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保険関係の構成序論

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保険関係の構成序論 四

保険関係の構成序論

西

一  われわれは、さきに数度にわたって︵本誌、第三五・三八・四五・四六・四七号︶保険団体の集団性について、とくにその 社会学的性格を明らかにするとともに、その経済的本質をつまびらかにした。そこで問題としたことは、保険はもともと 特殊の資本的機構であるが、それを保険企業が支え、その保険企業をめぐって多数の加入者が存在することによって、そ れが成り立つということであった。  いまその機構に於いて、多数の加入者が保険企業に結ばれる点で、これらの加入者の集団性が意識せられ、とくにその 入格的集合に着目して、保険団体︵<①昆。げ霞巨αqωσq匿隠①︶と名づけられる。保険機構というのは、この集団に於いて、保 険料と、保険金との形をとった資金が、いかにして保険企業によって操作せられるか、ということを問題とした結果であ る。われわれが考察しようとする実体は、まさにこのような保険関係︵<Φ邑9①霊コαQ。。<Φ筈巴二三ω︶にほかならない。保険の 集団性の理論は、もともと経済学的考察でないにしても、それが経済学的考察と不可分でないという点から、また一つの 意味があるといえる。  いま保険関係は、保険企業と、それをめぐる多数の加入者との結びつきを、全体として老察した概念であるが、これを

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個別的に見るとき、それは保険契約︵<Φ邑。黒雲品。・︿Φ同欝αq︶ として現われる。いわば保険関係は、個々の保険契約の綜合 によって作り出されるところの、経済的関係にほかならない。つまりこの全体としての経済的関係は、それがとくに加入 者の人格的結合であるということから、保険団体として老妻せられたのである。  保険の本質たるところの資本的機構は、いうまでもなく経済学的考察の結果であるが、いまこれを法律的立場から見る とき、定心契約が浮び上るであろう。保険の機構を成立せしめる保険関係は、もとより経済学的老察によって明らかにせ られるのであるが、いまその同じ対象を、異る法律的立場からとり⊥げることは、また別の意味を持っている。  その場合に、社会学的には構成体たる保険団体として、法律的には保険契約として、それぞれ老察せられる。したがっ て、それらの構造が持つ意味は、おのずからそれぞれ異るであろう。既にわれわれは、社会学的考察として保険集団の性 格を明らかにしたのであるから、ここには主として法律的考察の立場から、経済機構としての保険関係を問題としたいと 思う。それは決して、保険の法律的理論を明かにすることではない。つまりいわゆる保険法学は、ここでは直接の課題で はないのである。 二  さて保険契約は、一般に、保険者︵保険企業︶と保険契約者︵加入者︶との間の双務契約と考えられる。すなわちそれは、 当事者の一方が、相手方に於ける一定の保険事故︵保険事件︶の発生に際して、給付または損害の墳補を行い、その相手方 がこれに対して、報酬を与えることを約する関係として理解されているのである︵商法、六二九・六七三条︶。この場合、貨幣 経済組織のもとでは、後者の報酬が、貨幣としての保険料であり、前者の給付が、貨幣としての保険金であること、改め ていうまでもない。もっとも、この給付が実物で行われることもあり得るが、それはむしろ例外であり、便宜的方法で      保険関係の構成序論       四三

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保険関係の構成序論 四四 ある。  ところで、この契約の成立については、これに関係する複数の人格の存在が考えられる。ここに、保険契約に関する人 格というのは、この契約そのことに直接あずかる当事者のほかに、間接に、この契約について利害を持ち、この契約の効 力が及ぶべきひとびとを包含している。前老としては保険者と保険契約者とがあり、後者としては被保険者と保険金受取 人とがある。  このように保険契約に於いて、直接当事者として法律上規定せられる者は、保険者︵ぎ。・霞①おロ巳葭≦昏葭嚇く2の器﹃2窪︶ と保険契約者︵℃呂昌ぎ疑①おく。邑9①歪畠弩昏諺葭︶とである。すなわち、右の保険金支払義務を負担する者が保険者であ り、これに対して保険料を払込むべき者が、保険契約者である。保険契約は、両者の双務関係として結ばれる。  ところでこの際、契約の双務性について、一つの問題がある。もともと保険者の給付たる保険金の支払いは、保険事件 の発生を条件とするのであるから、この保険事件が発生しない限り、保険金の支払いはあり得ず、したがって、保険者と 契約者とのそれぞれ二つの給付は、無条件に対立するものではない。  このように保険者の給付は、条件を伴う義務の実行を意味している。しかし、これに対して、ともかく契約者に於いて は保険料の払込みが要求せられるのであるから、これら両当事者が、法律的にそれぞれ拘束の状態に置かれることになる。 その点からいえば、保険契約は、特別の形の双務契約と見られるべきである。そして、この双務関係が、両当事者の給付 によって成立するという意味では、それは、条件を伴う有償契約となる。この契約が、無条件の有償契約でないというこ とは、これを経済学的に捉えて、保険が特殊の商品であるとする見解を生み出すのである。  保険の商品性の論議については、本誌に於いてはもとより︵本誌、二九号︶、多くの機会にこれを明らかにして来た。い まは、これをくり返さない。ただここでは、このような条件的関係が、あたかも商品の内容を形づくると老えられる点に

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いわゆる商品説の根本的誤謬がひそむζとに、いささか注意を促したいのである。  保険料と保険金との二つの給付が無条件に対立しないことは、保険金そのものが、保険料を価格とする商品でないとい うことを、それ自身意味する。そこで、この条件の存在に着目して、そのもとに於ける法律的な関係が、保険商品の本体 を形づくると考えるのである。たとえば、これを解除条件付債権の給付と見たり、または、将来の給付に対する約束の提 供と解釈する。それらは、財の種類からいえば、いわゆる関係財に属しよう。そういう法律的内容を持った関係財が、保 険料を価格として売られるとする見解が、保険商品説の有力な一群をなしているのである。  いったい商品とその価格との関係は、体化︵<9ざ壱興§σq︶と対価︵国昌お①δとの関係にほかならない。すなわち、価 値が、企業によって技術的に形を順次変えられた後、最後に貨幣的牧益として実現する道行きを、交換の関係として捉え てのことである。この技術のあり方が、その企業を里馬づけ、その資本の国民経済的役割を規定する。そのことが、それ ぞれの資本循環として表現せられるのである。  もし保険が商品であるとすれば、この抜術は、保険特有のものとして、体化の特有の過程を示すはずである。その過程 を説明することなくして、いぎなり保険の商品性を論断し、その価格を保険料であるとするのは、決して経済学的理論と しての実を具えていない。つまり、保険の経済的実体には、いささかも触れていないといえる。その経済的実体とは、右 に述べた保険関係にほかならぬのである。  保険関係に於いては、価格であるはずの保険料は、実は、保険企業の給付たる保険金に体化している。そこでは、自己 のものを自己が受取るだけで、その道行きに保険企業が介在しているにすぎない。商品の提供者としての保険企業と、価 格の提供者としての加入者との取引は、いわば外面的な擬制であるにとどまる。そのことを、別の立場から、法律は、保 険企業をこれに介在せしめて、双務契約として理解するのである。ゆえに、保険商品説は、その意味では、法律学的立場      保陵関係の構成序論       四五

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     保険関係の構成序論       四穴 と経済学的立場との混同を犯していると見られる。  なお商品説のうちには、商品の内容を安全感や安全性の心理に求める考え方がある。これは実は、右の債権や約束の獲 得が、加入者に於ける心理的効果をもたらすことに着目した結果であり、ここにも、経済と心理との混同があることを、 われわれは見逃してはならないのである。いずれにしても、いまあえて保険商品説に触れたのは、保険の経済的実体はあ くまで保険関係にあることを、とくに強調したかったからにほかならない。そこで次には、その保険関係は、法律的には どのような問題を持つかということを、少しく考えてみたい。 三  保険契約は、右に述べたように、双務契約としての成立に条件を伴う。この条件たる保険事件に関して、契約の効力の 発現のために、一定の人格の存在を必要とする。それが、契約関係者としての被保険者︵貯。・霞巴冒﹀ωωΦ巨話戸く①邑。冨詳Φ︶ と保険金受取人︵げ8a。冨ざbd①σq穿巴σq①円︶とである。これらのひとびとは、直接に、当事者として保険契約を結ぶもので はないが、保険の種類によっては、契約そのものの成立に不可欠であること、周知のところである。  さて、被保険者は、損害保険に於けるものと、生命保険に於けるものと、一応区別して概念せられるであろう。一般に 前者にあっては、それは、被保険利益︵一霧霞9窪①一艮臼①。。r<①邑島興①ωH耳①器ω器︶の主体であり、後者にあっては、保険事件 が生ずべき主体として考えられている。このように、保険契約者と被保険者とは、もともとその資格を異にするから、同 一人にしてその両者を兼ねることができるし、また全く別人たることも可能である。ただ、被保険者は、保険契約の当事 者としての権利義務を有しないこと、もとよりである。  次に、保険金受取人は、損害保険にあっては、被保険者その人である。けだし、彼は、被保険利益の主体として、直接

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に損害の墳補を受けるという利害関係に置かれるからである。これに反して生命保険では、被保険者に於いて損害が発生 し、したがって彼が、この損害の墳補として、保険金を受取る関係に置かれるとはいえない。この点から、一般に保険金 事取入は、生命保険に於いてのみ呼称せられると考えられる。この保険金受取入は、保険契約者や被保険者とは、それぞ れその資格に於いて別個のものであるから、同一人にして三者を兼ねることもあり得るし、そのうちの二者を具えること もあり得る。保険契約者でない者が保険金受取人であるときは、その保険契約は、いわゆる追入のためにする契約となる こと、周知のところである。この場合には、保険金受取人は、もとより保険契約の当事者ではないが、保険契約上の利益 を当然に享受するわけである︵商法、六七五条︶。  このようにして保険契約は、この契約関係者の存在が前提とせられ、直接には、契約当事者との間の、ある種の双務契 約として結ばれる。ところでここに注意すべきは、このような保険契約の概念によっては、保険の本質はこれを明らかに しがたいということである。  私見によれば、保険の本質は、経済学的考察によってのみ理解せられるが、右に示した法律的概念は、保険の本質を意 味するところの経済的実体とは、根本的に異った性格を持っている。けだし保険契約は、もともと個々の法律行為につい て概念せられるに対して、保険の経済的実体たる保険関係は、いわばこれら個々の行為の集合的全体について、それが考 察せられるのである。  もとより保険の法律的概念は、経済学的に捉えられた本質とは、全く無関係に成立するものではない。いなむしろ、前 者は後者によってのみ可能である。いいかえれば、保険の経済学的本質をつくり⊥げる個々の行為が、一つの形式をとっ て、保険契約として現われるのである。それゆえに、この経済学的本質は、法律的概念の上では、その表面に現われるも のではなく、またこれを表現する必要もない。それらは相互に、いわば立場を異にし、範疇を同じくしない概念である。      保険関係の構成序論      四七

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     保険関係の構成序論       四八 すなわち保険契約は、むしろ個別化された概念であり、保険と名づけられる経済学的本質が、法律的抽象のもとに個々に 帯びるところの、その形式であるといえる。  われわれは、このような個別性を持つ保険契約を、集合的・集団的に、全体として、したがってこの全体としての集団 を、異った観点から老察して、これを保険関係と名づけた。それが、もともと保険の機構であり、とくに資本的機構であ る。いいかえれば、この保険関係に於いて、本質たる保険の機構が、具体的に成立すると見るのである。しからばこの保 険関係は、既にしばしば述べたような社会学的集団としてではなく、個々の法律関係によって成り立つ全体として、どの ような性格を持ち、どのような問題を経済学の上に投げかけているであろうか。 四  右で既に知られるところであるが、およそある行為が保険契約であるかどうかは、実はすすんで、その行為がよって立 つべき保険としての経済的本質が、存在するかどうかということによって定まる。いいかえば、その行為が持つところの 法律的﹂形式が、この本質的な保険関係を形づくる点を見究めることによって、保険契約の意義が明らかにせられる。保険 契約が、保険の本質たるところの経済的実体とは異って、それ自体が抽象的な性質を持つというのは、このことを指すの である。この点から見ると、保険契約は、一般に、当事者の一方が、契約に定められた偶然事件の発生に関レて、その契 約に定められた保険金の給付をなすべき義務を負うところの、有償関係であるとせられるであろう。  いまこのことについて、最初に注意しなければならないのは、保険契約が、偶然事件に関して成立する、と考えられて いることである。それが、法律の上では、保険事故と呼ばれる。すなわち、保険事故つまりわれわれのいう保険事件が、 偶然性に関係しているということが、まず問題とせられるのである。

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 ここに偶然事件というのは、法律的解釈のもとでは、それが発生するかどうか、また発生するとしても、その発生の時 やすがたが不確定な事件を意味すること、周知のところである。しかも保険契約としては、この不確定性は、必ずしも客 観的にそうであることを必要としない。すなわち、たといそれが客観的には確定していても、当事者の主観に於いて不確 定であれば、保険契約そのものの有効な成立は、これを妨げないはずである︵商法、六四二条︶。  しかし、偶然事件がつねに保険事件として、保険者の給付をもたらすと考えるのは、経済学的には正しいといえない。 何となれば、保険事件が確定している場合にも、それの発生を条件として、なお保険金の支払いがなされる保険契約が、 事実成立し得るからである。われわれは、このような契約を、いわゆる確定日払保険︵↓霞ヨ遠く①邑島島§σq︶に見出すこと ができる。ただこの場合の偶然事件は、実は、保険者の給付についてはたらくのではなく、この給付に対する報酬たる保 険料の給付について、契約者の側にはたらくのである。  ここに確定日払保険というのは、保険の分類からいえば、生命保険の一つであるが、それは子女を被保険者とし、その 親が保険契約者となって、 一定の期日たとえば子女の第ご十回目の誕生日に、 一定の金額を、その時に被保険者その人の 存否にかかわらず、保険金として支払うという保険である。したがってこの保険では、保険金の支払いそのことに関して は、いささかも不確定性はなく、その金額についても期日についても、はじめから確定している。つまり、保険事件はも ともと確定的である。  この保険にあっては、保険料は、保険契約者の生存の際には、所定の期日まで毎年払込まれるし、もしそれ以前に死亡 の際には、死亡後の払込みは不要となる。このように、この保険は、保険金の麦払いが被保険者その人の生死と関係はな く、その点で普通の生命保険と異るし、また被保険者が死亡するとしても、所定の期日に保険金が支払われる点で、いわ ゆる生存保険とも異るのである。      保険関係の構成序論      四九

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     保険関係の構成序論       五〇  このように確定日払保険では、保険料の払込期間に不確定性が存在し、契約者の支払う報酬の額が一定しないにとどま り、保険金の額もその支払期日も、ともに最初から確定している。保険事件にのみ偶然性を考えようとする見方は、ここ では全く成立しない。後に述べるように、危険の概念を偶然性に結びつけ、保険者の給付の不確定性に求めることは、こ こで大きな困難に遭遇するであろう。 五  およそ保険契約では、偶然は不可欠の要素とせられている。しかし、このことは、偶然事件が、保険に於てのみ不可欠 であるという意味から、その成立の基礎となるのではない。すなわち、もともと人間生活のあらゆる部面に、偶然事件の 作用を免れることは不可能であり、経済生活もまたその例外ではない。そこにまず保険成立の根拠がある。  ただわれわれは、保険が成立するについては、このような偶然事件の上に、いわゆる大数の法則が適用せられて、その 適用が保険企業の技術とせられるということを、忘れてはならない。それによって、保険料と保険金との相互の給付は、 全体として見合わされて、企業経営の計算的基礎とせられる。保険に於ける偶然事件は、現実に保険企業の資金的操作に よって全体として必然化せられる。いわば保険企業は、偶然の必然化の技術の上に成立するのである。ヒュルゼ︵国庄。・。・ρ 男︶がいうところの﹁偶然の利用によ.る偶然の克服﹂︵d①げ臼≦ぎ含昌αq号ωN無鋤=。。餌嘗言げ﹀口ω崖符巨αq号ωN無既囲。。一介舘。・ωρ 司ごく醇。。ざゴ臼ロロひq呂匹毛三ω。げ昧θ・図貯q巨①誘琴げきσq曽げ2]WΦαqユ庸餌厳く①屋ざげ葭琶αQ置く。節ω三洋。・。ゴ片白①訂ρ一8ω︾ω.2︶は、 この意味で解せられるべきである。  そうであるからとて、偶然事件そのものに、本質的に異ったごつの意味があるというのではない。偶然事件の実体は、 そのものとして異るはずはないが、右の二つの場合、これを個々の保険契約の立場から見るか、全体としての保険関係の

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立場から見るか、という点によって定まるひ人は、彼がさらされている偶然事件を免れ、これを克服するため、保険者と 保険契約を結ぶ。保険契約者に於いては、偶然は、主観的意味を持つ事件として意識せられるのである。  保険契約者にとっては、彼に於ける偶然の克服は、具体的に、保険者の給付によって可能となるが、しかもそれは、報 酬としての保険料の提供によって実現せられる。いいかえれば、一般に偶然事件にさらされたひとびとか、保険料の負担 を肯んずるならば、保険金の獲得によって、その偶然を克服することができる。いわば一般的な偶然事件は、保険料の負 担と、その保険料の反対給付たる保険金の大いさとによって、保険機構に於ける偶然として、具体的に限定せられること となる。  このような限定のもとに、人は、保険契約者として、保険者と双務的に対立するのである。保険者は、個々の契約によ って、これらのひとびとを、みずからの周囲にとり集める。そしてこの対立の全体が、ここに保険関係と名づけられたの である。この場合、保険者たる保険企業としては、彼が受取る保険料のうちから、保険事件の発生を条件として、保険金 を支払いつくす。この保険料と保険金との、資金としての交流に於いて、いわゆる大数の法則がはたらくが、この機構の 分析こそが、経済学としての保険学の課題をなすのである。  保険の本質を、このような機構として考察するとぎ、この機構に於いて、右に述べた偶然事件が発現する。その場合に この偶然事件は、つねに、保険料と保険金とめ、いずれかもしくは双方の側に見られることに注意しなければならない。 いいかえれば、いわゆる加入者として保険契約者は、保険料の払込みと保険金の受取りとの、いずれかもしくは双方に於 いて、偶然事件にさらされるのであるが、しかもこの偶然事件は、彼に於いては、保険金の受取りによって克服せられる ことになる。  いまこのことを、反面的に、保険企業の立場から考えると、この企業は、保険料と保険金との授受のいずれかもしくは      保険関係の構成序論      五一

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     保険関係の構成序論       五二 双方に於いて、偶然事件にさらされつつも、この偶然事件のうちにあって、保険金を給付する。したがって、保険企業に とっては、保険料から保険金への交流に於いて、いわゆる被保険者たる加入者について発現するところの、偶然事件の作 用を受けるわけである。ところでこの保険企業は、この資金交流の操作の担当者であり、かっこの交流は、保険機構を形 づくるところの、保険関係に於いて行われるのであるから、偶然事件は、具体的に、保険関係に於いて発現する、という ことができよう。 占 ノ、  さぎに、偶然事件の実体としては、一般的なものと保険企業に於ける具体的なものとの間に、もともとの差違はないこ とを述べた。この事情は、需要︵Zp。臣鑓σq①︶と欲望︵切①き匡巳ω︶もしくは欲求︵じu①計胤︶との聞の関係に対比せしめるこ とができよう。  周知のように、需要は、単に心理的意味に於ける意欲としての欲望や、この欲望を財に具体化した欲求にとどまらず、 すすんでその奥に、欲望の満足︵しu①監①象σq§αq︶や欲求の充足︵U①。ざ口σq︶を可能ならしむべき購買力を、その背景として 持つ概念である。その点で、それは、客観的に数量として捉えられる。経済学で直接問題となるのは、つねにこの需要で あり、欲望や欲求は、その基礎としてのみ意味を持つのである。  これと同様に、保険の本質に於いて問題とせられる偶然事件は、右のような保険関係に於けるそれであり、経済学的に 見れば、加入者の負担力に制限せられる保険料と、これに比例する保険金の形をとるところの、資金交流の機構に於ける 偶然事件である。さきに、一般的意味の偶然事件が、保験閣係にあって具体化せられると述べたのは、まさしくこの欄連 を指して躯る。

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 ゆえに保険に於いて、このような意味を持つ偶然事件は、保険者の給付をもたらす保険事件についても、契約者の報醗 たる保険料の払込義務を終了せしめる事件についても、それぞれ現われる。もとより多くの場合には、偶然事件は保険事 件に該当するが、つねにそうであると考えることは許されない。このような偶然事件が、両者にひとしく現われる実例 を、われわれは一部の生命保険に見出し得たのである。  保険事件は、右のように、もともと偶然事件たると確定事件たるとを問わないが、保険契約は、この保険事件の発生を 条件として、保険者が、契約上定められた給付をなすべきことを意味する。この給付額は、いうまでもなく保険金額であ る。ところでこの場合、保険金額は、損害保険にあっては給付の最高限度を示し、生命保険に於いては一定額とせられ、 また年金保険ではその総額が不確定であるが、ともかく保険者に於けるこの保険金の給付が、つねに、保険契約者に於け る保険料の給付によってのみ有効になされるという点では、いずれの保険も異るところはない。ここに、保険契約の有償 性が認められるのである。  保険契約が、右の意味での有償契約であるということは、保険そのものの技術関係から出た、当然の帰結である。この 技術関係は、いうまでもなく大数法則による資金操作であるが、それが保険の本質を形づくる。すなわち保険では、同種 の契約を全体として保険関係として考察するとき、保険金の総額は、保険料の総額にひとしかるべき組織が、保険企業の 経営として形づくられる。保険契約は、このような・本質にもとづいて、個別的に、法律行為として成立するのである。  保険契約の有償性ということば、もともと個々の契約を全体としてのみ、経済学的に正当に理解せられる。いまこれを 個別的に見る場合には、契約の種類によっては、保険金の給付がないことがある。その場合には、この保険者の給付は、 もし保険事件が発生すればという、一定の制限のもとに於ける義務を意味すること、さぎに述べたところであるから、こ のことを、一応は、危険の負担と見ることができよう。しかし危険の負担ということは、法律的概念であるとともに、む      保険関係の構成序論      五三

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     保険関係の構成序論      五四 しろ経済学的に解釈せらるべき、ある内容を持っている。それについては、別に機会を得て論じたいと思うが、ここでは 法律の立場からは、それはどういう意味を持っており、どういう問題を含んでいるかを、少し吟味したいのである。 七  周知のように、﹁危険なければ保険なし﹂︵、、○ぎΦOΦh帥耳ざ冒Φ<霞ω博。冨毎夷.、︶とは、古来保険の鉄則とせられたこと である。まことに危険は、保険成立の前提をなすと同時に、またそれは保険契約の内容でもあり、契約の成立と存続のた めの要件でもある、と老えられて来だ。しかし、その危険の概念について説かれるところは、必ずしも一致しているとは いえない。  もともと危険という言葉には、Ωo碑罵・匹。。涛ρ≦pαq巳ω・H旨銅犀爵箇凱などさまざまのものがあるが、それについての 解釈は一様ではない。ただ一般的な用語としては図幽。・騨ρ圏冨犀があり、法律的用語も多くはそれであるようであるから、 いまはそれ以上に詮索しない。  ところがその危険も、法律上いくつかの意味に使用せられている。それは条文によって危険の意味が異るのみならず、 同じ条文についても、異った意味を持つと老うべぎ場合がある。いまこれらさまざまの危険の使用例を挙げると、およそ 次の如くである︵伊沢孝平、保険法、一=二一四頁︶。  日 保険事件発生の可能性︵商法、六四六・六五〇豆・六五六・六五七・八二五条︶  口 この可能性を生ぜしめる基礎となる状態︵商法、六四六・六五〇∬・六五六・六五七・八二五条︶  ⇔ その発生によって、保険者に損害填補義務または保険金支払義務を発生せしめる事件︵商法、六四五皿・六四九皿2・    六五四・六五八・六五九条︶

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 ㈲ 保険者の責任、または保険者の負担することあるべき損害そのもの︵たとえば危険の引受・分割という場合、商法、六二    九条など︶  しかし、一般に、保険契約の要素として危険または保険事件というのは、だいたい⇔の場合と解せられる︵伊沢、商法事 典、二二三頁︶。したがってここでは、それをめぐって、問題となる諸点を考察したいと思う。  さて危険がいかに解せられるにせよ、それが、保険者による保険金支払いに関するものであることは、改めていうまで もない。いまこの保険者が、とくに保険企業たる立場に於いては、保険金は支出にほかならず、それが牧戸たる保険料に よって償われるという点から見れば、むしろ費用と見られるべきである。けだし、保険料の集積たる責任準備金は、多か れ少かれ運用利潤を生んだ後、保険金として支出せられるのであるから、それは、この利潤実現の過程に於ける支出であ り、その意味で費用と考えられる。ただこの場合には、それが牧益との間に持つ体化の道行きが、一般の場合と根本的に 異っており、いわば牧益が先に、費用が後に現われる。  それはともかく、危険は、保険者にとっては費用として具体化せられるのであるが、それは他面、牧益たる保険料によ って償われるほかはない。この牧支の間に起ることあるべき不均衡という点に、保険企業の経営についての危険がひそん でいる。もともと右に示したいろいろの危険概念は、ここにとり上げた企業危険とは、概念の成り立ちとしてはたがいに 異るが、それが保険金の支払いにかかわるという点に於いては、あるつながりを持っているといえる。経済学としての保 険学は、まさにその点をとり上げるべぎである。いずれにしても、この不均衡たる危険の克服について、その独自の創意 がはたらくという点に、保険企業の企業たる資格が成り立つことになる。  この場合に、保険料は、保険者に於ける危険負担に対する反対給付として、これを考え得るであろう。およそ企業にと っては、対価として実現するところの牧益は、同時に、その企業が経営上負担すべき危険の報酬として、これを考えるこ      保険関係の構成序論      五五

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     保険関係の溝成序論       五六 とができるからである。保険に於ける牧益は、それが特殊の意味を持つものではあるが、保険料の形に見出されることを われわれは注意しなければならない。  とにもかくにも、危険やその負担について、右のような点をとくに理解することは、決して意義のないわけではない。 かくして保険契約は、保険者に於ける危険負担という給付について、契約者が、これの報酬として、保険料を反対給付す るところの、ある有償契約として見ることが、一応許されるであろう。もとよりこれは、きわめて奇妙な表現であり、未 熟な理解や課題がそれに含まれていること、疑いはない。そこで、次にそれらの一、ごをとり上げたいと思う。 八  われわれは、ここでいま一度、この保険者に於ける危険の負担ということは、そもそも何を意味するかを、反省する必 要があろう。さきに法律的考察の立場から、危険の負担というのは、一定の制限のもとでの給付義務と解せられたのであ るが、この制限ということの解釈については、何らかの意味で、偶然性から脱却しきれないものがある、と見ることがで きる。その場合に、その偶然性とは、そもそも何を指すのであろうか。  いったいもろもろの経済主体は、その生活の営みについて偶然にさらされ、それの克服に関して、それぞれ創意を発揮 するのである。保険者も保険契約者も、ともに独立の経済主体であるから、やはりその例外ではない。ところで、たまた まこの創意が、大数の法則という技術関係にもとずく場合に、いわゆる保険関係の一つ一つを形づくるところの、保険契 約が成立し、保険者と保険契約者とが、双務的に結ばれる。  いわば保険契約当事者として、たがいに立場を異にする危険の負担が、右の技術的関係のもとに結ばれるとき、その結 びつきが、個別的には保険契約として、全体的には保険関係として、それぞれ現われるのである。この事情をもっぱら契

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約者の立場から考察するとき、それが保険の効用にほかならない。つまり、契約者に於ける保険の効用は、保険者に於げ る保険の技術を、前提とし基礎とするのである。  このように観察すると、保険契約について危険の負担者となるものは、もとより立場を異にするが、保険者と保険契約 者のいずれでもあり得るはずである。それが保険者のみに限られるべき理由はない。この立場を異にする危険の負担が、 むしろその立場を異にするゆえにこそ、保険が持つところの個有の基礎のもとに、契約の当事者が、対立的に結ばれると 見るべぎであろう。ただこの結びつぎは、いずれの当事者も、右の技術関係に拘束せられるという点から、これを双務契 約として考えることが許されるのである。  重ねてこれをいえば、保険にあっては、保険者として危険の負担がなされると同時に、それと同じ技術的基礎のもとに 異った意味の危険の負方が、契約者に於いてもなされるのである。そしてハその後の場合にも、危険負担の報酬は、実は 保険料を措いてはあり得ぬであろう。このように、同じ保険料が、同時にしかも異る意味で、危険の負担に対して、反対 給付の関係に立つことになる。このことは、まことに奇妙な結論といわなければならない。  しかしわれわれは、一見奇妙なこの結論のうちに、実は、この問題の解決の鍵を見出し得ぬであろうか。さきに、保険 者に於ける危険の負担は、彼が企業たる性格に由来することを述べたのであるが、その報酬として保険料が受取られる。 それゆえに、保険の固有の技術関係のもとに、いわば費用としての保険金の支出が、いわば着着としての保険料の牧入に よって見合わされるための、企業としての創意の実現という点に、保険者に於ける危険の負担が、表現せられることにな る。しかるにこの保険金は、同時に契約者の側にとっては、彼に於ける危険の負担を現実に具体化するものであること、 既に述べたところである。  このように見ると、保険者に於ける右の危険負担は、立場をかえて、実は、契約者に於ける危険の負担を具体化せしめ      保険関係の玉成序論       五七

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     保険関係の構成序論       五八 る、という関係に立つ。いわば契約者に於ける危険の負担が、保険者の側に反映して、それが保険者に於ける危険の負担 を形づくる、老えてよいであろう。危険の概念は、もとよりたがいに別個のものではなく、関連しあってはいけるけれど も、やはり立場を異にした意味を持っている。すなわちここにあっては、契約の当事者として、給付関係に於いて対立す るところの保険者と保険契約者とは、それぞれ立場を異にし、したがって意味を異にするところの危険の負担が、たがい に不可分・表裏の関係として、別のいい方をすれば実体とその反映として、結びついているのである。  ところでここに注意すべきは、このようなごつの危険の負損が、表裏として、もしくは実体とその反映として結びつく のは、一に、保険の固有の技術関係によるということである。さきにわれわれは、一般的意味での偶然事件が、保険関係 に於いて具体化せられることを明らかにしたが、それと同様に、この保険関係の成立基礎たるところの、右の固有の技術 関係によって、契約者に於ける危険の負担が、そのまま保険者に於ける危険の負担に表現せられる。すなわち、契約者に 於ける危険負担のための犠牲たる保険料と、この危険負担を具体化する保険金とは、それぞれの牧支について、保険者の もとでは、企業としての危険負担を形づくるのである。  このようにして、保険料と保険金とは、保険者にとっても契約者にとっても、ともかく危険の負担ということについて その要素をなすと見ることがでぎる。いいかえれば、保険者と契約者との双方に於いて、保険料と保険金とが、保険がも ともと必要とするある技術関係に結びつくと、保険関係に於ける偶然事件が作用し、その偶然事件の克服ということが、 両当事者に於いて、それぞれの危険負担を意味するのである。 九 このように見て来ると、危険負担について老えられる偶然事件は、保険者にとっても契約者にとっても、もとよりその

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意味は同じでないが、保険料と保険金との両面に作用し得る。さらに具体的にいえば、保険に於ける偶然事件は、保険金 の給付をもたらす保険事件と、この給付と有償関係に立つところの保険料の払込みを終了せしむべき事件との、両者に現 われるのである。もとより、それらの現われ方は、保険そのものの種類、したがって保険契約の形によって異る。  そこで保険契約は、  e 保険事件のみが偶然事件である場合  ⇔ 保険事件と保険料払込義務を終了せしめる事件とが、ともに偶然事件である場合  国 保険料払込義務を終了せしめる事件のみが偶然事件である場合 のうち、いずれか一つとして結ばれることとなる。  したがって、危険の負担は、保険事件のみが偶然事件である場合についてだけ、考えられること、ではない。この場合に 負担せられるべぎその危険は、既に述べたように、単に保険企業にとって、保険金という支出の可能性を意味するにとど まり、この保険金の給付を現実になさしめる条件たる保険事件について、偶然性が存在するかどうかということは、何ら 直接にかかわりのないことである。  いま、危険をめぐって成立するこの保険契約が、法律行為として双務関係に置かれても、それはさきに述べたように、 実は、保険の経済学的本質たる保険関係、いいかえれば保険の機構を形づくるものとしてのみ、これを正当に理解し得る のであるから、その危険の本質は、まさにそのことから究明せられなければならない。その場合に、危険と偶然性との関 係は、右のように老察せられるのである。  しかるに、一般の法律的解釈では、危険は、そのように取扱われていないようである。すなわち、もっぱら保険者の給 付義務が発現するという点から、あるいはこれを保険事件発生の可能性とし、あるいは保険事件そのものを意味し、とき      保険関係の構成序論       五九

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     保険関係の溝成序論       六〇 としては、被保険利益たる財産そのものについて、その名称を与えているのである。  この最後の場合は、保険事件発生の結果を、財産的価値に結びつけたのであるが、その点で、危険は、明らかに損害の 概念に裏づけられている。いずれにしても、それに於いて偶然事件の発生が予想せられ、かつ偶然事件に密接に結びつい ているという点では、共通するところがあるといえる。  さて、右の考察は、私見によれば、保険事件を偶然事件に限定し、もしくはこれと混同することと、実質的に表裏する ものである。まことに偶然は、保険成立の基本的な要件であるし、またその保険が、契約的には保険事件の発生を条件と するところの、相互の給付関係を意味するものであるが、そのことをもって直ちに、保険事件であるとは結論し得ぬはず である。  そもそも保険契約は、形式的には、保険料と保険金との双務的給付の関係ととして理解されるから、偶然事件は、もと もとこれら二つの給付の結びつきのうちに存在すると考えねばならない。ただ現実には、その偶然事件が、保険金と保険 料とのいずれかの側の事情、詳しくいえば保険事件と、保険料払込義務を終了せしめる事件との、いずれにもとずいて発 現するかということは、保険の種類によって個々の契約がこれを定めるのである。  偶然事件が保険契約に於いて持つところの意味が、右のような場合に、その偶然事件の克服と考えられ、危険負担の性 質は、またおのずから明らかとなるであろう。保険契約が給付の双務契約であり、またそれゆえに、給付に関する有償契 約と考えられるとしても、それは必ずしも、そのまま危険負担に関する有償契約を意味する、とは考えがたい。かりにい ま、何らかの制限のもとにこれを許すとしても、危険の負担ということそのことについては、契約としての法律的解釈か らは、直ちにこれを分析しがたい。それは、進んで、本質としての経済学的解釈の分野にこれを求むべきであり、ここに はじめて、保険契約そのものの性質が明瞭となるであろう。 ,

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︷ 一〇  右に述べ来ったところで知られるように、保険関係を個々について契約として見るとき、この契約は、保険事件の発生 を条件として成立する。その場合この保険事件は、一般に偶然事件と同一視せられ、その偶然性に、被保険者に於いて危 険がひそむと考えられている。その点で、保険者はこの危険の負担者となる。したがって、保険料は、この危険負担の報 酬と考えられるのである。  ところが、煮﹂の考え方の奥には、損害の概念が支配していることを、われわれは忘れてはならない。それは偶然事件に 結びつき、危険の負担は、それと不可分に考えられている。つまり保険契約は、多かれ少かれ損害に関して成立する双務 契約であると解釈せられるのである。  いま危険を損害と不可分的に老えるとすれ・ば、損害保険については当てはまるにしても、生命保険についてはそうでは ない。すなわち、生命保険には損害の発生なく、したがって危険は存在しないわけである。そこで、いま損害なく、また 危険なきところに保険は成立せずという見解を貫くとせば、生命保険は、損害がないにかかわらず危険を負担するものと なるから、その実質では賭博にほかならぬわけである。  その場合、生命保険もまた保険であるとするには、やはり何らかの形で、損害を前提しなければならなくなる。そこに たとえば予想的損害という概念が持出される。それによると、生命保険は、扶養能力者の不時の死亡から生ずる危険、ま たは生活保持の手段を失うに至った老後の生存の危険、などに対して行われると考えられる。  しかし、生命保険が、損害墳補以外の目的に現実に役立てられていることは、否定し得ない。その場合にこの契約が、 損害を伴わずして、しかも経済上の負担を軽減することとなる点に着目して、この考え方は、違約金と同様に、それが予      保倹関係の構成序論       六一

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     保険関係の構成序論      六二 想的損害を墳補すると解するのである。すなわち、直接に損害を堀補しない点で損害保険と異るにしても、なお損害その ものは、依然として予想されると、この老え方は主張する︵たとえば鳥賀陽然良、商行為法、一七二頁︶。  これによると、生命保険では、保険事件は現実の損害を伴わないが、これを予想的損害と見ることになる。しかし、予 想的損害は、決して損害の予想ではない。けだし、損害の予想は、いうまでもなく、実質的に価値の減滅の可能性を推定 することであるが、その推定については、損害はもともと発生せず、危険の存在もまたあり得ない。  したがって、いま生命保険で予想的損害というのは、現実の損害とともに、損害の一種でなければならない。そして、 それの発生について危険が存在する、と見るべきことになる。しからば、そもそも損害とは何か。一応それは、貨幣的価 値の減滅の現象と定義されよう。しかし、そのことは、ここでは大して問題ではない。問題となるのは、それに対する契 約者の態度そのことにある。  損害保険では、契約者は、将来損害の発生することあるべきを認めつつ、それを希望しないゆえに、その損害発生の際 の手段として、保険が選ばれたのである。いま生命保険で、もし死亡を損害と認めるならば、生命そのものに貨幣的評価 を許す誤謬達生むにしても、一応は同様のこまが考.κられる。しかるに生存については、ことがらは全く異る。  いま、ある年令への到達を損害と認めることは、いかに強弁しても不可能であろう。かりに可能であっても、契約者の 希望するのは、まさしく損害の発生そのことでなければならない。保険の本質が損害の堀補にあるとせぱ、ある種の保険 では、もともと損害の発生を希望せず、他の種の保険ではこれを希望するという矛盾を、露呈せざるを得ないのである。 このことは、保険契約を理解するについて、損害にのみ結びついて危険を考え、さらにそれを偶然事件に関連せしめるこ との不合理を、それ自体示しているといえる。われわれが経済学的に保険関係を老察しようとするに当って、まずこのこ とに注意しながら、それに関連する諸問題をとり上げなければならない。これについては、改めて論じたいと思う。一

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