日本人の倫理観の変遷(その 1)
∼江戸時代から明治時代まで∼
The Change of Japanese moral values (1)
∼ from The Edo era to The Meiji era ∼
渡 邊 弘(作新学院大学人間文化学部)
1 はじめに
現在日本では、以前にも増して多くの外国人が日本を訪れている。彼らの中には、日本 人の心配りや親切さ、あるいは礼儀正しさなどを評価する人も少なくない。 8 年前の東日 本大震災における惨事の状況下にありながらも、被害にあった人たちが救済物資の配布等 に順番を守って並んでいる光景に称賛した記事が見られたのもその一例である。 こうした評価に対して、現在日本人として楽観視できない状況にあることも事実であ る。官僚や政治家の不正や生死にかかわるさまざまな事件など連日のようにメディアを通 して報道されている。こうした現代の我が国における倫理観や道徳観が希薄化してきてい ることに対して、筆者の知人で日本の歴史や思想にも大変造詣が深いカール・ベッカー京 都大学教授は(生命倫理と宗教思想史が専門)、『日本史から世界が倫理を学べるか』とい う論文の中で、次のように警告している。 「三十年前、筆者が初来日した頃、日本人の勤勉さ、独特の自然観、礼儀作法、 気配り、そして年配者や歴史伝統に対しての敬愛に、非常に感銘を受けたことを 今も鮮明に覚えています。資源がない島国にもかかわらず、徳川・明治時代の末 まで高度の文明を築き、多くの国民を養い得たのは、この日本人の勤勉さ、自然 観、生活の知恵以外のものをおいてはないでしょう。(中略)日本人がものを大 切にする習慣と独自の自然観、勤勉さ、他人を慮る礼儀作法、年配者を尊敬する 社会慣習を失ったとしたら、これを日本にとってのみならず世界にとって大変な 損失と言えるでしょう。」1) 本論では、日本人の倫理観や道徳観がどのように変容したのか、あるいは変容せずに現 代でも脈々と意識され続けているのかについて歴史的に考察する。特に本稿は、(その 1)として江戸時代から明治時代までを取り上げ、さまざまな思想家の文献などを参考にして 検討していく。
2 「修養」と「天道」を中心とした江戸時代の倫理観
まず、日本が近代化される以前の、特に江戸時代における日本人の倫理観について考察 したい。 周知のとおり、江戸時代の人々の倫理観の思想的基盤を形成していたものとしては、儒 教(朱子学、陽明学)、仏教、国学などがあげられる。とくに儒教の観点からは、この時 代においては、第 1 に「修身・斉家・治国平天下」という言葉に象徴されるように、まず 自らの素地を耕していくという修養(修身、養生)としての倫理観が考えられる。第 2 は 「天命之謂性」(『小学』)、「天下 仁に帰す。」(『論語』)というように「天道」の倫理思想 が考えられる。 まず、第 1 の修養(修身、養生)としての倫理観から吟味したい。 諸橋徹次編『廣漢和辞典(上)』によれば、「修養」の項「もと道家の語で、養生と同意 に用いる」2)のように、「修養」は「養生」と元来同意語である。すなわち、これらの語は、 単に身体的なことや精神的なことに限るわけではなく、人間が心身ともに健康で、自らの 「生」の素地を生涯にわたり養っていくということを意味している。江戸時代の人々にとっ て、さまざまな学問や文学などは、自らの心身を成長させるためのまさに「修養」「養生」 のための対象とみなされていた。実際に当時の識者たちの文献の中にも数多くこれに類す る言葉が用いられていることがわかる。次に紹介する各人物の修養にかかわる語(句)に ついては、すでに筆者が拙論『江戸時代の学習思想(1)(2)』(慶應義塾大学・三田哲学 会『哲学』所収)の中で分析したものである。表現こそ異なるものの、すべて「修養」と いう言葉に関連あるいは類似したものである。このことからも、江戸時代全般にわたり 「修養」の重要性が認識され実行されていたことが伺えるであろう。 ・中江藤樹『翁問答』…「培養」「身を修むる」「修心 性」「存心養性」 ・ 熊澤蕃山『集義和書』…「存養」「涵養」「正心修身」「養生」「己を修むる」 ・ 佐藤一斎『言志四録』…「己を修むる」「存養」「養生」「修身」「静坐修養」 ・ 大塩中斎『洗心洞剳記』…「身を修むる」「修身」「気を養ふ」「養生」「涵養」 ・ 横井小楠『学校問答書』…「修己」「修養」「修己(為)」「自家修養」「良心培養」3) また、貝原益軒(1630∼1714)は、彼が亡くなる前年に著した『養生訓』の中で、「養 生の道」とは、人間の人生そのものであり、人間が「養生」を実践すること(術)に先立っ て考えておかなければならない根本原理と述べ、たとえば、「人となりて此世に生きては、 ひとへに父母天地に孝をつくし、人倫の道を行なひ、義理にしたがひて、なるべき程は寿福をうけ、久しく世にながらへて、喜び楽みをなさん事、誠に人の各願ふ処ならずや。」4) と述べて、この世で善く生きるということは、その「父母天地に孝をつくし」て、喜び楽 しみを多く味わいながら長寿をめざすことが大切であると指摘している。 以上のように、江戸時代では修養にしろ養生にしろ、またそれに類する言葉にしても、 自己の素地をしっかりと耕して鍛えていくことこそ人間としての生き方の根本であった考 えられる。 次に、第 2 の「天道」の思想について概観してみたい。江戸時代にも、少数の知識人の 間には国学や朱子学あるいは浄土思想にもとづく明確なイデオロギーの信奉者もいた。だ が、当時の大多数の民衆は、日本的ともいえるきわめて渾然としたコスモロジーに生きて いた。 「天道」とは、個々の人々が関係的状況に応じて内的に抱く倫理的な超自我のようなも のである。「天道」は、万物を「生」へと育もうとしているという点は近世の人々の根本 的な感覚であった。「天道」は、最高の「主」であるが、それはどこかに特定するもので はなく、遍漫して万物・万人の「こころ」に依存している。「天道」は、個々の人々の領 分「相応」にその心・行のあり方が道理に叶っているか否かに応じて応報する。 先に紹介した貝原益軒の別の著書『大和俗訓』(1708年、78歳の作)中には、次のよう に人間と天との関係性について説明されている。 「およそ人は、天地の万物をうみそだて給う御めぐみの心を以て心とす。此心を 名づけて仁と云。仁は人の心に天より生まれつきたる本性なり。仁の理は人をめ ぐみ物をあはれむを徳とす。此仁の徳をたもち失はずして、天地のうみ給へる人 倫をあつく愛し、次に鳥獣草木をあはれみて、天地の人と万物を愛し給ふ御心に したがひ、天地の御めぐみのちからを助くるを以て、天地につかへ奉る道とす。 これすなはち人の道とする所にして、仁なり。」5) なお、この書物の中で益軒は、「天地」と「父母」とを対にして頻繁に使用していると 同時に、「天」という語もさまざまな語句として使用していることがわかる。たとえば、「天 下」「天年」「天命」「天道」「天君」「天の威」などである。これらは、まさに彼の宇宙観 の中心概念であり、人間観および人生観の根源となる概念であると考えられる。 また石門心学を提唱した石田梅岩(1685-1744)の思想は、神道・儒教・仏教の三教合一 説を基盤としている。その実践道徳の根本は、天地の心に帰することによって、その心を 獲得し、私心をなくして無心となり、仁義を行うというものである。その最も尊重すると ころは、正直の徳であるとされる。石田梅岩は、陽明学の天地自然の「良知」と天道思想 を根本にしている。天道思想は、太陽をオテントウサマとして神格化し、これを拝む習慣 で、江戸時代中期に庶民教化の中で広まった。神道のアマテラス、儒教の天、仏教の大日 如来などを重ねて、みな根本は同じと説くような論法は、梅岩がよくするところである。6)
3 明治時代における伝統的倫理観の継承と功利主義的倫理観の
流入拡大
明治時代の倫理観の特徴として、大きく二つの点が考えられる。第一は江戸時代の修養 観と「天道」の思想が多少様相を変えつつも依然継承していることであり、もう一つは西 洋の功利主義思想や自然主義思想に基づく近代的倫理観が流入拡大していったことである。 これに関して、新渡戸稲造(1862∼1933)の著書『修養』(明治44年発行)の一説がそ れを如実に物語っている。 「近年、修養修養と呼ぶ声がだいぶ世間に響き渡り、ほとんど一つの流行語のご とくなったについて、僕の懸念することは、今後の成り行きである。そもそも我 が国の思想界は対外十ヶ年ごとに一変するように思われるから、今日世に行わる る修養説も十年後にはいかに受け取られるであろうか、大いに考うべき問題であ る。これについて、僕は今後三つ傾向の起こらんことを思う。すなわち一は反動、 二は知行の分離、三は宗教心の発揮。」7) 事実、明治前期の開明的な思想の流入により、一時鳴りを潜めていた修養論が、明治20 年∼30年代にかけて一気に盛り上がりを見せ展開されることになっていたのである。丁酉 倫理会の修養論(1900年、明治33年)、清沢満之の「精神界」刊行による精神主義の提唱 (1900年、明治33年)、トルストイの影響を受けた西田天香の「一燈園」設立(1905年、明 治38年)、蓮沼門三の「修養団」(1906年、明治39年)、野間清治の講談社設立による『修 養全集』刊行(1911年、明治44年)、沢柳政太郎の修養論(1911年、明治44年)などがそ の例である。 これらのさまざまな修養論の展開は、個別的に見れば、活動的にも思想的にも違いがあ るがことは明らかである。それにもかかわらず、こうした人々がこぞって修養を論じる背 景を考慮したとき、そこには一連の共通した特徴が見られることも事実である。すなわち それは、どのような立場からであれ、人間の内面に関心を寄せ、その内面からの働きを現 実の外的な精神的強制力に対して、いかに自律させ、解放させていくかということに他な らない。 なお新渡戸の先の引用文の中で、一の反動とは、我が国の儒教を中心とする伝統的倫理 観に対抗する功利主義や自然主義に基づく近代的倫理観を指しており、二の知行分離につ いては、いわゆる大正時代の教養主義や個人主義を指しており、そして三の宗教心の発揮 については、さまざまな宗教や宗派の中で精神修養の問題として修養を論じているものを 指摘していると考えられる。これらの新渡戸の指摘は、その後の時代の展開を鳥瞰したと き、いかに先見性に富んだものであったかということがわかる。(1)修養観の継承∼新渡戸稲造の『修養』を通して∼ まず「修養観」について、ここでは新渡戸の著書『修養』を通して吟味したい。 新渡戸稲造は、国際連盟事務次長の要職にあり優れた「国際人」であり教育者で、また 実践的なキリスト者(クエーカー教徒)であるわけであり、そのような氏が明治のこの時 期にあえて「修養論」を展開していることは大変興味深い。新渡戸は『修養』をあらわし た目的について、「今日まで事に当たり物に触れて自ら感じたことをありのままに述べ、 もって後進の参考に供したい考えから」8)と述べている。全部で17章から構成されており、 随想論的ではありながら、修養の意味から紐解き理論的な内容となっている。 氏は、修養の意味を「修」と「養」のそれぞれの基本的意味から解説しており、「修」 について中国の古典『大学』を引用して「自己がその意志の力により、自己の一身を支配 することであると思う」9)と説明し、「養」については墨子やロックの「タブラ・ラサ」、 あるいはキリスト教のペテロの言葉を引用しながら、人間として正しい方向に導いていく ことが述べられている。新渡戸は、「修養とは修身養心」であり「身と心との健全なる発 達を図るのが目的である」の説明し、当時流行していた他の修養論とは異なる旨の説明を している。とくに、「心」の捉え方に大いなる違いがあるとして次のように説明している。 「すなわち彼等の所説によれば、『人の心は、元来動物的性質を備うるものである。 したがって心を養うといえば、いわゆる自然主義者の主唱するがごとく、心の欲 するに任せ、心をして動物的ならしめるのが、その目的ではないか。かつ我々の 実験によるも、人はとかく悪を好んで親しみやすく善を疎んじて遠ざけやすい。 この点より見ても、人心の自然の傾向は、情欲をほしいままにし、その好きなこ とを楽しむのが、すなわちこれ性に従い心を養うゆえんである。何を苦しんでか 己の欲せざることをなさん。動物の類する本能発揮がこの養心の本領ではない』 という議論が折々聞こえる。世間にごうごうたるニーチェ主義、ゴルキー主義、 自然主義、あるいは本能主義が解かれるのはこれがためである。」10) また、新渡戸は、当時流行していた個人主義思想や功利主義思想(この場合はベンサム の考え方によるもの)に基づく「修養論」とも異なるとして、次のように説明している。 「一身とは個人であると考え、これを修る道をば、ただ自己の快楽を求むれば、 それで足るとなし、身を修るとは、自己の幸福を楽しむ意であって、あえて他人 のことにかかわるものでない、(中略)極端なる慈愛説やら我利我利論を主張し、 もって修身を説く人もある。」11) 以上のような他の修養論とは一線を画した新渡戸の修養論は、著書の中で江戸時代後期 の儒学者である佐藤一斎(1772-1859)の『言志四録』*から数多く引用していることか らも、先述した江戸時代の修養思想の伝統を継承していることがわかる。ただ新渡戸の場 合は、自然主義や個人主義、本能主義のような考え方とは異なる西洋の思想、例えばジョ
ン・ロックやゲーテなどを引用していることから、理想としてのジェントルマン的な思考 (Sound Mind in Sound Body)や理想主義的倫理観が同時にあったと考えられる。
* 『言志四録』…彼が42歳から80歳まで、文化10年から嘉永 4 年まで書き続けた箴言集で、「言志録」「言 志後録」「言志晩録」「言志耋録」の四編からなる。 以上、新渡戸稲造の修養論を中心に明治時代の修養思想の動向を概観した。このことか ら、明治時代においても、いわば急速な近代化による西洋思想の流入の反動あるいは反省 としてさまざまな修養の考え方が登場し、少なくとも修養への関心は江戸時代に引き続き 人々の中に継承されていたことがわかる。 (2)「天道」思想の継承∼福澤諭吉と西郷隆盛を通して∼ こうした江戸時代からの継承は、「天道」思想についても見られる。たとえば、福澤諭 吉の『学問のすゝめ』の冒頭「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言へり。」 12)でも「天」という概念が用いられている。この場合の「天」はアメリカの独立宣言(1776)
の一節「すべての人は上から平等に造られている」(All men are created equal.)を福澤流に 表現したものという解釈が一般的であるが、彼が少なくとも「神」といわず「天」と表現 した背景には、江戸時代からの「天道」思想に慣れ親しんできた一般の人たちに対してわ かりやすく表現しようとした意図があったと考えられる。冒頭直後においても、「万物の 霊たる身と心をもって天地の間にあるよろずの物を資り」という表現なども儒教的であ る。また、その他にも「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものな り」や「人の生まるる天の然らしむるところにて人力にあらず」をはじめ、福澤の書いた 文書の中で、「天下」「天資」「天性」「天賦」「天稟」あるいは「天然の持前」といった言 葉が頻繁に用いられている。 福澤諭吉の他にも、西郷隆盛や先に紹介した新渡戸稲造などの書物の中にも見られる。 西郷の場合は、終生に渡って自己修養の目的とし天命に対する自覚としての「敬天愛人」 という言葉が象徴的である。ちなみに、新渡戸は、先に紹介した『修養』の著書に西郷を 引用して次のように書いている。 「西郷南州翁の書かれたものの中に、『人を相手にせず天を相手とせよ。天を相手 として己を尽くし、人をとがめず我が誠の足らざるを尋ぬべし』という句がある。 僕は金言だと思っている。」13) 以上のように明治時代における天道思想も、先の修養論の高揚と同様、その背景には当 時の天皇制国家主義体制を中心とした現実の外的な精神的強制力や閉塞的状況に対して、 いかに人間性を開放させていくかということがあったと考えられる。ちなみに、石川啄木 の『雲は天才である』の「天才」という表現も、まさに時代を反映していたといえる。
4 功利主義思想に基づく近代的倫理観の流入拡大~陸奥宗光と
西周~
前節では、西洋思想のさまざまな影響を受けつつも、その根本においては、依然江戸時 代の「修養思想」と「天道思想」に基づく倫理観が継承されていったことを、新渡戸稲造 や福澤諭吉などの文献を中心に見てきた。 だが一方では、近代国家成立を目指す我が国において、まったく異なった倫理観が流入 拡大することになり、その後の日本人の倫理観や道徳観に多大な影響を与えていくことに なる。それの代表的なものが、功利主義思想に基づく近代的倫理観である。特にここでは、 その功利主義思想をいち早く導入し影響を与えた二人の人物、すなわち陸奥宗光と西周を 中心に論じたい。 (1)陸奥宗光とベンサムの功利主義 我が国は開国に伴い、早急な近代的国家成立のため、まずはその根本思想の変化が必要 だとし、これまでの東洋的な考え方を脱却し、西洋の合理的で資本主義的な発想が日本に 取り入れるべきだと考えるようになった。また、そうした欧米の知識を取り入れることに より、国民一人ひとりの人材育成を行なって、富国強兵を実現しようとした。そうした状 況の中、政治的手法・法整備の観点から功利主義に啓発されて、政府内から改革し国家の 安定を図ろうとしたのが陸奥宗光(1844−1897)である。 陸奥は、身分の高い武士の子として紀州藩(現在の和歌山県と三重県南部)に生まれ、 15歳で江戸に出て儒学を学び、その後尊王攘夷運動に参加し、やがて有名志士との面会を 求めて、桂小五郎、板垣退助、坂本龍馬、勝海舟などと交流を持った。その後、攘夷の不 可能なことを知ることとなり、24歳のときに坂本龍馬の海援隊に入り、討幕運動の活動家 となる。やがて陸奥は、岩倉によって明治時代成立とともに、新政府入りを果たした。だ が、1877年に西南戦争が始まると、それを機に藩閥政府を転覆しようと画策していた土佐 立志社に加担したとされ、陸奥は逮捕され、1878年(明治11年)から 5 年間獄中で過ごす ことになり、その間世の中と離れて勉学に集中していた。このとき、ベンサムの著した 『An Introduction to the Principles of Morals and Legislation』を読破し、それを『利学正宗』として訳した。 このベンサムの功利主義思想によって、陸奥は自らの思想に根拠を見出すとともに、こ れまで重視されてきた儒学(特に朱子学)が近代化にとっては足枷にしかならないことを 理解した。新たな根拠として「天4」によらず、ベンサムの唱えた「快苦4 4」を基準とした、 快楽の増大と苦痛の減少による幸福追求という功利主義思想は極めて魅力的に映ったこと は間違いない。功利主義は、人間の感覚を一切の価値判断の基準に据えるものであり、そ
うすることによって、伝統や権力といった、外から押し付けられた既成の倫理を捉えなお すことが目的とされた思想である。ベンサムの著書『An Introduction to the Principles of Morals and Legislation』の全文を翻訳したときに、同じく獄中で『面壁独語』『福堂独語』『資 治性理談』という文章も書き記しており、その内容を見ると、陸奥はベンサムに対し、先 生をつけて呼ぶほどまでに傾倒していたことが伺える。例えば、『面壁独語』の冒頭で次 のように述べている。 「英國の哲學ベンサム先生の立法論綱に、人類苦樂の感情を分析細別して、一 の表記を作れり、其表中に記憶表記第十一の快樂、又想像同第十二の快樂といふ 者あり、(中略)唯々幸に胸中常に此二快樂ありて、間々以て幽憂を消すること を得たり、先生眞に余を欺かざるなり、(以下略)」14) このように、自分が逮捕されて以来、人生において挫折を感じ悲観に暮れていたところ に、ベンサムの思想が自己の心の支えとなっていたと述べ、またベンサムの思想が自分を 裏切らなかったと感嘆している。さらに陸奥は、その著『資治性理談』の中で、「人性の 原始即ち基礎は、善根又は悪根を固有する者に非らず、唯々一個の情欲ありて存するのみ、 而して此情欲を達するが爲めに、其體力と智慮とを具備す、(以下略)」15)というように、 人は本来善悪を生じさせるもとになるものを持っているわけではなく、快苦に対する欲求 こそが、そういった人間固有の能力を発揮するための動機になっていると主張している。 そして、ベンサムの快苦原理に基づいて説明をしつつも、ベンサムがその快苦をそれぞれ 26種類に分類したのに対し、陸奥は快苦を突き詰めた先にはただ一つ「欲」があるのみと した。それは「快楽を求める欲」と「苦を避けようとする欲」こそが行動原理の根源だと 定義付けたのである。 国民の近代化への意識改革、特に一人ひとりが修養などによる個々の人格の高尚化を目 指すよりも、現実の利益追求という実利的な価値観への変更こそが社会全体を幸福にする と考えていたためであった。そのための「欲」の肯定であり、それを保護するための政治 的手法の実現であった。自由主義を実践するために陸奥は、江戸時代から推奨されてきた 倹約政策を廃止するとともに、藩の政策によってその職種を決定してしまうといったよう な現在の体制を崩し、それぞれの人々が一番 かる仕事をし、各自の欲望を満足させるよ う政府が保護していくべきだと考えた。これは経済の活性化による国力増強という狙いと ともに、ベンサムの「最大多数の幸福原理」に基づく快楽計算の原理に立った幸福観によっ て、国民の自由主義思想を啓発させるための政策であったことは明らかである。 陸奥が功利主義思想の導入を行なったことには、それまでの儒学の「天」に基づく合理 主義から、人間の感覚を基準とした合理的判断への移行と、近代化の実現の基礎となる自 由主義社会へ向けた憲法と議会の成立、またそのための国民意識の向上、そしてなにより も社会全体の利益を増進させるという一致した目標に向かって人々を促していこうという
政治的意図3 3 3 3 3 があったためである。ただ陸奥の功利主義的発想は近代化を急ぐあまり、活動 や制度の効率を至上価値とする「効率主義」や人々の効用を至上価値とする「効用主義」 という偏った価値観をも根拠づけていくことになった。 (2)西周と J.S ミルの功利主義 陸奥とは異なる観点から功利主義を捉え、ベンサムよりもむしろ J.S ミルの思想から独 自の理論を組み立てたのが西周(1829−1897)である。西の功利主義に対する関心は、陸 奥の捉えた功利主義があくまで政治的手法として採用された点にあったのに対して、人々 の道徳規範として功利主義を位置づける点にあった。 西周は、津和野藩(現在の島根県)に生まれ、12歳から藩校養老館で朱子学を学び、20 歳のときに西の秀才ぶりが藩主の目に留まり、家業である医者を継がずに儒学者として専 念するよう命じられ、津和野の藩校で教師として働くこととなる。やがて、江戸に派遣さ せられることとなり、オランダ語や数学を学び、29歳のときに幕府直轄の洋学研究機関で ある蕃所調所に採用されることになる。34歳のとき、西はオランダに留学し、ライデン大 学のシモン・フィセリング教授について、自然法や経済学、統計学などの講義を受けると ともに、後に西が依拠することになる J.S. ミルやベンサムの功利主義、コントの実証主義 の思想を学んだ。帰国後、開成所と改称された洋学研究機関の教授として復職し、またそ の翌年には、京都で私塾を開き、五百人にも及ぶ青年志士に西洋の学問や外国語の講義を 行なった。1873年(明治 6 年)、森有礼の呼びかけによって結社した「明六社」への参加 である。「明六社」とは、明治 6 年に、森有礼・西周・福澤諭吉・津田真道・加藤弘之* といった洋学者が中心となって、啓蒙活動を目的として結成した日本で最初の近代的啓蒙 学術団体であり、2 年間という短い期間にもかかわらず、明六社が世間に与えた影響は大 きかった。 * 森有礼は 摩藩出身の政治家であり、後の初代文部大臣でもある。津田真道は津山藩(現岡山県)出身 で幕府の蕃所調所で働き、明治政府樹立後は司法省に出仕した。加藤弘之は出石藩(現兵庫県)出身で 幕府の蕃所調所で働き、明治政府樹立後は外務大丞を歴任した。また東京大学の初代総長でもある。 西は、1875年(明治 8)に『人生三宝説』*を著し、西洋思想を東洋思想と絡めて、人 生や社会、そして道徳規範について論じ、自らがこれまで洋学者として学んできたことを 国民に伝えようとした。 * この西による『人生三宝説』こそ、彼にとっての功利主義思想の解釈が明確に表れたものであった。 この『人生三宝説』は、明六雑誌の第三十八号から廃刊直前の第四十二号まで掲載された論文で、断 片的な小論としてではなく、これまでの西の哲学論をまとめた連載物として発表されたものである。 そこには、西洋思想をどうやって既存の知識である東洋思想と結びつけて導入すべきか が表され、その上で西なりの思想が展開されている。そして、西洋思想の中心としては、
特に J.S. ミルの功利主義思想を取り上げている。西は、著書『人生三宝説』の冒頭で、J.S. ミ ルの功利主義思想について、「ベンサムの利学の道徳論をジォン・スチワルト・ミル氏の 拡張せられたるは、近時道徳上の一大変革なり」16)と述べ、倫理学における大変革だと 評価し傾倒していた。そして西は、ミルの功利主義思想にこそ、人々を啓蒙する力がある として、これまでの外から押し付けられた古い慣習や価値観から脱却し、人々の最大福祉 の実現を人生の目的とするべきだと主張し、ミルの著作を留学時に学んだときにミルの 『Utilitarianism』に書かれていた“the great happiness”を「最大福祉」と訳した。
他の翻訳者が「幸福」と訳したのを、わざわざ「福祉」と呼んだことには、その「祉」 の意味を重視したためであると言える。『大漢語林』によると「祉」には、「しあわせ。神 から授かる幸福」17)といった意味があるという。また、西は幸福を「康福」と書く場合 もあるが、この「康福」も「福祉」同様の意味として理解することができる。ちなみに、「康」 には、「①やすらか。②丈夫。③やわらぐ。④たのしい。⑤しずか。⑥大きい。⑦大路。 ⑧むなしい。⑨かめ。また、われがめ。」18)といった意味がある。西は、「幸福」という 概念を、天からの授かりものとしての「幸福」と、個人が求める経験する「幸福」に区分 している。『人生三宝説』においても、最大幸福の意味で、最大福祉の実現と述べているが、 これは社会的な存在としての人間の幸福を「福祉」と呼んで貴び、個人的な幸福を「康福」 と使い分けていることからもわかるように、利己的な意味での「幸福」の追求にならない ように、西が意識して使用していたことが推測される。ミル自身も精神的な快楽を重視し て、利己的な「幸福」の追求に陥らないようにと主張していた。その上で西は、「幸福」 の追求という明確な目標を立てながらも、どのようにしたら利己的な欲望に陥らずに、ミ ルの言う質的功利主義を実践することができるかを自分なりに考えていた。そして、その 「幸福」を最大限に実現する方法としての提案が『人生三宝説』であったのである。 西は人生の最大の目的が「最大福祉」であるとし、これを「人間第一最大の眼目」だと 掲げ、それを実現する「第二の眼目」として「健康(マメ)・知識(チエ)・富有(トミ)」 という三宝を挙げた。この三宝を「欲し、希い、求むる」ことが最大福祉を達成する手立 てとなると西は主張した。つまり、この三宝を基準に持って「幸福」を求めることが質的 功利主義の実現につながると考えたのである。ミルは、快楽の質の高さを比べるときに、 快楽を肉体的快楽と精神的快楽に二分し、両方の快楽をよく知る高尚な人物(例えばソク ラテスといった人物)を想定し、その人が選ぶであろう快楽がより高次のものであるとし た。西も、またミル同様に孔子や孟子の教えを例に挙げて、過去の聖人たちも結局はこの 三宝を根本に据えて物事を考えていたとして、その正しさを説こうとした。 ベンサムの唱えた功利主義において問題となっていた、全体の幸福を増進するために は、少数者の幸福を犠牲にしてもよいのかという批判に答えるものでもあった。まずは、 他人の利益の損なわないように配慮をし、その上で自己の利益を考えるという、いわば利
他的な視点に立った快楽計算を行なおうとした。そして、この他者を優先しようとする心 持ちは「すなわち人を愛する」如くだとし、これこそ「人世至大至高、至美至善の徳」だ とした。19) 西のこの利他的な快楽を中心に考えた功利主義思想は、陸奥の捉えた功利主義思想とは 異なり、国を経済的に発展させるための効率的な思考方法としてではなく、あくまで国民 の啓蒙を目的として道徳規範を主張したものであった。 『人生三宝説』の出版から 2 年後、西は J.S. ミルの『Utilitarianism』を『利学』として正 式に翻訳し出版し、自己の論文の根拠となった著作を世間に発表している。そして、明六 社が解散してからも、東京学士会院において会長として活動したり、また東京師範学校 (現筑波大学)や獨逸学協会学校(私立の旧制学校)の校長にも任命されたりと現場に立っ て活動した。 以上、陸奥宗光と西周のそれぞれの功利主義思想の特徴について述べてきたが、その考 え方においては、両者の間にかなりの隔たりがあったことがわかる。陸奥においては、政 治主導で近代国家を成立させるための功利主義思想であり、西においては学者という立場 からの国民啓蒙のための功利主義思想であった。その後の我が国の倫理観の流れを考えた 場合、やはり政治的、軍事的、経済的各視点から富国強兵、殖産興業を旗印として近代化 を目指していた日本の当時の状況から考えたとき、陸奥と西の両者の考え方を比較した場 合、やはり陸奥の考え方が当時の人々にとってはわかりやすかったこともあり、当然優先 され広がりをみせていったと推測される。そしてこの流れは、次の大正時代へと拡大し、 個人主義や利己主義の問題が浮上してくることになるのである。
5 おわりに
以上、日本人の倫理観について、とくに江戸時代から明治時代の「修養思想」と「天道 思想」の変遷と明治時代の功利主義思想の流入を中心に論じてきた。 江戸時代の倫理観の特徴として、第 1 は、修養や養生、またそれに類する言葉などを通 して、全人的な視点から自己の素地をしっかりと耕し鍛えていくことこそ人間としての生 き方の根本であると考えていたことである。第 2 は、当時の人々は、個々の人々が関係的 状況に応じて内的に抱く倫理的な超自我としての「天道」を思想的拠り所として、日本的 ともいえるきわめて渾然としたコスモロジーに生きていたということである。 そして明治時代になり、近代化を急激に進めようとした反動や反省として、再び「修養」 や「天道」の考え方が興隆してきた。その一方では、西洋からの功利主義などの近代思想 が我が国に流入し、とくにその先駆けとなった政治家としての陸奥宗光や思想家としての 西周などにより、日本人の倫理観に大きく影響を与えていくことになったのである。この功利主義に基づく倫理観は、その次の大正時代においてさらに拡大していくことになり、 一方修養思想や天道思想に基づく倫理観も、大正期の教養主義思想をはじめとする倫理観 にしだいに変容していくことになるのである。この点については次回論じることにしたい。 注 1) カール・ベッカー「日本史から世界が倫理を学べるか」(上廣倫理財団編『倫理的叡智を求めて』 東洋館出版社、2007年所収)、pp.72∼73。 2) 諸橋徹次編『廣漢和辞典(上)』大修館書店、1981年、p.1264。 3) 渡邊 弘「江戸時代の学習思想(その 2)」(『哲学』第105集 2000年12月所収)、 pp.131∼132。 所収) 4) 貝原益軒・石川謙校訂『養生訓・和俗童子訓』岩波文庫、1961年、p.24。 5) 益軒会編纂『益軒全集巻之三』益軒全集刊行部、1911年、p.48。 6) 今井淳・山本眞功編『石門心学の思想』ぺりかん社、2006年参照。 7) 新渡戸稲造『修養』タチバナ教養文庫、2002年、p.36 8) 同上、p.4。 9) 同上、p.24。 10) 同上、p.26。 11) 同上、p.27。 12) 永井道雄責任編集『日本の名著33福沢諭吉』1984年、p.51。 13) 前掲『修養』タチバナ教養文庫、p.71。 14) 陸奥廣吉『伯爵陸奥宗光遺稿』岩波書店、1929年、pp.15∼16。 15) 陸奥廣吉『伯爵陸奥宗光遺稿』岩波書店、1929年、p.181。 16) 植手通有編『日本の名著34西周加藤弘之』中央公論社、1971年、p.229。 17) 鎌田正・米山寅太郎『大漢語林』大修館書店、1992年、p.1019。 18) 同上、p.469。 19) 前掲『日本の名著34西周加藤弘之』、p.236。