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書評:「絶望を希望に変える経済学:社会の重大問題をどう解決するか」を読んで アビジット・V・バナジー,エステル・デュフロ(著)村井章子(訳)

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Academic year: 2021

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6 行動経済学 第 14 巻 (2021) 6‒9

書評:「絶望を希望に変える経済学:社会の重大問題をどう解決するか」

を読んで

アビジット・V・バナジー,エステル・デュフロ(著)

村井章子(訳)

日本経済新聞出版,2020 年

樋口 裕城

a

1. はじめに

本稿の執筆をお引き受けした経緯から書きたい.経済学 者の仕事は言うまでもなく,学術論文を執筆することだ. とりわけ,私のような若い研究者は,1 本でも多くの査読 付きのジャーナル論文を書くことに時間を使う必要があ る.だが,本書を読み込むことは自分の論文執筆能力に資 すると思い,この書評に時間を使うことにした. 私は開発経済学を専門としている.2019 年のノーベル 賞を受賞した開発経済学者 2 人による本書は,2020 年 4 月に翻訳が出版されたすぐ後に購入した.しかし,2020 年 4 月より現在の勤務校に異動し,新天地でのテレワー クでばたばたしているうちに,積読になってしまってい た.半年後にようやく読みはじめたところ,これは時間を 割いて読むべき本だと即座に思った.特に,トップジャー ナルの過去 20 年分ほどの論文が網羅されているのではな いかと思えるほどの,600 を超える脚注は圧巻であった. 2 章ほど読み終えたところで,本書を薦める旨をツイート したところ,私の twitter にしては多く 100 件ほどの反応 があった.その直後に,本書の書評の依頼が舞い込んでき た(もしかしたら,このツイートがきっかけになったのか もしれない).書評の仕事がそのままジャーナル論文につ ながることはないため,他の書籍ならお断りしたかもしれ ない.しかし,学ぶことが大きそうな本書ならばというこ とで,お引き受けさせていただいた次第である.(それか ら,実証開発経済学者として大学の長期休暇中はここぞと ばかりに途上国に行くが,今回の春休みはコロナ禍でどこ にも行けないため,春休みの間に書評を書く時間的な余裕 があるだろうと思ったという理由もある.)

2. バナジー氏・デュフロ氏の紹介

本書については翻訳が出版されたすぐ後に,大阪大学の 大竹文雄氏らによってタイムリーな書評が書かれている. ただ,今のところ開発経済学者に書かれた日本語の書評は 見あたらない.本稿では,著者のバナジー氏・デュフロ氏 と同じ開発経済学者であるという視点から,本書について 論じる.そのためにまず,簡単に 2 人を紹介する. 2019 年のノーベル経済学賞は,バナジー氏・デュフロ 氏の夫妻と,クレマー氏の 3 名に授賞された.授賞理由は, 「国際的な貧困削減のための,実験的アプローチ (for their

experimental approach to alleviating global poverty)」 だ.臨床医療においては治験として古くから実施されてき たランダム化比較試験 (RCT) を広く社会科学で応用した 点が評価された.なお,2019 年のノーベル経済学賞につ いては,一橋大学の手島健介氏が包括的に解説している1 バナジー氏・デュフロ氏はともに,マサチューセッツ工 科大学 (MIT) で教鞭をとっている.バナジー氏はトップ 5 誌である RES, QJE, AER の編集陣を務めてきた.デュフ ロ氏は,現在の開発経済学の事実上のフィールドトップ誌

a上智大学経済学部

Yuki Higuchi: Faculty of Economics, Sophia University

1 https://sites.google.com/view/keisemi202023-tkrev-nobel2019/ (5/10 最終アクセス)

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7 樋口:書評『絶望を希望に変える経済学:社会の重大問題をどう解決するか』 とも言える AEJ Applied の創刊編集者であり,現在は AER の編集長を務めている.本書は,両氏による 2 冊目 の書籍となる. 1 冊目は,2011 年に出版された「Poor Economics: A Radical Rethinking of the Way to Fight Global Poverty」 だ.翌年,「貧乏人の経済学:もういちど貧困問題を根っ こから考える」というタイトルで翻訳が出版された.私が 大学院に在籍していた頃であり,英語の原著を読み込んだ 記憶がある.この本には,著者らのノーベル経済学賞の授 賞理由として挙げられた研究が,当時はワーキングペー パーであったものを含めて散りばめられている.翻訳書は ベストセラーとなり,RCT の考え方を日本語で広く紹介 する草分け的な書籍となった.それから約 10 年後に出版 された本書も,翻訳が出るやベストセラーとなり,2020 年の日本経済新聞の「エコノミストが選ぶ経済図書」の 1 位にも選ばれた.

3. 本書の概要

本書の狙いは,「良い経済学」を世の中に伝えることだ. 良い経済学とは何かを定義するためにまず,悪い経済学と は何かを考える.著者らによると,それは 2 つある.1 つ は,自称エコノミストが語る経済学だ.自称エコノミスト には,銀行や証券会社のアナリストや,肩書は大学教員だ がジャーナル論文を書かず,経済学に取り組んでいるとは 言い難い経済学者が含まれる.自称エコノミストのほう が,まじめに経済学に取り組んでいる経済学者よりもメ ディアの露出が多く,経済情勢・株価・為替についての無 責任な予測を行う.そのため,「様々な職業の人がその人 の専門について意見を述べた場合に,その意見を信用する か」という質問に対し,1 位:看護師(84%に信用されて いる),…, 下から 2 番目:経済学者(25%),最下位:政 治家(5%)という散々な結果となっている(本書 p. 12). これはアメリカでの調査に基づいているが,日本でも似た ような状況であろう.悪い経済学のもう 1 つは,生半可 な理解の経済学だ.詳しくは後述するが,入門レベルの経 済学の考え方や一昔前の経済学者の主張が,無批判に今日 の政策課題にあてはめられることがしばしばある. このような悪い経済学が世にはびこる中,世界のあちこ ちで分断が進んでいる.ポピュリズムの台頭,貿易戦争, 国際協定や経済同盟からの離脱,少数民族の弾圧,等々だ. 本書が書かれた後の今日においても,アメリカにおけるア ジア系への差別が問題になるなど,分断に関する話題は尽 きない.こうした分断への危機感が,本書の出発点となる. 著者らはトップジャーナルの編集陣を務めながら,常連と して論文を掲載し,現役で経済学に取り組んでいる経済学 者たちだ.超多忙な 2 人に筆を執らせるほどに,分断へ の危機感が強かったということであろう. 良い経済学とは何か.それは,地道に研究を積み重ねて 知識のアップデートを繰り返し,エビデンスと経済理論に 基づいて政策課題を理解し,その対策のための政策立案に 資する経済学だ.ノーベル経済学賞の授賞理由となった RCT も,良い経済学を行うツールの 1 つとなる.途上国 において著者らが実施した RCT により,成績の芳しくな い生徒への個別補習,子どもに予防接種を受けさせるイン センティブとしての親への食糧提供,肥料を買うためのタ イムリーな補助金,超貧困層への包括的な支援等々の有効 性が確認された.その後,こうした施策はより大規模にス ケールアップされた.これこそが,著者らの言う良い経済 学の実践だ.しかしながら,良い経済学の貢献が一般の 人々には知られていないどころか,経済学は役に立たない 学問だと思っている人も多い. 現在の世界の分断の中心にある移民,貿易,不平等,環 境等の問題は,開発経済学の守備範囲だ.著者らは,「富 裕国が直面している問題は,発展途上国で私たちが研究し てきた問題と気味が悪いほどよく似ていることに気づいた (本書 p. 7)」と述べる.悪い経済学が世にはびこり世界の 分断が進む困難な時代(Hard Times)に,良い経済学(Good Economics) を世に知らしめたい.これこそが,開発経済 学者である 2 人が本書「Good Economics for Hard Times」 を執筆した狙いである.

4. 各章の内容

以下に本書の目次を紹介する.そのままでは内容が伝わ りにくい章もあるため,私の意訳による各章のテーマを括 弧内に記載した. 1:経済学が信頼を取り戻すために(はじめに) 2:鮫の口から逃げて(移民) 3:自由貿易はいいことか?(貿易) 4:好きなもの・欲しいもの・必要なもの(差別) 5:成長の終焉?(経済成長) 6:気温が二度上がったら……(気候変動) 7:不平等はなぜ拡大したか(格差) 8:政府には何ができるか(政府の役割) 9:救済と尊厳のはざまで(ベーシックインカム) 結論:よい経済学と悪い経済学(まとめ) 第 1 章には,前節で述べたようなことが書かれている. 本書の核をなすのは今日的な課題である,移民を扱った第 2 章,貿易を扱った第 3 章,差別を扱った第 4 節である. 第 2 節を例として,悪い経済学がどのように悪いかを 説明する.入門経済学の授業では必ず,需要曲線と供給曲 線の交点で均衡価格が決まるというお約束の図を学習す る.この図を用いて労働市場を考えると,労働供給が増え

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8 行動経済学 第 14 巻 ることで,労働市場における価格である賃金が下がるとい うことになる.この理屈を移民にあてはめると,途上国か らの移民の流入により労働供給が増えて,先進国の自国民 の賃金が下がるという結論が導かれる.移民排斥派はこう して理論武装する. だが,本当にそうだろうか?著者らは,データに基づく 実証研究によると,移民流入による賃金の低下は,特定の 状況を除くと一般的には観察されないと結論づける.そも そも,どの国に住む人も母国に愛着があり,周りに家族・ 親戚・友人がいる.先進国の賃金が高いからといって直ち に途上国の人たちが母国を捨てることはないため,移民と しての労働移動は硬直的なのだ.紛争や災害を理由として 途上国からの移民が増えた場合にも,移民は労働を供給す るとともに移住先での財を需要する.これは,財の需要の 増加に伴って,労働需要が増えることを意味する.そうす ると理論的にも,均衡賃金が下がるとは限らず上がる場合 すらありうる.さらに,移民がベビーシッターや家事代行 をしてくれることで,育児を理由とした女性の離職が減る というような,先進国の労働供給を補完する効果も期待さ れる.こうしたことが,近年の研究により明らかになって きたのだ.入門経済学の中途半端な理解に基づくと,移民 は先進国の労働者にとってマイナスだという誤った結論が 導かれる.しかし,近年の研究によるアップデートをふま えた上で経済学の理屈を使って考えると,必ずしもそうし た結論になるわけではないのだ. 第 3 章から別の例を挙げよう.経済学の標準的な考え 方は自由貿易の推奨だ.貿易により,各国が相対的に得意 な産業に特化することで,勝ち組の利益は負け組の損失よ りも大きくなる.そして,勝ち組の利益を用いて負け組の 損失を補填すれば,十分にお釣りがくる. しかし,本当にそうだろうか?近年の研究に基づくと, 話はそんなにバラ色ではない.まず,自分の働く産業が傾 いていることが明らかになったとしても,労働者は自分の 慣れ親しんだ職場にしがみつき,生まれ育った地域から離 れようとしない.高齢者となればなおさらだ.移民の例と 同じく,労働移動は経済学が想定するよりもはるかに硬直 的なのだ.さらに,勝ち組の利益で負け組の利益を補填す ればよいという点も,現実には則さない.アメリカのラス トベルト地域の住民に対しては,貿易により失われた所得 のわずか 1 割しか補填されていないという研究がある.盲 目的に自由貿易を礼賛することは,勝者と敗者の間の格差 拡大を黙認することになり,社会不安につながる. 冒頭で本書には 600 以上の脚注があると述べた通り, 第 2・3 章のいずれでも,膨大な数の研究が紹介されてい る.経済学の研究の進展に伴い,現実世界は入門経済学の 世界で想定されるほどは単純ではないことが明らかになっ てきた.やや乱暴に言うと,生半可な経済学の知識に基づ いて社会の重大問題に結論を出すことは危険で,現実に即 した新しい研究成果をふまえながら,もう少し深く考える 必要があるということだ. 第 4 節では,差別の問題が扱われる.Facebook などの SNS も活用しつつ RCT と実験室実験を組みあわせること で,実証研究の目覚ましい進展がみられるテーマだ.ごく 最近の研究として,トランプ氏の当選後には反移民感情を 公にすることへの抵抗が減ったことを実証した研究や,異 なるカーストを混ぜたチームで 8 か月間クリケットをプ レーすることでカースト間差別が減ったことを実証した研 究などが紹介されている.いずれもワーキングペーパーと して引用されているが,前者は 2020 年の AER に刊行さ れ,後者は AER に近刊だ. 第 5 章では経済成長,第 6 章では気候変動,第 7 章で は格差と,より伝統的に開発経済学が扱ってきた問題が取 りあげられている.いずれも,古典となる研究を紹介しな がら,近年の研究によるアップデートが中心に据えられ る.やや話が発散してしまっている箇所があるが,カバー されている話題が多く,情報量は多い. 第 8 章は短い章で,政府の役割が議論されている.こ こまでの議論をふまえ,良い経済学に基づいて政府は必要 な介入を行うべきだということが主張されている.労働移 動が硬直的である限り貿易による敗者は必ず生まれるが, 政府による適切な補填や支援により格差の拡大を抑制でき るといった話だ. 第 9 章の内容は,本書の中で最も目新しい議論のよう に思われる.現物給付や条件付き現金給付と比較しなが ら,途上国におけるベーシックインカムの優位性に関する 著者らの意見が述べられる.快適な生活を送れるほど多額 の所得給付は財源の観点から現実的ではないため,ミニマ ムな生活を送れるだけの「ウルトラ」ベーシックインカム が提唱される.最低限の現金給付であれば,よりよい生活 を求める労働意欲をクラウドアウトしないであろうという 理屈だ.ただし,著者らも参加する大規模な RCT が現在 進行中であり,断定的な結論は留保されている.

5. 結びにかえての雑感

2015 年に東京大学で「“Poor Economics” in Tokyo」と いうワークショップが開催され,バナジー氏とデュフロ氏 の両氏が基調講演を行った.私は出張中で参加できなかっ たため後日また聞きした話だが,レセプションで若手経済 学者が両氏にトップジャーナルに論文を載せる秘訣を尋ね た.すると,「トップジャーナルの論文しか読まないこと」 という回答だったとのことだ.実際に,本書で引用されて いる経済学の文献のほとんどは,トップ 5 誌に掲載され た論文か,のちにトップ 5 に掲載される可能性の高そう なワーキングペーパーだ.伝統的な開発経済学のフィール ドトップ誌である JDE ですら,1 本も引用されていない.

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9 樋口:書評『絶望を希望に変える経済学:社会の重大問題をどう解決するか』 そう考えると,著者らの言う良い経済学とは,トップ 5 誌 に掲載される研究だとも思えてくる.確かに,トップ 5 は まじめに経済学に取り組む経済学者の多くの目標だ.トッ プジャーナルしか読まないという話を聞いた時にはなるほ どと思ったが,本書を読んだ後に改めて考えると,トップ ジャーナル偏重には問題もある.まず,トップ 5 誌の編 集陣であり常連として論文を掲載している著者らは,強い アジェンダセッティングの力を持ち,良い経済学を定義で きる立場にある.関連して,代表性の問題がある.トップ 5 の論文は,そのほとんどがアメリカに籍を置く研究者に よって書かれている(ごく一部のみ,イギリスを中心とす る EU 諸国の研究者によって書かれている).開発経済学 に関して言えば,貧困削減の核となるプレーヤーは途上国 の政策立案者や市民であるはずだが,アメリカの研究者の 声が大きい状況なのだ. さらに,非常に残念なことに本書で引用されている文献 に,日本人もしくは日本に籍を置く研究者によって書かれ た論文は(おそらく)ゼロだ.日本だけでなく,アジアや アフリカに籍を置く研究者によって書かれた論文も,ほと んど無い.そうすると,非欧米圏からの良い経済学への貢 献は限定的であるということになってしまう. このような傾向はまさに著者らが普及した RCT の台頭 により拍車がかかっている.20 年前のトップジャーナル には,RCT を用いた開発経済学の研究はゼロであったが, 現在は 40%を占めるまでに増えている2.そもそも RCT の実施には莫大な費用が必要となるが,近年の実証研究の スタンダードの上昇に伴い,要求されるサンプルサイズが 大きくなってきている.こうした状況下では,著者らが MIT に設立した研究所である J-PAL や国際機関である世 界銀行など,資金力を備える組織と協力して大規模 RCT を行わない限りは,トップ 5 への道のりは遠い.良い経 済学のための論文の生産活動が,一部のアメリカの研究者 に寡占化されつつあるのだ. 著者らが RCT を普及し始めてから 20 年が経ったが, アフリカの多くの国は貧しいままだという紛れもない現実 がある.結局のところ,RCT はいくぶんかの貧困削減に は貢献できたとしても,一国の経済成長にはつながらない のか?第 5 節で著者らは,経済成長の秘訣はわからない と匙を投げてしまっている.他方,戦後の焼け野原から出 発し,そこまで格差を拡大させることなく豊かになった日 本は,経済成長のお手本の 1 つであると言えよう.それ にもかかわらず,日本に関しては,「政府が積極的な産業 政策を導入し(今日でもある程度はそうだ),どの産業を 輸出産業として振興すべきか,どこにどれだけ投資すべき かを指導していた(本書 pp. 269‒270)」との記述がある だけで,その産業政策が効いたかどうかもよくわからない と片付けられてしまっている.歴史の丁寧な検証や他国と の比較により,経済成長に成功した日本や他の東アジア諸 国の経験から学べることは大いにあるのではないかと思 う.しかし残念なことに,トップジャーナルに載らない限 りは,こうした知見が良い経済学だと見なされることはな い.そう考えると,トップ誌に論文を載せることのできる 経済学者とそれ以外の間に,まさに本書の出発点である 「分断」が生じているように思えなくもないのである.

2 Arvind Subramanian and Devesh Kapur (5/10 最終アクセス) “The Absent Voices of Development Economics.” https://

www.project-syndicate.org/commentary/why-does-the-global- north-dominate-development-economics-by-arvind-subramanian-and-devesh-kapur-2021-03

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