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日本人の倫理観の変遷(その2)~夏目漱石晩年の講演録にみる明治後期から大正初期の倫理観を手がかりとして~

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日本人の倫理観の変遷(その 2)

∼夏目漱石晩年の講演録にみる明治後期から大正初期の

倫理観を手がかりとして∼

The Change of Japanese Moral values (2)

∼ Moral values of the begining of the Taisho period from the second half of the

Meiji period on Lectures by Natsume Souseki toward the end of his life ∼

渡 邊   弘(作新学院大学人間文化学部) Watanabe Hiroshi(Sakushin Gakuin University, Faculty of Human and Cultural Sciences)

1  はじめに

本論の目的は、夏目漱石の晩年の作品、とくに1911年(明治44年)から1914年(大正 3 年)にかけての講演録の内容を中心に、明治後期から大正初期にかけての我が国の倫理観 の特徴の一端を明らかにすることにある。 夏目漱石(1867年(慶応 3 年)∼ 1916年(大正 5 年))は、一般に日本の小説家、評論家、 英文学者として広く知られている人物である。本名は夏目金之助であり、49歳で他界して おり決して長い人生だとはいえない。しかし、彼の残した小説や評論は我が国を代表する 文学作品であると同時に、歴史的にもきわめて貴重な研究資料であるといえる。 本論でなぜ漱石の晩年を採り上げるか、その理由は漱石の倫理観が明確に表出されてい るからである。換言すれば、明治後期から大正期にかけて進展してきた漱石の言葉を借り れば「人間の自由を重んじ過ぎて好きなマネをする放縦不羈」1)な利己主義的個人主義に 対する氏独自の「徳義心」の高い個人主義が鮮明に主張されているからである。ちなみに、 漱石晩年の後期三部作といわれる『彼岸過 』『行人』『こころ』で彼が追求したのは、た とえば『こころ』の文中にも「私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言 葉の意味がよくわかるかと聞き返してやりたかった。」2)という表現があるように、やは り人間のエゴイズムの問題と独自の「個人主義」であった。 本稿では、漱石の晩年を、便宜的に東京帝国大学文科講師や第一高等学校講師などの一 切の教職を辞して1907年(明治40年)4 月に朝日新聞社に入社してから1916年(大正 5 年) に他界するまでとする。その間の主な経過は次の通りである。

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明治40年には長男純一が誕生し、作品では『虞美人草』の連載が始まっている。翌明治 41年には『三四郎』を連載し、暮れには次男伸六が誕生、42年には 3 月から11月にかけて 養父から金を無心されるなどの事件が起こっている。明治43年 3 月に五女雛子が誕生、そ の数ヶ月後から胃潰瘍のため入院している。療養のため 8 月から修善寺温泉に転地し、そ のときに大吐血し、一時危篤状態に陥っている。明治44年に胃潰瘍が多少回復したのを見 て、同年 8 月朝日新聞社主催の講演会のために明石(『道楽と職業』)、和歌山(『現代日本 の開化』)、堺(『中味と形式』)、大阪(『文芸と道徳』)に行き、大阪で胃潰瘍が再発し再 び入院となる。このときの講演録が晩年の漱石の倫理観を知る貴重な資料となる。なお、 この年に五女雛子が死去している。大正 2 年 1 月にはひどいノイローゼが再発し、さらに 3 月には胃潰瘍が再発した。大正 3 年に『こころ』を朝日新聞に連載、11月に学習院輔仁 会で『私の個人主義』と題して講演している。この講演録は漱石の代表的な評論であり、 同時に先の講演録と併せて漱石の倫理観を鮮明に表している作品といえる。大正 4 年、『道 草』を朝日新聞に連載、12月芥川龍之介、久米正雄が門下に加わっている。この頃さらに リウマチに悩んでいる。翌大正 5 年リウマチ治療のため湯河原で療養し、最後の作品とな る『明暗』を連載する。12月 9 日に胃潰瘍により死去している。 以上のように、漱石の晩年は胃潰瘍やリウマチ、そしてノイローゼ、さらに我が子の死 といった心身共に苦難の連続であり、そのような状況の中で講演や小説などを通して自己 の倫理観、人間観、人生観などを深化させていったことに注目したい。 では、この時代はどのような時代だったのだろうか。一言で言えば大正デモクラシーの 前期にあたる。いわゆる1904年(明治37年)の日露戦争以降に現れた政治・社会・文化面 での民主主義的傾向の前半部分である。翌年には、日露非講和運動を契機に、軍閥・官僚 閥の政治独占を否定する民主主義運動がジャーナリスト・弁護士らをリーダーとし、都市 中間層を担い手として起こり都市無産大衆も巻き込んでいった。大正前半期の主導的思想 は吉野作造らのいわゆる民本主義であり、美濃部達吉らの天皇機関説が憲法の面から支え ていた。文化面では、民衆文化運動やプロレタリア文化運動も進展したが、全般に人道主 義・人格主義といった内省的教養主義の傾向が強かった。さらに教育面では大正自由教育 運動などが展開された。 以上のことから、本論ではとくに先の明治44年の一連の講演録と大正 3 年の学習院での 講演録を中心に、漱石の倫理観及び明治後期から大正初期にかけての我が国の倫理観の特 徴を考察する。

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2   漱石の文明開化論∼『現代日本の開化』(明治44年 8 月和歌

山講演)を通して∼

まず漱石の倫理観のメインテーマに入る前に、彼がどのように当時の社会や文明を捉え ていたのかを概観してみたい。その最も手がかりとなる資料が、和歌山で講演した『現代 日本の開化』(明治44年)及び堺での『中身と形式』で(同年)である。 漱石はこの講演で、明治44年現在すでに日露戦争の勝利により、多くの人々が日本の文 明が開化し「一等国」になったという高慢な声に対して、「どうもこれが一般の日本人に 能く飲み込めていないように思う」3)と批判し、日本の現状の本質について比喩を巧みに 用いながらわかりやすく説いている。 漱石はまず「定義」の意味及び問題点について論じ、その上で自身の「開化」の意味を 説明している。つまり、氏は定義というものを固定的に捉えることに否定的であり、定義 というものもその人間のものの考え方などにより変化していくものであると考える。その 上で、氏は「開化は人間活力の発現の経路である」4)と説明し、さらに「人間の活力とい うものが今申す通り時の流に沿うて発現しつつ開化を形造って行く」5)とする。そして、 人間活力には二種類あるとして、一つは「義務」に基づく「活力節約の行動」であり、も う一つは「道楽」に基づく「活力消耗の行動」である。前者は人間が義務として行わなけ ればならないことに対して、できるだけ楽になり自由になりたいという精神で、これを氏 は「義務の刺戟に対する反応としての消極的な活力節約」と表現している。一方後者は、 人間が好んで進んで行動する自主的・趣向的精神で、氏は、これを「道楽の刺戟に対する 反応としての積極的な活力消耗」と呼んでいる。漱石は、「開化」とは、これらが「コン ガラガッて変化して行って、この複雑極まりなき開化というものが出来る」6)と説明して いる。このことからも分かるように、漱石はあくまで道徳的義務からの自由や道楽といっ た人間自身の行動を中心に考えており、これら二つの経路自身一つの「パラドックス」と 表現し、それに次のような彼独自の人間観を示している。 「 要するに唯今申し上げた二つの入り乱れたる経路、すなわち出来るだけ労力を節約し たいという願望から出てくる種々の発明とか器械力とかいう方面と、出来るだけ気儘 に勢力を費やしたいという娯楽の方面、これが経となり緯となり千変万化錯綜して現 今のように混乱した開化という不可思議な現象が出来るのであります。そこでそうい うものを開化とすると、ここに一種妙なパラドックス4 4 4 4 4 4とでもいいましょうか、ちょっ と聞くと可笑しいが、実は誰しも認めないわけにはならない現象が起こります。元来 何故人間が開化の流れに沿うて、以上二種の活力を発現しつつ今日に及んだかといえ ば生まれながらそういう傾向を有っている4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4と答えるより外に仕方がない。」7)(傍点引 用者)

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このことを前提として、漱石は西洋と日本の開化の違いを「内発的」と「外発的」とい う言葉を持って説明する。すなわち、西洋の開化は内発的であるとして「行雲流水のごと く自然に働いている」とし、日本の開化は「外発的」であるとして彼独特の表現で「外か らおっかぶさった他の力で已むを得ず一種の形式をとる」と述べている。ここでの「形式」 という言葉は、後述する堺での講演『中味と形式』と同様と考えられ、当然先の人間の特 質とは対照的な言葉といってよいだろう。これまでのことから当然の流れであるが、漱石 としては、「開化」は「どうしても内発的でなければ嘘だと申し上げたい」8)という立場 をとる。では、現時点で西洋のような「自然の波動」が内発的に進んでいるのかというと、 漱石は「そう行っていないので困る」9)と指摘している。しかも、過去の文明がどうであっ たのかを十分じっくりと吟味することなく捨て去ってしまっていることに対して、「新し い波はとにかく、今しがたようやくの思で脱却した旧い波の特質やら真相やらも弁(わき ま)えるひまのないうちにもう棄てなければならなくなってしまった。」10)と批判し、「上 滑りの開花」と表現している。この点については、歴史から十分に学んでいるとはいえな い現代にも通じることである。なお、「上滑り」という表現は、小説『彼岸過 』や『行人』 の中でも、次のように表現されている。 「 僕(敬太郎)はかつて或学者の講演を聞いた事がある。その学者は現代の日本の開化 を解剖して、かかる開化の影響を受ける吾等は、上滑り4 4 4にならなければ必ず神経衰弱 に陥いるに極まっていっているという理由を、臆面もなく聴衆の前に暴露した。そう して物の真相は知らぬ内こそ知りたいものだが、いざ知ったとなると、却って知らぬ が仏で済ましていた昔がうらやましくって、今の自分を後悔する場合も少なくない、 私の結論なども或はそれに似たものかも知れませんと苦笑して壇を退ぞいた。」11)(傍 点引用者)(『彼岸過 』より) 「 今の日本の社会は――ことによったら西洋もそうかも知れないけれども――皆な上滑4 4 り4の御上手ものだけが存在し得るようにできあがっているんだから仕方がない。」(兄 一郎の言葉)12)(傍点引用者)(『行人』より)

3   明治の適切な「型」と人間の内面生活∼講演録『中味と形式』

(明治44年堺講演)を通して∼

先にも述べたように、講演録『中味と形式』では、「形式」の関連語として「中味」と いう語を用いており、これは「内発的」という言葉にも類似していると考えられる。漱石 は、英国留学中学んだと思われる経験論的立場から帰納的に思考することが重要でとし て、はじめから固定した「形式」にこだわりすぎる危険性について警鐘を鳴らし次のよう に指摘している。

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「 実生活の経験を嘗(な)めているものはその実生活がいかなる形式になるか能く考え る暇さえないかも知れないけれども、内容だけは確かに体得しているし、また外形を 纏(まと)める人は、誠に綺麗に手際よく纏めるかも知れぬけれども、どこかに手落 ちがありがちである。」13) ここでの「外形」は、「秩序」あるいは「規則」と言い変えられるかもしれない。すな わち、「外形を纏める人」とは、秩序を特に尊重あるいは偏重する保守的国家主義者と考 えられる。この背景には、当時の大逆事件や社会主義の問題があることは言うまでもなく、 徳義心による個人主義を主張する漱石からすれば、当然批判の対象となったことは想像に 難くない。また、「内容」とは、人間が内発的な思考や活動を提唱する漱石の言葉を借り れば、経験に裏打ちされた「内面生活」を指していると考えられる。このことについて漱 石は、「内容が変われば外形というものは自然の勢いで変わって来なければならない理屈 にもなる」14)と述べている。さらに別な箇所では、「規則や形式が悪いのじゃない。その 規則を当て嵌(は)められる人間の内面生活は自然に一つの規則を敷衍(ふえん)してい る」15)としている。このように、あくまで漱石の意識の中では、文明の開化にしろ秩序 にしろ、これらは人間の経験などに基づく内省的働きによって変化していくものであると いう考えがあったことは明白であり、当時の個人主義や社会主義を批判する保守的国家主 義者への穏健的対抗と受けとめることができる。 だが漱石は、必ずしも「型」自体を否定しているわけではない。氏の言葉を借りれば「無 理のない型」が重要だとする。 「 況んや活きた人間、変化のある人間というものは、そう一定不変の型で支配されるは ずがない。政(まつりごと)をなす人とか、教育をする人とかはむろん、すべて多く の人を統御して行こうという人もむろん、個人個人と交渉する場合に在ってすら型4は 必要なものである。会う時にお時儀をするとか手を握るという型4がなければ社交は成 立しないことさえある。けれども相手が物質ではない以上は、すなわち動く者である 以上は、種々の変化を受ける以上は、時と場合に応じて無理のない型4 4 4 4 4 4を拵えてやらな ければとうてい此方(こっち)の要求通りに運ぶわけのものではない。」16)(傍点引用者) いわゆる生活習慣からの指令などに基づく慣習的道徳に、人間が「不変の型」として支 配されることはないが、やはり何らかの慣習的道徳を人間が生活をしていく上では「型」 は必要であるとする。おそらく漱石としては、人間が自主的に行う生活上のいわば手がか りとしての「型」、変化可能な「型」については肯定していると考えられる。つまり、時 と場合に応じての「無理のない型」で行っていくべきであるとする。さらに、もしこの時 と場合に応じない、つまりは時代の変化に応じないようであれば開化自体失敗するとして 次のように論じている。 「 既に内面生活が違っているとすれば、それを統一する形式というものも、自然ズレて

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来なければならない。もしその形式をズラさないで、元の儘に据えて置いて、そうし てどこまでもその中に吾々のこの変化しつつある生活の内容を押し込めようとするな らば失敗するのは眼に見えている。」17) 当時進展してきた個人主義や自然主義に対しては「はなはだやかましい」18)としなが らも、時代の変化の中で自然に発生した現象として漱石は捉えている。そして、この講演 の最後では教育を例に挙げて、人間は社会的存在であると同時に個人的存在であり、とり わけ学習者の「心理状態」「心持」を踏まえた教育の重要性を論じている。 以上のように漱石は、決して保守的国家主義者ではもちろんなく、かといって単純な利 己的な個人主義者、自然主義者でもないことがわかる。では彼はどのような倫理的立場に 立っていたのだろうか。その点を講演録『文芸と道徳』(明治44年)と『私の個人主義』『大 正 3 年』を通して考察していきたい。

4   浪漫主義的道徳と自然主義的道徳の特徴と課題∼『文芸と道

徳』(明治44年 8 月大阪講演)を通して∼

大阪での講演録『文学と道徳』は、文学の視点から論じられた道徳論であり、とくに文 学と道徳との密接な関係性および徳川時代の道徳と明治時代の道徳の比較、個人主義と自 然主義的道徳の問題などを論じたものである。 (1)徳川時代の道徳の問題 漱石は、先にも述べたように「一定不変の型で支配」する政(まつりごと)を批判し、 人間の内省的活動や内面生活に基づく「無理のない型」を提唱している。この点から、徳 川時代の道徳を捉えた場合、当然批判の対象となることは明白である。具体的には次のよ うな内容である。 「 (徳川時代の道徳は)完全な一種の理想的の型4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4を拵(こしら)えて、その型を標準とし てその型は吾人が努力の結果実現の出来るものとして出立したものであります。だか ら忠臣でも孝子でももしくは貞女でも、ことごとく完全な模範4 4 4 4 4を前へ置いて、我々ご とき至らぬものも意思の如何、努力の如何によっては、この模範通りの事が出来るん だといったような教え方、徳義の立て方であったのです。(中略)かく完全な模型4 4 4 4 4を標 榜して、それに達し得る念力を以て修養の功を積むべく余儀なくされたのが昔の徳育4 4 4 4 であります。」19)(傍点引用者) この中で、漱石は「完全な一種の理想的の型」「完全な模範」「完全な模型」というよう に「完全」という言葉を何度も使用している。では、「完全」なるものは誰が決定してい るのか、それは言うまでもなく政を司る人、教育を行う人であるということになる。後ほ

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ど説明するが、漱石は人間が修養を積むこと自体は否定していない。ただ、完全なる理想 像が先行して、それに向かっての修養を余儀なくされることは不自然であるということで ある。 では、徳川時代の道徳がこのような考え方になったのはどこに原因があるのかという点 に関して、漱石は次のようにさらに論じている。 「 今の人から見れば、完全かも知れないが実際あるかないか分からない理想的人物4 4 4 4 4を描 いて、それらの偶像に向かって瞬間の絶え間なく努力し感激し、発憤し、また随喜し 渇仰して、そして社会からは徳義上の弱点に対して微塵の容赦もなく厳重に取り扱わ れて、よく辛抱しておったものだという疑も起こるが、これにはいろいろの原因があ りましょう。第一には今のように科学的の観察4 4 4 4 4 4が行き届かなかった。つまり人間はど4 4 4 4 う教育したって不完全なものであるということに気が付かなかった4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。不完全なのは、 我々の心掛けが至らぬからの横着に起因するのだからして、もう少し修養して黒砂糖 を白砂糖に精製するような具合に向上しなければならんという考で一生懸命に努力し たのである。すなわち昔の人には批判的精神4 4 4 4 4が乏しかった。昔からいい伝えられてい る孝子とか貞女とか称するものが、そっくりそのままの姿で再現出来るという信念が 強くて、批判的にこれらの模範を視る精神に乏しかったというのが重(おも)なる原 因でありましょう。」20)(傍点引用者) このように漱石は、原因として第 1 に科学的な観察、第 2 に批判的精神を挙げている。 また、この文章の中には氏の人間観、教育観の一端が鮮明に現れている。それが「人間は どう教育したって不完全なものである」という表現である。この言葉はきわめて重要であ り、「内省的」や「時と場合に応じて無理のない型」「パラドックス」といった一連の言葉 とも関連し、漱石の穏健的で余裕すら感じられる論の展開の根拠となっている観があるよ うに思える。 ただ漱石の徳川時代の道徳批判で一つ疑問なのは、この氏の批判が多少単純であるとい う点である。徳川時代の道徳は確かに儒教道徳を中心とした「完全なる型」というものが 存在したことは事実である。だが、すべてが倫理的に見るべきものがないということには ならない。これは「日本人の倫理観の変遷(その 1)」でも論じた通り、当時の修養思想 や人間観、さらには天道思想など人間が活きていく上での重要な考え方が包含されている わけであり、事実漱石も「修養」や「則天去私」という言葉を積極的かつ肯定的な意味で 使用しているように、決して徳川時代の思想全体を否定しているわけではないことがわか る。おそらく漱石は、明治時代の道徳と対比させるために、徳川時代の道徳を誇張して表 現したのであろうと推測する。事実氏は、『現代日本の開化』の最後にも紹介した次の内容、 つまり過去の文明がどうであったのかを十分じっくりと吟味することなく捨て去ってし まっていることに対して、「新しい波はとにかく、今しがたようやくの思で脱却した旧い

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波の特質やら真相やらも弁(わきま)えるひまのないうちにもう棄てなければならなく なってしまった」21)という表現の中に、漱石が徳川時代の道徳全体を必ずしも否定して いないことが垣間見られる。 (2)明治時代の道徳 では、明治以降の道徳や倫理について、漱石はこの講演でどう論じていたのだろうか。 氏は、明治期になり「完全な道徳」を強いる力がしだいに弱まり科学的、批判的な認識に よる「事実」を基本に道徳を構築してきていることについては、一定の評価を与えた上で 次のように論じている。 「 (明治以降の道徳は)しからば明治以降の道徳が維新前とどういう風に違って来たかと いうと、かのピタリと理想通りに定まった完全の道徳というものを人に強うる勢力が 漸漸微弱になるばかりでなく、昔渇仰(かつぎょう)した理想そのものがいつの間に か偶像視せられて、その代わり事実4 4というものを土台にしてそれから道徳を造り上げ つつ今日まで進んで来たように思われる。」22)(傍点引用者) その上で、さらに明治44年当時の道徳・倫理について、「倫理観の程度が低くなってき たのです。だんだん住み易い世の中になってお互いに仕合わせでしょう。」23)と指摘して いる。ここで「低くなった」という表現をどう捉えるかということであるが、その前の部 分で「倫理上の意見が寛大になっている」や「世の中が穏やかになっている」24)といっ たことが語られているので、先に述べた「無理のない型」になりつつあると理解できる。 その点について、次のように漱石は語っている。 「 すべて倫理的意義を含む個人の行為が幾分か従前よりは自由になったため、窮屈の度 が取れたため、すなわち昔のように強いて行い、無理にも為すというやせ我慢も圧迫 も微弱になったため、一言にしていえば徳義上の評価がいつとなく推移したため、自 分の弱点と認めるようなことを恐れもなく人に話すのみか、その弱点を行為の上に露 出して我も怪しまず、人も咎めぬという世の中になったのであります。」25) この内容だけであれば、漱石という人間はある意味かなり楽観的な人間と言えるであろ う。しかし、もちろん漱石の思考はこれに留まらない。当時の文芸を二分していた浪漫主 義と自然主義、すなわちロマンチシズムとナチュラリズムを道徳との密接な関係性から 「浪漫主義的道徳」と「自然主義的道徳」を意味づけ、比較し、その後でこれからの道徳 の方向性を提示するのである。 「 これで浪漫主義の文学と自然主義の文学とが等しく道徳に関係があって、そうしてこ の二種の文学が、冒頭に述べた明治以前の道徳と明治以後の道徳とをちゃんと反射し ている事が明瞭になりましたから、我々はこの二つの舶来語を文学から切り離して、 直に道徳の形容詞として用い、浪漫的道徳及び自然主義的道徳4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4という言葉を使って差

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し支えないでしょう。そこで私は明治以前の道徳をロマンチックの道徳4 4 4 4 4 4 4 4 4と呼び明治以 後の道徳をナチュラリスティクの道徳4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4と名付けますが、さて吾々が眼前にこの二大区 別を控えて向後我邦(わがくに)の道徳はどんな傾向を帯びて発展するだろうかの問 題に移るならば私は下のごとく敢えて言いたい。『ロマンチックの道徳は大体において 過ぎ去ったものである』貴方方が何故かと詰問なさるならば人間の智識4 4 4 4 4がそれだけ進 んだからだとただ一言答えるだけである。」26)(傍点引用者) 漱石は、すでに「ロマンチックの道徳は已に廃れ」27)て、「日露戦争も無事に済んで日 本も当分はまず安泰の地位に置かれるような結果として、天下国家を憂としないでも、そ の暇に自分の嗜欲(しよく)を満足する計をめぐらしても差し支えない時代になってい る。」28)と論じている。 以上の内容を踏まえ、漱石が最も関心があり大正 3 年の『私の個人主義』につながると 思われる「個人主義」について、その一端をこの講演の最後で次のように語っていく。 「 それやこれやの影響から吾々は日に月に個人主義の立場4 4 4 4 4 4 4からして世の中を見渡すよう になっている。従って吾々の道徳も自然個人を本意4 4 4 4 4として組み立てられるようになっ ている。すなわち自我からして道徳律を割り出そうと試みるようになっている。」29) 漱石の主張する個人主義は、「理想」を全面的に否定して必要ないものとは必ずしも捉 えていない。彼の場合、「自我からして道徳律を割り出そうと試みる」ための目的として、 個々人の「理想」は大なり小なり必要であると考えている。そして最後に、今後の我が国 の道徳の方向性として、自然主義の道徳の問題と浪漫主義の道徳の反動について予言とも 取れる持論を展開して締めくくっている。具体的には次の内容である。 「 けれども自然主義の道徳というものは、人間の自由を重んじ過ぎて好きなマネをさせ るという虞(おそれ)がある。本来が自己本位4 4 4 4であるから、個人の行動が放縦不羈4 4 4 4に なればなるほど、個人としては自由の悦楽4 4 4 4 4を味わい得る満足があるとともに、社会の 一人としてはいつも不安の眼を見張って他を眺めなければならなくなる、あるときは 恐ろしくなる。その結果一部的の反動としては4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、浪漫的の道徳がこれから起こらなけ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ればならないのであります4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。現に小さい波動として、それが起こりつつあるかも知れ ません。けれども要するに小波瀾の曲折を描く一部分にすぎないので大体の傾向から いえばどうしても自然主義の道徳がまだまだ展開していくように思われます4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。以上総 括して今後の日本人にはどういう資格が最も望ましいかと判じて見ると、実現の出来 る同情心を持して現在の個人に対する接触面の融合剤とするような心掛け――これが たいせつだと思われるのです。」30)(傍点引用者)

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5   漱石の「個人主義」の特徴∼『私の個人主義』(大正 3 年11

月学習院輔仁会講演)を通して∼

『私の個人主義』は、漱石の講演録または評論の中でも最も有名なものと言ってよいだ ろう。長編小説『こころ』の完成後に四度目の胃潰瘍に病臥した後に、漢学者の岡田正之 からの交渉により、皇室と関係の深い上流子弟の多い学習院輔仁会で生徒に講演したもの である。明治44年の講演から約 3 年後、晩年における漱石独自の倫理観は「個人主義」「自 己本位」「徳義心」などの独特の言葉によっていよいよ鮮明に表出されてくる。同時に、 放縦不羈な利己主義を批判する形で、さらに国家との関係性を踏まえながら論じられるの である。 (1)一個の独立した日本人としての自覚と「自己本位」 漱石は、1900年(明治33年)5 月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究で はない)、英国留学を命じられ、現地での猛烈の神経衰弱のために1902年(明治35年)の 暮れに急遽帰国している。 英国ではシェークスピアなどの文学論をはじめ、進化論などの科学や英国発祥の功利主 義などの哲学や倫理学など幅広く学んでいたと考えられる。しかしその成果は、神経衰弱 が物語るように、それほど大きくはなかったようである。もし大きな成果があったとすれ ば、自身の日本人としてのアイデンティティが覚醒されたということだろう。そうした一 個の独立した日本人としての尊厳や誇りから、西洋文化を無自覚に受容する当時の状況に ついて、まず次のように論を展開している。 「 近頃流行るベルクソン * でもオイケン ** でもみんな向こうの人がとやかくいうので日 本人もその尻馬に乗って騒ぐのです。(中略)私が独立した一個の日本人4 4 4 4 4 4 4 4 4 4であって、決 して英国人の奴婢(ぬひ)でない4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4以上はこれくらいの見識は国民の一員として備えて いなければならないうえに、世界に共通の正直という徳義を重んずる点から見ても、 私は私の意見を曲げてはならないのです。」31)(傍点引用者) * アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859年10月18日 - 1941年 1 月 4 日)は、フランスの 哲学者。近代の自然科学的・機械的思考方法を克服、内的認識・哲学的直観の優位を説き、生命の流 動性を重視する生の哲学を主張。1928年ノーベル文学賞受賞。著「創造的進化」「道徳と宗教の二源泉」。 ** ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken, 1846年 1 月 5 日 - 1926年 9 月15日)は、ド

イツの哲学者。ノーベル文学賞受賞者。

このように、西洋の「奴婢」や「尻馬」にならない徳義に基づく一個の独立した日本人 として立ち上がった漱石は、「自己本位」という旗を高らかに掲げたのである。

「 一口で言うと、自己本位4 4 4 4という四字をようやく考えて、その自己本位4 4 4 4を立証するため に、科学的な研究やら哲学的の思索に耽(ふけ)りだしたのです。(中略)私はこの自

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己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。(中略)私は多年の間 懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。 なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じこまれたものが、ある角度の方向で、明 らかに自分の進んでいくべき道を教えられたことになるのです。(中略)しかしながら 自己本位4 4 4 4というその時得た私の考は依然としてつづいています。(中略)一つ自分の鶴 嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくっては行けないでしょう。」32)(傍点引用者) では、自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行くとはどういうことなのだろうか。 この点について次のように論じている。 「 それで私は常からこう考えています。第一に貴方がたは自分の個性が発展できるよう な場所に尻を落ち付くべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進しなけれ ば一生の不幸4 4 4 4 4であると。しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、社会から 許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの傾向を尊重するのが理の 当然になって来るでしょう。」33)(傍点引用者) このように、自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行くということは、自分とぴた りと合った仕事を発見するまで邁進することである。同時に、その根底には、自己尊重と 他者尊重の精神を根本とするということである。そして注目すべき事は、そのようにしな い場合は「不幸」と漱石が表現していることである。別言すれば、人間が自らの仕事や生 活(漱石の言葉では「内容生活」)を邁進していくことは「幸福」であるということになる。 ここで想起してもらいたいことは、『文芸と道徳』の箇所で述べた氏の「人間はどう教育 したって不完全なものである」という人間観である。すなわち、邁進する先の「幸福」と はどこまでも人間が求めていく「理想」であるといことである。では、目的であり理想と しての「幸福」のために、どのようなことを考える必要があるのか。 (2)漱石の利己主義批判と目的としての「幸福」 あくまで「徳義心」の高い個人主義の立場をとる漱石として、その第 1 の条件は、当然 人間が自己の目的としての「幸福」を求めていくためには利己主義的思想を否定していく ということである。 「 近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 (合い言葉)に使う4 4 4 4 4 4 4ようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼 らは自分の自我をあくまで尊重するような事をいいながら、他人の自我に至っては少4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 しも認めていない4 4 4 4 4 4 4 4のです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念を有つ以上は、自分 の幸福のために自分の個性を発展していくと同時に、その自由を他にも与えなければ 済まん事だと私は信じて疑わないのであります。」34)(傍点引用者) 別な箇所においても「我儘な自由は決して社会に存在し得ないからであります。よし存

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在してもすぐ他から排斥され踏み潰される」35)とも表現している。 第 2 の条件は、権力を有する立場の者の権利と義務の認識である。漱石は、「義務の附 着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。」36)と強く主張し、 さらに次のような教師の比喩を用いて説明している。 「 別の例を挙げて見ますと、貴方がたは教場で時々先生から叱られる事があるでしょう。 しかし叱りっぱなしの先生がもし世の中にあるとすれば、その先生は無論授業をする 資格のない人です。叱る代わりには骨を折って教えてくれるに極まっています。叱る 権利を持つ先生はすなわち教える義務をも有っているはずなのですから。先生は規律 をただすため、秩序を保つために与えられた権利を十分に使うでしょう。その代りそ の権利と引き離す事の出来ない義務も尽くさなければ、教師の職を務め終せるわけに は行きますまい。」37) 第 3 の条件は、金力を示す場合の「責任」であり、「私は金力には必ず責任が付いて らなければならないといいたくなります。」38)と述べている。 以上の個人主義に係る 3 つの条件を総括して、漱石は次のようにまとめている。 「 第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなけ ればならないという事。第二に自己の所有している権力4 4を使用しようと思うならば、 それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の 金力4 4を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。つま りこの三カ条に帰着するのであります。これを外の言葉で言い直すと、いやしくも倫4 4 4 4 4 4 理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。それをもう一遍 言い換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものが無暗に個性 を発展しようとすると、他(ひと)を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流 れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を呈するに至 るのです。」39)(傍点引用者) 漱石は、これら 3 つの条件をさらに言い換えて「倫理的に、ある程度の修養を積んだ人 でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値も ないという事になる」と強く訴えている。先にも述べたが、漱石は人間にとっての修養そ れ自体否定してはいない。「修養を積んだ人」は、すなわち幸福を求めて内容生活に邁進 しようとする人間である。そして、そのような人間は、さらに「個人主義は人を目標とし て向背(従うことと背くこと)を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだか ら、ある場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。」40)と述べてお り、すなわち自己本位であるわけだから、すべて自分自身で決定して思考、行動して歩ん でいかなければならず孤独であるということである。

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(3)個人主義と国家主義の関連性 この講演録の締めくくりとして、漱石の個人主義の特徴としてどうしても見逃せないも のが個人主義と国家主義の関係である。この両者は一般には対立的に捉えられがちである。 だが、漱石の唱える個人主義は、決して国家と対立する思想ではないということである。 それを鮮明に表しているのが次の内容である。 「 それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、なんだか個人主義4 4 4 4と いうと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理屈の立たな い漫然としたものではないのです。一体何々主義という事は私のあまり好まない所で、 人間がそう一つ主義に片付けられるものではあるまいとは思いますが、説明のためで すから、ここには已むを得ず、主義という文字の下に色々の事を申し上げます。ある 人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないようにいい振らしまたそ う考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙しなければ国家が滅びるような事を 唱道するものも少なくありません。けれどもそんな馬鹿気たはずは決してありようが ないのです。事実私共は国家主義4 4 4 4でもあり、世界主義4 4 4 4でもあり、同時に個人主義4 4 4 4でも あるのであります。」41)(傍点引用者) その上で、個人の国家は状況に応じた相互関係性の中にあると漱石は考え、次のように 論じている。 「 個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違 ありませんが、各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計の ように上がったり下がったりするのです。(中略)国家が危うくなれば個人の自由が狭 められ、国家が泰平の時には個人の自由が膨張してくる、それが当然のことです。」42) 以上のように漱石は、国家と個人との関係はその状況に応じて変容するものと考えてい る。ただし、既に危機的状況を脱すれば、「国家は大切かもしれないが、そう朝から晩ま で国家国家といってあたかも国家に取り付かれたような真似は到底我々に出来る話でな い。」43)ということになる。 そして再度漱石は、次のように強調して講演を締めくくっている。 「 火事の起こらない先に火事装束をつけて窮屈な思いをしながら、町内中駈け歩くのと 一般であります。必竟するにこういう事は実際程度問題で、いよいよ戦争が起こった ときとか、危急存亡の場合とかになれば、考えられる頭の人4 4 4 4 4 4 4 4――――考えなければい4 4 4 4 4 4 4 られない人格の修養の積んだ人は4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、自然そちらへ向いていくわけで、個人の自由を束4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 縛し個人の活動を切りつめても4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、国家のために尽くすようになるのは天然自然といっ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ていいくらいなものです4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。だからこの二つの主義はいつでも矛盾して、いつでも撲殺 し合うなどというような厄介なものでは万々ないとわたしは信じているのです。(中 略)国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見

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える事です。(中略)だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重き を置く方が、私にはどうしても当然のように思われます。」44)(傍点引用者) 以上のように、漱石は、国家的道徳と個人的道徳とは、そもそも相対立するものではな いことを強く主張している。そして、その前提として、個々人が「考えられる人」「考え ないではいられない人格の修養を積んだ人」として自律し、徳義心を有していることが重 要であることを指摘している。そして最後に、漱石は、国家的道徳は個人的道徳に比べて 低いとして、あくまで徳義心の高い個人主義を優先して考えていたことが明らかである。

おわりに

以上、夏目漱石晩年のとくに講演録を中心に彼の倫理観を明らかにし、さらにそれに基 づき明治後期から大正初期にかけての我が国の倫理や道徳の特徴を考察してきた。ここで 明らかになった点をまとめておきたい。 まず、漱石晩年の倫理観の特徴についてである。第 1 の特徴は、「自己本位」「内省的」「個 人」「個性」などの言葉からも分かるように、あくまで個としての人間を基点としている 点である。第 2 は、漱石の個人主義は当時の利己主義に基づく個人主義とは全く異なって いるという点である。すなわち、漱石の個人主義には徳義心や他者尊重といった道徳律に 起因しているということである。第 3 は、漱石の主張する個人主義の背景には伝統的な 「修養」及び「天道」思想が西洋の近代思想と融合して存在しているという点である。第 4 は、漱石の個人主義が国家主義、世界主義と対立するものではないということである。 そして第 5 は、大正という時代から昭和初期への倫理的な流れを予見していたという点で ある。大正 3 年の段階でこれからもまだ自然主義や利己主義が進んでいくが、近い将来に は再び反動として「定まった型」、「偶像としての理想的人間像」などが掲げられ、個人主 義が危うくなることをすでに予見していたのである。 次に、明治後期から大正初期にかけての我が国の倫理や道徳の特徴についてである。第 1 は、日露戦争の勝利に対して「一等国」になったという高慢な声に対して、「どうもこ れが一般の日本人に能く飲み込めていないように思う」というように、当時一般の日本人 が世界の先進国の仲間入りをしていたという認識が一般的だったということである。第 2 は、徳川時代などの我が国の過去の文明がどうであったのかを十分じっくりと吟味するこ となく捨て去ってしまっていたということである。第 3 は、当時の大逆事件や社会主義へ の保守的国家主義者の批判に対して、それに対抗する自然主義、個人主義、社会主義を標 榜する人々が台頭してきていたということである。第 4 は、明治44年当時の道徳・倫理に ついて、「倫理観の程度が低くなってきた」と漱石が指摘しているように、倫理上の意見 が寛大になり、世の中が穏やかになっていたということである。そして第 5 は、「近頃自

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我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴(合い言葉) に使うようです」「自分の嗜欲(しよく)を満足する計をめぐらしても差し支えない時代」 と漱石が表現しているように、利己的個人主義が拡大していたということである。大正時 代がなぜ10数年で終了し、その後急速に国家主義、軍国主義が発展していってしまったの かについて政治的、経済的などさまざまな要因があると思われるが、別な要因として、こ の最後に掲げた利己的個人主義の行き過ぎや蔓延の問題があると筆者は考えている。 最後に、現在日本中がコロナウィルス感染対策に追われており、自粛などが叫ばれてい る。漱石は、「国家が危うくなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時には個人の自 由が膨張してくる、それが当然のことです。」と述べている。いま私たちはこの窮地を乗 り越えるためには、快苦に基づく利己的個人主義を一人一人が押さえ、他者のことを想像 し「考えられる人」となることが何よりも重要であると考える。 1) 夏目漱石『私の個人主義』講談社、1978年、p.117。 2) 夏目漱石『こころ』集英社、1991年、p.140。 3) 前掲『私の個人主義』、p.39。 4) 同上書、p.43。 5) 同上書、p.44。 6) 同上書、p.46。 7) 同上書、p.50。 8) 同上書、p.59。 9) 同上書、p.60。 10) 同上書、p.61。 11) 夏目漱石『彼岸過 』新潮社、1952年、p.338。 12) 夏目漱石『行人』新潮社、1952年、p.273。 13) 同上書、p.82。 14) 同上書、p.85。 15) 同上書、p.86。 16) 同上書、p.89。 17) 同上書、p.89。 18) 同上書、p.90。 19) 同上書、p.95。 20) 同上書、pp.96∼97。 21) 同上書、p.61。 22) 同上書、p.99。 23) 同上書、p.99。 24) 同上書、p.99。

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25) 同上書、p.102。 26) 同上書、p.113。 27) 同上書、p.114。 28) 同上書、p.114。 29) 同上書、p.115。 30) 同上書、p.117。 31) 同上書、pp.134∼135。宮山昌治氏(湖北大学)の論文『大正期におけるベルクソン哲学の受容』 によれば、ベルクソン哲学の本格的な商会は西田幾多郎の『ベルクソンの哲学的方法論』(1910 年、明治44年)と『ベルクソンの純粋持続』(1911年、明治45年)を嚆矢とするとしている。また、 大正期の初期にはベルクソン哲学の大流行が起こったが、その数年後には突如終焉を迎えたと している。 32) 同上書、pp.135∼138。 33) 同上書、p.143。 34) 同上書、p.144。 35) 同上書、p.149。 36) 同上書、p.145。 37) 同上書、p.145。 38) 同上書、p.145。 39) 同上書、p.147。 40) 同上書、p.152。 41) 同上書、p.153。世界主義とは、世界市民主義、英語ではコスモポリタニズム(cosmopolitanism) とも呼ばれる。人間は理性をもっている点で平等なので全ての人間は尊重されるべきであると いう思想。コスモポリタニズムに賛同する人々をコスモポリタン(訳語は地球市民)と呼ぶ。 近代ではカントが穏健なコスモポリタニズム的思想を打ち出した。 42) 同上書、p.153。 43) 同上書、p.155。 44) 同上書、pp.156∼156。

参照

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