秋 田大学教育学部研究紀要 人文科学 ・社会科学部門 53pp43‑53 1998
近代 なき 「 近代 の超克」
‑ 「 世界史的立場 と日本」の意味 一
服 部 裕
Di eBede ut ungde sGedanke ns" De rUe r wi ndungde rMode r ni t
at
"vonde nJapani sc he nl nt e l l e kt ue l l e n i nde n40e rJahre nde s20.Jahr hunde r t s
HiroshiHATTORI
Zusammenfassung
Heutemehrals50JahremachBeendungdesZweitenWeltkriegeshabendieJapanernochkeine einheitlicheAuffassungvonderelgenenKriegsvergangenheitnitdermilit益rischenAktioninAsien.
DieErkenntnis,dabessi°hohneZweifelum dieInvasionvom JaPanischenMilit益rhandelt,istder JaPanischenGesellschaftvonheutebzw.iiberhauptderNachkriegszeitnichtgemeinsam.Jeweiterdie Vergangenheitsickzeitlichentfernt,destotriiberwird dieErinnerung derJapanerdaran.In der Verdr左ngung derErinnerung an dieschuldhafteVergangenheitwird heutediePropaganda eifrig durchgefthrt,dabessi°hum einenKriegzurBefreiungderasiatischen Landervom Kolonialismusder europaischenMachtehandle.SoeineAuffassunggabesinderNachkriegszeitelgentlichstandig,denn dieJapanerhaben Gelegenheiten bewuBt verpaBt,si°h die eigene Verantwortung klarzumachen.
Andersistaberheuteinden90erJahren,wennsolcheMeinungvielmanifesterdennJealsneuartlger NationalismusgeauBertwird.DerI‑iBtsichals"LiberalistischeGeschichtsbetrachtung"bezeichnen.
Warum wollendieheutlgenJapanerFehlerundVerantwortungenvonderelgenenVergangenheit nichterkennen?WieentstehtsolcherneuartlgeNationalismus?AngesichtsdieserFragenlaBtsich herausstellen,dabdereineneueVersiondernationalistischenGedankenYonden40erJahrendarstellt, diesi°hals"dieUberwindungderModernitat"oder"derweltgeschichtlicheStandpunktundJapan"
bezeichneten.DasfaschistischeMilit註rreglmeistzerfallen.SeineIdeologiehatdennoch durch die Nachkriegszeitbisheute'tlberlebt.IndervorliegendenArbeitwirdalsoversucht,theoretischeFehlerder GedankenYonden40erJahrenundauchdiegedanklicheVerwandtschaftderheutigenneonationalisti‑ schenGeschichtsbetrachtungdamitklarzustellen.
は じめに
アジア太平洋戦争並 びにそれに至 る日本帝国のアジア 諸国侵略に対す る責任 と罪の自覚 は,同戦争の敗戦か ら 52年が経過 した今 日で も未だに日本社会,つまりわれわ れひとり一人 の 日本人 の共通 の意識 として定着 していな い。 日本軍731部隊の細菌戦や従軍慰安婦 の問題, あ る いは南京大虐殺 など日本帝国の侵略性を明 らかにす る個 別 の事実 の認定す ら,幾多の客観的証言 に も拘 わ らず, 現在 に至 る半世紀余の長 さにわた って一度 た りとも日本
人の共通認識 にな りえていない。む しろ敗戦か ら時が経 てば経っ ほど過去 の記憶 は人 々の意識下 により深 く封印 され,今や50余年前 に くだんの戦争があ った ことさえ知 らず,戦争 といえばテ レビ画面が映 しだ した湾岸戦争 の ごときファ ミコンゲーム的 シュ ミレーション戦争 しか想 起で きない世代が氾濫 している。 こうした若 い世代の無 知 と幼稚性 は,先の戦争を直接 あるいは間接 に十分知 っ ている世代,つ まり日本社会 その ものが内包す る無知 ‑ 無恥,幼稚性, さらに邪悪性が意図的に産み出 した もの であるといえる。
このよ うな自国の加害性 に対す る認識 は,新保守主義
の知識人や 「ゴーマニズム宣言」 の著者 などにみ られ る 最近の所謂 「自由主義史観」か らす ると 「自虐史観」 と い うことになるらしい。 もとより1965年以来の 「家永教 科書訴訟」が示す通 り, 日本国政府 は戦後一貫 して過去 における自国のアジア侵略の事実 その ものを否定 し続 け るとともに,教科書検定 によって国家権力 による表現 ・ 教育 ・学問の自由への介入 と歴史的事実 の隠蔽を図 って いる。
また三次 にわたる同訴訟 は,歴史 に対す る司法権の在 り方を も示 してい る。 第二次訴訟 にお ける東京地裁 の
「杉本判決」(1970年)が,教科書検定 その ものを憲法違 反 として認 めた ことを除いては,残 り計9回 の判決 はす べて検定その ものは合憲 としている。 その中で特徴的な のは,上級裁判所 ほど検定の違憲性並 びに違法性 に対す る判断が甘 いとい うことである。一次訴訟では地裁 によ る検定意見の一部違法 という判断が,高裁および最高裁 ではすべて適法 にな り,二次訴訟では,地裁の 「杉本判 決」 は高裁で 「検定 は合憲,検定処分 は遵法」 に トー ン
ダウンし,最高裁では差 し戻 し判決が言 い渡 され,結局 提訴 は却下 されている。 わずかに第三次訴訟 の最高裁判 決 (1997年8月29日)だけが,地裁 ・高裁段階 での具体 的な検定意見 の遵法箇所 を, それぞれ1ヶ所 と3ヶ所か ら 4ヶ所 としているにす ぎない。 こうした事実 は, 本来独 立のはずの司法権があたか も行政権 による歴史 の担造 を 支えているかのような印象 を与え る。 これは家永裁判 の 弁護人 の一人である尾山宏が指摘 しているように,政府 による最高裁判事任免 の問題 と関わ りがないとはいえな いと考え られ る。(1)
こうした政府 および司法の姿勢を背景 に して,すでに 述べたように一部 の知識人 は歴史的事実の認定を 「自虐 的な歴史観」 と断 C,従軍慰安婦 も731部隊 の細菌戦 も 南京虐殺 も, さらには日本のアジア侵略その ものす ら否 定す ることによって,歴史を担造す る世論作 りに励んで いる。「従軍慰安婦 は自由意志 による売春行為であった」
とす るような 「自由主義史観」 によって,今現在 日本人 の 「記憶 (歴史) の危険な浄化」(2)は確実 に進 め られて いるのである。
この日本人 の 「記憶浄化」が示 しているのは,現在の 日本社会が示す民族主義的性格が,戦後 日本の経済的世 界制覇 の自負心 に咲いた単なる徒花であるとい うことで はな く,戦前 ・戦中に生 きた日本人の精神的アイデンティ ティを支えていた意識, つ ま りア ジア諸民族 に対 す る
「日本民族 の優越性」 の意識 と直線 的 に繋 が って い ると い うことである。 これは, 日本の戦後史が敗戦後ゼ ロか ら再出発 したのではなか った ことを意味 している。戦後 の 日本社会 は制度的には所謂民主主義へ と大 きく転換 さ れたが,戦前か らの 日本人 の精神性 の底流 は決 して断た
れ ることはなか った。 それは,敗戦 によって軍国主義 は 崩壊 した ものの,「大東亜戦争 を必然 た らしめた 日本近 代」(3)の本質を示す 「近代 の超克」 とい う思想 が戦前 ・ 戦中 ・戦後を通 じて一度 た りとも真 に省察 され ることが なか った,つまり 「内在的に否定 されて いない」(4)とい うことに起因 している。侵略戦争 とファシズムを可能 に した戦前 の 「思想的錯誤」(5)を 自 らの力で否定 しない ま ま生 き続 けて きた戦後 の民主主義 には,つねに戦前 の亡 霊がつ きまとって い るので あ る。 この意 味で, 上記 の
「記憶の浄化」 は決 して偶然の産物 とはいえない。戦前 ・ 戦中の知識人の思想 と侵略戦争 との関係を 日本 の近代史
に定位す ることな しに,今を生 きる日本人 の内面深 くに 流れ続 け,今 また呼 び覚 まされようとしている 「思想的 錯誤」のメカニズムを解明す ることはで きないはずであ る。本稿では,1941年か ら 「世界史 的立場 と日本」(6)と いう名の もとに行なわれた京都学派 の一連 の座談会 と, 座談会の参加者 の一人 で あ った高坂正顕 の 『民族 の哲 学』(7)において表明 された戦前 の知識人 の思想 を跡 づ け ることによって,彼 らが軍国主義 日本のアジア侵略 とい う蛮行 に 「知的言説」 を付与 しようとした内的 メカニズ ムを明 らかにす ることを目指す。 それによって,近代 日 本が今 に至 るまで克服 しきれない前近代性 の所在が,明
らかになるはずである。
1.近代の超克
明治期以降の 日本社会の急激 な近代化 (資本主義化, 工業化,中央集権化,都市化 など) は, その急激 さ故 に 多大な歪みを内包 しなが ら進展 していった。社会 の工業 化 ・都市化が一定の水準を越える時期つま り大正中期 に なると,近代化 に生み落 とされ,それを支えて きた労働 者 の社会的要求 は激化す る。明治期 の富国強兵 に主眼を おいた政策では, もはや人々の欲求を社会的に も個人的 に も満足 させ ることはで きな くな って いたわ けで あ る。
所謂 「大正 デモクラシー」は,それまで近代国家に向かっ てハイペースで走 り続 けていた日本社会が,表層的な近 代化か ら,個 としての人間の権利を保障す る近代精神の 獲得へ と軌道修正すべ き歴史的な転換点 にな っていたは ずである。 しか し現実 は,国家 も国民 もその実現へ歩 を 進 めるにはあまりに未成熟であった。 もとより日本の近 代主義者 には国家主義的 な視点か らの近代化 に しか関心 はな く,国民国家の形成を求めた明治初期の福沢諭吉 な どの例外 はあったに しろ, 自由なる個人 の育成 による近 代国家の建設 など眼中になか った。結局の ところ,近代 精神の発展なき近代化が行 き着 いた先 は,富の分配 の不 平等,工業化 と都市化の犠牲 にな った農村社会 の疲弊, あるいは資本主義の更なる発展が望 めない閉塞感 などに
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服部 裕 :近代なき「近代の超克」
よる日本近代の行 き詰 ま りであ った。
日本近代 の閉塞状態を打開 しようとい う試みは,政治 的および社会文化的のいずれの場合で も極端 な形で為 さ れた。政治的には, 日露戦争 によって獲得 した朝鮮半島 の支配 と,中国東北部 における権益 を拡大 しようとす る 膨張政策が推 し進 め られ る。その一方で,近代化 (文明 開化) に新 しい時代 と社会 の到来を託 した ものの,現実 は社会の荒廃を目のあた りにせざるを得なか った都市民 衆や知識人 は, 日常生活 の退廃的享楽や精神的デカダン スに逃避す る以外 になか った。 そ うした風潮のなか,明 治以来 の近代主義 を批判 し否定 しようとしたのが,文芸 的には日本浪漫派であ り,政治的にはクーデターによっ て天皇親政 を目指 した若 い将校達であ ったといえる。 い ずれ も,西洋近代 の価値観 こそ 日本近代の行 き詰 ま りの 元凶であ ると考え,近代主義 の否定な くしては日本の再 生 はない と考えていた。
このよ うな近代主義 に対す る懐疑 と閉塞感 のなか, 日 本の軍部 による中国大陸侵略 は拡大 し,国際社会 におけ る日本 の孤立化 は進んでい く。 こうした世界状況が, さ らに日本 の知識人 を西欧の近代思想か らの離反へ と向か わせ ることになる。正確 にいえば,西欧の近代を全否定 しようとす る意味での 「離反」ではな く, それか ら学ぶ べ きことは学んだ とい う前提 と,「西洋 の没落」 が西欧 その ものか ら伝わ って きているいるという認識 の上 に近 代を超克 しようとい う意識である。満蒙処理および日中 戦争 とい う出口が見えない問題 に直面 していた知識人た ちは,西欧の近代思想 を超えた 日本独 自の思想を構築す ることによって,当該 の問題 に何 とか理論的解決 を斎 ら そ うと苦慮 していたので あ る。 しか しこの作業 には,
「文明開化 の論理の終蔦」を唱えた 日本浪漫派 にみ られ る暗いデカダンな雰囲気がつ きまとっていた。そんな暗 い時代 の知 的煩 悶か ら知識人 を一挙 に解放 した の が, 1941年12月8日の 日米開戦 の報であった。 開戦以後, 西
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欧近代の克服 は達成 されなければな らない歴史的現実 と 映 じたためである。開戦 の翌年開催 された文学界誌上で の座談会 は,司会役の河上徹太郎 によって 「近代の超克」
と名づ け られるが, これがその後知識人たちの解決すべ き課題 の符牒 にな り,上記 の問題の理論的解決の試みを さ らに促す ことになる。彼 らが当時 どのような意識 と雰 BfI気のなかにいたかは,以下 に掲 げる座談会 の結語 のな かの河上徹太郎の言葉がよ く表わ している。
この会議が成功であったか否か,私 にはまだよ く分■●●●
か らない。 ただ これが開戦一年 の問の知的戦懐 の うち に作 られた ものであることは,覆 うべ くもない事実で ある。確かに我 々知識人 は,従来 とて も我 々の知的活 動の真 の原動力 として働いてゐた 日本人の血 と, それ
を今 まで不様 に体系づけてゐた西欧知性 の相克のため に,個人的にも割 り切れないでいる。会議全体を支配 す る異様な混沌や決裂 はそのためである。そ うい う血
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みどろな戦 ひの忠実 な記録であるといぶ ことも,識者 は認 めて下 さるであろう。(8)(傍点 は引用者 による)
ここには,彼 らが時代の大 きな うね りに強い衝撃 を受 けた様 と同時 に,彼 らの内面 には民族の 「血」 とい うあ る種暗 く非合理的な観念 と西欧的な明噺な合理性が,割 り切 り難 い形で同居 している様が読み取 れ る。 「日本人 の血」 と 「西欧知性」 とい う,互 いに相容れ難 い精神の 狭間における知的葛藤を一挙 に吹 き飛ば して くれたのが, 対米開戦,つ まり理論ではない戦争 とい う現実その もの であ った。 これが 「知的戦懐」 の意味するところである。
この意味で,彼 らが模索 した 「近代 の超克」への理論 は 戦争 という現実 を準備す るほどの思想的な力 は持 ちえな か った, ということを指摘す ることがで きる。 それはむ しろ,袋小路 にはまって しまった知的閉塞状況か ら, ど んな形で もいいか らとにか く脱 出 したいとい う,親実追 従的性格 を持 っていたと考え られ る。袋小路 に突破 口を 開いて くれた対米開戦, あとは 「西欧知性」 をの り超え るべ き 「日本人の血」 による理論 を打 ち立て るだけでよ い。 これが当時の知識人 の平均的意識であった。 しか し
「異様 な混沌や決裂」 とい う表現 が示 して い るとお り, 結果的に 「近代の超克」座談会か らは何 ら統一的な理論
は生 まれなか った。 これはまず第‑ に,座談会 に出席 し た当代 の知識人 たちが互 いに異 なる思想 グループに所属
していたため(9),西欧近代および日本近代 に対 す る考 え 方がかな り相違 していたためと考え られ る。 さ らには, いずれの意味 に しろ西欧の近代精神を範 として自己形成 して きた近代 日本の知性 にとって,獲得 した西欧近代の 言葉で西欧近代その ものを超克 し, それに替わる新 たな 言葉を見つけだす ことは極めて困難な作業 に違 いなか っ たか らである。 日本浪漫派が 日本 における近代主義 の否 定だけを念頭 に置 いていたのに対 して,「日本 の近 代性 の克服 なんぞわけはない」(10)と言 い切 った小林秀男 の次 の言葉 は, その ことをよ く示 している。
[・・‑・]近代の超克 といふ ことを僕等の立場で考え ると,近代が悪 いか ら何か他 に持 って こようといぶや うな ものではないので,近代人が近代 に勝つのは近代 によってである。僕等 に与え られている材料 は今 日あ る材料 の他 にはない。 その材料の中に打 ち勝つ鍵 を見 付 けなけれ ばな らん といふ ことを僕 は信 じて居 りま す。(ll)
2.民族の哲学
近代 を超克 しようとす る思想が戦争 その ものを準備 し たのではないに しろ,結果的に戦争 とい う現実 に引 っぼ られて形づ くられたイデオロギーであった ことは否定で きない。 その意味で, このイデオロギー自体 が戦争責任 を担 っているか どうか は別 として, その思想 としての誤 謬性 は免れえない。否, まさに戦争 とい う既成 の現実 に 対 して自律性 を保 ち得 なか った という意味 において,そ れは思想 た りえていなか った ともいえ る。 に も拘 わ らず この思想 は戦争 との暗 く危険な関係 とい うイメージのお 陰で,わずかな例外を除いて(12),む しろその誤謬性 と未 熟成が検証 されないまま,戦争 の忌 まわ しい記憶 ととも にただ過 ぎ去 った もの として忘却の中に封印 され続 けて きた。つ まり, この思想 は社会的に否定 され ることを免 れ,今 日まで 日本人の意識下 に生 き続けてきたのである。
「は じめに」で触れたように,戦後 の教科書検定 問題 に 現われた 日本政府の誤 った歴史認識や最近の 「自由主義 史観」のような新 たな自民族中心主義的な歴史観などは,
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戦後 の日本人が 「近代の超克」を敗戦 とともに到来 した 民主主義体制を以て自 ら内在的に打破 したと錯覚 して き た ことに起因 している。軍国主義 の政治 は敗戦 とともに 消失 したが,西欧近代 をの り超え ることで軍国主義 の理 論的支柱 にな らん とした 「民族 の哲学」 は,敗戦 を境 に 象徴天皇制民主主義 の底流 に潜行 したのである。
「近代 の超克」座談会が結局 は 「異様な混沌や決裂」
のなかに終わ ったといって も,会議全体の雰囲気は終始,
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日本民族が如何 に して西欧近代 をの り超えて アジアの盟 主 た らん とす るか とい う意志 に満 たされている。 そんな なかで,京都学派を代表す る鈴木成高 と西谷啓治 の発言 は最 も確信 に満 ちた ものであ った。 それは彼 らが,すで に 「近代の超克」座談会 より半年以上 も早 い1941年 (昭 和16年)11月16日,つ まり対米開戦の直前 にアジアにお ける日本民族 の優越性 と盟主 としての役割を理論づ けよ うとしていたためである。 その 日,先 に挙 げた二人 に高 坂正顕 と高山岩男が加 わ り,「世界史的立場 と日本」 と 題 した座談会を行 なっている。 さ らに開戦を挟んだ42年 (昭和17年)3月 4日には第二 回 目の座談会 「東亜共栄 圏の倫理性 と歴史性」 を,そ して戦局が泥沼化 し始 めた 42年 (昭和17年)11月24日にはそれを支えるかのように 第三回 目の座談会 「総力戦の哲学」 を行 な って い る(13)。 つま り時間的にみると,京都学派の前二 回 の座談会 が, 42年 (昭和17年)7月 に行なわれた座談会 「近代の超克」
に先行 した ことになる。すでに 「世界史 的立 場 と日本」
と 「東亜共栄圏の倫理性 と歴史性」 において,京都学派 は日本 の軍国主義が現実 に推 し進めているアジア侵略 と 対西洋戦争 の理論的支柱を明快 な図式 として打 ちたてて
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いる。そ こには,「近代の超克」座談会 において主 に文 学界 グループにみ られる知性の迷 いや葛藤 はあまり感 じ
られない。明 らかに現実 に引 きず られなが らも現実か ら 自律 した純粋理論 の確立 を装 う, いかにも学者然 とした 図式的な論理性 に貫かれた 「教義学」(14)が展 開 されて い る。
「私 は自分が世界史の根本理念 としたものに誤謬があっ た とは思わない。私 は戦争の有無や勝敗 によって左右 さ れ るような理念を考えたので はないか らで あ る」(15)とい う高山岩男の戦後 の言葉 は現実 に対す る思想 の自律性を 改めて強調 した ものだが,結果的には彼 らの思想 は日本 帝国主義 および天皇制 ファシズムを擁護す る以外の機能 は持 ち得なか った ことを考えると,現実 に対す る知性 の 責任回避 としか響かない。
しか し現在 の日本人 に直接つなが っているより深刻 な 問題 は,京都学派 の 「民族の哲学」の誤謬性が,高山岩 男 自身の言葉が象徴す るよ うに,戦後 の日本社会 におい て決 して真 に認識 されることな く現在 に至 って しまって いることにある。 アジアの諸民族 に対 す る優越意識 は, 現在で も本質的に戦前 のそれ とまった く変わ っていない
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といえ る。戦後 の西 ドイツが一貫 して ヨーロッパのなか の ドイツの再生を目指 して きた原点 には,つねに徹底 し た脱 ナチ化政策 によって戦前 ・戦中の自民族中心主義 を 社会的にも国民的にも克服 しよ うとい う意識が働 いてい た。 これが, 自民族の優越性 の意識を引 きず ったままア ジアのなかで遊離 し続 けて きた 日本 との違 いである。
京都学派の三回 に自 る座談会で取 り上げられた論点は, 高坂正顕が 『民族 の哲学』(16)で主張 して い る考 え方 とほ ぼ一致 している。 『民族 の哲学』 は1941年 (昭和16年) の夏 に書かれた 「民族 の哲学」, 日米 開戦 直前 の秋 か ら 書 き始 め られ, ほぼ開戦当時 に書 き上 げ られた 「大東亜 共栄圏への道」, そ してそれに続 く年末 か ら42年 (昭和 17年) の年頭 にかけて書かれた 「戦争 の形而上学」の三 つの論文か ら成 っている。一見 してわか るとお り,主題 的にこれ ら三つの論文 は 「世界史的立場 と日本」をは じ めとした三回の座談会 と内容を一 に している。 さ らに時 期的にみると,高坂論文がつねに 「世界史的立場 とE]本」
およびそれ以降の座談会 (以下 「座談会」 と呼ぶ) に先 行 している。 この二っの点か ら,座談会 の議論 はほぼ高 坂理論 に沿 って展開 していると判断で きる。現 に各座談 会 は,例外な く高坂 の問題提起 によって開始 されている。
そ こで,座談会の論理をよ り明確 にす るためには,高坂 論文 との突 き合わせが不可欠であると思われ る。
京都学派 の知識人が 「世界史的立場 と日本」 において 目指 していた ものは,一言で言 うと, ヨーロッパ近代 の 世界支配 の終蔦 に際 して生 まれつつある新 しい世界 の秩 序 を担 うべ き 「世界史的立場」 の理論 を獲得 しようとい
服部 裕 二近代 なき「近代 の超克」
うことである。近代 ヨーロッパの思想を主にランケやディ ル タイなどの19世紀 ドイツの歴史主義的哲学を介 して学 んだ京都学派 は,「世界史的立場」 の理論 は飽 くまで も 歴史主義的な方法論 によって ヨーロッパ近代精神を克服 す ることによって こそ到達で きると考えていた。西欧的 歴史主義 の克服 としての 「世界史的立場」 は,西谷 の言 葉では 「歴史主義 を通 しての歴史主義 の克服」(17)とい う
ことになる。
彼 らは, それまでの世界史 とはヨーロッパおよび ヨー ロッパが支配す る地域 の歴史であ り, ヨーロッパ人 は世 界を 「ヨーロッパの拡張 とい う立場か ら考 ‑ る」(18)と認 識 していた。 その意味で, それは彼 らにとって真の世界 史ではな く,「本当の世界史 といふ ものは二十世紀になっ て始 まっている」(19)のである。つま りヨー ロ ッパ外 の世 界が ヨーロッパ と対抗 し得 るようにな ったのが二十世紀 であ り, ヨーロッパ支配を脱 し始 めている二十世紀 こそ が世界史の始 まりであると考える。 そ して ヨーロッパ と 対抗で きるヨ‑ロッパ外 の国家が,正 に日本であるとい うことになる。 これが彼 ら京都学派が素描 した20世紀前 半の世界像である。 これは理念的には,19世紀以来のヨー ロッパ帝国主義 の世界支配を日本をはじめとしたヨーロッ パ外世界が打破すべ Lとい うことであるが,現実的には 古 くは日露戦争,近 くは満州事変以来の 日本の大陸侵略 を新 しい世界史の始 まりと位置づけて い るに過 ぎない。
つまり,満州事変以降の日本の軍事的膨張政策を客観的 に分析す ることな しに,工業化 と軍事大国化 とい う表層 的な近代化を基盤 に した世界進 出を, アプ リオ リに ヨー ロッパ近代の克服 と措定 しているだけの ことである。彼 らの関心 は,机上でその措定 に論理的な言辞 の衣を着せ ることだけであった。彼 らが理論 の前提 とした軍事的侵 略で他民族の幾多の血が流 され,おびただ しい数の破壊 が行 なわれた ことなど,彼 らにとってはどうで もよいこ とであった。新 しい世界史の時代 の理論を構築 し,その 理論 を以て 日本が世界史的立場 を担 うにふ さわ しい民族 た らん ことを証明す ること,ただそれだけが 「世界史的 立場 と日本」の目指す ところであ った。
新 しい世界像を描 き出すのは新 しい哲学である, と京 都学派 は考える。彼 らの新 しい哲学 とは,西欧近代 の歴 史主義 に替 わる 「世界史の哲学」を意味 している。高坂 日 く,「世界歴史の構想が具体的に実現 され る場合 には, 民族の問題 は不可避的」であ り,「民族 の哲学 は世 界史 の哲学 にとって,方法論的序説の意義 を有つのであ る」.'20)っまり高坂 の民族 の哲学 は, 世界史 的立場 を担 うにふ さわ しい民族 とはいかなる民族 なのかを明 らかに しようと企てた ものであるといえる。
民族 の哲学 を考 える際,高坂 はそれに関わ る要素 とし て種族 (人種),文化 国家 とい った諸概念 を引 き合 い
に出す。彼 はゴビノーの人種論(21)を取 り上 げて, まず 種族 と民族相互の関わ りと相違のなかに,民族 の概念を よ り明確 に しようとす る。 ゴビノーの人種論 は人種相互 の間 には本来 自然 に定 め られた優劣があ り,それが血の 混交 を通 じて歴史を形成 してい くとす るものである。 こ の考 え方 に対 して高坂 は,「世界歴史 を種 的主体 的 に考 察せん とした点」 は評価す るが, その 「決定論的な人種 観」 は否定 されなければな らないと主張す る。(22)それ は 彼が,人種 とは 「近代 自然科学 の産物」であると同時に,
「血 の純粋性 に基 く種族的優秀性 を主張 す る極 めて政治 狗,政策的な概念」であ り, そのため 「種族が単 なる自 然ではな くしてむ しろ歴史的 自然であ り,却 って民族 の 歴史的基体」 と考えるか らである。(a)っ ま り高坂 は, 人 種概念が持つ 「歴史的世界 の動力 として」(24)の重要性 は 認 めるものの,それを超 える上位概念 として民族 を位置 づ けているわけである。 これは, 日本の世界進出を悦ん だアジア侵略の妥当性を自らの思想,つ まり西欧近代を 超克す る思想 の前提 としている高坂 に してみれば当然の ことである。人種が歴史 にとって最上位概念だ と認 めれ ば,世界歴史の新参者である日本人 はナチスの人種主義 の上位性,つまり白色人種の黄色人種 に対す る優越性 を 認 めざるを得な くな って しま うか らで あ る。 さ らに,
「種的主体性」 は認めつつ 「人種的決定論」 は否定 す る とい う誠 にご都合主義的な解釈で しか,人種主義が含意 す る白色人種 に対す る日本民族 の劣性 を排 除 しなが ら, 同時にアジア諸民族 に対す る民族的優越性 の根拠 を主張 す る論理を獲得で きないか らである。
いずれに しろ高坂 は,民族 を形成す る基体的要素 とし て種族を位置づ けた上で,民族 を等級的な もの として説 明 しようとす る。つまり種族 は民族 に内在す る諸要素の うち血 と土だけを契機 に して成立 した,低段階の民族形 態であるとす る。換言す ると,血縁共同体 および地縁共 同体 に限定 された民族概念が種族 ということになる。そ こで高坂 は種族 を 「自然民族」 と定義す る。 しか るに民 族 を形成す る要素 には,言語や宗教 など他 にも様 々なも のがある。例えばユ ダヤ人 は, ドイツや フランスやアメ リカ合衆国 といった政治的国境を有す る複数の国家のな か に散在 しなが らも, 自らの宗教 と言語 に限定 されてユ ダヤ民族 とい うアイデ ンテ ィティを維持 している。高坂 は これを血縁並 びに地縁 による自然民族 を超えた民族概 念 とし,「文化民族」 と定義す る。
高坂 はこうした民族 の発展形態 を措定す る ことで,
「民族 は単 に自然的ではな くして主体 的 ・自己限定 的 ・ 権威的であろうと」(25)す る 「動 的 な概念」(26)で あ る と主 張す る。そ して,民族 に内在す る主体性, 自己限定性お よび権威が到達す る民族の最高の形態 こそが 「国家的民 族」であるというのである。民族 の基体である 「自然民
族」が,「文化民族」 とい う媒体を介 して最終 的 に 「国 家的民族」 に到達す る。 これが高坂 の措 いた動的な民族 概念 の運動である。 そ して国家的民族が真 に権威的であ るのは,民族 の神話的意識 に保障 されていると高坂 は考
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えた。神話的意識 とは 「自己の集団 を或 る聖 な る もの, 言 はば超越的なるもの との関聯 に於て意識」(那)す ること
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である。その超越的な るもの,つ まり 「超歴史的な事柄
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が, なは歴史の内なる出来事 として語 り伝‑れるところ に,伝説 は成立 して [‑‑]歴史上 の真理 として認 め ら れ」(28), それによって神話的意識 は国家 的意識 と結 びつ け られる。 これが高坂 らにとって,神話意識が国家的民 族を権威的た らしめている理由である。
さらに京都学派 は この国家的民族 に,人間主体 の最高 形態を認めようとす る。つま りそれは,国家的民族 こそ が歴史 において政治的 のみな らず倫理的であ り,かつ実 践的な概念であるとい うことを意味 している。 ここには 人間主体の本源 は個人 ではな く,個人を人間た らしめて いる総体 としての民族 (国家)の精神 にある, とい う ド イツ観念哲学的 な全体論 的 な考 え方 が基調 をな して い る。
このように,京都学派 は西欧近代をの り超えようとす るとき,ただそれを全面的 に否定 して 日本古来のや り方 を推 し進 めればよい と考えたわけではない。つ まり,彼 らは 「世界史的立場」 を獲得す るための哲学 的基盤 を, 決 して国史学や東洋史学に求め られるとは思 っていなかっ た。(29)西欧の近代精神 の根本 にある個人主義 に対 す る態 度決定 には, まさに世界史的視座か らみた彼 らの限界が よ く現われているが, それ と同時 に逆説的には彼 らの学 者 としてのナイーヴな真面 目さも顔 を覗かせている。
ト‑・] ところが近世ではパー ソナ リティは絶対的 な もの‑の関係 の うちで成立す るといふ ことか ら個人 の絶対 といふ意味 に変わ った。 [‑‑] それ は堕落 と いへば堕落だが,同時 に進歩, と言 って悪 ければ少 な くとも前進だ と言へ る所がある。つまり個人が行 きつ く所 まで行 きついた,或 は個人の底 に達 した という感 じだ。 ト‑‑] それで近世人の特色 は この経験, つ ま り自分で見た り触 れた り,一般 に自分で納得 した もの でないと承知 しないといふ所 にあるんぢ ゃないか。そ して科学で も哲学 で も, それ らが近世で旺んにな った ことには,そ うい う意味があるんぢ ゃないか。 [・‑ ‑]
僕 はこれが近世の非常な進歩で,個人主義 の克服 とい ふ ことも一遍 ここまで帰 って出発 しないと,本当には で きないと思ふんだが, どうかね。つまり今迄のや う な,す ぐ国家 とか 日本的 とかをただ天降 り的に持出す だけでは不充分 と思ふんだが‑‑〔3))
「個人」の意義 は認めるという意味で,彼 らは個人主 義 その ものを否定 しようとは しない。彼 らが求めたのは, 西欧の個人主義 に替わる独 自の個人観であった。方法論 はあ くまで西欧近代 のそれを, しか し内容 は日本固有の 価値をあてる, これが京都学派 の四人が探 し求 めた形式 であ ったといえる。 これは,西欧世界 と今現在敵対 しつ つあるとい う現実が,彼 らの思考を限定 していた ことを よ く示 している。思考の陸路 のなかで,彼 らは日本 には 固有 の個人意識が存在す るとい う結論 を導 きだす。高山 は言 うO
[・・‑・]武士 にはまか り違 った ら腹 を切 ってお詫 び す るといふ実 に強烈な自由意識,個体意識 があ った。
勿論 この自由や個人の意識 は無限な利益追求 とか無拘 束 とかいふや うな自由,即 ち近代の町人的市民社会的 な自由 とは違 ってゐる。 けれ どもこれが本当の自由と いふ もの,本当の個人 といふ ものなのだ。 [‑‑] だ か ら僕 は主従関係でで きてゐる封建社会だ って,単 に 全体主義 とか専制主義 とかいふのは間違 ってると思 う。
つまりか ういふ見方 は古 くさい近代 的 な見方 なん だ。
近代 の個人主義か ら逆 に推論 された反対概念 なん だ。
武家の封建社会で は人格的な信頼の関係が基礎だ と恩 ふ。 (31)
ここには明 らかに論理 のす り替えがある。京都学派が 問題視 し,の り超えようとしている個人主義 とは,宗教 的には教会 に, また政治 ・社会的には国家 ・社会 に包摂 されていた個人をそれ らか ら解放 し,個人 の自由を護 る ために, 自 らの責任 に則 り個人間相互の契約を結 び社会 を構築 しようとい う,謂わば自由主義的個人主義 を意味 している。つまり,国家 ・社会乃至 は民族 とは,本来個 人の解放 のための枠 としての意味 しか持たないのである。
しか し高山が言 う 「個体意識」 とは,西欧の個人概念の 本質である個人 の自律性を否定 しているわけだか ら,上 記の個人主義 とはまった く異 なる次元 の ものであると断 ぜざるを得 ない。 これは,他者 に向かい合 いなが ら自律 的な意志で 自己限定 しようとす る近代 的主体 で はな く, 例えば武士道 といった超個人的な倫理観 に限定 されたま さに 「個体」 に過 ぎない。武家社会 に 「なぜ人格 と人格 との間のいはば絶対的な信頼関係があ り得 たか」 とい う 自らの問いに,「絶対的な責任 の主体 で あ る とい う主体 性の自覚」(32)が武士 にはあったか らだ と高山は答え るが,
「絶対的」なのは主体性でな く,武士道 という個人間の 差異を超えて与え られた社会的倫理規定であるに過 ぎな い。 にも拘わ らず, 日本的個体意識 を主張 す る ことで, 西欧的個人主義を超克 したと信 じているわけである。
さ らに高山が華厳 の法界の構造 に倣 って 「個体が全体
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服部 裕 近代 な き「近代 の超克」
と直接 に調和 す るといふ観 念 」(33)を提 出す る こ と は,
「個体」の観念を維持 しなが らも 「全体」 の絶対性 を措 定す る限 りにおいて必然であ り, それ以外 の論理的収束 はあ り得 なか った故であるといえ る。 しか し京都学派が 到達 した この 「個体 と全体 の調和」 とい う考 え方 に も,
ヨーロッパ に哲学的な原型がある。先 に述べた19世紀の ドイツ哲学 には,個人概念 をその総体 としての民族 ・国 民 の概念が包摂 し, それが集合的な個体 として他 のそれ に対峠す るという, ドイツ固有の個人主義観がある。信 仰 における宗教的個人主義 を導入 したルターの宗教改革 は,本質的には神 の絶対性を揺 るぎないものとし,人間 の神への絶対的隷属を基礎づ けた。 このような宗教的権 威主義 は, ドイツ社会の権威主義的 ヒエラルキー化を強 化 し,個人の全体への隷属を決定づ けた。 ヴェーバーが 指摘 しているとお り, ドイツ社会 の権威主義的性格 と儒 教社会のそれ とは本質的に同質のメカニズムを持 ってい
るのである。
家産制が発生的には家父 の権威 に対す る子弟 の恭順 関係か ら生 まれたように,儒教 は,君主 にたいす る官 吏の従属関係,高級官吏 にたいす る下級官吏の従属関 係, なかんず く官吏や君主 にたいす る臣民の従属関係 を,子弟の恭順 とい う基本道徳 の うえ に基礎 づ ける。
国君 という家産制的概念 は中欧および東欧 に特有 な も のであ り, また厳密 に家父長制的なル ター主義 で は, 子弟の恭順 はあ らゆる政治上 の徳性の大本 という役割 をはたすのであるが, これは右の思想系列 に対応す る ものである。かような思想系列 は, ただ儒教 において のみ, はるかに徹底的に貫徹 された。(34)
このよ うに京都学派が 「全体 と個体 の調和」 とい う観 念 に到達 したのは,内在的かつ外在的な要因 によるとい える。 あ くまで も克服す る対象である西欧近代の方法論 に従お うとす る意識が, ヨーロッパ において全体論的な 個人主義解釈を発展 させ,かつ 日本の権威主義的世界観 との共通性を有する ドイツ思想 と共鳴 したのは必然であっ たと考え られ る。高坂や高山 らのオ リジナ リテ ィを見つ けるとすれば,19世紀 の ドイツ思想が国家 と国民 (とし ての個人) との関係 を ヒエラルキー的関係 と捉えるのに 比べ(35),彼 らは全体 と個体 の調和 を 「全体が先だ,個体 が先だ といふのではな く,全体 と個体 の相即」(勅 と して 捉えた ところにある。彼 らはこの相即 の観念 によ って,
自由主義的な個人主義の基盤上 に成 り立 ち,今揺 らぎ始 めていると映 る近代 ヨーロッパの精神を克服 して,新 し い世界の秩序を打 ち立て ることがで きると信 じた。 しか し,如何 に した ら 「全体即個体」 は可能 になるのか。 こ の難問を,彼 らはいとも簡単に解いて しまう。解答のキー
ワー ドは 「絶対無」である。高坂 は言 う。
そのため [新 しい世界像を樹立す ること] には歴史 主義を突 き詰めるのがよい。す ると古 い東洋 と古 い西 洋 に対 して,新 しい世界の姿が出て くる。 [‑‑‑] い ま世界 は西洋的な世界 と東洋的な世界 とにそれ白身が 何だか割れて しまってゐるが,歴史主義 を突 き詰めて ゆ くと,却 ってその根底 に絶対的な根源, いはば絶対 無 ともいふべ き もの が見 られ て くるので はな いか ね。(37)
高坂 は 「絶対無」 という観念を,かな り唐突かつ抽象 的に提出 している。『民族 の哲学』で は, これを少 しだ け具体的に以下 のように説明 している。
[・‑‑] 自然,神,人間‑それはそれぞれに西洋の 古代,中世,現代 の基礎概念であった,一のいづれ も が充分の信頼を失 った時, ヨーロッパ的絶望 は虚無 と 隣 りす る。 この危険を救ふ ものが東洋的無で はないで あ らうか。 [‑‑] しか し東洋的無 は実 は, 現象 に於 て直ちに実在を見 るのである。 もしその現象を歴史 と 考へれば,歴史即実在 といふ新 たなる歴史主義,創造 的無の歴史主義を可能 にす るであ らう。(38)
このように 「絶対無」 とは,現象 と実体 の境界線 を こ ともな く消滅 させて しまう魔術的観念である。「個体即 全体」 も 「絶対無」を媒介 として措定 されている。 もと よ りこの 「絶対無」 とい う観念 は,京都学派の師であっ た西田幾多郎 に由来す るが,高坂 らにとって この観念 は 批判的検証 の外 にあるアプ リオ リな 「公理」であるとし かいえない。そのため,「絶対無」 はいか な る場 合, い かなる事象 に対 して も,つねに自明な観念 として立 ち現 われ るのである。西田は東洋文化 の根底 は 「無」である とし,「有」 を実在 の根底 とす る西洋文化 に対 時 させ, 日本文化の本質を以下のように定義 した。
私 は日本文化の特色 と言ふのは,主体か ら環境へ と 言ふ方向に於て,何処 まで も自己自身を否定 して物 と なる,物 とな って見 物 とな って行ふ と言ふ にあるの ではないか と恩ふ‑‑・日本精神の真髄 は, 物 に於 て,
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事 に於て‑ となると言ふ ことでなければな らない。元
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来そ こには我 も人 もなか った所 に於て‑ となると言ふ ことである。それが矛盾的同一 としての皇室中心 と言 ふ ことであろう。(39)(傍点 は引用者)
以上見て きた よ うに, 京都学派 の世界史 的立場 とは●●
「絶対無」を基盤 に した国家的民族で あ る日本 が, 民族