塾
究
へ ー ゲ ル 辮 謹 法 に お け る ﹃矛 盾 ﹄ の 論 理
金 賢 字
ヘーゲルの合理主義的形而上學に於ける方法論理は所謂﹁辮誰法しである︒悉ゆる事物は︑それらが辮誰法
的に把握せらる︑ならば︑必然的に矛盾の相貌と性格とを呈露せざるを得ない︒それ故に︑此の方法論理は矛
盾の論理と呼ばれ︑其の哲學は相互に否定的に相封立するもの﹂膿系的構成として理解せられるのを常とす
るω︒批判的態度の多くはそのとき寧ろ非難的のものであつたのである︒凡そ思惟は予盾に隔ることにょつて
全く不可能となるより他なきが故に︑矛盾を以て論理學の方法的原理となすことは︑まさに幾多の憤激を喚起
(ーゲル癖誼法におけろ﹃矛盾﹄の論理一
(ーゲ〃辮竃法における﹃矛盾﹄の論理二
せしむるものとなつたのである︒若し我々がへーゲル批判史のうちょり︑特にトレンデレンブルク②とエドモ
ンド・フオン・ハルトマン①の名を揮ぶならば︑形式論理の覗界を以ては如何に辮誰法の論理的性質が理解に
困難であるかを如實に其塵に蕪き得るであらう︒然しながら惟ふに︑辮誰法論理學は形式論理學の論理を以て
批判せらるべき如何なる性質のものでもなかつた︒思辮的思惟は後に來れるものとしての自己の歴史的意義に
合致するがためには︑先行の形式論理的なるもの玉一微粒をだに放榔することなく︑却つて悉ゆる問題を問題
となすことによつて自己を成立せしむべき槽能を獲てあるものである︒敢て言ふならば︑批判は辮誰法を以
て形式論理に向ふとき始めて眞實の秩序に從ふものとなり得るのであらう︒へーゲルは先行せる総ての哲學に
封してはなはだ批判的であることによつて彼の學問を始めてゐる︒形式論理學が依って以て其の成立の最奥の
地盤と侍むところのものと雄も︑夫れの根源より峻烈なる捌挟を蒙らざるを得なかつたのである︒
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抑々論理學そのものを成立せしむる現實の地盤が歴史と倶に推轄しつ﹂あるとき︑ぴとり論理學のみが軍に
○
形式論理的であり得るのであらうか︒1傅承の形式論理學が有する﹁二千年の傅統﹂に樹してへーゲルはま
つ懐疑的であつた①︒
(昌<σqド08茜乏剛臣oごゴ国臨a吋即身穿㈹巴鱒を搾ψo諺昏9浄幽臼ピoぴQ涛獅ピ9ユ︒・零話90>器αq筈o﹂.89ドピ巴智㎡目竃Q︑ωQΩムーU.9出・
一般に︑思惟は矛盾を拒否し矛盾に超絶して在らうとするものであると言はれてゐる︒此の思惟の無矛盾性
が形式論理學にとつての翼理標準であつた︒從つて此の論理學に於ける思惟の諸原則はそれぞれの聯關に於て
た野此のことをさまざまに表現してゐるに過ぎない︒遍く知悉せられてゐるが如くに︑同一の原理︑矛盾の原
理︑排申の原理等は所謂﹁思考の公理﹂として︑我々の知識構成上必すや前提せらるべき認識の根擦たる要請
であるとされてゐる①︒既にフィヒテはA"Aなる﹁同一の原理﹂を出獲窯として彼の知識學を始め︑またシ
ヱリングは此のもの玉上に彼の同一性髄系を打建てたのである︒此のある限りの最も自明的にして且つ最も合
理的なるものなるかに見ゆるA11Aなる命題が①︑それの平凡性の故に盟・純に放棄せられすして︑寧ろ最も論理
的なるものとして慣値付けらる㌧ところに︑我々は総ての問題性の伏在を観取すべきであらう︒
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﹃AはAである﹄ーフイヒテの原理に從へば︑自我ー1自我ーといふ命題は︑此の判断自麗がまさに翼實で
あることの認容を我々に要求してゐるのである︒いま我々が是れを率直に肯定すれば︑此の命題は再び軍に
へーゲル辮読法における﹃矛盾﹄の論理三
へーゲル辮謹法における﹃矛盾﹄の論魂四
﹃AはAである﹄と反覆して言はれるにすぎない︒それは﹁退屈なる繰返し﹂より他のものではなく︑肯定の
持ちうる意味はた窒消極的であり︑極言すれば︑無智的ですらあらうとする脆弱性を藏してゐるものである︒
此の命題が刺断命題の方式として︑例へば経験的命題の表現様式としては訣如するところありと指摘せられて
ゐる的のは︑偶々か﹂る性格の脆弱性に縁由せるひとつの誰左となし得るであらう︒我々は﹃AはAである﹄
ことを翠純に肯定することを以てしては︑此の命題の威嚴の爲めに何ものをも寄與し得るのではない︒とはい
へ命題A11Aは︑積極的に是認せらる玉ことを我々に封して要求するものである︒即ちAは︑ーまさしくA
であり︑Aであらねばならす︑Aにてのみ在るのほかなきが故に︑ーAであると言明せられなければならな
い︒そのことは然しながら如何にして可能となるのであらうか︒
(こくσQド国oすqoごを即路9ψo冨津創o吋Hしoσq涛●ピ器いΩ畠90︾自σq§・一H・↓ユド訂首臥ぴqおNgQQ・いρ
形式論理學が虞理の標準を同一原理のAHAなる表現方法を以て示したといふことの裡に︑此の論理學の性
能と限界とが瞭らかに語られてゐるのである︒Aは自己がAであることを自己の合理性として確設しようとし
てゐる︒A11Aであるといふ此のこと以外にAは自己の合理性を確誰すべき方途を識らないものである︒眞理
は自己の表現として斯かる唯一つの姿態を有するにすぎざるが故に︑それは素朴的に孤立するものであるかに
見ゆる︒眞理の存在の仕方は形式論理學的に把握せらる﹂ならば︑斯くの如く軍に形式的であり能ふのみであ
る︒﹃AはAである﹄とは果して眞理性自艦の自己示現として十分なるものと言はるべきであらうか︒若し此
,
の同一性命題が翼理の存在様式の全き表現であらうとすることによつて︑まさにそのことによつて貫理性を翠
に形式的に顯彰するものに止つてゐるとすれば︑我々は批判的とならざるを得ない︒,
同一性原理のある限りの最も自明的にして且つ最も合理的なるものであるかに見ゆる此のAπAの命題が︑
へーゲルにょれば最も不可解なるもの最も非合理的なるものであつた︒いま此の同一性命題を仔細に検討すれ
ば︑﹃AはAである﹄が爲めに︑Aとしての自己を二度までも定立してゐるのを親察することが出來る︒惟ふ
に︑自己が眞實に自己であり得るのは︑自己がそれの唯一絶封性を確立し得たときであらう︒此の意味によつ
て言へば︑自己は唯一回的に且つ絶封的に定立せらるべきである︒Aを定立することは極めて容易である︒然
しながらAを軍に定立することは全く無意味に属することである︒Aはひとつの判断形態によつて﹃AはAで
ある﹄と定立せられて︑はじめて形式論理學に於ける一個の眞理標準となり得るのである︒Aは翠にAとして
ではなく︑却つて﹃AはAである﹄ことによつて自己の意味を持つものとなるのである︒⁝⁝問題性は︑唯一
同的に且つ絶野的に定立せらるべき自己が︑同一性命題によれば重複的に定立せられてゐるといふことの裡に
伏在してゐるのである︒そして此のことはへーゲルによれば最も矛盾的なる事柄であつた︒
それではAが再度措定せらる玉ことの意味は如何に理解せらるべきものであらうか︒若しAが全く同一にニ
タウトロギじ度まで語られてあるとすれば︑それは畢寛するにひとつの同語反覆であるより他のものではない︒同一原理が
ひとつのタウトロギーであることを拒否して自らの意義と債値とを嬰求するならば︑﹃AはAである﹄といふζ
(ーゲル辮鐙法における﹃矛盾﹄の論理五 ●
(ーゲル辮謹法における﹃矛盾﹄の論理六
とによつて寧ろ軍なるA以上の意味を具有しようとするであらう︒同一性命題に於て︑ひとつのAは他のA
ー主蹴Aは賓僻Aに於て︑ー軍なる自己の再現以上のものを把持しようと意圖しなければならない︒Aは
これが爲めにA以上のもの︑ひとつの他のものとなるであらう︒主僻Aは賓僻Aに於て自己の同一性を表示せ
むとして︑いまや却つて賓誹Aに自己の匝分性と相異性とを許容するものとなるのである︒峻嚴なるべき同一
性の自己限界は︑其の峻嚴性の故に且ハ庭にひとつの⁝攣革を招來するものとなるのである︒ひとは既に此のA11
Aなる形式的同一性の裡に於て斯かる二律背反に遭遇せざるを得ない︒
(ごく㈹ド}8器60ゲ三↓冨○ユo伽頸U一巴①犀涛●g自・鵡9
かくして︑同嘩性は同一性であらうとすることによつて同一性以上のものとなるのであるが︑そのことは唯
あくまでも自己に即してさうなのであつた︒其のことは同一原理がそれ自らにひとつの判断であることに由來
してゐるのである︒我々は敏に思惟自膿に固有本來的なる性質の一つの示顯を観得してよいであらう︒へーゲ
ルの批判は︑か玉る思惟自禮にとつて僅かに一つの性質であるが如きものを以て思惟の杢禮的規定となす形式
論理の形式性に謝して抗争しなければならなかつたのである︒ーー﹁かくて同一律は﹃一切のものは自己と同一
である︑甲11甲﹄と云はれ︑また否定的には﹃甲は甲であると同時に非甲たるを得す﹄と云はれてゐる︒ー
ヒの命題は眞の思惟法則ではなくて︑抽象的悟性の法則に外ならない︒命題の形式そのものからして既にこの
法則と矛盾してゐる︒何故なら︑命題は如何なるものであらうとも主語と述語との匠別を約束してゐるのに︑