「聖徳太子伝」における蘇我馬子像
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(2) 向朋大学側教文化研究所紀要第 二十 二号. 原本では殆 ど見 えな い の だが 、 寛政十 二 年の 写. 本が あ り吉て その 図容が 知られ る 。福琳寺や 西 来寺に蔵 せられる 「勝霊 経講讃 図」(図 3)は解. 説によれ ば 、 聴 聞する 人数 の 少な い 特 異な 例 だ. とされ る 3 が い づれ も 右の 二 人の 俗 臣が 小 野. 妹子、 蘇我 馬子に比 定され る ことは動 かな い 。. 斑鳩寺蔵:聖徳太子勝霊経講讃像 聖徳太子展j図録より). <r. 図3. 戸 不紡泌誠一紳は懇. 言品会 会事長崎. 川一 蝉町込古 一 u品切 漆 滑 一 戸冊料品料品帯電公第五. 准株取誌も悲 一. 支 援 興喜. 幌. 五 0. む品草 ・ふ晶W 令岨て 味・ 、浮世 mz索引牛. 四天王寺蔵:浄土高僧連坐像 (『聖徳太子展j図録より). 図4. 「 まい りの ほとけ」には、真 宗系 の 光明本を含 め て多 数 存在する 「 太子浄土高 僧連座 像」(図4). <r 法隆寺展』図録より). 法隆寺蔵:霊皇憂茶羅 図2.
(3) . . . . . . の 一郭をなす所謂孝養太 子と答族像部分があ り、札銘 から右 の俗臣が小 野妹 子、 蘇我 馬 子と知 られ る ( 5 ) O これ ら の人物 は慧慈 と学妨 が 聖徳 太 子 の内 典 と外典 の師 であ ると いう. 二. ﹃日本 書 紀﹄ におけ る記述. ﹁日本書紀﹂ における蘇我馬子 の初出は敏達紀 であ る 5) 。. a ( 元年夏四月)是月、宮二于百済済 大井 ・ 。 以二 物部 弓削守屋大連 一. 為=大連 一 如い 故。 以二 蘇 我 馬 子宿祢 一 為 二大 臣 一 。. 関係 によ って描 かれ た も のと 思われ る了 し、日羅と 阿佐 太 子と は聖徳 太. 子に対し て賛嘆 の文言を言上した人物 であ るから( こと考えられる。蘇我. 坦 一年春 三月甲申朔、蘇我大臣稲目宿祢苑。. こ の時 は じめ て大 臣とな った とあ る のは、欽 明紀 に、 b. 馬 子と 小 野妹 子は聖徳 太 子 の最 も 近 く に いた 臣 下と いう こと にな る のだ. ろう。小野妹 子に ついては聖徳太子が遣隋使派遣 の時 に諸臣下 の中から. 持 セシ所 ノ経、今、衡 山 二在 リ。望 ラク ﹃使 ヲ遣 シテ将 チ来 ラバ、. 丁卯、夏 五月 二、太子奏 シテ曰夕、﹁ 臣之先身 二、漢土 二修行 シテ、. から、欽 明 天皇 の い つの時 か に父子 の継職 がな った も のと 見ら れ る。 そ. 化紀 には記述が無く、敏達紀 には既に子 の守屋が大連とし て記述される. 物部 氏 に ついては 尾輿 の没年 記事 はな く、安 閑紀 元年 閏十 二月初 出、宣. とある ことから、 父稲目 の死後 その後を襲 ったと考えられる。ちな みに. 誤 ル所 ノ本 二比校 セ ン。﹄ 天皇大 二奇 ト シテ、﹁ 左之右之、奏 スル ニ. れ から す ると馬 子よ り は年 長 であ った 可能 性があ る。 こ のこと は後述す. 見 いだ した 人物 であ り、 ﹁ 伝 暦﹂推 古 十 五年条 ( 忿 に、. 依ラ ン。誰力使 ﹁ス合キ乎。 ﹂太子遍ク百官之人ヲ相タ マヒテ、奏 シ. 馬 子は、( 蘇 我 )大 臣、蘇 我 馬 子宿祢 、蘇 我 馬 子大 臣な どさ まざ ま に記. る敏 達 十 四年 記事 と関係 があ るよう に思 われ る。. と 記さ れ 、肯 んぜ られ ると ころ であ ろう { 9 } O蘇 我 馬 子はど のよう に位 置. され、敏達紀十 一ヵ所、用明紀 四ヵ所、崇峻紀九ヵ所、推古紀十 五ヵ所. テ 日サ ク、 ﹃ 大礼 小 野臣、妹 子、相 二合 ヘリ。﹄. づけ られた のであ ろう か。﹁日本 書紀 ﹂以 下 ﹁ 聖徳 太 子伝 記﹂類 で の記述. に見られ る。 それ ら には、 先 の叙 任 記事 の他 、外 交 に関す る記事 A、. d. 一五 一. ( 五月十五日)丙辰、天皇 、執 二 高 麗 表疏 一 、授 二 於大 臣 一 。召二聚諸. 遣二 群 臣相楽館 、検二 録所 献調物 ・ 、令 ・ 送二 京師 ・ 。. 楸然 而歎 日、 ﹁ 悲哉、此使 人等、名 既奏 二聞於先考 天皇 ・ 矣。﹂ 乃. 今何在。 ﹂大臣奉対 曰、 ﹁ 在二 於相楽館 ・ 。 ﹂ 天皇聞 之、傷側極甚。. c ( 敏達 元年) 五月 壬寅 朔 。 天皇 問三皇 子与 二大 臣 一 曰、 ﹁ 高 麗 使 人、. を粗 々追 ってそ のあ り ようを考 え る。. ﹁ 聖徳太 子伝﹂ におけ る蘇我馬 子像.
(4) . . . . . 一五 二. 。此 地 発二 遣 学問 ・ 。壊二飛1 衣縫造祖樹葉 之家 、始 作 二法 興寺 ・. 同朋大学佛教文化研究所紀 要第 二十 二号. 史・ 、令二 読解 一 之。是時、諸史、於二三日内 ・ 、皆不・ 能・ 読。爰有二. 名 二飛鳥 真 神 原 ︼ 。亦 名 二飛鳥 苫 田 } 。. ( 推 古 天皇)十 一年 春 二月 発酉朔 丙 子、来 目皇 子、苑 二於筑 紫 ・ 。. 船史祖 王辰爾 ・ 、能奉 こ 読釈 ・ 。由 ・ 是、 天皇与二大臣 ・ 倶為讃美 曰、 ﹁ 勤乎辰爾。鯨哉 辰爾。汝若 不い 愛二 於学 ・ 、誰能読解。宜従・ 今始、. 彷騨使 以奏上。爰 天皇聞之大驚、則召二 皇太子 ・蘇我大臣 ・ 、謂之. ( 推古十八年)冬十月己丑朔丙申、新羅任那使人蓼 一 於京・ 。是日、. 客等拝 前庭・ 。於是。命二 秦造河勝 ・土部連菟 、為二 新羅導者・ 。. 為7 迎二任那客 一 荘馬之長上。 即安 一 置 阿斗河 辺館 一 。○ 丁酉 ( 九日)、. 命二 額 田部連 比羅夫 ・ 、為7迎二 新 羅客 荘 馬之長上。 以二 膳 臣大伴 ・. ・ J. 手連之孫 日二 娑婆連 一 。其是之縁也。後葬二 於河内埴生山岡上 ・ 。. 乎。 ﹂価殯二于周芳娑婆 ・ 。 乃遣二 土師連猪手 一 、令・ 掌二 殯事 ・ 。故猪. ︱. 近 二侍 殿 中 ・ 。﹂ 既 而、 詔 二東 西諸 史 一 曰、 ﹁ 汝 等 所 習 之業 、 何 故 不 ・ 就 。 汝等雖 い 衆 、 不・及二辰爾 ・ 。﹂ 又高 麗 上表疏 、書 二于烏 羽 ・ 。字 隨 二羽黒 ・ 、 既無 二識者 ・ 。 辰爾 乃蒸 二羽於飯気 ・ 、 以い 帛印 羽、悉 写二 其字 ︼ 。朝 庭 悉 異 之。. -. ( 崇峻前紀 。用明二年六月二十 一日)甲子、善信阿尼等、謂二 大臣 ・. 之事 一 。﹂. e ( 四年三月十五日乙丑ヵ)乙丑、百済遣 ・ 使進・調。多益二 恒歳 ・ 。天. ︱ f. 立二于庭中 。時大伴咋連 ・蘇我豊浦蝦夷 臣 ・坂本糠 手臣 ・阿倍鳥. 以こ 間人連塩蓋 ・ 阿閉臣大篭 ・ 、為 こ 任那導者 。共引 以自 二 南門 一 入、. g 是月、 百済 調使来朝。 大臣謂二使 人 一日、 ﹁ 率二 此 尼等 へ 将 二渡汝. 子臣、共自 位起立、進伏二于庭 ・ 。於是、両国客等各再拝、以奏 二. 日、 ﹁ 出家之途、 以い 戒為 い 本。願向二百済 へ 学二 受戒法 。J. 国・ 、令・ 学二 戒法 ・ 。 了時発遣。 ﹂使 人答 曰、 ﹁ 臣等帰・ 蕃、先轡 二国. 使旨 ・ 。 乃四大夫、起進啓二 於大 臣 ・ 。時大臣自・ 位起、立二 庁前 一 而. 聴焉。既而賜二 禄諸客 } 。各有い 差。○ 乙巳 ( 十七日) 、饗二 使 人等於. 主・ 。而後発遣、亦 不・ 遅也。 ﹂ ( 元年)是歳、 百済 国遣 二 使井僧恵総 ・令斤 ・恵茎等 } 、献 二 仏舎. 朝・ 。以二 河内漢直贅 一 為二 新羅共食者 ・ 。錦織首久僧為二 任那共食者 ・ 。. h. 利一 。 百済国遣二 恩率首信 ・徳率蓋文 ・那率福富味身等 ・ 、進い調井. と、守屋合戦及び大王家 の政争にかかる干渉をも含んで、内政に関する. ○辛亥 ( 二十三日) 、客等礼畢、 以帰焉。. 太良未太 ・文買古 子、鍵盤博士将徳白昧淳、瓦博士麻奈文奴 ・陽. 記事 B、. 献二 仏舎利、僧診照律師 ・令威 ・恵衆 ・恵宿 ・道厳 ・令開等、寺 工. 。蘇 我 馬 子宿 祢 、請 二百済 僧 貴 文 ・悛1 文 ・昔麻帝 弥 、 画 工白加 ・. a ( 敏達三年)冬十月戊子朔丙申、遣 二 蘇我馬子大臣於吉備国 ・ 、増三.
(5) . . . . ︱一 。復 二 命 屯倉 之. 益白猪屯倉与二田部 ・ 。即以二田部名籍 ・ 、授二于白熊史臆津 ・ 。 b. ( 四年) 二月 壬 辰 朔、 馬 子宿 祢 大 臣、. 事・ 。. d. 悉委二 内外之事 焉。由 是炊屋姫皇后与 } 馬 子宿祢 、倶発こ 恨於穴穂部皇 子 。. 。是 日、天皇 得病 、 二年夏 四月 乙巳朔丙午、御二 新1 於 磐余 河上 ・. 還二入於宮 ・ 。群臣侍焉。天皇詔二 群臣 一 日、﹁ 朕思 欲 帰二三宝 一 。卿. -. 七廻不い 応。願欲い 斬之。 ﹂両大臣日、﹁ 隨い 命。 ﹂於是、穴穂部皇子、. い 情、専 言二 奉仕 ・ 。 又余観二 殯内 ・ 、拒 不二 聴 入 。自 呼 ・﹁ 開い 門﹂ 、. 臣治平奉仕。 ﹂即是無・ 礼。方今 天皇 子弟多在。両大臣侍。謳得三 恣. 連一 曰、﹁ 逆頻無・ 礼矣。於二 殯庭 ・ 誄 日、﹁ 不・ 荒二 朝庭 ・ 、浄如二 鏡面 、. 七呼い﹁ 開・ 門。﹂遂 不二 聴 入・ 。於是、穴穂部皇 子、謂三大臣与二 大. い入。穴穂部皇子間 日、﹁ 何人在 い 此。 ﹂兵衛答 日、﹁ 三輪 君逆在焉。 ﹂. 入二 於 殯宮 ・ 。寵 臣 三輪 君逆 、 乃喚 二 兵衛 ・ 、重 二瑛宮 門 ・ 、拒 而勿. 伺7 勝海連自二 彦 人皇 子所 ・ 退上、抜 い刀而殺。大連、従二阿都家 一 、使. 之。 俄 而知 二事 難 } い 済 、帰 附 二 彦 人皇 子於 水 派宮 ・ 。 舎 人述 見赤 梼 、. い 家集 い 衆 、隨 二 助大連 一 。遂作三太 子彦 人皇 子像与二 竹 田皇 子像 ・ 厭. い 路 。﹂ 大連 聞い 之、即退二 於 阿都 一 、集 二聚人 ・ 焉。中 臣勝海連、於. 時、押坂部史毛 屎急 来、密 語二大連 一 日、 ﹁ 今 群 臣図い卿。復将 断. 皇 子、引二 豊 国法 師 一 、入二 於内裏 } 。物部守屋大連、邪睨大怒。是. 馬子宿祢大臣日、 ﹁ 可二 隨い 詔 而奉 ・ レ助。謳生二 異計 一 。 ﹂於是、皇弟. 議一 日、﹁ 何 背 二国神 ・ 、敬 二 他神 一 也 。由来 不い 識二 若・ 斯事 ・ 矣。 ﹂蘇 我. 等議 之。﹂群 臣 入朝 而議。 物部守 屋大連 与 ・ 中 臣勝 海 連 ・ 、違 二詔. 陰謀y 王二 天下一 之事上 、而口詐在二 於殺二 逆君・ 。遂与二 物部守屋大連一 、. 二 物部 八坂 ・大市造 小坂 ・漆部 造 兄 一 、謂二馬 子大 臣 一 日、 ﹁ 吾聞二. 一五 三. 一日 、. e ( 崇峻前紀)六 月 甲 辰朔庚 戌 、蘇 我 馬 子宿 祢 等 、奉 二炊 屋姫 尊 ・ 、. 枕 侍 菩薩 是也 。. 奉い 造 二丈 六仏像 及寺 ・ 。 天皇 為 之悲 慟 。今南 淵坂 田寺 木丈 六仏像 ・. い 終時、鞍部多須奈、進 而奏 日、 ﹁ 臣、奉二 為 天皇 ・ 、出家修道。 又. 就二 槻曲家 一 、不い 離二昼夜 ・ 、守二 護大臣 ・ 。天皇之盾 転 盛 。 将 い欲. 夫連 所 一 、 具述 二大連 之 語 ・ 。 由 い是 、 蹴羅 夫連 、 手執 二弓箭 皮 楯 ・ 、. 率い 兵 囲二 続磐 余池 辺 ・ 。逆 君知 之、隠 二 於 三諸 之岳 一 。是 日夜 半 、潜. ﹁ 聖徳太 子伝﹂ における蘇我馬 子像. 乱不久矣。 ﹂大連聞而答日、﹁ 汝小臣所朱臨也。 眺 詣皆い句. い 衆報命 日、﹁ 斬二 逆等 ・ 詑。 ﹂於是、馬子宿祢、側然類難 日、﹁ 天下之. 諌止。働於二 此處 一 、膠 ・ 坐胡床} 、待二 大連・ 焉。大連良久而至。率. 不い 聴 而行。馬 子宿 祢 、即便隨 去 到 二 於磐余 ・ 、而切諌 之。皇 子 乃従. 将・ 之二 大連所 ・ 。時諌 日、﹁ 王者 不い 近二 刑人 ・ 。不い 可二 白往 ・ 。 ﹂皇 子. 遂率 い 兵去。蘇我 馬 子宿祢、外聞二 斯計 ・ 、詣 二 皇 子所 ・ 、即逢 二門底 一 。. 穂 部皇 子、 即遣 二 守 屋大連 一 日、 ﹁ 汝応三往 討 二 逆 君井 其 二子 ・ 。 大連. 群 臣謀 ・ ・ 我。 々故退焉。 ﹂ 馬子大臣、 乃使二 土師 八島連於大伴 砥羅. ( 用明元年)夏 五月、穴穂部皇 子、欲 評二 炊 屋姫皇 后 ・ 、而自強. 于. 自 い山出、隠二於後宮 ・ 。逆之同姓白堤与二 横山 一 、言二 逆君在処 一 。穴. C. 一.
(6) . . . . f. 同朋大学佛教文化研究所紀 要第 二十 二号. 一五 四. 大連奴半与 口宅、為二 大寺奴 田荘 ・ 。以二田 一万頃 ・ 、賜二 述見首赤梼 ・ 。. 計・ 、而殺二大連 ・ 矣。 ﹂平 乱之後、於 二 摂津 国 ・ 、造 二四天王寺 ・ 。分二 穴 穂部 皇 子宮 ・ 。於是 、衛 士先 登二 楼上 ・ 、撃 二穴穂部 皇 子肩 ・ 。皇 子. 蘇 我 大 臣、亦 依 二 本願 一 、 於 二飛鳥 地 ・ 、起 二 法 興寺 ・ 。. j. 招 二聚儒 者 ・ 、謀 い 弑 二天皇 ・ 。. ( 五年)十 一月 発卯 朔 乙巳、馬 子宿祢、詐 二 於群 臣 ・ 曰、今 日進 二 東. ( 推古十五年春 二月九日)戊 子、詔 日、 ﹁ 朕 聞之、最者 我 皇祖 天皇. 去・ 。駒、汗・ 娘事顕、為二 大臣 一 所・ 殺。. ( 五年十 一月)是 月 、東 漢 直 駒 、楡二隠 蘇我 嫂 河 上娘 ・ 為 妻。. 詔日、﹃ 如 断二 猪頚 、何時断= 朕思人 。 ﹄且於こ 内裏} 、大作二 兵杖 。於是、馬子宿祢ご. 或本 云、大伴娘 小手子、恨 こ 寵之襄 ・ 、使 二 人於蘇我馬子宿祢 一 日、頃者有 献 二 山猪 。天皇指 猪 而. 国之調 ・ 。乃使三 東漢直駒、弑二于天皇 ・ 。是日、葬二天皇于倉梯岡陵 ・ 。. h. -. g ( 五年十月)壬午、蘇我馬子宿祢、聞二天皇所 7詔、恐 嫌二 於己一 。. 落 二於楼 下 一 、走 二入偏 室 ・ 。 衛 士等 挙燭 而誄 。 ( 崇峻前紀 ・用明二年)秋七月、蘇我 馬 子宿祢 大 臣、勧 三 諸皇 子与二. 群臣 ・ 、謀・ 滅二 物部守屋大連 ・ 。泊瀬部皇 子 ・ 竹 田皇子 ・ 厩 戸皇子 ・ 難波皇 子 ・春 日皇 子 ・蘇我馬子宿祢大臣 ・紀男麻呂宿祢 ・巨勢 臣 比良夫 ・膳 臣賀詑夫 ・葛城臣烏那羅、倶率二 軍旅 ・ 、進討二 大連 一 。 大伴連 噛 ・阿倍 臣人 ・平群 臣神 手 ・坂本 臣糠 手 ・春 日臣、 倶率 二軍. 兵・ 、従二 志紀郡 ︼ 、到二 渋河家 ・ 。大連親率三子弟与二 奴軍 ・ 、築二 稲城 ・ 而戦。於是、大連昇二 衣措朴枝同 一 、臨射如・雨。其軍強盛、填い 家 溢 い野。皇 子等 軍与 二群 臣衆 ・ 、怯 弱恐怖 、三廻却 還。是時 、厩 戸皇. -. 子、束 髪 於 額 、 而隨 二軍 後 ・ 。 自 忖 度 曰、 ﹁ 将 無 い見 ・ 敗 。 非 ・願 難. い 成。乃浙二 取白膠木 ・ 、疾作二四天王像 ・ 、置二 於頂髪 ・ 、而発・ 誓言。. 等宰 ・ 世也、両・天踏い 地、敦礼二 神祇 一 。周祠二山川 一 、幽通二 乾坤 ・ 。. -. 是 以、陰 陽開和、造化共調。今当二 朕世 ・ 、祭二祀神祇 ・ 、豊有 怠. k. 廿年春 正月辛 巳朔 丁亥 、 置酒宴 二 群卿 一 。是 日、 大 臣上 寿 歌 日、. 大 臣、 率 二百寮 一 以祭 二 拝神祇 一 。. 乎。故群 臣共為喝 心、宜二 拝 神祇 ・ 。○甲午 ( 十五日) 、皇太 子及. ﹁ 今若使二 我勝 口敵、必営奉 二 為護世 四王 ・ 、起 こ 立寺塔 ・ 。蘇我馬子. 益一 、願当 奉 三為 諸 天与 二大神 王 ・ 、起 二立寺塔 ・ 、流 二通 三宝 ・ 。 ﹂誓 已. 厳二 種 々兵 ・ 、而進討伐。爰有 二 述 見首赤梼 ・ 、射 二 堕 大連於枝 下 ・ 、 而誄 二大連丼其 子等 ・ 。由 い 是、大連 之軍、忽然自敗。合・軍悉被 二 単衣 ・ 、馳二猟広瀬勾 原 一 而散 之。 是 役 、 大連 見1 与 二答 易 一 、或 I 有 y逃 匿 二葦 原 ・ 、改 ・ 姓 換 い名者上。或 有 二 逃 亡 不・ 知 い所 ・ 向者 ︼ 。時. 菟伽倍摩都羅武、宇多豆紀麻都流。 ﹂ 天皇和 曰、 ﹁ 摩蘇餓憬、蘇餓.
(7) . . . . . . 比、宇 倍 之 詞茂 、蘇 餓能古 羅烏 、於 朋桐 胴能 、菟 伽破 須 羅志 根。﹂. 能古羅破、宇摩奈 羅座、1 武伽能古摩、多智奈羅座、勾礼能摩差. 与二 達等 ・ 、令 ・ 供二 衣食 ・ 。経二 営仏殿於宅東方 ・ 、安二 置弥勒 石像 ・ 。. 恵善 尼 ・ 。 馬 子独 依 二 仏法 一 、崇 二敬 三尼 ︼ 。 乃以二三尼 一 、付 二 氷 田直. 禅蔵尼 ・ 。其 二、錦織壷之女石女、名 曰二 漢 人夜1 之女豊女、名 曰二. 宅・ 、修 二治仏 殿 ・ 。 仏法 之初 、自 い 茲 而作。. ( 二十年)二月辛亥朔庚午、改二 葬皇太夫人堅塩媛於桧隈大陵 ・ 。. 1. 是 日、誄 二於軽術 ・ 。第 一、阿倍内 臣鳥 、誄 二天皇 之命 ・ 。則 食 霊。 明器 ・ 明衣 之類 、万五千 種也 。第 二、諸 皇 子等 、以二 次第 一 各誄 之。. 等・ 、便以二 境部 臣摩 理勢 ・ 、令・ 誄二 氏姓之本 ・ 矣。時人云、摩 理勢 ・ 烏摩 侶、 二人能 誄 。唯鳥 臣 不い 能い 誄也。. 二十八年)是歳、皇太 子島 大臣共議 之、録二天皇記及国記、 臣 m (. 北・ 、 大会 設斎 。 即 以二 達 等前 所 獲 舎利 一 、蔵 二 塔柱 頭 ・ 。. 十 四年 春 二月 戊 子朔 壬寅 、蘇 我 大 臣馬 子宿 祢 、起 二塔 於 大 野 丘. がある。 これらからすると、馬子は外交、内政共に絶大な権 限を持 って. C. b. 政 治 に当 た って いた こと が知 ら れ る。 特 に A の g、 h に示 した 尼 の派遣. 對 言、﹁ 崇 7於 二父時 一 所 祭仏神 之心上也 。﹂大 臣即遣 二子弟 ・ 、奏 二 其占. 連伴造 国造百八十部井公民等本記 ・ 。. に関わる百済使と の応接は、崇峻天皇が服喪中だと考え ても、大王 のよ. 状・ 。詔日、﹁ 宜依ニ ト者之言 ・ 、祭二祠父神 ・ 。 ﹂大臣奉JF 礼二 拝石. ( 十四年二月二十四日)辛亥、蘇我大臣患疾。問二 於卜者 ・ 。卜者. う に専権的 に事 に当た っているよう に見える。内政 でも用明天皇苑後、. 像・ 、乞 い延二 寿命 ・ 。 是時 、 国行 二 疫疾 ・ 、 民 死者衆 。. ( 十四年) 三月 丁 巳朔 、物部 弓削 守 屋 大連 、 与 二 中 臣勝 海 大夫 一 、. 秦 日、 ﹁ 何 故 不 ‰日い用 二臣 言 ・ 。自 一 考 天皇 一 、 及二 於陛 下 ・ 、疫 疾 流. d. B ・c、 eのよう に彼 の意 向 によ って次 の天皇 が決 められた 印象 があ る。 聖徳 太 子と の関わ り の中 で特筆 す べきな のは仏教 受容 と寺院 建 立 に関 わ る 記 事 C、. 然、宜断二仏法 ・ 。﹂ 丙戌 ( 三十日) 、物部 弓削守 屋大連、自詣二於. 行、国民可い 絶 。豊非 四 専 由三 蘇我 臣之興二 行仏法 一 敗。﹂詔 日、 ﹁ 灼. 村主司馬達等 ・池 辺直氷 田・ 、使二 於 四方 ・ 、訪二 兌修行者 ・ 。於是、. 寺・ 、陽二坐胡床 ・ 。研二 倒 其塔 ・ 、縦 ・火煙 之。井焼 三仏像 与 二 仏殿 ・ 。. a ( 敏達十三年)是歳 、蘇 我馬 子宿祢 、請 二 其 仏像 二躯 一 、乃遣 二鞍部. 唯於二 播磨 国 一 、得 二 僧 還俗 者 ・ 。 名高 麗恵 便 。 大 臣 乃 以為 い師 。令. 、令 い 棄二 難波堀江 ・ 。是 日、無 い 雲 風雨。大連 既 而取 二所 い 焼除 仏像 . 一五 五. ・ 度 二司馬達 等女島 。 曰二 善信 尼 。 又度 二 善信 尼弟 子 二人 ・ 。其 て ﹁ 聖徳太 子伝﹂ における蘇我 馬子像.
(8) . . . 奪 二尼等 三衣 ・ 、禁 鋼、楚 二 捷 海 石榴 市 亭 ・ 。 天皇 思 ・ 建二 任那 ・ 、差 二. 祢 、 不二 敢違 じ命、側槍啼泣、喚二出尼等 ・ 、付 二 於御室 ・ 。 有 司便. 遣 二佐 伯 造 御 室 ・ 、 喚 こ馬 子宿 祢 所 ・供 善 信 等 尼 ・ 。 由 い是 、 馬 子宿. 被 雨衣 。 詞三貴 馬 子宿祢、 与二従行法 侶 ・ 、令 ・生二毀 辱之心 ・ 。乃. に反対 した 守 屋 は用 明 天皇 の寿 命 を 約 めた責 めを 負う こと にな る。 少な. 病気平癒を祈願し ての発言と受け取られ るよう に書かれる。す るとそれ. 拝 によ って治癒 した とす る記述 と対応 さ せ て いると思 われ、 用 明 天皇 の. 助。 ﹂とする のは、敏達十 三、十 四年記事 C・c、 eで自ら の病も仏像崇. の時 の ﹁ 朕思い 欲い 帰二三宝 ・ 。卿等議之。 ﹂に対して ﹁ 可二 隨脳四 而奉 ・ ・. 一五 六. 坂 田耳子王 ・ 為・ 使。属二 此之時 ・ 、 天皇与二 大連 一 、卒患 二 於盲 ・ 。故. くとも用明天皇 に対し ては大王家側 に立 って発言、行勁する馬子 の印象. 同朋大学佛教文化研究所紀 要第 二十 二号. 不二果遣 ・ 。詔 二 橘 豊 日皇 子 一 曰、﹁ 不・可い 違二 背 考 天皇 勅 ・ 。可い 勤二 修. があ ろう 。. 然、宜断二 仏法 ・ 。 ﹂と許可を与えたとする点 ( 。 )とい 天皇 の勅 によるから. そ の際 、守 屋 によ る仏 教 破却 記事 で注 目す べき点 は、 一つは敏 達 が ﹁ 灼. 乎任那之政 一 也。 ﹂ 又発い 癒 死者、充二盈於国 } 。其患癒者言、 ﹁ 身如二 被い 焼被い 打被 口擢、 ﹂ 啼泣而死。 老少窟相語 日、﹁ 是焼二 仏像 一 之罪矣。 ﹂ e ( 十四年)夏 六 月 、 馬 子宿 祢 奏 曰、 ﹁ 臣之疾 病 、 至 今 未 い 愈。 不. か、 { 由い 是、馬子宿祢、不二 敢gh 命、側槍啼泣、喚二 出尼等 一 、付二 於御. 室} 。﹂ と 全 く無 抵抗 に守 屋 の煕閥を 受け て いる こと であ ろう。守 屋と の. 間 の力関係をも示すも のと見 て良 いか。 そ の際 に冒頭 で考えたよう に馬. が 一因とな る のかも しれな い。前 後 に馬 子が病 気 であ った ことを 記す 記. 子 の ﹁日本書紀﹂初出と物部守屋 のそれと の差異から考えられる年齢差. で、a高麗 の還俗僧恵弁を師とし て三人 の尼を出家さ せた記事 の後 に﹁ 馬. 事 があ る のでそれ に因 るかと も考 えられ よう。. 或本 云、物部 弓削守 屋大述 ・大 三輪 逆君 ・中 臣磐余連、倶謀 誠二 仏法 へ 欲y 焼こ 寺塔 ﹁ μ棄中仏像上 。馬子宿祢、搾 而不 従。. 子独 依仏 法。﹂ と し、 そ の文末 に ﹁ 仏法 之初 、自 茲 而作﹂ とあ るご と く、. ( 敏達 天皇十 四年)秋 八月 乙酉朔 己亥、天皇病弥留、崩 二于大殿 } 。是. もう 一つの関 心事 は所 謂守 屋合戦 で、遠 因と し て敏達 天皇 の誄 で の、. に この記事 には、 三人 の尼を出家させた ことが1 か れ ( uで 前 述 のA ・f. 時。起 ・ 殯宮於広瀬 ・ 。 馬子宿祢 大臣、 佩い刀而誄。物部 弓削守 屋大. 日本 における仏教受容 の最初は蘇我馬子であ ったとする こと であ る。更. ﹁ 崇峻前紀 ( 用明 二年六月 二十 一日)﹂及び、 g ﹁ 同月﹂.h ﹁ 崇峻 元年是. 連 、 瞬然 而咲 日、 ﹁ 如 y中 二猟箭 一 之雀1 上焉。 ﹂次弓削守屋大連、手脚. 怨恨 ・ 。. 描 震 而誄 。 馬 子宿 祢 大 臣 咲 日、 ﹁可 懸 ・鈴 矣 。﹂ 由 是 、 二臣微 生 二. 歳﹂ 記事 で、 彼女 た ち の受戒 を 百済 使 に問 い、 依頼 す る記事 と も関 わ っ. て仏教興隆を実質的 に行 ってきたとす る意識が見られよう。 さ ら に、 B ・d ﹁ 用 明紀 二年 夏 四月 乙巳朔 丙午 ﹂ の、 用 明 天皇 の病 臥.
(9) . B ・d ﹁ 朕 思 欲帰 三宝 ﹂ に対す る守 屋と の対 立 が 見られ る。先 の仏法 破. 時 、群 臣倶 不 欲 い 傅 。而蘇 我 稲 目宿 祢 、独 信 二 其法 ・ 。天皇 乃詔 二 稲目. 於 磯城島 宮 御宇 天皇 十 三年中 、百済 明 王、奉 ・ 伝 二仏法 於我 大倭 ・ 。是. 記述されな い。孝徳 天皇大化元年 八月八日発卯 の詔勅、. 却も当然、そうした対立 の因であり、仏法護持者蘇我馬子と排仏者物部. 宿祢 } 、使 ・ 奉二 其法 ・ 。 於 訳 語 田宮 御 宇 天皇 之 世、蘇 我 馬 子宿 祢 、追. とする守屋と の確執が挙げられ るだろう。 ついで先 に見た用明天皇 の詔. 守 屋 の対 立 と いう構 図が 明ら か であ る。 そ こには伏 線 と し て大 王側 の馬. 遵二 考 父之 風 、猶重 二 能仁之教 一 。 而除 臣不 信。此典幾 亡。 天皇、詔二. 朕更復思7 崇 二正教 一 、光中啓大猷上。故 以二 沙門狛大法師 ・ 福亮 ・ 恵雲 ・. 子と 反大 王守 屋と いう構 図もあ る のかも しれ な いが、守 屋合戦 の主導 者. ついで、蘇 我 馬 子 の評価 に関わ って崇 峻 天皇 弑逆 問 題が挙げ ら れ る。. 常安 ・錐雲 ・恵 至 ・僧受 ・道 登 ・恵隣 ・恵妙 一 、 而為二 十師 一 。別以二. 馬 子宿 祢 ︼ 、 而使 い 奉 二其 法 ・ 。 於 小墾 田宮 御 宇 天皇 之 世 、 馬 子宿 祢 、. 五 年 冬 十 月 発 酉 朔 丙 子、 有 ・献 二山 猪 ・ 。 天 皇 指 い猪 詔 日、 ﹁ 何時 如. 恵 妙法 師 ・ 、為 二百済寺 々主 。此 十師 等、 宜能 教 二 導衆僧 ・ 、修 二 行釈. は馬 子 であ り、聖徳 太 子は他 の皇 子た ち と 共 に参 戦 し て いた のであ って、. い 断二 此猪 之頚 ・ 、断二 朕所・ 嫌 之人 ・ 。 ﹂ 多 設二兵杖 、有 い異 二 於常 一 。. 教一 、要使い 如 法。凡自二天皇 ・ 至二于伴造 ・ 、所・ 造之寺、不・ 能 営者、. 奉二 為 天皇 ・ 、造 二 丈六繍像 ・ 丈六銅像 ・ 。顕 二 揚 仏教 ・ 、恭 二敬僧尼 ・ 。. 紀 では崇峻 天皇が ﹁ 断二 朕所・ 嫌之 人 。 ﹂と いい、 ﹁ 多設兵杖、有異於常﹂. 朕 皆 助作。 今拝 三寺 司等 与 二 寺主 ・ 。 巡二 行 諸寺 ・ 、験二 僧 尼 ・奴婢 ・田. 主導 者 ではな か った ( 13). と いう状況 であ った ので、やむを得ず馬子が東漢駒をし て崇峻 天皇を殺. 畝之実 ・ 、而尽顕奏。. ﹃伝 暦﹄ におけ る記述. 聖徳 太 子 の伝 記 であ る ので、﹁日本 書紀﹂では聖徳 太 子と 関わ って いな. 三. も これ を 物 語 る。. 害 せ しめたと の印 象 を残す 。 しか し同時 に、 ﹁ 推 古前 紀﹂ では ︻ 坦 九歳 、. 営二于泊瀬部 天皇 五年十 一月 ︼ 、 天皇為二 大臣馬子宿祢 一 見・ 殺。 ﹂ と記し て いて、馬子が崇峻 天皇を殺した ことも歴然とさせ ていた。 しかし同時 に ﹁ 推古紀﹂ 三十 四年夏 五月戊子朔丁未条 の、馬子の発去 記事 で、 ﹁ 性有二 武略 ・ 、亦有二 辨才 ・ 。以恭二 敬 三宝 ・ 、 ﹂とする ことは、最. 王や中 臣鎌 子た ち によ る蘇 我 入鹿 暗 殺事 件 の原 因 が 入鹿 自身 にあ って、. か った事を含め、敏達紀から推古 二十九年ま での多く の事跡が聖徳太 子. 終的 な ﹁日本 書紀﹂ におけ る馬 子 の評価 と 見 て良 い。 こ のこと は中 大 兄. それ以前から蘇我氏 の専横が続 いた結果だとはしていな いことを表して. の行 った こととさ れ る。. 一五 七. いる。少なくとも馬子による崇峻天皇弑逆 は後世 の入鹿暗殺に関わ って ﹁ 聖徳太 子伝﹂ における蘇我馬 子像.
(10) 同朋大学佛教 文化研究 所紀 要第 二十 二号. 蘇我馬子は、大臣と記され るが、大勢 の中 の 一人とし て大臣以下と い. 一五 八. 傍線 の如く十 三歳 の太子が馬子 の行為を評価す る のであり、翌年 の造寺. ﹁ 是 レ仏舎利之器也。舎利 ヲ置カ不 レバ、塔卜為 ル コト ヲ得 不。釈迦. 記事 では建立された塔 に ついて、. 場面 ﹁ 三日ノタ (、 天皇、宴 ヲ設テ、物 ヲ群 臣 二賜 フ。七 日ノタ ﹁。皇. 如来滅度之後、砕骨 ノ舎利、感 二応ジ テ出デ タ マフ。是 レ如来 ノ外. う 表現が あ る。 大臣 によ って臣 下を代 表さ せる 記述 であ る。 太 子誕 生 の. 后、宴 ヲ設 テ、物 ヲ後宮 二賜 フ。 大 臣 已下、相 ヒ次 ヒデ 饌 ヲ献 ル。 之 ヲ. 家 二加 シタ マフナリ。聖人遠カラ ンヤ。大臣、舎利 ヲ安カ不 ンバ、 此 ノ塔 必ズ 件 レナ ン。﹂. 産 養 卜萌 ウ。﹂ な ど は そ の典 型 であ ろう。 ﹁伝暦 ﹂ では、 ( 大 王-) 聖徳 太 子i 馬 子 の関係 が 見ら れ る。例 えば 仏. 大 臣、 之 ヲ聞 テ、 舎 利 ヲ感ゼ ン コト ヲ謀 ル。 三七 日 ノ後 二、斎 食 之. と 太 子 が 言 った のに対 し、. 十三年、甲辰、秋九月、弥勒 ノ石像 一躯丿鮭昌1.百済国 ヨリ将来. 上 二、舎利 一枚 ヲ得タリ。大サ胡麻 ノ如 シ。其 ノ色紅白 ニシテ、紫. 教 受容 の敏達 十 三年 記事 は 以 下 のよう であ る。. セリ。蘇 我 大 臣、其 ノ仏像 ヲ勧 請 シ、 並 二幡磨 国 二、 狛 ノ僧 、慧 便. ノ光 、 四 二周 レリ。. と仏塔 の心礎 には舎利を置く べき である ことを教化し、馬子はそれを受. テ、数十身 ヲ歴 シカト モ、 万分ガ ーモ、未ダ済求 スル コト ヲ得ズ。. テ、 花 ヲ散 ジ 供 養 シタ マフ。 密 二大 臣 二命 ジ テ 曰夕、 ﹁ 吾昔修 行 シ. ト、 解 ラ 不 ル ニ由 テナ リ。 是 二於 テ、 太 子時 時、 大 臣之寺 二微 行 シ. リ。 是 レ、蘇 我 大 臣、 並 ビ ニ達 等 、 深 ク仏法 ヲ信 ジ テ、修 行 スル コ. 到リテ敬礼 シタ マフ。此 ノ時 二司馬達等、仏舎利 ヲ斎食 ノ上 二得夕. 塔 に ついて、あ る いは舎 利 に ついて太 子 の意 見が 示さ れ 、 それ に従 って. か った のであ る。聖徳太 子 の仏教 に ついての造 詣 の深さを示すため に、. もともと馬子独自 の仏法崇拝 であり、聖徳太子が関わ ったも のではな. 伝 承 の揺 れ があ った か。 あ る いは馬 子 の位 置づ け の移動 を意 味 す る のか。. ﹁ 伝暦﹂は十 三歳条に司馬達等による舎利感得を記して記事が重複する。. 利 を 感 得 した のは 司馬達 等 であ り 馬 子 は それ を献 じら れ た のであ るが 、. け て感 得す る こと にな る。﹃ 書紀 ﹄敏 達紀 では馬 子 の主 催 した 大斎会 で舎. 君が始 テ貴ブ コト、功徳測 り難 シ。曹 ヘバ虚空 ノ、思量 ス可ラ不 ル. 新 た に舎 利感 得 がなさ れ る こと にな った のであ ろう。. 是 二於 テ、国 二疫疾有リ。民死 スル者衆 シ。三月 二、物部 弓削大連、. し かも 、. ガ 如 シ。 吾 幼 稚 ナ リ ト 雖 ド モ、 願 (ク ﹁以 テ紹 隆 シテ、 君 が 与 二縁. 卜為、善知識卜為 テ、如来 ノ教 ヲ伝 ヘテ、正座 ノ蓋 ヲ建 テ ン。﹂大臣 謹 テ奉 タ マ (テ、 敢 テ惰 緩 セ不。.
(11) 中臣勝海連等、奏 シテ日夕、﹁ 先 ノ天皇従リ、陛下 二至 ル マデ、疫疾. 此 ノ時 二大連、大ナ ル榎 ノ木 二登テ誓 テ ﹁ 物部府都大明神之矢﹂ト. と太 子を 目掛 け て矢 を射 て いて、相 対的 に守 屋合戦 におけ る聖徳 太 子 の. イ ヒテ放 ク シム ル ニ、 太 子 ノ鐙 二中 ル。. レリ。 ﹂ 詔 シテ 日夕、 ﹁ 灼然 ケ シ、宜 ク仏法 ヲ断 ツベ シ﹂ 卜。太 子奏. 比重 が高 くな り、逆 に蘇 我馬 子 の主導 した合戦 であ ると の意 識は薄 くな っ. 未ダ息ズ、人民絶 ヘヌ可シ。良 二蘇我 臣等が、仏法 ヲ興行 スル ニ由. シテ 日夕、﹁ニノ臣未ダ 因果 之 理 ヲ識 ラズ 。善 ヲ修 スレバ福 至リ、悪. て いく 。n). それ に対し て馬子による崇峻天皇弑逆 は 一層馬子 の行状とし ては っき. ヲ行 ヘバ 禍来 ル。是 レ自 然 ノ理、如 来 ノ教也 。児 聞 ク、古 ノ聖 人 (、. 大ナ ル災 二勝 シガ、故 二唐 旱殷水 ノ事有リ。今 ノ疫疾 モ、徳 ヲ以テ. 五年、壬 子、春 二月 二、天皇 密 二太 子 二勅 シテ 日夕、﹁ 天 (尊 ク地 (. りしてくる。崇峻 天皇が聖徳太子に馬子 の無礼を語ると ころから始まる. とあ って、守屋ら の仏教破却 の提案 に対 し て敏達 天皇は ﹁ 1 紀 ﹂ と 同 じ. 卑 シ。貴賎 ノ位 ナリ。君 (南 面シ、臣 (北 面 ス。是 レ理之常也。 而. 除 ク可 シ。何 ソ 更 二将 二興 セ ント スル之法 ヲ滅 シ、能 ク将 二死 セ ン. よう に勅 許を 出す が、陪 席 し て いた 聖徳 太 子が異 見をだ した と し て いる. ルヲ蘇 我 臣、内 二 (私 ノ欲 ヲ縦 ニシ、外 二 (詐 り鰐 ル ニ似 タ リ。 初. か ら であ る. と ころ に大きな違 いがあ ろう。 それ でも守 屋 による仏法 破却 は勅 に従 っ. テ如来之教 ヲ興 スル コト有リト雖ド モ、和順、忠義之情無 シ。汝以. ト スル之命 ヲ免 レ ン耶。 ニノ臣、如 今 、 必ズ 天 ノ禍 ヲ蒙 リナ ン。 ﹂. て行 わ れ 、 馬 子 に関 し ては何 ら の抵 抗 の記述 もな い。 あ る いは ﹁ 書紀﹂. ヘラク為 ヘリ何 ン。﹂. とあ る。そ こには 天皇 は尊 く 臣 下は卑 し いとす る見方 があ る。 一方 で ﹁ 初. 同様、前 後 に馬 子 の病 気 記事 があ る ので、 馬 子は病 中 にあ って制す る こ とが できな か った か の印 象 を与 え るも のか。﹁ 伝 暦﹂ではも はや 馬 子と守. テ如 来 之教 ヲ興 スル コト有 リト雖 ド モ、和順 、忠 義 之情無 シ。 ﹂と 臣 下と. な い。 聖徳 太 子 です ら ﹁ 如 今 大 臣 ヲ、 騏 臣 卜謂 ツ可 シ。﹂ と 否定 的 に捉. し ての馬 子が 間われ る。 こ の規 範 は ﹁ 書紀 ﹂ の対応 す る記述 には見られ. 屋 の年 齢 的 な 序 列 は 記 述 さ れ な い。. 続 く所 謂守 屋合戦 では、太 子は諸皇 子と 共 に軍 の後 ろ に いた はず だが、. え、崇 峻 天皇 に対 し て忍辱波 羅蜜 を 実行す るよう に説 く。 いよ いよ馬 子. そ の主導 性 が 現れ てく る。守 屋を射 殺 した のは。. 太子、舎人跡見赤梼 二命ジ テ四天王之矢 ヲ放ク シメタ マフ ニ、大連. の天皇 に対 す る無 礼 が 明ら か と な る仕 組 み であ る。 そ し て馬 子 に対 し て. は馬 子が暗 殺実行者 東漢駒 を刺 し殺 した 後 に、 これ を 聞 いた 太 子が ﹁ 君. が 胸 二中 リ ヌ。 倒 二木 ヨリ墜 ツ。. と あ る如 く、太 子 の舎 人跡 見赤梼 であ り、太 子 の命 を受 けた も のであ っ. ヲ弑 セ ル之名、此 ノ誠有 リト雖 ド モ、千載 之 後 モ、 之 ヲ雪 ム ル コト能 (. 一五 九. た。さ ら にそ の前 に守 屋もまた。 ﹁ 聖徳太 子伝﹂ におけ る蘇我馬 子像.
(12) . . 同朋大学佛教 文化 研究所紀 要第 二十 二号. 一六 〇. ト見 ル。其 ノ道、人 二因 ル。之 ヲ知 ル コト今 二在 リ。伏 シテ惟 レバ、. テ、内 二通ジ外 ヲ該ネ不トイフ コト莫 シ。漢后夢 二像飛テ東 二去 ル. と ころが推 古 天皇 の時 にな ると太 子 は摂 政 皇 太 子と し て大 臣馬 子と多. 陛 下、聖、通ゼ 不トイ フ コト無 ク、情、兼ネ 不トイ フ コト無 シ。 西. 不﹂ と 評 し てそ の行 為 を非 難す る。. く のこと を 共 同 で行 う こと にな る。例 えば 推古 二年 の三宝 興隆 の詔勅 は、. 声 シ玉振 ウ。 末劫 ノ衆 生、 化 シテ浄 土 二登リ、 五濁 悪世、 還 テ俯 怯. 方 ノ大聖、 妙義 甚 深 ナ リ。 殿 下、 ロヲ開 キ舌 ヲ吐 キ タ マ ヘバ、 金 ノ. と あ る よ う に聖 徳 太 子と 馬 子 に発 せ ら れ る し、 推 古 十 五年 秋 九 月 の太 子. 卜為 ラ ン。不 可思議 之功 、不可思 量 之労、酬 ヒ不 ンバ ア ル可カ ラ不。. 春 二月朔 二、皇太 子及ビ大臣 二詔 シテ、 三宝 ヲ興隆 セ令 ム。. の池 、 堤 を 作 る建 言 は 、. 徳 ト シテ答 へ不ト イ フ コト無 シ。 謹 テ敢 テ申 聞 ス。﹂. と評価 し、賛嘆す る発言とし て現れ、他 の諸臣下や推古 天皇 よりも良く. 天皇 大 二悦 テ、大 臣 二勅 シテ行 (シム。 と し て、 馬 子 によ って実 現さ れ る。推 古 二十年 に百済 から 渡来 した 味摩. 仏法を理解す るも のとし て描かれる のであ る。. ・. 之 への課役免 除 は太 子から 馬 子 に伝 えられ て実 現す る。. そ の微妙な位置は苑去記事 にも見られよう。. ﹁ 太子像 ヲ画 ヒテ、自ヅ カラヲ其 ノ前 二脆ケ ル之絵 ヲ、吾が墓 ノ前 二. 推 古 二十 一年 発 酉冬 十 一月 の記事 は、 聖徳 太 子と 馬 子 の関係 を よく 示 す 例 であ る。 太 子が達 磨 と 思 しき飢 人と 言葉 を 交わ し、衣 類 を 与 え、あ. と遺 言 した とあ って、 太 子 の前 に脆 く 馬 子 の絵 を そ の墓 の前 に掲げ て衆. 張 テ、衆人 二観 セ令 メ ヨ。 ﹂. 時 二于 テ大 臣、 馬 子宿 祢 、 七 ノ大夫 等 、 皆 該 リ タ テ マツリ テ 曰夕、. 人 に見 せ しめ よと いう のであ る。 既 に太 子 は 五年 前 に亡 く な ってお り 、. ま つさ え そ の死に厚葬 を 以 てした と の批判 が、. ﹁ 殿 下 ノ聖徳 測 り難 シ。妙跡 迷 イ易 シ。道 ノ頭 ノ飢 人 (、是 レ卑 賎 ノ. この行為が示すと ころは改め ての太 子賛嘆 の意味 でしかな い。. 文 保本 ﹃聖徳太 子伝 記﹄ の叙述. 少なくとも中世 には南都 でそ の注釈行為が盛 ん であ ったら し いことは. ﹁ 伝 暦﹂がど こに成 立基 盤 を 持 って いた のか は 不明と しか いえな い( 15) o. 四. 者 ナ リ。 何 ヲ以 テカ馬 ヨリ 下 テ、 彼 与相 ヒ語 リ、 復 夕詠 歌 ヲ賜 ヒ、 其 ノ死 二及 テ、無 状 ク厚 ク葬 リタ マフ。何 ヲ以 テカ能 ク 天 下 ノ、 大 夫 已 下 ノ臣 ヲ治 メタ マフペ キ。﹂. と 七 人 の大夫 と 大 臣と によ って行 わ れた 。 聖 人太 子と 対 比さ れ る俗 人 の 頂 点 にあ る のが馬 子な のであ る。 しか し てそ の馬 子 の知 識 は、推 古 二十. 五年 の太 子 の勝鬘経講経を、 大臣奏 シテ日夕、﹁ 儲君之講ゼ シ所 ノ、妙経 ノ義 理、微 二入り機 ヲ出.
(13) . . . 肯んぜられる。橘寺法空の ﹁ 平氏伝雑勘文﹂( 正和三年 こ 三 一四) 、同. 禄 ヲ賜テ、其 ノ貪性 ヲ奪 ヒタ マヘト為 ヘリ。 ﹂. 彼千島荒夷共有二 四人大将軍・ 、召 一 具 数千万億軍兵一 貫登也、爾時王. と の太 子 の発議 によ って敏 達 天皇 が行 った とす る。と ころが 文保本 では、. 法 隆寺 重 懐 ﹁ 太 子伝 見 聞記﹂ ( 延文 五年 ・一三六〇)、法隆 寺 訓海 ﹁玉林. 城 大和 国城 上 郡 三輪 郷古蒙村泊瀬 河 辺磯 城島 金刺宮也 、 彼夷 大. ﹁ 上宮太子拾遺記﹂ 、常楽寺聖云 ﹁ 太鏡妙﹂ 、﹁ 太鏡底容紗﹂、﹁ 太鏡 百錬妙﹂、. 抄﹂ ( 文安 四こ 四四七)などによ って ﹁ 伝暦﹂注釈 の世界がか いま見ら. 勢自 二 東山東海両道 一 貫上、幾 千万億ト モ更不 知二 其数 一 、先陣 已大和. 国 三輪 山北城戸峯 二陣 ヲト レ (、後陣未い 出二 遣奥州石開、 石踏、秋. れ よう 。 一方 、夙 に ﹁ 障 子伝﹂( じ を持 った 四天 王寺 は、﹁ 伝 暦﹂ の影 響 下 にあ り. よう n) 。他 に ﹁万徳寺蔵本太子伝﹂も 四天王寺 の流れ の中 にあ る( 旧 ) o該. 出 した。 文保本 太 子伝 と 呼ば れ る I群 が それ で、 大き く 二種 に分 けられ. ら宮 城程 近 く に侵 入さ れた と 記す のであ る。 そ の事態 に対 し て先 例 を挙. てきた と誇 張さ れ る。敏 達 天皇 の敷島 金判宮 は桜 井 と考 えられ て いた か. と 、 まず 大 軍 であ る こと 、 大和 盆地 の東 側 、 三輪 の北 城 戸峯 ま で侵 入し. 田城 一 卜 云 ヘリ、実 天 下大事極 二於 此 一. 本 も異本 を採 用 した ら し い十 六歳 条 を除 けば内 容 的 には殆 ど 文保本 と 同. げ対策を上奏 した のは小野妹子 であ った。. な がら、 それ ら と 異な った 太 子伝 を鎌 倉 最末期 の太 子信 仰高 揚 期 に作 り. じ であ る。. ト. ヲ. (. 人王十 二代景行 天皇御宇有二 東夷乱逆 、而依二 神力帝徳 一 国不い 傾、悉. ス. 文 保 本 太 子伝 の 一例 を 醍 醐 寺 本 9)によ っ て見 る。. ニ. 被 誄 二彼 凶党 一 、其 後新 羅 百済 戎 共爾 来事 難 い及二 度 々一 、 西国 ニシテ. ヲ. 新 た に付 加さ れ た 聖徳 太 子 の事跡 は太 子十歳 にあ る。 この記事 は ﹃ 書. ノ. 滅亡 シ、不 近二 中国 ・ 、勘二 上代 雖 ・ 有二 東夷 西戎之難 ・ 、未 ・ 聞二王城. シテ. 紀 ﹄﹃ 伝 暦﹄よ りも大げさ な 記事 とな ってお り、敵 が強 ければ 強 いほど そ. ー. 之乱 入 一 、今 已彼夷 共奉 ・ 近二 皇居 一 将 及二狼籍 ・ 、諸 国軍兵無 有 二 馳. ノ. れ を制す る太 子 はより高 い評価 とな る こと を 示 した も の ( 20)で、 ﹁日本 書. シ. 参﹁ 以外火急之御大事也、所詮忍奉い 成二 行幸於他所・ 、我等楯二 ニ. 能 王城 ・ 相 二対彼東夷 大将 軍 一 、致二 粉 骨合戦 ・ 忽 欲・ 決二 雌雄 へ 且神之. テ. 紀 ﹂﹁ 伝 暦﹂が いず れ も敏 達 天皇 の行為 と し て記 した も のであ る。﹁ 伝 暦﹂ は、. 帝 の行幸を前提とし ての、 臣下 の能城と抗戦によ って勝 てるとするも の. 冥助、且帝之威徳、何 不三対二 治彼逆賊 一 哉. 曰サ ク、﹁ 小児 、何ソ 国 ノ大事 ヲ議 ル ニ足ラ ン。然 レド モ今 、群 臣 ノ. であ り、神 の冥助 と帝威 が 日本 を特 化す るも のであ ると の考 え が 示さ れ. 天皇、近ク太子ヲ召 シテ詔 シテ日夕、 ﹁ 汝が意 二如何。 ﹂太 子奏 シテ. 議 ル所 (、皆衆 生 ヲ滅 ス事 也。児 が意 二以 ヘラ ク先ヅ 魁帥 ヲ召 シテ、. る。 それ に従 って敏 達 天皇 は 三種 の神 器 ととも に稲 渕 山 の奥 の谷 に逃 れ. 一六 一. 重 キ教諭 ヲ加 ヘテ、其 ノ重 キ盟 ヲ取 テ、放 シテ本洛 二還 シテ、 加重 ﹁ 聖徳 太 子伝﹂ におけ る蘇 我 馬 子像.
(14) . 専二 信心 一 、祈 二請 仏舎利 一 奉中安置上卜教 化 シ玉ケリ、大 臣承 専二 信心 ・ 、. 一六 二. た とす る。 そ こで敏 達 天皇 が随 従 し て いた 太 子を 呼 ん で対策 を 問う と 太. 三七 日間持斉精 進 祈請 申 ケリ、満願 日、忽 一粒舎利放二 金色光 出二. 同朋大学佛教 文化 研究所紀 要第 二十 二号. 子は、先ず彼ら蝦夷を ﹁ 形同二 鬼神 ・ 力用自在也﹂と規定 し、毒 の矢を射. の如 く、 同 じく 太 子 の教 化 によ って馬 子が感 得 した と し、 それ が真 実 の. 現 飯上 一 ケ リ、. 吾 承二 群 臣兪 議 一 皆 是 罪業 之根 源、 乱 国之計略 不・可 然 也 、蒙 二 御許 ・. 仏舎 利 であ る こと も、. る こと、 霧 を降らす術を持 つことな どを 示 し て、 合戦 の困難な ことを論 じ、. 阿児 只 一人赴 二彼 夷 城 ・ 、 以 二神 カ ー 責 二出 彼 大 将 軍 ・ 。 相 二尋其 所 存 ・. 太子拝 二 彼舎利 一 給 テ、押二 感涙 ・ 告二 大臣 ︼ 云、吾先生於 ・ 衡山 一 多生間 修 二行. 以二 仁恕 ・ 和二彼 暴 悪 心 ・ 、 可い 定 二世間安 否 ・ と す る。 そ し てそ の言 の通 り、 ﹁ 太 子召 二具蘇 我 大 臣計 ・ 、騎 二 白馬 ・ 、向 二. 後、与・ 汝結 ・ 契為 二 善友知識 一 共可三興二 業仏法 ・ 、実是如来真骨也、. そ の後、 太 子は夷 の投 げ た 大 石を鞭 で砕 いた り、放 つ毒 矢 を鞭 で合 わ せ. と し て仏法 興業 しよう と いう太 子によ る馬 子評価 の発言 は、本 書 にお け. す るも ので、 馬 子が功 徳 成就 のも のであ り太 子 の仏法 におけ る善 友知 識. 仏道 ・ 、顕二 奇特 ・ 者希矣 、汝已 二功徳成就之人也、自Xr 4. 夷城 ・ ﹂ つた とす る。. た り、あ る いは降 ら した霧 を晴 ら せた り し て、 彼 ら の術 を 破 り、自 らも. る馬 子 の位 置 づけ の 一面を 示す点 で注 目を 要す る。. 輿大臣起こ 悪見 ・ 、彼如来奉 ・ 行・ 咎、故有二 諸 天咎 ・ 、 天火雨降内裏焼. 天皇更無二 御許容 ・ 、勅 曰、夫前車之覆後車之誠也、先帝時、汝 父尾. 達 天皇 が 、. と 、 こ こでは太 子が馬 子と 共 に仏法 破却 を嘆 く こと にな る。 そ の際 、敏. ・ 逮也 、. 伝燈聖徳太 子、本願蘇我 ノ大臣、両人 ノ御心中 (更 二筆 舌之所 い不. 続 いて守 屋 によ る堂 塔 波却 記事 が書 かれ る。 そ の破却 に対 し て、. と太子がそ の乳母を勧化し て出家させたとする のであ る ( 22 ). 教 二化 三人御 乳 母 一 云. 三尼 の出家も、. 鏑矢 を射 て降 伏さ せた とす る ( a ) o 太 子が自 ら 三輪 山ま で出 かけ て い って、 蝦夷 を鎮撫 したと いう こと に な ってお り、 そ の時 、 馬 子だ け が唯 一人随 伴 した と いう のであ る。 若 年 の聖徳 太 子 に随 伴す る馬 子と いう構 図が こ こに描 かれ て いる。 次 いで、 再 々取 り上げ てきた 太 子十 三歳 の条 の日本 最初 の寺 院建 立と. 舎利感得、並び に三尼出家があ る。先ず寺院建立に ついては、. 其後太子勧二 化 蘇我大臣・ 、 於一 大和国高市県豊浦庄内i t 建 二立大伽 藍一 也、. と し て いて、 そも そも寺院 建 立が太 子 の勧 化 によ るも のであ ると し、舎. 利感得 ではもはや司馬達等 の舎利感得 は記されず、馬子 の建立した塔 に、. 太子拝虹丿宝塔﹁旅蘇乱大臣一 昂 宝ふ仏舎札鐙器也ヽ汝抑.
(15) . . . ﹃. 内談 ・ 、政 道 与二 小野ノ大臣 ・ 可・ 有二 評議 ・ 卜勅 定 アテ、 又勅二 蘇我小. ト. と守 屋 の仏法 破却 を容 認 し て いな いこと は注意 を 要す る ( 23) O守 屋 の側 に. 野 ノ両大 臣 一 宣 玉 (ク、 相架 テ各代 い 朕 能 ク奉 い 覆 二太 子 ・ 給 ヘト、苦. シ. 大義 名 分 が無 くな った から であ り、 代 わ って符 都 明神 の託宣 を告 げ ると. 二有 二御遺 言 一 向 ・西合 旨. 遺恨所・ 奉 察也、若令k. し て、巫女 に化した障 碍神が第六天魔 王に派遣され守屋をそそ のかす こ. 玉 ヘリ、十念 未い 終紫雲聳二 虚空 ・ 、異香宮室 二薫 シテ端座遷化 シ玉ケ. 失 君 臣悩 乱 セ シ事 、豊 可い不い恐乎、亦 可・不い 慎哉 ト テ更 元二御 許 一 也. と にな る 。. 臥二 御 悩 ノ床 ・ 玉ケ レ ﹁﹂ とす る守 屋 の用 明 天皇 呪 誼と共 に、守 屋合戦 の. いて、 聖徳 太 子 の側 近馬 子 の様相 が 見 て取れ る。. 用 明 天皇 は遺 言 で、 軍事 を馬 子と内 政 を妹 子と相 談す る よう にとな って. そ の こと は太 子 十 六歳 条 の冒 頭 ﹁四月 比 ヨリ、 天皇 依 二 守 屋之 呪 咀 ・. 主導者 を 馬 子から 聖徳 太 子 へと書 き換 え て いく 一つの根拠 にな る のかも. 十九歳 の加 冠 記事 で、. 鬘作御礼摩呂子親王也、是依二 小野大臣ノ奏・ 、左右ノ紙燭役人 (小. しれな い。 仏 法 の日本 への伝来 の冒頭 から 深く 理解 し関わ った のは聖徳 太 子 であ り、 馬 子は そ の教 化 の下にあ った とす れば 、主導 者 は聖徳 太 子. 野大臣、蘇我大臣也、親 王 マサ ニ御髪 ヲ剪 ント シ給ケ ル時、. 問題 の崇峻弑逆事件 は このように始まる。. と左右 の紙 燭 の役 と し て小 野妹 子大 臣と も に関わ る ことと も 同様 であ ろ. とな る こと にな る。 守 屋合 戦 を 取 り上げ た ﹁一与守 屋御合 戦事﹂ では、 太 子 二有 二四人大将 軍 ・ 、其 交 名、 一小 野 ノ大 臣、ニ ニ (蘇 我 ノ大 臣、. 三 (秦 河勝、 四述見赤特等也、 と し て、 馬 子は小 野妹 子や 秦 河勝 な ど と 共 に主た る将 軍と 呼ば れ る こと. シ マシテ、太 子 ヲ御前 近 ク請 シタ テ マツリ、 最 後御 対 面 アテ遺 言 シ. 天皇 既御臨終近成 セ玉ケ レ (、召二 蘇 我大 臣、小 野大臣 ・ 、被 二 昇起 ・マ. 四季 ノ興鎗 二慰 ・心卜思 如 何 ニト勅 玉ケ レ (、蘇 我 ノ大 臣謹 テ 云 ク、. 地・ 倉橋山 ノ麓 下居原 有二 眺望 } 造二 宮室於彼地 一 花、郭 公、月、 雪、. 春 二月比、崇峻 天皇宣二 蘇 我 ノ大 臣 一 云ク、朕有二 宮造 ノ意 ・ 、 見二 勝. 太子廿 一歳御時. 玉 (ク、太 子常 二出家 ノ御志 見 へ玉 ヘリ、相架 テ守二 朕 カ遺誠 一 、不. 彼下居 ノ原高 山峙 二四方 ・ 清嵐鳴二万木 ・ 、暁 ノ月 ノ光 杏. にな る。先 に見た 聖徳 太 子と答族 の成 立 であ ろう。用 明 天皇 の臨終 場 面、. い 可い 有二 御出家・ 、唯居二 公侯ノ位・ 、助 ・ 王道一 興二 仏法} 玉フヘシ、明. 影 幽 。雖 い 有二 眺望 ・ 地 形 不・平、渓 川荒 ク涯 テ勁有 二 洪 水 ノ難 一 、牛 馬. 夕・ 、日 ノ. 年十七歳 ニナ (、御 元服可・ 奉二 執行 一 之旨相存 之処、今 日已 二終焉、. 類 多ク群臣ノ朝退可・ 有二 其労煩 ・ 、又臣聞ク、賢王不い 調二 軒 ノ茨 } 、是. 一六 三. 不い 達二 其 本意 ・ 今 生 ノ恨 唯在 二 此事 ・ 、次 二守 屋 カ悪逆 濫吹 之 至リ、御 ﹁ 聖徳 太 子伝﹂ におけ る蘇 我 馬 子像.
(16) 思食 ス様 (天命 二(臣莫二 敢違 ・ 卜云本文 アリ、而 モ恣 二進 テ申二 異. 思食留 玉 (ヽ可い 為二万民之悦 一 也 卜諌被 い 申ケ レ (、 帝大 二有二 逆鱗 ・ 、. 人縦雖い 誤二 風月ノ興 一 群臣 (定テ可い 愁二 氷雪ノ難 ・ 、旁以不・ 宜二 皇居 一 、. 民 ノ煩 ヲ思食 ス ニ依 テナリ。亦文 王 ノ園 (与い 衆楽 卜見 ヘタリ、 一. 功多 ・ 不い 念二 其旧悪 一 之恩恕也、馬子縦 ヒ ー且 (雖い 奉・ 件二 朝旨 ・ 、巳 二. 官誄 ・ 乎、 昔漢 ノ高 祖 置 酒 先 封 二侯. 何ソ其 臣 下. 不い 得い 傾. い 叶、恭 モ吾朝 (天照大神之御子孫相 続 成 一 国主 ・ 、故 二東夷 西戎 モ. 一六 四. . 義・ 之條、甚以狼籍也、並・ 肩守屋 モ已 二被 い 誄、宅部穴穂部皇 子先年. 是 レ累代 ノ忠 臣也。易 ソ容易誄 い之、唯 以二 仁心 一 可・ 有二 御宥免 一 也、. 同朋大学佛教文化研究所紀 要第 二十 二号. . 貧而既 二苑 ヌ、今 (天下之所い 推、 只蘇我 ノ大臣也、恬二 我之権威 ・ 、. 又如来聖教 二有二 六波羅蜜 ・ 、其中忍辱波 羅者 能 ク堪二忍. リ、凡粟散国 ノ王 (皆是十善 ノ菩薩之垂述也。願起二深悲 ・ 恕二 騎臣 ・. と、先ず諌 止す る臣下に ついて先腹を引く のは、当然馬子 の行為 の正当. 崇 峻 天皇 の遷都 の勅 に対 し て、 馬 子 は そ の場所 が 不適 切 であ る こと、 遷. 皇 の発言を 否定 す る役割 を持 つ。 諌 言す る馬 子 に対 し て王 の勅 は絶 対 で. 化を 目指す も のであ る。 それ でも、 天皇 弑 逆 は許さ れざ る行 為 であ ると. 玉 へ. あ る のに馬 子は宅部 皇 子、 穴穂部 皇 子が無 くな って、騏 臣と な って いる. し て、 王位 の絶 対 性 を論 じな がら、 累代 の忠 臣 であ る馬 子が勅 定 に背 い. た こと で、誄す る のではな く、 仏法 の教 え の忍 辱波 羅密 によ って忍ぶ べ. 日如 い斬二 此猪 ノ子 ノ. 夫 天高 ク地 (下 、是貴賤之定位也、君 ノ詔 (臣承 ル是理致之常 ノ方. それ を 聞き 入れ ず 、猪 が献 上さ れ た と き に ﹁ 何. き であ ると 諌 め る。. 二含 二 騏 慢 之思 へ 終 成 二 朝敵 一 事不い可い 有・ 疑、殊 二為 朕 不忠 ノ臣. 也。而 モ蘇我 ノ大臣 (外 崇 二 仏法 一 雖・ 彰二 信士之体 ・ 、内 望二王位 一 偏. と激 怒 す る崇 峻 天皇 には 理が無 いか のよう であ る。ついで聖徳 太 子 にも、. 都が民 の煩 いであ る ことなどを挙げ て諌 止する。﹁ 伝暦﹂における崇峻天. 一切難 事 ・. 於雍 歯 ・ 天 下治矣 。 是 レ為二其. 而望 二 其 王位 ・ 、若 シ強 テ企二 濫吹 ・ 天命 不い可・ 逃。豊 及二. 、猶百王 一百代之末 マテ モ、依二 神明 ノ加護 ・ 宝祚可い固、. . 軽二天之貴命 一 事奇佐也、貧而不い 諮者有 ・ 之、富 テ不 騏者無い 之卜 云. 之謂也、菩薩 ノ不い 忘・ 其本地 ・ 、万行 ノ中 二忍辱 ヲ為二 最上 ・ 卜見 ヘタ. 本 文、 実有 二 其理 ・ 卜思食 合 セ給 テ、弥 忿激 シ給 ケ リ. . 頚一 得y 斬二逆臣 ノ頚 こ と衆人 の前 で安易 に発言してしま った崇峻天皇. は、 結 局馬子 の意を受けた東漢直駒 によ って暗殺され てしまう のであ る。. 也 、 所 詮欲 い 誄y 之 云何 と 馬 子が仏教 を信 じると い いな がら騏 慢 の心があ ると し、誄 す べき であ. こ の事 を太 子は小 野妹 子 に、. ・ 力眼前 ノ無常 哀 御事也、又馬 子未・ 弁二 仏法因果之道 理 ・ 、夫怨 ヲ (. 悲哉。帝 不・ 違二 吾奉 口相 ・ 終 二嬰・ 剱失 ・ 命給事、先業 ノ所感、雖 無. ると の論 を 展開す る。 それ に対 し聖徳 太 子も、. 誠是騏怠 (小人之所い為 君子之所・ 悪 也、次奉・ 望二 王位 一 事努 々不・ 可.
(17) . . . 以い 恩・ 報. 無二 其情 ・ 乎 、 於二 此 一事 ・ 強 テ不い可い 陳. 皆依二 愛欲 ノ道 一 不い 知・ 失・ 命。畜類猶如・ 此、況於二 人間 一 貴賤雖 異何. 則怨 不・止、如y以二 乾草 ・ 消中盛 火上因果 ノ理必然 ナ リ、雖. ・ 有 二遅速 ノ不 同 へ 馬 子争 カ免 此報 乎 、. 馬子 の太子讃歎 は書かれず。 四十 四歳 の法花経講讃記事 で、. 太 子坦 五歳 の秋 七月 に推古 天皇 の勅 で行われた太 子 の勝鬘経 講経 では、. と 入鹿 の謀 殺を 記 し て、 因果応 報 の結 果と す る。. 飛テ入二黒雲中 一 此罪報也、甘 樫 峯 嬰二己鉦 一 也。. 私 云、 入鹿 ノ大臣謀叛 ノ故 二鎌 子連 一門 三千人自害 シテ成二五色鬼 王 ・ 、. さ ら に この章 段 の終 わ り に、 ・. あ る。. とす る のも 、問答 無 用 で駒 を殺害 す る馬 子 の立 場を強 調す るか のよう で. 一 也、. 大 臣弥 起 二大 悪念 ・ 投二 捨 弓箭 一 自 二大床 ・ 飛 下、抜 二太 刀 一 被 刎二 直駒 首. と、天皇絶対 の論理を知らな いか のような弁舌をす る。馬子が矢 で駒を. ニ. と いい、 馬 子が仏法 因果 の道 理を 十 分 には承知 し て いな いと の見解 を 示. テ. 射 殺 した とす る それ ま で の ﹁ 太 子伝﹂ 類 と は異な り、. 々ヘ. す。さ ら に、駒 に対 し ては、 シテ. 直駒 又巳 二昇 殿 示 ク踏二玉台 ノ上 一 入二 錦帳 ノ中 一 無・ 情奉 い 害・ 天皇 ・ 、 其 罪報忽 二酎 テ可い為 二 順 現業 ・ 也、 と そ の天皇弑 逆 の罪を 断 罪す る。 馬 子が数 え 上げ る駒 の三 つの罪 に ついても、. 汝 二有二三咎 ・ 、故放二三ノ矢 ・ 留二 汝命 ・ 、 一二{汝蒙二帝 ノ御愛憐 } 不. 万代 於 悪 名 ・. い 浅 而 ル ニ不い 顧・ 朝恩 ・ 内 二通 於我 ・ 咎、 ニ ニ(汝奉 い 害 二天皇 一 事雖 い 用二. 我語 ・ 、実 二耽二 寂欲 一 也、吾不い 忍二 念之諺憤 一 流二布. 併 是 汝 カ咎 、為 二下賤 ノ身 ・ 、祓 ・ 上宮 ノ姫 一 大 犯之咎 、 不い可い 赦 と 天皇 の絶 対的優 位 をあげ 、簡単 に馬 子 の命 を 聞 いて、 馬 子 に 天皇弑 逆 の汚 名を着 せた とす る断 罪 の論 理を 挙げ る。 これ に対 し て駒 は、. 金 銀珠 玉綾 羅錦 繍等 ・ 、不・ 知 二其 際 限 ・ 、時. 天皇叡信之除 二布二 施 殿. 抑大臣 被い 行二三ノ咎ヲ於直駒 一 之條、無二 其謂 一 也、 二 一 内二通. 珍 万宝 (当 座之 翫 弄 尽未 来 際重 宝 (不・可い過 二田地 一 申 賜 ケ レ (、天. . 事 無 双 ノ忠 也 、有 二何 ノ咎 ・ 、ニ ニ我 レ報 ク奉 ・ 害 い君 ヲ流 二 布. 皇 大 二有 二 御感 ・ 、 又布 二 施. 二蘇我大 臣謹 テ奏 言ク、極大乗之御畦咽、捧二 大千界 ・ 猶 不い足、七. 悪名 事、御 辺 (天 児屋根 尊 廿七代 ノ高菜、雖二 朝廷ノ名 臣・ 猶 当い 時. とあ って、推 古 天皇 と 同 じよう に感 嘆 し て いるだ け で、 と りわ け て理解. 上 ノ清談 ・ 兼 テ依い 有二 主従之契約 一 、告二 其身 ノ ー大事 一欲・ 令二 用心 ・. . 不い 顧二 末代 ノ悪名 有 二 逆 罪之企 一 、直駒 {東 国 ノ荒夷、但 取二 弓矢. し て いると の表 記 はな い。 聖徳 太 子と馬 子と の距離 は懸 隔 し て いる ので. 大 臣之. . 為・ 業、 不い明二 仁義 ノ道 } 、何 ソ願二 末代読 難 ・ 、併是御方越度、全 ク. あ る。. 一六 五. 播 磨 国伊 保 郡佐 勢 庄 三百 六十除 町 ・ 、. . 非 二我 咎 ・ 、三 二河上 ノ姫 ノ事 (有 二入い火夏 ノ虫 ・ 、有 二 寄・ 笛 秋 ノ鹿 ・ 、 ﹁ 聖徳太 子伝﹂ における蘇我馬子像.
(18) . . . . 五. 同 朋大学 佛教 文 化 研究 所紀 要第 二十 二号. 中世 におけ る馬 子解釈. - ﹃愚管抄﹄ から ﹃ 神皇 正統 記﹄ま でI. 一六 六. テ奉ル 。 冠位ノシナぐ. 馬 屋 戸 ノ皇 子 ヲ東宮 ト ス。 世 ノ政 ヲ アヅ ケ奉 ル。 此東宮 (用 明 ノ御. 子也。是 聖徳 太 子也。太 子十 七 ケ條 憲法 ヲ1 . ヲ被 二 定置 ・ 。 世中 ノ事 ヲシ ルシオ カ ル。 太 子失 給 テ後、 世 ヲト ロ ヘ 民 ト モ シ ト 云 ヘリ 。. 暦 ・天文 ノフミ百済国 ヨリ渡セリ。僧 正 ・僧都此御時 ニナ シ (ジ メ. ﹁ 伝暦﹂では天皇弑逆者とし ての馬子と、仏法護持者としての馬子と い う 二極 に分 かれ る傾 向 が 見えた。 こ の こと は仏教 に関わ った者 た ち の歴. ラ ル。寺 々僧 尼 ノ事 ヲ定 メラ ル。. 七十 二。. モ. ナグサメッペ イトマ、年 モカクブキ マカルマヽ二、世中 モヒ. 年 ニソ ヘ日 ニソ ヘテ (、物 ノ道 理 ヲ ノミ思 ツマ ケ テ、 老 ノネザ メ ヲ. として、は っきりと崇峻 天皇弑逆が馬子による事を記し、巻 三冒頭 では、. 史 認識 の中 で解釈 困難な 問 題と し て提 示さ れ る こと にな る。﹁愚管 抄 ﹂a). 六十七即位. の関係 記事を 見 ると、 まず巻 第 一の ﹁ 皇帝 年代 記﹂ で、. 元年 丁未戊中. サ シク ミテ侍 レバ、 昔 ヨリ ウ ツリ マカ ル道 理 モア (レ ニオボ エテ、. 五年. 欽 明第 十 五子。 母小姉 君娘 。 稲 目大 臣娘。. 神 ノ御代 (シラズ 、人代 ト ナリ テ神 武 天皇 ノ御後 、百 王トキ コ ユル、. 崇 峻 天皇. 坦三. 大 和国倉 橋宮 。. スデ ュノ コリ スクナク、 八十 四代 ニモ成 ニケ ルナカ ニ、保 元ノ乱イ. 一. 后 一人。 御 子 二人。. ミ侍 レバ、 コレヲ思 ツマ ク ル心 ヲ モヤ スメ ント思 テカキ ツケ侍也 。. ニソ ム ク心 ノミ アリ テ、 イ トマ 世 モミダ レヲダ シカ ラ ヌ コト ニテ ノ. レバ、 マコト ニイ (レテ ノミ覚 ユルヲ、 カ ク (人 ノオ モ (デ 、道 理. ト ロ ヘクダ ル コト (リ、 ヒト スヂ ヲ申 サバ ヤトオ モヒテ思 ヒ ツマ ク. 人 モ申 ヲカ ヌ ニヤトヲ ロカ ニ覚 テ、 ヒト スヂ ニ世 ノウ ツリカ (リオ. (ミナ乱 世 ニテ侍 レバ、ワ ロキ事 ニテ ノミ アラ ンズ ルヲ (バ カ リ テ、. デ キ テ ノチ ノ コト モ、 マタ世継 ガ モノガ タ リト申 モノ モカキ ツギ タ. 七十 三或 八十 三。. 大 臣 馬 子如 い 前。. (三 十 ハ イ). 四十 即位. 御年. ル人ナ シ。 少 々アリト カ ヤウ ケタ マ (レド モ、 イ マダ エミ侍 ラズ 。. 哭丑イ. 百済 国 ヨリ仏 舎 利 ヲ渡 ス。. 元年 壬子. ソ レ (ミナタマ ヨキ事 ヲノミ シ ルサ ント テ侍 レバ、 保 元以後 ノ コト. 坦六年. 此 天皇 (馬 子 大 臣 二 コ ロサ レ給 ヒ ニケ リ。 指 四女帝. 推 古 天皇. 崇峻 コロサ レ給テ相計 テ位 ニツケ奉 ル。. 蘇 我蝦夷 臣。同年任二 大臣・ 。号二 豊浦︼ 。. 大 臣馬 子如 ・ 前 。批四年五月琵。. 欽 明中女 。敏 達 天皇 ノ后也 。 母用 明同 母。 大 和 国小墾 田宮 。. 一.
(19) 皇 代 年 代 記 ア レバ ヒキ ア ワセ ツ X gZ l Rフカ ク心 ウ ペキ ナ リ。. 五世 ノ女帝 (ジ マリ テ、応 神 天皇 イデ オ (シ マシテ、今 (我 国 (神. 事 ナ カ リ ケ ルホ ド ニ、 皇 子 モ マウ ケ タ マ (デ ウ セ給 ニケ レバ 、 国 王. 十 ニテ位 ニツキ、 十 ハ マデ オ (シ マシケ レバ、群 臣 ナゲ ク ヨリ外 ノ. サ テ仁 賢 ノ太 子 二武 烈 天皇 卜申 、 イ フバ カリ ナ キ悪 王 ノイデ キ テ、. タクテ、聖徳太子東宮 二(立ナガラ、推古 天皇女帝 ニテ世六年 ヲオ. メナ ド シテ、其 後 仏法 ワタ リナ ド シテ国 王バ カリ (治 天 下相応 シガ. ノ聖 運 ホドナ ク テ、允恭 ・雄 略 ナド 王孫 モツマ カズ 、 又子孫 ヲ モト. トオボ シメ シテ、 仏法 ノ ワタ ラ ン マデ ト マモラ セ給 ケ レド モ、代 々. 代 ノ気 分 ア ル マジ 、 ヒト ヘ二人 ノ心 タ マ ア シ ニテ オ ト ロ ヘンズ ラ ン. ノタネ ナ クテ世 ノナゲ キ ニテ、 臣 下 ア ツ マリ テ越 前 国 二応神 天王 ノ. サ メオ (シ マシテ、崇 峻 天皇 コロサ レ給 フ コト ナド イデ キ ナガ ラ世. と の歴史 観 を 示 し、. 五世 ノ皇 子オ (シ マシケ ルヲ、 モト メイダ シ マイ ラ セ テ位 ニツケ マ. イラセタル 。継体天王卜申テコ ノサキぐ ヨ リ( 久シク廿五年タモ チ給テ、トシゴロ ヰナカニ テ民ノ様ヲモヨクく シロ シメシテ、コ. 皇 ノ御時 (ジ メテ仏法 コノ国 二渡 テ、聖徳 太 子、 ス ヱ ニ御 ム マゴ ニ. 給 ニケ リ。安 閑 ・宣 化 ・欽 明 ナリ。 ア ニ二人 (ホド モナ シ。欽 明 天. ニト モ、昔 ノ人 モ コレヲアヤ メサ タ シヲクベ シ。 イ マノ人 モ又 コレ. モヲ コナ ワ レズ 、 ヨキ事 ヲ シタ ルテイ ニテサ テヤ ミタ ル コト (イ カ. コノ崇 峻 天皇 ノ、 馬 子 ノ大 臣 二コロサ レ給 テ、 大 臣 ス コシノトガ. テ、 ヤガ テ イ マ ニイ タ ル マデ サ カ リ ナ リ。. テ ム マレ給 シ ョリ、 コノ国 (仏 法 ニ マボ ラ レテ今 マデ ク モテリトソ. ヲ心得 ベ シ。 日本 国 二 (営 時 国 王 ヲ コロシ マイ ラセタ ル事 (オ ホ カ. ノ御 時 コト ニ国 モ ヨクオサ マリ テ、皇 子 三人 ミナ次第 二位 ニツカ セ. ミ ヘ侍 ル。. 無 下 二位 ノ御治 天 下程 ナ シ、允恭ソ 四十 二年 久 シクオ (シ マス。此. サ レ給 ニケ ル (、ヤガ テ マユワノ王 モソノ時 コロサ レ ニケ レバ イカマ. 安康 天皇 トバ カリ也。 ソ ノ安康 (七歳 ナ ル マ マコノ眉輪 ノ王 二 コロ. タ ナ シ。 又 ア ル マジ ト ヒ シト サダ メタ ルク ニナ リ。 ソ レ ニ コノ王 卜. 十 二代 ノ間 二(安康 ・武 烈 ナ ノメナラズ ア シキ御代 ナリ。 顕宗 ・仁. ワセ ン。 ソ ノ眉輪 モ七歳 ノ人也 。 マヽ コ ニテオ ヤ ノカタ キ ナ レバ、. 仁徳 天皇 八十 七 年 タ モタ セ給 テ ノチ、 履 中 ヨリ宣 化 マデ 十 二代 、. 賢 (仁徳 卜宇治太 子ト ノ例 ヲオボ シメシテ メデ タケ レド マタ程 ナ シ。. 道 理 モアザ ヤカナ リ。 又安康 ( I定 ア ニノ位 ニツクペキ東 宮 ニテオ. 一六 七. チ ヽヲ モ コロシテ眉輪 ノ母 ヲトリナド シチラ シテ、アラ (ニド シタ ヽ. (シ マス、 コロシテ位 ニツキ テ、 ワヅ カ ニ中 一年 ノ程 二眉輪 ノ王 ノ. コレヲ (カ リ ミ ル ニ、 一期 一段 ノ ヲト ロフ ルッギ メ ニ コソ。 人代 ノ. ( ジメ 成務マ デ、サワく 卜皇子く ツガセ給テ正法トミェ タリ。. 仲哀 ((ジ メテ国 王 ノム マゴ ニテ ツガ セ給 フ。神功 皇 后、 又開化 ノ ﹁ 聖徳太 子伝﹂ における蘇我 馬 子像.
(20) ニスコシノトガ モナクテ、ツこフトシテアルベシヤ (。ナカ ニモ聖. カザ ド リ テ、 ソ ノ大 臣 ノ国 王 ヲ コ ロシ マイ ラ セタ ル ニテ アリ。 ソ レ. 崇峻 ノ コロサ レ給 フヤウ (、 時 ノ大 臣 ヲ コロサ ントオボ シケ ルヲキ ヽ. カ ヒ ニテ、 サ ル フ シギ モア リ ケ レバ 、 コレ (ヲボ ツカ ナ カ ラズ 。 此. リ ツ ル ニテ侍 レバ、唯 コノヲ モムキ也 。 サ ラバ守 屋ガ ヤウ ニ、 コノ. ルチ カラ ニテ、 カ ヽル王 ヲ我 ガ コロサ レヌサ キ ニウ シナ ヒタ テ マツ. 国 王 ノ、 コノ臣 ヲ コ ロサ ント セサ セ給 フ時 、 馬 子大 臣仏 法 ヲ信 ジ タ. モオ (シ マサズタマ欽明 ノ御 子トイ フバカリ ニテ位 ニツカセ給タ ル. ニテ コノ馬 子 ノ臣 (侍 ケ リト アラ (ナリ。 コノ大 臣 ヲ、 ス コシ モ徳. 一六 八. 徳 太 子オ (シ マスオ リ ニテ、太 子 (イカ ニ、 サ テ (御サ タ モナ クテ. 国 ノ仏法 ヲ令 ﹂. 同朋大学佛教文化研究所紀 要第 二十 二号. ヤガ テ馬 子 ト ヒト ツ心 ニテ オ (シ マシケ ルソ ト、 ヨ ニ心 エヌ事 ニテ. ヱサ ア ル マジ キ也 。 仏 法 卜 王法 ト ヲ ヒタ (タ ノカ タ キ ニナ シテ、 仏. 法 カチ ヌト イ (ン事 (、 カ ヘリ テ仏法 ノタ メキズ 也 。守 屋等 ヲ コ ロ. ア ルナ リ。 サ テ其 後 カ ヽリ ケ レバ ト テ、 コレヲ例 卜 思 フヲ モムキ ツ. ヤく トナシ 。. 定 軽 重 ノア ルヲ、 オ モキ ニツキ テカ ロキ ヲ スツ ルソ ト、 コノ コト (. イ モウ ト セウ ト ニテ シカ モ妻 后 ニテ推古 天王 ノオ (シ マス。 イカ ニ. ツギ ュ世 間 ノ道 理 ノ軽重 ヲタ ツ ル ニ、欽 明 ノ御 子 ニテ敏達 、推古 、. ス コト (仏 法 ノ コ ロス ニ (アラズ 。 王法 ノ ワ ロキ 臣 下 ヲウ シナ ヒ給. リ ト コノ ニヲ ヒシト アラ (カサ レタ ル ニテ侍 ナリ。 コレヲバ タ レガ. イ モウ ト ヲバ妻 二 (シ給 ヒケ ルソ ト 云 コト (、其 比ナド ゛ マデ (是 ヲ. コノ コト ヲ フカク案ズ ル ニ、 タ マ セ ン (仏法 ニテ王法 ヲバ マモラ. アラ (スペキソ ト イ フ ニ、 観音 ノ化身 聖徳 太 子 ノアラ (サ セ給 ベケ. (マカルベシト云事ナカリケルナルベシ。 加様ノ礼義者 ノチザ マモ. 也 。 王法 ノタ メ ノ宝 ヲホ ロボ ス故也 。 モノ ヽ道 理 ヲタ ツ ルヤウ ( コ. レバ 、 カ ク アリ ケ ル コト サダ カ ニ心 得 ラ ル ヽナ リ。 其 故 (、 イ ミジ. コト ニ仏法 ナ ド アラ (レテ後定 ラ ル ヽ也 。其 二神功 皇 后 ノ例 モ有 。. ンズ ルソ 。 仏 法 ナ ク テ (、 仏 法 ノ ワタ リ ヌ ルウ ヘニ (、 王法 (ヱア. キ権 者 卜 (其 人ウ セテ ノチ ニ コソ思 へ、 聖徳 太 子イ ミジ ト (申 セド. 推古 ノヤガ テ御 即位 (ア ルベキ ナリ。 サ レド用 明 (太 子 ノ御 チ ヽ 二. レガ マ コト ノ道 理 ニテ (侍也 。. ン其 時 (タマ ノ人 二コソ思 マイ ラ セテ ア ルガ、 オサ ナ クテサ スガ ユ. テ モト モシカ ルペ シト テ ツギ 給 ヌ。 サ レド 二年 ニテ程 ナ シ。 太 子 カ. ル マジ キソ ト イ フ コト (リ ヲアラ (サ ンレウ ト、 又物 ノ道 理 二 ( I. オサナ振舞 ヲモシテ コソ (オ (シ マス ニ、 ワズカ ニ十六歳 ノ御時 マ. ク ミ給 ケ ン。 ソ ノウ ェ (又崇 峻 ヲヲサ エラ ルペキ ヤウ ナ クテ、 マタ. シ、御マ ナコ シカぐ也ナド申サレヌ 。ソレヲ 信ジ給デ、猪ノ子ヲ. ツギ 給 ド、 太 子相 シ マイ ラ セ テ、 程 アラジ 、 兵 ヤ ク モオ (シ マスベ. サ シク仏法 ヲ コ ロシケ ル守 屋 ヲウ タ ル ヽモ、 オ ト ナ シキ大 臣 ノ世 二 威 勢 アリ テ、 我身 タ リタ ル馬 子大 臣 ノ ヒト ツ心 ニテサ タ セ シ コソ、 太 子 ノセ ンノ御 チ カラ ニ (ナリ ニシカ。 仏法 二帰 シタ ル大 臣 ノ手本.
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