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小 林多喜 二の昭和 時代,拓 銀時代

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47

小 林多喜 二の昭和 時代,拓 銀時代

倉 田 稔

は じめ に

3 4

芥 川 ら,文 人 福本 和夫 文 学運動 大熊 信行 5出 版 祝賀会

訂正

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は じめ に

本 稿 は,小 林 多 喜 二 伝(20)で あ る 。 1芥 川 ら,文

昭 和2年,多 喜 二 は銀 行 の 女 性 同僚 の 中 橋(旧 姓)に,今 度 芥 川 龍 之 介 が 小 樽 に来 て 講演 す るか ら,聴 き に行 っ て ご ら ん と誘 っ た 。 芥 川 の講 演 は小 樽 市 の公 会 堂 で あ り,中 橋 は聴 き に行 っ た(1)。

1927年5月20日,改 造 社 か ら刊 行 さ れ る 日本 文 学 全 集 の 宣 伝 の た め に全 国 を文 芸 講 演 で 回 っ て い た芥 川 龍 之 介(2)と里 見 弾(3)は,小 樽 で 講 演 会 を行 っ た 。 昼 の講 演 会 で,芥 川 は メ リヤ ス シ ャツ の 袖 口 の よ ごれ を気 に し なが ら,

着 の み着 の ま まで 連 れ られ て 来 た ん で す よ。 この 頭 も旭 川 で 刈 っ た ん で す 。

(1)佐 藤 静 夫 「拓 銀 時 代 の 多 喜 二 」(『 文 化 評 論 』1993年3月,No.387.114ペ ー ジ 。 (2)芥 川(1892‑1927)。

(3)里 見(1888‑1983)。 有 島 武 郎,有 島 生 馬,の 弟 。

(2)

日程 が き りつ め られ て い るん で,か らだ が とて もつ づ き ませ ん 。 改 造 社 は け しか らん で す よ。 わ れ わ れ を人 問 以 下 に ご き つ こ うん で す か らね 。 で も,食 べ て い か な け れ ば な らな い ん で す か ら これ も仕 方 あ りませ ん ね 」 と言 っ た 。 聞 い て い た 武 田 は愕 然 と した(4)。こ の二 人 を招 い て,小 樽 で 座 談 会 を開 い た 。 い ず れ も小 林 多 喜 二 が 中心 に な っ て計 画,実 行 した … … 場 所 は山 田 町 の新 中 島(5)で,ク ラ ル テ の仲 間,高 商 学 生,高 田紅 果 も きて い た。 この 歓 迎 会 は, ク ラ ル テ の連 中 が 世 話 役 で あ った 。 参 加 者 は,二 四,五 名 を越 えた 。 妙 見 河 畔 の新 松 島(6)とい う料 亭 で 行 わ れ た 。 重 役 タ イ プ の 里 見 が,芸 者 た ち に と り 巻 か れ なが ら大 い に飲 み,興 の お もむ くま ま に大 い に語 っ て い た 。 一 方,芥 川 は,羽 織,袴 で,床 の 間 を背 に して き ち ん と座 り,話 相 手 の い な い所 在 な さ に ひ と り愴 然 とし て い た 。多 喜 二 は,芥 川 や 里 見 の 文 学 に私 淑 して い な か っ た。 多 喜 二 は里 見 に,里 見 の こ とで はな く志 賀 直 哉 の こ とぼ か りを聞 い た 。 多 喜 二 は志 賀 を尊 敬 して い た 。 志 賀 と親 交 の あ る里 見 に,志 賀 文 学 に つ い て 聞 き出 そ う と した 。 だ が 志 賀 は,里 見 弾 とは,大 正5年(1916年)以 来 絶 交 中 で あ っ た。 里 見 は,迷 惑 そ う な顔 も見 せ な い で小 林 の そ の よ う な質 問 に 受 け答 え を して い た 。 武 田 は,エ チ ケ ッ トを し らな い 小 林 ら しい 態 度 を,い つ もの こ とな の で,た だ 眺 めて い た(7)。

武 田 逞 は 言 う。「東 京 か ら三,四 人 ほ ど の い わ ゆ る文 化 人 が小 樽 にや っ て き て,わ れ わ れ と会 合 を も った 時,た また ま,た べ もの の話 が で て,ひ と りひ と り好 き な し ゃれ た 外 国 な どの た べ もの を披 露 に お よ ん だ。 小 林 は,と つ ぜ ん,お れ は 白 い た きた て の ご飯 に塩 鮭 を こま か くふ りか け た,あ い つ が 最 高 に う ま い とい った の で,み ん な は ク ス ク ス笑 った 。傍 に い た私 の 顔 も赤 くな っ た 。 小 林 は な ぜ み ん な が 苦 笑 した の か,そ れ が通 じ な い男 な の で あ る(8)。

(4)武 田 「ク ラ ル テ 時 代 」(『小 林 多 喜 二 読 本 』 新 日本 出版 社1974年) (5)料 亭 の 名 。 す ぐ後 に 新 松 島 と出 て 来 る が,新 中 島 で は な い か 。 (6)前 注 参 照 。

(7)武 田 「ク ラ ル テ 時 代 」。

(8)武 田 逞(『 緑 丘 』42),26ペ ー ジ 。

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小林多喜二 の昭和時代,拓 銀時代

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会 が お わ る と,11時 の急 行 で,芥 川 と里 見 は小 樽 駅 をた っ た 。小 林 と武 田 が プ ラ ッ トフ ォー ム に見 送 った 。 車 が 動 き 出 す と,寝 台 車 に は い っ た き り芥 川 は姿 を見 せ な か っ た が,里 見 は デ ッキ に立 っ て,手 を ふ りな が らい つ まで

も二 人 に会 釈 し て い た 。

そ の 芥 川 は,こ の少 し後,1927年7月24日 に 自殺 した(9)。

北 原 白秋 た ち も小 樽 に来 た こ とが あ る。

多 喜 二 の親 友 ・片 岡 亮 一 は 言 う。 「白秋(10),庄 亮 の ほ か,若 山牧 水(11),喜 志 子(12)夫妻,尾 山篤 二 郎(13),菊池 寛(14)など,そ の 当 時 北 海 道 へ 来 遊 さ れ た文 筆 家 は,ほ とん ど私 た ち の 文 芸 結 社[=ク ラル テ]で な に か の お 世 話 を した の で,そ れ らの人 々 の聲 咳 に接 し,大 きな 刺 激 を 受 けた もの で あ った(15)。」 と。

庄 亮 とは,吉 植 庄 亮(よ し う え し ょ う り ょ う)(16)のこ とで あ り,北 原 白秋 が 大 正14年 に彼 と,樺 太 北 海 道 旅 行 を し,小 樽 に も来 た 。白秋 は片 岡 の顔 を ス ケ ッチ した こ とが あ る(17)。

若 山 牧 水 も小 樽 に来 た 。片 岡 は牧 水 につ い て は,こ う書 く。「大 正 十 五 年 九 月 か ら十 一 月 下 旬 に か けて,若 山牧 水 夫 妻 が 北 海 道 行 脚 を した 時 の,牧 水 の 紀 行 文 に は,十 一 月二 十 二 日 に北 海 道 を離 れ る数 日前,札 幌 の 近 くで大 吹 雪 に あ った と書 い て い る 。そ の 直 後,私 た ち は牧 水 夫 妻 を小 樽 の旅 宿 に訪 ね た 。 手 みや げ は勿 論 酒 で あ る。 … … 私 た ち が 旅 宿 に 訪 ね た 日 は み ぞ れ が 降 り し

き って い た が,牧 水 は床 の 間 を背 に ど っか と座 り,す で に盃 を手 に し て い た 。

(9)芥 川 の 死 に つ い て,宮 本 顕 治,松 本 清 張,江 口 漢 の3人 に よ る 研 究 が あ る 。 (10)北 原 白 秋(1885‑1942),歌 人 。

(11)若 山 牧 水(1885‑1928),明 治 ・大 正 期 の 歌 人 。 (12)若 山 喜 志 子(1888‑1968),歌 人 。 牧 水 の 妻 。 (13)尾 山(1889‑1963),歌 人 。

(14)菊 池 寛(1888‑1948),普 通 は,か ん,と 呼 ば れ る 。 し か し 正 し く は,ひ ろ し 。 大 正 ・昭 和 期 の 小 説 家 ・戯 曲 家 。 流 行 作 家 に な っ た 。

(15)片 岡 『雪 田 』!37ペ ー ジ 。

(16)吉 植(1884‑1958),大 正 ・昭 和 の 歌 人 。 そ の 後,政 治 家 。

(17)そ れ は,『 雪 田 』(131ペ ー ジ)に あ る 。

(4)

そ の 時 の着 ぶ くれ て首 に ま い た襟 巻 が 印 象 的 で あ った(18)。

菊 池 寛 に つ い て は,こ う で あ る 。 「大 正15年7月 菊 池 寛 が 北 海 道 に来 た 時,小 樽 の 私 た ち グ ル ー プで 文 芸 講 演 会 を催 した 。 開 場 の 控 室 に入 っ て きた 菊 池 寛 は,机 の 上 に カ ン カ ン帽 を 置 い た 。 そ して慰 勲 な まで に頭 を下 げ て 私 た ち に挨 拶 した 途 端 に,机 上 の カ ンカ ン帽 に額 をぶ っ つ けた 。 そ れ まで 少 し 堅 くな っ て い た 私 た ち は,目 の前 に 現 れ た菊 池 寛 の 例 の風 貌 と と もに,こ の 一 場 面 を み て す っか り気 が 楽 に な っ た … … 」 小 島 政 二 郎 の 『明 治 の人 間 』 に よ る と,菊 池 寛 の講 演 は,「話 し方 に リズ ム が あ っ て,退 屈 す る ス キ を与 え ず」

平 談 俗 語,ま る で 応 接 室 で菊 池 さ ん を か こん で 話 を 聞 い て い る よ う」 「が っ た り,ぶ っ た り した と こ ろが これ っ ぽ っ ち な く」,し か も一 言 一 句 が 生 きて い るの で,必 ず 人 を感 動 させ た と い う。「小 樽 で の講 演 もた しか に そ う い う趣 の もの で あ っ た よ う に思 う。 そ の講 演 内 容 は,小 林 多 喜 こ二が ま と め て くれ て, 私 た ち の 同人 雑 誌 に掲 載 した が,内 容 は戯 曲 と小 説 の 区別 に つ い て 述 べ られ た もの で あ っ た 。 今 そ れ を読 み か え して み る と,講 演 の 内容 も さ る こ とな が ら,多 喜 二 の 要 点 の 掴 み 方 の う ま い の に も感 心 さ せ られ ろ。 そ の講 演 の 中 で 菊 池 寛 は戯 曲 の 一 要 素 と して,ア リス トテ レ ス の 「真(ほ)ん とう ら しい 虚 (う そ)が,虚(う そ)ら し い真(ほ)ん と う よ りは い い 」 とい う言 葉 を挙 げ て説 い て い る… …(19)」

多 喜 二 と田 ロ タ キ との こ と(20)は,前 出 の銀 行 の 女 性 同僚 ・中橋 は,当 時 全 く知 ら なか っ た 。 銀 行 の な か で も,誰 も話 に もな っ て い なか っ た 。 多 分,そ うい う個 人 的 な こ とは多 喜 二 は喋 らな か った 。中橋 は,昭 和2年 夏 に辞 めた 。 そ の3月 や6月 に,多 喜 二 が磯 野 の小 作 争 議 に協 力 した り,小 樽 の 港 湾 争 議 を応 援 した が,そ れ は 中橋 は知 らな か っ た 。 中橋 は辞 め る と き,そ の後 へ従

(18)同,150‑151ペ ー ジ 。 (19)同,155‑154ペ ー ジ 。

(20)拙 稿 「 小 林 多 喜 二 の 恋 」(『 人 文 研 究 』90し ゅ う)参 照 。

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小林多喜二 の昭和時代,拓 銀時代

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妹 の 吉 田(旧 姓)み よ を,給 仕 と して世 話 を し た。 そ の 従 妹 が こ う言 っ た 。

多 喜 二 が 昭 和3年 に,為 替 係 か ら調 査 係 へ か え られ た 。 調 査 係 は ど ち らか とい う と暇 の あ る係 だ が,多 喜 二 が 休 み 時 間 に,『 改 造 』 か 『中 央 公 論 』か を 読 ん で い た ら,そ れ を見 て支 店 長 が,そ の雑 誌 を手 で パ ッ と はた き お と した 。 滝 支 店 長 で は な く,そ の後 任 の 支 店 長 で あ る。 一 この 年 の3月15日

は[多 喜 二 の]身 近 な人 が 検 挙 され て い る し,銀 行 の 中 で も,[多 喜 二 は]上 の 人 に は に ら まれ て い た の で は な い か 。 多 喜 二 は,昭 和4年 の9月 に は調 査 係 か ら出 納 係 へ 移 され て,11月 に解 雇 され る こ とに な る(21)。

2福 本 和 夫

日本 共 産 党 の 合 法 機 関 誌 とい わ れ る雑 誌 『マ ル ク ス主 義 』 に,1924(大 3)年,福 本 和 夫 の論 文 が 載 っ た。 そ れ ま で 日本 共 産 党 の指 導 理 論 で あ った 山 川 均(1880‑1958)の 理 論 を批 判 した もの で あ る。 福 本 は,前 衛 分 子 の 結 集 こ そ 当面 の 課 題 で あ る と し,理 論 闘 争 に よ る分 離 ・結 合 を 説 い た 。 彼 の 考 え は福 本 イ ズ ム と呼 ぼ れ る。 これ は1926(大 正14)年 か ら台頭 した 。 そ して 彼 は1926年12月,日 本 共 産 党 第3回 大 会(山 形 県 五 色 温 泉)つ ま り党 再 建 大 会 で,中 心 的 に活 躍 した 。

福 本 和 夫 は,1894(明 治27)年 に,鳥 取 県 に生 まれ た 。 東 大 法 学 部 政 治 学 科 を卒 業 し,松 江 高 校 教 授 に な り,1922年 か ら2年 半,文 部 省 在 外 研 究 員 と

して,ド イ ツ ・フ ラ ン ス ・イ ギ リス に 留 学 した 。 そ して カ ー ル ・コル シ ュ ら に学 ん だ 。

コ ル シ ュ(KarlKorsch ,1886‑1961.)(22)は,USPD(ド イ ツ独 立 社 会 民 主

(21)前 出 『 文 化 評 論 』115ペ ー ジ 。

(22)コ ル シ ュ は,ド イ ツ の,ハ ン ブ ル ク で 生 ま れ た 。1911年,イ エ ナ 大 学 で 法 律 学 の 学 位 を と る 。 イ ギ リ ス に 留 学 し,フ ェ ビ ア ン 協 会 に 加 入 し た 。 第1次 大 戦 末 に マ ル ク ス 主 義 に 近 づ き,ス パ ル タ ク ス 派 に 近 づ く 。1919年,社 会 化 委 員 会 に 参 加 し,WasistSo2ialisierung,1919.を 書 い た 。 主 著MarxismusundPhilosoPhie,

1923.他 に,DiematerialistischeGeschichtsauffasszang,1929.;KarlMaor,1950.

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党)の(23)党 員 で,そ の 後,KPD(ド イ ツ 共 産 党)に 入 党 し た 。 チ ュー リ ンゲ ン州 のSPD(ド イ ツ社 会 民 主 党)とKPDの 連 立 政 権 で 法 相 に な った 。 また イ エ ナ 大 学 の法 学 部 教 授 とな った 。1926年,直 接 民 主 主 義 の考 え方 か ら,KPD を 除 名 され た 。

日本 で は,コ ル シ ュ は,福 本 が 学 ん だ 師 と して 有 名 で あ る。 コル シ ュ は, 逸 脱 した 左 翼 主 義 とし て見 られ た 。 し か し,KPDを 除 名 され た の は,ソ 連 の 硬 直 的 指 導 の せ い で もあ る。 福 本 が コル シ ュ に教 わ った の は,コ ル シ ュが イ

エ ナ 大 学 教 授 で あ っ た時 代 ら し い。

福 本 は,マ ル クス ・レー ニ ン主 義 者 と して,1924年 に帰 国 した 。 帰 国 後, 小 樽 と山 口 の高 商 で 口が 空 い て い て,山 口高 商 教 授 にな った 。 そ こで 商 法 を 教 え た 。 こ こで,福 本 が 小 樽 高 商 に就 職 した な らば,非 常 に面 白 い 話 に な っ

て い た こ とで あ ろ う。

雑 誌 『マ ル ク ス主 義 』 に,1924(大 正13)年,福 本 の 論 文 が ほ とん ど毎 号 載 っ た 。 この雑 誌 は,西 雅 雄(1896‑1944)が 編 集 の 一 切 を して い て,日 本 共 産 党 の,正 確 に は コ ミュ ニ ス ト ・グ ル ー プ の 合 法 機 関 誌 とい わ れ る。 この グ ル ー プ は,解 党 した 共 産 党 の 残 存 グ ル ー プ あ る い は,再 建 グ ル ー プ の こ と で あ る。

福 本 の 論 文 は,マ ル ク ス や レー ニ ン の原 典,と 言 っ て も ドイ ツ語 か らの 引 用,で 飾 られ,当 時 の 日本 の運 動 家 が ほ とん ど知 らな い 文 献 で 溢 れ て い た 。 福 本 の 理 論 水 準 に は誰 も太 刀 打 ち で きな か った 。 そ れ まで 日本 共 産 党 の 指 導 理 論 で あ った 山川 均 を批 判 し,前 衛 分 子 の結 集 こ そ 当 面 の 課 題 で あ る と し, 理 論 闘争 に よ る分 離 ・結 合 を説 い た 。 彼 の考 え は,福 本 イ ズ ム と呼 ぼ れ る。

彼 の説 く 「分 離 ・結 合 」 論,理 論 闘争 とい う用 語 は,左 翼 に 流行 を起 こ した 。

が あ る 。日本 で は 余 り コ ル シ ュ の研 究 は な い が,ス タ ー リ ン主 義 に よ る歪 曲 の せ い も大 き い 。

(23)こ の 時 期 の 同 党 に つ い て,拙 稿 「USPDと ヒ ル フ ァデ ィ ン グ 外 伝,1918年 ま で 」

(『 商 学 討 究 』48巻1号)参 照 。

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こ う して1926年 か ら福 本 イ ズ ム が 台 頭 した 。

1926年12月,日 本 共 産 党 第3回 大 会(山 形 県五 色 温 泉)つ ま り党 再 建 大 会 で福 本 は中 心 的 に活 躍 す る(24)。彼 は 同党 政 治 部 長 に な った 。

福 本 の 『経 済 学 批 判 の方 法 論 』(東 京 白 揚 社 大 正15年)は,3篇 か らな る。 第1篇 は,書 名 と同 じで,副 題 を 「マ ル ク ス主 義 経 済 学 の方 法 論 」 とす る。最 後 に,福 田徳 三,河 上 肇,小 泉 信 三,高 田保 馬 を批 判 す る 。第2篇 は, 3つ の論 文 か らな り,『資 本 論 』を め ぐる議 論 で あ る。 第3篇 は,経 済 史 の 研 究 方 法,で あ り,唯 物 史 観 の 問題 を取 り扱 う。1926年4月 脱 稿 の,439ペ ジ に わ た る大 著 で あ る。

彼 の 主 著 『社 会 の構 成 並 に そ の変 革 の過 程 』 は,左 翼 的学 生 の問 に バ イ ブ ル の よ うに もて 難 さ れ た 。一 種 独 特 の 用 語 が こ と さ ら魅 了 した。例 え ば,「 い まや 日本 資 本 主 義 は 急速 に没 落 の過 程 を過 程 しつ つ あ る」とか,「 我 国全 無 産 階 級 運 動 は,今 や そ の 方 向 を転 換 せ ね ぼ な らぬ 」 な どで あ る。

1927(昭 和2)年 に福 本 主 義 な どの 問 題 が コ ミン テル ン(国 際 共 産 党)に 持 ち込 ま れ,そ の た め の 会 議 が モ ス ク ワで 開 か れ た 。1927(昭 和2)年,コ

ミン テ ル ン に呼 ば れ て,2月 か ら10月 まで,福 本,佐 野 文 夫,渡 辺 政 之 輔, 徳 田 球 一 ら は,日 本 を脱 出 し,モ ス ク ワへ 行 っ た 。 そ こに片 山 潜 が 参 加 し, 渡 辺 政 之 輔,佐 野 文 夫,福 本 和 夫,徳 田 球 一,河 合 悦 三 らに よ っ て,日 本 問 題 特 別 委 員 会 が 組 織 さ れ,徹 底 的 な 討 論 が 行 わ れ た 。 そ の結 果,7月 に 「日 本 問 題 に 関 す る決 議 」(二 七 年 テ ー ゼ)が 出 た 。

コ ミン テ ル ン は,い わ ゆ る「二 七 年 テ ー ゼ 」を発 表 した 。 彼 らの 帰 国 後 だ っ た 。 そ の 内容 の1つ は,福 本 理 論 に よ る 日本 共 産 党 の 方 針 の批 判 で あ っ た 。 執 筆 は ブハ ー リ ン で あ る。 こ こで,山 川 イ ズ ム と と もに,福 本 イ ズ ムが 批 判 され た とさ れ る。 だ が 「二 七 年 テ ー ゼ 」 は,特 に文 言 と して は山 川 主 義 を 批 判 し て い な い で,福 本 主 義 を批 判 して いた 。 福 本 の イ ン テ リゲ ンチ ア過 大 評

(24)下 里 『日本 の 暗 黒 』1,新 日本 出版 社 。

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価,労 働 者 大 衆 か らの遊 離,セ ク ト主義 が 批 判 さ れ た 。

モ ス ク ワ で は福 本 自身 も誤 りを認 め,日 本 共 産 党 の 中 央 委 員 を辞 任 す る こ とに な った 。 この 批 判 以 降,福 本 理 論 は 指 導 性 を失 って い っ た 。福 本 が コ ミ ン テ レ ンで 批 判 され,す ぐ批 判 を受 け入 れ た の は,よ ほ どコ ミ ンテ ル ン を信 仰 して い た の か,恐 ろ しか っ た か,で あ る。 コ ミ ンテ ル ン で福 本 主 義 が 否 定 され て,日 本 で は 一 気 に福 本 イ ズ ム が 力 を失 った 。

この 当 時 の真 面 目 な党 員 が,福 本 主 義 を放 て き した 当 時 を 思 い 出 し て い る。

佐 野 英 彦 の 思 い 出 で あ る。

「こ の 『テ ー ゼ 』[二 七 年 テ ー ゼ]を 読 ん で,私[=佐 野]は 強 く印 象 づ け られ,激 し く心 を ゆ す ぶ られ た 。 それ と同 時 に,こ れ と は反 対 に嫌 な 思 い 出 もっ き ま とっ た。 … … あれ ほ ど理 論 的 に世 界 の 水 準 を こ え て い る と評 価 され て い た 「福 本 主 義 」 が,木 端 微 塵 に批 判 さ れ,あ と型 もな くか え りみ られ な くな っ て し ま っ た こ とで あ っ た 。 … … 何 ん に も知 らな い わ た し に,福 本 の 著 作 を金 科 玉 条 の よ う に推 賞 した先 輩 も,ま た 私 自身 も,「 福 本 主義 」をす ぐれ て い る と思 って い た の に,今 度 は 「福 本 主 義 」を どうや っ て頭 脳 の 中 か ら 「 棄(25)」し よ うか と一 八 〇 度 の転 換 を し は じめ た 。 批 判 を受 けた ら,そ の 批 判 を本 当 に納 得 し て,そ の 納 得 の上 に立 っ て誤 っ て いた 「理 論 」 を止 揚 す る の が 学 問 の道 で あ ろ うの に,は た して 私 た ち は そ う した だ ろ うか 。 先 輩 諸 兄 は ど う し た か し ら な い けれ ど,わ た し は今 ま で座 右 銘 の よ う に あつ か っ て い た 福 本 の諸 著 を,あ た か も汚 物 を あ つ か うか の よ う に本 棚 の 片 隅 に お しや り, 見 る こ とを拒 否 す る気 持 ちで か た づ けた(26)。

これ は,キ リス ト教 会 が 異 端 と決 め た 書 を信 者 が 見 る態 度 と,ち ょ う ど同 じで あ る。 公 式 の共 産 党 史 に よ れ ぼ,こ う で あ る。

第3回 党 大 会 で 党 が 再 建 され た こ とは

,日 本 人 民 の 解 放 闘 争 に大 きな 意 義

(25)揚 棄 は,Aufhebenの 福 本 に よ る訳 語 で,有 名 な語 で あ る。 そ の 後,止 揚 へ と, 言 葉 が 代 わ っ た 。

(26)佐 野 英 彦 『 遠 い 道 』1981年127ペ ー ジ 。

(9)

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を も った 。 し か し,大 会 で 決 定 さ れ た政 治 方 針 に は,重 大 な誤 りが ふ く まれ て い た 。 それ は,第 一 次 検 挙 に よ る刑 が 確 定 し,党 の 指 導 者 の 多 くが 下 獄 し た時 期 に,党 中央 に くわ わ っ た福 本 和 夫 の 観 念 的 な,科 学 的社 会 主 義 の立 場 か らい ち じ る し く逸 脱 した この 理 論 が 党 に も ち こ まれ た 結 果,お こ った もの で あ っ た 。

い わ ゆ る 「福 本 主 義 」 は,天 皇 制 の きび し い弾 圧 をお それ て共 産 党 の合 法 的 無 産 政 党 へ の解 消 を主 張 す る山 川 均 らの解 党 主 義 一 い わ ゆ る「山川 主 義 」 を克 服 す るた た か い と関 連 して,党 内 に もち こ まれ た 。福 本 は,レ ー ニ ン の

「な に を な す べ きか 」な どを典 拠 と し な が ら

,そ の党 建 設 の 理 論 を観 念 的 に わ い 曲 し,「 理 論 闘 争 」 に よ っ て 「真 の マ ル ク ス 主義 意 識 」 を獲 得 し組 合 主 義 や 折 衷 主 義 の 意 識 か ら 「分 離 」 す る こ と こそ,前 衛 党 の建 設 だ と主 張 した 。 こ れ は,党 建 設 の仕 事 を実 際 の革 命 運 動 か ら はな れ た 「意 識 」 だ け の 問 題 に す りか え,勤 労 大 衆,と くに労 働 者 階 級 と強 固 にむ す び つ い た 大 衆 的前 衛 党 の 建 設 を否 定 す る こ とで あ った 。 また 福 本 は,「 理 論 闘 争 」や 「分 離 結 合 」論 を 大 衆 運 動 や 大 衆 団 体 に もお しつ け,総 同盟 そ の 他,右 派 勢 力 に よ っ て ひ き お こ され た各 分 野 の戦 線 の 分 裂 を,無 産 階 級 運 動 の 必 然 的 な 発 展 過 程 と して 合 理 化 し た だ けで な く,前 衛 党 と大 衆 団 体 の任 務 を混 同 して,労 働 農 民 党 や 評 議 会 な どに,前 衛 党 の はた す べ き任 務 を に な わ せ る こ と を主 張 し た(27)。

荒 畑 寒 村 は 云 う。 福 本 主 義 は,レ ー ニ ン の 『何 を な す べ きか 』 の 「焼 き直 し」だ 。 「結 合 の前 の 分 離 」は,そ れ だ け で は む し ろ当 然 の こ とな の だ が,日 本 の場 合,間 違 っ て い た の は,革 命 政 党 の組 織 的 原 則 論 を大 衆 団 体 に あ て は

め た 結 果,分 裂 主 義 が 共 産 党 の方 針 と し て是 認 され,実 行 され た こ とに あ っ た … … と(28)。これ は分 か りや す い。 た だ し,「 日本 の場 合 」の 一 句 は余 計 だ ろ う。 また,福 本 主 義 に対 す る興 味 深 い 指 摘 は,立 花 隆 が 書 い て い る(29)。

(27)『 日 本 共 産 党 の 歴 史 』52‑53ペ ー ジ 。 (28)『 昭 和 史 探 訪 』1,168‑9ペ ー ジ 。

(29)『 日本 共 産 党 の 研 究 上 』 文 芸 春 秋 昭 和53年,第2章 ・第3章 。

(10)

福 本 は,三 ・一 五 事 件 直 後,捕 ま り入 獄 した 。非 転 向 の ま ま在 獄14年 で あ っ

た(30)。

多 喜 二 は,福 本 の有 名 な 書 『社 会 の 構 成 並 び に そ の変 革 の 過 程 』 を二 度 も 読 ん で い る。 島 田 と多 喜 二 が 毎 日通 る花 園 町 に,丸 文 と左 文 字 とい う書 店 が

あ っ て,帰 り に は,た い が い 寄 っ て 見 た 。 「女 囚 徒 」の 話 が 一 段 落 す る と,今

度 は多 喜 二 は,福 本 和 夫 の 「マ ル クス 主 義 の為 に」 を買 っ て 読 んで い た 。 そ

して 有 名 な 「何 処 も否 」とい う よ うな 文 章 を話 した 。 多 喜 二 は,「 中 々 面 倒 だ 」

と 言 っ た 。

そ れ は そ うで あ る。 福 本 の書 物 や 文 は とて もむ ず か し くて,読 ん だ人 で, 気 が 違 っ た人 が い る くらい で あ っ た 。

3文 学運 動

1925(大 正14)年12月 に,日 本 プ ロ レ タ リ ア 文 芸 連 盟 が 創 立 し た 。 こ れ は, ア ナ キ ス ト ら も ふ くめ た 共 同 戦 線 で あ っ た 。 翌1926年12月 に,日 本 プ ロ レ

タ リア芸 術 連 盟 に改 組 ・改 称 さ れ,マ ル ク ス 主 義 で 統 一 さ れ た 。 そ れ が,福 本 主 義 の影 響 で,7月 に二 派 に分 裂 した 。 一 方 は,文 化 運 動 を機 械 的 に政 治

闘 争 に統 合 し よ う と し,機 関 誌 『プ ロ レ タ リ芸 術 』 を もつ プ ロ レ タ リア 芸 術

(30)福 本 の 著 書 ・な ど;「 中野 重 治 と僕 」 『日本 文 学 全 集 』 「中 野 重 治 集 」 月 報 。

『 福 本 和 夫 初 期 著 作 集 』 こ ぶ し書 房 。

『日本 ル ネ ッ サ ン ス 史 論 』 東 西 書 房 。

『自 主 性 ・人 間 性 の 回復 を 目 指 して 四 五 年 』 教 友 社 。

『 革 命 運 動 裸 像 ・非 合 法 時 代 の 思 い 出 』 三 一 書 房 。

『 経 済 学 批 判 の 方 法 論 』 東 京 白 揚 社 大 正15年 。

『 社 会 の構 成=並 に 変 革 の 過 程 』白揚 社 大 正15年 定 価 2円 。

『 唯 物 史 観 の た め に 』 改 造 社 昭 和3年 。

『 唯 物 史 観 と中 間 派 史 観 』 昭 和2年 。

『日本 の 山 林 地 主 』 昭 和27年 。

『 新 ・旧 山 林 大 地 主 の 実 態 』 昭 和30年 。 (ペ ン ・ネ ー ム 北 条 一 雄)『 方 向転 換 論 』。

研 究;『 昭 和 思 想 集1』(日 本 思 想 体 系)筑 摩 書 房 。

『昭 和 史 探 訪1』 角 川 文 庫1988年5版 。

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小林多喜二の昭和時代,拓 銀時代

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連 盟(プ ロ芸)と,他 方 は,文 化 芸 術 運 動 の特 殊 性 を ま も ろ う と し,機 関 誌

文 芸 戦 線(文 戦)』 を もつ 労 農 芸 術 家 連 盟(労 芸)で あ っ た

文 芸 戦 線 』1927年10月 ,多 喜 二 の 「女 囚 徒 」 が載 った 。1927年8月,

文 芸 戦 線 』の読 者 で あ っ た 多 喜 二 は,後 者 の,労 農 芸 術 家 同 盟 に入 っ た 。 そ の機 関 誌 は 「文 芸 戦 線 」 で あ った 。 土 井 は,言 う。 「「女 囚徒 」が 『文 芸 戦 線 』 に の る こ とに な った 。 そ の 作 の 投 稿 が き っか け とな っ て,[多 喜 二 は]労 農 芸 術 家 連 盟 に加 入 」 した(31)。多 喜 二 は文 芸 戦 線 読 書 会 を催 し,左 翼 文 芸 研 究 会 を組 織 した 。 多 喜 二 は,文 戦 の読 者 を組 織 ・拡 大 し なが ら,プ ロ芸 との合 同 研 究 会 な ど もひ ら い た。

だ が1927年(昭 和2年)に は,文 芸 戦 線 を 中心 と した 作 家 た ち が 分 裂 し始 め る 。労 芸 の 中 に,山 川 イ ズ ム 的 社 会 民 主 主 義 思 想 を受 け入 れ よ う とす る人 々 と,こ れ に追 随 し な い人 々 との 対 立 が生 まれ た 。 一 一 月,後 者 は あ らた に前 衛 芸 術 家 同 盟(前 芸)を っ く り,『 前 衛 』を創 刊 した 。 多 喜 二 は労 芸 を脱 退 し, 前 芸 に参 加 した 。

分 裂 は,主 に次 の3つ に,で あ る。1っ は,労 農 芸 術 家 連 盟(前 田河 広 一 郎(32),金子 洋 文(33),小堀,葉 山 嘉 樹(34),里村 欣 三(35),青野 季 吉(36)ら)で あ り, 略 して,労 芸 で あ る。2つ は,日 本 プ ロ レ タ リア芸 術 連 盟 で あ り,3つ は, 前 衛 芸 術 家 同 盟 で あ っ た。1は,文 芸 戦 線 の 主 流 派 で あ っ た。 この 分 裂 は, 福 本 和 夫 の 影 響 の た め だ っ た 。 福 本 イ ズ ム の 台 頭 は1926年 か らだ っ た 。

だ が福 本 イ ズ ム が 没 落 し,新 し く統 一 の 機 運 が で きた 。 日本 プ ロ レ タ リア 芸 術 連 盟 は,前 衛 芸 術 家 同盟 を支 持 した 。1928年3月 に文 学 運 動 が 統 一 さ れ た 。1928年 の3月13日 に 「日本 左 翼 文 芸 家 総 連 合 」が で きた 。 そ こ に50人

(31)土 井 大 助 『 小 林 多 喜 二 』 汐 文 社1979年,36ペ ー ジ 。 (32)ま え だ こ う ・ひ ろ い ち ろ う(1888‑1957)。

(33)か ね こ ・ よ う ぶ ん(1894‑1985)。

(34)は や ま ・ よ し き(1894‑1945)。

(35)(1902‑45)。

(36)あ お の ・す え き ち(1890‑1961)。

(12)

余 が 集 ま っ た 。 大 宅 壮 一(1900‑70),小 川 未 明(1882‑1961),橋 爪 健,山 田 清 三 郎(1896‑1987),川 口 浩,本 庄 陸 男(り く お,1905‑39),蔵 原 惟 人 (1902‑91),窪 川 鶴 次 郎,壷 井 繁 治(1898‑1975),江 口 漢(か ん,と 言 わ れ る が,正 し く は,き よ し,1887‑1975),武 田 麟 太 郎(1904‑46)ら で あ る 。 た だ し 労 農 芸 術 家 連 盟 か ら は 参 加 が な か っ た 。 こ れ が,全 日本 無 産 者 芸 術 連 盟(ナ ッ プ)結 成 の 地 な ら し に な る 。

こ の2日 後,三 ・ 一 五 事 件 が や っ て く る 。 こ れ に シ ョ ッ ク を 受 け た 人 々 は, 日 本 プ ロ レ タ リ ア 芸 術 連 盟 と 前 衛 芸 術 家 同 盟 と を 合 同 さ せ る こ と に し た 。 1928年3月26日,全 日 本 無 産 者 芸 術 連 盟(ナ ッ プ)が 成 立 し た 。 文 芸 戦 線 に 集 ま っ て い る 労 農 芸 術 家 連 盟(労 芸)は,ナ ッ プ に 対 立 し つ づ け て い た 。 ナ ッ

プ は 機 関 誌 と し て 『戦 旗 』 を 出 し た 。

参 考 図

日本 プ ロ レ タ リア 文 芸 連 盟 → 日本 プ ロ レタ リア芸 術 連 盟 →

一{鱗離 醐}一騰難1慧 糊 一

→ 日本左 翼文芸家総 連合→全 日本無産者芸 術連盟(ナ ップ)→

全 日本 無産者芸術 団体協議会(ナ ップ)

同 じ1928年12月25日 に,ナ ッ プ は,組 織 替 え の 大 会 を 持 っ た 。 文 学,美 術,演 劇 な ど,専 門 部 別 に 組 織 を 作 っ て,そ の 上 に 統 一 組 織 と し て の 協 議 会

を 置 い た 。 そ し て 名 前 を,全 日 本 無 産 者 芸 術 団 体 協 議 会(ナ ッ プ)と し た 。 文 学 で は,日 本 プ ロ レ タ リ ア 作 家 同 盟 が 結 成 さ れ た 。1929年2月10日 の 創 立 大 会 で,組 織 が で き た 。 中 央 委 員 長 藤i森 成 吉(1892‑1977),書 記 長 猪 野 省 三(1905‑),中 央 委 員 林 房 雄(1903‑75),山 田 清 三 郎(1896‑1987),

中 野 重 治(1902‑79),鹿 地 亘,蔵 原,江 馬 修(正 し く は,な が し,1889‑1975),

壷 井 繁 治(1898‑1975),江 口 漢,(以 上 常 任),小 林 多 喜 二,久 坂 栄 二 郎 。 同

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小林多喜二の昭和時代,拓 銀時代

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盟 員 数 は80名 だ っ た 。 多 喜 二 が 中央 委 員 に な っ た の は,『 一 九 二 八 年 三 月 十 五 日』 の お 蔭 で あ る。

米 山勝 見(37)多喜 二 の 友 人 で,小 樽 新 聞 記 者 一 は,い ろい ろ な もの を読 ん だ 。 そ して 「これ が い い,小 林,こ れ を読 め」 と盛 ん にや っ た 。勝 見 は言 う。

多 喜 二 は 「非 常 に ま じめ な人 で ね 。 こ っ ちが 冷 や か し て も本 気 に な る人 だ っ た 。勝 見 は,た ま た ま本 屋 に1冊 しか 入 らな か った りベ ジ ンス キ ー の 池 谷 信 三 郎 訳 の 『一 週 間 』を買 っ た。 「これ は人 間 を書 い た の で は な い,事 件 そ の も

の を書 い た の だ,一 こ うい うわ け で す よ。」そ の こ ろ は プ ロ レ タ リア文 学 運 動 も盛 ん に な っ て 来 た 時 分 で,「 君,こ うい うの が 本 当 の プ ロ レ タ リ ア文 学 じ ゃ な い か,と,え らそ う に一 席 ぶ っ た ら,貸 して くれ と言 って[多 喜 二 は]

持 って 行 っ た 。」 「三 ・一 五 事 件 を書 い た 小 説 の形 式,や は り 『一 週 間 』 が 決 定 した ん じゃ な い か,『 蟹 工 船 』 も … …(38)」

武 田 は,多 喜 二 か ら小 林 流 の読 後 感 も聞 い た 。 そ し て,た しか に りベ ジ ン ス キ ー か らの影 響 が あ る,と 言 う。

た だ し,多 喜 二 は,葉 山 の 『セ メ ン ト樽 の なか の手 紙 』 とか 『淫 売 婦 』,リ ベ ジ ン ス キ ー な ど の話 を島 田 と喋 る時,勝 見 の名 前 は出 て来 な か った 。「島 田

さん,こ れ読 ん だ ほ うが い い」 とい うわ け だ っ た 。 「『一 週 間 』 は,こ れ は主 人 公 の な い小 説 だ,素 晴 ら し い ん だ 」 と,多 喜 二 は島 田 に 言 って い た。

だ い た い 多 喜 二 は,読 む の は後 手 だ っ た 。武 田 や 勝 見 が 先 走 りだ っ た 。「そ れ を本 物 に す るか し な い か,自 分 の 肉 とし骨 とす るか に つ い て は,ぼ くらの 及 ぼ な い小 林 の偉 さが あ った … …」 と武 田 は言 う。

勝 見 も言 う。「ほ ん とに そ うだ ね。吸 収 して ね 。つ ま ら な い こ と を我 々 が 言 っ

(37)拙 稿 「 大 正 時 代 の 小 林 多 喜 二 の 評 論 と彼 の 思 想 」(『商 学 討 究 』46巻4号)も 参 照 。

(38)『 北 方 文 芸 』1968年3月 。

(39)『 北 方 文 芸 』1968年3月 。

(14)

て も,そ う っ か な っ て 考 え て ま し た か ら ね 。 ま じ め な 人 だ っ た 。」島 田 も 言 う,

「 無 色 透 明 と い う感 じ だ ね 。 そ こ ヘ ピ ュ ー ッ と 吸 収 し て し ま う(39)。 」

4大 熊 信 行

多 喜 二 のか つ て の 恩 師 ・大 熊 信 行 の 処 女 作 は,『 社 会 思 想 家 と して の ラ ス キ ン とモ リス』 新 潮 社(昭 和2年)だ っ た 。 これ は,大 熊 が 小 樽 を去 っ て か ら 出版 した もの で あ る。そ して,4つ の 部 分 と付 録 か らな っ て い た 。ラ ス キ ン(40) とモ リス(41)の研 究 で あ る。

これ が 出 版 され る と,時 を移 さず,多 喜 二 は,大 熊 とな ん の 相 談 もな し に,

大 熊 信 行 先 生 の 黙社 会 思 想 家 と して の ラ ス キ ン とモ リス"」 とい う賛 美 の一 文 を,『 小 樽 新 聞 』 の 昭 和2年2月27日 号 に草 し,お ま け に 広 告 欄 に,新 刊 書 と して 同 書 の 堂 々 た る 広 告 を凸 版 入 りで 掲 載 した 。」 大 熊 は,「 それ が お な じ新 聞 で あ っ た か,高 商 の 学 校 新 聞 で あ った か は 思 い だ せ な い けれ ど も,」と 言 うが,同 じ く大 熊 の 『文 学 的 回 想 』の222ペ ー ジ で は,小 樽 新 聞 だ と言 う。

「とに か く思 った こ と を一 存 で や って し ま う多 喜 二 の気 質 の あ らわ れ で あ る。

広 告 料 の支 払 い な ど,ど う処 理 した か わ か らな い が,広 告 文 が 多 喜 二 の作 で あ る こ とは 明 らか で あ っ た(42)。

戦 前 の モ リス 受 容 に つ い て,小 野 二 郎 は書 く。 「モ リス ・プ ロパ ー の研 究 書 も2冊 刊 行 され,翻 訳 も数 多 く出版 され た 。 しか し こ の時 期 が 注 目 さ れ るの は,そ の 量 的盛 行 の ゆ え で は な い。 た とえ ぼ,大 熊 信 行 著 『社 会 思 想 家 と し て の ラス キ ン とモ リス 』(1927年)は,『 近 世 画 家 』 とし て の ラス キ ン を よ く 見 て お らず,『 地 上 の 楽 園 』の 作 者 と して の モ リス はす こ し も知 らな い一 面 的 研 究 と自 ら断 わ りな が ら,モ リス の 「きわ め て 滋 味 深 い 」 「美術 の また社 会 主

(40)ラ ス キ ンJohnRuskin,1819‑1900.ロ ン ド ン 生 ま れ,オ ク ス フ ォ ー ド大 学 卒 業 。 美 術 批 評 家 。 社 会 改 革 論 者 。

(41)モ リ スWilliamMorris,1834‑96.詩 人,工 芸 家,社 会 主 義 運 動 家 。

(42)大 熊 『文 学 的 回 想 』215ペ ー ジ 。

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小林多喜二 の昭和時代,拓 銀時代

6ヱ

義 体 系 に包 摂 さ るべ き理 由 を有 す る とす る理 論 」 を 「労 働 理 論 」 を 中心 に据

え て透 徹 詳 細 に分 析 した こ と に よ っ て,か え っ て モ リス の 全 体 像 を照 射 しえ た 。 この 「労 働 理 論 」 へ の着 眼 は,こ の 時 期 の最 大 最 高 の 成 果 で あ っ て,そ

の功 は若 き 日 の大 熊 氏 に帰 せ られ る。(第1論 文 の 初 出 は1921年 で あ る。)こ の 視 点 は,そ の ま ま今 日 の わ れ わ れ の共 有 せ ね ぼ な らぬ も ので あ り,世 界 的

に い っ て も同 時 代 にお け る最 も尖 鋭 な切 込 み で あ っ た の で あ る㈹ 。 この書 の 別 の批 評 は,『 東 京 朝 日新 聞 』昭 和2年5月5日,柳 宗悦(や な ぎ む ね よ し)の 「ラ ス キ ン とモ リス 」 に よ っ て も,な さ れ た(44)。

佐 々 木 妙 二 が,秋 田 師 範 の教 員 を し て い る時 に,「 ま る め ら」が 出 た 。 そ の 翌 年 だ か に,大 熊 信 行 か ら 「入 ら な い か。」と言 わ れ て,佐 々 木 は 「ま る め ら」

同 人 に入 った 。[佐 々 木 の卒 業 以 来]そ れ ま で格 別 の つ きあ い は な か っ た 。「ま る め ら」の 同人 とい っ て も,実 際 に 同人 が み ん な 集 ま った こ と は あ ま りな い 。 横 の連 絡 が な い。 同人 とい っ て も,ほ とん ど大 熊 の ワ ンマ ンだ っ た 。 発 行 部 数 は二 百 くら い だ っ た 。昭 和16年 に休 刊 した 。最 大 の理 由 は,大 熊 自身 の事 情 と当時 の社 会 情 勢 の 中 で の考 慮 だ ろ う と,佐 々木 は推 測 す る(45)。佐 々 木 は

「ま るめ ら」 を や っ て い る こ ろか ら 「プ ロ レ タ リア 短 歌 」 に入 って い た(46)

土 田秀 雄 は,小 樽 高 商 を卒 業 し,数 年 後,東 京 商 大 へ入 り,大 塚 金 之 助 の ゼ ミナ ー ル に 入 った 。 土 田 は 言 う。 「僕 に は作 歌 に つ い て師 事 し た人 が 居 な い 。」む し ろゼ ミナ ー ル の 指 導 教 授 で あ っ た大 塚 金 之 助 先 生 か らい ろい ろ な意 味 で 深 い影 響 を う け た と思 う。 先 生 は そ の 頃 ア ラ 〉ギ の 同人 で は あ っ た が,

(43)小 野 二 郎 『ウ ィ リア ム ・モ リス 』 中 公 文 庫1992年19‑20ペ ー ジ (44)モ リス に つ い て,『 ウ ィ リ ア ム ・モ リス 全 仕 事 』 が 最 近 出 た 。 (45)佐 々 木 妙 二 「『ま る め ら』の 主 宰 者 」(『大 熊 信 行 研 究 』第 参 号,1980年10月20

日)3‑4ペ ー ジ。

(46)作 家 ・井 上 ひ さ し氏 は,幼 少 の こ ろ,大 熊 の 膝 の 上 に 乗 っ た と語 る(同 氏 講 話,

小 樽 商 大 に て,1997年2月)。

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子 規 以 来 の 写 生 道 に は 批 判 的 な立 場 を抱 か れ,そ の 作 品 は思 想 的 な鋭 さ を も つ,孤 独 な 歌 風 で,む し ろ啄 木 の歌 に通 ず る もの が あ っ た 。 先 生 は学 問 の 指 導 は し た が 作 歌 に就 い て は決 して指 導 は さ れ な か った 。 大 学 の 歌 会 に も殆 ん ど顔 を 出 され なか っ た 。中野 の僕 の下 宿 に大 熊 信 行 先 生 が 暫 く仮 寓 され た時, 大 塚 先 生 は 東 中 野 に住 ん で 居 っ た の で,自 然 往 き来 が あ り両 先 生 の 間 に 歌 の 話 も 出 る よ う に な っ た 。 そ の 後 浦 野 敬 氏 な どを 交 え て 「ま る め ら」 の ア ラ 〉 ギ 批 判 が 始 ま る の だ が,先 生 は殆 ん どか か れ な か った 。 「ま る め ら」を賑 わ し た の は大 熊 信 行 先 生 の 数 々 の 歌 論 で あ り,一 連 の短 歌 型 態 革 新 運 動 で あ っ た。

赤 倉 の 旅 館 で 浦 野 氏 と二 人 で 「ま るめ ら」 の編 輯 を した … …(47)」

1974年,映 画 『 小 林 多 喜 二 』 が で き あ が っ た と き に,読 売 ホ ー ル の 試 写 会 に,大 熊 信 行 は 招 か れ,会 場 に 出 向 い た に も か か わ らず,映 画 の 始 ま る 直 前 に 帰 っ て し ま っ た 。 知 人 に こ う 語 っ た 。 老 齢 に な っ て 「い っ そ う 涙 も ろ くな り,号 泣 し そ う だ か ら 」。 ス チ ー ル 写 真 の 多 喜 二 役 の 俳 優 に つ い て は,さ っ ぱ り し て い て 適 役 の よ う だ,と(48)。

5出 版 祝 賀 会

1927年3月,多 喜 二 は恋 人 ・田 口瀧 子 あ て の手 紙 で,「 此 頃 カ ー ル ・マ ル ク ス とい う近 世 科 学 的 社 会 主 義 者 の 『資 本 論 』 を読 んで い る(49)。」 と書 き送 っ て い る。 多 喜 二 は,も と も と 『資 本 論 』を読 み た い と思 っ て い た だ ろ うが,『 小 樽 新 聞 』 で の論 争(50)で,ど う して も読 ま ざ る を え な い。

庁 商 時 代 の友 人 石 本 氏 は,と き ど き築 港 の多 喜 二 の 家 に遊 び に い っ た。 多 喜 二 も石 本 氏 の 家 へ 遊 び に きた 。 拓 銀 に入 っ て か ら何 年 か の 問,多 喜 二 が遊

(47)土 田 『 歌 集 氷 原 』 十 字 屋 書 店 昭 和28年115‑6ペ ー ジ 。 (48)榊 原 手 紙,1994年 。

(49)『 小 林 多 喜 二 全 集 』 新 日本 出 版 社 第7巻,347ペ ー ジ 。

(50)拙 稿 「 大 正 時 代 の 小 林 多 喜 二 の 評 論 と彼 の 思 想 」 前 出,参 照 。

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び に くる と,よ く,石 本 氏 の母 が 用 意 した 肉鍋 をつ つ きな が ら漫 談 を し,女 の 話 を し,文 学 の話 を した 。 そ の こ ろ は も うか な り小 説 を書 い て い た 。 ま た 経 済 学 の話,マ ル ク ス ・レー ニ ン論,労 働 問題 を話 した 。 石 本 氏 は,彼 と経 済論 を闘 わ した りし,時 々 こ う話 した りした 。

,あ ん ま りマ ル ク ス だ とか,資 本 論 だ とか に凝 らず に,他 に まだ た くさ ん経 済 学 の博 士 もい る し,角 度 の違 う経 済 学 も研 究 す る必 要 も あ る の で は な い か,そ れ に こ の ご ろ馬 鹿 に特 高 が厳 し くな っ て きた で は な い か 。」

石 本 氏 は,他 の経 済 学 博 士 と して,福 田徳 三 を挙 げ た。 多 喜 二 は そ れ を,

「う ん,う ん 」 と聞 い て い た(51)。

昭和2年 の 晩秋 の こ とで あ っ た。 当 時 「小 樽 新 聞 」 の記 者 を し て い た,米 山勝 美(小 樽 中 学 卒,早 稲 田 大 学 出 身,後 に奈 良 と改 姓,後 に北 海 道 新 聞 社 の 重 役 に な る)が,カ ア ・ソ ン ダ ー ス のXXPopulation"を 翻 訳 し,北 吟 吉 ・ 高 畠 素 之 編 纂 の 新 学 説 大 系 の 一 冊 と して 「人 口問 題 の研 究 」(新 潮 社,昭 和 二 年 一 一 月)と い う書 名 で 出 版 した 。

この 出 版 祝 賀 会 が,一 南 に よ る と 一 千 代 田 ビル の 一 室 で行 わ れ た 。 米 山 は,中 学 の 後 輩 で あ る武 田逞 に,そ の祝 賀 会 に小 林 君 を誘 っ て 出席 す る よ う に言 っ た 。武 田 は,小 林 をつ れ て い くこ とに一 種 の た め らい を も っ た。

とい うの は,そ の 「人 口 問 題 研 究 」 が 少 な くて もマ ル キ シ ズ ム に立 脚 した 学 説 で な い こ と は,そ の 方面 に う とい武 田 で も察 知 で きた 。 そ れ に,相 手 方 や 場 所 をわ き ま えな い で,歯 に衣 を着 せ ず に 自分 の所 論 を ま く した て る小 林 の 気 性 をい や とい う ほ ど知 っ て い た か らで あ る。 しか し,そ の よ う な理 由 で こ

とわ る こ と もで き な い ま ま に,武 田 は 多 喜 二 を誘 っ て 一 緒 に で か けた 。 場 所 は,公 園 通 りの 四 つ 角 に あ っ た た か は し ビヤ ホー ル だ っ た と,武 田 は 書 く一 南 と違 って い る 一 。参 会 者 は三 〇名 ほ どで あ っ た 。司 会 者 の挨 拶 が

(51)石 本,お よ び イ ン タ ビ ュ ー 。

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な され た 。

そ の席 上 で 司 会 者 に指 名 さ れ て 南 亮 三 郎 が ス ピ ー チ を した 。

南 は,マ ル ク ス学 説 に も言 及 して,人 口 問題 は社 会 主 義 社 会 で も避 け られ な い 旨 を述 べ,そ の よ う に重 大 な 問 題 の参 考 文 献 と して カ ア ー ・ソ ン ダー ス の 訳 本 が 出 た こ とに祝 意 を表 した 。

と ころ が,南 の祝 賀 ス ピ ー チ が 終 わ っ て着 席 す るや 否 や,席 の横 の 方 か ら 1人 の青 年 が 立 っ て,言 葉 は げ し く南 の ス ピー チ を反 駁 しだ し た 。 これ は上 気 した よ う に顔 を あ か ら め た背 広 姿 の多 喜 二 で あ っ た。 小 林 の反 論 は,南 に

よ る と こ うで あ っ た 。

人 口問 題 は 資 本 主 義 社 会 に矛 盾 の一 発 露 に ほ か な らず,そ の秘 密 を え ぐ り 出 した マ ル ク ス主 義 の 学 説 は,人 口問 題 の永 久 の 解 決 方 向 を示 して い る。」

そ の態 度 に はす こ し も仮 借 を ゆ る さ な い鋭 さ と不 敵 さが あ らわ れ て い た 。 思 いが け な い 論 敵 の 出 現 で,南 は瞬 時,ど きん と した。 祝 賀 会 の席 が た ち ま ち 火 花 の発 す る論 議 の場 所 に な っ た 。 南 は 「困 った な」 とお もっ た 。 だ が 若 い 人 口論 学 者 の 南 と して は こ こで 黙 っ て い るわ け に ゆ か な か っ た。 彼 は再 度 立 っ て これ に応 酬 した 。

「『資 本 論 』 に書 か れ た マ ル ク ス の 学 説 は 資本 主 義 社 会 の 人 口 問題 を説 き つ くした もの で は な い 。 マ ル ク ス 主 義 の体 系 に は,実 は人 口の 理 論 は 欠 けて い るの だ 。 そ の 証 拠 に,マ ル ク ス 主 義 者 と して 生 涯 を は じめ なが ら人 口理 論 の ブ ラ ン ク を認 め て 自 ら これ を埋 め よ う と した カ ウ ツ キ ー の 青 年 時 代 の 書 き物 の こ とを指 摘 した り,カ ー ル ・マ ル ロオ とい う社 会 主 義 人 口理 論 家 の こ とを 例 証 に あ げ た り して,マ ル ク ス 主 義 は ま だ決 して マ ル サ ス の 人 口理 論 を全 面 的 に くつ が え し て は い な い の だ 。

南 の この例 証 に よ る答 弁 で,小 林 は再 度 発 言 す る の を封 じ られ た 。 小 林 は な ん に も言 わ なか っ た 。 し か し祝 賀 ど ころ か,気 まず い 空 気 の 中 で 幕 とな っ た 。 小 林 は 仲 間 の若 い グル ー プ にか こ ま れ て,席 を蹴 る よ う に して 出 て 行 っ た 。

南 も ま もな くそ こ を出 た 。 だ が す ぐ家 に 向 か っ て帰 らな か っ た 。 南 は そ の

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小林 多喜二の昭和時代,拓 銀時代

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日 まで マ ル ク ス 主 義 に は相 当 に理 解 を もっ て い る と信 じて い た。 しか し こ う し て多 喜 二 か ら強 い 反 発 を受 けて み る と,自 分 の周 囲 に は い つ の 間 にか 思 い が け な い大 き な溝 が 堀 りあ げ られ て,ど こか ら も手 の 届 か な い完 全 な孤 独 に 投 げ込 まれ た よ うな 気 持 ち を味 わ っ た。

多 喜 二 は,相 手 方 や 場 所 を わ き ま え な い で,歯 に きぬ 着 せ ず に 自分 の 所 論 を ま く した て る気 性 で あ っ た 。

後 年,南 は あ の会 合 の あ との こ とを聞 か され た 。

小 林 は気 負 い こん で 南 の所 論 を反 駁 した もの の,か れ の 知 らな い 豊 富 な研 究 の例 証 で そ の反 駁 をた た か れ て 後 が 続 か ず,非 常 に くや しが っ た,と 。

多 喜 二 と武 田 は,そ の 祝 賀 会 場 で あ る ビア ホ ー ル を 出 た 。玄 関 を 出 た途 端, せ き を切 った よ うに,多 喜 二 が,わ っ と,大 き な声 で空 にむ か っ て 泣 き 出 し た の で あ る。 ま さ に 号 泣 だ っ た 。 外 は まだ 宵 の う ち で人 通 りが あ っ た 。 二 人

は に ぎ や か な町 と は反 対 の公 園 の 方 へ 雪 解 けの 路 を歩 い て い た 。 い つ か,激 し い号 泣 は鳴 咽 とな った が,じ 一 ん と胸 に せ ま っ て くる もの を抑 え切 れ ず に 武 田 も泣 け そ う に な り,お もわ ず マ ン トを 小 林 の頭 か ら か ぶ せ た 。 そ し て

「もっ と泣 け,う ん と泣 くん だ 」と い っ た 。 小 林 は か らだ を武 田 に まか せ な が ら,「 畜 生,敗 け る もん か,い ま に見 て ろ」と,マ ン トの 中 で さ け ん だ 。 公 園 の 坂 を登 って,二 人 は右 に折 れ た 。 鳴 咽 は つ づ いた 。 二 人 は,そ の こ ろ武 田 の 宿 舎 だ った 小 樽 市 立 図 書 館 の 石 段 を,一 つ の 塊 とな っ て 踏 ん だ 。(武 田)

武 田 は こ う書 い て い る。

「あ の 時,小 林 は な ぜ あ ん な に泣 い た ん だ ろ う。月 並 み に解 釈 す れ ば,南 教 授 との論 戦 に敗 け た くや し涙 と も とれ る 。 祝 賀 会 を め ち ゃ め ち ゃ に した 恥 ず か しさ の 涙 で あ っ た か も しれ ぬ 。 し か し,小 林 は あ の 時,も っ と強 くなれ, 信 ず る道 を ま っ す ぐに突 きす す む ん だ,と 自分 自身 へ の 誓 い を涙 で誓 っ た の

(52)武 田 「ク ラ ル テ 時 代 」(『小 林 多 喜 二 読 本 』新 日本 出 版 社1974年);南 亮 三 郎 「小

林 多 喜 二 と人 口 論 」(『緑 丘 』42)。

(20)

だ と 思 う の で あ る 。 私 は あ の 時,一 塊 の 火 の 玉 と な っ て 燃 え あ が ろ う と す る 小 林 を 肌 に 感 じ と っ た か ら で あ る(52)。 」

マ ル サ ス の人 口論 は,抽 象 的 に しか正 し くな く,人 口法 則 は,歴 史 的 社 会 構 成 体 に よ っ て それ ぞ れ違 うの で あ る 。実 際 は,正 し くな い と見 なせ る(53)。

この 武 田 の話 か ら分 か る の だ が,南 も多 喜 二 も,マ ル ク ス主 義 的 な マル サ ス 批 判 を よ く理 解 して い な か っ た 。 もっ と も それ は,当 時 の マ ル クス 研 究 の水 準 に か か わ る もの で あ る か ら,し か た な い 。

訂 正

前 稿 「昭 和 の 初 め の 小 林 多 喜 二 」(『人 文 研 究 』 第93輯1997年3月)で,

間 違 い が あ っ た 。 「 加 川 先 生 に よ る と,こ の 入 船 公 園 は,さ む ら い 部 落 の 人 々 に よ っ て 作 ら れ た 。」(72ペ ー ジ)と あ る が,私 の 聞 き 間 違 い で あ っ た 。 先 ず は 加 川 先 生 に お 詫 び し,か つ,訂 正 し た い 。 加 川 先 生 は,「 入 船 公 園 は,さ む ら い 部 落 の あ っ た と こ ろ に 作 ら れ た 」と語 っ た こ と は あ る,と 書 く(1997.4.26 手 紙)。 な お,入 船 公 園 が タ コ 部 屋 に よ っ て 作 ら れ た(同,71‑72ペ ー ジ),

と い う の も,正 し く な さ そ う で あ る 。

(53)マ ル サ ス は,『 人 口 論 』の 中 で,一 世 代 で 人 口 が 倍 加 す る と言 う。 だ が こ れ は, 当 時 の ア メ リ カ の 例 で あ る。そ れ に,こ の マ ル サ ス 人 口 論 は産 児 制 限 を知 らな い 時 代 の 理 論 で あ る。 ま た,一 国 の 人 口 が 減 る こ と もあ り う る。 国 民 大 衆 の 生 活 資 料 は,独 得 の 水 準 に よ っ て 決 ま る 。す な わ ち,国 民 大 衆 が 作 り上 げ た 一 国 の 富 と, 彼 らが 消 費 で き る量 と は 違 う 。後 者 は前 者 の1部 分 で あ る 。例 え ば,現 在 で は後 者 は前 者 の ほ ぼ 半 分 で あ る。そ の 水 準 は,時 代 に よ っ て社 会 構 成 に よ っ て,違 う。

た だ し,国 民 大 衆 の 人 口 と彼 らが 消 費 で き る そ の独 得 の 量 と の 関 係 の 狭 い 領 域 で

は,マ ル サ ス 理 論 は か な り正 し くな る 。

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