じて学ばれるだけではない。ゲー ムの局面においてひとが行うことが「正しい」か「正しくない」かという判 定もまた、明示的に表現されうる規則に照らして判定される。そうした正誤 の判断を、ゲームを習得したひとが下せるのは、そのひとが規則を参照でき るからである。そして、参照されるべき規則は何らかの形で明示的にそのひ とに現れている必要がある。 しかし、ごく一般的に、言語的活動の規範的性格が、規則の存在に由来す ると考えることが仮に正しいとしても、そうした規則のすべてが言語の使い 手に明示的に現れていることはありえないと論じられるように思われる。 規則が明示的に与えられているということは、その規則の言語的表現が与 えられているということである。だが、この言語的表現自体、理解されるの でなければ、それによって表現されている規則は、言語の使い手の言語的活 動と無関係の余計なものでしかない。しかし、規則の言語的表現は、常に誤 解される可能性をもつ。それを防ぐために、新たな規則を立てたとしても、 与えられるものが新たな規則の表現であるかぎりは、同様の誤解の可能性は 残ったままである。むしろ問題は誤解の可能性を防ぐことではないと言った 方がよい。表現は表現であるかぎり、正しい理解と誤解との両方を許す。そ して、ここでの「正しい」「正しくない」という規範的評価の根拠として、新 たな(規則の)表現を持ち出すことは、いっこうに事態を改善しない。なぜ ならば、今度は、この新たな表現の理解と誤解とを分けるものは何かが、あ らためて問題となりうるからである。つまり、言語的活動が規則にもとづく 規範的活動だと考えるならば、その規則がすべて明示的に与えられていると 考えることはできない。 多くの言語学者や哲学者が目指していることは、言語的活動を律する規則 のすべてを明示的な仕方で取り出すことである。だが、そうした規則が仮に あったとしても、実際の言語使用者にとっては、その全体が明示的な形で現 れることはありえない。では、言語学者や哲学者の言う「言語の規則」は、実 際の言語使用者とどう関係するのだろうか。そこには、まったく何の関係も ないのだろうか。もしも関係があるとするならば、それは、どのような関係 なのだろうか。「言語の知識」という言い方は、それが「知識」と呼ばれるべ き関係だということを示唆する。だが、明示的な形では与えられていないも のとの関係を「知識」と呼ぶことは、そもそも正当なのだろうか。それとも、 事態はもっと悪いのだろうか。つまり、明示的に与えられていようがなかろ うが、言語的活動を律する規則があり、それが言語的活動の規範性の源泉だ
と考えること自体、誤りなのだろうか。
読書案内
結局、この章では、「言語の知識」にまつわる問題の入り口まで読者を案内 するだけのことしかできなかった。その先を考えたいひとのために、参考と なる本を何冊か挙げておこう。 まず、言語学者が言語の知識ということでどのようなことを考えているか を知りたいひとには、つぎの本がすすめられる。たくみな語り口と豊富な話 題で、読む者をあきさせない。 スティーブン・ピンカー、椋田直子訳、『言語を生みだす本能』(The Language Instinct , 1994)、一九九五年、NHKブックス。 現代言語学の代名詞ともいえるチョムスキー自身による、本格的な議論は、 つぎに見られる。 N・チョムスキー、井上和子・神尾昭雄・西山祐司訳、『言語論』 (Reflections on Language, 1975)、一九七九年、大修館書店。 「言語の知識」という概念の問題性について論じた欧米の文献は多数ある のだが、日本語で読めるものは少ない。ここでは、必ずしもこの問題を主題 的に論じているわけではないが、「言語の知識」という問題をめぐる議論の背 景を知るために欠かせないものとして、つぎの二冊を挙げておく。 D・デイヴィドソン、野本和幸・植木哲也・金子洋之・高橋要訳、 『真理と解釈』(Inquiries into Truth and Interpretation, 1984)、一九九一年、勁草書房。
ソール・クリプキ、黒崎宏訳、『ウィトゲンシュタインのパラドッ クス』(Wittgenstein on Rules and Private Language, 1982)、一 九八三年、産業図書。