がき、リード:菅野盾樹訳、経験のための 戦い―情報の生態学から社会哲学へ、新曜社、 東京、246-247. 57) 佐々木正人(2000):エドワード・S・リー ドの仕事、リード:細田直哉訳、アフォー ダンスの心理学-生態心理学への道、新曜 社、東京、417. 58) リード:菅野盾樹訳(2010):経験のため の戦い―情報の生態学から社会哲学へ、新曜 社、東京、12. 59) 佐々木(2000):前掲書、417. 60) リード:菅野訳(2010):前掲書、13. 61) リード:菅野訳(2010):同上書、131. 62) 菅野(2010):前掲書、247. 63) リード:菅野訳(2010):前掲書、14-15. 64) リード:菅野訳(2010):同上書、148. 65) 文部科学省国際統括官付日本ユネスコ国内 委員会(2018):ESD(持続可能な開発のた めの教育)推進の手引 平成 30 年 5 月改訂、 3-10. 文部科学省HP 内: https://www.mext.go.jp/unesco/004/__icsFi les/afieldfile/2018/07/05/1405507_01_2.pd f(2020 年 8 月 29 日掲載確認). 66) 長沼豊・大久保正弘編著、バーナード・ク リックほか:鈴木崇弘・由井一成訳(2012): 社会を変える教育 Citizenship Education 〜英国のシティズンシップ教育とクリッ ク・レポートから〜、キーステージ 21、東 京、12-13. (令和2 年 6 月 4 日受付) (令和2 年 9 月 18 日受理) 鎌倉女子大学短期大学部 〒247-8512 鎌倉市大船 6-1-3
Kamakura Women's University Junior College 6-1-3 Ofuna, Kamakura(247-8512)
The purpose of this paper is to analyze Kerschensteiner’s historical theory of outdoor education-specifically, his concept of “labor school-as formulated during Europe’s new education movement in the 1920s and 1930s. This concept is compared and contrasted with the traditional definition of outdoor education as “in outdoor, about outdoor, and for outdoor” as well as a more modern definition of outdoor education, which consists of three elements: by the natural environment, all events around the self, and one’s own self. This analysis is focused on understanding Kerschensteiner’s objectives and methodology, as well as his attempt to more deeply understand the meaning and value of “outdoor education”. In addition, this analysis compares his approach to some of the experiential learning systems that are currently used in Japan.
Three characteristics of outdoor education were identified as a result of this analysis. First, that the fundamental meaning of outdoor education is to build a more mature human being through practical actions and repeated introspection while in outdoor environments. Next, that outdoor education itself has a fundamental educational purpose of encouraging people to contribute to society in order to make a better world. Finally, that outdoor education encourages the growth a well-rounded character by providing students with valuable experiences that they wouldn’t have otherwise.
Key words: Outdoor Education, Labor Education, Experiential Learning, Kerschensteiner, New Education Movement
J-STAGE Advance Published date: Feb.8, 2021
野外教育の「教育特性」についての理論的解明の試み
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「労作教育」の思想概念との比較による理解から -
西島 大祐
Theoretical Analysis of the Educational Characteristic:
A Comparison between Outdoor Education and Labor Education
1.はじめに 「野外教育とは何か」といった問いを与えら れた時、それが一言で答えの出せるものでない ことは野外教育に携わる者にとってよく理解 されていることである。その理由を簡単に述べ るならば、野外教育の持つ意味が「野外」での 「教育」といった単純な語の形成に留まらず、 実際の活動で取り扱われる内容の特性や価値、 またはそこに関わる人の考え方によって異な るためといえる。この「野外教育とは何か」と いう極めて原理的な疑問の解明は、野外教育研 究における一つの課題として残されている。 野外教育という語の定義はこれまでも様々 なところで議論され、模索されてきた。星野 1) は、「野外教育」の用語そのものについては日 本野外教育学会においても明確で一義的な定 義づけはしておらず、その理由として野外教育 が教育学そのものの持つ複雑さと幅の広さに あること、そして関係する人の立場によって多 様に解釈されてきた歴史的背景があることを 挙げている。そのため野外教育の研究・実践に あたっては、「野外教育」という語句に国内外 の見解をもとにした一定の定義づけをし、その 上で臨んでいるものも多いといえる。 「野外教育」という語句は Sharp, L. B. 2) に よ っ て 1943 年 に 用 い ら れ た “ Outdoor Education”という学術用語を語源とする考え 方が一般的であり、その後の Donaldson, G. W.3) による“in outdoor(野外における)”、“about outdoor(野外についての)”、“for outdoor (野外のための)”という語を用いた野外教育 の定義4)や、Priest, S.5)による「野外教育の木」 による野外教育の構成要素を示した解説が、わ が国の野外教育研究に大きく影響を与えてい る。わが国の野外教育はアメリカからの影響を 強く受けながらここまで育ってきたといえ、そ の教育方法は J.デューイや W.キルパトリック を代表するような進歩主義・経験主義に寄ると ころが大きい6)。江橋7)は野外教育の特色には、 ①教科の方法、②直接体験、③予期せざる学習 場面、④総体としての自然・環境の理解、⑤創 作・創造の機会、といったものがあると述べて いる。 わが国では野外教育の定義づけを行う際に、 文部省(現文部科学省)の「青少年の野外教育 の充実について」という報告書8)の中にある「自 然の中で組織的、計画的に、一定の教育目標を 持って行われる自然体験活動の総称」という文 言が用いられることが多い。このように野外教 育の教育方法についての多様性を認める定義 がある一方、教育の本質性に目を向けた説明も 見られる。小森 9)は野外教育の三大学習要素を ①地球・自然環境、②周囲の出来事(他存在)、 ③その人自身(自己:自分自身)との関わりと した上で、これらの要素についての「肯定的な 理解と実行動の促進を強く意識する(p.11)」 場合において、野外教育が全人的な教育実践に なり得るとしている。また、創造的で調和的な 生き方を育む包括的かつ統合的な教育として 野外教育が「ホリスティック教育」に繋がると する。 これらのようにわが国でも野外教育に対す るいくつかの見地があるものの、星野 10)は① 「野外教育が何を目標とする教育なのかを明 らかにすること」、②「野外教育の独自性はど こなのかを明らかにすること」、③「experience (体験)の意味(野外体験というのは人間にと って何なのか)を明らかにしていくこと」、と いったバンダースミッセン 11)の指摘した野外 教育学の 3 つの課題についての研究が、わが国 では未だ不十分であるという見解を示してい る。わが国の野外教育研究においては近年、こ れら 3 つの課題の解明に向けた研究も行われる ようになった。特に野外教育のもつ特性を「野 外」と「教育」に分けて明らかにする試みがさ れてきたといえる。 「野外」の概念に焦点を当てたものには、例 えば土方12)13)のように野外教育を「風土」とい う概念から捉え、「野外」という用語の解釈に
1.はじめに 「野外教育とは何か」といった問いを与えら れた時、それが一言で答えの出せるものでない ことは野外教育に携わる者にとってよく理解 されていることである。その理由を簡単に述べ るならば、野外教育の持つ意味が「野外」での 「教育」といった単純な語の形成に留まらず、 実際の活動で取り扱われる内容の特性や価値、 またはそこに関わる人の考え方によって異な るためといえる。この「野外教育とは何か」と いう極めて原理的な疑問の解明は、野外教育研 究における一つの課題として残されている。 野外教育という語の定義はこれまでも様々 なところで議論され、模索されてきた。星野 1) は、「野外教育」の用語そのものについては日 本野外教育学会においても明確で一義的な定 義づけはしておらず、その理由として野外教育 が教育学そのものの持つ複雑さと幅の広さに あること、そして関係する人の立場によって多 様に解釈されてきた歴史的背景があることを 挙げている。そのため野外教育の研究・実践に あたっては、「野外教育」という語句に国内外 の見解をもとにした一定の定義づけをし、その 上で臨んでいるものも多いといえる。 「野外教育」という語句は Sharp, L. B. 2) に よ っ て 1943 年 に 用 い ら れ た “ Outdoor Education”という学術用語を語源とする考え 方が一般的であり、その後の Donaldson, G. W.3) による“in outdoor(野外における)”、“about outdoor(野外についての)”、“for outdoor (野外のための)”という語を用いた野外教育 の定義4)や、Priest, S.5)による「野外教育の木」 による野外教育の構成要素を示した解説が、わ が国の野外教育研究に大きく影響を与えてい る。わが国の野外教育はアメリカからの影響を 強く受けながらここまで育ってきたといえ、そ の教育方法は J.デューイや W.キルパトリック を代表するような進歩主義・経験主義に寄ると ころが大きい6)。江橋7)は野外教育の特色には、 ①教科の方法、②直接体験、③予期せざる学習 場面、④総体としての自然・環境の理解、⑤創 作・創造の機会、といったものがあると述べて いる。 わが国では野外教育の定義づけを行う際に、 文部省(現文部科学省)の「青少年の野外教育 の充実について」という報告書8)の中にある「自 然の中で組織的、計画的に、一定の教育目標を 持って行われる自然体験活動の総称」という文 言が用いられることが多い。このように野外教 育の教育方法についての多様性を認める定義 がある一方、教育の本質性に目を向けた説明も 見られる。小森 9)は野外教育の三大学習要素を ①地球・自然環境、②周囲の出来事(他存在)、 ③その人自身(自己:自分自身)との関わりと した上で、これらの要素についての「肯定的な 理解と実行動の促進を強く意識する(p.11)」 場合において、野外教育が全人的な教育実践に なり得るとしている。また、創造的で調和的な 生き方を育む包括的かつ統合的な教育として 野外教育が「ホリスティック教育」に繋がると する。 これらのようにわが国でも野外教育に対す るいくつかの見地があるものの、星野 10)は① 「野外教育が何を目標とする教育なのかを明 らかにすること」、②「野外教育の独自性はど こなのかを明らかにすること」、③「experience (体験)の意味(野外体験というのは人間にと って何なのか)を明らかにしていくこと」、と いったバンダースミッセン 11)の指摘した野外 教育学の 3 つの課題についての研究が、わが国 では未だ不十分であるという見解を示してい る。わが国の野外教育研究においては近年、こ れら 3 つの課題の解明に向けた研究も行われる ようになった。特に野外教育のもつ特性を「野 外」と「教育」に分けて明らかにする試みがさ れてきたといえる。 「野外」の概念に焦点を当てたものには、例 えば土方12)13)のように野外教育を「風土」とい う概念から捉え、「野外」という用語の解釈に 努めたものや、前田14)や高野15)のように「場所」 や「地域」といった観点から野外教育の特性を 考察したものがある。また井村 16)17)のように、 野外教育の「源流」といった観点から修験道や 登山という文化財をベースにした野外教育の 歴史観を整理したものや、わが国における「野 外教育」の語の歴史的背景をまとめたものもあ る。これらの研究はすべて「野外教育とは何か」 を明らかにするために重要なものとして評価 でき、我々に野外教育における「野外」がどの ような特性を持つのかを理解させる一助とな っている。しかしながら、どれも野外教育の部 分的な解明に留まっており、「野外教育とは何 か」という全体像を明らかにするに至ったもの ではない。当然ながら「野外教育とは何か」と いう問いに対する解を求めることは、すなわち 「野外とは何か」、「教育とは何か」といった哲 学的命題に答を求めるのと同様困難を極める ことであり、ここに述べたような研究を一つ一 つ積み重ねていくことでしか、解に近づくため の有効な手段はないといえる。 野外教育の特性や価値といった観点からの 研究については、「教育」へのアプローチがい まだ乏しいという現状もある。教育的な概念と いった視点からアプローチした近年の研究の 例を挙げるとすれば、張本ら18)の「教育」と「体 験」といった視点から野外教育の課題や展望を 示しているものがある。また張本19)には、イニ シエーションという視点から「冒険教育」の持 つ通過儀礼的な構造を明らかにすることを試 みた研究もある。これらのように野外教育の 「野外」の部分だけではなく、「教育」のもつ 要素に焦点を当てた研究がより必要になるの ではないかと考えるものの、実際のところ野外 教育における「教育」に焦点を当てた研究とい うものはなかなか進んでいないと言わざるを 得ない。もちろん野外教育をわざわざ「野外」 と「教育」に分けて考える必要がないという批 判もあろうかと思う。しかしながら依然として これまでわが国において野外教育における「教 育」の特性に焦点を当てて研究したものが少な いことを考えると、野外教育における「教育」 へのアプローチは今後においても意味のある ものと考える。前述したような野外教育のもつ 「全人教育」や「ホリスティック教育」に繋が る教育特性に焦点を当てることで、「野外教育 とは何か」といった問いに対する解にまた一歩 近づくことになるのではないだろうか。 さて、わが国の野外教育の思想的基盤はアメ リカから受けた影響が大きいものの、西洋で 1800 年代後半から生じ た新教育運動のよう に、”Outdoor Education”という語句が広ま るまでに育まれた教育思想の基礎は様々なと ころにあり、教育思想の歴史においては、西洋 の新教育運動が現代の教育に大きな影響を与 えているといった見方もできる。西島20)は、冒 険教育の基礎として知られるクルト・ハーンも 新教育運動に影響を受け自身の教育活動を発 展させた一人とする。 西洋に端を発する新教育運動は、わが国にお いても大正期以降に「大正自由教育」として大 きな影響を与えている。小原21)が 1921 年の「八 大教育主張」で述べた「全人教育」の思想や、 全人教育の一環として実践される「労作教育」 が代表的な例として挙げられるだろう。特に 「労作教育」の方法原理は、体験をふりかえり 深化させることで性格形成を行っていくとい う面で、野外教育のような体験学習やアクティ ブ・ラーニングを基礎として捉える教育方法と 共通しているところがあり、教育そのものの潮 流を読み取るには大きなヒントとなる。 本稿では、野外教育のもつ「教育」の部分に 焦点を当て、野外教育の教育特性を「労作教育」 の概念との比較によって明らかにすることを 目的とする。特に野外教育と労作教育の教育目 標の共通点を確認し、野外教育が「何を目標と する教育なのか」といった課題に一定の解を与 えることを目指す。そのための手順としては次 の通りとする。まず Sharp 以前の野外教育史へ のアプローチが必要と考え、新教育運動と野外
教育史の関係性を整理し、新教育運動の代表例 の一つである「労作学校」及びその理念となる 「労作教育」というものが国内外でどのように 評価されてきたのかを確認する。次に、「労作 教育」の提唱者であるケルシェンシュタイナー に注目し、彼の労作教育の教育的概念を引き出 すこととする。そしてその上で、野外教育と労 作教育との比較を行いながら、野外教育の教育 特性を明らかにしていくものとする。 2.新教育運動の観点から捉える野外教育史 2.1.新教育運動と野外教育史の関係性 ここではまず本研究の立場を明らかにする ために、新教育運動と野外教育の歴史の関係性 を確認していきたい。 野外教育の学術的基盤には、一般的に Sharp の用いた”outdoor education”が挙げられる ことは前述した通りである。星野22)23)は「シャ ープの野外教育の原点には、もともとルソーや ペスタロッチからデューイへと続く、人間の自 然性の尊重や体験を重視した教育哲学、教育思 想の流れがあり、シャープは、これら先人たち の教育思想、教育哲学を『野外教育』という形 にして教育現場に応用しようとした」と、Sharp の教育観を確立させるに至る野外教育の歴史 的背景を述べている。また小森24)も、野外教育 の思想的背景としてルソーやペスタロッチ、そ してその後に続くデューイの名を挙げており、 このような歴史的背景を認める傾向は強い。ペ スタロッチからセシル・レディの「アボッツホ ルム」やヘルマン・リーツの「田園教育塾」、 デューイの「進歩主義教育」へと向かう、19 世 紀後半から 20 世紀前半にかけての教育運動を 「新教育運動」というが、この新教育運動はこ れまで世界中に教育改革をもたらしてきたと いえる。星野25)はさらに、アボッツホルムや田 園教育塾をアメリカやわが国の野外教育と同 じように比較はできないとしながらも、「ヨー ロッパの新教育運動に影響を及ぼしたものが ①青年による野外活動、ワンダーフォーゲル運 動であったこと、②産業化、都市化への反動か らの自然への回帰であったこと、③新教育運動 の内容が労作教育、自然教育、生活教育や児童 中心の教育であったこと、④通学ではなく寄宿 舎での共同生活を基準としたこと、さらには⑤ ドイツ田園教育舎の教育がクルト・ハーンによ ってイギリスに渡り冒険教育へと発展してい ったこと(p.3-4)」という 5 点の理由から、ヨ ーロッパの新教育運動の内容がヨーロッパ型 の野外教育であったと考えてよいであろうと 述べている。 本研究ではこれらの見解をもとにして、19 世 紀後半から 20 世紀前半に至る当時の新教育運 動による西洋教育思想がその後の野外教育思 想に影響を与えたという立場をとり、この先の 論考を進めていくこととする。ちなみに本研究 の立場はキャンプやその他野外活動を含めた 野外教育の歴史そのものが古くから存在して いるということを否定するものではない。これ までの教育の歴史や思想を整理し、現代野外教 育思想と比較するための手段として、本研究で は「新教育運動」時代の「労作教育」という一 つの代表的な教育事例に焦点を当てることと する。 また、この研究そのものが「ペスタロッチ主 義」に依存しているだけのものでないかと揶揄 される可能性について、先に反論しておきたい。 確かに本研究が「ペスタロッチ主義」による教 育史観を前提にしていることは認めるところ である。しかしながら「教育」そのものを考え る際に、ペスタロッチが現代の教育界全体に大 きな影響を与えた人物であることを否めるも のではない。そのことは野外教育史においても 明確で、ペスタロッチの与えた影響がその後の デューイや Sharp に至っていることを改めて申 し添えておきたい。 2.2.「労作教育」の歴史的な位置づけと評価 20 世紀初頭、ヘルバルト主義の教育が国家官
教育史の関係性を整理し、新教育運動の代表例 の一つである「労作学校」及びその理念となる 「労作教育」というものが国内外でどのように 評価されてきたのかを確認する。次に、「労作 教育」の提唱者であるケルシェンシュタイナー に注目し、彼の労作教育の教育的概念を引き出 すこととする。そしてその上で、野外教育と労 作教育との比較を行いながら、野外教育の教育 特性を明らかにしていくものとする。 2.新教育運動の観点から捉える野外教育史 2.1.新教育運動と野外教育史の関係性 ここではまず本研究の立場を明らかにする ために、新教育運動と野外教育の歴史の関係性 を確認していきたい。 野外教育の学術的基盤には、一般的に Sharp の用いた”outdoor education”が挙げられる ことは前述した通りである。星野22)23)は「シャ ープの野外教育の原点には、もともとルソーや ペスタロッチからデューイへと続く、人間の自 然性の尊重や体験を重視した教育哲学、教育思 想の流れがあり、シャープは、これら先人たち の教育思想、教育哲学を『野外教育』という形 にして教育現場に応用しようとした」と、Sharp の教育観を確立させるに至る野外教育の歴史 的背景を述べている。また小森24)も、野外教育 の思想的背景としてルソーやペスタロッチ、そ してその後に続くデューイの名を挙げており、 このような歴史的背景を認める傾向は強い。ペ スタロッチからセシル・レディの「アボッツホ ルム」やヘルマン・リーツの「田園教育塾」、 デューイの「進歩主義教育」へと向かう、19 世 紀後半から 20 世紀前半にかけての教育運動を 「新教育運動」というが、この新教育運動はこ れまで世界中に教育改革をもたらしてきたと いえる。星野25)はさらに、アボッツホルムや田 園教育塾をアメリカやわが国の野外教育と同 じように比較はできないとしながらも、「ヨー ロッパの新教育運動に影響を及ぼしたものが ①青年による野外活動、ワンダーフォーゲル運 動であったこと、②産業化、都市化への反動か らの自然への回帰であったこと、③新教育運動 の内容が労作教育、自然教育、生活教育や児童 中心の教育であったこと、④通学ではなく寄宿 舎での共同生活を基準としたこと、さらには⑤ ドイツ田園教育舎の教育がクルト・ハーンによ ってイギリスに渡り冒険教育へと発展してい ったこと(p.3-4)」という 5 点の理由から、ヨ ーロッパの新教育運動の内容がヨーロッパ型 の野外教育であったと考えてよいであろうと 述べている。 本研究ではこれらの見解をもとにして、19 世 紀後半から 20 世紀前半に至る当時の新教育運 動による西洋教育思想がその後の野外教育思 想に影響を与えたという立場をとり、この先の 論考を進めていくこととする。ちなみに本研究 の立場はキャンプやその他野外活動を含めた 野外教育の歴史そのものが古くから存在して いるということを否定するものではない。これ までの教育の歴史や思想を整理し、現代野外教 育思想と比較するための手段として、本研究で は「新教育運動」時代の「労作教育」という一 つの代表的な教育事例に焦点を当てることと する。 また、この研究そのものが「ペスタロッチ主 義」に依存しているだけのものでないかと揶揄 される可能性について、先に反論しておきたい。 確かに本研究が「ペスタロッチ主義」による教 育史観を前提にしていることは認めるところ である。しかしながら「教育」そのものを考え る際に、ペスタロッチが現代の教育界全体に大 きな影響を与えた人物であることを否めるも のではない。そのことは野外教育史においても 明確で、ペスタロッチの与えた影響がその後の デューイや Sharp に至っていることを改めて申 し添えておきたい。 2.2.「労作教育」の歴史的な位置づけと評価 20 世紀初頭、ヘルバルト主義の教育が国家官 僚主義のもとで硬直化・形式化されたという反 動から、すべての人間を覚醒し、新たな価値あ る生活を築いていこうとするドイツの教育改 革運動が生まれ、それが芸術教育運動、労作教 育運動、田園教育塾、統一学校運動として展開 された 26)。「労作教育」は今日のわが国の教育 現場でも十分に知られた言葉であり、現在にも 受け継がれてきたものであるといえる。この労 作教育であるが、提唱した代表的な人物にはド イ ツ の G. ケ ル シ ェ ン シ ュ タ イ ナ ー (Kerschensteiner, G., 1854-1932)が挙げら れる。彼は「労作(Arbeit)」という概念に注 目し、「労作学校(Arbeitsschule)」を主張し た。ケルシェンシュタイナーは 1908 年にスイ スのチューリッヒで行われたペスタロッチの 第 162 回生誕祭での祝辞で『ペスタロッチ精神 における未来の学校』という演題を選び、その 演題で示した学校のことを「労作学校」と名付 けたという 27) 。この時に話された労作そのも のの教育的意義とは、「(1)身体的な『手の労 働』を通しての『精神の活性化』、(2)家庭、 地域労働の学校生活への導入、(3)協同作業に よる社会的性格の形成、という三点が特に重要 視されている(p.53-54)」28)ものであった。 彼の弟子の Dolch, J. 29)によれば、労作学校 という言葉は 1800 年頃のペスタロッチの時代 から今日的な意味で使われていたとし、「労作 学校の理念は教育論一般と同様に古い(p.42)」 としながらも、「理念をつくりあげ、それを基 礎づけ、ついでその実施を要求しただけでなく、 それを実験し、広く実行したという意味におい て、歴史的功績はケルシェンシュタイナーに帰 する(p.42)」と述べている。 髙橋30)は、ケルシェンシュタイナーがデュー イから学校教育の組織化といった点で大きな 影響を受けているとするが、ケルシェンシュタ イナーの労作観は子どもの心理学的要因と社 会経済的要因のバランスの上に構成されてき たデューイの労作観に比べ、心理学的な傾向が 強いとも指摘する。また、20 世紀初頭の労作学 校には「①子どもの自己表現的・構成的活動と、 産業社会における基本的諸活動との統合を志 向したデューイ、②子どもの自己活動による教 授法の改革から、職業陶冶(技能形成と性格形 成)への道を辿ったケルシェンシュタイナー、 ③工業社会における総合技術教育の必要性を 理論的に基礎づけたブロンスキー(p.23)」と いった 3 つのタイプの特徴があったとする。 ケルシェンシュタイナーの労作教育は、一言 でいえば「原理として」のものと「教科として」 のものの二つに分けて考えることができる。東 岸31)の言葉を借りるとすれば、原理としての労 作教育は、「本能、衝動的、盲目的活動から、 客観的価値の実現に努力する目的活動として の労作へと、人間の活動及びその態度を指導す ることを目指す(p.195)」とし、教科としての 労作は、「活動の主体としての子どもの立場に 立ち、目的活動の追求の仕方、目的活動の手段、 その仕方、計画の仕方等の修練を目指し、原理 に対して方法的な役割を持ち、いわば車の両輪 のように密接な関係にある(p.195-196)」とす る。いわば前者を「徳育的」なもの、後者を「実 際的」なものと考えることができるだろう。 尚、ケルシェンシュタイナーに関する研究は わが国でも数多く、どのような研究がこれまで 行 わ れ て き た か に つ い て は 、 殊 に 山 崎 32)33)34)35)36)37)が詳しく、論文が体系的にまとめら れたものもある38)。また、わが国における労作 教育の実践は小原國芳の影響が大きい。小原39) は教育の根本が労作教育にあると述べており、 「労作」と日本語に訳すにあたって、「作」は 作業の作ではなく創作の作だとし、「合わせて 『労作』と名づけた(p.114)」とする。 3.ケルシェンシュタイナーによる「労作教育」 の教育特性とは 3.1.ケルシェンシュタイナーの人物 労作教育の代表的な提唱者として評される ケルシェンシュタイナーは、一般に改革教育学
の人物として挙げられることが多い。彼の主な 経歴は次の通りである。 1871 年、師範学校の卒業後に 17 歳で教職に 就くが、その後 1877 年にギムナジウムに編入 する。ミュンヘン大学の卒業後、ミュンヘンの 中央気象台技師を経てギムナジウムの教師に、 その後 1895 年にミュンヘンの視学官となる。 1906 年にはベルリンの学務官を、1912 年には 国会議員となる。1919 年にはミュンヘン大学の 名誉教授となる。1928 年には、ミュンヘン工科 大学から名誉工学博士を、ドレスデン工科大学 からは文化科学名誉博士を受けている40) 。 O.F.ボルノー41)によれば、ケルシェンシュタ イナーは「改革教育学の代表者たちに顕著だっ た、感情を強調する非合理的な特徴をすこしも 持たず、自然科学の分野から現われ、その精神 を身につけ、極めて冷静で実際的な性格の人で あった(p.18)」とする。また、彼の根本概念 が「即事態性(Sachlichkait)」42)にあるとし、 広い意味での「公民教育」にふさわしい手段と して、実際の「労作」を性格形成と直接に関連 させて考えたとした。ここでの「即事態性」に ついては後に詳しく述べることとするが、ボル ノーは彼と理論的に対立した H.ガウディヒ 43) とともに、「今世紀(20 世紀)の初めに教員の すべて、特に国民学校の教師たちを熱中させた」 と当時の彼らの影響の強さを評価している。米 山44)は、ケルシェンシュタイナーとガウディヒ との間には「公民の育成」と「固有の自我」の 実態に違いがあったとする。ケルシェンシュタ イナーの目指すところは「国家に奉仕する道徳 的市民の形成」であり、ガウディヒは「自由な 精神の自己活動であり、個人主義」であったと いうものである。この論争はお互いに理解し合 うことで終結している45)。 ケルシェンシュタイナーの有用な公民の育 成といった教育の方向性は、クルト・ハーンと 共通するところが大きい。Röhrs, H.は、改革 教育学の実践者としてハーンの教育活動を認 めていた46)。しかしながらハーンの場合はケル シェンシュタイナーと違い、ヒトラーやナチス との対立といった時代的な影響から民族主義や 国家主義に抵抗してきたという特性もある47)。 ちなみにワンダーフォーゲル運動が始まる もっと前より、当時ギムナジウムの教師であっ たケルシェンシュタイナーは生徒と一緒にハイ キング行事を相当数行っていたといわれる 48)。 東岸によれば、「労作教育は、当時のドイツに おけるワンダーフォーゲル運動など自然的・ロ マン的運動の社会的背景に支えられ、ケルシェ ンシュタイナーによってまとめられた」として いる49)。 3.2.ケルシェンシュタイナーによる「労作 の教育的概念」とは ここでは、1925 年にケルシェンシュタイナー が『労作学校の概念』という著書の第 6 版に追 加した『労作の教育的概念』50)という論文をも とに、彼の労作観を整理していきたい。ここに 述べられているケルシェンシュタイナーの教 育に対する価値観は、彼の後期のものといって 差し支えないと思うが、この時期の彼は「原理 と し て 」 の 労 作 に 比 重 を 置 く こ と と な る 51)52)53)54) 。彼はこの論文の中で「放任の教育学」 を否定し、生徒が自発的に「事物そのものの訓 練」に従う時にのみ精神の成長を期待できると する。そしてさらに、「手作業的活動が、非常 に多くの興味、熱中、努力、練習と結びついて いるとしても、その活動が、つぎのような精神 的な準備作業の結果であるとき、はじめてその 労 作 は 教 育 的 な 意 味 に お け る 労 作 と な る (p.73)」55)と説明する。この教育的意味のある 労作を理解するために、彼は道徳的・技術的・ 科学的課題といった 3 つの具体的観点から分析 している。これらの課題を簡単に要約したい。 一つ目は道徳的課題である。深夜、村の火災 報知器が鳴り、火事を知らせる。隣人の救出の ため手助けに行こうと思うが、外は非常に寒く 私はひどく風邪もひいている、というものであ る。「意識された私の病気の観念」すなわち自
の人物として挙げられることが多い。彼の主な 経歴は次の通りである。 1871 年、師範学校の卒業後に 17 歳で教職に 就くが、その後 1877 年にギムナジウムに編入 する。ミュンヘン大学の卒業後、ミュンヘンの 中央気象台技師を経てギムナジウムの教師に、 その後 1895 年にミュンヘンの視学官となる。 1906 年にはベルリンの学務官を、1912 年には 国会議員となる。1919 年にはミュンヘン大学の 名誉教授となる。1928 年には、ミュンヘン工科 大学から名誉工学博士を、ドレスデン工科大学 からは文化科学名誉博士を受けている40) 。 O.F.ボルノー41)によれば、ケルシェンシュタ イナーは「改革教育学の代表者たちに顕著だっ た、感情を強調する非合理的な特徴をすこしも 持たず、自然科学の分野から現われ、その精神 を身につけ、極めて冷静で実際的な性格の人で あった(p.18)」とする。また、彼の根本概念 が「即事態性(Sachlichkait)」42)にあるとし、 広い意味での「公民教育」にふさわしい手段と して、実際の「労作」を性格形成と直接に関連 させて考えたとした。ここでの「即事態性」に ついては後に詳しく述べることとするが、ボル ノーは彼と理論的に対立した H.ガウディヒ 43) とともに、「今世紀(20 世紀)の初めに教員の すべて、特に国民学校の教師たちを熱中させた」 と当時の彼らの影響の強さを評価している。米 山44)は、ケルシェンシュタイナーとガウディヒ との間には「公民の育成」と「固有の自我」の 実態に違いがあったとする。ケルシェンシュタ イナーの目指すところは「国家に奉仕する道徳 的市民の形成」であり、ガウディヒは「自由な 精神の自己活動であり、個人主義」であったと いうものである。この論争はお互いに理解し合 うことで終結している45)。 ケルシェンシュタイナーの有用な公民の育 成といった教育の方向性は、クルト・ハーンと 共通するところが大きい。Röhrs, H.は、改革 教育学の実践者としてハーンの教育活動を認 めていた46)。しかしながらハーンの場合はケル シェンシュタイナーと違い、ヒトラーやナチス との対立といった時代的な影響から民族主義や 国家主義に抵抗してきたという特性もある47)。 ちなみにワンダーフォーゲル運動が始まる もっと前より、当時ギムナジウムの教師であっ たケルシェンシュタイナーは生徒と一緒にハイ キング行事を相当数行っていたといわれる 48)。 東岸によれば、「労作教育は、当時のドイツに おけるワンダーフォーゲル運動など自然的・ロ マン的運動の社会的背景に支えられ、ケルシェ ンシュタイナーによってまとめられた」として いる49)。 3.2.ケルシェンシュタイナーによる「労作 の教育的概念」とは ここでは、1925 年にケルシェンシュタイナー が『労作学校の概念』という著書の第 6 版に追 加した『労作の教育的概念』50)という論文をも とに、彼の労作観を整理していきたい。ここに 述べられているケルシェンシュタイナーの教 育に対する価値観は、彼の後期のものといって 差し支えないと思うが、この時期の彼は「原理 と し て 」 の 労 作 に 比 重 を 置 く こ と と な る 51)52)53)54) 。彼はこの論文の中で「放任の教育学」 を否定し、生徒が自発的に「事物そのものの訓 練」に従う時にのみ精神の成長を期待できると する。そしてさらに、「手作業的活動が、非常 に多くの興味、熱中、努力、練習と結びついて いるとしても、その活動が、つぎのような精神 的な準備作業の結果であるとき、はじめてその 労 作 は 教 育 的 な 意 味 に お け る 労 作 と な る (p.73)」55)と説明する。この教育的意味のある 労作を理解するために、彼は道徳的・技術的・ 科学的課題といった 3 つの具体的観点から分析 している。これらの課題を簡単に要約したい。 一つ目は道徳的課題である。深夜、村の火災 報知器が鳴り、火事を知らせる。隣人の救出の ため手助けに行こうと思うが、外は非常に寒く 私はひどく風邪もひいている、というものであ る。「意識された私の病気の観念」すなわち自 己中心的な自己と「隣人の困窮の観念」すなわ ち他者中心的な自己の間で大きく葛藤する。ケ ルシェンシュタイナーはこの二律背反の葛藤 状態に精神的労作の過程があるとする。 二つ目は技術的課題である。生徒は板屑を出 さず、最小限の時間と手作業で経済的に椋鳥の 巣箱を作るとする。床板や屋根の面づくりや板 の組み合わせ方など、様々な「熟考」の過程を 経て巣箱は作り上げられる。ケルシェンシュタ イナーはこの身体的・精神的労作について、「熟 考に従う実際的な労作は、陶冶問題にとっては 従属的性質のもの(p.80)」であるとする。 三つ目は科学的課題である。ラテン語の「ホ ラチウスの有名な頌詩の冒頭」の翻訳という、 「純粋に理論的な翻訳」に目を向ける。生徒は 主語や述語、文法や単語を調べ、時間を要して 吟味することによって、原典の韻律に即した翻 訳を発見する。この過程に精神的労作があると する。 しかしながらケルシェンシュタイナーは、こ れらの身体的・精神的労作が陶冶価値を持って いるかどうかについては疑問を呈する。彼は、 教育的意味のある労作とは人間の本質を「教養 のある人間」56)の本質に近づけるものであると 指摘している。この意味は、上記 3 つの課題を いくらうまくこなすことができるとしても、適 切な振る舞いができないような「無教養な」人 間である場合には、教育的意味に結びつかない というものである。すなわち、「形式的」に行 う労作のすべてに教育的価値があるわけでは ないということを指す。彼は、形式的陶冶は、 「妥当な価値に奉仕するときのみ妥当な陶冶 価値をもつ(p.85)」57)としている。 そのためケルシェンシュタイナーは、「教養」 に到達するためには自己中心的人間ではなら ず、無条件的に妥当する価値を目指す他者中心 的人間でなければならないとする。そしてその 無条件的な妥当性を持つ価値へのすべての態 度を「即事態性(Sachlichkait)」と呼び、即 事態的にふるまうすべての労作に教育的価値 があるとしている。彼は「即事態性」とは、す なわち「道義性」であり、また「非人格主義」 で「反個人的」であるとする。さらに彼はその 即事態的立場に到達するためには、「完成」を 目当てにした労作でなければならないとし、 「完成は最高の形式的な価値である(p.89)」58) と認める。そしてそのためには「自己吟味」が 重要だとする。彼は、「完成意図を客観的に形 成し、それと同時につねに自己吟味を実行して、 ますます即事態的な態度へと導くことのでき るような労作は、陶冶価値を有する(p.91)」59) とするのである。そしてそのような労作が「教 育的意味における労作」だとする。 尚、ケルシェンシュタイナーは「自己吟味」 には二つの方法があるとする。一つは「経験的 自己吟味(外的観察)」といい、量・数・重量 を伴い、「何をなしたか」、「それをどのように なしたか」を問うもので、もう一つは「合理的 自己吟味(内的観察)」といい、外的観察が先 行された上で論理的に「それをなぜなしたか」 を問うものであるとする。彼は思考上の「どの ように」や「なぜ」を吟味することに重要性を 見出していたが、「この根本要求のなかに労作 学校の限界もある(p.95)」60)と述べる。このこ とは例えば「主に芸術や文学のように自己吟味 を超えている労作」はただ単に価値を体験する だけに留まるということを指す61)。また、これ ら二つの観察のいずれかに通じる労作は自己 吟味され合理的な「体得」に繋がるが、その他 の価値は「体験」されるのみだとし、一律に扱 うべきではないとする。 ちなみに「体験」については一つ注目しなけ ればならないことがある。ケルシェンシュタイ ナーは「体得」を観察や内省に繋がる合理的な 価値として、また「体験」をその他の価値とし て捉えているが、価値のある「体験」を「体得」 とみなすケルシェンシュタイナーの考え方と、 現代的な野外教育において使用される「体験」 には言葉の解釈の違いも垣間見える。後者の 「体験」は主に現代的な野外教育の方法として
の「体験学習」を指すことが一般的であり、こ の意味は「課題探求・解決型の学び」や「生き る力を育む糧」、「体験学習サイクル」による体 験の深化、といったところに重点が置かれると いえる62)。従って、ケルシェンシュタイナーの 「体得」の意味は、自然体験学習によって学び を得る現代的な野外教育概念としての「体験」 の意味と同様のことを指していると理解する ことができるだろう。 ケルシェンシュタイナーにおいては、あらゆ る労作が身体的であると同時に精神的である とし、「あらゆる思考意欲の根源は実際的行為 のなかにある(p.93)」とする63)。「労作が即事 態的な態度の向上、すなわち全自己の根本的態 度の向上に貢献するなら、そのことによって明 白な陶冶活動が実現される(p.100)」64) と述べ るのである。 4.「労作教育」から理解する野外教育の教育 特性 以上、ここまでケルシェンシュタイナーから 労作教育の教育的概念を引き出し、整理してき た。ここからは野外教育の教育特性が、上述し た労作教育の価値概念とどのように共通する のか分析を進めていく。 4.1. “in”、“about”、“for”から理解 する野外教育の教育的価値について
ここでは、Donaldson による、“in outdoor”、 “about outdoor”、“for outdoor”という語 を用いた、いわゆる①野外における教育、②野 外についての教育、③野外のための教育、とい った 3 つの観点による伝統的な野外教育の定義 に焦点を当てて分析したい。 まずは「野外における教育」について考えた い。ここでの「野外」とは、教育方法として、 もしくは教育の場として捉えているものと理 解できる。先述した「自然の中で組織的、計画 的に、一定の教育目標を持って行われる自然体 験活動の総称」といった文部省の出した報告書 の定義は、まさにこの「野外における教育」の 立場を取っているものと考える。またそれは教 育的な意図をもって行われる「組織キャンプ」 についても同様と考えてよいだろう65)。 労作教育との比較にあたり、共通点の確認を 容易にするのがケルシェンシュタイナーの具 体的観点であった「道徳的・技術的・科学的課 題」のうちの「道徳的課題」と「技術的課題」 の応用である。ここでの「道徳的課題」は、不 測の事態に対して二律背反の葛藤が生じると いうものであった。野外教育の場においても、 チャレンジや達成感を求めるような「冒険教育」 としての価値観にはまさにこのような二律背 反の葛藤を得ながら課題を解決していくとい う過程が生じる。例えば、マウンテンバイクに 乗って目的地まで辿り着くといったグループ 活動があった場合、活動の中で「疲れて足が痛 いので自分だけやめてしまおう」といった自己 中心的な考えが生まれる一方、「まわりの仲間 が頑張っているのだから助け合ってゴールし よう」といった他者中心的な考えも生まれ、こ の二つの考えの間で葛藤しながらゴールに向 かっていくことになる。すなわち、冒険教育の 場には必ず身体的・精神的労作が伴うというこ とである。また、「技術的課題」については、 野外炊事の場面を思い起こせばよいだろう。炊 事の過程にはうまく仕上げるための「熟考」の 過程があり、そこに労作が生じている。そして 炊事を成すためには具材のことや調理時間の こと、グループであれば役割分担などを考える ことが必要となり、自己中心的であれば失敗す ることになる。活動は他者や事物の動きに注視 しなければならず、いわば自身が「即事態的」 に振る舞うことを通して、初めて野外炊事が教 育的意味を持つようになるといえる。この点は まさにデューイの影響をイメージできるとこ ろでもある。 次に、「野外についての教育」に目を向けた い。労作の例としては、「科学的課題」をここ
の「体験学習」を指すことが一般的であり、こ の意味は「課題探求・解決型の学び」や「生き る力を育む糧」、「体験学習サイクル」による体 験の深化、といったところに重点が置かれると いえる62)。従って、ケルシェンシュタイナーの 「体得」の意味は、自然体験学習によって学び を得る現代的な野外教育概念としての「体験」 の意味と同様のことを指していると理解する ことができるだろう。 ケルシェンシュタイナーにおいては、あらゆ る労作が身体的であると同時に精神的である とし、「あらゆる思考意欲の根源は実際的行為 のなかにある(p.93)」とする63)。「労作が即事 態的な態度の向上、すなわち全自己の根本的態 度の向上に貢献するなら、そのことによって明 白な陶冶活動が実現される(p.100)」64) と述べ るのである。 4.「労作教育」から理解する野外教育の教育 特性 以上、ここまでケルシェンシュタイナーから 労作教育の教育的概念を引き出し、整理してき た。ここからは野外教育の教育特性が、上述し た労作教育の価値概念とどのように共通する のか分析を進めていく。 4.1. “in”、“about”、“for”から理解 する野外教育の教育的価値について
ここでは、Donaldson による、“in outdoor”、 “about outdoor”、“for outdoor”という語 を用いた、いわゆる①野外における教育、②野 外についての教育、③野外のための教育、とい った 3 つの観点による伝統的な野外教育の定義 に焦点を当てて分析したい。 まずは「野外における教育」について考えた い。ここでの「野外」とは、教育方法として、 もしくは教育の場として捉えているものと理 解できる。先述した「自然の中で組織的、計画 的に、一定の教育目標を持って行われる自然体 験活動の総称」といった文部省の出した報告書 の定義は、まさにこの「野外における教育」の 立場を取っているものと考える。またそれは教 育的な意図をもって行われる「組織キャンプ」 についても同様と考えてよいだろう65)。 労作教育との比較にあたり、共通点の確認を 容易にするのがケルシェンシュタイナーの具 体的観点であった「道徳的・技術的・科学的課 題」のうちの「道徳的課題」と「技術的課題」 の応用である。ここでの「道徳的課題」は、不 測の事態に対して二律背反の葛藤が生じると いうものであった。野外教育の場においても、 チャレンジや達成感を求めるような「冒険教育」 としての価値観にはまさにこのような二律背 反の葛藤を得ながら課題を解決していくとい う過程が生じる。例えば、マウンテンバイクに 乗って目的地まで辿り着くといったグループ 活動があった場合、活動の中で「疲れて足が痛 いので自分だけやめてしまおう」といった自己 中心的な考えが生まれる一方、「まわりの仲間 が頑張っているのだから助け合ってゴールし よう」といった他者中心的な考えも生まれ、こ の二つの考えの間で葛藤しながらゴールに向 かっていくことになる。すなわち、冒険教育の 場には必ず身体的・精神的労作が伴うというこ とである。また、「技術的課題」については、 野外炊事の場面を思い起こせばよいだろう。炊 事の過程にはうまく仕上げるための「熟考」の 過程があり、そこに労作が生じている。そして 炊事を成すためには具材のことや調理時間の こと、グループであれば役割分担などを考える ことが必要となり、自己中心的であれば失敗す ることになる。活動は他者や事物の動きに注視 しなければならず、いわば自身が「即事態的」 に振る舞うことを通して、初めて野外炊事が教 育的意味を持つようになるといえる。この点は まさにデューイの影響をイメージできるとこ ろでもある。 次に、「野外についての教育」に目を向けた い。労作の例としては、「科学的課題」をここ に挙げることができるだろう。野外で見つけた 気になる動植物について、時間をかけて調べる といった過程は、まさに精神的労作の伴った 「野外についての教育」であるといえる。しか しながらケルシェンシュタイナーが述べるよ うに、「自己吟味」に繋がらないような体験に 労作としての価値がないとするならば、例えば 「野外で風光明媚な景観を味わう」という「体 験」に教育的意味があるかという点については 別途考える必要が生じる。この点については、 もう少し後で検討することにしたい。 三つ目の「野外のための教育」については、 「環境教育」の視点に注目すると理解しやすい。 二つの例を挙げたい。一つはネイチャーゲーム である。これはアメリカを発祥とした体験型の 環境教育プログラムであり、「自然への気づき」 や「シェアリング(分かち合い)」、「フローラ ーニング」といったキーワードによって自然環 境への興味・関心を育むといったことを目的と している66)。労作的な観点からこの活動を見る ならば、「自然への気づき」という「道義性」 を伴った実際的行為と、「自己吟味」の過程を 繰り返しながらより高次の「即事態的」な態度 を育んでいく行為が伴う場合に、ネイチャーゲ ームと労作教育に共通性を見ることができる といえる。活動にネイチャーゲームが取り入れ られる「森林環境教育」や「森林体験活動」67) と呼ばれるものにも、このような労作教育との 共通性は見られるのではなかろうか。もう一つ は「リーブ・ノー・トレイス」68)についての考 え方である。これはアメリカを発祥とした環境 保全のための倫理的態度を指すものであり、普 及を目的とした教育活動が団体を通して多く 行われている。ここで求められるのは自然環境 に対する態度の合理的な「体得」であり、その ためには身体的・精神的な労作過程を必要とす る。「ストックホルム会議」から「ベオグラー ド会議」、「トビリシ会議」に至る国際的な環境 教育の流れにも環境教育プログラムを推進す る動向があり69)、環境に対する適切な態度を身 につけるためにはこのような労作過程を要す るといったところに共通点がある。 このように、野外教育を「野外における」、「野 外についての」、「野外のための」といった 3 点 の教育といった観点を持った時、「即事態的」 すなわち人間形成としての目的がふさわしい 形で行われる場合において、野外での活動が教 育的な意味を持つものと考えられる。すなわち、 野外教育も労作教育も「教育」の本質的な意義 は、実際的行動と自己内省を繰り返しながら、 人間としての成熟を目指すことにあるといえ る。 4.2. 「三大学習要素」から理解する野外教 育の教育的価値について 野外教育の「三大学習要素」といった視点に も焦点を当ててみたい。前述した「三大学習要 素」とは、①地球・自然環境、②周囲の出来事 (他存在)、③その人自身(自己:自分自身) のことであった。 小森70)71)は「三大学習要素」をもとに野外教 育の目的について、「『自然・地球環境への調和 的態度』や、他との共感、思慮、協力、協調、 などの『建設的コミュニケーション』を育むこ と」であり、「またそれらとの関わりを通して、 地球・社会市民としての自己を内省し創り上げ ていくという自己発見・自己創造・自己実現を 通じて、よりよい社会の確立への貢献を目指す 取り組み(p.4)」とまとめている。この考えに ついて労作教育の観点から全体を概念的に理 解していくならば、野外教育を次のように捉え ることができる。「自然・地球環境への調和的 態度」、また他との「建設的コミュニケーショ ン」とはいわば「無条件的な妥当性を持つ価値」 や「即事態的態度」を育む人のことである。「自 己を内省し」という言葉には「自己吟味」を実 行することが、「よりよい社会の確立への貢献」 には「全自己の根本的態度の向上」を目指す意 味があると読み取れる。よって、野外教育の目 的とは「即事態的態度を育む人が、自己吟味を
通じて、全自己の根本的態度の向上を目指す取 り組み」を指すと言い換えることができるであ ろう。また、このような場面が実践されるので あれば、そこにはケルシェンシュタイナーの述 べるような「明白な陶冶活動」の実現が生まれ ると考えられる。すなわち、野外教育は労作教 育の概念と原理的なところで結びついており、 より良い社会のために貢献できる人間の育成 といった教育の目的を有している。野外教育と 労作教育には教育的な目的に明らかな同義性 を見ることができるのである。 4.3.野外教育における「体験」と「陶冶」 について さて、ここで一時据え置いた「体験」という ものに話を戻したい。「野外で風光明媚な景観 を味わう」といった、「自己吟味」に繋がらな い「体験」に教育的意味があるかどうかという 問題である。 野外活動プログラムにおいては、「身体的野 外活動」、「知的野外活動」と同時に「芸術的野 外活動」が活動として分類されるという考え方 がある72)。ケルシェンシュタイナーにおいては 労作に「自己吟味」すなわち「内省」や「ふり かえり」といった過程を伴わないならば、その 行為はただ単なる「体験」に留まるとする。そ のためこの立場を野外教育に応用すれば、「野 外で風光明媚な景観を味わう」といった「芸術 的野外活動」の行為も、その景観に辿り着くま での過程に何があったのか、またこの体験をど のように活かすのかという観察や内省がなけ れば、野外教育の教材として全く意味をなさな いということになる。このことは「身体的野外 活動」や「知的野外活動」の場面でも同様の考 え方が成り立つといえる。 「這いまわる経験主義」という言葉に象徴さ れるような、体系的でなく「体験」しただけで 終わってしまうような「体験」には、教育的目 標すなわち「陶冶」としての価値がないといっ て等しい。それは新教育運動が盛んであった時 代から現代に至るまで同様のこととみなされ ている。人間形成の完成を目指すといった究極 の「形式陶冶」に労作教育の目標があるのなら、 その目標は野外教育の教育特性においても全 く同じであるといえる。 5.まとめ 5.1.本研究によって得られた知見について 本研究ではここまで、野外教育の「教育特性」 を理論的に解明することを試みてきた。そのた めの方法として、これまでのわが国の野外教育 史研究ではあまり焦点の当てられてこなかっ た西洋教育史の観点から、特に「新教育運動」 の代表的事例として挙げられる「労作教育」に ポイントを絞り、その歴史やこれまで受けてき た評価を整理した上で、思想概念を明らかにし、 野外教育と労作教育の概念の比較という形で 考察してきた。これらの過程から野外教育の教 育特性として導き出されたことは、次の 3 点に 要約できる。(1)野外教育の本質的な意義は、 「野外」を介する実際的な行動と自己内省の繰 り返しによって、より成熟した人間形成に向か うことにある。(2)野外教育は、原理的な価値 観においては、より良い社会のために貢献でき る人間の育成といった教育の目的を有してい る。(3)野外教育は、与える「体験」に明確な 教育的意図を持ち合わせなければならず、その 「体験」の継続によって、最終的には全人格的 な人間形成という「究極の形式陶冶」の実現を 目指すことに繋がっていく。 以上、歴史的アプローチによる分析を通して、 野外教育が「何を目標とする教育なのか」とい った課題に一定の解を導き出すことができた のではないかと考える。最後に、今後の課題に ついて述べ、この論考を終わりにしたいと思う。 5.2.今後の課題 今後の課題を 3 点挙げたい。一つ目は、ケル シェンシュタイナーの主要な教育観点である、
通じて、全自己の根本的態度の向上を目指す取 り組み」を指すと言い換えることができるであ ろう。また、このような場面が実践されるので あれば、そこにはケルシェンシュタイナーの述 べるような「明白な陶冶活動」の実現が生まれ ると考えられる。すなわち、野外教育は労作教 育の概念と原理的なところで結びついており、 より良い社会のために貢献できる人間の育成 といった教育の目的を有している。野外教育と 労作教育には教育的な目的に明らかな同義性 を見ることができるのである。 4.3.野外教育における「体験」と「陶冶」 について さて、ここで一時据え置いた「体験」という ものに話を戻したい。「野外で風光明媚な景観 を味わう」といった、「自己吟味」に繋がらな い「体験」に教育的意味があるかどうかという 問題である。 野外活動プログラムにおいては、「身体的野 外活動」、「知的野外活動」と同時に「芸術的野 外活動」が活動として分類されるという考え方 がある72)。ケルシェンシュタイナーにおいては 労作に「自己吟味」すなわち「内省」や「ふり かえり」といった過程を伴わないならば、その 行為はただ単なる「体験」に留まるとする。そ のためこの立場を野外教育に応用すれば、「野 外で風光明媚な景観を味わう」といった「芸術 的野外活動」の行為も、その景観に辿り着くま での過程に何があったのか、またこの体験をど のように活かすのかという観察や内省がなけ れば、野外教育の教材として全く意味をなさな いということになる。このことは「身体的野外 活動」や「知的野外活動」の場面でも同様の考 え方が成り立つといえる。 「這いまわる経験主義」という言葉に象徴さ れるような、体系的でなく「体験」しただけで 終わってしまうような「体験」には、教育的目 標すなわち「陶冶」としての価値がないといっ て等しい。それは新教育運動が盛んであった時 代から現代に至るまで同様のこととみなされ ている。人間形成の完成を目指すといった究極 の「形式陶冶」に労作教育の目標があるのなら、 その目標は野外教育の教育特性においても全 く同じであるといえる。 5.まとめ 5.1.本研究によって得られた知見について 本研究ではここまで、野外教育の「教育特性」 を理論的に解明することを試みてきた。そのた めの方法として、これまでのわが国の野外教育 史研究ではあまり焦点の当てられてこなかっ た西洋教育史の観点から、特に「新教育運動」 の代表的事例として挙げられる「労作教育」に ポイントを絞り、その歴史やこれまで受けてき た評価を整理した上で、思想概念を明らかにし、 野外教育と労作教育の概念の比較という形で 考察してきた。これらの過程から野外教育の教 育特性として導き出されたことは、次の 3 点に 要約できる。(1)野外教育の本質的な意義は、 「野外」を介する実際的な行動と自己内省の繰 り返しによって、より成熟した人間形成に向か うことにある。(2)野外教育は、原理的な価値 観においては、より良い社会のために貢献でき る人間の育成といった教育の目的を有してい る。(3)野外教育は、与える「体験」に明確な 教育的意図を持ち合わせなければならず、その 「体験」の継続によって、最終的には全人格的 な人間形成という「究極の形式陶冶」の実現を 目指すことに繋がっていく。 以上、歴史的アプローチによる分析を通して、 野外教育が「何を目標とする教育なのか」とい った課題に一定の解を導き出すことができた のではないかと考える。最後に、今後の課題に ついて述べ、この論考を終わりにしたいと思う。 5.2.今後の課題 今後の課題を 3 点挙げたい。一つ目は、ケル シェンシュタイナーの主要な教育観点である、 手作業や手工による「ものづくり」といった「実 際的労作」に本稿では焦点を当ててこなかった ことである。確かに「実際的労作」はケルシェ ンシュタイナーが重要視しているところであ り、この「ものづくり」の影響はデューイにも 繋がる。ただし、野外教育の活動が「ものづく り」という具体的な作業を伴うものばかりでな く、また野外教育への影響も原理的な「労作」 概念の多様性から生じたものと考えると、本研 究で「ものづくり」もしくは「実際的労作」と いった視点で言及するには限界があったと考 える。 二つ目は、レジャーやレクリエーションとい う遊戯性のある活動は野外教育の観点からど のように教育的意味を評価することができる のかという問題についてである。ケルシェンシ ュタイナーは「遊戯」と「労作」を分けて考え ていた 73) 。しかしながら、教育方法として野 外でのレジャーやレクリエーションを捉えた 場合には、そこに明らかな労作の過程を見るこ とができるとも考える。この点の分析が今後求 められるものと考える。 三つ目は、本研究では野外教育の重要な要素 である「意思決定プロセス」や「安全管理」、「環 境配慮」などの視点が論点として抜けていると いうことである。このような視点の教育理論は 1960 年以降にアメリカで育った野外教育がア ウ ト ワ ー ド ・ バ ウ ン ド 、 National Outdoor Leadership School 、 並 び に Wilderness Education Association などの発展に伴い整理 されてきたものである。重要な視点であること は承知しているものの、先述している通り野外 教育の概念の幅広さを考えると、本稿でこれら 一つひとつを論点にすることには限界があっ た。この点についても今後の課題としていきた い。 引用文献及び注 1) 星野敏男(2018):1.1.野外教育の概念、日 本野外教育学会編、野外教育学研究法、杏林 書院、東京、4.
2) Sharp, L. B. ( 1943 ) . Outside the Classroom, Education Forum. 7, 361-368. 3) Donaldson, G. E. & Donaldson, L. E. (1958).
Outdoor Education: a definition. Journal of Health, Physical Education, Recreation. 29, 17. 4) 永吉宏英(1987):第 1 章 野外教育、江橋 慎四郎編著、野外教育の理論と実際、杏林書 院、11-16. ここでは Donaldson の定義の紹介に加え、 “by outdoor(野外による)”という見解を 主張している。
5) Priest, S.(1986). Redefining Outdoor Education: A matter of Many Relationships. The Journal of Environmental Education. 17(3), 13-16. 6) 前掲書 1)、1. 7) 江橋慎四郎(1987):野外教育の理論と実際、 杏林書院、4-7. 8) 青少年の野外教育の振興に関する調査研究 協力者会議(1996):青少年の野外教育の充 実について:報告、文部省 9) 小森伸一(2011):第 1 章 野外教育の考え 方、自然体験活動研究会編、野外教育の理論 と実践、杏林書院、東京、3-11. 10)前掲書 1)、6.
11)Van der Smissen, Betty(1997):Directions in Outdoor Education、野外教育研究、1(1): 3-18. 12)土方圭(2016):野外教育における「野外」 概念の再解釈―風土概念を手がかりとして ―、野外教育研究、19(1):14-26. 13)土方圭(2016):風土概念により再解釈され た野外教育の原理の明文化、野外教育研究、 20(1):1-11.