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江戸時代の中国漂流船図について

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Academic year: 2021

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江戸時代の中国漂流船図について

今年の春季展示で、琉球貿易図屏風や安南渡海船額(レプリカ)などと並んで、変わった形の船の図(写 真)が出陳されているのにお気付きでしょうか。 船の甲板には、弁髪姿の人物が見えます。 画面の余白や船の脇に記された字句によれば、この船は清朝中国の広東(カントン)省新寧県大澳港の漁 船です。どうやら出航後に遭難して、奥羽国(おううのくに)本吉(もとよし)郡 大室浜(おおむろはま)(現在の 宮城県石巻市北上町十三浜(じゅうさんはま))に漂 着したようなのですが、出航が 4 月 1 日、漂着が 6 月 8 日とありますから、2 ヶ月あまりも東シナ海から太平洋を漂流していたことになります。船の長さは七丈(約 21m)余、幅は一丈八尺(約 5m40cm)余、深さは九尺(約 2m70cm)ほどで、船の中には 14 人の乗組員がい ました。 この図は、蒲生郡日野(現在の日野町)の商人であった中井源左衛門家の文書群に含まれていました。江 戸時代、中井家は仙台店(宮城県仙台市)をはじめ、東北地方にいくつかの出店を構えていたため、東北や 蝦夷地(北海道)で起きた事件の情報もいろいろ収集していたようです。石巻にも中井家の出店があったの で、広東船漂着の詳しい情報を得ることができたのでしょう。 ではこの広東船は、一体いつ日本に漂着したのでしょうか。『北上町史 通史編』(2005)によれば、それは 寛政八年(1796)のことでした。当時、広東船が漂着した地域は仙台藩領だったので、現地から遠く仙台まで 連絡が届けられました。 広東船の取り調べのため、仙台から儒者の志村時恭(ときもり)たちが大室 浜へ派遣されて来たのは 6 月 22 日でした。乗組員たちは 4 ヶ月にわたって現地に滞在することになり、その間志村たちと筆談によってさま ざまな問答を交わしていたようです(日本側は「我が国は魚がとても美味しいが、貴国で美味しい海産物は 何か?」といった質問もしています)。当時の東アジアは清朝中国を中心とする漢字文化圏であったため、漢 字による筆談ができたのです。 10 月中旬、乗組員たちは大室浜から長崎へと送られ、広東へ戻って行きました。これは、いわゆる鎖国の 下にあった当時の日本では、清朝中国との窓口は長崎のみであり、中国からの漂流民の送還も長崎で行な うことになっていたためでした。 (史料館 青柳周一)

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