しがだい 12
特
集
滋賀大学からみた近江
ひとすじの道
中島みゆきの「地上の星」ではじまるNHKのプロジェクトXは、多くの視聴者に感動を与えたと言われる。この番 組は、日のあたらない様々な場で、苦難に立ち向かいながら、ひとつの道を貫いた人々を取り上げ放映した。この番 組に対しては、多様な評価がなされている。ひとつは、船曳建夫の『「日本人論」再考』に見られるように、これを 積極的に評価する立場である。彼は、宮本常一の『忘れられた日本人』を引きつつ、これを無名の人たちのドラマで あり、新しい時代の民俗学ととらえ、現場で生きた名もない人々が精魂込めてことに当たった「職人」的気質や生き 方そのものを高く評価した。これに対して、伊藤守は、日本の高度成長を支えた、いわば経済に資する特定の人間像 や時代精神を国民に押し付けるものであるという趣旨を論じている。確かにストーリーに一定の脚色がなされてい る側面もある。しかし、こうした点を考慮してもなお、我々に訴えかけたことは大きいと思っている。それは人がひ とつの道を貫くことの重要性である。 教育界においても、草の根でその生涯を懸命に教育に捧げ、やがてこの世を去った、無数の教師達の存在を忘れて はならない。他国を学んでわかることは、日本の教師の多くが教職を天職として、生涯をそれに奉じてきたことの意 味であり、彼らが支えてきた日本の教育のあり方である。近江の地にもこうした教師が多数いた。ここで取り上げ る松本義よし懿もそのような教師の一人であった。い教師・松本義懿
松本は、1897年に石川県の農家に生まれたが、8歳の時に父を失っている。石川県師範学校卒業後、1919年に広島 高等師範学校教育科に入学した。卒業後、1928年に東京市立浅草実務女学校に奉職したが、同時に東洋大学に籍をお き学びを続けた。1936年に、滋賀県立藤樹実科高等女学校が新設されるとその校長に迎えられた。その後、京都府立 東舞鶴中学校、虎姫中学校、彦根高等女学校、大津高等女学校、新制安曇川中学校の各校長を歴任し、1953年に退職 後は高島高等学校の講師として6年間勤務し、60歳で教師生活を終えた。 松本は、後述『小川村だより』の中で、「青年時代にはペスタロッチに救われ、国歩艱難の時代には聖徳太子に励 まされ、今は藤樹先生に慰められて生きている」と述べている。松本がペスタロッチを深く学ぶのは、広島高等師範 学校においてである。在学中から、福島政雄を中心としたペスタロッチ研究会(渾沌社)に参加し、その思想の普及 に大きな役割を果たした月刊誌『渾沌』の発刊、またこの会の研修や出版事業の企画などに事務局において中心的な 役割を果たした。仏教思想や藤樹についても既に在学中から、福島の他、特に西晋一郎から教えを受け、大きな影響 を受けており、上記、渾沌社の研鑽事業の過程でこうした思想の学びを深めていた。松本にとって、上記の思想は何 れも重要であったが、こうした学びの過程で、やがて藤樹への傾斜を強めていった。 松本がなぜ藤樹への信奉を深めていったかについては、彼が1944年に書いた藤樹実科高等女学校での講話を内容 とする『藤樹教育をめざして』と題する大部の草稿(未完)にヒントがある。松本は、1929年藤樹書院夏季求道会で 藤樹の故郷、小川村に来ているが、その時のことを次のように記している。「扉を排してつと社前に立った私の耳に、 “お前も苦しかろう、わしも苦しかったよ”といふ藤樹先生の御声が聞こえた。―何故とも知らず、感激の涙が頬を伝 う。」「思えば藤樹先生も親一人子一人の身であった。私も親一人子一人の身である。藤樹先生もその一人の親を故郷 に残して遠い伊予の大洲といふところの殿様に仕えておられた。―」松本は、自らの境遇を藤樹のそれと重ね合わせ、1
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草の根に生きた近江の教
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―松本義懿と藤樹教学伝道の生涯―
特集 3
藤 田 弘 之
(教育学部教授)しがだい 13 それによって藤樹への心酔を深めていったと考えられる。彼は以後藤樹教学についての 学びを一層真摯に進め、また藤樹の顕彰事業において大きな役割を果たした。しかし、 最も重要であるのは、藤樹教学を基礎にした、教育実践であった。 教育者としての松本の姿勢や実践は、先述の『藤樹教育をめざして』を子細に検討す ることにより明らかになる。松本の教育の核心は、人の生き方の基本や根源力育成の教 育であった。彼が説いた基本的価値は、孝経と孝道、親や神仏等の恩と感謝、人のふみ行 なうべき道、努力・勤勉、倹約、正直、勤労、境遇に応じた生き方、一技一能に通じ、 ひとすじの道を照らすべきこと、少数徹底、実際生活での実行実践、逆境の中でも精一杯 生きること、いかなる境遇でも陰徳を積むべきこと、日常茶飯事をないがしろにしない こと、過ちへの反省と懺悔、心に偉人を持つべきことなどであり、中でも、「性ハ天性、道 ハ天道、教ハ天教、學ハ天学ナリ」という藤樹の教えを基礎とする天への畏敬と謙遜は、 重要なものであったと思う。松本は、こうした基本的価値を、藤樹や藤樹の言葉を引き、 自らの体験を重ねて訴えた。 以上のような松本の教育実践については、藤樹の思想と関わる当時の時代状況への迎 合の点、また彼の教育の徳目主義的性格の2点から批判が予想される。しかし、松本の 全体像を見たとき、時代的制約はあったにせよ、彼がそれを越えるものを持っていたことは関係者の一致することで ある。これは松本自身が、藤樹教学を究め、人間としての根源的価値を体得していたためである。松本は、戦後一時 降格されるがすぐに校長に復帰した。彼の考えの基本は戦後も寸分も揺らぐことはなかった。彼は自らを藤樹の教 えによって律し、「藤樹先生の教えを命の限りときつくし語りつくして、ついにはこの土地に骨をうずめる覚悟」を 持って、教育にあたろうとした。松本の果たした役割を、『近江の先覚第2集』は、次のように記している。「もし松 本が戦後安曇川町に居を定めなかったならば、中江藤樹は浅見絅斎と同じように忘却のかなたへ追いやられてし まったであろう。」 松本を最もよく示しているのが、晩年の生き方である。彼は、1957年に求められて藤波幼稚園の開設に努力し、自 ら園長として子どもたちの指導にあたった。藤波幼稚園は、ごく普通の幼稚園であった。最新の教育理論も特別の 教材や遊具もなかった。異なるのは、松本と松本の薫陶を受けた教師達がいたことであった。松本は、園において、 また送り迎えの道すがら園児たちに語って聞かせた。この世に生を受けたことや天の恵み、父母に感謝することを、 過ちは悔い改めることを、花に心があり、虫に命があることを。そして、子どもたちはすくすくと育っていった。松 本は、1962年に広島大学よりペスタロッチ賞を受賞するが、これを契機にして、ハガキ通信、『小川村だより』をは じめ、毎月関係者に送り続けた。松本はこの中で、身近なことに触れつつ、藤樹の珠玉の言葉を紹介した。それは上 段に構え、人を説得するというものではなかった。自らの生き方と絡め、藤樹の言葉をつぶやくように原紙に向かっ た。1973年、松本は鉄筆を握りながら、脳卒中で倒れ、3年後79歳で亡くなった。