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西ドイツにおける堕胎罪に関する最近の議論侍
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51一一『奈良法学会雑誌』第2巻4号 (1990年3月〉 次 円 口 序 言 M ・ホイスラ i 、 B -ホルツハオア l ﹁ 改 正 後 の 刑 法 一 一 一 八 条 以 下 の 実 施 状 況 ﹂ ( 以 上 第 二 巻 一 口 万 及 び 二 号 ﹀ M-ケ l ラ l ﹁ 身 上 配 慮 と 堕 胎 禁 止 ﹂ ( 本 号 )M
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- A F ω 印 南 ・ 紹 介 者 は し が き 妊娠中絶の適応事由を、刑法において違法性阻却事由としてとらえるか、責任阻却事由としてとらえるかは、単なる理論構成の 問題を越えて、実際上重要な帰結をもたらす。もし妊娠中総山 τ か違法だということになれば、それに対して、助言や積極的行為によ って私的或いは公的に関与することも違法だということになり、医療上の援助、社会法上の資金援助、その聞の賃金支払も許され第2巻4号一一52 なくなる。他方で、胎児に対する緊急救助が可能となり、国家の予防的な保護義務も生じるであろう。しかし、適応事由を違法性 阻却事由とする説に対しては、西ドイツ連邦憲法裁判所が確認したように、胎児も生命ある法主体として、既に生まれた者と同じ ように憲法上保護されると考え、生命対生命の衡量は許されないが故に緊急避難は考慮されないとする見解が有力に主張されてお り、これによると、中絶適応事由は、せいぜい責任阻却事由或いは処罰阻却事由として考慮されるにとどまる。 このような西ドイツの議論状況の中にあって本稿で紹介しようとする M ・ ヶ l ラ l の論文は、正当化事由説にくみするものであ る。即ち、そもそも第一二人条(妊娠中絶)の殺害禁止の根拠を、前実定的に基礎付けられる、婦人と未出生の者との特別関係、 つまり家族という特別法的義務関係の自律的な引き受けに求め、中絶適応事由を、このような家族関係の自律的な引き受けが欠如 しているか、限界付けられている場合であるとし、防衛的緊急避難として説明するのである。注目されるのは、胎児の生命あるも のとしての法主体的地位を一方的に措定するのではなく、堕胎罪を処罰する根拠を母親と子との特別な関係に見ていることであろ う。これは、胎児の生命対母親の権利という対立の中でこの問題をとらえてきた従来の見解に反省を迫るものである。 以下は M ・ ヶ l ラ l の 論 文 の 紹 介 で あ る 。 問題提起とテ l ゼ 多数の未出生の生命の殺害は、現実の法治国家や社会国家によるその排除活動を必要とする。しかし、妊婦の具体的な関係にお ける現実の規範拘束性の欠如は、根が深く、現代の社会関係それ自体と結びついたものであるが、そのような状態の変更がなけれ ば、単なる抽象的、法的方法は今までと同じようにうまく行かないに違いない。つまり、現実に解決されていない葛藤をとりわけ 当該婦人に対するかなりの危険を伴う暗黒領域に追いやることになるであろう。 優先的問題は、殺害禁止(刑法第一二八条)の根拠のある射程範囲である。従って、いわゆる中絶適応事由(刑法第一二八条 a ) も行為権限として考慮されるだけであり、その他の問題は全て付随的であり、それだけ孤立して解決されえないのである。 今や﹁適応事由﹂は、特別な法的行為権限として基礎付けられるか、或いはその行為は普遍拘束的に具体的に禁止されており、 私的或いは公的関与の厳格な禁止という避けられない帰結を伴うかである。さらに、具体的に存在する殺害禁止が行為により侵害 されるとするならば、妊婦も含めて全ての関与者にとって通常可罰的なものでなければならないことになろう。 法的な中絶適応事由が﹁責任阻却的に﹂或いは﹁処罰阻却的に﹂作用するとする見解は、根本矛盾を含む。つまり、法秩序は、
53一一西ドイツにおける堕胎罪に関する最近の議論同 一方で、妊婦の負担の期待不可能性を認容し、他方で、妊婦を期待不可能なことにまさに拘束するために実定法の全力を集めるこ とになろう。妊婦をその現実的な葛藤を伴ったまま孤立させておくならば、単なる個別的な﹁責任阻却﹂は実際にはほとんど助け と な ら な い で あ ろ う 。 従って、真剣に議論となっている選択は、中絶適応事由において基礎付けられ、規定された期待不可能性が規範的レベルで殺害 禁止の具体的拘束性を制限するか、或いは具体的に禁止された妊娠中絶が全ての個別事例において通常可罰的な殺人罪でなければ な ら な い か で あ る 。 右の問題は、どのような条件の下で妊娠した婦人に未出生の者に対する特別義務が謀せられるかという問題への根拠のある答を 必要とする。その特質は、胎児による妊婦の(基礎的)法的地位の集中的な利用
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⑦に存し、これはまず特殊 な法的根拠を必要とする。今度はそれは、自由的諸原理に従って基礎付けられた生活関係、即ち特別な対人権的義務関係(身上配 慮 百R
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巾]﹀に見いだされうる。法共同体が、婦人に特別義務を﹁期待する﹂場合、彼女に法的にどのような責任を負 わせるかも、右に述べた基礎付け連関において初めて適切に把握されうる。それによって、﹁婦人政策や家族政策﹂が、家族法、 労働法、税法、年金保険法等のいくつかの実定法上の素材を通じて正義であることがはっきりしてくるのである。H
問題が現在解明されていないことについて 実定法の状態自体も、提起された問題を現実に解明していない。ω
妊娠中絶は、確かに構成要件該当的な刑事不法であるが、拡張された適応事由規定による侵襲は﹁可罰的でない﹂。 は、本質的内容とその基礎において不明確である。 一九七四年の第五次刑法改正法は、受胎後三ヶ月内の堕胎の法的自由(期間的解決)へと至ったが、連邦憲法裁判所はこの法律を 無効と宣言した。基本権は未出生の生命に及ぼされ、そこから国家の刑法的に強化された保護義務が導き出された。未出生の者の 生命権は婦人の発展の自由が侵害される場合も優先するとされるが、重大な負担が﹁期待不可能﹂な場合の例外を伴っていた。その ような期待不可能性の内容的説明は、いわゆる医学的適応事由を確認したが、その他の適応事由は立法者の規定に任せたのである。 判決によって導入された期待不可能性基準は、導き出されたものでなく、カテゴリー的、内容的に不明確である。﹁可罰的でな い﹂という法効果規定を、立法者は殺害禁止を制限する行為権限として意図したが、これを明示的に確定しなかった。中絶事由の この規定第2巻4号一一54 内容的前提条件は一部で十分に定義されているだけである。
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規範的な資格付けは、まず葛藤(関g
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の現実性を見てとらなければならないであろうが、ここでは但し確実性には達し えない。つまり、部分的な調査、質問、(自己)評価、それらしい仮定に頼っているのである。そこから生じる現実の評価において は、妊婦にとって侵襲の身体的、精神的危険がおよそ些細とは言えないことを考慮すると既に、客観的に軽率な決意はほんの僅か の役割しか演じないであろう。実際的、道徳的行為主体として前提とされる多数の婦人の決意は、寧ろ﹁真正の﹂葛藤を意味する 諸条件の下で行われるのである。 これらの条件は、まず、家族的な領域における欠陥状態と物質的な種類の欠陥状態によって特徴付けられうる。経験的資料は、 安定していない、欠陥のあるパートナー関係、特に独身の女性の場合の状態が特別な程度堕胎への積極的な覚悟を条件付けること を示している。その場合、﹁真正の﹂葛藤は、子供に生命を与える規範的な制度的基礎、即ち十分な物質的準備を伴った完全な家 族が存在しないことに存する。現存する家族に関しては、子供が多すぎることからくる負担による重大な生活水準低下が考慮され る。ここでは、物質的な側面から﹁家族﹂という人的一体性の諸条件が問題となりうる。次に、子供のある家族で既に一定の程度 集中的な家族活動を果たしたか或いは果たしているが、その後或いはそれと並んで承認された社会活動に入ろうとするか或いは入 った婦人が問題となる。別の事例グループを形成するのは、子供がなく職業活動をする(既婚の)婦人である。具体的に進んだ資 格的地位を伴う社会的労働活動に専念しようとする彼女の決意が、妊娠によって総体的な水準低下をも伴う基本的な変化を被ろう としているのである。従って、問題となっているのは、全く圧倒的に、家族構造的ないし社会的な労働分配の組織におけるとりわ け婦人の具体的な人的地位である。ω
第一二八条 a 第二項第三号の専門司法的な理解も同じように分裂している。 ﹁期待不可能な重大性﹂という(法的﹀メルクマールは、まず圧倒的に、﹁著しく﹂、または﹁一定の程度﹂妊娠に﹁通常的なこ と﹂を超える負担と同一視されている。これが法的には現実に明確でないのに対応して、個別的には争われているより詳しい区別 への移行は導き出しえないものとなっている。 それ以上に、バイエルン最高地方裁判所は、﹁極端な困難﹂を前提とし、右に上げた事例グループに属する事例を含めることを 疑問とした。同じように制限的に、或るコンメンタ l ルの見解は、﹁社会的な﹂緊急状態を、妊婦の同価値的な他の義務との衡突 の事例によって専ら定義している。ここでも思い切った制限は十分な基礎付けを欠く。同 他 方 で 、 BGH は、より広く、緊急状態適応事由に関し﹁一定の医療的な評価範囲の中で﹂﹁主張しうる﹂決意で十分とし、妊 娠の存続と予期される子供の出生によって様々な種類の重大な負担の前に立たされる母親の真剣な決意葛藤の尊重を前提とした。 伸一般的な正当化原理に直接的に依拠することは、適応事由を説明することはできない。尤も、これは、適応事由が行為権限 ( 正 当 化 事 由 ﹀ を 含 み え な い こ と を 意 味 し な い 。 中絶適応事由は、少なくとも人的に答責的な違法な侵害が前提とされる正当防衛の原理によって基礎付けられえない。 (攻撃的な)緊急避難の原理ハ刑法第三四条﹀も中絶適応事由を基礎付けない。緊急避難の例外的状態において前提とされた行 為規範の制限を強いるものは、見かけ上の法益衡量原理ではなく、それ自体一定の基本的連帯義務として自由法則的な法的関係か ら導き出されなければならないであろう。具体的価値を持つ一身専属的な法益への攻撃的な緊急避難的侵害や、生命緊急避難にお ける生命侵害すらも、正当化されえないのである。妊娠中絶が正当化的(攻撃的﹀緊急避難の原理と前提条件に関係させられる場 合、二つのそれ自体正当な(人的)法益領域が前提とされるならば、母親の法益に対する危険は未出生の法益主体に対する生命侵 害を正当化しえないであろう。未出生の生命は、緊急避難状態に関与しないで偶然に必要な侵害客体として要求されるような、そ れ自体既に具体的に発展して存在する法益ではない。寧ろ、妊婦の先に存在する主観的な資格的地位への生活過程的な影響が、あ るかもしれない緊急避難状態をともに基礎付けているのである。しかし、侵害財自体の所持者が緊急避難状態を基礎付けることは、 攻撃的緊急避難の前提条件以外のそれを示している。 今までの考慮は、中絶適応事由を防衛的緊急避難の原則に従って規定することへと導く。そこからは、或る者の行為或いは状態 によって前提となる対人的な財の限界付けが客観的に違法に侵害される場合にその法益所持者の危険防衛(の受認﹀に対する義務 が結論として出てくる。関与した法益所持者の一方による禁止違反的な侵害の確認は、自然的、因果的なカテゴヲーでは十分に行 われない。なぜなら、規範は主体の目的にかなった行為にのみ及びうるからである。従って、主体の継続的な事実性が、客観的、 規範的には彼に属さない、自由の現存在それ自体を要求しなければならない。もっとも、そのためには、主体の外的な行為可能性 それ自体と事象との前提とされた関係で充分なのである。但し、防衛的緊急避難の原理から生じる受認義務と侵害権限は、不均衡 性によって限界付けられる。その原理によると、他人に﹁攻撃的な﹂侵害に関し受認への基本的連帯義務が課せられる場合にのみ 不均衡であろう。しかし、これは妊婦に関しては、一般的原理によると基礎付けられえない。胎児が彼女の人格の全体性を要求す ることは、あらゆる者に期待しうるような取るに足らない程度の法義務的犠牲ではなく、寧ろ、最高度に強力な、それ故衡量も相 55一一西ドイツにおける堕胎罪に関する最近の議論
第2巻4号一一56 殺もなしえない、彼女の人格の要求である。それにも関わらず、防衛的緊急避難への胎児
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娃婦関係の抽象的、一般的組み入れは 短絡的であろう。それによって一般に、未出生の生命が客観的に違法に振る舞い、彼の権利範囲を超えていることが、それ故、防 衛的緊急避難の侵害権に対応する危険回避への特別義務を負うことが前提とされるであろう。しかし、そうすると再び突然に、未 出生の生命と妊婦との聞の関係が限定的に前存在的な法益実体という意味で把握されるであろう。しかし、その前提条件はまだ未 解 決 で あ る 。 原 初 的 な ( ロ 門 田 官 ロ ロ m -- n F ) 法的関係の相互的基礎付けに対する前提問題は、まだ十分には答えられていないのである。 反対説は、胎児の成長は﹁妨害的性質﹂のない﹁自然的﹂﹁正常な﹂過程であると考えているが、これは自然主義的誤謬推理であ る。中絶葛藤とその積極的/消極的決断の﹁正常性﹂は法的問題である。従って、本論の批判は、防衛的緊急避難の原理を胎児│ 妊婦関係へのその原則的適用可能性について肯定するが、胎児と妊婦の簡の(特別な﹀法的関係に対する前提問題の十分な解明の ない無媒介的な関係付けに反対する。 最後に、中絶適応事由を﹁法的に自由な領域﹂に見ることが示唆され、そこではそれは不法阻却事由として、その点で侵害権限 を伴わない行為権限として作用するとされる。尤もこれは相互的につまり妊婦にも未出生の生命にも妥当しなければならないであ ろう。法的に自由な領域では、法は妊婦の道徳的な決意を尊重しなければならないという見解は、このような一面的な点でどっち つかずであり、まさに一方のみの侵害権を前提としているのである。また、妊婦と土木出生の生命との聞の関係の特別な関連付けが 疑問とされうる。葛藤は、出発状況において攻撃的緊急避難のそれとして把握されているのである、つまり存在的に偶然に回避し えない葛藤に互いに落ち込む、それ自体既に独立して資格のある主体の聞の衡突としてである。従って、衡量しえない財衝突が結 論として出てこなければならないが、しかし、それによって基礎付けられるべき法律関係が、即ちまさに母親を特別に利用するこ とによる胎児の具体的生命権が本質的な側面において常に既に前提とされているのであり、それによって初めて、法的に自由な領 域の自然状態における解消しえない葛藤の前提条件とされているのである。 右で議論した正当化事由は、関与者の間の具体的な法律関係がその基礎付けにおいてまだ未解決である限り、出発問題に関し何 も明らかにしていない。それ故、中絶適応事由の違法性を主張することも誤謬推理である。 同未出生の生命と妊婦の法的地位との間の特別な法的関係に関する実定的、憲法的な規定の試みは、方法論的レベルでは重大な ことを未解決のままにしておくことになる。憲法裁判所により決定されているのは、未出生の生命の基本法的地位である。その結 論はそれ自体既に前実定的な内容のものであり、当罰性に関する共通の意見に反映している、人間の生命の道徳的な性質を主張し57一 一 西 ド イ ツtこおける堕胎罪に関する最近の議論同 ているのである。基本法的地位によって決定されているのは、さしあたって未出生の生命の任意的で自由な処分の禁止であり、そ れと期間的解決は一致しないと宣言されているのである。 それによっては、未出生の生命と妊婦との特別法的関係
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巳印)の前提条件と限界も、それによって具体的 に規定される殺害禁止の形態も決定されていないのである。構成された(基本法的)法的地伎の一つの無媒介的な絶対的設定は憲 法方法論的に基礎付けられえない。憲法裁判所の判決自体、このことを示しており、妊婦の自己決定権に対する未出生の者の生命 権の優越規則がそれ白体、実定的な憲法の概念には示されていない﹁期待可能な﹂もの或いは﹁期待不可能な﹂ものによって基礎 付けられ、限界付けられているのである。従って、この決定することにより初めて規範化されるべき関係において何が﹁期待可能 な﹂特別義務的負担と見なされなければならないかは、憲法裁判所によって本質的には不確定的に述べられている。これは方法論 的に適切である、なぜなら、これらの法律関係の諸規定の導出は、いずれにせよ既に実定的に設定された演縛というやり方では可 能 で な い か ら で あ る 。 抽象的に保障された基本法的地位の衝突の場合における優越規則の構成のために比例性原則を利用することは、前実定的な規範 基礎付け手続であることが一証明されなければならないであろう。即ち、財衝突或いは原理衝突がある場合、或る﹁衝量﹂が結論さ れなければならないならば、そのための媒介的原理が基礎付けられなければならないのである。従って、比例性原則は、未出生の 生命と妊婦の間のまず基礎付けられるべき原初的な特別関係を提供しない。 反対説は、既に刑法第三四条について述べ、批判した不当前提の置き換えにすぎない。それによると、基本法第二条第二項によ る未出生の者の生命に対する主観的、公的権利を基礎に母親の権利のための生命侵害の比例性が間われ、全ての適応事由に関して これは否定される。しかし、それは比例原則から導き出されているように見えるだけであり、ここでは妊婦の法援の特別な利用に 対する未出生の者の法的権限とそれに対応する特別義務が、導き出されずに前提とされているのである。但し、それに関しては、 ﹁憲法適合的秩序﹂﹁倫理法則﹂﹁事物の本性﹂或いは自然的事態そのものが指示されているが、これらはそれに固有の前実定的 な基礎付けレベルでなお考慮されなければならないのであり、確実に実定の憲法からは結論として出てこないのである。 町 出 未出生の者との法的関係の基礎付けについて 問題となるのは、現存する法共同体の中での、産出された未出生の個体に対する他の者の一定の(強制的)法的義務とそれに対第2巻4号一一58 応する(侵害)権限の原初的基礎付けである。 生殖に対する法的義務は、請求主体の不存在の故に排除されている。自然法則により産出された個体は、まずいわば浮動状態に ある。既に着床の前に明かな母親の有機的組織の利用がなければ、死ぬのである。これは、一定の、統計的に重要な範囲で自然的 経 過 で あ る 。 既に問題提起が、受精した個体を規範的基礎付け連関の部分的契機として、つまり法主体として前提としている。これがそうで あるのかどうかが、どのようにそうなのかが明らかにされなければならない。この前提条件の下で初めて、まず、なお分析される べき内容を持つ保護に対する義務が、抽象的で、義務主体をまだ未解決にしているが、考えうる。次に、それに、着床を阻止する 行為方法と、さらに殺害禁止(堕胎禁止﹀が対応しうるであろう。問題となっている法律関係の基礎付け、範囲、主体はまだ全く 未解決である。惹起された自然法則からは、それに関し何も結論として生じない。なぜなら、あらゆる法律関係の基礎付けは実践 理性的な問主体性に前提条件を持つからである。
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問題となっている法律関係の暫定的な内容分析は、人としての現存在の全ての必要条件を主観的、人間的な資格付けから展開 しなければならないであろう。この権利義務関係の総体は、明らかにその程度においてきわめて広範に分割可能であり、移転可能 である。義務主体全体として、まず人聞の法共同体の全ての存在する人が考慮される。この点では、問題となる保護義務を普遍的 な、全ての者に課せられる人間義務と呼びうるであろう。応急の存在確保についてのあらゆる他人に対する一般的援助義務は、基 本法第二O
条による社会国家の命令の前提とされており、一部が基本法第一六条に規定されている人権的な庇護提供義務も状況は 類似する。刑法第三二三条c
による不救助の可罰性はかの一般的保護義務を前提とする。 これに対して、存在しつつある個体に関しては、特に強力で包括的な保護義務への、従って特別な義務主体への集中が考慮され る。つまり、基礎付けを必要とするのは、さらに、その本質的な従属性に一致する、他の者との包括的、継続的な人的一体性とい う特殊な法律関係である。それによって、特別法的義務関係に対する問題の関係が資格付けられるのである。 問題となる特別義務の内容は、その本質的な部分要素の分析によって説明されうる。自然的な﹁通常事例﹂では、まず特別義務 は、他の者、つまり妊婦の身体的完全性の利用に及ぶ。次に、問題となっている法的義務は、物質的(財産的)権限の取り分と、 更に一般的及び特別的な形態での行為自由に関わる。(労働)力の利用は一定の範囲で他の(社会的﹀活動を排除する。特別義務 の考えうる具体的範囲は、類型的調節と個別関係に従って異なりうる。尤も、分析した特別関係は、﹁直接的倫理性﹂として実体同 的性質を示すであろう。しかし、特定の者、つまり母
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子の聞の特別法的関係も問題となる。道徳的、自然的側面にしたがってで はなく、基礎付けを必要とする法的概念として考慮される両親子概念がである。 問題となる特別関係は、形式的にその義務的側面に従うと受忍義務と行為義務の総体である。従って、分析した他の者の特別義 務は、根本において統一的に、存在しつつある主体と成育しつつある人格的統一の潜在性に現存在を与えることに及ぶであろう。 それぞれの成育段階で要求される義務実現は、かの原初的な基本義務に既に含まれているであろう。出生前に既に開始する分析し た特別法的義務関係に関し、家族法は、﹁身上配慮2
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官﹀﹂という適切な用語を持っている。 従って、この広範に及ぶ対人権的関係の﹁期待 ( N Z B三
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﹂が基礎付けられなければならない。それ故、適応事由の問題を 妊娠それ自体の﹁期待可能性﹂に関係させるのは短絡的であろう。分析から、殺害(堕胎)禁止の様々な内容と義務主体が結論と して出てくる。身上配慮義務者に関しては、それはこの特別義務を前提としており、そうでない場合には防衛的緊急避難の原理が 介入する。第三者に関しては、非従属的、独立的に一般的法律関係から抽象的な侵害禁止が依然として成立する。 分析した特別義務をそのまま突然妊娠した婦人に及ぼすことが事実上支配的である。しかし、それによると、特定の排他的な内 容を持つ特別法的義務関係への基礎付けの必要な移行が直ちに前提とされてしまっているのである。基礎付けの問題は、先入見な く提起されるべきである。ω
一般的法律関係、詳しく言えば身上配慮という特別法的義務関係は、客観的、目的論的にではなく、前実定的、自由法則的に のみ基礎付けられうる。未出生者の具体的な法人格性は、ある点では、個体化によって設定された彼の自由の自己目的的な現存在 に対する、まだ成育していない、潜在的な主体性に基づいている。基礎的、前実定的意味においても、これは、実定法が古い法的 伝統に従って一定の観点で既に未出生者に及ぼす法的能力を意味する。しかし、具体的な法人格性は、それによってすでに内容的 に成立しているわけではない。寧ろ、それは、現実に成育したそれぞれの現存在態様において、相互的に自由内容を共に規定し/ 限界付ける他の主体の人格性の中で、つまり普遍的な相互人格性Q ロ 片 足 宮2
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肺門)の中で積極的/消極的に基礎付けられてい るのである。この前提条件の下で初めて、一定のハ基本的﹀権利、つまり未出生者の主観的(生命)権利とそれに対応する他の者 の法的義務が、具体的な性質において存在しているのである。従って、未出生者の法的能力は、法過程の主体として承認されるこ とに存するが、これは、既に特定の他の者に対する一般的に具体化された(特別)法的関係を意味するのではない。 想起した区別は、未出生者の普遍的な人権を基礎付けなく特別法的義務関係に移す見解への批判と符合する。これらの見解は客 59一一西ドイツにおける堕胎罪に関する最近の議論第2巻4号一一ω 観的、目的論的方法に基づいている。つまり、目的論の生命過程カテゴリー(存在するものの自己目的適合性)が、そこで客観的 内容的に、既に一定の構造を持つ存在の全体に及ぼされ、それ故﹁主体性﹂が一定の所与の秩序に服すると見なされている。その ような見解は、理解力のある理性自律からの有効な(法)規範の基礎付けをとらえ損なっている。 これに関して、﹁事物の本性﹂、自然目的論がまず引き合いに出されている。しかし、自然的事実は、それ自体法的関係を構成 することはできない。そうでなければ自然的な存在から、全く開かれた、自明でない規範的関連を推論することになるであろう。 明らかに子であるという法的関係は、(養子縁組の場合)自然的拘束から完全に解放されている。さらに、その技術的抽象化の中 で一歩一歩今までの単一的な自然経過が多くの人々の関与の下で処理しうるものとなってきている、新たな生殖技術を考慮すると あらゆる自然主義は禁じられる。 個人は依存性から成育するためには問主観的な近親関係を必要とするという個人の目的論からの規範主張も十分ではない。それ によっては、特定の者の法的義務はまだ基礎付けえないのである。いずれにぜよ伝統的な家族構造的、労働社会的な身上配慮の組 織化は、既に拘束的なものではなく、まさにその明白な解体の中で実質的な基礎付けが要求されているのである。後継者の産出と 教育に対する人類の義務を承認しようとしても、義務主体は人類全体であろうし、個別的な組織化は単なる合目的性の問題にとど まるであろう。従って、組織化の分析可能な部分要素における受け入れ、教育、社会制度の発展という要件は、両親の排他的な身 上配慮を規範的に形成するものへの移行を基礎付けないのである。 人的な一体性の基礎付けという特殊な問題にとって、今まで支配的な客観主義的、白然法的考察方法は十分ではない。それは、 ﹁人聞の生命﹂という価値実体を、既に、目的論的、制度的に構成された家族/親子の客観的秩序に置くものであり、抽象的に設 定された生命権が無媒介的に一定の外延的内容を持つ制度的法律関係へと変換されているのである。確かに、生まれ出ょうとする 者の主体的性質から出発し、法の構成根拠として問主観的な承認関係を指摘するのは適切であるが、この関係の二極性は、さらに 現実に貫徹されていないのであり、寧ろ一面(一方の生命)が絶対的に設定されているのである。他の極(婦人の主体性と人格) は、現実にはまじめに受けとられず、最終的には目的論的な﹁前所与性(︿
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﹂、﹁自然﹂が関係的、構成的なものと して主張されているのである。堕胎禁止に関して、﹁生命﹂という抽象的絶対的に設定された価値実体からのかの誤謬推理は、首 腿一貫すると明白に支持しえない帰結、例えば生命に関わる適応事由や刑事学的適応事由すらの排除に至るか、或いは制限(適応 事由)が、矛盾を犯して、導かれずに不安定に導入されるかである。61一一西ドイツにおける堕胎罪に関する最近の議論伺 かの目的論的、自然法的考察方法の表面上実定的な(憲)法への置き換えは基礎付けの欠落を変えるものではない。基本法第二 条第二項に規定された人権的な生命権とそれに及ぶ国家の保護義務に関しては、その点で人々の聞の法論理的に先行する関係が前 提とされており、基礎付けを必要とすることは既に示した。 尤も基礎付けの連関においては、摘出でない場合を含めて、夫婦と家族という憲法的に保障された特別法的義務関係を評価する ことが必要なことが明らかになるであろう。しかし、ここでもこの特別法的義務関係が、伝統的な内容をあらわす﹁制度﹂という 前所与であると主張されてはならない。憲法規範のテキスト自体既に法論理的関係を明らかにしており、連邦憲法裁判所が﹁夫婦 と家族﹂という﹁制度﹂的保障を伝統的な生活形態に結びつけて規定することも方法論的に説得力がある。しかし、これを、いわ ば形而上的内容を持つ制度としてではなく、常に基本法の自由的性質と結びつけて定立し、そこから、﹁伝統的﹂表象に対する批 判的基準も導いたのである。つまり、夫婦と家族の﹁伝統的制度﹂﹁基本構造﹂は、その具体的な規範性においては自由権的構成 の結果としてのみ保障されているのである。 挙げた憲法規範は、例えば実定的な私法規範(家族法)によっても解釈されえない。これは循環論法であろう。なぜなら、後者 はそれ自体前者の基礎付け連関に依存しているからである。そうでなければ憲法の指導的意義が単純法的(家族)法に対して否定 されるであろう。前実定的な基礎付けの必要性は一般化されうる。即ち、私法規範が生殖、妊娠、出産に対し関与する法主体に関 して(様々な)家族法的法効果を結びつける場合、自然的事態は十分な根拠とはならない。寧ろ私法規範は、これらの特別法的義 務関係とその﹁機能分割的な﹂相違の規範的基礎付けそれ自体を前提にしているのである。 制およそ法的関係の自由法則的基礎付けは、互いに相互的に解放する、実践理性の主体の規範に基づく。 従って、発展の中心点は、実践理性の主体としての人間の尊厳であり、この基本規範は外的な行為自由の普遍妥当的な規制にお いても一不される。一般的な物質的理性目的は、最初は単に自然的に或いは反省的に自己関係的である個人が有限であることと見捨 てられていること(﹀
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を、相互的に平等に互いを解放する者の共同体を形成することによって止揚することである。 法も、確実に認められた外的自由を可能とする条件という意味で、完全な意味で個々人の同時に共同体における善き生活に及ぶの で あ る 。 相互的に解放する実践的な(法)理性の基本規範は、互いに最初は未知の主体のあらゆる出合において実現されなければならな いから、新たに存在しつつあり、発展した人格を要求する個人をも含めるのである。その点でまず、人格に対する基本権、つまり第2巻4号一一一62 人聞の此岸世界的な共同体の構成員であることに対する基本権が理性的に基礎付けられている。 従って、客観主義的自然法的な見解の代わりとなるのは、問題となる関係を単に反省的に利益に導かれる洛意的な意思という規 定において把握することではない。なぜなら、他人とのそれぞれ単に自己関係的な関係は、自身の欲求状態に従った全体的に否定 的な問主観性と同じく相対的に偶然に一致を可能にするだけだからである。これは、相互的に人格性がおよそ否定されている、理 性に反した自然状態であろう。 人格に対する基本権は、理性過程的な発展の中で、他人との直接的な人的一体性の現存在にも全体連関における主体的独立性に も及んでいる。実定法上の基本権は、後者の資格をより多く表現しているが、前者にも関係している(基本法第六条)。この近親 関係とそれに対応する特別法的関係は、歴史的に第一次的であるだけでなく、それ以上の社会的関係においても実質的である。存 在しつつある個人は、最初から既に自己意識的、独立的な人格というわけではないのであるから、間主観的な特別関係によっての み現存在を獲得するのである。これはまず、白然的な通常事例において、生命権が人的な一体性によってのみ実現されうるという 面を持つ。より発展した社会的、政治的関係に関しても、主体の問主観的に実践的な自己意識の形成は、根本的に直接的な間主観 性の成功に依存している。従って、主体の白由の現存在は、直接的、根源的に他人との人的な一体性に基礎を置いているのである。 しかし、人的一体性という特殊な観点における人格に対する基本権は、(自然)目的論的に先に与えられているのではなく、寧 ろ問主観的な実践的理性推理に基礎を置いている。即ち、包括的な人的一体性に存する、法哲学的、体系的意味での家族の概念に で あ る 。 従って、家族と身上配慮の理性的必然性は、決して客観主義的、目的論的に誤解されてはならない。関係の基礎付けと形成は、 単純に先に与えられているのではない。寧ろ、根源的に自律的な私法的、対人権的な関係の構成と組織化が問題になっているので ある。(強制的な)法は、直接的に感情的で自律道徳的に規制された事態(家族関係)には及びえないのであるから、その点で外 的な自由の特別な法的組織化が問題なのである。 それ故、法的に基礎付けるのは、特別法的義務関係の構成と組織化への自律的な規範意思である。一方で、共に構成する要素は、 特別関係の意思的な、相互に権利を認容する拘束的引き受け、即ち実定法においても前提とされる、婚姻締結における家族関係の 意思的成立である。それは実質的に、二人の性を異にする個人の聞の継続的な人的一体への相互的に確認された意思定立と理解さ れうるのである。その内容は、(第一次的、本質的に)自然的関係の自由保護的規制である。それによって自律的に生活共同体の
63一一西ドイツにおける堕胎罪に関する最近の議論同 実質的な拘束性が定立されているのである。これは、夫婦の私的自律的な、その点で多元的な形成の自由であるが、いずれにせよ 個人の任意により自由に処分しえないものである。従って、人的自然的な近親関係とそれに対応する人的に包括的な特別法的関係 は、基礎付けと規制において自律的拘束的に相互的な権利認容に基づいているのである。 相互的身体的な、そうでなければ対象的精神的な観点における人的一体性という基礎付けた関係は、まず単に自然目的としての 親子関係に対して義務付けられていない。しかし、この一体性において産出された子は、その人格的な対象化、実現である。それ 故、子はかの構成された一体性に、即ち身上配慮という特別法的義務関係に参加しているのである。これは、想起された基礎付け 前提条件の下では、法的関係として非主題的に直接的な一体性(愛)において止揚されている。これらの構成条件のもとでは、自 由で任意の処分という意味でのその拒絶は矛盾しており、それ故排除されている。両親の身上配慮の引き受けは、その点でその人 的な一体性の自由的構成に拘束的に包含されているのである。尤も、これはなお議論されるべき一体性の存続の諸条件の下にあり、 またそれによって身上配慮という夫婦、家族関係の組織化の細部が既に確定されているわけではない。 家族法的な学説には、一部でなお目的論的自然法的内容をもっ誤った見解が見られる。夫婦と家族は生来与えられた内容を持つ ものであり、そのようなものとして法に先立つとされ、場合によっては自律的な構成に反する超個人的な制度へと高められている。 これは、客観主義的に誤解された或いはいずれにせよ自由概念的に支持しえないへ i ゲル主義であると批判しうるが、この批判も 決定に対し開かれており、対人権的関係の実質的、自律的根拠を単に形式妥協的にか或いは十分でない自由規定において挙げうる だけである。いずれにせよ夫婦という対人権的関係にとっては、実質的に関係を基礎付け、規制するものは自律的棺互的な引き受 けであることが承認されている。同じ人的一体性という自律的構成から、両親と子の聞の特別法的義務関係が把握され、導きだき れなければならない。つまり最初は(法的に拘束しない﹀自然目的論であるものの自律的な引き受けと規制がここでも自由法則的 に構成された法的根拠である。 他方で、﹁夫婦と家族﹂という特別法的義務関係の自律的構成は、実践理性的な一般意思による解放的﹁保障﹂を必要とする。 現代の家族にとっても構成的な、相互的に法的義務を基礎付ける﹁身上配慮﹂の引き受けという観点においては、同時に一般的に 人類義務も履行されている。単に社会的であるだけの個人或いは単に夫婦であるだけの共同体との関係において、家族という特別 法的義務関係に対応する資格付けも基礎付けられている。それによると、身上配慮とその物質的存続条件の平等権的組織化という 実質的関係は、相互人格的な、その点で同時に物質│財産関係的な特別義務と特別権限の伝統的な規制として定義される。まさに
第2巻4号ー一一64 その点で構成された一般意思による保障が必要なのである。従って、家族関係の独立性は、他の構成体、特に経済社会の中におい て、それに対して法的な存続確保を必要とする。つまり憲法的観点では、一方で未出生の生命の最初は抽象的一般的な権利と、他 方で一定の他の者、特に妊婦の基本権との間の特別法的義務関係の基礎付けは、その具体的な確保と可能化に対する一般的な国家 的義務への統合を必要とする。当該串甲山法規範(六条)が客観主義的に伝統的な制度的保障か開かれた自由保障かという二者択一は 十分ではなく、それをその自律的な規制における挙げた人的関係の社会的現存在条件の保障としてとらえることが必要なのである。 (基本)法的規範は、相互人格的な特別関係の独立性とその私的な規制自律を自由権的、所有権的双方の観点で確保し、およそ 初めて可能とすることである。それ故、(労働)所得と財産に関する配分規制は、かの解体を促進してはならないのであり、受け 継がれた特別法的義務関係に基づいて、それに従って形成されなければならない。それ以外に自由権的観点で、家族法的、分業的 な特別義務引き受けが他の自由権の実現を実質的に排除しないことが具体的に可能とされなければならない。 テーマとの関連では、(未婚の)母子家族の構成条件が特別に顧慮されなければならないが、子に関してのみならず、婦人に関 しても価値平等が前提とされなければならないであろう。つまり、独立した家族的な地位という伝統的な形態が、新たな形態にお いて(分配的に正当な﹀補充なく社会のために解体されることは、身上配慮という考えうる特別義務から現実の法的根拠を奪うの で あ る 。 社会に対する権利認容は、人的一体性における個人の自由のために身上配慮の引受の実質的条件という意味で第一次的に固有の 権利から﹁家族﹂という特別関係に帰せられる。尤も、家族活動は、個人を保護し、社会能力あるものとするという機能を引き受 けている限りで、ようやく第二次的、部分的に社会的活動でもある。この点では、社会的活動の規則も妥当するが、単に社会的で あるだけの個人の考えうる共同体においては、他人のための必要な身上配慮(養育)に対する個々人の特別義務は公平に基礎付け られえないであろう。付け加わるべき社会的関係においては、経済社会的な価値定立に関する(比例的)正義の最低条件が尊重さ れ る べ き で あ る 。 実質的な対人権的拘束性の内容を伴う引き受け意思を、実際志向的な、他では契約対象的な義務基礎付けの自由意思に還元する ことはすぐに思いつく誤解である。しかし、その意思行為は、人的及び物的前提条件において継続的な人的一体性を調節するとい う実質的な理性推理を内容としているのである。関係を引き受けないこと、即ち堕胎の決意も、単なる対向的な任意行為としてで はなく、引き受け或いはその実質的前提条件の原初的な欠如への推理としてのみ有効なのである。
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諸 結1
帯 65ー←西ドイツにおける堕胎罪に関する最近の議論同 中絶適応事由は、未出生の者との家族的関係の自律的引き受けの欠如或いは限界であると規定されうる。その具体的評価は、妊 婦自身の熟慮の上での権限の範囲内になければならない。 従って、単に欲求志向的な、他の個人の実力処分も、発展した基礎付け条件の下で既に受け継がれた相互人格的な特別関係の否 定も排除されている。その点で、家族と親子関係に対する法的義務を問題にしうる。自己決定は、構成された相互人格的な関係に おける﹁自由な浴意﹂として正当でないし、﹁期間的解決﹂も基礎付けられえないままである。 いわゆる刑事学的な適応事由の場合は、人的な一体性の引き受け/成立がおよそ欠けている。堕胎決意は、防衛的緊急避難に基 づ く 。 いわゆる医学的適応事由の場合は、人的一体性の引き受けが妊婦の存在或いはその身体的な無傷性の諸条件によって限界付けら れている。妊婦の熟慮の上での決意において、防衛的緊急避難が有効なものとなる。 それ以外の法的適応事由の場合も、同じように特別関係の引き受けの欠如或いは内在的な限界付けの解釈のみが問題となりうる。 これはとりわけ第一二八条a
二項コ一号の﹁緊急状態適応事由﹂にあてはまり、関係引き受けの欠如は、人的一体性の欠如、それ自 体存在する家族の十分な社会的物質的権限の欠如、あらゆる主体、それ故婦人にとっての(排他的な)家族義務の生涯的限界に基 づきうる。最初のものは、単なる性的な交際における生殖、より大きな家族的結合による自由で、養子的な引き受けがない場合の ﹁非嫡出子の母﹂、完全な家族的関係において守られていない財産のない婦人、独身で、社会的な労働関係にあってそれに頼って いる婦人の事例が属する。現存する夫婦と家族の場合は、両親或いは婦人は、無制限の身上配慮を引き受けたわけではないのであ る。尤も、﹁社会的適応事由﹂の経済的な側面では、量的に解決しえない決定問題が生じる。 生涯的に拡張される場合には、同じように専ら身上配慮的な家族活動の引き受けの限界付けが承認されなければならないのであ り、その結果以前は従属的なものであった自己権限的地位がなお現実に実現されうる。 例えば養子の可能性があることを通じて、期待されうる子と結びついたそれ以上の負担の引き受けが見込まれる場合には妊娠そ れ自体は期待可能であるということが一部で承認されている。しかし、この代替策は、実質において、人格的関係によってしか正 当化されえない身体的一体性の孤立的強制義務的期待を意味するであろう。また、胎児と他人(潜在的な養親﹀或いは社会との関第2巻 4号一→6 係で、対他的な強制的奉仕義務が生じることになろう。それに対し自由法則的な法的根拠が存しないことは明かである。 妊婦自身の熟慮の上の決意において、関係引き受け(の限界﹀のみが評価されうる、つまり場合によっては防衛的緊急避難が主 張されうるのである。ここでは、引き受けという理性的事実或いは期待可能性限界は、客観的目的論的には確定されえないのであ り、寧ろ道徳的直接性と一体になった私的自律的関係の具体的に推論される評価に存するのである。それ故、その自律的内容性は 客観的に衡量しうる要素をもたない。確かに決意の熟慮性という基本要素は法拘束的であるが、しかし、自律的な(葛藤﹀決意自 体の内容は、他人によって引き受けられえず、指図もされえないのである。 従って、﹁医療上の認識﹂が期待可能性の問題を最終的に決定することはできない。法律上の表現からは、医療上の助言におい て与えられうる専門知識が妊婦自身の理性的決意に入り込まなければならないとしか理解されえない。熟慮性、つまり十分説明を 受けたことは、自律的な引き受け評価の統合された要因として(主観的な)正当化条件でなければならない。つまり妊婦は、全て の事実的、規範的な評価根拠を知った上で自身で判断しなければならないのである。形式化された助言手続は抽象的一般的にその 前提条件とみなされなければならないであろう。 助号一一回規制の法規範的に可能な内容についても一般に不明確である。妊娠の継続を目指して助言されるべきであるという見解は暖 昧である。全ての重要な観点の完全性が意図されている限りで、これはすべて決意の熟慮性の要件から出てくる。これに対し、医 療的助言、及びその他の助言は抽象的一般的に中絶決意に反対する傾向に拘束されえない。反論において決定的であるのは、それ が、妊婦の自律的な権限と助言状況の不可欠な開放性に矛盾することである。 r-¥ 松 生 光 正