曇
驚
の
往
生
観
考
梶
原
隆
浄
、
は
じ
め
曇 驚 ︵ 四 七 六1
五四二︶は、初め四論・仏性を学し、後に菩提流支より﹃観無量寿経﹄を授けられて以降、浄土教に 帰入したとされているが、曇驚の浄土教に関する著作としては、﹃無量寿経優婆提舎願生偶婆薮繋頭菩薩造並註﹄︵以 下 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ と 略 す ︶ ・ ﹁ 讃 阿 弥 陀 併 偶 ﹄ ・ ﹁ 略 論 安 楽 浄 土 義 ﹄ の 三 部 が 伝 え ら れ て い る 。 そ の 中 、 主 著 と 言 う べ き ﹁ 往 生論註﹂は、道縛が﹃安楽集﹄にその文を数多く引用していることからも窺えるように、後の浄土教者に多大な影響 を与えたばかりでなく、中国仏教の中に浄土教を植え付けるに至った重要な書物である。曇驚は、﹃往生論註﹄の冒 ヂ 向 只 ザ ﹂ 、 一 E L J y t 謹 案 、 龍 樹 菩 薩 十 住 毘 婆 沙 云 、 菩 薩 求 一 一 阿 毘 抜 致 一 有 一 一 二 種 道 ﹂ 一 者 難 行 道 二 者 易 行 道 。 難 行 道 者 、 謂 於 一 一 五 濁 之 世 於 無 併 時 一 求 一 一 阿 毘 抜 致 一 矯 レ 難 。 此 難 乃 有 一 一 多 途 ﹂ 粗 言 一 一 五 一 二 一 以 一 不 一 一 義 意 ﹂ 一 者 外 道 相 善 乱 一 一 菩 薩 法 ﹂ 二 者 声 聞 自 利 障 二 大 慈 悲 ﹂ 三 者 無 顧 悪 人 破 一 一 他 勝 徳 ﹂ 四 者 顛 倒 善 果 能 壊 一 一 党 行 ﹂ 五 者 唯 是 自 力 無 一 一 他 力 持 ﹂ 如 レ 斯 等 事 触 レ 目 皆 是 。 警 如 一 一 陸 路 歩 行 則 苦 ﹂ 易 行 道 者 、 謂 但 以 一 一 信 併 因 縁 一 願 レ 生 一 一 浄 土 、 一 乗 一 一 併 願 力 一 便 得 レ 往 一 一 生 彼 清 浄 土 ﹂ 僻 力悌 教 大 皐 大 怠王 で「 院 研 '71::r プL 紀 要 通 巻 第 十 競 住 持 即 入 一 一 大 乗 正 定 之 衆 ﹂ 正 定 即 是 阿 毘 抜 致 。 風 航 者 也 。 警 如 一 一 水 路 乗 船 則 楽 ﹂ 此 無 量 寿 経 優 婆 提 舎 、 蓋上街之極致不退之 と説いているように、当時の世間を、釈迦が滅して久しい無仏の時であり、菩薩の法や行も乱れた五濁・乱世である と捉えている。この様な五濁の世・無仏の時に不退転を得ることは、まさに難行であるから、信仏因縁によって仏願 力に乗じて浄土に往生し、さらには不退転に至ることのできる信方便易行に依らんとするのである。そして曇驚は、 世親の著した ﹃無量寿経優婆提舎願生偶﹄︵以下﹃往生論﹄と略す︶の所説こそ信方便易行を説き明かすものであり、 大乗仏教の極致であると理解したのである。 ﹃往生論﹄というのは、礼拝門・讃歎門・作願門・観察門・回向門という五念門を修すことによって、浄土往生さ らには速やかに阿縛多羅三貌三菩提を得ることを目的として著されたものであるが、山口益氏が﹁聡伽唯識時代に、 聡伽唯識の思想家であった世親が、その教学の立場で、聡伽唯識の思想を素材にして浄土の法門をウパデ l シャ﹂し たものと説かれているように、聡伽唯識の立場から浄土教を解釈したものである。 一方、曇鷺は四論・仏性を学んだ とあるように、龍樹の教学である般若・中観思想をその思想的素地としている。このような思想的基盤の相違に、痛 切なる無仏観・時機観の相違等の様々な要因が合わさって、 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ では曇驚独自の浄土教が展開されるのであ る。﹁往生論﹄に説かれる五念門は、奪摩他・毘婆舎那すなわち止観双修を中心とする高度な菩薩行であるから、願 生者も止観双修に耐え得るだけの機根が必要であると考えられる。しかし﹃往生論註﹄では、凡夫の往生・早作仏が 説かれており、それがまた曇驚浄土教の特色であると言える。 本稿では、この﹃往生論註﹄の所説によって、曇鷺の往生観の特色である無生而生・見生而無生について考察し、
さらに信方便易行として説かれる十念と五念門について考察することによって、凡夫がいかにして往生・早作仏を得 ることができるのかを究明していくことにする。
二、無生而生と見生市無生
曇鷺の往生に対する理解は、無生而生と見生而無生の二義であると考えられる。この二義について考察する前に、 曇鷺が往生者の機根について、 どの様に捉えていたのかをみてみることにする。﹁往生論註﹄上巻末、八番問答申の 第 一 問 答 に は 、 間目、天親菩薩回向章中言一一普共諸衆生往生安楽園 1 一 此 指 レ 共 一 一 何 等 衆 生 一 耶 。 答 日 、 案 一 一 王 舎 城 所 説 無 量 寿 経 ∼ 一 悌 告一両建一十方恒河沙諸悌知来皆共称一一嘆無量寿悌威神功徳不可思議﹂諸有衆生聞一一其名ロヌ信心歓喜乃至一念至 心 回 向 願 レ 生 一 一 彼 国 J 即 得 一 一 往 生 一 住 一 一 不 退 転 ﹂ 唯 除 三 五 逆 誹 一 一 誘 正 法 ﹂ 案 レ 此 而 言 一 切 外 凡 夫 人 皆 得 一 一 往 生 ﹂ 又 如 一 一 観 無 量 寿 経 一 有 一 一 九 品 往 生 ﹂ 下 下 品 生 者 、 或 有 一 一 衆 生 一 作 一 一 不 善 業 五 逆 十 悪 一 具 一 一 諸 不 善 ﹂ 如 レ 此 愚 人 以 一 一 悪 業 一 故 応 下 堕 一 一 悪 道 一 経 一 一 歴 多 劫 一 受 レ 苦 無 レ 窮 M 如 レ 此 愚 人 臨 二 命 終 一 時 遇 下 善 知 識 種 種 安 慰 為 説 一 一 妙 法 一 教 令 中 念 悌 日 此 人 苦 逼 不 レ 達 二 念 悌 ﹂ 善 友 告 言 、 汝 若 不 レ 能 レ 念 者 応 レ 称 一 一 無 量 寿 併 ﹂ 如 レ 是 至 心 令 一 一 声 不 F絶 具 二 足 十 念 一 称 一 一 南 無 無 量 寿 梯 ﹂ 称 一 一 悌 名 一 故 、 於 一 一 念 念 中 一 除 一 一 八 十 億 劫 生 死 之 罪 ﹂ 命 終 之 後 見 下 金 蓮 華 猶 如 二 日 輪 一 住 中 其 人 前 M 如 二 念 頃 一 即 得 レ 往 一 一 生 極 楽 世 界 、 一 於 一 一 蓮 華 中 一 満 一 一 十 二 大 劫 一 蓮 華 方 開 。 観 世 音 大 勢 至 以 一 一 大 悲 音 声 一 為 レ 其 広 説 一 一 諸 法 実 相 除 滅 罪 法 ﹂ 聞 己 歓 喜 応 レ 時 則 発 一 一 菩 提 之 心 ﹂ 是 名 一 下 品 下 生 者 ﹂ 以 一 一 此 経 一 証 、 明 知 。 下品凡夫但令下不レ誹二誘正法一信悌因縁皆 曇驚の往生観考ノ回 1守
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上0心 軒 大 事 大 事 院 研 'ID プ1... 紀 要 通 巻 第 十 競 四 と説かれている。すなわち曇驚は、往生の機根は、﹃無量寿経﹄に説かれる一切の外凡夫人であり、﹃観無量寿経﹄に 説かれる下品下生の凡夫であるとする。 つまり、五逆十悪をなす下下品の凡夫であっても往生できるとするのである。 このように、曇鷺は往生者の機根を凡夫と捉えるのであり、それによって、曇驚特有の往生観が生み出されるのであ る。それでは次に、曇鷺の往生観についてみていくことにする。 曇鷺は、﹃往生論註﹄上巻の帰敬偶の解釈中に、﹁我一心﹂という語を解釈して 我一心者、天親菩薩自督之詞。言念一一無磯光如来一願レ生一一安楽﹂心心相続無一一他想間雑﹂問日、悌法中無レ我。此 中何以称レ我。答日、言レ我有二三根本﹂ 用 一 一 流 布 垣 間 ﹂ 非 一 一 邪 見 自 大 一 也 。 一是邪見語、二是自大語、一二是流布語。今言レ我者、天親菩薩自指之言。 と 説 き 、 世親が我と言うのは自我を指すものではないとして、 往生の主体となる我の存在を否定する。 そして願
生﹂という語については、 間 日 、 大 乗 経 論 中 慮 慮 説 三 衆 生 畢 寛 無 生 如 一 一 虚 空 ﹂ 云 何 天 親 菩 薩 言 一 一 願 生 一 耶 。 答 日 、 説 三 衆 生 無 生 如 一 一 虚 空 一 有 二 二 種 一 者 如 二 凡 夫 所 p謂 実 衆 生 。 如 レ 凡 夫 所 予 見 実 生 死 。 此 所 見 事 畢 寛 無 一 一 所 有 一 如 一 一 亀 毛 一 知 一 一 虚 空 ﹂ 二 者 謂 諸 法 因 縁生故即是不生。 無 一 一 所 有 一 如 一 二 虚 空 ﹂ 天 親 菩 薩 所 一 一 願 生 一 者 是 因 縁 義 。 因縁義故仮名生。非レ如一一凡夫謂 F有 一 一 実 衆 生実生死一也。問日、依一一何義一説註生﹂答日、於市此間仮名人中一修二五念門、一前念興一致念一作レ因。糠土仮名人 浄 土 仮 名 人 不 レ 得 一 一 決 定 一 ﹂ 不 レ 得 一 一 決 定 異 ﹂ 前 心 後 心 亦 復 如 レ 是 。 何 以 故 、 若 一 則 無 一 一 因 果 、 一 若 異 則 非 一 一 相 続 ﹂ 是 義 観一異門。論中委曲。と説いているように、凡夫は自身が実の存在であり実の生死があると捉えるが、諸法は因縁によって生じるものであ るから本来は不生である。世親が願生というのは、この因縁の義によるものであり、実の衆生による実の生死を言う のではないとしている。そして往生というのは、仮名人、すなわち我という実存在を持たない因縁によって成り立つ ものが、念念相続する過程において、此土での最後の念が因となり果である浄土での最初の念になるということであ り、因縁による生であるとする。そしてさらに、積土の仮名人と浄土の仮名人の関係は、因果によるものであるから 一ではなく、念念相続するのであるから異でもない、不一不異の関係にあるとするのである。これがすなわち無生の 義であるが、この無生というのは、﹃中論﹄第二十四品、第二十二信に、 亦是中道義 衆因縁生法 我 説 一 一 即 是 無 一 亦 為 一 一 是 仮 名 一 と説かれているように、諸法は因縁生であるから空であり仮名であるとする第一義諦に立ったものの捉え方である。 曇鷺は、般若・中観を思想的素地とするのであるから、無我・無生という義には通達していたと考えられる。そして、 無我については﹁仏法中﹂、無生については﹁大乗経論中処処﹂に説かれる義であるとしている点からみて、通仏教 的にもこのような解釈がなされていたことが窺える。しかし、この解釈をもって直ちに曇鷺の往生に対する理解とい うことはできない。その理由は、曇驚は衆生について、上巻、国土荘厳釈の末に、 問 日 。 有 論 師 汎 解 一 衆 生 名 義 ﹂ 以 下 其 輪 一 一 転 三 有 一 受 中 衆 多 生 死 上 故 多 衆 生 ﹂ 今 名 一 一 悌 菩 薩 一 為 一 一 衆 生 ﹂ 是 義 云 何 。 笈 口 日 。 経 言 一 法 有 一 一 無 量 名 二 名 有 一 一 無 量 義 ﹂ 知 下 以 レ 受 二 衆 多 生 死 一 故 名 為 中 衆 生 上 者 、 此 是 小 乗 家 釈 三 界 中 衆 生 名 義 、 多 寸 大 乗 家 衆 生 名 義 一 也 。 大 乗 家 所 レ 言 衆 生 者 、 知 二 不 増 不 減 経 言 ﹂ 言 一 一 衆 生 一 者 、 即 是 不 生 不 滅 義 。 何 以 故 、 若 有 レ 生 生 己 復 生 。 有 一 一 無 窮 過 一 故 有 一 一 不 生 而 生 過 一 故 、 是 故 無 生 。 若 有 レ 生 可 レ 有 レ 滅 。 既 無 レ 生 何 得 レ 有 レ 滅 。 是 故 無 生 無 曇鷺の往生観考 五
悌 教 大 同 子 大 事 院 研 究 紀 要 通 巻 第 二 十 一 競 滅 是 衆 生 義 。 】ムー・ /\ と説いていることより窺える。これは、衆生という語には、三界において生死輪廻する衆生を指す場合と、無生無滅 である大乗家の衆生を指す場合の二義があることを明かすものであるが、この中、前者は凡夫、後者は聖者を指した ものであると受け取ることができる。したがって無生という義は、聖者において理解されるところの義であり、凡夫 には到底理解できない義であるということになる。従って、もしも曇鷺が往生は無生であるとのみ理解していたので あれば、そこから凡夫の往生という説は出てこなかった筈である。それでは曇鷺は、凡夫の往生をどのように捉えて いるのであろうか。次に、無生而生と見生而無生についてみていくことにする。 曇驚は、下巻、観察体相中、国土荘厳釈の末に、 疑 言 。 生 為 一 一 有 本 衆 累 之 元 ﹂ 棄 レ 生 願 レ 生 生 何 可 レ 尽 。 為 レ 釈 一 一 此 疑 ﹂ 是 故 観 一 一 彼 浄 土 荘 厳 功 徳 成 就 ﹂ 明 下 彼 浄 土 是 阿 弥陀如来清浄本願無生之生。非宇如二三有虚妄生一也。何以言レ之。夫法性清浄畢寛無生。言レ生者是得生者之情耳。 生 荷 無 生 生 何 所 レ 尽 。 と説いている。すなわち、生というのは三界輪廻の根元となる惑である。もし此土での生を棄てて浄土往生を願うと いうのであれば、生という惑を滅することはできないであろうという疑いが生じる。この様な疑いを晴らすため、浄 土の荘厳を観察するのであるが、浄土往生の義は三界における生を超越したものであり、畢寛無生の浄土に生じると いう無生而生であるとする。この無生而生の義は、聖者が理解するところの無生よりも一歩凡夫側に進んだ解釈であ ると思われるが、この義をより深く考察するため、曇鷺の浄土観をみてみることにする 曇鷺は、下巻の観察体相中、国土荘厳釈の末に、
入第一義諦者、彼無量寿悌国土荘厳第一義諦妙境界相。十六句及一句次第説応レ知。第一義諦者、悌因縁法也。 此 諦 是 境 義 。 是 故 荘 厳 等 十 六 句 称 為 一 一 妙 境 界 相 ﹂ 此 義 至 一 一 入 一 法 句 文 一 嘗 一 一 更 解 釈 ﹂ と説いているように、浄土というのは第一義諦より顕現された妙境界相であるとする。そしてさらに下巻の浄入願心 中、入一法句文釈に、 略説一一入一法句一故。上国土荘厳十七旬、如来荘厳八旬、菩薩荘厳四句為レ広。入一法句為レ略。何故示一一現広略相 入 ﹂ 諸 悌 菩 薩 有 一 二 種 法 身 ﹂ 一 者 法 性 法 身 、 二 者 方 便 法 身 。 由 二 法 性 法 身 一 生 一 一 方 便 法 身 、 一 由 二 方 便 法 身 一 出 二 法 性 法 身 ﹂ 此 二 法 身 、 異 而 不 レ 可 レ 分 、 一 而 不 レ 可 レ 向 。 是 故 広 略 相 入 統 以 一 一 法 名 ﹂ 菩 薩 若 不 レ 知 二 広 略 相 入 、 一 則 不 レ 能 一 一 白 什 H d H H J L U M 0 1 小 手 小
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一 法 句 者 謂 清 浄 旬 、 清浄句者謂真実智恵無為法身故。 此 三 句 展 転 相 入 。 依 一 一 何 義 一 名 レ 之 為 レ 法 、 以 一 一 清 浄 一 故 。 依 一 一 何 義 一 名 為 一 一 清 浄 J 以一一真実智恵無為法身一故。真実智恵者実相智恵也。実相無相故真智無知也。無為 法身者法性身也。法性寂滅故法身無相也。無相故能無レ不レ相。是故相好荘厳即法身也。無知故能笹川レ不レ知。是故 一 切 種 智 即 真 実 智 恵 也 。 以 一 一 真 実 一 而 目 二 智 宙 公 明 三 智 恵 非 レ 作 非 一 一 非 作 一 也 。 以 一 一 無 為 一 而 標 二 法 身 、 一 明 三 法 身 非 レ 色 非 一 非 色 一 也 。 非 一 一 子 非 一 者 室 非 レ 非 之 能 是 乎 。 蓋 無 レ 非 之 日 レ 是 也 。 自 是 無 レ 待 復 非 レ 是 也 。 非 レ 是 非 レ 非 百 非 之 所 レ 不 レ 喰。是故言一清浄句﹂清浄句者謂真実智恵無為法身也。 と説いているように、三種二十九句で表される浄土の荘厳は、略説すれば一法句に収まるものであるとする。曇驚は、 この広略相入の義について、法性法身と方便法身の二身によって解釈する。法性法身というのは一法句すなわち真実 智恵、方便法身というのは三種二十九句で表される浄土の荘厳功徳相を指すものであるが、法性法身によって方便法 身を生じ、方便法身によって法性法身を出すと説かれているように、すべてに通達する一切種智によって、衆生救済 曇鷺の往生観考 七{弗 教 大 皐 大 盛主 竺F" 院 研 dt:r ブ1, 紀 要 通 巻 第 十 競 !\ のための浄土相を現し、その浄土相に衆生を迎え入れることによって、新たなる真実智恵者を出さんとする義を明か すものである。従って浄土というのは、真実智恵によって、衆生救済のために有相の土として顕現されたものである から願生が可能となるのであり、またこの浄土相は、真実智恵という実相無相に収まるものであるから往生は無生で あるということになる。このように、曇驚は浄土を有相化された土であると捉えるから、往生は単なる無生ではなく 無生而生であると説くのである。しかし、この無生市生を理解するためには、広略相入の義を理解しなければならず、 凡夫には未だ理解しがたい境地であると言える。その点について曇鷺は、同じく国土荘厳釈の末に、 間 目 、 上 言 レ 知 二 生 無 生 一 嘗 一 一 是 上 品 生 者 ﹂ 若 下 下 品 人 乗 一 一 十 念 一 往 生 、 山 豆 非 レ 取 一 一 実 生 一 耶 。 但 取 一 一 実 生 一 即 堕 一 三 執 ﹂ 一 恐 不 レ 得 一 一 往 生 、 二 一 恐 更 生 生 レ 惑 。 答 、 警 知 下 浄 摩 尼 珠 置 二 之 濁 水 J 水即清浄日若人雄レ有一議量生死之罪濁﹂聞二 彼 阿 弥 陀 如 来 至 極 無 生 清 浄 宝 珠 名 口 ヌ 投 一 一 之 濁 心 ﹂ 念 念 之 中 罪 滅 心 浄 即 得 一 一 往 生 ﹂ 又 是 摩 尼 珠 以 一 一 玄 黄 幣 一 裏 投 一 之 於 水 ﹂ 水 即 玄 黄 一 知 一 一 物 色 ﹂ 彼 清 浄 悌 土 有 一 一 阿 弥 陀 如 来 無 上 宝 珠 、 一 以 一 一 無 量 荘 厳 功 徳 成 就 吊 一 裏 投 下 之 於 所 一 注 生 一 氷 解 則 火 滅 ﹂ 彼 下 品 人 雄 レ 不 レ 知 一 一 法 性 無 生 、 一 但 以 下 称 一 一 悌 名 一 力 上 作 一 一 往 生 意 一 願 レ 生 一 一 彼 土 、 一 彼 土 是 無 生 界 、 見 生 之 火 自 然 而 滅 。 者心水 P 量 不 レ 能 下 転 一 一 生 見 一 為 中 無 生 智 上 乎 。 又 知 一 一 氷 上 然 レ 火 、 火 猛 則 氷 解 、 と説いている。すなわち、往生は無生而生であるのに、凡夫は実の生に執着して往生を願う。この様な執着があれば、 それが妨げになり往生することができないか、あるいは往生してもまた惑を生じるのではないかという疑いが生じる。 こ の 点 に 対 し 、
ω
阿弥陀仏の至極無生清浄宝珠の名号を聞付ば念念に罪滅して往生を得る。ω
浄土に往生すれば、阿 弥陀仏の無量の荘厳功徳成就によって、生見を転じて無生智を得る。ω
法性無生を知らなくても、仏名を称し浄土往 生を願えば、見生を滅することができるとする。これが見生而無生という理解であり、曇鷺は、聞名号・浄土荘厳・称仏名の功徳によって凡夫が浄土に往生し、無生の智を得ると説くのである。従って、凡夫が浄土に往生し無生を得 るのは、阿弥陀仏の他力によるものであると言えるが、これは、下巻の観察体相中に 此 云 何 不 思 議 。 有 一 一 凡 夫 人 煩 悩 成 就 、 一 亦 得 レ 生 一 一 彼 浄 土 ﹂ 三 界 繋 業 畢 寛 不 レ 牽 。 則 是 不 レ 断 一 一 煩 悩 一 得 一 盈 繋 分 ﹂ 罵 可 一 一 思 議 ﹂ と説いているように、煩悩を断ぜずして浬繋の分を得るという、凡夫の理解を超越した、不可思議な境地を説くもの で あ る 。 以上をまとめてみると、曇一驚は、浄土往生というのは第一義諦によって解釈すれば念念相続による因縁生であるが、 たとえこの無生の義を理解できなくても、阿弥陀仏の不可思議力を信じ、他力に乗じて往生すれば、無生而生を得る ことができると捉えていたものと言える。 それでは次に、見生而無生を得るための行について、特に阿弥陀仏の不可思議力と、それに対する信という点に着 目して、考察していくことにする。
三
、
十
念
と
五
念
門
前述した如く、曇驚は﹃往生論註﹄上巻末、八番問答の第一問答において、往生者の機根は﹃無量寿経﹄所説の一 切の外凡夫人であり、﹁観無量寿経﹄所説の下品下生の凡夫であるとする。そして、五逆十悪をなす凡夫であっても、 十念称名すれば罪が滅して往生できるとするのである。それでは、まずこの八番問答に説かれる十念についてみてい 曇鷺の往生観考 九梯教大皐大事院研究紀要通巻第二十一競
。
く こ と に す る 。 曇驚は、五逆十悪と十念の関係について、第六の問答に、 答 日 、 汝 謂 二 五 逆 十 悪 繋 業 等 一 為 レ 重 、 以 一 下 下 品 人 十 念 一 為 レ 軽 、 応 下 為 レ 罪 所 レ 牽 先 墜 二 地 獄 一 繋 中 在 三 界 上 者 今 嘗 以 レ 義 校 一 一 量 軽 重 之 義 ﹂ 在 レ 心 、 在 レ 縁 、 在 一 一 決 中 長 不 レ 在 一 五 時 節 久 近 多 少 一 也 。 云 何 在 レ 心 。 彼 造 罪 人 自 依 一 一 止 虚 妄 顛 倒 見 一 生 、 此 十 念 者 依 一 一 善 知 識 方 便 安 慰 一 聞 一 支 相 法 一 生 。 一 実 一 虚 。 量 得 一 一 相 比 ﹂ 警 知 一 一 千 歳 闇 室 光 若 暫 至 即 便 明 朗 ﹂ 量 得 レ 言 二 闇 在 レ 室 千 歳 而 不 F去 耶 。 是 名 一 一 在 心 ゴ 五 何 在 レ 縁 。 彼 造 罪 人 自 依 一 一 止 妄 想 心 一 依 一 一 煩 悩 虚 妄 果 報 衆 生 一 生 、 此 十 念 者 依 一 一 止 無 上 信 心 一 依 一 一 阿 弥 陀 知 来 方 便 荘 厳 真 実 清 浄 無 量 功 徳 名 号 一 生 。 警 如 下 有 レ 人 被 一 一 毒 箭 所 F中 載 レ 筋 破 レ 骨 間 一 一 滅 除 薬 鼓 一 即 箭 出 毒 除 同 一 室 可 レ 得 与 p r彼 箭 深 毒 属 聞 一 一 鼓 音 聾 一 不 £ 能 一 一 抜 レ 箭 去 F毒 耶 。 是 名 二 在 縁 ﹂ 云 何 在 一 決 定 ﹂ 彼 造 罪 人 依 一 寸 比 有 後 心 有 問 心 一 生 、 重者先牽能出二三有﹂両経一義耳。 此 十 念 者 依 一 一 止 無 後 心 無 間 心 一 生 。 是 名 一 決 定 ﹂ 校 一 一 量 三 義 、 一 十 念 者 重 。 と説いている。これは三在釈と言われるものであるが、すなわち十念というのは、川聞実相法、ω
方便荘厳真実清浄 無量功徳名号、同無後心無間心より生じるものであり、心・縁・決定という点において五逆十悪より逢かに重いもの であるから、十念によって往生することができるとするのである。一ニ在釈というのは、浄土往生の教えを聞くことに よって決定の信を起こし、阿弥陀仏の無量功徳の名号を縁として、 一心に十念相続することを説くものであるが、こ の聞実相法・称仏名というのは、前述した見生而無生に説かれる聞名号による罪滅・称仏名による見生の滅と共通す るものであるから、十念というのは、阿弥陀仏の不可思議力に乗じた往生行であると言える。このように、曇鷺は往 生行として十念を説くのであるが、今、前述した八番問答の記述を見てみると、第一問答の下下品の文には﹁臨命終時﹂と説かれ、さらに三在釈の在決定には﹁無後心無間心﹂と説かれている点からみて、十念による往生人というの は、臨命終時の凡夫を指すものと考えられる。また十念の内容について、第七の問答では、 間 日 。 幾 時 名 為 一 二 念 ﹂ 答 日 。 百 一 生 滅 名 一 二 剃 那 、 一 六 十 利 那 名 二 一 念 ﹂ 此 中 云 レ 念 者 、 不 レ 取 一 一 此 時 節 一 也 。 但 言 レ 憶 一 一 念 阿 弥 陀 悌 ﹂ 若 総 相 若 別 相 、 随 レ 所 一 説 縁 一 心 無 一 一 他 想 一 十 念 相 続 名 為 一 一 十 念 ﹂ 但 称 一 一 名 号 一 亦 復 如 レ 是 。 と説いている。すなわち、阿弥陀仏の総相別相を憶念することを念といい、他想を雑えず念念相続することを十念と いうのであり、称名も同様の義であるとするのである。従って、十念というのは、臨命終時の凡夫が、善知識の教え に遇って初めて信決定し、命終までの僅かな時間を費やして憶念もしくは称名を相続することであり、他想を雑えず 念念相続することにその意義があると言える。 以上をまとめてみると、曇驚の説く十念というのは、阿弥陀仏の不可思議力にたいする決定の信と、念念相続とい う義に基づくものであり、臨命終時という時間の限られた者に対して説かれる行ということになる。それでは、その 他の凡夫はどの様な行を修すればよいのであろうか。それがすなわち五念門という行であると考えられるから、次に 曇驚の五念門に対する解釈をみていくことにする。 まず初めに礼拝門については、上巻の三念門釈中に、 或 ニ 一 一 口 一 一 稽 首 礼 一 或 言 一 我 帰 命 一 或 言 一 一 帰 命 礼 ﹂ 此 論 長 行 中 亦 言 レ 修 一 一 五 念 門 ﹂ 五 念 門 中 礼 拝 是 一 。 天 親 菩 薩 既 願 一 一 往 生 ﹂ 山 豆 容 レ 不 レ 礼 。 故 知 帰 命 即 是 礼 拝 。 何 以 知 、 帰命是礼拝。龍樹菩薩造二阿弥陀如来讃一中、 と説き、下巻の起観生信中、礼拝門釈に 矯 下 生 一 一 彼 国 一 意 上 故 。 何 故 言 レ 此 。 菩 薩 之 法 常 以 一 一 思 三 時 夜 三 時 一 礼 二 十 方 一 切 諸 悌 ﹂ 不 = 一 必 有 一 一 願 生 意 ﹂ 今 応 一 ニ 常 曇鷺の往生観考
悌教大事大事院研究紀要通巻第二十一競 作 一 一 願 生 意 一 故 礼 一 一 阿 弥 陀 如 来 一 也 。 と説いている。すなわち、礼拝門というのは、常に願生の心を作して礼拝することであり、それは阿弥陀仏に対する 帰命を現すものであると解釈するのである。従って、この礼拝門というのは、阿弥陀仏の不可思議力に対する決定の 信を、身を以て現したものと言うことができる。 次に讃歎門については、下巻の起観生信中、讃歎門釈に、 称彼如来名者、謂称一一無磯光如来名一也。如彼如来光明智相者、悌光明是智慧相也。此光明照一 1 T方 世 界 一 無 レ 有 一 一 障擬﹂能除一一十方衆生無明黒闇﹂非レ如三日月珠光但破一一空穴中闇一也。如彼名義欲如実修行相応者、彼無磯光如来 名 号 能 破 一 一 衆 生 一 切 無 明 J 能 満 一 一 衆 生 一 切 志 願 ﹂ 然 有 下 称 名 憶 念 市 無 明 白 在 而 不 レ 満 一 一 所 願 一 者 上 何 者 。 由 下 不 一 一 如 実 修 行 一 興 二 名 義 一 不 中 相 応 上 故 也 。 云 何 為 下 不 一 一 如 実 修 行 一 興 一 一 名 義 一 不 中 相 応 日 謂 不 レ 知 二 如 来 是 実 相 身 是 為 物 身 ﹂ 又 三 者 信 心 不 一 一 相 続 、 一 一 飴 念 間 故 。 此 三 句 展 転 相 成 。 以 二 信 心 不 己 得 故 無 一 一 決 定 ﹂ 無 一 一 決 定 一 故 念 不 一 一 相 続 ﹂ 亦 可 念 不 一 一 相 続 一 故 不 レ 得 一 一 決 定 信 ﹂ 不 レ 得 一 一 決 定 信 一 故 心 不 レ 淳 。 輿 レ 此 相 違 名 一 一 如 実 修 行 相 応 ﹂ 是 故 論 主 建 言 一 一 我 一 心 ﹂ 有 二 三 種 不 相 応 ﹂ 一 者 信 心 不 レ 淳 、 若 レ 存 若 レ 亡 故 。 二 者 信 心 不 レ 一 、 無 一 一 決 定 一 故 。 と説いている。すなわち、名号には破闇満願の功徳があり、如実に修行して名義と相応すれば、 一切の無明を破すこ とができるとするのであるが、不相応の理由として、二不知・三不信を説く。二不知とは、如来は実相身・為物身と 知らないことであるが、実相身は智、為物身は光明・名号を指すものである。つまり、阿弥陀仏は智恵と慈悲が円満 した仏であり、その名号を称えることがそのまま光照を蒙ることであると知らないから、相応することが出来ないと いうことである。三不信とは、川信心不淳、
ω
信心不一、川信心不相続であるが、これは、川←ω
←川またはω
←ω
←仰と展転相成すると説かれている。従って、如実修行相応のためには、信心淳・信決定・信相続が必要であり、い ずれか一つが欠けてもいけないということになる。また、この二不知と三不信の関係は、如来は実相身・為物身であ ると知らないから、信が淳・決定・相続しないのであり、その義を知ることによって、信淳く決定し相続するものと 考えられる。そして、決定の信を起こし、信相続して名号を称えることによって名義と相応し、破闇満願の功徳、す なわち往生を得ることができるのである。この讃歎門に説かれる信決定と信相続というのは、前述した十念と共通す るものである。従って、命終者の往生行として説かれた十念の義は、五念門では名義相応行である讃歎門という形で 説かれていると言える。 次に作願門については、上巻の帰敬偶釈の中に、 願生安楽国者、此一句是作願円。天親菩薩帰命之意也。 と説き、さらに下巻の起観生信中、作願門釈に、 五 何 作 願 。 心 常 作 願 、 一 心 専 念 三 畢 寛 往 一 一 生 安 楽 園 土 ﹂ 欲 三 如 実 修 一 一 行 審 摩 他 一 故 。 訳 一 一 審 摩 他 一 日 レ 止 。 止 者 止 一 一 心 一 慮 一 不 レ 作 レ 悪 也 。 | | ︵ 中 略 ︶ | | 審 摩 他 云 レ 止 者 今 有 一 三 義 ﹂ 一 者 一 心 専 念 一 一 阿 弥 陀 如 来 一 願 レ 生 一 致 土 ﹂ 此 如 来 名 号 及 彼 国 土 名 号 能 止 一 一 一 切 悪 ﹂ 二 者 彼 安 楽 土 過 一 一 一 二 界 道 ﹂ 若 人 亦 生 一 一 彼 国 一 自 然 止 一 一 身 口 意 悪 ﹂ 三 者 阿 弥 陀 如 来 正 覚 住 持 力 自 然 止 下 求 一 一 声 聞 畔 支 悌 一 心 日 此 三 種 止 従 一 一 如 来 如 実 功 徳 一 生 。 是 故 言 一 一 欲 如 実 修 行 審 摩 他 一 故 。 と説いている。曇鷺は、この作願門も帰命であるとするが、春摩他を止と言うのは心を一処に止めて悪を作さないこ とであるとし、さらに、
ω
願生の念を起こせば名号の力用によって一切の悪を止む。ω
浄土に往生すれば身口意の悪 を止む。川阿弥陀仏の正覚住持力によって二乗を求める心を止むという三義を説いて、止とは止悪であるとする。本 曇鷺の往生観考僻 教 大 撃 大 皐 院 研 ,,t, プu 紀 要 通 巻 第 十 競 四 来、著摩他というのは、﹁議伽師地論﹄巻七十七に、 即 於 下 如 レ 所 一 一 善 思 惟 一 法 P 独 慮 一 一 空 閑 一 作 意 思 惟 。 復 即 於 一 一 此 能 思 惟 心 ﹂ 内 心 相 続 作 意 思 惟 。 如 レ 是 正 行 多 安 住 故 、 起 一 一 身 軽 安 及 心 軽 安 ﹂ 是 名 二 審 摩 他 ﹂ と説いているように、心を法に止住して、それを作意し思惟することによって、身心の軽安を得て寂静三昧となるこ とをいうのであり、止悪という意味は含まれていない。この止悪が得られる理由は、上巻の国土荘厳第一、清浄功徳 偶 釈 に 、 此 清 浄 是 総 相 。 備 本 所 三 以 起 こ 此 荘 厳 清 浄 功 徳 成 就 一 者 、 見 一 一 三 界 一 是 虚 偽 相 是 輪 転 相 是 無 窮 相 、 知 一 一 択 蟻 循 環 一 如 一 一 議繭自縛﹂哀哉衆生締一一此三界、一顛倒不浄。欲下置一桑生於不虚僑慮於不輪転慮於不無窮慮一得中畢寛安楽大清浄 慮 P 是 故 起 一 一 此 清 浄 荘 厳 功 徳 一 也 。 1 1 ︵中略︶||此三界蓋是生死凡夫流転之闇宅。雄一一復苦楽小殊惰短暫異﹂ 統 而 観 レ 之 莫 レ 非 一 言 漏 ﹂ 侍 伏 相 乗 循 環 無 レ 際 。 生 、 如 来 神 力 本 願 之 所 レ 建 。 雑 生 鰯 受 四 倒 長 拘 。 且 因 且 果 虚 僑 相 襲 。 安楽是菩薩慈悲正観之由 と説いていることから窺える。この三界は、虚偽相・輪転相・無窮相、 つまり惑・業・苦の世界であり、衆生はこの 三界に縛られて生死流転している。その衆生に畢寛安楽大清浄処を得さしめるために、本願力をもって建立されたの が浄土であるとする。従って、この三界を勝過した清浄世界である浄土に心を止めて願生の想いをなせば、その不可 思議力によって一切の悪を止め、浄土に往生すれば三業の悪・二乗を求める心を止めることができるのである。この ように曇鷺は、作願門というのは、此土において奪摩他を修すというものではなく、奪摩他を修せんと欲して浄土願 生の心を起こすものであり、その結果、止悪・往生という功徳を得て、者摩他を成就するものと解釈するのである。
そして、この作願門に続いて、次の観察門を修すのである。 観察門については、下巻の起観生信中、観察門釈に、 云 何 観 察 。 智 恵 観 察 。 正 念 観 レ 彼 、 欲 一 二 如 実 修 一 一 行 毘 婆 舎 那 一 故 。 訳 一 一 毘 婆 舎 那 一 日 レ 観 。 | | ︵ 中 略 ︶ | | 毘婆舎 那 云 レ 観 者 亦 有 一 二 義 ﹂ 一者在レ此作レ想観一致三種荘厳功徳﹂此功徳如実故修行者亦得一一如実功徳﹂如実功徳者決 定 得 レ 生 一 一 彼 土 ﹂ 二 者 亦 得 レ 生 一 一 彼 浄 土 一 即 見 一 一 阿 弥 陀 健 一 未 証 浄 心 菩 薩 畢 寛 得 レ 証 一 一 平 等 法 弐 一 興 一 一 浄 心 菩 薩 一 興 一 一 上 一 者 観 一 一 察 彼 悌 国 土 荘 厳 功 徳 、 二 一 者 観 一 一 察 阿 弥 陀 悌 荘 厳 功 徳 、 二 二 者 観 一 桑 彼 諸 菩 薩 荘 厳 功 徳 ﹂ 心 縁 二 其 事 一 日 レ 観 、 観 心 分 明 日 レ 察 。 地 菩 薩 一 畢 寛 同 得 一 一 寂 滅 平 等 ﹂ 是 故 言 一 一 欲 如 実 修 行 毘 婆 舎 那 故 ﹂ 彼 観 察 有 一 一 三 種 ﹂ 何 等 三 種 。 と説いている。すなわち、観察の観というのは心にその事を縁ずることであり、察というのは観心が分明であること を言うとする。そして毘婆舎那を観というのは、川此土において浄土の三種荘厳を観ずること。
ω
浄土において阿弥 陀仏を見奉ることであり、その功徳によって、ω
浄 土 往 生 、ω
寂滅平等を得るとするのである。このように、曇驚は 毘婆舎那に此土での観察と浄土での見仏の二義を説くのであるが、観という語については、心にその事を縁ずること であるとし、此土での観察は、想を作して浄土の三種荘厳を観ずることであるとしている。本来、毘婆舎那というの は、﹃職伽師地論﹄巻七十七に 即 於 下 知 レ 所 一 一 善 思 惟 一 法 内 三 摩 地 所 行 影 実 上 観 察 勝 解 捨 一 一 離 心 相 ﹂ 即 於 一 一 如 レ 是 三 摩 地 影 像 所 知 義 中 、 一 能 正 思 揮 最 極 思揮、周遍尋思周遍伺察、若忍若楽若慧若見若観、是名二毘鉢舎那﹂ と説いているように、春摩他寂静三昧の境地に現れる影像を智によって選びとることであるから、曇鷺のいう此土で の観察とは異なるものである。曇鷺の説く此土での観察は、むしろ憶念に近いものであると思われる。曇鷺の此土で 曇鷺の往生観考 一 五イ 弗 教 大 盟主
夫
撃 院 研 ,;,'a プ"L 紀 要 通 巻 第 十 競 一 六 の観察については、上巻の仏荘厳第二、身業功徳成就偶釈に、﹁観無量寿経﹄第八像想観の文を解釈して、 身 名 一 一 集 成 J 界 名 一 一 事 別 ﹂ 如 一 一 眼 界 縁 一 根 色 空 明 作 意 五 因 縁 生 名 為 一 一 眼 界 ﹂ 是 眼 但 自 行 一 一 己 縁 一 不 レ 行 一 一 他 縁 ﹂ 以 一 一 事 別 一 故 。 耳 鼻 等 界 亦 如 レ 是 。 言 一 一 諸 悌 知 来 是 法 界 身 一 者 、 法 界 是 衆 生 心 法 也 。 以 一 二 心 能 生 一 一 世 間 出 世 間 一 切 諸 法 一 故 、 名 レ 心 為 一 一 法 界 ﹂ 法 界 能 生 一 一 諸 如 来 相 好 身 一 亦 如 一 一 一 色 等 能 生 二 眼 識 ﹂ 是 故 併 身 名 二 法 界 身 ﹂ 是 身 不 レ 行 一 一 他 縁 ﹂ 是 故 入 一 一 一 切 衆 生 心 想 中 ﹂ 心 想 悌 時 是 心 即 是 三 十 二 相 八 十 随 形 好 者 、 嘗 一 一 衆 生 心 想 レ 悌 時 一 悌 身 相 好 顕 二 現 衆 生 心 中 一 也 。 と説いていることより窺える。すなわち曇鷺は、仏身というのは衆生の心を縁とするものであり、衆生が仏を想う時、 仏身相好は衆生の心中に顕現するものと解釈するのである。そしてこれは仏身のみではなく、浄土の三種荘厳すべて に共通するものと考えることができる。従って、たとえ憶念であっても、仏の側から衆生の心中に顕現するというの であるから、その功徳は知実であると言える。このように観察門というのは、作願門で修したところの願生心の上に 立って浄土の荘厳を心に想い描くことであり、その結果、往生という功徳を得、毘婆舎那を成就して阿弥陀仏を見奉 り、寂滅平等を得るものと解釈していると言える。 最後に回向門については、下巻の起観生信中、回向門釈に、 云 何 廻 向 。 不 レ 捨 一 二 切 苦 悩 衆 生 ﹂ 心 常 作 願 廻 向 為 レ 首 得 レ 成 一 一 就 大 悲 心 一 故 。 廻 向 有 一 三 種 ﹂ 一 者 往 相 、 二 者 還 相 。 往 相 者 、 以 一 一 己 功 徳 一 廻 一 一 施 一 切 衆 生 一 作 一 二 願 共 往 一 一 生 彼 阿 弥 陀 知 来 安 楽 浄 土 ﹂ 還 相 者 、 生 一 一 彼 土 一 己 得 一 一 審 摩 他 毘 婆 舎 那 一 方 便 力 成 就 、 廻 一 一 入 生 死 調 妹 、 一 教 一 一 化 一 切 衆 生 一 共 向 一 説 道 J 若 往 若 還 、 皆 為 下 抜 一 発 生 一 渡 中 生 死 海 却 日 疋 故 言 二 廻向為首得成就大悲心故﹂ と説いているように、回向には此土における往相と、浄土における還相の二種があるとする。その中、還相というのは、浄土に往生して著摩他・毘婆舎那を得て方便力を成就した上で修すものであると解釈している。 以上が曇鷺の五念門に対する解釈である。五念門の中、作願円以降は、此土・浄土双方での行が説かれていた。こ れは、五念門という行が此土のみでなく浄土においても修されるべき行であるということであり、浄土に往生するこ とを通じて、五念門がさらに高度な行へと発展することを明かすものと言える。この五念門という行は、 一 々 の 門 を 個別に修すものではなく、総括して一つの行として説かれたものであるが、浄土往生という点から考えれば、称名念 仏が説かれる讃歎門が中心となるものと言える。これは、十念による往生が説かれている点からも窺い知ることがで きる。従って、此土における五念門という行は、讃歎門に説く称名念仏を中心とするものであり、礼拝門では帰命礼 拝、作願門では願生心、観察門では作想による観、回向門では往相回向を修すものである。そして五念門を修して浄 土に往生して後に、本来の意味での審摩他・毘婆舎那を修し、者摩他・毘婆舎那を成就することによって、自利の行 を満足して方便力を得る。そしてさらに、方便力によって還相回向を修し、回向門を成就することによって、利他の 行を満足して早作仏を得るのである。 このように曇鷺は、五念門という行を、浄土往生行であると同時に、自利利他二行を兼ね備えた大乗菩薩行の実践 として捉えていたと言えるが、五念門が往生を契機として、より高度な行へと発展する理由は、曇驚が行者を凡夫と 捉え、阿弥陀仏の不可思議力を根底に置くからであると言える。そのことは、下巻の末に、 問 云 。 有 二 何 因 縁 一 言 二 速 得 成 就 阿 縛 多 羅 三 毅 三 菩 提 ﹂ 答 日 。 論 一 ず 一 口 、 修 一 一 五 円 行 一 以 一 一 自 利 利 他 成 就 一 故 。 然 薮 求 一 一 其 凡 是 生 一 一 彼 浄 土 一 及 彼 菩 薩 人 天 所 起 諸 行 、 力 一 故 。 何 以 言 レ 之 。 若 非 一 一 僻 九 一 四 十 八 願 便 是 徒 設 。 本 、 一 阿 弥 陀 如 来 為 一 一 増 上 縁 ﹂
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︵ 中 略 ︶ 皆 縁 一 一 阿 弥 陀 如 来 本 願 曇鷺の往生観考 七悌教大事大事院研究紀要通巻第二十一競 J¥ と 説 き 、 その後に、第十八念仏︵十念︶往生願、第十一住正定索願、第二十二必至補処願を説いている点からも窺い 知 る こ と が で き る 。 つまり五念門は、阿弥陀仏の本願力を増上縁として成り立つ行であり、本願力を縁とすることに よって、浄土往生を通じて高度な行という果を得るのである。すなわち、第十八願を縁として五念門を修せば、その 果として浄土に往生することを得て著摩他・毘婆舎那を得る。そしてその果を得た上で第十一願を縁として者摩他・ 毘婆舎那を修せば、阿弥陀仏を見奉る功徳によって寂滅平等を得て自利行を成就する。そしてさらに第二十二願を縁 として自在に衆生を教化し利他行を成就すれば、自利利他二行の成就によって早作仏を得ることができるのである。 このように五念門という行は、阿弥陀仏の本願力を根底として成り立つ行なのである。
四、結
び
曇鷺の往生に対する理解は、単なる無生の義に止まるものではなく、無生而生、見生而無生の義を明かすものであ る。これは、念念相続による因縁生という無生の義を知らなくても、阿弥陀仏の本願不可思議力によって浄土に往生 し、無生の智を得ることができることを明かすものであり、﹃往生論註﹄の冒頭に説かれる、﹁但だ信仏因縁をもって 浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗じて便ち彼の清浄の土に往生することを得、仏力住持して即ち大乗正定之衆 に入る。﹂という旨を明らかにしたものである。 そして往生行として説かれる十念・五念門というのは、阿弥陀仏の 本願力を根底として成り立つものであり、決定の信とその信の相続を具象化したものである。 このように、﹃往生論 註﹄というのは、まさに信仏因縁を説くものであり、凡夫の往生を明かしたものであると言えるが、五念門という行は単なる往生行に止まるものではなく、浄土往生を通じて修される大乗菩薩道の実践であり、早作仏のための行とし て説かれたものである。そしてまた、五念門が往生を通じて修される行であるからこそ、凡夫に修すことが可能とな るのであり、早作仏を得ることが可能となるのである。 曇鷺が、大乗菩薩道の実践としての五念門を重要視した理由は、下巻の善巧摂化中、巧方便回向釈に、 案 一 一 王 舎 城 所 説 無 量 寿 経 ﹂ 三 輩 生 中 雄 一 二 行 有 一 一 優 表 莫 レ 不 一 ニ 皆 発 一 一 無 上 菩 提 之 心 ﹂ 此 無 上 菩 提 心 即 是 願 作 梯 心 。 願 是 故 願 レ 生 一 一 彼 安 楽 浄 土 一 者 、 要 発 二 無 上 菩 提 心 一 也 。 若 人 不 レ 発 一 一 無 上 菩 提 心 ﹂ 但 聞 一 一 彼 国 土 受 楽 無 間 ﹂ 為 レ 楽 故 願 レ 生 、 亦 骨 回 レ 不 レ 得 二 往 生 一 也 。 作 僻 心 即 是 度 衆 生 心 。 度 衆 生 心 即 摂 一 一 取 衆 生 一 生 一 一 有 梯 国 土 一 心 。 と説いているように、浄土に往生するためには、必ず無上菩提心を発さなければならないと捉えていたためであろう。 そして菩提心を発して浄土に往生すれば、浄土は畢貢清浄処であり有仏の土であるから、大乗菩薩道を実践すること が可能となるのである。このように曇驚は、単に浄土に往生することを目的とするのではなく、大乗菩薩道を実践す る過程として、浄土往生を説くのであり、大乗菩薩道の実践であるからこそ、自利利他二行を兼ね備えた五念門とい う行が必要となるのである。この五念門という行は、世親が、別時意趣として否定されていた発願・称名に、止観と いう高度な行を組み込むことによって、大乗菩薩道の実践という地位にまで高めたものと言える。そして曇驚は、そ の五念門に本願行という新しい価値を付加し、万人が修すことのできる早作仏のための行としたのであるから、浄土 教は、曇鷺の﹁往生論註﹄に至って、まさに大乗仏教の究極の教えへと発展したと言えるのではないだろうか。 曇鷺の往生観考 九
僻 教 大 皐 大 胆 で「 院 研 '7t:r プ1.. 紀 要 通 巻 第 十 競
。
註 ︵ l ︶ ﹃ 続 高 僧 伝 ﹄ 巻 六 、 曇 鷺 伝 。 ﹃ 大 正 新 修 大 蔵 経 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 大 正 ﹄ と 略 す ︶ 五 十 巻 、 四 七O
頁 上i
下 ︵2 ︶ ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 浄 全 ﹄ と 略 す ︶ 一 巻 、 二 一 九 頁 上 ︵3 ︶ ﹃ 世 親 の 浄 土 論 ﹄ ︵ 昭 和 四 一 年 、 法 蔵 館 ︶ 一 八 頁 ︵ 4 ︶﹃浄全﹄一巻、二三四頁下1
二 三 五 頁 下 ︵5 ︶﹃浄全﹄一巻、二二O
頁 下 ︵6 ︶﹃浄全﹄一巻、二一二頁下 ︵7 ︶仮名という語について、幡谷明氏は﹃曇鷺教学の研究﹄︵一九八九年、同朋社︶六九頁、一九八i
一 九 九 頁 に お い て 、 ﹃ 中 論﹄第二四品一八偏、﹃大智度論﹄巻十二の仮名有説と、長尾雅人氏の所説を挙げ、仮名とは因施設︵C
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告 昨 日 ︶ で あ る と さ れ て お り 、 梶 山 雄 一 氏 は 、 ﹁ 書 評 、 幡 谷 明 著 ﹃ 曇 鷺 教 学 の 研 究 ﹄ ﹂ ︵ ﹃ 親 鷺 教 周 子 ﹄ 第 五 六 号 、 一 九 九O
︶ 一O
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一O
四頁において、仮名という語は、龍樹の﹃因縁心論煩・釈﹄に説かれる、本体として自我の無いことQ
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むの漢訳であろうとされている。﹃往生論註﹄に説かれる仮名という語は、従来は幡谷氏の説で解釈されてきた が、積土仮名人浄土仮名人という場合の仮名という語は、我一心釈に無我を説いている点から考えれば、梶山氏の説の方が よ り 文 意 に 添 う も の と 思 わ れ る 。 ︵8 ︶ ﹃ 大 正 ﹄ 一 一 一O
巻、三三頁中 ︵9 ︶﹃浄全﹄一巻、二二九頁下1
二 三O
頁 上 ︵ 凶 ︶ 藤 堂 恭 俊 民 は ﹁ 天 親 と 曇 鷺 の 浄 土 教 思 想 ﹂ ︵ ﹃ 講 座 ・ 大 乗 仏 教 ﹄ 5 ||浄土思想、昭和六O
年 、 春 秋 社 ︶ 二O
九 頁i
一 一 一O
頁において、曇鷺が、往生浄土を願う主体を認めようとせず、その空無を強調したばかりでなく、苦滅道聖諦︵願生︶と苦 滅聖諦︵無生︶という範鴎の異なりを無視してまで論議を重ねた理由は、前者は所依・所事をたてないのが中観論書の特徴 であることによるものであり、後者は当時勢いの盛んであった般若・中観の学風に対し、中観思想に基づいた往生観・願生 思想を示すことによって、浄土教に対する非難をくいとめる必要があったからであろうとされている。 ︵ 日 ︶ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 巻 、 二 四 五 頁 上 ︵ ロ ︶ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 巻 、 二 四 四 頁 下1
二 四 五 頁 上 ︵ 日 ︶ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 巻 、 二 五O
頁 上i
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