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保険資本論の立場

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保険資本論の立場

その他のタイトル On the Theory of Insurance Capital

著者 金子 卓治

雑誌名 關西大學商學論集

巻 13

号 4‑5

ページ 313‑334

発行年 1968‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00021237

(2)

(313)  1 

保 険 査 本 論 の 立 場

金 子 卓 治

保険の理論分野においては,法律論,技術論での成果はかなり大きい。し かし,保険論においていわぼ土台となるべき保険の経済理論の水準ほ端的に いって非常に低い。勿論,先学の研究者が保険の経済理論の体系化のために 多大の努力を払ってこられたことほ承知している。しかし,残念ながら例え ば保険本質論ほ私にとっては全く不生産的議論に思われる。また,戦前近藤 文二教授と馬場克三教授によって論争され未解決におわった「保険と価値形 成」の問題も戦後再び他の論者によって取りあげられたが,これも不生産的 なものとなった。ところが,印南博吉教授,斉藤利三郎教授,庭田範秋教授,

笠原長寿教授らの御努力によって,いわゆるマルクス経済学の立場から,積 極的に保険の経済理論にアプローチする論文が昭和20年末頃より発表される ようになった。その論議の流れは二つあった。一つは企業を対象とする保険 業—企業保険—を,マルクスの「資本論」第 3 部第 4 篇第 19章の「貨幣 取扱資本」 (Geldhandlungskapital) の範疇に属するとする説と,もう一つほ 資本論第3部第7篇第49 50章および「ゴータ綱領批判」等にみられる Assekuranzfonds,A ssekuzanzund Reservefonds, Reserveordor Assekuranzfonds 

という用語をめぐって,これらの言葉を範疇としてとらまえ,それを手がか りに保険の経済理論を展開しようとする考え方である。その他,保険と金融,

とくに生命保険のいわゆる金融機関的機能の問題,さらには社会保険が真正 の保険であるかどうかの論争等々が議輪されている。

私ほ上にあげた諸論点についてほAssekuranzfondsを除いては,すでに論 文を発表してきた。そこで,本稿においてほ,それらを総括して,さらに保

(3)

2 (314)  「保険資本論の立場」 (金子)

険の経済理論は「資本論」に直接手がかりを求めることなく,独自の保険資 本論として展開すべきであるという立場を表明する。

1.  保 険 本 質 論 の 性 格

保険本質論の沿革,内容については,印南教授の大著「保険の本質」にお いて最も詳細に紹介されているが,ここでは,あまり内容に立ちいることな

くその性格をみる。

もともと,保険理論の対象は経済的性格を異にする諸制度からなっている。

そこに保険理論の困難さの一因がある。近代的保険はまず,機能資本(産業 資本,商業資本)の偶然的災害を対象とする保険として成立した。しかし,

その後家計における所得の不安を対象とする生命保険が登場し大いに発展す るに至った。そこで保険理論は損害保険と生命保険を如何に統一的に概念把 握・規定するかの問題をいわゆる保険本質論として重大な課題としてきた。

そして極めて多くの学説をうみだした。

ところで,保険本質論は損害填補説,損害分担説(A.Wagner)等々の諸 説の後,わが国では入用(必要)充足説と経済生活確保説の二つの説が主流 となった。そして両説の間で多くの論争が行なわれた。しかし両説の主要な 相異点は保険の加入目的を未来入用におくか,現在欲望におくかということ であり,何れも保険加入者の主観的加入動機によって損害保険と生命保険を 統一的に把握しようとしたものであり,結局のところ,加入者の立場からの いわば保険効用論と保険の技術論とを結び合わせたものであった。技術論が そのまま経済理論がないことは勿論であるが,保険効用論も保険のいわば使 用価値を論じたものであり,商品の使用価値と同様に経済理論たり得ないも のである。要するに,何れも保険の経済理論化の分析視角をもっていなかっ

ところが,入用充足説を積極的に支持されてきた印南教授は昭和29年頃よ り,その説を改められ新しく「経済準備説」を主張され,さきにあげた大著

「保険の本質」(昭和31年)を公にされた。この経済準備説は従来の保険本質 論に対する方法論的な批判のうえで主張されたものであった。すなわち,ま

(4)

「保険資本論の立湯」 ( (315) 

ず,従来の本質論の第一の欠陥は「保険を固定した不変の現象とみなし,そ

(1) 

れに対して普遍妥当な定義を下そうとする態度」にあったとされ,これに対 し教授は保険を歴史的なものとしてとらえ,「保険の歴史性を正しく認識し,

(2) 

その近代性を正しく反映するような定義」を下すことを試みておられる。つ ぎに教授は従来の本質論は保険加入者の立場に立って保険加入の主観的な目 的を中心に論議が行なわれてきたのであるが,「保険加入の目的なるものほ,

いうまでもなく,人の主観にかかるものであり各人各様であって一定しない。

ところが定義なるものは,客観的妥当性をもつことを生命とする。したがっ て,主観的な目的を客観的に規定することは根本的に無理があるといわねば

(3) 

ならない」と批判され,新しく客観的立場に立ち,保険の客観的機能を適格 に表現した定義を求められたのである。

印南教授のこのような方法論的批判ほ,抽象的には妥当であり,しかも重 大である。.ところで印南教授は定義なるものほ保険理論の出発点であると同 時に帰着点である重要な性質をもつものであるとしておられるが,新しい経 済準備説による定義をみると,「保険とは一定の偶然事実に対する経済準備の 社会的形態であって,多数の経済体が結合し,確率計算に基いて公平な分担 を行なう経済施設である」とされている。だが問題は新しく主張されている 経済準備説が,上の歴史性と客観性という,方法論的要求に十分応えている かどうかということである。結論を要約的にいえば,教授がいくら客観性,

歴史性を強調されても,概念論のなかで解決を求めようとされる態度をすて ないかぎり,所詮それは無理な注文であった。損害保険と生命保険はその経 済的性格,機能を異にしており,したがって,両保険を概念上統一しえたと しても,それは従来の伝統的な保険本質論と同様に経済理論化の方向を喪失

(4) 

せざるを得ない。

(1) 印南博吉教授「保険の本質」 19 (2) 上掲書, 23

(3) 上掲書, 32

(4) 印南教授の新経済準備説に対する批判は概念論に固執されている点にここでほ 焦点をむけたが,その定義と,マルクスの保険観を「保険基金説」とし,さらに保 険資本を資本論でのぺている「貨幣取扱資本」の部類に属するとする教授の考え方

(5)

4 (316)  「保険資本論の立場」 (

さて,長年経済生活確保説を主張されてきた近藤文二教授も昭和33年に論 文「経済技術としての保険」を発表され,新しくいわば経済技術説を主張さ れるに至った。それは各種の保険制度の経済的性格の相異にするどく着目さ れた結果であった。すなわち,教授ほ「保険」を「貯蓄」の一形態であると され,この特殊な貯蓄である保険は,現実には各種の制度を通じて具体化さ れるが,それらは,それぞれ形態や組織を異にするに応じて,その経済的役 割も相異してくるのであり,それにも不拘,従来の学者はこれらあらゆる保 険とよばれる制度について共通的概念を求めようとしてきた。誤りはそこに あったと指摘され,さらに「各種の『保険制度』が,それぞれ異なった目的 をもち,異った組織をもつとしても,そこに共通の何ものかがなければ,そ れを保険とよぶことは妥当ではない。われわれは,この共通点を『保険』の 技術のなかに求めたい。そして,この技術の上における特徴を通じて『保

(5) 

険』と『貯蓄』との本質的相異点を求めることにしたい」と主張される。そ して経済技術としての保険の内容として「収支相等の原則」と「共通準備財 産の設定」をあげておられる。ところで教授は分析の方法論としてこの特殊 な経済技術が「いかなる制度として具体化されてきたか,これを歴史的に分 析しながら,それぞれの保険制度が資本主義社会において果す機能を社会経

(6) 

済的に把握することにこそ関心を示すべきである」とのべておられる。

ところが,実は教授のいわれる保険という経済技術の内容は,従前の確保 説の定義のなかから技術的性格のみを抽出したものであり,したがって教授 のいわゆる形態としての保険の本質—保険概念から経済生活の確保という 概念を放棄し,技術的特長のみを残したものである。だが,この各種の保険 制度に共通なものとして抽出された経済技術の概念内容は,それ自体経済理 論化の分析視角をもつものではない。だから,それを前提として具体的な保 険制度を分析することはできない。つまり両者の論理的関連を見出すことは できない。

に論理的な一貫性をみることができないことを付言しておく。

(5)  近藤文二教授「経済技術しての保険」(生命保険文化研究所,所報,第5 17 18

(6)  上掲, 25

(6)

「保険資本諭の立場」 ( (317)  5  かくて,伝統的な保険本質論ほ,少くともわが国においては保険理論の分 野で指導的な立場におられる,印南,近藤両教授によって深刻な批判をうけ るに至ったのであるが,それにもかかわらず,保険本質論の長年の念願であ る損害保険と生命保険,さらには社会保険の統一的把握という課題を正しく

(7) 

果すに至っていない。では,経済理論として保険を統一的に把握する方法,

論理ほ如何。それは,実は保険資本論を展開することによって可能であると,

私ほ考えている。

2.  保 険 と 価 値 形 成 , 流 通 費 用

保険と価値形成の問題が.わが国において最初にとりあげられたのは.戦 前の近藤文二と馬場克三教授との論争においてである。その論争の共通の問 題意識は「保険の本質」についてであった。ところが.それは保険の本質論 といっても次元を異にするものであり.資本論からの引用はなかったが,マ ルクス経済学の立場での論争であった点一応注目してみるべきであると思う。

近藤教授はもともと保険の本質論においてほ二元論的立場に立っておられ.

この論争においては「形態としての保険の本質」一一保険概念ではなく「実 態としての保険の本質」とは何であるかということであった。そしてその答 えを保険料の社会経済的機能に求められ,さらに保険と社会的生産との交渉 について「保険が直接.社会的生産に関与するのは.そこで支払われる保険 料が.商品価値形成的である場合であって,保険料が社会的に見て生産費を

(1) 

構成する場合である」と主張されたのである。馬場教授の場合は.従来の保 険論における保険本質論の内容が,主として諸種の保険形式を整理し.それ らの共通概念を求め保険の定義を与えるものであることに不満をいだかれ.

保険料の源泉如何ということに分析の方法を求められた。すなわち,「従来な されていた本質論の研究が保険を統一的に.しかも.保険の埓内で把握しよ うとしていたのに反し.与えられた保険現象を分析し.それを解体」すると

(7) 本節についての詳細は拙稿「保険本質論の反省ー一ー近藤,印南両教授の所説に よせて一」(生命保険文化研究所所報,第6 341‑366頁)参照されたい。

(1) 近藤文二教授「保険学総論」(昭和15 327

(7)

6 (318)  「保険資本論の立場」 (

ともに「解体されたものを経済理論に連繋することによって,これを統一的 に把もう」とされ,「社会の年々の総生産物のうちの如何なる部分を以て保険

(2) 

料が支払われるかという風に問題を提起」されたのである。そして,保険料 の源泉が企業主体にあるか,家計にあるかに従って,企業保険と家計保険に 分類し,後者をさらに家計財産保険と家計貯蓄保険に分類される。そのうち 企業保険については,利潤の蓄積分を源泉とするものであり,「保険料は生産 費を構成せず,新たに価値を付加することがないから総生産物の価格として

(3) 

消費者に負担を課すことがない」として保険料と価値形成の関連を否定され

もともと,価値が形成されるのは商品の生産過程においてである。そして

(2)  馬場克三教授「保険料の経済学的性質再論」(損害保険研究第3巻第3号,昭和 12 2‑3

(3) 上掲, 3‑9頁。馬場教授が昭和10年代はじめに,伝統的な保険本質論に不満 をもたれ,保険料の源泉に経済理論化の方向を求められたことは高く評価されなけ ればならないと思うが,企業保険と家計保険に保険を「解体」したが,解体したも のを統一しないままにおわった。ところが戦後の著書「保険経済概論」(昭和25 において,各種の保険学説を批判した後に「以上,保険の本質について種々の説を 列挙したが,これらの説はいずれも損害保険と定額保険との二つの異ったものを同 じ水準において,あるいは損害の概念をもって,あるいは抽象的な規定をもって,

説明せんとした。同列におくべからざるものを同列において一挙に説明せんとした から,そこに無理が生じた。しかし,われわれは基本的形態から派生的形態を説明 するという発展的な方法をとる。すなわち,われわれは損害分担の概念が保険にお ける基本的概念であると考え,さらに定額保険,なかんず<,生命保険ほこの損害 分担の概念のうち損害の概念が漸次稀薄となり,別に貯蓄(普通の意味の)概念が 新たに加わったものであり,しかも後者が前者を凌駕する程度にまで生成したもの であると説明する。両者を異なったものとして取扱うことによってこれを統一的に 説明するのである」(13頁)と主張されている。しかし,印南教授が「二者を異なっ たものとするだけでは,統一的な説明は与えられるはずはない。それは弁証法的統 ーとも全然異っている」(前掲書, 123頁)と批判されている如く,統一的把握への 要求に応えていない。ただ基本的形態から派生的形態へと説明するという発展的方... 

法をとるとされている点は卓見であるが,それが概念上の発展として把まえられて いる点に誤りがあり,伝統的本質論のねずよさがわかる。後にみる如く,保険資本 の運動の中で統一的に把握されなければならない。

(8)

「保険資本論の立場」 (金子) (319) 7 

商品の生産過程は,商品そのものが使用価値と価値の統一であるのと同じよ うに,労働過程と価値形成過程の統ーでなければならない。労働過程を欠い た価値形成過程なるものほ存在しない。したがって,保険業—保険資本に

対して払込まれる貨幣—保険料が,それ自体価値を形成するということは ありえないのである。また保険料を個別的にではなしに社会的にいわぼ保険 基金—あとでふれるふsekuranzfonds とは関係はない一ーとして把握して も同じことである。だから,保険料が価値を形成するかどうかという問題は,

はじめから問題にならないことを問題にすることになり取扱いが非常に厄介 である。

ところで,戦前の近藤,馬場両教授の論争においてほ,保険と価値形成の 問題を直接とりあげたのではなく,保険の実態的本質,あるいは保険料の経 済学的性質は何であるかということに中心の問題意識があったのである。し かし,論争の決着がつかないまま,戦後再びとりあげられたが,その論議の 大部分は不生産的なものとなり,さらに,保険料が「保険費用」として,資 本論でのべられている「流通費用」に該当するといういびつな理論がうちだ された。

戦後の論争には印南教授,笠原長寿教授,庭田範秋教授などのマルクス経 済学の立場に立っておれらる方々や佐波宣平教授,白杉三郎教授,西藤雅夫 教授などの経済理論上あまりはっきりした立場をとっておられない方々が参 加した。そのなかにあって印南教授は近藤教授に反対の立場をとられたが,

反論の過程において,副次的にではあるが,仕損品の価値の問題,流通費用 中,純粋流通費用でない商品在荷の費用の性格について,少なくとも私にと ってはうるところがあった。また佐波教授の場合,価値論上の価格構成論の

(4) 

変型をみせつけられた。さらに庭田教授ほ,近藤教授と印南教授の折衰説を とっておられるようであるが,教授の著書「保険経済学序説」(昭和35年)に よると,一方では保険を価値形成保険と価値不形成保険に分類 (110‑113 頁)されているが,別の個所では「マルクス経済学に立脚するかぎり,保険

(4) 馬場教授,近藤教授,印南教授,佐波教授の所説についての私見は拙稿「保険 と価値形成の問題について」(「経済学雑誌」第371号)を参照されたい。

(9)

(320) 「保険資本論の立場」 (金子)

費用・保険料・保険は商品の価値を形成しないとするのが絶対に正しい」

(214頁)とのべておられ,私には教授の論旨がわからない。また,教授に とって不幸なことには,資本論の誤った解釈によって,「保険料。保険費用」

が「流通費用」として,しかも,この規定を起点として保険の経済理論の諭 理を展開されようとしておられるのである。庭田教授は第1章「保険経済学 の方法」第4項「保険経済学の出発点」において「『資本論』において,保険 が『第2部資本の流通過程』の,『第 1 資本の姿態変換とその循環』の,

6 流通費』において初めて登場したと言うことは,あたかも『資本 論』が,一定の歴史的過程に即応しての抽象,そしてその発展の線をおしす すめたものとしての,純粋資本主義社会の形象の中に,その法則性を確証し えるものとしての,出発点としての,端初としての,原基形態としての,も っとも単純なる概念としての,そして資本制生産様式が支配的に行なわれる 諸社会の富の細胞として商品の分析から始まって,上向過程をたどるごと

. . . . . . . . . . . . . . . . . . .  

く,保険の研究も,流通費用としての保険の分析から始まって,経済学の上 向と平行して,その内部において,より複雑なる,より特殊的なる,より具 体的なるものへと,上向して,発展して行かなければならない」(13頁,傍点,

筆者)。たしかに教授の指適される如く,資本論において「流通費用」Zirku lationskostenのなかの「第2 保管費」において,保険会社についてふれ

ている。ここでは引用することほさけるが,マルクスは何も「保険料・保険 費用」を「流通費用」であるとしまのべていない。全くの誤読である。これ以 上は庭田教授のためにふれないことにする。ところで,この節において私が 訴えたかったことは,マルクス経済学の立場から保険の経済理論を展開した いとする研究者は,少くとも「資本論」を忠実に読むことが必要であるとい うことである。この点については,あとでみる如く,保険資本を「貨幣取扱 資本」のカテゴリーに属するという説や, Assekmanzfondsの安易な理解に ついてもいえることである。

3.  保 険 資 本 の 性 格

(1)  最も抽象的には,保険は私的所有制度の下において,その下に発生す

(10)

「保険資本論の立場」 (金子) (321) 9 

る偶然的事件による私的所有の不安ということを発生の基盤ー一一本質的基 盤―とするものである。ただし,私的所有者がこの不安を私的に予防,防 衛等の方法や貯蓄によって処理する場合もあるが,保険に関連をもつものは,

他の私的所有者との関係において処理する場合である。そこで保険史をみた 場合,二つの流れがある。一つは古代ローマのコレギア・テユィオルム col legia teniorumや中世のギルド guild等にみられる相互救済の制度であり,

もう一つは取引によって偶然的損害を他に転嫁せんとするものであり,古代 の海上貸借,中世のイタリヤにおいて広く行なわれた冒険貸借等の契約であ る。なお,これらの制度,取引の具体的性格を規定するものほ,当事者の経 済的性格であり,さらに究局的には,その下でそれらの制度.取引が行なわ れる生産様式によって規定されるのである。

ところで,当事者の何れもが前期的資本であり,営利的取引であったとい う点から,近代的保険の系譜を海上貸借,冒険貸借等に求めるのが順当であ ろう。そこで保険をまず取引,契約として把握することが許されるとしても 問題は残っている。というのほ保険をいわば原子論的に,つまり個々の取引 としてみた場合,他の売買.貸借等の取引と異なった性格をもっている。売 買取引,貸借取引はそれを個々の取引としてみても当事者間に利害の相違は あるが合理的な取引である。ところが,保険の場合その取引を個々の取引で みると,その取引の対象となる損害の発生は偶然によって左右されるから,

取引の当事者の行為には賭博性,射倖性をともなっている。もっとも.取引 の一方の当事者(被保険者)にとっては偶然的損害を回避し他に転嫁せんと する合理的な意図が存在しうるが,引受者にとっては被保険者の偶然的損害 を肩代りするのであるから,肩代り料(保険料)として対価をうけとったと しても,その行為ほ合理的根拠をもちえない。このため保険引受が営利的な 企業として成立するためには,上の賭博性,射倖性の排除.つまり合理的料 率制度の成立ということが主体的条件となり,この条件は近代的な資本主義 経済の成立による付保物件の増大という客観的条件によってみたされる。こ のような保険取引そのものの特異な性格は,保険に特殊な技術をもたらすこ とになり,同時に保険理論の分野において技術論が大きな地位を占めてきた

(11)

10 (322)  「保険資本論の立湯」

(1) 

理由もうなずけるのである。

(2)  さて,このような特殊な保険取引が,近代的保険として成立する過程 であるが,それはまず資本主義社会における社会的再生産の中心として最も 重要な資本の運動部面における偶然的損害の填補ということを中心に展開さ れなければならない。営利的企業による保険,つまり保険資本の近代的形態 ほ機能資本の偶然的災害を対象として確立されることになり,この形態が近 代的保険の「原基形態」となるのである。そこで,まづこの原基形態である 企業保険の性格,機能をみることにする。

でほ,合理的料率制度を不可欠の主体的条件とし,資本主義経済の登場を 客観的条件として成立した保険資本の特別の機能ほいづれに求むべきであろ うか,その機能する過程が問題である。いうまでもなく保険は生産ではなく 保険資本も生産資本ではない。資本主義社会において生産資本(産業資本)

でない資本形態が特殊資本として実存し,自立化しうるためにほ,産業資本 の機能の一部が,特殊機能として自立化しなければならない。たとえば,商 業資本は産業資本が流通過程で果すべき販売労働を代行し,商品交換の媒介 という機能を担当し,また貨幣取扱資本ほ貨幣流通に不可避的に付随して発 生する技術的労働の媒介という機能を担当する。これらの労働はいずれも資 本の流通過程に不可避的に必要な労働であるが,なんらの使用価値もつくら ず,また価値をうみださないかぎり社会にとっての空費である。さらに,こ れらの労働の遂行のためには,その労働者の生活資料および什器,設備が必 要であるが,流通空費として剰余価値から控除されねばならない。そして,

これらの資本は上の労働を集中的に担当することを通じて,この流通空費を 節約するという社会的機能を果すのである。さらに,資本総体にとって一層 重要なことは,これらの資本が上のような商品流通過程に直接必要な労働,

(1) 保険取引の特異性は大いに強調しなければならない。売買取引,貸借取引にお いては古代から前期的商業資本,高利貸資本として実存し自立化していたのに対し,

保険取引においてほ,むしろこれらの資本の副業として行なわれ,保険資本として 自立化するのが近代資本主義社会の前夜においてであったことに注目する必要があ ると思う。なお,この点についてほ,谷山新良教授「商人保険について」(保険学雑

399号)を参照されたい。

(12)

「保険資本論の立場」 ( (323)  11  資材等の節約のみでなく,資本の循環において生産過程の中断をさけるため の流通追加資本が,専門的分担によって総体として節約されることである。

これは資本の循環のより動的な側面において現われてくる節約機能である。

そして,以上二つの機能は商品の直接流通過程で,費用節約という資本の社 会的要求を果そうとするものであり,資本の運動のこの部面で,こうした機 能を具体化した形態が商業資本および貨幣取扱資本範疇である。ところが,

保険資本は上の両資本のいずれにも属さない。とすれば,保険資本の対象と する保険取引,したがってその活動する固有の運動部面にかえって,その内

(2) 

容を検討する以外に方法はない。

(2) 保険資本を「資本論」第3部,第19章の「貨幣取扱資本」の範疇に属するとす る説が通説のようであるが,貨幣取扱資本にあくまで資本の流通過程の機能を代行,

分担する資本であり,したがって,また保険の技術的特性により,貨幣取扱資本の 亜種であるとか特殊な貨幣取扱資本であると保険資本を規定する説も許されない。

ちなみに,印南教授ほ拙稿「保険資本について」(「経学研究」第40号)を評価され,

東ドイツの雑誌に発表するぺ<努力して下さった。ところが種々の事情により印南 教授の折角の御努力も果されなかった。その過程で印南教授に対する,東ドイツの 若い研究者 Waldfrid Schlisser(ベルリーン経済大学の HeinrichBader教授の弟 子)からの196018日付の私信で保険資本は貨幣取扱資本の一種ではないと基 本的に私の立場を支持した。ところが,同年628日付の印南教授宛の私信で貨幣 取扱資本の一部であると説をあらため,さらに, 930日付の私信で二つの理由を あげて,その根拠を明らかにした。それによると,「長い間議論をした結果,私の見 解は支持できない,という認識に私自身が到達した。これについて私を動かしたの は,中にも次の二つの考慮である。第一には,自分が『資本論』を改めて研究した 結果,貨幣取扱資本という概念を自分があまりにも狭く解釈していたことが,明ら かになったことである。独自のまとまりをもっているマルクスの体系ほ,商品取扱

. . . . . . . . . . . . .  

資本や貨幣取扱資本から独立した保険資本というようなものの『発見』を許されな いように構成されている。元来生産的資本でないところの保険資本は,商品取扱資 本か貨幣取扱資本かのどちらかでしかありえない。なぜならば,マルクスの体系に おいては,論理上第四種の資本ほ全く存在しないからである。ところで我々ほ,保 険資本が商品取扱資本でないことに見解が一致しているので,これを貨幣取扱資本 と説明する道だけが残されている。……」とのぺている(傍点,筆者,詳しくは印 南教授「保険資本に関する東独学者の見解」生命保険文化研究所,所報,第8号を 参照されたい)。 私はこのような見解に対しても,以下において反論するつもりで ある。

(13)

12 (324)  「保険資本論の立場」 (金子)

さて,資本は異常な天災,火災,洪水等による偶然的な災害から自己を守 らねぼならないが,再生産過程を不安なく進行させるためには,資本ほこの 偶然的な災害に備えて相当額の貨幣を用意しておく必要がある。だが,この 貨幣は資本の生産,流通に直接関係なく追加的にもつべき特殊vi査幣箪伽釜

(3) 

である。ところで,ここで目的とされているのは,単なる生産過程機能の分 担または,単なる流通過程機能の分担の何れによっても充されない部面であ り,偶然的損害の填補という資本にとっていわぼ第三次元の新たな課題であ るということが重要である。そして,そういう部面の追加的貨幣準備金が資 本にとって新たに準備されねばならない追加費用として現われてくるのであ り,しかもこの追加的貨幣準備金は利潤一剰余価値から控除されねぼならな ぃ,いわば第三次元の空費である。そして資本はこの追加的貨幣準備金をよ り合理的にしかも少額に止めようと努める。そのためには大資本の場合にほ 自家保険による場合もあろうし,あるいは数個の資本が集まって合理化を計 るかも知れない。しかも,さらにこれらの方法をとるためには複雑な計算や 事務労働のための費用が必要である。そして,これらの資本の運動に付随し て現われる損害埴補部面の特殊な費用を分担するために現われてくるのが保 険資本である。ここに保険本来の機能を本来の機能を目的とする固有の資本 活動の分野がある。そしてこれこそ保険資本の本来の個別的機能であり,こ の機能によってそれは自立化しうるのである。

ところで,上にみた如くこの新たな追加的貨幣準備金および保険活動にと もなう費用は,剰余価値から控除されるもので,社会にとって特殊な新しい 空費であるから,資本はこれらの準備金や費用を節約しようとする一般的要 求をもっているが,保険資本ほ新たな段階としての保険活動=労働を専業的 に担当するものであるから,盲目的な利潤追及運動の過程で,この一般的要 求をみたすことになる。つまり個別的にほ保険労働を担当することを機能と している保険資本は,その運動によって偶然的災害に備えてもつべき追加的

(3)  ここでいう貨幣準備金は,資本論第2部,第1篇,第2章生産資本の循環,第 4節,準備金 (Reservefonds)とは異なり,また第3部で用いられているふseku ranzfondsReservefondsとも異なるものである。

(14)

「保険資本論の立場」 (金子) (325)  13  貨幣準備金と,さらに保険取扱活動にともなう費用とを節約するという社会 的機能を果すことになる。しかもそれは,同じく節約機能でも,保険に特有 な新たな次元ではじめて果される社会的機能であるということがとくに重要 である。

さて,以上は保険資本の本来の性格と機能であるが,その活動の部面が資 本にとっての危険負担ということにあるとすれば,この危険負担を実際に一 つの営業活動として行いうるためにほ,そこにあるさきの射倖性,不合理性 の排除が必要であり,そのためには,資本主義の下で保険取引の大量化にと もなう負担危険の相殺平準化という事実が客観的に成立していなければなら ないであろう。そして保険資本の近代的活動が,このような大量取引という 客観的事実によって支えられてはじめて現実化してくるものとすると,近代 保険資本ほ,この事実を利用して,保険資本には非本質的とみられる新たな 部面にその活動を展開して行くことになる。すなわち保険活動という機能は 具体的には保険料,保険金の授受という貨幣取引を通じて果されるのである が,その取引量の増大にともなって,負担危険が平準化され,貨幣支払の必 要度は相殺されて減少し,その結果保険資本の手許に貨幣が累積沈澱するこ とになり,この沈澱した貨幣が,貨幣資本として新たな利殖部面を求めて他 用され貸出=投資される。したがってここに他の分野に進入した保険の金融 機関的機能が生まれてくる。このことは資本の流通過程における貨幣流通の 技術的操作の媒介を機能とする貨幣取扱資本が,その機能に基づく貨幣取引 によって,貨幣資本の出入れの相殺平均化が可能になり,ために累積沈澱し た貨幣を資本として他に貸出す機能を果すのと同様である。この場合貨幣取 扱資本は銀行資本に発展しており,したがってこの銀行資本の機能は一般に いわれている如く,本来の貨幣取扱業務と貸付業務とを有機的に結合して行 うことにある。保険資本は保険活動を本来の根拠とする点で,銀行資本とほ 異なった部面に生まれるものであるが,近代社会の構造的特質ほ,この本来 の取引に現われてくる貨幣取引業務の側面を通じて,新たに銀行業務と類似 した活動をなすことをそれに許し,したがって保険活動を基礎としてそれに ともなう貨幣取引業務と貸付=投資業務とを結合して行うことが新たなその

(15)

14 (326)  「保険資本論の立場」 (金子)

個別的機能となる。

ところで,保険資本のこの貸付業務における貸付とは,最も抽象的にほ私 的所有のもとで,物の所有者が,所有したままで,その物の利用希望者に引 渡す行為であり,したがって物の利用というより社会的性格をもつ事態に対 して私的所有という制度が樫桔となっているのを,その制度を維持したまま で適応させようとするものである。ただ保険資本の貸付の対象は物でなく,

貨幣が資本として商品に擬制せられる利子うみ資本の段階での貨幣であるが,

事態の本質にほかわりがない。したがって貸付業務によって保険資本は私的 所有の枠を拡大するという社会的機能を新たに果すことになる。なお,銀行 資本も保険資本しこの部面では本質的に同一の社会的機能を果すわけであ るが,この社会的機能を通じて資本主義社会において演ずる具体的役割は異 なっている。これは貨幣集積の基盤である本来の貨幣取扱機能と保険取扱機 能の差にねざしている。

(3)  以上,保険資本を企業保険を中心にみてきたが,以下家計保険を対象 とする資本の性格,機能についてのべる。ここでは上にみた企業保険を中心 とする保険資本の本質,機能が,家計保険にもあてはまることの確認が一つ の課題であるが,さらに進んで,その対象の相違発展の面を明らかにするこ

(4) 

とが重要である。

いうまでもなく,家計保険を対象とする資本も企業保険と同様,本来の機 能として保険取扱業務を行うが,この機能は企業保険の場合と異って,機能 資本の機能が分化,自立化したものとして遂行されるのではない。したがっ て,両資本の行う保険取扱業務ほ質的に異なっているといわなければならな い。ところがその本来の基盤としているのは,最も抽象的にほ私的所有の偶 然的事故による不安ということである。そこで資本による近代社会ではこの 部面での資本の要求を充たすために,まずそこに特殊な資本として保険資本 が確立され,上にみたような企業保険の近代的諸機能を確定することになる

(4)  以下の行論のなかには損害保険と生命保険を統一的に把握する論理が示されて いる。したがってそれは第1節の伝統的保険本質論に対しての私の積極的な答えが なされている。

(16)

「保険資本論の立場」 (金子) (327)  15 

のであるが,社会的再生産の中心として最も重要な資本の運動部面で,ーた ん保険資本の形態が完成されたとなると,そこから保険資本には,資本の運 動以外の分野でも,同じ偶然的事故による私的所有の不安という基盤のある 部分に同様の活動を展開して行くことになる。したがって保険資本は単に資 本の偶然的災害のみを対象としなければならない性質のものではなく,資本 の下で営まれる家計の不安が存在する限り,それを対象として資本がこの部 面での危険負担活動を行うことが可能であり,したがって家計保険ー一具体 的には生命保険資本も成立しえたのである。それは資本の危険負担として一 たん確立した保険資本が,資本の運動によって生みだされる所得の危険負担 に反転して,そこに新たな活動分野を開拓した姿である。このように両資本 の業務にはその本的質基盤の同一性が存在するのであるから,実際上の機能 が質的に異っていても,同一資本によって二つの機能を行うことができる。

事実,火災保険事業は企業保険,家計保険の両業務を行っており,イギリス でほ火災保険と生命保険が兼営されている。この点,銀行資本の場合も同様 であって,貨幣流通の遊離と拘束という同一の地盤を根拠にして,それがま ず資本の循環にともなう貨幣資本の遊離部面を中心に確立し,さらにより多 くの貨幣を集積するため,資本の生みだす一般の所得をも取扱いの対象とし ている。

さて,家計保険もこのように,本来の保険機能を根拠にして成立すると,

それをもとにして,企業保険が新たな追加的機能を展開したと同様に,ここ でも,もう一つの機能として貸付投資=業務があることはもはや説明を要し ないであろう。したがって家計保険の個別的機能を規定すれば,家計の不安 を対象とする保険取引業務と貸付一投資業務とを結合して行うことにあると いうことになる。ただここでは,以下でみるように,遅れて成立した家計保 険の分野では,むしろ,その保険活動が資本にとって間接的であるという理 由から,本来の基盤である保険取扱業務が,もともとは別の分野であった貸 付業務に従属化してその手段となるという現象も生れてくる新たな側面にこ こでも注意しなければならないであろう。なお,さきにふれたが具体的に家 計保険が自立化しているのは生命保険であるから,ここではこの生命保険を

(17)

16 (328)  「保険資本論の立場」 (

中心に相異と発展の側面を明らかにする。ところで,生命保険資本はその本 来の保険取扱業務が資本との関係をもたないという側面から,その利殖のた めの重要な一環として保険加入の問題について異なった特色をもっている。

まず,企業保険の場合は資本は自ら進んで保険契約をとり結ぶのに対し,生 命保険においてはその加入者の支払う保険料が所得を源泉とし,一般に消費 生活においては将来財よりも現在財が選好される傾向があるため,加入者獲 得のためには,家計所得にいわば寄生虫の如く吸着しなければならない。さ らに資本は企業保険の場合は自らが加入者であり,したがって保険料ができ 得る限り少いことを希望するのに対し,生命保険においてはこの保険料は資 本とは無関係な家計所得から支出され,しかもそれが生命保険の貸付業務の 源泉となるのであるから,加入者の増大を歓迎する。したがって生命保険資 本は保険契約獲得のため異常な努力を払うことを要請される。

この要望を充たすという点で重要なことは平準保険料方式の採用である。

この方式は周知の如く企業保険が一般に短期保険であるのに,生命保険にお いて長期保険を可能にした。したがってこの方式は保険資本の集積する貨幣 資本を増大させると同時に,その貨幣資本を長期に利用しうるものたらしめ た。また,保険加入者には毎年均等な保険料を支払うという便宜を提供する。

よって,平準保険料方式は一方では保険資本の貨幣集積欲を満足させると同 時に,他方保険契約獲得の困難さを緩和するという。いわば一挙両得の方式 であった。そして,生命保険はこの方式によって旭大な貨幣資本を集積し,

金融機関として重要な地位を占めてきたことは,上にのべてきたような家計 保険という新たに発展した分野での資本の利殖活動の特質を根拠にするので ある。しかし,さきにもふれたがその貨幣資本が如何に旭大化しようとも,

資本主義経済の中での構造的役割ほ,銀行資本に対比すれぽ,貨幣集積の基

(5) 

盤となる業務の質的差異によって限界ずけられている。

(5)  保険と金融,さらに生命保険の金融機関的機能については,さらに詳しく論じ たいがさしあたり,拙稿「保険と金融」(近藤文二教授還暦記念論文集「生活保障の 経済理論」所載)および「生保資金運用の新動向とその性格ーアメリカの場合一」

(生命保険文化研究所,所報第7号,第2分冊)を参照されたい。なお,後者の論 文において,国家独占資本主義下の新しい金融資本関係において,生保は銀行資本

(18)

「保険資本論の立湯」 ( (329)  17  さて,本来の保険取扱業務によって果す社会的機能であるが,資本との関 係をもたないため間接的である。まず,当然のことであるが消費さるべき所 得の一部を貸付業務を通じて私的所有の枠を拡大する。しかし,ここでは資 本動員の社会的機能が一層急激に拡大されたのである。つぎに,より具体的 に,資本の独占段階では所得の再分配を通じて資本主義社会に必然的にとも なう階級闘争を緩和する。生命保険資本はこの点で社会保険制度と競合する ことになる。だが社会保険は階級闘争を媒介とし,それを緩和するための資 本の統一的意思の下に実施されるのに対し,保険資本の階級闘争緩和という 機能は間接的である。したがって前者の制度においては一応保険の技術を利 用しながら,階級闘争緩和のためには,それを無視する場合が生じるが,営 利性をもち,間接的にのみこの機能を果す保険資本にとってほ,保険技術を 無視することは不可能である。このため,保険資本は右の競合においては不 利であるが,結局,社会保険による給付内容をでき得る限り低い水準に止め,

(6) 

生命保険はそれを補足するという妥協が成立することになる。

4.  Assekuranzfonds 

序においてふれた如く,マルクスは資本論第3部第7篇第49 50章およ ぴ 「 ゴ ー タ 綱 領 批 判 」 等 で ふsekuranzfonds, ふsekuranztmdReservefonds,  Reserveorderふsekuranzfondsという用語を用いており,それを範疇として

を補完するとしたが質的補完と改め,日本の現在の生保については量的補完と考え ていることを付言しておく。

(6) 以上は保険資本を保険という業務によって運用しつつある資本の面から,その 機能をみたのであるが,保険利潤の直接に帰属する主体であるという意味での自己

. . . .  

資本をみた場合,保険にのみ許され存在する相互会社という特殊な企業業形態につ いて問題となる。従来の所説は相互会社も株式会社も実質的にはかわらないとする のが通説であるが,何故保険にのみ相互会社が許されるかについての論理ほ示され ていない。この点については,前掲,拙稿「保険資本について」 7780頁をみられ たい。また,保険利潤の特殊性を分析したものとしては,拙稿「保険利潤につい て」(経営研究,大阪市大創立10周年記念論文集所載)を参照されたい。なお,私の 保険資本に対する批判に答えた論文「保険資本と保険利潤についての再論」(印南博 士還暦記念,「現代資本主義と保険」所載)もみられたい。

(19)

18 (330)  「保険資本論の立場」 (

とらまえることによって保険理論はかなり混乱しているようである。そこで,

主要と思われるものを二つだけ引用しておこう。

引用 (1) 「再生産の正常状態を考察するならば,新追加労働の一部分だけ が,不変資本の生産したがって填補に使用される。というのは,消費手段 一収入の質料的諸要素—の生産において消費された不変資本を填補する 部分がそれである。このことは,この不変資本部分は部門IIにとっては何ら の追加労働も要費しない,ということによって相殺される。ところが不変資 本は,ー一これは(総再生産過程,つまり部門IIIとの,かの相殺をふく む総生産過程を考察すれば)新追加労働の生産物ではない。といっても,こ の生産物は不変資本なしには生産されないであろうが,―この不変資本は,

再生産過程中には,質料的にみれば,それを10分の 1というような割合で減 少されるもろもろの偶然的災害や危険 (Zufallenund Gefahren)にさらされ ている。 (だがさらに,不変資本は,価値の面からみても,労働の生産力に おける変動の結果として減少しうる。とはいえ,これは,個々の資本家にの み連関することである。) したがって,利潤の一部分,つまり剰余価値ー一 したがってまた,新追加労働だけを(価値の面からみれば)あらわす剰余生

. . . . . .  

産物一一の一部分は,保険ファンド(ふsekuranzfonds) として役立つ。とい っても,この保険ファンドが保険会社により別個の事業として管理されるか 否かは,事態の本性を変化させない。これは,収入のうち,収入として消費 されもせず,まれ必ずしも蓄積ファンドとして役立つか,それとも再生産上

. . . . .  

の欠損を補うにすぎぬかは偶然 (Zufall)に依存する。これはまた,剰余価値 および剰余生産物のうち,つまり剰余労働のうち,蓄積つまり再生産過程の 拡大に役立つ部分以外に,資本制的生産様式の止揚後も存続すべき唯一の部

(1) 

分である。」

引用(2) 社会主義社会においては,社会的総生産物から,まず次のものが (1) Das Kapital, Bd. III, (Dietz) S.  178長谷部文雄訳(河出版)第3部第7 49903頁。傍点,筆者。なおふsekuranzfondsの訳語であるが長谷部訳では保 険元本,向坂訳では保険基本,大月書店文庫訳では保険財源,高畠訳は保険基金等 訳されている。私は Fondsはフランス語からの外来語であり f5:と発音するので,

英訳の fundをとりファンドと訳した。

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