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中國小説史略考證 第十五

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神戸市外国語大学 学術情報リポジトリ

中國小説史略考證 第十五

著者

中嶋 長文

雑誌名

神戸外大論叢

51

3

ページ

1-25

発行年

2000-09-30

URL

http://id.nii.ac.jp/1085/00001290/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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中國小読史略考謹

第十五

第十五篇 元明傳來之講史︵下︶ −﹁水手一故事、以至蓋如是而已。      一三九±  鳥印本﹁大略﹂+︸﹁元明傳來之歴史演義﹂云、主人講史不限干全史、其敷叙一時或一人故事者、亦騒士種。黄門自  牧金歯皇恩史貰下云、﹁有王六大夫、於威淳年間敷演復華篇及中興名落研、賠者紛紛﹂。其類之至今猶存者爲水潜傳。   水濡傳爲南宋初年以來相傳之故事、首里亦万有其人、見於宋史。徽宗宣和三年﹁涯南盗宋釜茄毫厘漕運、遣將討捕、  又犯京東、江北、入楚海州界、命書函張花曇投降之。﹂︵巻二十二︶至於越後韻事、則史無明文、而稗史黄膚転貸謄有  功、封節度使、然善書者實韓世忠、與江等無與、惟宋史諸豪藤下云、﹁宋江車山東、蒙上書言宋江以三十六人横行齊  魏、官軍数萬、無血盲者。其才必百人、今青藍盗起、不若赦江、使討方腫以自販。﹂︵巻三百五十一︶斎篭時難樋門議  而實未行、小計家蟹田以出塁。洪遭夷堅乙志云、﹁三和七年、戸部侍郎芝居聖運、皆無州、以病不赴蹄金陵、疽慶干 ︶ 1 ︵

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背卒、﹂未幾遍里親早生亡而興奮、見察受冥謎、以告其妻、﹁夫人働遅日、侍郎去年帥郵時、有梁山櫟賊五百人受降、 既而悉諌之、至愚華北聰也。﹂壮志成子乾道二年、去宣和不過四十平年、耳目甚近、冥世尊小読響言、殺降則不容臆 造、山櫟終局、如此而已。 現行﹁史略﹂第十五篇はすでに﹁考謹﹂第十四篇の冒頭で述べたが、鉛印本﹁大略﹂では第十三篇に位置し、﹁史略﹂ 初版から第七版までは第十四篇に断て叙述された。この段は後まで殆んど篇印本の叙述を襲っていて大きな異同はな い。但し鉛印本にはこの記述に先立って、重石庵と門歯中に要する言及があり、羅に關する部分は第十四篇3に引か れている。今施に關する部分を左に引用する。  宋之読話人、於小菅書史皆多高手︵名見﹁夢再録﹂及﹁武林奮事﹂︶、而不聞有著作、其以通史著稻後世者、蓋莫過  於元之施耐巷。耐蕎、銭唐人︵明高儒﹁百川書志﹂六︶、著﹁水思量﹂、有︼小読序云、﹁書入露語紬閲希書、於散  楮中得宋張聖夜禽賊害語一通、備悉其一百八人所由起、因潤飾盲官編。﹂而名山事跡皆不可考︵序言見歯磨麟﹁筆  叢﹄四十一、然軽信、又云﹁施某事見田叔禾﹁西湖画塾﹂﹂、而立無有、乃誤記也。︶或者實無其人。 文字の異同は鉛印本から現行本まで殆んどない。冒頭﹁﹁水濤﹂故事亦⋮⋮﹂の二重括弧は三八年版全集で附けられ たものでそれまではなかった。又﹁亦﹂は訂正版で補われた。﹁︵見十三篇︶﹂の﹁十三﹂は訂正版までは﹁前﹂に作 り、﹁薬居厚罷、﹂﹁疽焚子背、﹂の句嬉野も訂正版以前の版にはなく、それぞれ訂正版で現行のように改められた。初 版は﹁戸部侍郎﹂の﹁侍﹂を﹁待﹂に誤る。 ﹁小説的歴史的愛器﹂第四講云、二、﹁水潜傳﹂ ﹁水鉛傳﹂是叙宋江等的事情、也不自羅恕罪起始。因爲宋江是實有其 人的、重盗亦是事實、蛭子他的事情、巽南宋以來就成東丘上的濫読。宋元肥有高如・年嵩等、即以水癌故事作小説。 ︶ 2 ︵

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宋遺民襲聖與又作﹁宋江三十六人賛﹂。又﹁宣和遺事﹂上也有講﹁宋江檎方臆有功、封節度使﹂等送話、可見這種故 事、早已傳播人面、或早有種種簡略的書本、也未可知。到頭來、羅門中蒼葦諸読、或小本﹁水濤﹂故事、而取捨之、 便成了大部的﹁水激傳﹂。但原本之﹁水濤傳﹂、現在巳不可得、所通行的﹁水濡傳﹂有恒心。一類是七十回的、一類是 多子七十回的。多干七十回的一類是先叙洪太首書走妖魔、而次以百八人載量梁山泊、高家劫舎、後出受招安、用発破 遼、平田虎・骨壷、正方腫、立縞大功。最後朝廷毒忌、宋江服毒而死、可成紳明。其中招安之読、乃是宋末子元初的 思想、子爵鼻骨杜會擾乱、官兵歴制卒民、民之和肖者忍受之、不和卒者便分離器爲盗。盗一面與官兵抗、官兵不勝、 一面則撹掠人民、民間自然亦時盗聞騒擾。但一到外冠進來、官兵又不能抵抗的時候、人民面壁仇覗外族、便想用較勝 干官兵的下立抵抗他、所以盗又爲當請所滑道了。至磁界江服毒的一層、乃明初加入的、明太租統一天下之後、疑忌功 臣、横行殺数、善終的根不多、人民爲辛子被害之功臣表同情起見、就至上宋江服毒成苗之事去。一叢也就是事馬上 鉄階者、小説使他團園曲老例。 ﹁魯迅藏書目録﹂子部雑記異聞云、﹁夷堅志﹂二百男六巻 宋洪辛苦 民國十六年︵一九二七︶上海商務印書館擦宋紗  明紗明刻本鉛印 二十珊 この著録は時期から見て直接に﹁史略﹂と締しないから、﹁史略﹂が撮ったのはおそらく十萬巻縷叢書本だと思われ る。拙稿第十一篇7参照。魯迅はこの叢書を初編から三編まで全巻夏島していた。 小説に乱する研究は當時の中藍では奪ったばかりであり、﹁水溜傳﹂についても例外ではなかった。しかし﹃史略﹂ に先行するものとして胡適の業績がありへ﹁史略﹂の本篇での叙述も、賛同も否定も含めてそれが前提となっている。 交友關係による書物の貸借りや情報の交換のみならず、胡適の研究が大きく影響していることは否定できない馬丁で ︶ 3 ︵

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ある。  胡適の﹁水濡傳﹂研究には次の諸論がある。   ﹁水濤傳考謹﹂ 民國九年亜東圖書館﹁水押﹁︵七十回本︶初版   ﹁水濫後考﹂ 民國十年亜東重書館﹁水耕﹂再版 この二二は後﹁出塁文存﹂巻三に牧録。   ﹁水濤績集忙種序﹂ 民國十三年早寝下書館﹁水鏡露量﹂初版 後﹁胡適工廠﹄二二巻四に牧録。   ﹁百二十回本忠義水瀞傳序﹂ 民國十八年商務印書館﹁一百二十回的水瀞﹂︵萬有文庫︶初版に﹁水激傳新考﹂   として冠せられ、後﹁胡適文存﹂第三集越訴に現行の名で牧録。   後年中底は章回小謡に質する研究を纏めて民國三十三年實業印書館から﹃中國章回小説面責﹂を出した。以上の   四論はみなそこに牧められている。一九八○年上海書店がその書を影印刊行した。 なお﹁水濟傳﹂の版本については﹁課目﹂の他、馬蹄疾﹁水濡書面﹂︵一九八六年上海古塁出版杜︶、高島俊男﹁水激 傳の世界﹂︵一九八七年大修館書店︶参照。 梁章鍾﹁浪跡叢談一六云、水濡傳豪華、亦依傍正史、而事蹟不能相符。平定徽宗本紀﹁宣布三年二月、潅南盗宋江等 犯再拝軍、又犯華東、江北、楚楚・海州界、命雲州張叔夜語降之。﹂侯再思﹁宋江冠京東、蒙上書言、宋江以三十六 人横行二面、官軍数萬、無敢抗者、其才必過人。今青悪態起、不若蒲江、使討夏痩以自順。﹂壁書夜漏﹁叔夜再知海 州。宋江起工朔、韓二十郡、官軍莫面部其鋒。聲言將至、叔夜使間者硯所向、賊樫趨勧工、劫巨舟十籐載歯獲。於是 募節士得千人、設伏近城、而出藍兵距海鳥音画、先匿壮紅海妾、伺兵合、畢火焚其舟、賊紅皿、皆無手応、伏兵乗之、 檎其副肝、江乃降。﹂按甘雨傳錐有使討百子之語、事無可考。宋江雨隠月虹、方雄藩四月檎、或籍其力。但其時檎臆 ︶ 4 ︵

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者、擦徽宗本紀、以再臨州防禦使辛興宗。擦童貫傳、以爲宣撫善書童形、撮韓世忠傳﹂則世忠以偏將窮追至青渓胴、 間野婦得径、渡引数里、接其穴、辛興宗軍陣俘、以爲嘉言、皆興産江無渉也。︵下略︶﹁小読藷聞紗一引。 蒋隆盛﹁小読考謹一一引愈樋﹁小浮屠聞話﹂而云、宋官事見張叔夜傳。︵引摺與前﹁甲山叢談﹂引引同、今從略︶三江降後、 無使戦績脳事。方脳心見童貫傳云、︵今從略。︶又韓世忠傳、﹁方臓反、世忠以偏將二王耳翼之。時有心、能得臆首者、 馬糧鎭節銭。世忠窮追、至整理豪渓桐、間野婦得径、即挺身侯父直前。度瞼敷里、揚其穴、格殺数十人、檎臆以出。 辛論宗領兵裁胴口、掠郷里爲即功。﹂是秘方腫者、韓世忠也。乃生前既道塗興宗即功、而数百年後、稗官演読又蹄之 於武松、折何薪王之不幸也。唯侯蒙傳、︵引文與前﹁浪跡叢談﹂所引同、豊里略。︶是赦宋江以吉方臆、侯蒙有此議、而實未之 行、小読家即本此附會爾。 勲樋﹁茶香鼎坐紗﹂+六云、宋磁遭﹁夷堅陣志﹂云、野壷七年、戸部侍郎察居厚罷、知立州、以病不幸、蹄金陵、疽 獲於背卒。三盛、所親王門構亡、三日復蘇、云如夢中有人相追、逮至公庭。俄戸〆小門開、獄卒護一囚、紐械難平、 立庭下。別箇二人昇虚血、自認澆之。囚大膳、痛苦如不堪忍者。細視之、乃侍郎也。復押入小門、回望某云、﹁汝今 町、.便與吾妻読、速菅功労救我、鞘堂是造畢郵目語。﹂夫人働車田、﹁侍郎去年帥郵時、有梁山櫟賊五百人受降、既而 悉謙之。屡諌、不等也。﹂乃作出籔酷、爲謝罪乞命。按此梁山櫟賊、印藤江等也。宋江下見﹁宋史﹂難場夜傳、但云 摘其副賊、鼻曲降。至徳後爲察居厚面殺、而藝居厚又謀殺燈芯冥謎、則人所未知也。︵後略;小読薔聞紗﹂引。 ﹁夷堅乙志﹂六十、宣和七年、戸部侍郎察居厚罷、知一州、以病不赴、蹄金陵。.疽獲干背、命道士設酷、情所親王生 作青詞、少日而察卒。差出、王土暴亡、三日復蘇、連呼日、﹁請侍郎夫人來。﹂夫人至、王乃云、﹁坦坦夢中、有人相 野逮、拒不肯往、其人重鉢見執。回顧、身元難境臥^自蒼黒死、逐霊智。天色如濃陰大霧中、足常省電三尺許、四十 ︶ 5 ︵

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数里、至公庭。主者間、﹁何以盗作青耳鼻上蒼。﹂某方知所謂、操封日、﹁皆是正侍郎命意、某行文而巳。﹂主者怒馨、 押令組立。俄西語小門開、獄卒護一囚、薬量聯貫、立庭下。別音二人置桶血、自頭澆之。囚大虚、頓製苦痛、如不堪  忍者。細視之、乃侍郎也。主者退。復押入小門、回望某云、﹁汝今臨、工種吾妻読、・速菅功罪救我、今祇即言會甲州 事。﹂﹂夫人働廿日、﹁侍郎去年帥郡時、有梁山颪賊五百人受降、既而悉諌之、吾屡諌、不聴也。今日及此、痛哉。﹂乃  招路時中作黄籔酷、爲謝罪請命。一九八一年中華書局何卓鮎校本。  ﹁至高思置﹂書写、﹁夷堅﹂初志成、士大夫或傳之、転籍板子閲、干蜀、子婆、干臨安、蓋家有其書。人主予好奇尚  異也、毎得一読、或千里寄聲、於是五年間又得巻幽閉寡暮前編等、乃以乙志名品。凡甲乙正書、合爲六百事、天下之  怪怪奇奇三主於是 。輪番導灯重工、荘周之談天、虚無海面、不可致詰。逮干賓之﹁捜繭﹂、憲章公之﹁学漫﹂、谷紳  子之﹁博異﹂、﹁河東﹂喜喜、﹁宣室﹂之志、﹁稽榊﹂之録、皆不能無寓言於其間。若予重書、舌癌過一甲子、耳目相接、  星表表通掠尋者。薬種不信、其量見烏有先生而問之。霜道二年十二月十八日、番陽洪適手工寂。同上。宣旨六年、西紀一  一二四年、乾道二年、西紀一一六六年也。 2然宋三等嚇聚梁山櫟時、以至宋江牧方臆有功封節度使       一三九−四  窩印本﹁大略﹂+一。次の敷箇所を除いて現行本と異同はない。﹁嘱聚﹂の﹁囎﹂字なし。﹁︵巻三百五十三︶﹂は括弧  の後に。﹁亦云﹂は﹁二言﹂。﹁干是﹂云々は﹁意者當時点有奇聞故事流送民間、帳輻繁饗、半白巷語﹂。﹁好事者﹂は  ﹁文人﹂。﹁﹁宣和遺事ヒ云々は﹁宣和遺事前集中葉有梁山櫟始末、遺事乃取他書所爲、則宋白雲亦聖別有本擦、惟不  知爲何人所作耳。其目如下﹂。   鉛印本﹁大略﹂から現行本に至るまで、第三版が﹁﹁宣和遺事﹂由紗撮書籍二成。﹂と句鮎にする他は異同がない。 ︶ 6 ︵

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﹁宋史一三百五十三は本篇1に引く﹁浪跡叢談﹂に明らかなように﹁張叔母傳﹂の記述。﹁再三雑識﹄績雪上の記事 は、﹁走読蕎聞紗﹂の朗瑛﹁七修二面﹂二十五に引く﹁薫辛雑志﹂︵﹁類稿﹂は﹁志﹂に作る︶の証明として次の案語 を附して原文全文を引く。﹁案、周密所録賀、時爲後人霜道、今掲之干後、以備考覧1﹂ 周密﹁奉迎雑単一績集上云、襲聖與作宋江三十六賛井序日、﹁宋学十三於街談巷語、不足采著、錐有高如李二選傳篤、 士大夫亦不見黙。余年少時肚其人、欲叢話書賛、以未見信書馬事實、不正雷門。及異盗見東都事略書載侍郎予土傳有 書一篇、陳制賊之計云、﹁宋江以三十六人横行河朔京東、官軍数萬、無敢点者、其軒並単身人、不興赦過霜降、使訪 甚平、以此自賦、或可卒東南之乱。﹂当然後知江草露有間着時者。於是卸三十六人、人単一賛、而箴髄在焉。照門本 丁 、將使一壷於正、義勇不相思、此詩人忠厚之心也。余否認江忍所爲、錐不得自歯、然其元露髄卓有蔵人者、立號 既不惜修、名稻肥薩、露呈直立、薄野之記載可也。雄蕊柳営妬爲盗賊之聖、誰其守萱至福坪庭。能出類而抜葦若江者、 其殆庶幾乎。錐然、彼妬與江、與之盗名門不辟、躬履盗 而誰誰暖帯。豊若世之乱臣賊子、丁霊而自走、所爲近在一 身、而其禍未嘗不流四海。鳴呼、與其逢聖公之徒、軌若道藪下也。  呼保義宋江 不假稻王 而呼保義 量若狂卓 專犯諺忌  智多星呉學究 古人用智 義國安民 惜哉所予 酒色犠人  玉麟麟盧俊義 白玉麟麟 見之可愛 風塵大行 皮毛終壊  大刀關勝 大刀關勝 量雲長孫 雲長義勇 汝其後昆  活閻羅院小七 地下閻羅 追魂掻醜 今其活  名立太伯  尺八腿劉唐 將軍下短 貴稽侯王 汝量非夫 腿尺八長 ︶ 7 ︵

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没羽箭張清 箭以羽行 破敵無頗 七札難穿 如游斜鼻 浪子燕青 卒康巷陥 量知汝名 太行春色 有一丈青 病尉逞孫立 尉逞牡士 以病自名 端能去病 國功可成 浪里白跳張順 雪浪如山 汝能白跳 願随忠魂 來鍵盤潮 船火兇張横 太行好漢 三十有六 無此火児 其数不足 短命二郎玩小二 灌口少年 短命何盆 易不監之 清源珊々 花和尚魯智深 有飛飛見 出家尤好 與爾同抱 隔壁被偶 行者武松 汝優婆塞 五戒在身 酒色財氣 更要殺人 鐡鞭呼延緯 混江龍李俊 九文龍史進 小李廣花榮 解塵火秦明 黒旋風李逡 小旋風柴進 播翅虎雷横 尉遅彦章 乗龍混江 龍敷肖九 中心慕漢 解塵有火 風有大小 風有大小 飛而食肉 去來一身 射之帥濟 汝有九文 奪馬而蹄 催山破嶽 不辮雌雄 黒悪則催 有此雄奇 柿行太保戴宗 不疾而速 故祠無方 長鞭鐡鋳 汝量其人 武皇雄事 自惜紳腎 蓋從東皇 駕五色雲 汝能慕廣 何憂藪奇 天心無妄 汝華自作 山谷之中 遇爾亦凶 一臆之微 香浦太虚 生入玉關 山豆傷令姿  汝行何之 敢離太行 ︶ 8 ︵

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急先鋒索超 行軍出師 其鋒必先 汝勿鋭進 天兵山前 立地太歳院小五 東家之西 即西家東 汝錐特立 何有吾宮 青面獣楊志 奏關索楊雄 一直撞董李 爾頭蛇解珍 美鷺公朱全 没遮欄穆横 聖人治世 關索之雄 昔焚將軍 左噛右唾 長鷺郁然 出没大行 四霊在郊 超之亦賢 鴻門直撞 其毒可畏 美哉豊姿 荘無畔岸 汝獣何名 能持義勇 斗酒肉肩 逢陰徳人 怨使尺宅 錐没遮欄  排命三郎石秀 石秀排命 志在金賓 大似河鈍  隻尾蜴解寳 啓師用蜴 其饅貴全 反其常性  鐡天王晃蓋 砒沙天人 誼紫金躯 頑鐡鋳汝  金鎗班徐寧 金不可辱 亦忌在稼 孟鋳長隻  回天雛李感 鷲禽雄長 惟鵬最狡 母撲天飛 此皆華言之靡耳、聖與既各通之賛、又從而序論之。       不免異器量畿、然其首著勝廣於列 傳、且爲項籍作本紀、其意亦深 、識者當薪能市之云。華不注山人戯書。﹂ 襲聖王の序文中﹁錐有高如李嵩輩再呈﹂の﹁高如李嵩﹂には鉛印本﹁大略﹂以來すべての版にそれが人名であること を示す傍線を附けており、﹁小説亡児紗﹂も同様で、﹁鯖読的歴史的愛遷﹂でも﹁宋元間有高如、李嵩等﹂と﹁乱丁﹂ 走暖勢螢 自命何全 其言甚壮 杖之亦発 而見赤眉 難離秩伴  腹果一思 雷公越権 亦出洪櫨 羽林是衛 封狐在草  何哉。太史公序游侠而進姦雄、 ︶ 9 ︵

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で句讃を切っているから、魯迅がこれを二人の人名と取ったことは疑いを容れない。この部分の急心については﹁史 略﹂に先立つ胡適の﹁水盛傳考謹﹂がすでに傍線をつけて二人の人名と解しており、後の三振鐸の﹁五聖七二演化﹂ でも﹁高如、李嵩輩所傳寓的﹁水溶傳奇﹂﹂と書いているから、當時の一般的な並み方であったか、或いは吟味なく 胡適の解を襲ったのかもしれない。しかし李嵩が南宋の面当待詔にまでなった宮廷書下であるのに歯して、高如の方 はまったく無名の人物である。そこで全集注︵又悪罵難読、後出︶が一読として示したように﹁全句意謂一時高手如 李嵩輩﹂、つまり﹁高きこと李嵩の如き輩の傳鳥﹂と讃むべきで、二人の人名と解するのはやはり胡適等の誤讃であ ろう。なお清の陳宏緒の﹁寒夜録﹂も﹁癸辛雑識﹂のこの文を引くがそこは﹁高人如李嵩輩﹂に作っている。李嵩が 登家である以上從ってまた﹁傳篤之書﹂も魯迅たちが考えたような物語を記録したものではなく、﹁水溜﹂の物語に 登場する三十六人の人物像であったはずで、後の陳洪綬の﹁水苗葉子﹂や﹁水為書藷﹂の先帝であったと考えられる。       へ 趙景深﹁中國小説奪略疏謹﹂一四云、﹁錐有高如李嵩輩傳窩﹂、重罪宏緒﹁寒夜録﹂引詰本﹁癸無雑識一作﹁難有高人 如露嵩輩二重﹂。李含蓄南宋名書家。﹁杭州府志﹂與﹁圖筒耳堕﹂載﹁李嵩、銭唐人、從訓養之、爲光、寧、理三朝官 壷院待詔、工書人物道繹、得從訓遺意﹂。﹁傳篤﹂的意志是﹁傳高潔照﹂、在這裏是指書而不興指小読。読見楊憲盆 ﹁零墨新箋﹂頁野原ー九三。﹁曲直総目提要﹂巻十四﹁水量記﹂的読明也読﹁宋時書手李嵩輩、傳爲其像、士大夫頗不 見黙、襲聖與至爲作三十六賛。﹂ ﹁阪和遺事﹂ 魯迅が擦ったと思われるのは二五士皇居叢書本で、それには他本にはない目録が附いている。しかし その目録は﹁史筆﹂の節目ほど詳しくはない。ここは魯迅が原文から洗い出したものである。士禮居叢書本の目録を 左に畢げておく。 ︶ 10 ︵

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  語志等押花石綱青津配衛州 思立等奪楊志往太行山落草 宋導因殺意猿繋往航晃蓋 宋江得信書三十六名將名 宋   江三十六將共友 張叔夜招宋江三十六將降 3惟﹁宣和遺事﹂所載、以至或日施作羅績︵金人瑞読︶      西O+≡  篤印本﹁大略﹂+一畳、元人劇曲、亦略取梁山窩故事爲資材、而性情節目、間門今本水激傳殊異。意者此種故事、載  在人口者甚多、錐已有書本、而失之簡略、於是又復有人、起而蒼華取捨之、綴爲巨帳、首書有晶帯、可観覧、是爲今  存之尊霊傳。其綴集者、或日羅忌中︵王折郎瑛読︶、或日忌引蕎︵胡散麟読︶、吉日施墨筆作羅貫中許︵金人瑞読︶。       へ  鉛印本﹁大略﹂以降は現行と異同はない。唯陳泰の籍貫を三八年版全集までは﹁暴君人﹂とするが五七年差全集で   へ  ﹁茶仁人﹂と改められた。字音は違うはずであるが、前漢の置く所で後漢ではすでに﹁茶陵﹂に改められたという。  今の湖南茶陵である。        へ  ﹁宣和遺事﹂の版本については第十三篇5を参照。﹁遺事﹂の三十六人の表で﹁李進義﹂に作るのは黄氏刻本そして  士再勝叢書本で、王氏洛川本では﹁上進義﹂に作る。但し王氏本も括顎四年の十二人の表では﹁李進義﹂に作る。ま        へ  た費からの列畢で﹁史略﹂は鉛印本﹁大略﹂以降すべて﹁盧潔斎﹂に作っているが、これは魯迅の筆誤で、﹁癸辛雑       へ  識﹂各本も﹁小読薔聞紗﹂も皆﹁盧俊義﹂に作るのに擦って訂すべきである。  胡適﹁水主傳考讃﹂二十、周密︵宋末人、元雑本時還在︶的﹁癸辛耳蝉﹂載単襲聖母的三十六人賛。三十六人的姓名  大量與﹁平和遺事﹂相同、只有呉加澤改作呉用、腰挿義改作盧俊義、促進経輪院小二、面罵改爲轟轟、王雄改爲楊雄。  這都與﹁水撃傳﹂更接近了。此外周密記的、豊平公孫勝、林沖、張零、杜千四人、下上宋江、解珍、解賓、張横四人、  ︵﹁宣和遺事﹂有張横、但不在天書三十六人之敏。︶紐帯與水嵩接近了。

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又三云、元朝﹃水濤﹂故事非常野盗、這是萬無理疑無事。元曲裡的許多 ﹁梁山泊﹂好漢的故事的、也有多少種。依我椚所知、至少重三列各種。  1高文秀的◎﹁黒旋風隻献功﹂︵﹁録鬼簿﹂作﹁隻献頭﹂︶

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 準。︶ 9楊顯之的 10N進之的◎﹁梁山泊黒旋風負荊﹂ 11 12 g字李二的﹁板踏見黒旋風﹂ 13 14 ﹁水濤﹂戯便是鐵讃。︵中略︶元朝戯曲裡演述 ﹁里⋮旋風喬儒學﹂ ﹁黒旋風借屍還魂﹂ ﹁黒旋風圖鶏會﹂ ﹁黒旋風詩酒麗春園﹂ ﹁黒旋風窮風月﹂ ﹁黒旋風大岡牡丹園﹂ ﹁黒旋風敷演劉要和﹂︵4至8五種 酒虚子皆無黒旋風三字 ﹁黒旋風喬断案﹂ ﹁黄旋風老牧心﹂        ︵酒虚子無下三字。︶ ﹁折搬児武松打虎﹂ ﹁病楊雄﹂ 今擦暖紅室新刊弔鐘嗣成﹁録鬼簿﹂爲

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 15李文蔚的◎﹁同樂三面理博魚﹂︵﹁録鬼簿﹂上三字作﹁葉虫奎﹂、博字作﹁撲﹂、今擦﹁元曲選﹂。︶  16又    ﹁燕青射雁﹂  17李致遠的◎﹁都孔目風雨還牢﹂  18無名氏的◎﹁争報恩三虎下山﹂  19又    ﹁張順水裡報怨﹂  以上關於梁山泊好漢的戯目十九種、是参考﹁元曲選﹂﹁酒虚子﹂︵﹁宴曲選﹂巻首附録的︶和﹁録鬼簿﹂︵原書有序、 年代深雪順元年、當西暦一三三〇年。亀有題詞、年代爲至正庚子、當西暦=二六〇年。︶三部書輯成的。不幸這十九 種中、只有那加◎的五種現在還保存串縫音叔的﹁元曲選﹂裡︵下文詳読︶其鯨十四種現在都不傳了。 陳泰﹁所安遺集﹂補遺云、江南曲序 尊書卯時、聞長老言長江事、未習其詳。至治癸亥秋九月十六日、過当山、泊舟、 遙見一峰、蝶腺有蓋。問者怪士、日、此安山也。昔極量事庭*絶湖嵩置、闊九十里、胃薬荷菱茨、相野以爲宋見所植。 宋之曲人、勇桿当直。其煎如宋者三十六人。至言山下分賢台、置石座三十六所。俗所謂﹁來時三十六、蹄時十八隻﹂、 意君国自誓之辟也。始予過此、荷花売望、今無漏存者、惟残香相迭耳。因遍路荊公詩云、﹁三十六破春水、白首想見 江南。﹂味其詞書﹁江南曲﹂原注、立動菰損無帽。以叙游歴、且以欝欝妻感荷窺書云。*編者注云、按此句有睨誤。朱一玄堅肉清 小読資料選編﹂上冊︵一九八九年齊魯書杜︶ ﹁王折説﹂ ﹁績文獣通考﹂一七七、見第十四篇3已引。 ﹁田汝成読﹂ ﹁西湖游覧志絵﹂二五、見第十四篇3巳引。 郎瑛﹁七修類稿﹂二三云、﹁三國一﹁壁貫﹂二書、由良人擦本貫中所編。予這出必有本、故日編。﹁宋江﹂又日銭塘施 ︶ 13 ︵

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 耐庵的本。昨於薔書全中得抄本﹁録鬼簿﹂、乃元大並立継先作、立酒元傳記之名、而於二書之事尤多。掠此、見原亦  有跡、因而増盆編成之耳。  又二五云、史信士江三十六人横行齊魏、官軍莫抗、而侯蒙畢討方腫。周公謹載其名簿於﹁癸三楽志﹂。羅貫主演爲小  読、有替着行道遺言、今揚子濟寧之地、塵藻立廟。擦是、逆料當天喜禮二重、非義之義、江必有之、自亦異於他事也。  紅塵中欲成其事、以三十六爲二三、添地散⋮七十二人学名、母堂尺八土寄赤髪鬼、一直棒上隻青鷺、以至淫濫読行、飾  詐眩巧、聾動人之耳目、是難訓以溺人、而傳久重二藍喜多 。︵下略︶均﹁小読奮聞耳﹂引。  ﹁胡慮麟読﹂ ﹁少室山房筆叢﹂四一、見第十四篇3已引。  李賛﹁忠義水濡傳﹂合子、太史廿日、﹁﹁虚飾﹂﹁狐憤﹂、賢聖堤通之所作也。﹂目立虫干、古之聖賢、不憤則不作 。  不憤而作、壁如不整首里、不病態陣吟也。錐作絵観乎。﹁水窪傳﹂者、獲憤之所作也。蓋自黒帯不競、冠履倒施、大  芋麺下、不肖庭上。馴致夷秋庭上、中原庭下。一時君相、直直庭堂下鵠、納市稻臣、甘心屈二七犬羊巳 。施・羅二  公、身在元、心在庫。錐生元日、實憤宋事。是故憤聖帝之北道、則二大棄値重工其憤。憤南渡之荷安、則稻滅方骨以  再構憤。敢問泄憤者影干。則前日囎二水前之愛人也。欲不二之忠義不可也。是青函・二二公宴﹁水向﹂、而復以忠義  名其傳焉。︵下略、容與堂本序︶  ﹁金人瑞説﹂ ﹁第五才子書水濡傳三序﹂、 同書﹁宋二目﹂見本篇10所引。 4原本﹁水濤傳﹂今不可得、以至其他不可考       西一±  寓印本﹁大略﹂にはこの部分に相當する記述なく、鉛印本﹁大略﹂以降は現行と異同はない。  周亮工﹁書影﹂一云、故老傳聞、羅氏爲﹁水潜傳﹂一百回、各以妖異語論其首。嘉農時、郭武定重刻其書、湿掻致語、 ︶ 14 ︵

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掲存本傳。講壇王氏﹁小品﹂亦云、控書毎回前歴有襖子、今摺不傳。予見建壁書坊中所刻諸書、節縮紙板、求其易魯、 諸書多被刊落。直書亦落陽書誌翻刻無理落者。六十年前、白下呉門臼蓋青地書軸盛行、世所傳者、濁建根本耳。  ﹁水名望全書襲凡﹂云、一、古本重餅氏﹁致語﹂、相落﹁燈花婆婆﹂蓮田、既不可早見。及後人有因四大冠之拘而酌  損之者、有嫌一百吉士之繁而淘汰之者、皆失。郭武定本慰霊本誌置閻婆事、甚善。其子冠中去王田而加遼國、猶是小  家運慮藩法。不知大手筆者正不道爾、如本内王威開章而不復収緻、此所霊異藩論小手、要望小蒲之聖也欺。衷鉦涯刻本。  銭曾﹁也是園書目﹂+云、宋人詞話燈花婆婆︵後略。今田﹁虞山守違王藏書目録彙編一︶ 5現在之﹁水瀞傳﹂、以至︵第九回豹子頭刺陸謙富安﹂︶      西一土ハ  影印本﹁大略﹂+一云、今存之水潜門有三本。一、忠義水嚢傳、一百十五回、題東原耳玉中編輯。其書始干洪駅馬誤  走妖魔、而次以百八人置漸聚山泊、巳而受招安、破遼平田俗謡慶方膿、與宣和遺事所載者霊告。後來則智深坐化子六  和、半盲服毒而自警、累顯霊慮、終爲神明。惟文辞蕪拙、型置紛紙、中間詩歌、亦倶鄙倍、定書元明間書、中合度量。  今名之日原本。王折郎瑛云羅貫中作者殆擦此本也。  鉛印本﹁大略﹂以降現行本まで次のものを除いて異同はない。﹁終爲神明。﹂の句鮎が合五二版以後讃鮎となるが、訂       ヘ      へ  正版で元に戻る。﹁鄙俗﹂の﹁俗﹂字、窮印本・鉛印本﹁大略﹂では﹁倍﹂に作るが、三五で﹁俗﹂に正す。﹁草創﹂  の﹁草﹂字、もと﹁艸﹂字、七三年版全集で始めて﹁草﹂字となる。引墨では﹁五里路外篇市井﹂は、合着二心以降  皆括弧で括られるが、これは鉛印本﹁大略﹂、初版のように二重カギ括弧か引用符號・・に戻すべきである。他に五  七年版全集以後、﹁喫﹂を﹁吃﹂に、﹁鎗﹂を﹁槍﹂に、﹁逞﹂を﹁径﹂に作る。  引用百十五国本﹁忠義水潜傳﹂ 如何なるテキストか不明だが、﹁英雄譜﹂本の中でも後刻だとされる﹁漢宋奇書﹂ ︶ 15 ︵

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       へ 本と最も合うようである。例えば巻首に﹁金陵興言堂刊行﹂と謁する京大文學部黒本との封書の結果は﹁却 印画軍読﹂の﹁却﹂字を﹁恰﹂に作る他は完全に一致する。一九二一年二月十四日の﹁日記﹂に﹁夜、銭玄同﹁漢宋         おく 奇書﹂一部二十本を寄り來る﹂とある。それがどんなテキストかは不明だが、この引用の底本になった可能性は十分 ある。なお今では﹃漢宋奇書﹂本には十種の版本があることが分っている。又﹁三略一で﹁未見﹂とされた軍行本は その後の調査で幾つか登見され、﹁孫目﹂や﹁水濫纂録﹂に著録された。なかでも最近では東大東洋文化研究所隻紅 堂文庫の﹁忠義合百密事﹂二十五巻一百十五回立面転音興我刊本が﹃古本小鼻叢刊﹂︵中華着局︶に影印され見易く なった。﹁史略﹂引文とは合わぬ部分が幾つかある。 ﹁魯迅藏書目録﹂子部小論家類云、 ﹁水運傳﹂ 七十回撰子一回 元施耐庵著清器量歎評 日本明治二十八年 ︵一 ェ九五︶東京林李次郎銅版本 文魁堂藏板 十二冊 又卒装本之部、文學、小読云、 ﹃水濫﹂ 施耐庵著 一九二〇年 墨東四書館 二冊 ﹁百回本水濡﹂ 施耐庵著 一九二五年 初版 五冊 李玄重三明嘉七本立印 第一珊 第三三三一九二五年再版 この他﹁水済傳﹂に關して魯迅の記録にあるものは次の通りである。 ﹁日記﹂一九二一年二月十六日云、上午、其中堂寄來﹁水蜜書譜﹂二冊、﹁忠義水鳥傳﹂前十回五冊、書目一冊。こ の書については﹁書帳﹂にも﹁柳川重信水嵩傳斎言二冊 二・三〇 二月十六日 忠義水里傳前十回五冊 一・○○﹂とあり京都其中堂から取り寄 せたものだが、﹁聖書目録﹂に著録しない。﹁忠義水論停﹂前十回は享保十三年岡島郡山訓鮎本で、正しく胡適が青木正兇博士から贈られたものと同 版である。 又一九二三年十一月十四日云、丸山三井交藤塚教授所与﹃通俗忠義水潜傳﹄井﹁拾遺﹂一部八十本、﹁標注訓課水滞 ︶ 16 ︵

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傳﹂一部十五本。藤塚鄭が贈ったもので前者は下血七⊥見政二刊の岡島冠山の名を冠した漢字片扇声色み下し文の書、後者は平岡龍城謬入正三− 五年近世漢文學會刊の七十回排印本である。共に直接には﹁史略﹂成稿には關わらないと思われる。これらも﹁書帳﹂に記載があるにもかかわらず ﹁藏書目録﹂は著録しない。 又一九二四年二月十六日云、晩悟了適之信#百廿蔵本﹁水潜傳﹂一部。看二+回本は胡適言書信二四〇二〇九︵見本篇7︶に 言うものであろう。 笠寺﹁水濤傳後考﹂云、︵3︶百十五回本﹁忠義水頭傳﹂。謡本與﹁三國演義﹂合刻、毎留分上下爾裁、上裁爲﹁水平﹂、 下裁爲﹁三國﹂、合稻﹁英雄面一。坊間今改稻﹁漢宋奇書﹂。我買得雨種、一種聾心有﹁省二曲文堂藏板﹂字様、我疑 心山高福建刻本。此書原本是大字本、有鈴木豹軒先生的話本加参考。但我買到的雨垂鼻面翻刻的小本、裡面的﹁三國 志﹂巳改用毛帯出岡評本了。但巻首有熊山的序、自述合刻﹁英雄譜﹂的理由、中有﹁東野而三経略墨筆尚歯、西望而雨 開府之魂未招。飛鳥尚自知時、聖画猶嵩置櫨﹂的話、可見初刻時大概在明崇禎末年。 又云、此外面有雨種板本、我自己錐不曾見様、幸蒙青木正児先生替我替得回目與序例的。︵5︶百十唐本的﹁忠義水濟 傳﹂︵日本京都帝号大型鈴木豹軒先生胆︶。丁霊是一種﹁英雄譜﹂本、内容與百十五回半群同、合刻的﹁三國志﹂還是 ﹁教卓吾豊本﹂。鈴木先生藏的生一本上有原藏此書的中國商人的蹟、有康煕十二年至十八年立年月、可見此書卓於明末 或清初、大概卸是百十五回本的底本。 又云、︵4︶百二十四草本﹁水灘傳﹂。首睡蓮﹁光緒己卯新錦、大道堂痴言﹂。有乾瓢丙午年商杭枚簡侯的序。後附雁宕 山型的﹁水濡後記﹂、首頁有﹁姑蘇原板﹂的蒙文墨章。大概重書是在江蘇刻的。後傳板本頗佳、但那百二十四回的 ﹁前傳﹂板本根壊。 ︶ 17 ︵

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6二日一百回本﹁忠義水濟傳﹂、以至︵第十回﹁林教頭風雪山神廟﹂︶       西二+七  鳥印本﹁大略﹂+一云、二、忠義水棲傳一百二十回、風趣耐工面撰羅貫中纂修。中國三士見、今所見者、惟日本翻刻  本十回、亦始干誤走妖魔、而繕以示達林沖事 、殿原面頬。絵難未見、然第五回結末干直達有﹁直観名馳尚早三千里、  謹果江南第一州﹂之語、帥畑瀬和韻化、則其鈴當亦與原本同也。惟子文僻、則増捌潤色、幾乎改観、蓋削悪詩、頗増  品書、描寓亦愈入細微、周重工書影所謂﹁故老二面羅量水濤傳一百回、輪廓妖異語冠其首、嘉平時、郭武定重刻其書、  削其致語、濁艶本傳﹂者蓋即滅、今名之日郭本。此本科純量施撰羅修。愛鷹麟荘嶽委談云、﹁元人武林施某所節水瀞  傳特車盛行、世態二塁竪空無二、要不急原頭、余偶閲一小説序、稠施某重手市騨、紬閲吉書、於五二中得喪張叔夜禽  賊招魂一通、半平其一百八人所由起、因潤色成此編。﹂則狽論叢名、其所見爲別本、抑印北本、今不可考 。  窩印本は冒頭に﹁百二十回﹂とするが、これは魯迅の思いちがいで、﹁百回﹂としなければならない。内容は郭武定  本について以外は鉛印本以降の百回本の記述とも一致するし、胡適﹁水濡傳後考﹂の百回本の項とも符合する。  各版の異同については、魯達の語の讃鮎は篤印本にはあるが、鉛印本以降なく、五七年版全集で加えられた。また魯       ヘ      へ  達の語の﹁第五回﹂は﹁第四回﹂に訂すべきである。﹁草帯見﹂五七年版までは﹁箒﹂、﹁二号梅花﹂同じく五七年版       ヘ      ヘ       へ  までは﹁撚﹂、﹁槍﹂﹁径﹂については5引に同じ。﹁雪中行沽﹂の﹁行﹂字、合訂二版のみ興す。﹁即指六二号化﹂﹁乃  大有増別﹂は三八年全集のみ﹁與﹂﹁全於﹂に誤る。  高垣﹁百川書志﹂六史部野史云、﹁忠義水濤傳﹂一百巻。銭塘施耐量的本、羅暴露編次。宋冠宋江三十六人当事、井從  副而有八人、三世尚之。周草窩癸辛雑志中具百八人混名。﹁小読奮聞鞍引  沈徳符﹁野壷真青編﹂五云、武定侯郭勲、在世宗朝事好文、多男能計数。今新安所与﹁水干傳﹂善本、印其家所傳、

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前有注太函序、託名天都旧臣者。示読奮聞紗﹂引 胡適﹁水潜傳後考﹂云、去年七月裡福福了一篇﹁水濡雪考謹﹂提出了幾個假定智見論。︵省略︵−︶至︵4ご︵5︶到了明嘉 靖朝、武定侯郭助刻苧一部定本﹁水十悪﹂來。薗部書面有一百回的。前七十回全採﹁七十黒本﹂、後三十回是捌改 ﹁原百回本﹂後半的四五十回而成的。﹁原百回本﹂的後半有征田野征露慶雨大部分、里国把暴雨部分都側車回。置引本 子、我個叫他倣﹁新百回本﹂、或引照﹁種本﹂。貧四五−五こ︵6︶明朝最通行的﹁水濤傳﹂、大概都是這個﹁新百回本﹄。 後來李賛評鮎的﹁忠義水下草﹂耳垂愚輩﹁郭本﹂。直到明器、金聖歎読他家貫華堂藏有七十回的古本﹁水掃傳﹂、他用 這個七十回本県校改﹁新百回線﹂、定前七十回爲施耐巷倣的、七十回以下爲羅貫中卒的。有些人不信金聖書有七十回 的古本、福野雨露出没有倣託古本的必要、故高士定他有一種七十回本丁底本。他盲壁小君改的地方、但野壷七十回本 的大髄必與那新百回本﹁忠義水潜傳﹂的前七十回差不遠、因爲我假五山新百回本霊前七十回是全採那明朝中葉的七十 回本的。︵頁三五−五二︶︵中略︶我去年倣﹁車回﹂時、只會見愚盲種七十回本的﹁水潜﹄、其場的版本至言不潔見着。現 在我牧到的﹁水濡﹂版本有下列的各種。  ︵1︶導出吾批鮎﹁忠義水濡傳﹂百回本強面一回至第十回。此書爲岡島瑛高訓鮎之本、刻於享保十三年︵西暦一七二 八︶、是用手刻本精刻的。右書正刻成二十回、第十一回至第二十回、刻於寳暦九年、但更不易得。這十回是我的朋友 青木正児先生途我的。  ︵2︶百回本﹁忠義水温傳﹂的日本課本。岡島瑛謬、日本明治四十年東京共同出版株式會社印行、大正二年再版。明 刻百回本﹁忠義水月傳﹂現巳不可得、日本内閣文庫藏有一部門此白蘭士官知道第二日電。岡島課本玉乙吉我椚二見 ﹁忠義水濡傳一的内容、故可寳貴。 ︶ 19 ︵

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 引用百回本﹁水準傳﹂ ﹁小前菖聞紗﹂の﹁水濡傳﹂の項で、王析﹁績文面通考﹂を引く案語に﹁嘗見明刻百回本﹁忠 義水素傳﹂、皇霊﹁施耐篭集撰、羅貫中纂修﹂、重要三歎前﹂と言うが、﹁史略﹂執筆書影百回本全巻は殆んど見られ  なかったから、ここに引く百回本の第十回は、胡適の﹁後考﹂に言う李卓吾批鮎﹁忠義水声傳﹂享保十三年岡島瑛加  訓癌性で、前項5に引く﹁日記﹂に見られるように、魯迅は同じ書を京都の古書騨其中堂から購っている。從ってこ  この底本もその書にちがいないのだが、いささか不審な鮎がある。引用文を容與堂本と享保和刻本によって封校した  が、﹁留下些銀子﹂の﹁些﹂字、容與堂本が脱するのに糾して享保本は脱しない。ただ﹁一士雪下得緊﹂の線がな  いことや︵これは層雲の刊本ではないのが當然で、魯迅が轄録した時に書き加えたとしか考えられない︶ ﹁五道是﹂     ヘ   へ  を﹁却言道﹂に作るなど雨本はともに同じで、﹁史略﹂引用と一致しないなど疑問は残る。 7三日一百二十回本﹁忠義水激傳全書﹂、以至︵詳見﹁書影﹂一﹀      西四千一  鳥印本の時鮎でこの書の存在は胡蜂の﹁水垣傳後考﹂に見られるように知られていた。しかし書物自髄は日本の所藏  で當時は見られず、楊定見の序や﹁獲凡﹂、回目など詳しいことは分らなかったのだろう。從ってこの書に著する叙  述を省いたものと思われる。   鉛印本﹁大略﹂以降は一箇所を除き現行本と異同はない。一箇所とは﹁頗博文情者﹂の﹁頗﹂字で、これは鉛印  本﹁大略﹂から十一版まですべて﹁頓﹂字に作り、三八年全集版で﹁頗﹂に与えられた。おそらく誤植であろうが、  以後はみなそれを襲っている。百二十回本の獲凡が﹁頓﹂である以上、ここは﹁頓﹂に戻すべきである。  落雷﹁水管傳後考﹂云、︵6︶百二十回本﹁忠義水温傳全書﹂︵日本京都府立戯書館藏︶ゆ這是一種明刻本、有楊定見序、自  稻爲﹁事終吾先生﹂之人、大概三盛二上天啓垂耳年間。二面有﹁悪鳥﹂十一條、読明増加二十回的縁起。早書増加的 ︶ 20 ︵

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二十回難然是記田虎王慶爾冠、但書回目鴬遷、與上文︵3︶︵4︶︵5︶三種本子根有不同的地方。 胡適﹁百二十回本忠義水面郵亭﹂云、︵5︶百十回本﹁忠義水上善一、也是與三國二合刻的﹁英雄譜﹂本。︵日本鈴木虎 雄先生藏︶︵6︶百二十回本﹁忠義水溜傳﹂、明刻本。︵日本京都府立圖書館藏、有楊定見序︶這育種我寸時錐未見、却 蒙日本學者青木正見先生把他個的回目和序例都紗録詩語給我。  我有了這六種版本作興掠、遂又作了一篇﹁水濫傳後考﹂。︵﹁胡適粟子﹄初排本巻三、壷皿四七一一八四︶這是民國十 年六月思事。民國十二年左右、我知道有三四部百二十回本﹁忠義水濡傳全書﹂出現、酒量棲得了一部、我自己得了一 部、還有別人牧着這本子的。後來北京欝欝學校同着一部精刻本、器量精緻可愛。 審尋適的信二四〇二〇九全集一一云、適之先生、前回豆苗百首回本﹁水濤傳﹂的齊君告訴我、他的本家又有一部這様

的﹁水準主星的彊︵他的琶頗清楚書籍須薄日其人知道橿蓄五士窩馨我剛

現在不想要。不知悠可要歴?  聰読李玄伯先生循環若干本百回的﹁水吉傳﹂、但不全。先生認識他塵?我不認識他、不能借看。看現在強情形、百 廿回章一年中便知道三部、而百回本少聴到、似乎更難得。       樹人  二月九日 魯迅と胡適の間には小説史に關して種々の情報の交換があったことが、この手紙だけではなく、二二〇八一四、二二 〇八二一、二四〇一.〇五等からも窺える。また直談だが、日記によれば、この手紙の後二月十一日には﹁晩、胡適之        おく が信を得﹂とあり、さらに十六日置は﹁晩、胡適之に信井びに百廿回本﹁水濡傳﹂ 一部を寄る﹂とある所からすれ ば、魯迅は教育部での同僚で親友でもあった齊君即ち齊壽山の本家が所心していた百二十回本﹁水銀傳﹂︵おそらく ﹁水起爆全書﹂︶を岩盤が見たいと返事を寄こしたので、仲介の勢を取って代蓋したのだろうと思われる。後に胡適が

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﹁百二十回覆水潜傳序﹂で述べる﹁我自己頭並一部﹂とはこの書であったかもしれない。そして﹁還有別人牧着這本 子的﹂とは齊壽山をいうのだろう。なお魯迅の豊島の記述は齊壽山所藏本に捺る可能性が高い。 楊定見﹁忠義水毒全書小引﹂云、吾之事垂雪吾先生也、貌之承聖心之委、無事卓吾先生者。非先生暴言白首、非先生 之閲弗閲。即日狂、或日癖、吾二重也、知有毒吾先生向山 。先生豊漁名佃島、道盆廣、書盆播傳。即片順箪詞、留 山人間者、重手珍爲萱草、嚴然欲傾宇内。猜二宮哉、不朽可塑巳。然而奇士文者十七、奇其人者十三。叩爾胸中、則 皆未有官吾先生者也。自二重呉、訪陳無異歯糞、而得衰無涯氏。揖未醤、軌首問先生。私淑之誠、盗干眉宇、其胸中 三盛有卓縛首。蝶番厳過從語、語軌及卓老。求卓老遺言甚力、重重老所由閲之遺書又甚力。無涯氏豊富耶直和。吾探 吾行雲、而卓嘉吉生所秘隠﹁忠義水感官﹂及﹁楊皇土集﹂二書與倶、三階附之。無涯欣然如獲笹島、画工諸世。吾問 二丈敦先。無涯日﹁水瀞﹂而忠義也、忠義而﹁水濟﹂也、知我罪我、卓雷文春秋近是。其先﹁水曜﹂哉。其先﹁水漕﹂ 哉。霊山日、唯、唯。吉舎老不能獲﹁水墨﹂之精姉、非無涯不能獲卓思立精神。吾之事卓二藍生直久、而無涯之得卓 吾先生乃最深。吾椀無涯 。然無涯古意、亦誰鼻曲無涯之精柿者。吾不負卓吾先生、無涯亦不負吾感喜也。干暮相覗 而笑、煮茶番畷。取卓吾先生﹁叙忠義水盤景﹂文、同蟻蚕之。胃江怒濤、若或練子。吾忘無涯 、無涯忘吾 、知有 卓吾先生而巳 。      楚人鳳里楊定見書白面江迎次。 ﹁字句更定﹂ 百二十回本では第十回に見える。 周亮工﹁因樹屋書影﹂一驚、葉文通、名書、無言人。多叢書、愚才情。留心二氏學、故爲誰異之行、跡其生平、多似 何心隙。或自稻錦翁、或自番葉五葉、或蓮葉不夜、最後名梁無知、謂梁難無人知之也。當温陵﹁焚、叢書﹄盛行時、 坊間種種借温陵之名以行者、如﹃四書第一評﹂、﹁第二画一、﹁水印傳﹂、﹃琵琶﹂、﹁拝月﹂諸富、重出文通手。文通自有

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 ﹁中庸頒﹂、﹁法海開﹂、﹁悦客編﹂年下。今所傳者、濁﹁悦客編﹂耳。文通甲子乙丑間湿雪梁、與雍丘侯五汝裁侶爲海  金肚、合鴨郡知名之士人、鍋一集解行。中州文辞之盛、中海金杜始。後誤納一麗質、爲其夫殴死。文通氣息僅囑、猶  鳴冤邑令前、惜乎無有恩其事者。侯業革言、其遺骸至今旅泊雍丘郭外。一九六二年中異書局排印+巻本 8登山又云、以至未能定也      西四−一〇        ヘ   ヘ      ヘ   へ  鉛印本﹁大略﹂より第十一版に至るまで﹁嫌一百二十回之繁﹂、﹁似百二十回﹂の﹁二十﹂は﹃単二全書﹂の﹁獲凡﹂  に從って﹁廿﹂に作るが、三八年版全集で﹁二十﹂と改め現行本に至る。その他に異同はない。なお本文に﹁田野王  慶在百回本塁百十七回本名同而文鑑別﹂とあるが、田子王慶は百回本では省かれており、又﹁百十七湯本﹂の﹁水群  傳﹂は存在しないから、ここは﹁百二十回冬春百十五回本﹂と訂正しなければならない。どうしてこのような誤りが  出たのか不明だが、鉛印本﹁大略﹂からすでにそうなっている。  ﹁忠義水声全書﹂通雨には本篇4に引用した一條の他に、もう一條ここと關律するものがあるので左に引く。  一、訂文音字、奮本亦具有功力、然清誰舛駁之庭訓多。如首引一詞、便軽四謬、試以喜喜封勘薔本、可知其絵。至如  ﹁耐﹂之爲﹁奈﹂、﹁躁﹂之爲﹁燥﹂、猶群書錯。若混﹁戴﹂作﹁帯﹂、混﹁散⋮﹂作﹁殺﹂、混﹁標﹂作﹁栓﹂、﹁沖﹂﹁衝﹂  之無分、﹁蓮﹂﹁章﹂之莫辮、遂忠義乖。如此者、更難枚畢、今悉校改。其音綴字下、錐便寓目、二大小噺績、通人所  嫌、故総次回尾、以便翻査。回選者例観、、音異者玉出。前半字書讃、俗義可通者、或用略焉。衷無涯刻本。  引用された﹁三座﹂についての魯迅の讃法には、後に畢げる胡適のコ百二十回本忠義水溜傳序﹂が指摘するような  問題鮎もあるが、他にも一二よく分らない所がある。  ︵一︶﹁言言﹂を憎んで﹁古本百回があったことが分る﹂と言うが、﹁獲凡﹂十條全文を見ても何庭にも百回本の古本 ︶ 23 ︵

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の存在を示すような文言はなく、﹁有嫌一百二十回之繁而陶窯之者﹂という表現からすれば、むしろ一百二十回本の 古本があったと考える方が理に合う。ここは本篇4に引く周亮工の﹁羅氏爲心耳傳百回﹂という記述や高潮の﹁百川 書志﹂の著録から、古本は百回とする思い込みからの誤りだろうか。しかし魯迅の理解からすれば原本は百十五回本 で百回本はそれを削ったものなのだ。不可解と言う他ない。急呈。 ︵二︶﹁郭武定本堂藷本星置閻婆事、最善﹂、﹁閻婆宝島の事﹂とは、當時の魯迅の読から言えば百十五回文刷本の第二 十一回から百回ないし百二十回文繁本の第二十回に移しかえた事である。ところで魯迅はこの文を﹁倉本に即して﹂ と讃んでいるようである。後文の﹁在郭本所擦豊本之前、雲立有別本﹂という記述からもそのことは窺える。つまり ﹁奮本﹂とは﹁古本﹂でない、たとえば﹁因四大冠之拘而酌損演者﹂や﹁嫌一百二十回之繁而立汰肖者﹂などもそこ に入る一般名詞に近いものとして解しているようである。﹁獲凡﹂に於ける﹁奮本﹂ということばもかなり曖昧では あるが、﹁薔本去詩並倉煩蕪﹂という記述や﹁青藍音字、薔鼻塞具有功力﹂という表現からすれば特定の﹁奮本﹂の 如である。﹁首引一心、便有四書、直島此刻封勘薔本、可知其鯨﹂とあるから﹁全書﹂によって容與堂本を校勘すれ ば、四二もないけれども確かに﹁勢﹂を﹁璃﹂に、﹁名﹂を﹁形﹂に作るなど二箇所に誰舛が見られる。そうだとす ると﹁玄武定本即造本﹂の﹁即﹂は﹁即して﹂ではなく﹁即ち﹂ということになって、ここでいう﹁菖本﹂とは﹁郭 武定本﹂に他ならない。少くとも﹁獲凡﹂はそう考えていたようである。そして更に﹁獲凡﹂の著者も魯迅と同じく ﹁閻婆﹂の事を百十五回本の第二十一回から百回本の第二十回に移動させたと考えていたことになる。ともかくこの 箇庭うまく筋道をつけて讃めないので疑問として提示しておく。 至適﹁百二十回本座義水石詰序﹂四二、書本︹﹁新里李氏藏本忠義水濤全書﹂︺有﹁獲凡﹂十條、其中頗多可供考讃的 ︶ 24 ︵

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材料、故我在﹁水雲傳後考﹂裡、魯迅先生在﹁中國小読史略﹂裡、往往馬引﹁獲凡﹂的話。但十年忌來、新材料梢梢 出現、可以謹明﹁獲凡﹂中的話有根不可信之威、如第六難読、   古本有細管致語、相傳﹁燈花婆婆﹂等事、既不可復見、乃後人有因四大冠之拘而酌損之者、繊麗一百廿回之繁而   淘汰之者、皆失。 這買玉、十年來籍甚都信濃爲眞、故我同魯迅先生都信古本﹁水濟傳﹂有漏氏評語、有相傳﹁燈花湿婆﹂等事、魯迅又 相信古本眞有百二十回本。我現在員來、這些話都没有多大根掠、楊定見並並書見﹁古本﹂、回読﹁古本﹂忽様精粗、 大概都是信口開河、假託一個古本、作爲他的百二十回改造本的罵言而巳。  羅氏致語之読、除此本﹁獲凡﹂之外、還有周亮工﹁書影﹂読的。        の   故老傳聞、羅氏﹁水瀞傳﹂一百回、各以妖異語予言首。嘉靖時、郭武定重刻其書、削其致語、濁有本傳。        ω 又﹁王氏小品﹂也説、   此書毎回前各有撰子、今倶不傳。 這都町三層傳託的話。毎回前県有妖異白煙語、這是不可能的事。﹁水難傳﹄的前面有﹁洪太急走妖魔﹂的一段、這便 是﹁水濡傳﹂的﹁卑語﹂。全書只有蓋一段﹁妖異語﹂的致語、別没有単磁﹁燈花菅垣﹂等事。﹁燈花三婆﹂的故事乃是 ﹁平妖傳一墨画語、其書現存、鼻聾参謹。這是因爲﹃水瓶傳﹂和﹁平妖傳﹂相馬都門羅貫中倣的、駆馳各有一段妖異 的難語、後來有人記錯了、守山﹁燈花婆婆﹂的故事是古本﹁水蕨傳﹂致語。後軍聖人更大其詞、遂説一百回各以妖異 的致語了。︵参看胡適﹁宋人話本八種序﹂豆−四、又頁二七⊥二+。︶ ﹁宣和遺事﹂﹁三路之冠﹂見第十三篇6所引﹁宣和遺事﹂文︵﹁全集﹂一二一二頁︶。      ︵待績︶

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