症例提示 下田弘倫大学院生(内科学 3) 症 例:T. A. 76 歳,女性(ID 058-234-6, AN1200) 主 訴:食思不振,右肩部・腰部・両下腿疼痛 現病歴:昭和 56 年,甲状腺腫摘除時悪性疑わ れ,左葉全摘。昭和 62 年,肺腫瘍指摘,複 数回気管支鏡施行するも良性所見。このとき 甲状腺 mass(−)。平成 2 年,腰痛訴えはじ まる。平成 7 年,頭痛出現し徐々に増悪,右 肩部痛出現。平成 8 年 4 月,CTscan にて左 中頭蓋窩に mass lesion(+),肺 CTscan で 右 6 個,左 1 個 mass(+)で size は昭和 62 年時より大。平成 8 年 7 月 4 日,甲状腺全摘。 鎖骨近傍リンパ節に転移(+)。平成 8 年 8 月 5 日,内照射開始(131I 100 mCi 内服)。平 成 8 年 10 月 14 日,複視出現。眼窩から側頭 葉にかけ mass lesion 認め 2 週間外照射され, 複視改善をみた。平成 9 年 4 月 14 日 Tg 値上 昇傾向に対して第 2 回目の内照射,11 万の 血小板はこの後さらに減少して 7.2 万とな る。平成 9 年 4 月 20 日頃より,食欲低下顕 在化,易疲労感著しく増強し終日臥床の状態 となる。これまで NSAIDs にてコントロール されていた右肩部・腰部・両下腿の疼痛が一 段と強まり,睡眠不能となってきていた。改 善傾向認められず,平成 8 年 5 月 30 日,当 科入院した。 既往歴: 32 歳時右卵巣腫瘍(手術),72 歳時 腰椎ヘルニア(手術) 家族歴:父胃癌,同胞 6 名中 2 名に脳血管障害, 甲状腺癌の家族歴(−) 入院時現症:身長 141cm,体重 36.2 kg,体温 36.6°C,脈拍 62/分,整,血圧 98/62 Torr 全身やせ顕著,皮膚乾燥,表在リンパ節触知 せず。結膜に貧血認め,黄疸は認めず。左外 斜視,頚部手術瘢痕(+),甲状腺部腫大 (−),心音呼吸音正常,腹部平坦軟,肝・脾 触知せず。四肢に浮腫(−),疼痛のため下 肢 ROM 制限あり。 神経学的所見:意識清明,見当識障害なし。大 脳高次機能異常なし。軽度左眼上方視制限 ( + ), 幅 奏 可 , 他 脳 神 経 系 異 常 認 め ず 。 DTR 正常,病的反射(−),上下肢粗大筋力 4/5 程度,麻痺(−),疼痛訴えあるも感覚 異常明らかなものなし。小脳機能異常なし。 膀胱直腸障害(−),髄膜刺激症状(−)。 xvii 第 17 回山梨医科大学 CPC 記録 日時:平成 10 年 6 月 3 日(水)午後 5 時 15 分∼ 7 時 場所:臨床講堂大講義室 司会:多和田真人助教授(内科学 3),川生 明教授(病理学2)
全身転移を認めた甲状腺濾胞癌の 1 例
要 旨:患者は 76 歳,女性。17 年前に甲状腺腫の診断,悪性も疑われて左葉全摘が行われた。6 年後,肺腫瘍が指摘されたが,悪性所見は得られず,更に 8 年後,頭痛と右肩部に疼痛が出現。 頭蓋窩,肺,リンパ節に転移を認め,内照射と外照射により症状の一時改善がみられたが,1 年 後全身状態が悪化し,入院。肺炎を併発し,死亡した。剖検により肺,肝,腎,肋骨,リンパ節 にサイログロブリン産生性甲状腺濾胞癌の転移性再発が確認された症例である。直接死因は癌の 肺内彌慢性転移と器質化肺炎による呼吸不全とみなされた。濾胞性甲状腺腫瘍の良,悪性の鑑別, 術後の管理,内照射の影響等の問題が議論された。入院時検査所見: WBC 2.08 × 103/µl, RBC 2.43 × 106/µl, Hb 7.4 g/dl, Ht 23.4 %, Plt 71 × 103/µl, MCV 96.3 fl, MCH 30.5 pg, Ret 0.6 %, Ret# 1.37 × 104/µl, TP 6.3 gdl, Alb 3.1 g/dl, T. Bil 0.4 mg/dl, ALP 235 IU/l,γ−GT 62 IU/l, LDH 176 IU/l, GOT 17 IU/l, GPT 8 IU/l, BUN 17 mg/dl, Crtn 1.08 mg/dl, Na 135 mEq/l, K 4.4 mEq/l, Cl 99 mEq/l, Ca 9.4 mg/dl, CRP 1.2 mg/dl, CEA < 1.0 ng/ml, PT 75.5 %, aPTT 31.9 sec, Fib 315 mg/dl, FDP-DD 2.0µg/ml, TSH 5.87µU/ml, f-T3 2.42 pg/ml, f-T4 0.77 ng/dl, Tg 2470.5 ng/ml 入院後経過:入院後も摂食不能のため IVH 管 理とし,激しい疼痛に対して硫酸モルフィン 開始。 平成 9 年 6 月 4 日 38°C 台の発熱をみ,肺炎発 症,2 週間程で軽快。ビフォスフォ ネイト点滴静注で疼痛軽減した。 6 月 30 日再び肺炎。 7 月 3 日より右肩部痛訴え著しく,除 痛目的に局所照射(4 Gy × 7 回)施 行 7 月下旬 T. Bil 1.6 に上昇,肝内 mass 増大認め,腹水出現。 8 月 19 日尿量低下,溢水傾向となる。 また黄疸出現し,CRP 上昇認める。 8 月 25 日血小板低下傾向(+),8 月 28 日歯肉出血。肺水腫出現。 9 月 4 日朝両下腿に皮下出血出現し, 午前 10 時に突如呼吸促迫し,O2 Sat が 6 %低下し 88 %となる。胸部 X-p では前日と比べ著変認めなかっ た が , 午 後 3 時 O2 Sat 64 % , Cons.III-2,午後 6 時 O2 Sat 84 %, 午後 9 時には 91 %と回復し,離握 手可となった。 9 月 5 日 Con I-2 ∼ 3,CRP 32 と急上 昇みられ,O2Sat は 80 台を推移。 午後 9 時 30 分呼吸停止,一時回復 したがまもなく血圧低下し,午前 2 時 11 分死亡。 検査値分析 矢冨 裕助教授(臨床検査医学) (入院時検査所見に関して) 血球減少に関して: WBC2000,Hb 7.4,血 小板 7 万であり,高齢の女性であることを考慮 しても顕著な汎血球減少を認めるとしてよい。 また,赤血球恒数に特に異常を認めず,また, 網赤血球数の増加を認めないこと等より,産生 低下による血球減少と考えられる。放射線治療 の影響が最も考えられるが,癌骨髄浸潤も考慮 する必要がある。 低蛋白血漿(TP 6.3,Alb 3.1):蛋白漏出性 の因子,肝障害による可能性は考えにくく,栄 養障害,蛋白摂取不足の影響が考えられる。 Creatinine 1.08 :クレアチニン産生量は個体 の筋肉量に比較する。本症例は,高齢,女性, 体重が 36 kg,長期臥床を余儀なくされている ことを考慮すると,明らかな高値.腎機能の低 下が考えられる。BUN の上昇が目立たないの は,蛋白摂取不足によりマスクされている可能 性あり。 CEA 正常:本例は濾胞癌であるが,髄様癌 ではカルシトニンとともに CEA が高値を呈す ることが多いことは記憶すべき。 FDP-D ダイマーが軽度高値: DIC を引き起 こすに足る基礎疾患があり,subclinical DIC の 可能性あり。 fT3 低値,fT4 低値,TSH 高値:受け持ちよ り説明あり省略。 サイログロブリン著高:分化型甲状腺癌で上 昇。本例での著高は病勢の悪化を示していると 考えられる。 画像診断 山口元司助手(放射線部) 画像の解釈については特に付け加えることは ない。 本例は放射性ヨード内服療法を実施した患者 であり,放射線科でもフォローしていた。一回 目の治療後サイログロブリンの低下が認められ たが放射性ヨード内服後数カ月にわたって体調 が優れなかったので二回目はなるべくしたくな いという患者の希望があった。そのため通常な xviii
ら 6 ヵ月後に二回目の内服をするところを延期 して様子を見ていた。その後骨転移の症状があ り,サイログロブリンの上昇も著明となり,病 勢の悪化が著明であったのでやむなく二回目の 放射性ヨード内服療法を実施した。汎血球減少 は放射性ヨードの影響が強いものと思うが,通 常は 5 回以上放射性ヨード内服療法を繰り返し た後に骨髄抑制の回復不良となる症例が多いの で,年齢的影響などもあるのであろう。ただ一 回目の治療後骨髄抑制の回復傾向が認められて いたことと他に全身に対して有効な治療法もな いため二回目の治療に踏み切った経緯がある。 放射性ヨードは網内系にも多少取り込まれ,肝 臓も淡く描出されることがあるが,肝実質に放 射線が影響を及ぼすことは殆どない。本例は肝 転移が存在していたので,転移巣には放射性ヨ ードの集積があったと思うが,放射性ヨードの 細胞障害効果は主にベータ線によるものであ り,ベータ線は飛程が 5 ミリメートルほどしか ないことから肝実質には大きな影響を及ぼすこ とはない。外照射に関しては骨の疼痛をある程 度軽減できて有意義だったと思う。 病理所見と診断 平川京子大学院生(病理学 1) 〔病理所見〕(剖検番号 1200)死後 8 時間 39 分 A 肉眼的所見 1.外表:身長 141cm,体重 43.2kg。全身に 黄疸を認める。表在リンパ節は触知せず。 眼球結膜に黄疸,眼瞼結膜に貧血。瞳孔左 右とも 3 mm。 手術瘢痕;右下腹部に 10 cm の手術瘢痕を 認める。 2.体腔液:左胸水 300 cc 黄色透明。右胸水 貯留なし。心嚢液少量。腹水貯留なし。 3.肺臓(左 870 g,右 1070 g):表面右肺下 面胸膜下に白色転移巣あり。右肺 S5 領域 に 1.3 cm × 1.2 cm,S8 領域に 3 cm × 3.2 cm の転移巣が見られる。両肺全葉に 0.5 mm ∼ 5 mm の転移巣を多発性に認め る。右肺門部リンパ節転移。両肺とも上葉 から下葉上部まで炎症が強く,気管支壁に びらんがある。 4.肝臓(1550 g):表面はやや凹凸不整。右 葉 S7 領域を中心に,最大 10 cm × 6 cm × 10 cm の転移巣が 1 個認められ,被膜を有 している。中心が壊死に陥っている。右肝 静脈の壁を圧排している。非腫瘍部は鬱血 が強く nutmeg liver の像を呈している。胆 汁 鬱 血 滞 も 強 く 黄 色 を 呈 す る 。 胆 嚢 は 13 cm × 5.7 cm × 5 cm に膨れ,内容物は 粘張な胆汁であった。胆道系には異常はな く胆汁排泄は陽性。 5.腎臓(左 150 g,右 150 g):左腎上極,下 極,前面に径 1 cm 前後の転移巣を計 4 個 認める。右腎後面にも径 5 mm の転移巣を 1 個認める。左右共に被膜剥離は容易。腎 盂腎杯の拡張は認めない。 6.肋骨:前胸壁の第 6 肋骨に転移が認められ る。 7.頚部:甲状腺全摘されている。周囲に局所 再発は見られない。右頚部リンパ節が 1 個, 8 mm とやや腫大していた。 8.心臓(390 g):左室壁 14 mm,右室壁 4 mm と軽い左室肥大を認める。冠状動脈 の強い狭窄は見られない。 9.食道,胃,小腸,大腸:食道・胃吻合部に 充血がある。静脈瘤は見られない。胃はや や拡張している。小腸内容物はやや血性で 粘膜の一部に軽度の出血が見られる。 10.膵臓:著変なし 11.膀胱:粘膜に軽いびらん。 12.子宮,卵巣:著変なし 13.脾臓(190 g):鬱血を認めるのみ。 14.骨髄:赤色髄。転移性病変を認めない。 15.副腎(左 6.1 g,右 7.3 g):著変なし 16.脊髄:著変なし B 組織学的所見 1.肺臓:不完全な follicle 形成または索状配 列を示す小型の癌細胞が増生して結節を形 成しており細血管に富む。静脈,リンパ管 浸潤も多数認める。これは脳転移巣像と類 似する。非腫瘍部では,肺胞内への赤血球 xix
xx 図 2 生前切除された甲状腺の原発巣。 小型の円形細胞が不完全な folicle を形成しつつ塊状に増生し,コロイドの貯留 はほとんど見られない。 かなり hypervascular な腫瘍で細胞異型は軽度。 × 680 図 1 S5 と S8 の転移巣。周囲との境界は明瞭。
と血漿蛋白の漏出,肺胞内へのマクロファ ージの浸潤,線維芽細胞の増生,膠原線維 の形成が認められ器質化肺炎の像を示す。 硝子膜形成も伴っている。気管支の squa-mous metaplasia を見る所もある。 2.肝臓:肺と同様の腫瘍が見られ被膜を有し ており,静脈リンパ管浸潤も多数認める。 非腫瘍部では,鬱血が強く,中心静脈周囲 の肝細胞の脱落が目立つ。胆汁うっ滞が強 く,ところどころ肝細胞や細胆管内に胆汁 うっ滞が認められる。肝の小葉構造は保た れている。 3.腎臓:肺と同様の腫瘍が見られる。非腫瘍 部では,リンパ球,形質細胞主体の炎症細 胞浸潤が間質にみられ,間質性腎炎の像を 呈する。小葉間動脈に内膜肥厚が見られ, 硝子化糸球体がところどころに見られる。 良性腎硬化症の像を呈する。 4.第 6 肋骨:骨髄の大部分が肺と同様の腫瘍 で占められている。 5.右頚部リンパ節:腫大していたリンパ節に は転移は認められない。 6.心臓:左室壁に軽い繊維化が見られる。 7.食道,胃,小腸:胃と回腸の粘膜面に炎症 細胞浸潤があるが,出血している像は見ら れない。 8.骨髄:やや低形成。 9.脊髄:少数の前角細胞の脱落が見られる。 C 生前の組織学的所見 1.昭和 56 年,甲状腺左葉原発巣:小型の円 形細胞が,未熟なろ胞を形成したり索状配 列を示しながら塊状に増生しておりコロイ ドはほとんど認められない。血管の増生も 強い。細胞異型は軽く,マイトーシスもは どんど見られない。周囲に圧迫された甲状 腺の正常組織が見られ,一部では甲状腺の 被膜を破って周囲の結合織内へ浸潤してい る。脈管浸潤は明らかではない。 2.平成 8 年 5 月,左中頭蓋窩転移巣:原発巣 とほぼ同様の組織型を示し少数のコロイド 形成が見られる。原発巣に比べ細胞異型が やや強く,マイトーシスも 400 倍強拡大で 0 ∼ 4 個見られる。サイログロブリン染色 陽性。 xxi 図 3 肺転移巣。原発巣と類似した組織型を示すが,異型はやや強い。
p. 53 染色を行ったところ,少数の陽性細 胞が見られた。 3.平成 8 年 7 月,右甲状腺周囲リンパ節転移 巣:原発巣とはぼ同様の組織型を示し異型 もやや強い。正常リンパ節の構造は残って いない。サイログロブリン染色陽性。 4.平成 8 年 7 月,肝臓転移巣:原発巣とほぼ 同様の組織型を示し異型もやや強い。サイ ログロブリン染色陽性。 〔病理診断〕 1. 甲状腺癌に対する甲状腺切除および脳転 移巣,右頸部リンパ節転移巣切除後の状 態 2. 転移 a.臓器転移:肺,肝,腎,第 6 肋骨 b.リンパ節転移:右肺門部リンパ節 直接死因:甲状腺癌の肺内びまん性転移と器 質化肺炎による呼吸機能不全 考察 保坂嘉之医員(内科学 3) 本症例は甲状腺濾胞癌が最終的には全身転移 を起こし死亡した一例である。日常診療におい て甲状腺腫大や腫瘤を発見し外科に手術を依頼 する事は多い。また過去に甲状腺腫瘤の摘出を 受けた事があるという患者を診る事も珍しくな い。一般に甲状腺腫瘤の多くは良性病変であり 癌であっても最も頻度の高い乳頭腺癌は予後が 良いため他の癌のような慎重なフォローがなさ れないケースがあると思われる。特に初回治療 後長期間が経過し後で手術時の詳しい内容を調 べようとしてもその時の資料さえ残っていない という事がありうる。 甲状腺癌の予後判定に関しては癌組織の組織 型が重要であり,原発巣に対する手術の際に得 られる組織診断は極めて重要である。それに基 づいて術式のみならず術後の追加的な治療やフ ォローアップのスケジュールがきめられるから である。今回の CPC のポイントの一つであろ う。甲状腺濾胞腺癌は組織学的にもしばしば悪 性良性の鑑別がつきにくく本症例でも不幸にし て術中診断にて“癌”という診断が得られなか ったために術式が葉切除に留まり,その後のフ ォローもきちんとなされない事になってしまっ た。たとえ術中の迅速診断ではっきりとした悪 性所見が得られなくても術後に再び詳細な検討 をしてその結果に基づいて甲状腺全摘のための 再手術を行うべきであった。第 2 のポイントは 肺異常陰影が指摘された時に甲状腺癌の転移と いう診断がされずに治療の機会を再び逸してし まった点である。もし甲状腺癌の肺転移がきち んと疑われていれば CT や細胞診だけでなくよ り詳しい放射線学的な検索や血清学的の検索が 進められていたであろうし患者の予後は伸びて いた可能性があると思われる。 本症例のような予後不良の転帰をたどったケ ースを最初から振り返って検討する事は今後の 診療にとって重要な事であると考える。 xxii