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再び保険学の立場について

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再び保険学の立場について

西

 さきに︵拙稿、保険学の立場、保険学雑誌、三九〇号︶ 私は、保険学の経済学としての性格から、どういう観察の立場がと られねばならないかを澗題とし、さらにそれに前後するいくつかの論稿で、この点を補足的に明らかにするところがあっ た︵拙稿旨保険学説論、彦根論叢、二六号。保険の本質とその商品性、彦根論叢、二九号。保険本質論の展開、小島昌太郎博士古稀祝賀 記念論文集。保険学の一つの反省、保険学雑誌、四〇三号。保険学の体系、保険学雑誌、四〇六号など︶。  これらにおける私の根本的な考え方は、つとに拙著﹁保険学新論﹂︵昭和十七年︶ でとり上げられたが、さらに近著﹁保 険の経済理論﹂︵昭和三十五年︶で一層これを明らかにしたつもりである。これに対しては、すでに二、三の異論を招いて いるし、おそらく今後もあり得るであろう。そういう異論が多少とも与えられることは、私自身にとってうれしいことで あり、またそれを反省し吟味することは、私の学問を深める点でありがたいことである。そういう意味で、もう一度私見 を開陳して、教えを乞いたいと思う。  私は、右の論著で、経済学としての保険学の私なりの体系は、一応でき上ったと考えている。今後は、これにもつと豊 富な考察を裏づけて、この体系を整備することを課題としなければならぬであろう。もしこの一応の体系が根本的に誤っ      再び保険学の立場について      一

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     再び保険学の立場について      ,      二 たものであるならば、この際これを老え直して、もう一度新しく出発することが、少くとも学問的態度であるにちがいな い。そういう意味で、ここで改めてこの問題を考えたいと思う。  もとより私は、私なりの体系を十分とは考えていない。多くの欠点をもっていることを知っている。それにもかかわら ず一つの方向に主張を貫こうとしたのは、一般に保険学といわれるものの理論的立場に、根本的な疑問を否定し得ないか らである。保険学が経済学であるとすれば、その場合の経済学は、ひろく部門経済学もしくは経済学各論を含めて、いっ たいどのような観察の立場から、その理論を展開しなければならないであろうか。そしてその立場は、保険においては何 を指すであろうか。そのことの老察が、まず保険証の問題でなければならない。  保険学の出発点をここに求めた場合、構成された理論体系は、あるいは従前のものと全く異ったものとなるかもしれな い。もしそうであるとしても、その異った体系こそ、少くとも私においては、正しいとせられるのである。そして、かり にそうなるとすると、従前のそれらは、その出発点での考ジえ方が誤っていたか、あるいはその出発点そのものに、意識を 及ぼしていなかった結果であろう。私の見るところでは、どうも後者であるようである。いずれにしても、私は、まずこ のことを問題にとり上げたにすぎない。  ここで保険学というのは、経済学としてのそれである。もとより保険は、法律学としても社会学としても、ないしは医 学としても数学としても、それぞれの学区を形づくる。それらはたがいに異質の、したがって学問的立場を異にした理論 体系である。それらの無秩序な綜合ではない。われわれの問題は、このうち経済学としての保険学にあるから、それはま ず、経済学たる立場の自覚において可能である。その点で、あえて保険経済学という必要はない。  さてその経済学としての自覚であるが、それは単に観念上のことでなく、具体的・現実的に経済をいかに見るかという ことである。保険が経済現象であることは明らかであるが、その保険を、具体的・現実的にどう着目するかという態度に

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経済学としての自覚が示される。学問の方法論というのも、その態度を指すといえる。  ところで、方法論とはいったい何であるか。それは、いずれの学問にとっても基・本的な、またきわめて困難な問題であ ろう。方法論の本質を、そのものとして明らかにすることは、およそ学問にとっての出発点であり基礎であるが、それだ けに実は容易でないし、また私の能力を超えている。ただ私としていい得ることは、その方法論的立場なるものが、行論 の間におのずから窺い得られ、またそれをもって足るということである。すすんでいえば、行論そのことが、実は方法論 の展開にほかならない。  学問としての理論体系は、明らかに、それ自身方法論的立場によって麦えられ、それによって展開されるであろう。そ うであるからとて、それが直ちに論述の順序を指し、ま・ず方法論が、ついで本論が、それぞれ配列せられるということを 意味しない。つまり、ことさら方法論という形で、 一定の順序で述べることが学問たる資格をもち得る、というのではな いのである。いなむしろ、その本論たるところの行論が、論理的必然性のもとに、精確に展開される過程そのもののうち に、方法論的立場がにじみ出ていることをもって足る、といい得るであろう。 二  すでに述べたように、保険学は経済学であり、その意味では保険経済学である。保険に関するいろいろの学問は、いず れも、経済現象としての保険の存在を前提としている。そこで、その経済現象としての保険の本質を問題とするのが、こ こにいう保険学であるし、その点で保険学は、部門経済学または経済学各論たる地位を占める。  保険そのものの成立は、その源泉にさかのぼればかなり早いとはいうものの、それに関する学問が形成されたのは、そ れほど古いことではない。それにもかかわらず、今日まで、保険の本質に関する学説は、かなり多くのものが現われ、かつ      再び保険学の立場について       噛三

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     再び保険学の立場について       四   − 発展した。いまそれらを比較論評しようというのではない。  そういう学説的分類において、もし私見の所属を問われるならば困経済生活確保説に属しよう。この考え方はわが小島 昌太郎博士によって創始されたが、それをやや修正して、私は次のように表現する。すなわち﹁保険は、偶然事件のうち にあって、経済生活の確保のために、多数人が共同して、貨幣を獲得する仕組みである。﹂  いま、保険のこの定義もしくは保険の概念について、詳しく論ずるつもりはない。ただここでいささかとり上げたいこ とは、右の定義や概念を形づくる四つの要素、すなわち偶然事件の存在、経済生活の確保、多数入の共同、貨幣の獲得は たがいに不可分の関係にあり、その一つが問題にせられるときには、他の三者はつねにその背後にあって、これに伴うと いうことである。保険がもともとこの四つの要素によって有機的に成り立つというのは、決して、この四宝の集合が保険 を形づくるということではない。  そういう二者の関係において、いずれかといえば前の二者は、いわば保険の効用を形づくり、後の二者は保険の技術を 構成すると唱えられる。もともと効用は、一定の技術によって実現せられ、技術は、一定の効用を目指すものとして可能 である。この両者は、本来不可分の関係において意味をもち得る。したがって、保険の効用は保険の技術を前提し、保険 の技術は、保険の効用によって固有のものとなるであろう。経済生活確保説は、このような二面性を含んだ理論として、 これを主張し得るのである。  しかしこの場合でも、この経済生活確保説は、いずれかといえば効用の側に強調があり、いわば消費者としての加入者 の立場から、保険の本質をながめている。もとよりそれは、保険が一つの機構であり、それを仕組みと考えてはいるが、 その機構において、加入者にとっての経済生活の確保という点で、保険がいかなる職能をはたすかを問題としているので ある。 ∫.

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 いまそのことを誤りというのでぽない。ここで指摘したいのは、保険の機能が加入者の効用の意味で捉えられるとすれ ば、同時にそれが、いわば供給の立場から、保険企業の技術の意味で考えられるはずである。保険理論の二面性とい弓の は、このような需要と供給とをそのうちに含んだ、保険本質の考察でなければならない。  ところで、保険学説の発展において、いずれの考え方も、私の見るところでは、もっぱら前者の立場において展開され ているようである。のみならず、すすんでいえば、そういう二面性に考慮が及んでいない。そのことは、いま私が所属す るといった経済生活確保説においても、やはりこれを免れるを得ないといえる。私が、分類的意味においてはこの説に加 担しながらも、理論の展開に当って、あえて一つの主張を貫こうとしたのは、このことへの反省のゆえにほかならないの である。  ところで右の保険学説の発展において、いわゆる保険商品説は・、従前の考え方にくらべると、たしかにすぐれて傾聴す べきものを含んでいる。ことにそれが、保険を国民経済的な視野から捉え、保険における価値循環の性格を分析し、価格 としての保険料の特性を、あるいは価値形成の問題として、あるいはそれをめぐる需要の︵したがって供給の︶弾力性の 問題としてとり上げる点において、経済学の分野で、ぎわめて注目すべき貢献をなしたことは、高く評価されなければな らない。  このような商品説は、そのすぐれた理論にかかわらず、それが拠っている根本的な考察において、問題のとり上げ方を 誤ったものとして、いま私は否定せざるを得ない。そのことについては、すでにいろいろの機会でこれを明らかにしたか ら、いまは一切省略しよう。ただここで触れておきたいのは、この考えにあっても、右に述べた保険の技術が、保険企業 固有の過程としてながめられていない、ということである。そこで、この技術過程を改めてとり⊥げることが、経済学と しての保険学の、基本的な立場ではないかという反省が、われわれに与えられることになる。      再び保険学の立場について      五

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再び保険学の立場について よ ノ\ 三  右で述べたように、保険の本質は、この際、いわゆる保険の技術からこれを考え直さなければならない。それは、決し て、保険の効用を無視して、もっぱら技術の側からのみの考察に終始する、という意味ではないはずである。もしそうい う批判があるとすれば、従前の誓え方が、いわば無反省に、効用への固執があったと私において見られるだけに、他の半 面をとり上げることによって、保険の本質を正しく理解しようという、強調があったからにほかならぬのである。  そのことを、.すでに公にした一連の拙稿で論じつくしたつもりであるし、またそれを近著﹁保険の経済理論﹂に体系的 に展開したはずであるが、なお十分な理解を得られないやに受けとられる。そこでさ私としては重複・反覆であり、もは や無用のようにも思われるが、もう一度私見の存在するところを述べて、これを明らかにすることも、意義のないことで はない。あえて﹁再び保険学の立場について﹂と題したゆえんである。  さて、部門経済学ないしは経済学各論では、いずれも、その問題とする部門の経済について、これを支える企業に眼を そそいで、いわば供給の側からの老察がなされる。もともと国民経済は、交換の機構として成りたつが、それを機構とし て組み立てるものは、もろもろの企業にほかならない。経済学は、まずこのことに着目して、それぞれの企業がよって立 つところの技術過程が、どのような姿でこの組み立てに参加するか、したがってそこに見られる流通において、価格がい かに形成せられ、その価格によって所得がいかに分配せられるか、ということを問題とする。経済学の理論体系が、究局 的には価格のそれであるといわれるのは、この事実を指している。  このことは、経済を、まず企業の経営に眼をそそいで、それが作り上げる交換関係をとり上げることを意味するが、そ れは言葉をかえれぽ、経営に着目することなくして経済は本質的に理解しがたい、ということである。かくいえばとて、

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      ヤ 経営そのことを問題にするのではない。その点で、経営学的考察ではなくて、まさに経済学的考察である。  いったい経営学も経済学も、私見によれば、まず企業に着目し、その企業活動をとり上げる。しかしながらそのとり上 げ方が、経営学はいわば内に向って、経営そのことの組織・管理・財務・労務などの内容を問題とするにあるが、経済学 は、いわば外に向って、これらの経営が国民経済的にいかに関連し、企業が相寄って作り⊥げる機構においていかなる現 象が成立するかを問題とする。経済が交換、したがって価格の関係であるというのは、これを指している。そこで、後者 の考察のためには、前者を離れてはならないし、経営を離れて経済を理解しがたいというのはこのことである。供給の側 からの考察とさきにいったのは、まさにこのようなとり上げ方にほかならない。 、  ひとしく企業に着目しながらも、経済学と経営学とは、問題のとり上げ方が全く異っている。経済学が企業を無主体的 に捉え、国民経済的な機構におけるいわば存在の法則︵ΩΦ。。爵︶を明らかにしょうとするに対して、経営学は、企業を主体 的に捉え、経営についてのいわば行為の原則︵零言N甘︶を明らかにしょうとする。外に向ってまたは内に向ってというの は、そういう法則と原則との老察を、比喩的に名づけたことである。  ところでここに問題とする保険学は、このような経済学としての性格をもっている。その場合に、保険企業の経営に着 目するといっても、保険の経営そのことを老察する経営学としてではない。そして、保険企業の経営に着目するというの は、いわば供給の側から保険を問題とすることであり、その供給の側からということは、決して需要を無視して、それに 考慮を及ぼしていないということではないのである。  従前の保険学説において、そ、の所説はさまざまであるが、ただ一つ共通な点は、いずれもいわば需要の側に立って、保 険の効用をとり⊥げ、それを保険の本質と考えている、ということに見出される。もともと需要は、供給をまって成立す る。資本主義のもとでは、たとい最終的には供給が需要を予想するとしても、経済の成立の建前からいえば、供給が需要      再び保険学の立場について       七

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     再び保険学の立場について       八 を規制し、需要は供給にしたがう。その意味で、商品生産の機構として理解されるのである。したがって経済に関する考 察は、本質的には、需要の側からよりは、むしろ供給の側からそれがなされるべく、経済理論は、そこに組み立てられる といえる。 四  右のような立場をとるとき、保険学に限って、何故にいわば需要の側から、その効用を論ずることによってのみ、保険 の本質を明らかにしなければならぬのであろうか。むしろ進んでいえば、このような経済学としての根本的な反省が、は たして保険学においてなされたであろうか。経済学たる保険学は、まずこのことの吟味に始まって、その理論体系が作ら れなければならない。いいかえれば、保険企業がよりどころとする固有の技術過程が、いかにして国民経済の交換関係に おいて、保険という現象を生み出すかの考察が、ここにいう保険学の理論を組み立てるのである。  重複のきらいがあるが、いまゴ、二の例を挙げてこれを明らかにしよう。ここに工業経済学という学問がある。その理 論体系は、もとより学者によって異るであろうが、やはり一つの共通点をもってい。ることがわかる。すなわちそれは、疑 いもなく、もろもろの工業企業の企業活動に着目して、それらの企業の経営が資本的再生産としていかにからみあうかの 諸関係が考察せられる。そこでは、工業資本の形成・流通の閲題をはじめ、原料・労働・機械などの生産諸要素の技術的 結合の問題、経営形態や企業組織の問題、独占体や企業結合の問題、企業規模や大量生産の問題、生産技術の発展や革新 の問題など、すこぶる広い領域が、一つの体系のもとに理論づけられるのである。  かくして工業経済学は、それぞれ固有の生産的技術過程によって、それぞれの経営を行うもろもろの工業企業が、国民 経済の舞台でたがいに結びあいながら、いかにその経営を行うかをとり⊥げる。その場合注意すべきは、経営そのことを        ’

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問題にするのではない。すなわち、眼は内に向っているのではなく、実は外に向って、国民経済的な諸関連が考察せられ るのである。  このとり上げ方は、いうまでもなく供給の側からなされている。そこで、供給者たるこの工業企業に対して、それぞれ の需要の面で、経済主体たる企業や家計がいかにこれに結びつき、これら経済主体の本来の目的が、いかにして達成せら れるかという老察つまり効用の問題は、もとより供給に反映するという意味で、決して無視されているわけではないが、 学問そのものの課題としては、正面的にとり上げられていないのである。  このように工業経済学にとっては、正面の問題は、あくまで工業企業の企業としての活動、すなわち経営によって形づ くられるところの、国民経済的な機構そのことであるのを、われわれは忘れてはならない。同様のことは、ひとしく部門 経済学もしくは経済学各論たる農業経済学・商業経済学についても、−貿易論や交通論についても、またいい得られるであ ろう。ただ異るところは、それぞれの部門における企業の按術過程の特殊性にある。  かくして、供給の側におけるこの馬術過程に対して、それぞれの需要が結びついて、それぞれの存立が企てられる。こ の機構を根本的に支えるものは、供給の側における企業の経営にほかならない。ただ需要の側から、いわば効用を論ずる だけでは、その部門の経済機構を明らかにするを得ないと知るべぎである。効用からではなく、むしろいわば按術から、 この機構の本質が明らかにせられるとさきに述べたのは、まさにこのことを指している。 五  もう一つ金融論に例をとって説明しよう。一般に金融論では、まず通貨や購買力ならびに資本の性格が明らかにせら れ、さらにそれらの取引における金融市場の構造、その金融市場における資金の需要・供給の変化、価格としての金利の

     再び保険学の立場について九

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     再び保険学の立場について       ・      一〇 構成、さらにこの資金操作を仕事とするもろもろの金融機関とくに銀行の職能などが、体系的に論述せられる。かくして 金融論の課題は、金融市場論と金融機関論とにあるといえる。  そこで、部門経済学もしくは経済学各論としての金融論では、金融企業とくに銀行の資金操作という技術過程に着目し て、その経営が作り出す国民経済的機構のすがたを、系統的に明らかにすることが企てられる。その場合に、通貨が資本 の形でいかに流通し、それらの取引においてどのような市場が成立し、金利がいかに形成せられるかということ、さらに 進んでいえば、その金利の変動が、これらの金融機関を通して、需要者たるもろもろの企業の経営にいかに作用するかと いう過程が、国民経済の舞台で考察せられるのである。  それゆえに、それぞれの部門で、それぞれ固有の目的をもつ企業はもとより、家計をも含めて、それらにおける通貨や 資本の需要について、金融機関にいかに結びつき、それを通して金融市場を形成しながら、その需要をどのように満たす かの考察は、全く無関係ではあり得ないにしても、少くとも金融論の立場としては、決して正面的な課題とはなっていな い。いいかえれば、需要⊥の目的に着目した意味での効用は、金融論の問題としてではなく、実は、それぞれの部門の経 済学すなわち工業・商業・貿易・交通などの経済学の、直接の課題として取扱われるのである。  重ねていえば、金融論では、金融機関の技術過程たる資金の操作が、それぞれの部門での企業について、それらの経営 の内部でいかにはたらくかを、直接の問題としていない。もとより金融機関の経営は、このことへの老慮なくして行われ 得ないが、学問の性質としては、そのことをとり上げていない。それをとり⊥げるのは、いわば企業財務論ないしは企業 金融論そのものである。  経済学としての金融論では、金融機関の経営が、国民経済的にいかなる関連を金融市場においてもっか、ということが 問題とせられる。資金の需要者としてのそれぞれの企業の問題は、それぞれの部門の学問がこれを担当する。単に効用の

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面からではなく、むしろ企業の技術過程から、経済学としての本質的考察がなされるということは、金融論についてもま た当てはまるというべきである。  さて私見によれば、保険はもともと金融である。その場合の金融は、 一般の意味とかなり異っている。異っているとは いうものの、ともかく保険が資金交流の機構であると買えられる点で、やはり金融と見るべきである。そのことについて は、いまは詳しく論じない。しかもそれが金融であるというのは、加入者における保険加入の効用の面からではなく、保 険料や保険金としての資金豊作をするところの、保険企業の技術過程から捉えてのことである。  そういう点で、保険はまた、国民経済の機構で、金融機関としての機能を果たし、そのことが一般に、保険の金融性と して指摘される。しかし、いま私が保険を金融であるというのは、このような、保険としてはいわば派生的な関連からで はない。保険本来の右の技術過程が、実はそのまま金融を意味し、それにもとづいてのみこの派生的機能が可能である、 ということを明らかにすべぎである。  ひとびとは、企業であれ家計であれ、加入者として、保険企業のこめ技術過程に結びつくことによって、彼らみずから の効用を実現し得るであろう。需要は、もっぱら供給の側における技術過程に制約されるものとして、満たされるのであ る。しかも、この供給の技術過程は、保険企業を企業として支える固有のものであることに着目すれば、保険の本質は、 まさにそれを考察することによって理解されるといえる。  右で、工業経済学と金融論との二つの例を挙げて、部門経済学もしくは経済学各論は、その理論体系の立場を企業に置 いていることを指摘し、その同じ立場が保険学にも当てはまるはずであると述べて来た。しかるに多くの保険学説では、 全く異った立場で、加入者すなわちいわば需要の側から、保険、の効用に着目して、保険の本質を明らかにしょうとしてい るのである。      再び保険学の立場について       一一

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     再び保険学の立場について       一二  それが、もとより不可能であるというのではない。効用が抜術を前提とする意味では、一面的には是認せられよう。し かし、それはあくまで一面的であって、他の面への考察を忘れている。しかも、保険学が経済学である限り、この忘れら れた他面すなわち保険企業の技術過程から、保険固有の機構を明らかにしょうとする態度が、むしろ是認せられなければ ならぬのである。  まさしくこのことが、私見における保険学の立場であり、私は、保険の本質がそれによって捉えられるとする。もとよ りこれは、効用を無視してのことではない。その点で、やはり経済生活確保説に所属するといったのである。保険理論の いわば二面性を考えながら、ただ従来面諭の及ばなかった他の一面から、改めてその理論の展開を企てたにすぎない。 一1− IX  ところで、この立場から展開された保険本質論については、もう一つの問題点を明らかにしなければならない。それ は、右の固有の技術過程は、これを資本循環として、また固有の形に表現されるが、それが一般の資本循環といかに異り いかにこれに結びつくかということである。それを明らかにすることによって、保険の本質は明確となるであろう。のみ ならずそれによって、右に述べた技術の強調の意味が、さらに深く理解されるはずである。  保険がもともと商品でないということは、私見においては、保険本質論の根幹をなすが、それについては、今日まで多 くの機会に述べて来たので、もはやくり返さない。いま商品でないある種の操作が、保険企業によってなされるのであ る。しかもその技術過程は、そのまま一つの資本循環として表示されるであろう。かく表示される資本循環が、一般のそ れといかに異り、またそれにいかに結びつくかを明らかにすることに、保険理論の展開があるといい得る。  一般の資本循環は、それが生産であれ、商業であれ、ないしは金融であれ、いずれも有形・無形の商品の形成に関する

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それぞれの技術過程が、それにおいて表現せられる。この場合に商品は、まず労働の生産物であることを中心として、と きには人間関係そのことのうちに成立するところの、いわゆる関係財であることもあり、さらにすすんでいえば、貨幣そ のものも、貨幣たる形において商品となり得る。いずれの場合でも、それらは貨幣と交換され、その交換の相手方たる貨 幣において価格が成立すること、改めていうまでもない。  いまもし保険に商品性を認めるとすれば、それは第三の場合、すなわち貨幣相互の交換関係において考えられよう。し かしそのような考察は、直ちに承認されるであろうか。およそ交換は、不特定多数のうち個別的なご人間の所有移転にほ かならぬが、保険に交換を求めるとすれば、その交換は、つねに特定の一人たる保険企業と、多数めうち蓋然的な幾入か の加入者との間の、保険料と保険金との授受をおいてあり得ないはずである。  われわれの日常用語として、それを交換と見ることはできない。少くとも経済学の本質的考察から、そう判断し得るの である。そこで一部の論者は、交換されるものを、たとえば権利や安全感などの、いわば関係財と見ることによって、商 品性の見解を貫こうとする。しかしそれは、実は、法律的もしくは心理的醗訳の結果であって、経済的実体そのものでは ない。問題は、経済的実体が商品であるかどうかであって、将外のものを借りて、概念の混同をもたらしてはならないと いえる。  そういう点から見て、保険は商品以外のものであり、またそうであることにおいて、保険の経済的本質があると結論さ れる。もともと資本主義は、商品生産、したがって商品流通の機構であること疑いをいれないが、それのみを経済とする ことを、ここで改めて考え直してみる必要はないであろうか。商品の生産・流通ではなく、なお明らかに経済として現実 に理解されるものが、存在しないであろうか。私見は、まさにそのことへの疑問と反省から出発する。  かくして捉えられた保険資本の循環が、 一般の資本循環と異った形で表示せられ、異った意味をもつとすれば、それこ      再び保険学の立場について       一三

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     再び保険学の立場について       へ四 そ保険の本質であると考えなければならない。その場合に、この資本循環は、いわば生産・商品・金融のそれらとして思 知のもの、すなわち          ℃唐

    OI薯く

      ・:・:ぐく、一O、 ︵躊隠︶     O      ぐく     ○、 ︵認淋︶     O      O      O、 ︵命粥︶ の三つに対.して、いわば第四のものとして、しかもその第四たる意味は、右の三つとは全く異った性格をもつものとして 表示され、かつ理解されるであろう。それを私は、次のように示したのである。     ○⋮⋮図i幻、:::Ω、 ︵誕究弼輩︶

  

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h齠p︵喜嚢︶

 この二つの形で表示される資本循環は、もともと一体不可分の関係に結びつき、前者は保険の本質、後者は保険企業の 操作をそれぞれ現わす。もとより前者の本質は、後者の操作なくしてあり得ないし、それによってのみ保険たり得る。さ らに後者の操作は、その内容は前者に関することであり、いま三雲過程に異るところはあっても、それが企業によって行 われ、その過程で企業本来の利潤が成立する点では、一般の場合といささかも異らないのである。  かくして、保険が商品でないとしても、そのことの意味は、まさに右の資本循環に盛られなければならない。それは、後 に触れるように、一つの金融を指すが、いまそれへの結論を急ぐ、前に、もう少しこの点をめぐって吟味したい。 七 さて資本循環は、明らかに企業の技術過程を意味している。そしてその技術過程で、資本はまず貨幣の形で現われ、ま

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た貨幣の形で終る。前の貨幣は費用として支出され、後の貨幣は牧益として下煮される。いわば前者すなわち資本の犠牲 は、同じ資本の補償たる後者によってつぐなわれるのである。  資本循環は、このように、資本の犠牲と補償との関係にほかならないが、それを別の面から見れば、価値の体化︵<⑦〒 ぎ愚臼§σq︶とその対価︵国艮αq①δとの関係として理解される。すなわち、まず貨幣たる価値は同じく価値としての財に体 化する。そこに、この企業の技術過程が始まるのである。その後、再びその価値が貨幣に体化して、価値循環の一順が終 る。その一順が、資本循環にほかならない。  しかもこの際、体化の最後における貨幣は、この企業にとっては、まさしく牧益たるその財の価格である。すなわち、 体化は対価をもって終ることとなる。かくして、さぎの資本の犠牲と補償との関係は、ここでは体化と対価との関係に対 応するものとして捉えられる。それがまさしく、資本循環め企業的意味である。そして、その体化の技術過程においてこ そ、企業固有の性格が見出され、その意味で牧支の主体としての企業は、また皆無過程の主体となる。  そのような技術過程は、保険においてはどうであろうか。また犠牲たる費用と補償たる牧益との関係は、保険ではどう いう姿で現われるであろうか。ここにわれわれの問題を見出さねばならない。  保険の技術過程は、保険料から保険金に至る資金交流の操作にほかならぬが、しかもそれは、いわゆる大数法則のもと で、資本の形成と分解とを意味している。その場合の保険料は、保険企業にとって牧入であり、保険金は支出であるか ら、その意味では資本循環は、牧益から費用への体化の過程となるであろう。これは、 一般の概念からいえば、まことに 奇妙であるけれども、保険の本質は、まさにそういう実体をもっているのである。  しかるに他方、牧益たる保険料は、費用たる保険金の補償ではあり得ない。その点で、むしろこの牧入と支出とは、そ れぞれ牧益と費用と見るべきではなかろう。それを、右に資本の形成と分解と名づけたのである。この保険料は、もとよ      再び保険学の立場について       一五

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     再び保険学の立場について       =ハ り純保険料であり、それから保険金に至る操作が、付加保険料を牧益として賄われることになる。  いま付加保険料に関する限り、一般概念としての牧益と費用との補償関係は、成り立ち得ないわけではない。ただ異る ところは、まず牧益の前取りがあり、そこに企業利潤の発生を見るが、そのことは必ずしも本質的な問題ではない。むし ろ問題は、この操作が、実はさぎの純保険料に関する本質を内容としていることである。  そこで、そのことに着目して、この操作を商品として形成することが、保険企業の技術過程であり、その点では一般の 資本循環と異らないという見解が、一応は不可能ではなかろう。しかし、それは、保険の商品性をあくまで許してのこと であり、そのことへの本質的な反省を欠いては、理論的には正当と比えられないのである。かりにそうであると譲っても その技術過程は、もともと生産でもなければ、商業・金融のいずれでもないであろうし、やはり、第四の資本循環を形づ くるという点では、異るところはないといえる。  私見によれば、この場合の商品性は、否定せられるほかはない。保険が生産であると見られがたいことは、もとより明 らかであるが、さればとて、それは流通そのことでもない。あえていえば金融であるが、その意味もまた異る。その点で 第四の資本循環を形成するというのである。  もとより保険は、本来の生産・商業・金融のそれぞれの企業に結びついて、それらの国民経済的な機能を促進する。そ ういう職能を、保険はもともと持っているのである。同様のことは、また家計との結びつぎにおいても違えられる。そこ で一般に、経済生活確保の概念でこれを理解したのである。  しかし、そういう理解だけでは、保険の効用が説明せられたにとどまり、その効用が現実に、企業のどのような抜術過 程で実現せられ、そのの技術過程がいかなる機構を示すかを、十分に説明しがたい。すすんで、その面をとり上げること こそ、保険の本質論であるといったゆえんである。    ・

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八  このように議論を進めて来ると、いまや結論に到着する順序になる。すでに商品性を否定された保険の本質は、これを 裏返せば、その金融性を肯定することを意味する。しかし、その肯定は、いったいどのような内容をもっているであろう か。そのことがまさに問題である。  一般に金融は、貸付を中心として概念せられるし、また事実、この貸付において市場が成立し、資金の流.通が存在す る。いわば金融資本は、貸付資本としての性格をもつと見られる。しかし、その場合でも、右の商品性は、依然としてこ れを認め得るのである。つまり、それは、貨幣たる形におげる現在財と将来財との交換にほかならない。その交換におい て、価格たる利子が成り立つといえる。  そういう貸付が、保険においてもとより否定できないし、事実、その点で保険企業は、金融機関として大きな地位を占 める。すなわち保険料の集積であり、保険金支払いのための準備たる責任準備金の運用は、たしかに現実には、保険企業 の経営を左右するであろう。しかしそれは、保険にとって本来のことではなく、むしろ派生的である。  保険は、もともと多数の加入者の間における、保険料と保険金との均衡的な集散によって成立する。いわば彼らは、み ずからのものをみずからが受取るという関係において、それぞれ保険企業に結ばれる。その点で、強調的にいえば、企業 の介在を必要としないであろう。このことを、さきに交流の機構と名づけたのである。  ただ資本主義のもとでは、﹁すべての事業が企業によって営まれるように、保険もまた事業として、右の機構を支える。 保険企業は、その意味で保険機構の担い手である。そこでその担い手たる企業として、右の交流の機構がどのようである かという早書が、はじめて可能となる。そしてその機構が、保険料と保険金という資金の交流に関するという点から、保      再び保険学の立場について      一七

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 ・   再び保険学の立場について       一八 険がそのまま金融であり、さきの派生的の金融に対して、これを本来的金融と名づけることができよう。  したがって保険資本は、むしろ貨幣取扱資本として、これを理解し得る。保険企業が、この意味で金融機関であること はすでに明らかである。それが金融機関となり得るのは、国民経済において、銀行という根源的な金融機関の存在を前提 としている。けだし、保険企業における資金は、保険料についても保険金についても、また責任準備金についても、すべ て銀行預金から出発し、銀行預金に終るという過程において成立する。したがって、保険企業は、第二次的な金融機関で あるといえる。その点では、その他の金融機関もすべて同様である。  ただこの場合、貨幣取扱資本としての保険資本は、それ自体商品たる性格をもっていない。すなわち、そこでは、いわ ば現在財と将来財との交換を考え得ないという点で、保険は、全く性質を異にした金融であると見られるべきであろう。 その金融が、商品の生産・流通の面でこれにある形の効果をもつとしても、そのことのゆえに、直ちに商品性を保険にも ちこむことは、問題のとり上げ方を誤っている、といわなけれぽならない。 九  右で、経済学としての保険学の性格について、その問題点をほぼ明らかにし得たと思う。それらの問題点は、すべて考 察の立場を保険企業に置く、ということから与えられる。そしてその立場において、保険の国民経済的役割と地位とが、 正しく捉えられるのである。  保険企業に考察の立場を求めるということは、言葉をかえれば、保険企業の企業としての技術過程に着目することを意 味する。それは、経営を内に向って問題とするのではなく、むしろ外に向って、国民経済的な諸関連を明らかにすること であるが、実はそのことによって、加入者としての保険の効用が正しく理解される、と知るべきである。したがって、た

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だ効用の面からのみ本質を捉えようとする従前の考え方では、経済学としての保険学の理論的体系は、もともと十分たり 得ないといえる。  かくして保険の本質は、保険企業によって支えられる一つの機構である。その機構は、右に述べ来ったように、資金交 流の機構であり、その意味で金融にほかならないが、そのことは同時に、商品の概念を離れた特殊の操作の機構であるこ とを意味する。それが、いわば第四の資本循環を形づくることになる。  このような機構は、見方をかえると、保険企業をめぐって多数の加入者がこれに結ばれ、その間に保険料と保険金の相 互の支払いがなされるという経済的関係である。これを保険関係と呼ぶとすれば、加入者はこの保険関係に結びつくこと によって、それぞれの効用を実現し得るとともに、この関係を機構として、保険企業の技術過程によって支えることによ って、保険が国民経済的に一つの産業部門を形成する。そのことの次第を明らかにするものが、まさに経済学たる保険学 であるというべきである。  もっともこの保険関係は、それが入の結合であるという点で、保険集団として理解されるし、またそれが、保険企業と 加入者との個々の結びつきであるという点から、保険契約として捉えられよう。そこでぽ、あるいは社会学的考察が、あ るいは法律的考察が、それぞれ可能である。しかし、それら.はいずれも経済学とは全く異った学問に属し、それらをその まま経済学の理論にとり入れ、これと混同することはできない。のみならず、これらの学問を、経済学としての保険学の 優位に立たしめることも許されないのである。  このようにして保険学は、それに固有の問題と領域とをもっている。そして、それの理論体系は、右のように保険企業 に考察のよりどころを求める立場によって、はじめて可能であり、正しきを得るということを、いま改めて反省しなけれ ばならない。       ︵]九六〇・六・一︶      再び保険学の立場について      一九

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