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漱 石 の 思 索

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1

漱 石 の 思 索

塚  本  勝  義

日木の作家には思想性が稀薄だというマ。この批判は、終戦後の新人たちは別として、大 体においてあたっているのではないかと思う。もちろん、思想性そのものの概念規定如何 によって、この批判が再批判される余地があるとしても。とにかく、正宗白鳥。永井荷風 谷崎潤一郎・武者小路実篤・志賀直哉、あるいは川端康成といった作家たちの展開を眺め るとき、観る眼に厳しさを加えたこと、いわゆる芸の上達ということは指摘できるが、思 想の成長乃至深化という面には必ずしもはっきりした変化は認められない。かかる傾向を 生み出す原因として、わが国の作家の拝情的性格が指摘されている。思索する前に先ず啄 嘆してしまうというのだ。たとえば新思想が流入する。すると、その新思想と四つに組ん で泥まみれになって思索することを忘れて、感激的に受容して身を任せてしまう。日本自 然主義文学の先達ともいうべき小杉天外の主張にも、又、島崎藤村の「破戒」・にも詠嘆的 要素が濃厚である。だから冷徹な態度で、ぎりぎりの点まで思索する思想性が少い。たし

かに日本作家の手予情性は、日本作家を日本作家として特色づけると共に、文学の思想性と いう立場から観るなら、大きな一つの弱点といえるだろう。

夏目漱石にも好情的性格があった。少くとも「倫敦塔」「幻影の盾」「莚露行」から「

草枕」あたりの作品にはこの性格が強く出ている。併しながら「二百十日」を境として漱 石は、[この豊かな拝情的性格を俳句・漢詩の方面に放出して、小説創作の分野では主知的 思索を作品形成の主軸とするに到った。そうして晩年の絶筆「明暗」に行きつくまで、正 に執拗な思索活動即創作活動を続けた。ここに漱石の作家としての独自的な存在が認めら れる。よって、漱石文学の本質を究明するためには、彼が如何なる態度を持して、如何な

る方法で思索したかを明確にする必要がある。

思索活動の基点

明治三十九年十月二十一日附森田白楊宛書簡の中に、

僕の事を英国趣味だといふものがある。糞でも食ふがい〜。筍しくも天地の問に一個 の漱石が漱石として存在する間は漱石は遂に漱石にして別人とはなれません。英国趣 味があるなら、漱石が英人に似てゐるのではないQ英人が漱石に似てゐるのである。

(2)

と書いた。すべてを許した門下生に与えた書簡の中であるから、あたり揮らぬ強引な言 い方をしているが、そのために却って本音を吐きだしたとも見られる。人間は不用意の間 に正体を暴露する。この言葉によって漱石の思索活動の基点が「自己」に在った事実が明 瞭であろう。明治四十二年の「断片」の中にも「最後ノ権威ハ自己ニアリ」という言葉が 見出せる。

      あげ      いけま

рヘ暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上ます。然し恐れては不可 せん。暗いものを凝と見詰めて、その中から貴方の参考になるものを御櫻みなさい。

私の暗いといふのは、固より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。又倫 理的に育てられた男です。其倫理上の考へは、今の若い人と大分違った所があるかも         ど

mれません。然し何う間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着では ω

ありません。だから是から発達しやうといふ貴方には幾分か参考になるだらうと思ふ のです。

これは「こ〜ろ」の中の「先生と遺書」の一節であるが、倫理的思索の基点が「自己」

に在ることを明言している。然らば漱石はかかる「自己」を何時頃から確立したのであろ

うか。

二級を落第した。追試験を受けようと思えば可能だったが敢て受験しなかった。そうして 真面目に勉強して信用ある人間とならなければ駄目だ、と考えた。まことに素直な常識的 な考え方であった。同二十一年九月、第一高等中学校本科一年入学に際し、自分は一々此 方から世の中に度を合わせて行くことはできない人間だから口をきかんでも済む建築家に

(1)

なろうと志した。が、学友米山保三郎に忠告されて黙々として文学研究に目標を変えた。

根強い「自己」は未だ現われていない。ところが翌二十二年になると、過去の道徳も信ぜ られず、新しい道徳も考えられず、その瞬間の感情で善悪を決める一という「自己」に 成長した。二十三歳のときである。併し確信ある「自己」とはなし得ず、しばらく悶々の 時がつづき、これが不動の「自己」として定立されたのは実に明治三十四年、彼が三十五

(2)

歳の時であった。当時漱石はロンドン留学中であった。五月五日、彼の下宿に池田菊苗が やって来て、六月二十六日まで滞在していた。此の間漱石は大いに池田菊苗と談論し、科 学的思索の方法に自信を持たせられ、その思索の基点を「自己」に求むべきことを示唆さ れて、いわゆる自己本位を確立したのである。そして八、九月頃「文学論」の執筆に着手

したのであった。思えば漱石はまことに友人に恵まれた幸福者である。正岡子規に依って 俳文学への眼を開かれ、米山保三郎に依って文学研究へ導かれ、池田菊苗に依って自己本 位の確立へと到達したのである。あとのことだが、創作への道を拓いたのも亦友人高浜虚

(3)

塚 木: 漱 石 の 思 索       3

子であった。      (31

それなら漱石は思索活動の基点となる自己をどのように自覚していたであろうか。「戦 後文界の趨勢」の中で、

成程日本には文学としては西洋に向って誇るに足るものなく、彼は頗る発達して居た かも知れない。然し日本と西洋とは凡ての点に於て異って同じくない。敢て故意に日 本を区別するのではなく、事実異って居る。その異なる国民であれば、一種の文明、

一種の歴史といふやうに、日本としての特性を有って今の世の中に生存して居るので よしんばどの位西洋に感服しても、これを国民に紹介するに当っては日本人としての 特性を忘れてはならんので、これを判断するのもその通り日本人としての特性を離れ てはならぬ。凡て物を判断するの標準は世と時とを問はず現在が標準である。自己が 標準となるのである。

と説いている。談話筆記であるため、整った文章となっていないが、漱石のいわんとし た考えは十分に辿り得る。即ち思索の基点となる「自己」は、日本人としての特性を忘れ ない「自己」であり、現代に生きる「自己」である。換言すれば民族性と時代性とを明確 に自覚した「自己」であらねばならぬ、という考え方である。民族性と時代性とから切り 離された観念的な「自己」、抽象的な「自己」ではない。現実に実在する歴史的自己であ

る。誤解され易いのは「日本人としての特性」だが、これは明治の国粋主義者が鳴物入り       に)

ナ持ち廻った所謂国民性とは少々異なる。「吾人ノ詩ト云フ観念ト西洋人トハ根本二於テ 余程違フナリ。」という言葉に現わされているように、冷静に検討吟味された上で認めら れた差異である。盲信や自己陶醇や対立意識などを先にして、都合よくこね上げた所謂国 民性ではない。日本人と西洋人とを冷静に比較して、そこで認識された本質的事実の差異

を㌔・うて、・る。

(1)漱石が敬慕した親友の一人。明治二十六年東京帝国大学の哲学科を卒業し、大学院に入学し、

「空間論1という題目で研究をっづけ、同.二十九年、ドイッ留学の直前、チフスに罹って天折 した。号を天然、別に大愚山人とも号した。米山の計に接したとき漱石は「米山の不幸返す返 す気の毒の至に存候文科の一英才を失ひ候事庸恨の極に御座候同人如きは文科大学あってより 文科大学閉つるまでまたとあるまじき大怪物に御座候蟄竜未だ雲雨を起さずして逝く禄々の徒 或は之を以て轍鮒に比せん残念」(斎藤阿具宛書簡の一節)と書いている。同四十二年四月七

日には、

空間を研究せる天然居士の肖像に題す

空に消ゆる鐸の響や春の塔

という句を作っている。「吾輩は猫である」の中にも米山をモデルにしたところがある。「こ

〜ろ」の中のKも米山がモデルではないか、という説もあるが、これは誤解のようである。K は神経質で窮屈な人間として設定されている。

② 京都の人。後に化学者として大成した。理学博士。束大教授。「味の素」を創製。(186

(4)

4−1936)

(3〕明治三十八年八月一日号r新小説」所哉。

@)W.B Worsfold:The Principles of Critlcismの書入れ。

思索活動の基点となった自己の内容

然らば漱石の思索活動の基点となった民族性と時代性とをはらむ具体的自己は如何なる

「自己」であったか、その民族性・時代性の自覚並びにそれらを含む自己の内容を如何に 彼は自覚していたかを明らかにしなければならない。

民族性に関しては前に触れたように、作品を読んだ場合、西洋人と臼木人では感じ方が 異る。それが民族性の弟であると言い、又、「草枕」では東洋人(日本人を含めて)は非 人情芸術を生み出す民族だと説いている。ロンドン留学中の日記・書簡や断片には英国及 び英国人に関する所見批判が数多く見られる。そうして夫等は何れも東洋・日本を念頭に おいて、比較対照しながら書かれてある,併し何れも直覚的な見解で、両者に差異がある という点を繰り返した程度である。ただ見落してならぬことは、英国・英国人の美点を率 直に肯定すると同時に欠点をも鋭く洞見していることである。永井荷風がパリを陶醇的に 讃美的に受容して来たのとは正に対瞭的である。

併し、現代性に就いては、かなり具体的に感じとったものを表明している。(薩にいふ 狭い意味の現代精神といふのは、白我発展の傾向を云ふのである。」(近作小説二三に就 て)という。即ち、漱石の自己を形成する現代精神の中心をなすものは「自我発展」の傾 向であるというのである。明治精神の本流が自我確立への歩みであった事実は周知の通り である。この自覚はこのまま肯定されよう。そうして、その「自我発展」の好典型が漱石

の自己であった。次に政治経済の面については、  (2)

欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候此不平均は幾多有為の人材 を年々餓死せしめ若くは無教育に終らしめ却って平凡なる金持をして愚なる主張を実

行せしめる傾なくやと存候幸ひにして平凡なるものも今日の教育を受くれば一応の分        ㈲

別生じ且耶蘇教の随性と仏国革命の股鑑遠からざるより是等庸凡なる金持共も利己一 遍に流れず他の為め人の為に尽力致候形跡有之候は今日失敗の社会の寿命を幾分か長 くする事と存候日本にて之と同様の境遇に向ひ候は町(現に向ひつ〜あると存候)か の土方人足の知識文字の発達する未来に於ては由々しき大事と存候カールマークスの 所論の如きは単に純粋の理窟としても歓点有之べくとは存候へども今日の世界に此説 の出つるは当然の事と存候

というように、貧富懸隔という現象を観て資本主義社会の重大な危機を自覚し〜社会主

(5)

塚本:漱石の思索      5

義思想発生の必然を認めている。併しながら漱石の捉えた資本並養社会の行き詰りは、資 本主義の機構そのものに内在する矛盾に起因するという認識ではなかった。「二百十日」

や「野分」を一読、ても判る勘それは資本家と呼ぶ燗の道伽貧困に因するもので あると解釈した。彼等の人間悪がかかる危機を将来したとなした。「こ㌧ろ」の主人公「

先生」の如く倫理的に生まれついた漱石の見解として、けだし誠に自然な見解といえるだ ろう。而して、資本家の道徳心欠乏も亦危機発生に一役買っている事実も否定し得ないの であるから、この見解は的外れだということはできない。ここで漱石と社会主義との関連      一

ノついて一言しておきたい。漱石の社会主義への関心は、はやく明治ご十四年十一月十日 附正岡子規宛書簡の中に見出せる。「社会主義は高天原連より見れば悪説なり。」という のがそれである。高天原信者から観れば悪説だが、われわれ地上連中から見れば善説だ、

て社界主義故堺枯川と同列に加はりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候」と書いた。勿論

たことは事実である。

更に漱石は資本主義社会において、自我の奔放な発展と個人の自由を肯定しておきなが ら、資本家やその味方が、逆にそれを制約しつつある実状が、資本主義社会そのものを自 壊させることにも気づいて、「草枕」の画工をして次の如くいわしめている。

文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方       (マ}

法によって此個性を踏み付け様とする。一人前何坪何合かの地面を与へて、此地面の うちでは疾るとも起きるとも勝手にせよと云ふのが現今の文明である。同時に此何坪 何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが 現今の文明である。何坪何合のうちで自由を壇にしたものが、此鉄柵外にも自由を檀 にしたくなるのが自然の勢である。憐むべき文明の国民は日夜に此鉄柵に囎み付いて 胞嘩して居る。文明は個人に自由を与へて虎の如く猛からしめたる後、之を濫穽の内 に投げ込んで、天下の平和を維持しつ㌧ある。此平稲は真の平和ではない。動物園の 虎が見物人を睨めて、寝転んで居ると同様な平和である。

やや誇張の目立つ文の調子であるが、その実質は当代社会の断面を見事に道破してい る。漱石のいう「虎」即ち「大衆」の勢力獲得が彼以後における社会の展開の実態に他な

      に)らぬ。尚、漱石が、資本主義と結合した強力な国家主義の存在を、「欧洲戦争、宗教、社

会主義、経済、人道、皆国家主義に勝つ彪はず」と指摘した事実も見落し得ない。牢固た る国家主義の実力を忘却して、思想いじくりに憂身をやつす様な甘い漱石ではなかった。

「国家主義に勝つ能は」ざる事情は今日においてもあまり変わっておらぬ筈である。次に

(6)

漱石の自己は現代日本を全体的にはどの様に自覚していたであろうか。同四十四年八月・

和歌山市で講演した「現代日本の開化」において、

西洋の開化(即ち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。

こ〜に内発的と云ふのは内から自然に出て発展すると云ふ意味で丁度花が開くやうに おのつから蕾が破れて花辮が外に向ふのを云ひ、又外発的とは外からおっかぶさった 他の力で已むを得ず一種の形式を取るのを指した積なのです。

と論じている。これは1認村透谷が,明治文明を繭的文明と解したのと棚的}・同じ見 解だといえよう。民族の内奥から必然的に成長発展した日本文明ではなくして・外部から 取り入れて木に竹を接いだ様に、ぶざまにでっち上げた文明だ、というのである。かかる 傾向が現在に於ても顕著であることは周知の通りである。地表には外発文化の仇花が咲き 乱れているとき、地下には封建的なものが根強く流れていた。漱石はそれをも鋭く見分け て無遠慮に批判した。「吾輩は猫である」の苦沙弥をして、「大和魂はそれ天狗の類か」

と皮肉らせたのも、この封建性に対する象徴的攻撃にほかならぬ。かくの如く漱石は当代 日本を新旧混在のぶざまな相において把握した。そのぶざまと見た自覚を・倫理の面に限 定して探ってみよう。

「坊っちゃん」の半面だけを読んで、漱石の倫理思想は伝統のそれから一歩も出ていな いと評する人もあるが、それは明らかに誤解である。「それから」一・篇を通読しただけで

そんな半面的解釈は雲散霧消するはずだ。彼ぐらい人間性に即する新しい倫理を執拗に求       (6)

゚た作家は稀である。併し「古キ道徳ヲ破壊スルハ新シキ道徳ヲ建立スル時ニノミ許サル ベキモノナリ」という愼重さを忘れぬ。徒らに旧道徳を破壊するのみで快を貧る様な浮薄

さがない。この愼重さを曲解して封建倫理から出ていないと評するのである。勿論・漱石 といえども旧倫理から完全に脱却することはできず、その残倖を留めている事実は後述す る通りである。併し、決して旧倫理でこりかたまった人間ではなかったのである。ところ で、資本主義を輸入して俄に仕立てた日本資本主義は、新しき倫理を作る努力をせずに旧       (

マ理を無造作に踏みにじったので、倫理のみだれた日本となってしまった、と漱石は解し た。「野分」の主人公白井道也をして黄金万能主義を非雄させ、「それから」の代助に・

日本は物質文明で徳義を踏みつぶしたと歎かせたのは、その意味においてであった・「思 ひ出す事など」の中で(H好意の干乾びた社会」と語ったのもやはりその意味であった。だ

から(ソ世の中は泣くにはあ謝母稽である.笑ふにはあまり醗である.」と感じたし、

(甲近来世の中に住んで居るのが小朧のなかに浮いて居る龍気がする.朋力・鞭だか

ら自分も嚥臭い事だらうと思ふ。」とくさらざるを得なかった。これらが漱石の「自己」

にはらまれた危機に直面する倫理のみだれた日本の現代であったQ

(7)

塚本:漱石の思索       7

かくの如く民族性と時代性とを自覚していた漱石は、それらを内包する全的自己を端的 に如何に自覚していたであろうか。

余は日本人として、神武天皇以来の日本人が、如何なる事業をわが歴史上に発展せる かの大問題を・過去に控へて生息するものである。固より余一人の仕事は、余一人の 仕事に違ひないのだから、余一人の意志で成就もし破壊もする積ではあるが、余の過 去、一もっと大きく云へば、わが祖先が余の生れぬ前に残して行って呉れた過去が

      ㈲余の什事の幾分かを既に余の生れた時に限定して仕舞った様な心持がする。〔東洋美

術図譜〕

と云う。自分はどこまでも自分である。だから自分の意志で行動する。けれども、その 自分である自分を大局的に観れば、過去に制約された自分である。即ち自分は、結局は歴 史的存在であるから、伝統に厳しく制約された自分にほかならぬ、という自覚であった。

これは判り切った人間存在の事実である。判り切っているが故にややもすれば忘却に淵に 埋没し易い自覚である。然るに漱石は、はっきりこの事実を胸に抱いていた。そうして、

       qD自由なるべき自己の限界点を冷厳に凝視していた。「僕の趣味は頗る東洋的発句的だから

倫敦杯にはむかない支那へでも洋行してフカの鰭か何かをどうも乙だ杯と言ひながら賞翫

@       囮       (凋して見度い」と言い、若くして「南画の世界に住んで見たい」と憧れ、「私は禅坊さんと

あまり交際がありません。然し禅坊さんが好きです」と書き送る。すべて伝統に制約され ている自己認識の表白にほかならぬ。併し漱石のこの認識は、もっと生々しい微妙な面に まで徹していた。彼は人間の平等を信じながら、女は本能的に馬鹿だと見下げ、漁師を赤 フンと冷かし、農民を土百姓とさげすみ、実業家を素町人と罵倒する所謂封建意識を根強 く持っていた。だから貧民に同情しながら他の場合にはこれを軽蔑したりする矛盾を冒す。

けれども漱石は、かかる伝統意識が自己の内部に存在することを明確に自覚していたので

(④      (マ)

ある。さればこそ「文学論」の中で「吾人の封建杓情神と衝突するを免れ能はざるなり」

115)

と大胆に書いている。「陣を命じた」と書いて平気でいた宮本百合子あたりの自己意識と       

ヘ全く質を異にする。自己の持つ「新」に弦惑されて、背負い込んでいる「旧」を見失う 様なだらしない漱石ではなかった。

漱石は伝統に制約された古い自己を自覚すると共に西洋文化を少からず受容している自 飼      ㈲ 己をも自覚していた。されば「私の頭は半分西洋で、半分は日本だ。」と述懐し、「余が 現在の頭を支配し余が将来の仕事に影響するものは残念ながら、わが祖先のもたらした過 去でなくって、却て異人種の海の向ふから持って来てくれた思想である。一日余は余の書 斎に坐って、四方に拉べてある書棚を見渡して、其中に詰まってゐる金文字の名前が悉く 西洋語であるのに気が付いて驚いた事がある。」とやや誇張灼に書かざるを得なかったQ

(8)

要するに漱石は民族性と時代性とに制約限定されている自己、並びに伝統と外来文化を 共に背負い込んでいる自己を、具体的に見究めていたのである。かかる複雑な「自己」を

自覚していた漱石が、何を思索活動の対象として選んだかを次に考えてみたい。

(1)明治四十一年六月一日号「新小説」所載。

② 明治三十五年三月十五日附中根重一宛書簡の一節。

⑧V・H・ヴィリエルモ氏も「彼は深刻なる思想家が考えると同様に、社会悪は人間自身の内に ある悪に根ざしていると考えた。」と解している。〔文芸・臨時増刊・夏目漱石読本・37頁〕

〔4)大正四年の断片。

⑤ 明治二十六年十月三十日発行「文学界」掲載「漫罵」の中に見える批判である。 〔透谷全集

・第二巻所収〕

(6)大正四年の断片。

(7)第二十三章に見える。

(8)明治三十九年十月二十日附皆川正禧宛書簡の一節。

(9)明治三十九年十月二十日附野間真綱宛書簡の一節。

α① 明治四十三年一月五日。

⑳ 明治三十四年九月十二日附寺田寅彦宛書簡の一節。

⑫ 「思ひ出す事など」第二十四章。

⑬ 大正四年四月二十二日附富沢敬道宛書簡の一一節。

⑳ 「文学論」93頁〔岩波書店刊・決定版全集〕

㈲ 「伸子」の中に数個所見える。

㈱ 明治四十年一月一日号「学生タイムス」所載「将来の文章」

αの 「東洋美術図譜」

思 索 の 対 象

漱石の思索の対象を現象的に並べて行ったら際限がない。彼は文学者であり所謂社会人 でもあったから、その思索は文学界に関することは勿論、社会一般の問題にも及んでい

る.要芸批評を例に採ってみても広汎な在会批評.文明批評を背景にして文学を論究して

、・る。

ここで思索の対象として問題にするのは、そうした現象面の個々の対象ではない。いわ ば多様な現象のうちにひそむ本質的な対象である。先ず漱石の文学活動の基盤となった文 学研究の分野から考えてみたい。彼は「文学論」の序文の中で、研究を思い立った動機を 次の如く明快に述ぺている。

余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は充分之を味ひ得るものと自 信す。余が英国に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣 れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かる㌧は両者の性質のそれ程 に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは

(9)

塚 本: 漱 石 の 思 索       げ 到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。

大学を卒業して数年の後、遠き喬敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会せ り。人は余を目して幼稚なりと云ふやも計りがたし。余自身も幼稚なりと思ふ。斯程 見易き事を遥々倫敦の果に行きて考へ得たりと云ふは留学生の恥辱なるやも知れず。

去れど事実は事実なり。余が此時始めて、こ㌧に気が付きたるは恥辱ながら事実なり。

余はこ・に於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解決せんと決心した

り。

即ち、漢文学から受け取る感じと英文学に接して惹起される感じの差異に疑いを持って 如何なる根拠と理由に基づいて、かかる差異が実感されるかを究明しようとして文学論研 究に着手したというのである。だから、文学作品に直接して得た漱石自身の実感が研究対 象となったわけである。この実感を分析し体系づけて行くところにその研究が発展し成長 して行く。作品を客観的に検討するという研究態度とは全然異って、徹底的な主観本位の 研究である。その研究が心理的となったのは当然過ぎる程当然である。勿論、視野の広い 漱石が、かかる心理的研究のみを以て文学研究が尽くされるものであると考えていたわけ ではない。社会的に研究する計画も持ち、着手もしたらしいが、まとまりを見るまでに到 らなかった。併し、自己の実感分析を主とする心理的研究は、学究から創作への方向転換 のために完成はしなかったが、見事に成功し、独自の文学論を樹立した。近代日本に現わ れた文学論研究で、漱石のそれの如く個性的な研究業績を他に見出し得ないのが現状であ るといえる。ここで考えさせられることは、社会的研究の成就しなかった理由が、単に時 問の制約に因するわけでなく、そもそも漱石自身の思索様式がその方向に向かなかったで はないかということである。

(2)

次に創作についても「凡て人問の研究と云ふものは自己を研究するのである。天地と云 ひ山川と云ひ日月と云ひ星辰と云ふも皆自己の異名に過ぎぬ。自己を措いて他に研究すべ き事項は誰人も見出し得ぬわけだ。」という。ここでいう自己が、自己の心理を指してい

       (3>ることはいうまでもあるまい。近代小説の本道は自己の内面を探求するところにある。漱

石はこの本道を真直に歩んだわけだ。自然主義の作家達も自己にメスを加えた。併し、漱 石の自己探求と彼等のそれとの間には大きなひらきがあった。彼等の見詰め方には、どう にもならぬ甘さがあって、醜悪な現実を発見したものの、泳嘆的な安易な態度でこれに梵

りかかりながら作品を書いた。この甘さ、安易さが私小説へと傾斜し、風俗小説へと変質 して行ったのは、それこそ必然だったといえる。等しく自己を対象としながら漱石が私小 説家とも風俗作家ともならなかったのは、態度に陶辞や遊びがなく、見詰める眼に比類の ない厳しさがあったからだ。この峻厳な態度と厳しい眼とは「門」あたりから鋭さを急に

(10)

加え、年と共に強靱となり、「明暗」に到って極点に達したのであった。白然主義者達が 次第に自堕落な態度に流れたのと好対照をなす。

但)当時の人が噴々賞讃したからと云うて雷同する必要もないし、叉現今の人が唾棄して

顧みぬからと云うて其真似をするにも当らんのである。吾々は吾々自身の感じで以て

(若し吾々白身の感さへ起るなら)之を評して然るべきである。前から云ふ如く吾人 は言語の障害と一種の誤解から、こんな風に自己に誠実に外国文学を評して居らん。

甚だ臆病なのか又は不熱心である。故に余は諸君が外国文学を研究する際に成るべく 自己に誠実ならんことを希望すると同時に余も出来る限りは真面目に出でたいと思 ふ。然し之れは随分手問のか㌧る事である。作品を精読して而る後其感を充分に分析 してか〜らねばならぬ。〔文学評論・序言〕

この言葉に依って、作品に接して得た実感を分析する一そこに文芸批評が形成される という漱石の信念が窺えるであろう。ここでも文芸批評という分野における思索の直接対 象を「自己の感じ」においていたのである。小林秀雄氏が「文芸批評とは作品をだしに使

って自己を語ることである。」と道破した近代批評の本質に通ずる考え方であった。

約言すれば漱石は文学の研究・創作・批評のすぺてにおいて、その本質的な思索対象と して、自己乃至自己の実感を選んだのであった。われわれの想像以上に漱石は自己本位で あり、自己に徹した文学者であった。かくの如き思索対象を如何なる方法で思索したか、

次にそれを考察して行きたい。

(1)拙稿「漱石における文芸批評の方法」(国語と国文学・昭和三十二年七月号)参照。

② 「吾輩は猫である」

⑧ 拙稿「漱石の人間深究」(国語と国文学。昭和二十四年七月号)参照。

㈲ これと同じ意味のことを明治三十七年十一月二十九日、東京帝国大学で、学生達に読書心得 として隷して、・る。

一 西洋人の書いた書物を読む時に必ず心得べき事は批評家の言を初めから聴かざる事。

一 西洋人の書いた文学書を読んで自分自身が興味を持った点があったならば、その感じをど こ迄も尊重する事。

一 読書人は動もすれば多く読めば読む程自己の貴きものを失つて著作家の奴隷になつてゆく 虞れが多分に在るから、読書を好む人は常にこの事を忘れないで堅く自分自身の心の品位を 守ってゆく事。

の三個条がそれである。〔金子健二著・人間漱石・132頁〕

思 索 の 方 法

明治二十四年十一月、当時、学生だった漱石は正岡子規と「気節」に関して、手紙を通 して論戦を交えた。子規が大ざっぱな考え方で気節を強調したのに対して、十一月七日附

(11)

塚 本: 漱 石 の 思 索      11 書簡と同刀十日附書簡とをもって漱石は精細に駁論した。次にその一節を示す。

…総概的に気節の何物たるを説明致さんと存候御存じの如く人間の能力は智、情、

意の三者に外ならず気節は人間能力の一部なる以上は三者の中何にか属せざるぺから ず第一気節とは情に属するやと云ふに決して然らず一時の怒りに激して人を痛罵す是 気節なりや余は気節とは思はざるなり年来の怒りに激して日常人を痛罵す是気節なり や起も亦気節とは思はれずさらば一時の感情にもせよ年来の感情にもせよ感情を以て 為したる行為は気節と云ふ可からず気節既に感情に属せずんば之を意志の作用とせん か打つ可きの道理なく打ち度の感情なく妄りに鉄拳を挙て人に加ふ是れ気節なりや同 じく打つ可きの道理なく又打ち度の念慮なきに日常鉄拳を挙げて人に加ふ亦気節にあ らず去らば一時の意志にせよ年来の意志にせよ意志より来るもの気節なりと云ふべか らず意志に属せずんば気節の属する処は智の範囲内にあらずんぱあらず親には孝を尽 すぺき理ありと心得て孝を尽す是気節なり君に忠を致すべき道存すとて忠を致す是気 節なり人を罵しるべきの理あり故に罵しる人を打つべきの理あり故に打つ是気節なり

〔以下略〕

先ず人間の全精神活動を智・情・意の三に大別し、問題の「気節」を分析的に(簡単で はあるけれども方法は確に分析的だ)考究しながら、意にもあてはまらず、情にもあては まらず、故に智に属す、と決定して行ったのである。この思索方法は明らかに体系的であ

@        (1)

り、分析的である。漱石の内面にやがて成長する体系的思索と分析的思索はこの書簡文の 中にその繭芽を認め得る。

初めに分析的思索方法を考えてみたい。

明治三十八年三月十一日附大谷正信宛書簡の中で、「敬慕とは遠慮と評判と未知とが重 なり合ふとき発生する化物に候」と書いている。その分析が当っているか否かは別として とにかく見事な分析的説明である。人の意表をついた分析があまりに鮮かなので、後の化       9 ィという語と自然に照応し、一種のユーモアを醸成する。漱石の分析的思索は、かくの如

く一寸した手紙の中にまで現われるほど身についていた。この思索方法は英文学研究と英 文学批判の領域で先ず実践された。その注目すべき業績が「文学論」と「文学評論」であ

る。前者においては、型にはまり過ぎたきらいもあるが、後者においては奔放に駆使され て、劃期的な批評文学を成し得た。創作の領域では「坑夫」から本格的に実践された様iに 考えられる。「虞美人草」までの作品は著しく観念的であった。だから「虞美人草」と「

坑夫」を比較すると、作中人物の扱い方が異っている。前者では藤尾でも小野さんでも宗 近君でも、みんな作者が判り切っている人間として説明されている。読者は作者の説明に 耳を傾けるだけで、作者と共に人問の内奥を探ろうとする極積的意欲を持ち得る余地がな

(12)

い。ところが「坑夫」に到ると、作者も判りかねる人間が動き廻る。藤尾で捉えたエゴイ ズムは机上の辞書を旙けば立ち所に理解されるが、「坑夫」の主人公のそれは生きている から轄の説明ではあてはまらぬ・不得要領なエゴイズムを儲は黙々として探る゜わ

われも作者のあとに尾いて探らねばならんと考えて来る。かかる表現を成し得たのは、エ ゴイズムの実態分析が前進した証拠というべきてある。「坑夫」以後、「明暗」に到るま で、主としてこのエゴイズムの分析を強行しつづけた。その間、「彼岸過迄」と「行人」

の二作においては「懐疑」のあくなき探求を試みたけれども。而して漱石のエゴイズム分 析方法には彼独自の特色がil忍められる。それはエゴイズムの過程的発展的動態にメスを加 えたのではなくして、断面の周りを廻りながら、角度を変えつつ分析して行ったことであ る。この方法を彼は「祇徊趣味」という言葉でいい現わしている。

次に漱石が分析の対象とした自己乃至自己の実感は放恣に捉えられたものでなく、民族 性と時代性とに制約された具体的自己であったことは饗に言及した。それは即ち、佃の佃 でなく、全の中に位置する個であった。逆にいえば、民族・時代の構成要素として個であ

      (3)

チた。ここに指摘されるのが体系的思索の方法である。明治三十二、三年頃の断片の中に

「或る学校ノ教師ハ無暗に休席ス生徒不平なり他教師は一日も訣席せず生徒亦不平なり一 見矛盾の如し然し是が人情なり」とある。所謂人情の全円を視野に収めた者でなければこ んな感想は生まれて来ない。「吾輩は猫である」の中で、「元来放蕩家を悪くいふ人の大 部分は放蕩をする資格のないものが多い。」と言い、「それから」の中で、「妾を置く余 裕のないものに限って、蓄妾を攻撃するんだ。」と言ったのも、同じく事の全体を想起し た上での言葉である。即ち体系的思索の具体化であるといえよう。

漱石文学における最高の傑作「道草」の構造は、また体系的思索の典型的所産と考えら れる。健三とお住のエゴイズムの戦いを克明に描き上げたが、あらゆる場合に、「夫婦」

という人間関連をしっかと押さえた上で、夫としての健三を、妻としてのお住を扱ってい る。それは、夫婦の構造分子としての健三でありお住であって、即ち、全に連なる各々の 個の動きである。珍奇な言葉となるようだが、夫婦を体系的に思索した作品だといえるだ

ろう。非人情芸術を強調した「草枕」も亦、体系的思索を背景とする作品であった。漱石 は文学を人情本位の文学と非人情本位の文学とに二大別し、両者を完全に視野に入れた上 で、当代において動もすれば無視されがちな非人情文学の存在を強調したのが「草枕」の 立場であったのである。

前に漱石の創作活動がエゴイズム探求に在ったというたが、これとても、人間性をエゴ イズムのみと解してやったことではない。彼はエゴイズムを認めると同時に純粋性(善意)

をも亦認める用意と余裕を持っていたQさればこそエレーン(莚露行)清(坊っちゃん)

(13)

塚 本: 漱 石 の 思 索       13 呉服屋の隠居(吾輩は猫である)婆さん(琴のそら音)峠の茶屋の婆さん(草枕)女中(

二百十日)飯場の婆さん(坑夫)女中の作(彼岸過迄)女中のお貞さん(行人)女中お時

(明暗)の如き人間を描きつづけた。かかる純粋な人間の分析探求にまでは及んでいない が、怠ったのではあるまい。手が廻らなかったのであろう。もし漱石にあと十年の命があ ったら必ず手を附けたと思われる。「明暗」の重要人物「清子」の存在がそれを暗示する。

要するに漱石は純粋性を肯定した上で、即ち全人問性を捉えた上で、その一項目であるエ ゴイズムを探求したのである。

文芸上のイズムに間する考え方も亦体系的であった。「創作家の態度」の中において、

浪漫主義と自然主義を考察したあとで、

両者の文学の特性は以上の如くであります。以上の如くでありますから、讐方共大切 なものであります。決して一方ばかりあれば他方は文壇から駆逐してもよい杯と云は れる様な根底の浅いものではありません。又名前こそ両種でありますから自然派と浪 漫派と対立させて、塁を堅うし濠を深うして睨み合ってる様に考へられますが、其実 敵対させる事の出来るのは名前丈で、内容は讐方共に行ったり来たり大分入り乱れて 居ります。のみならず、あるものは見方読方ではどっちへでも編入の出来るものも生 ずる筈であります。だから詳しい区別を云ふと、純客観態度と純主観態度の間に無数 の変化を生ずるのみならず、此変化の各のものと他と結び付けて雑種を作れば又無数 の第二変化が成立する訳でありますから、誰の作は白然派だとか、誰の作は浪漫派だ

と結んでいる。浪漫主義と自然主義とは同一線上にある両極のイズムで、両者は根抵に 通うものがあり、又、両極の問に無数のイズムが存在するという考え方である。イズムを 全体的に捉えた上で浪漫主義・自然主義を考察しなければ、かかる見解に到達することは できない。先ず全体を視野に収め、その体系を探り、而して体系を成す個々の部分に精し い検討を加えて行く漱石の態度をよく示している見解である。かかる体系的思索をする者 には狂信や漕ぎ込みがない。だから漱石は自然主義流行期にも些も自己の姿勢を崩さずに その流行を眺めていた。そうして一面の真理として自然主義を冷静に肯定していた。文芸 以外のイズムに対しても同様の考え方をしていた。「事実私共は国家主義でもあり、世界 主義でもあり、同時に又個人主義でもあるのであります。」と率直に語っている。たしか に一のイズムで割り切れるほど人間も社会も簡単ではない。それを安易に割り切ってすま

して居るものは何処かでごまかしを行っているはずである。漱石は絶対的にごまかしので きな、・人間であった。

森田草平は漱石の思索について、次の様な思い出を語っている。木曜会に集まって来た

(14)

若い人々が因襲に関して質問したときの答えである。

@}世に因襲位便利重宝なものはない。君達は何ぞといへば、因襲々々と安く云ひ、自分

達はすっかり因襲から脱却したやうに心得てゐるやうだが、大間違ひだ。君の周囲は 朝から晩まで、坐臥行住、悉く因襲に取巻かれてゐるんだぜ。朝起きて顔を洗ふこと から始まって、茶碗と箸を持って飯を喰ふのもさうちゃないか。ナイフやフオークを 使ってもい〜し、それが可厭なら手掴みで喰ってもい㌧わけだ。が、一々そんな事に 新機軸を出さうとしてゐたら、面倒で敵はない。因襲頗る結構だよ。(中略)それば かりでなく、日常生活に於て、吾々がかうして毎日泥棒もせずに済んで行くのも、因 襲のお蔭だよ。欲しい物が眼に着く。しかし、これを奪っては普くない。他人が迷惑 する。そんな事を一々道徳的判断に訴へて決定してゐたら、二十四時間が倍になって

も未だ足りない。奪らないで済ましてゐるのは、た撃習慣だよ。昔から他人の物は奪 らずに置くといふ習慣が幸ひ吾々にあるからである。決して吾々の道徳心が強いから でも道徳的情操が高いからでもない。

と説き、「君のやうにビールを飲めば必ず小便が出るものと心得てゐるやうちゃ駄日 だ。」と釘をさしたという。若い人々が覚え立ての新説を喋々するとき、漱石はいつでも

@      (5)

この調子で手厳しく論破して眼をひらいたという。やはり体系的に思索するところから生 まれる見解であったというべきである。

漱石は人問のエゴイズムを烈しく憎悪し、分析的思索と体系的思索を徹底的に行使して その根原を探求しつづけた。この態度の中には、エゴイズム払拭の積極的意図が脈打って        侮

「た。併し彼は「こトろ」を書くことによって、エゴイズムを人間から切り離すことの不 可能な事態に衝き当った。エゴイズムの除去は人間そのものの抹殺を伴うことが明らかと なった。ここで彼は、エゴイズムを憎んでもどうにもならぬ、ありのままに認めることか ら始めなければならぬという考え方を表面に押し出して来た。

武者小路さん。気に入らない事、癌に障る事、憤慨すべき事は塵芥の如く沢山ありま す。それを清める事は人間の力で出来ません。それと戦うよりもそれをゆるす事が人 間として立派なものならば、出来る丈そちらの方の修養をお互にしたいと思ひますが どうでせう。私は年に合せて気の若い方ですが、近来、漸くそっちの方角に足を向け 出しました。

これは大正四年六月十五日、武者小路実篤氏に与えた書簡の一節で、諦観的思索開始宣 言と見られる。当時、漱石は「道草」を執筆中であった。勿論「道草」にはこの思索方法 の適用がはっきり認められる。およそ自己の好悪に拘泥せぬ対象凝視の厳しさが之を証す

して余りある。次の「明暗」もありのままを認める思索にいよいよ徹底している。

(15)

塚 本: 漱 石 の 思 索       15 併しこの諦観約思索方法も晩年に及んで突然に形成されたわけではない。その源をたず

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ねれば、彼の学生時代に明らかに繭芽が認められる。「老子の哲学」の中で、「人間は到 底相対世界を離る㌧能はず決して相対の観念を没却する能はざればなり」と説いている。

(7)

相対をそのまま認めようとする考え方だ。次に「人生」では「人生は一個の理窟に纒め得 るものにあらず。」と主張し、「吾輩は猫である」では、「平等はいくらはだかになった

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つて得られるものではない。」と実感し、「文芸と道徳」では「つまり人間はどう教育し たって不完全なものである。」と述べている。何れも諦観的思索へのひそやかな流れを示 す言葉といえよう。「余裕ある小説」の主張もやはり諦観的思索の一発現と考えられる。

又、問題の「則天去私」の内容も、結局はこの諦観的思索を主としていると思われる。而 してこれまで、分析的思索と体系的思索に圧倒されて表面に出られなかったこの思索方法 が、「こ〜ろ」における人間分析の行き詰りによって俄然大きくはたらき出したと見るぺ きであろう。

この諦観的思索の方法が、東洋伝統の思索方法であることは説明するまでもあるまい。

併しながら、伝統の諦観的思索は、現実自然のありのままを認めることにとどまって、そ の先へ進まぬところに悲しむぺき消極性があり、だらしない「あきらめ」に通ずるものが

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あった。ところが漱石においては、諦観的思索によって、対象をあるがままの相に定位し た上で、分析的思索と体系的思索を駆使して行く。ここで漱石の思索方法は一応の樹立を 見たわけである。即ち伝統的な諦観的思索を中心となし、西洋科学の伝来によって獲得し た分析的思索と体系的思索とを両翼として立体的に構成された方法である。この漱石独自 の東洋的思索方法と西洋的思索方法を一体化した方法の見事な実践が未完の大作「明暗」

であったと考えられる。

(1)漱石における科学的思索方法を引き出したのは池田菊苗だろうと小宮豊隆氏は説明している が、引き出したというよりは確信を与えたと解すべきである。学窓に在って西洋科学に接触し た漱石は夙にその方法を身につけていたのであるから。

② 漱石に反感を持っていたらしい田山花袋も、この分所的ヨ索の鋭さには舌をまいていたよう である。〔花袋全集・第十五巻・214頁〕

(3)小泉信三氏が「理論家漱石」といったのは、この思索方法に着口した立言であるようである。

〔思想・162号〕

(4)続夏目漱石・430−431頁。

㈲森鴎外の思索にもこの体系的方法が認められる。彼自身をモデルとした「灰儘」の主入公節 蔵は「物の両端を敲かずには置かない思量1をする男であったと書いている。

(6)明治二十五年六月十一日稿。

(7)明治二十九年十月、「竜南会雑誌【に掲載。

⑧ 明治四十四年八月の講演。

(9)久松潜…氏が、則天去私の文学論について、「しかしそれは日本文学評論の発達の上から言

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へば、自然主義文学理論を、長い時の間に築かれた伝統的な文学論の純埣なるものを以て再吟 味を加へたと言ひ得るのである。この再吟味は自然主義理論のすべてを破壊したのではなかっ た。自然主義理論の有する真実」生といふことを破壊したのではなかった。自然主義理論の中心 をなす真実性に伝統的文学論を加へることによって新しい文学理論を築くぺき基礎をなしたの である。」〔日本文学評論史・近世最近世篇。1487−1488頁〕と説いておられる。考え方にお いて、拙論と異るところもあるけれども、伝統的なものを正面に出したが、さりとて西洋的な

ものを捨て去らたのではないという解釈において…致していると思われる。

〔追記〕本稿も夏日漱石の文学理念究明の一作業のまとめであって、既発表の「漱石の人間探 究」(国語と国文学・昭和二十四年七月号)「文学の分類に現われた漱石の文学観」(茨城大 学教育学部紀要・第六号)「漱石における文芸批評の方法」(国語と国文学・昭和三十二年七 月号)等の拙稿と密接に関連していることをおことわりいたします。

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