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明治期における社会主義政党運動(二) 利用統計を見る

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明治期における社会主義政党運動(二)

著者

松岡 八郎

著者別名

H. Matsuoka

雑誌名

東洋法学

13

2

ページ

1-16

発行年

1970-01

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006122/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

︿論 説﹀

明治期における社会主義政党運動

に)

松岡八

六五四三二一

む明日日前ま

す治難え目

末謡争が次

び期後後史き

以上一二巻四号 以上本号

四日露戦争前後

前述のように、治安警察法という厳しい弾圧法規のもとで、労働運動が衰退していったうえに、明治三四年   明治期における社会主義政党運動 口       一 ︵一九

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   東洋法学       二

〇一年︶五月の﹁社会民主党﹂の結成も認められず.社会主義の政治運動が当分望みがないことが明らかとなったの で、 ﹁社会民主党﹂に参加した人たちは.再び宣伝啓蒙活動の方針をとることとして、 ﹁社会主義協会﹂を復活した のである。  ﹁社会主義協会﹂は片出潜の家を事務所として、       実際に活動の中心となっのは.片山と西 川光二郎とであるが.殊に中心的人物であ心たのは片霞であ蔭.木下尚江.・     河上溝らが援助することに   ハi︶ なった。明治三四年七月の例会では.体制の建て直しのために会則を改正し、従来会員は﹁社会主義に対する賛否を 論ぜず﹂とあ9たのを.       さらに秋にはいると.橡文を作成して. ﹁来れ.正義を愛し.人道を重んじ.文明進歩を希ふの志士は来れ.来って吾人と共に社会主義の弘道に力めよ。﹂      ︵2︶ と入会を訴えた。この激に応じて入会したのは.万朝報の堺利彦と斯波貞吉.和歌山の小笠原誉志夫.遠州掛川の 牧師白石喜之助らであった。この結果. ﹁社会主義協会﹂は東京在住の同志の集団から.全国的組織となっていった   ︵3︶ のである。  その活動としては.しばしば大小の演説会、茶話会を開き、片山、西川.松崎源吉などは、東北、関西、中国.四        ︵4︶ 国.九州、北海道へと、全国的に遊説旅行を行ない.また片山の主宰していた﹁労働世界﹂およびその後継誌﹁社会       ︵5︶ 主義﹂が機関誌的役割を演じ、こうして、 ﹁社会主義協会﹂は.明治三七年二月政府によって結社禁止にあうま で.社会主義の宣伝、啓蒙につとめたのである。明治三六年四月六環には、大阪の土佐堀青年会館において、わが国 で最初の社会主義大会が開催され、全国から数百名の同志が集まり、 ﹁吾人は鶏本に社会主義の実行に努めざるべか

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      ︵6︶ らず﹂と決議するにさえいたっている。  また明治三四年から三六年にかけては、社会主義の理論的研究も進み、したがって、あいついで著作や翻訳が刊行 され、明治三四年には、安部磯雄﹁社会間題解釈法﹂、西川光二郎﹁社会党﹂などがあり、明治三五年には、西川 ﹁人道の戦士社会主義の父力ール・マルクス﹂、同﹁英国労働界の偉人ジ温ソ・バーンズ﹂、煙出専太郎﹁近世無政府 主義﹂などがあり、明治三六年にいたっては、明治社会主義の二大名著、幸徳伝次郎﹁社会主義神髄﹂、片山潜﹁我 社会主義﹂のほか、安部﹁社会主義論﹂、西川﹁富の圧制﹂、幸徳﹁サソ・シモン伝﹂、ベラミー著平井広五郎訳﹁百       ︵7︶ 年後の新社会﹂、ゾソバルト著神戸正雄訳﹁十九世紀に於ける社会主義及び社会運動﹂などがある。﹁社会主義神髄﹂ と﹁我社会主義﹂の二著は、明治社会主義が到達した最高水準の理論であるといわれているが、幸徳は、ここではや くもマルクス、エソゲルスの著作を読み、 ﹁唯物史観﹂に接近していたにもかかわらず、労働者階級の歴史的役割を 理解できなかったために、社会主義実現の方法にかんしては、普通選挙運動による議会主義革命にとどまった。これ にたいして、キリスト教的改良主義者として出発し、その後、労働運動のなかで次第に社会主義者に成長していった 片山は、理論的にはまだ混乱していたとはいえ、はやくも労働者階級の歴史的地位を直観的に把握していたのであ ︵8︶ る。  このように、 ﹁社会主義協会﹂を中心とする社会主義の宣伝啓蒙と理論的研究が、明治三四年より三六年にかけて 活発に展開され、この結果、社会主義はあたかも流行語となって、大隈重信や福地源一郎でさえも、社会主義につい   ︵9︶ て語り、徳富芦花も、 ﹁私は社会主義を信じ、それを宣伝する。今日、社会主義を信じないと言ったりその宣伝を恐    明治期における社会主義政党運動 口      三

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   東洋法学       四 れたりする者は、自分の地位に恋々としたり.自分の財産をつくろうとしたり.自分の栄達を切望している者である。       ︵鎗︶ 社会主義を理解できないとか、信じられないとかいう者は、普通の人問ではなく.馬鹿か気違いである。﹂と述べて いる。  だが.このような社会主義の普及は、支配層になんら脅威を与えるものではなかった。労働運動が衰退していた当 時にあっては.社会主義は労働運動と関係なく.ただ思想として宣伝されたにすぎなかった、すなわち、 ﹁此時まで の社会主義者は其態度寧ろ講壇的にして政党的に非ず。時勢の潮流と対抗して之と奮闘するよりは寧ろ黄金世界を夢 想して之を想望するに過ぎず、概して之を欝へば世の所謂有志家.世の所謂政治家と提携し其援助を講ふの要講を有       ︵鷺︶ するものなりぎ。﹂というのが実態であった.したがって.社会主義の普及は.当時のわが瞬ではユートピアを説く        ︵駕︶ にひとしく.知識層のあいだに抵抗なく受けいれられ.支配層の側もまたきわめて寛容であったゆえんである。かく て、このように普及をした社会主義が、β露関係が険悪化したとき、支配層や国民各層のはげしい戦争熱にたいして いかに対応していったかが間題となるのである。  揖シアは、明治三三年の北清事変解決後も清国と条約を結んで満州に兵をとどめ、満州から朝鮮にかけて支配権を 拡大せんとしていた。わが国は.明治三五年には矯英同盟を締結してこれに対抗し.明治三六年になるとpシアが第 二期撤兵を実行しないことを契機として、獄露関係は一層緊迫し、六月二三段御前会議を開いて、政府は凱シアとの 交渉開始を決定し、朝鮮・満州問題について交渉にはいったが、両国ともそれぞれの帝国主義的立場を主張して譲ら    ︵爲︶ なかった。

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 この間に、世論は次第にpシア撃つべしとの対露主戦論に熱狂しはじめていった。明治三六年六月二四日、帝国大 学教授戸水寛人らのいわゆる七博士が、桂首相を訪問して、即時開戦を進言し、八月には頭山満らの国権主義者が対 露同志会を結成して、猛烈な煽動活動を行ない、﹁国民新聞﹂﹁大阪朝日﹂﹁大阪毎日﹂﹁時事新報﹂など言論界はほと んど対露強硬を主張した。こうして、巷には開戦論があふれるにいたったが、そのなかで、非戦の立場をとったのは、 ﹁東京毎日﹂と黒岩涙香の﹁万朝報﹂などごく少数にすぎなかった。        ︵員︶  黒岩の﹁万朝報﹂は、個人の精神修養によって修身斉家的に社会改良を実現せんことを標榜した﹁理想団﹂︵明治三 四年七月二〇矯設立︶の本拠として知られ、その記者には幸徳、堺、河上清、石川三四郎らの社会主義者がおり、した がって当時、 ﹁万朝報﹂はあたかも社会主義の機関紙の観があった。また日露開戦の危機が迫ると、幸徳、堺は社会        ︵焉︶ 主義の立場から、内村鑑三はキリスト教の立場から、それぞれ戦争に反対していたのである。  ところが、社長黒岩も、熱狂的に高まってきた主戦論には抗しきれず、琢シアの満州撤兵第三期日の明治三六年一 〇月八日、ついに開戦論に転換した。その夜、﹁社会主義協会﹂は神田青年会館において﹁社会主義非戦論大演説会﹂ を開き、その席上、幸徳、堺の二人は、さらに非戦論を訴えつづけるためには﹁万朝報﹂を退く決意を披歴し、二一        ︵婚︶ 罠には﹁万朝報﹂紙上に﹁退社の辞﹂を発表した。内村もまたこれにつづいて退社した。  こうした﹁露国撃つべし﹂という圧倒的世論のなかで、幸徳と堺の両名は、退社後、ただちに週問新聞の発行を計 画し、麹町有楽町の一角に﹁平民社﹂の事務所を設け、二月一五日には、週間紙﹁平民新聞﹂第一号を創刊するに    ︵17︶ いたった。    明治期における社会主義政党運動 口      五

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   東 洋 法 学      六  同時に. ﹁社会主義協会﹂の主導権も﹁平民社﹂に移ることになる。 ﹁社会主義協会﹂主催の幸徳.堺の退社慰労 会が開かれた席上.突然、﹁社会主義協会﹂幹事改選の議がだされ.その結果、西川と斉藤兼次郎が選ばれ.﹁社会主 義協会﹂の事務所も﹁平民社﹂に移されたのである。従来.片山が事実上﹁社会主義協会﹂の主導権を握っていたの        ︵娼︶ にたいする反発  殊に片山のリゴリズムーが﹁小ぎ政権授受の小革命﹂をもたらしたのであった。そして片山は.        ︵雛︶ 翌明治三七年の万国社会党大会に出席する予定もあって.アメリカヘ去っていった、.︸うして讐平民社﹂ー償ヨ窪 のセソタ⋮ともなウ.非戦運動の拠点ともなったのである.  ﹁平民社﹂の基本理念は. −      に明らかなように.自霞.平等.博愛にもとずく平民主義.社会主 義.平和主義であって.﹁暴力に訴へて快を︸時に取る﹂ような手段を否認し.﹁国法の許す範囲に於て﹂その実現を        ︵20︶ はかろうとするものであり.かつての﹁社会民主党宣言﹂の理念を受けついだものであった。だが殊に﹁好戦の情熱 朝野に顯狂せしむること今の如きの時に在て.正義.人道.平和を主張し.絶叫する﹂の﹁益々急要なること﹂を鐵 覚して、非戦論を高鴨したのである。と同時に幸徳.堺および同志らは﹁平民新聞﹂によって﹁衣食せん﹂としたこ       ︵欝︶ とも事実である。       ︵22︶  やがて、 ﹁平民社﹂の戦争否認にもかかわらず.いよいよ日露戦争が開始されたが. ﹁平民新聞﹂は非戦論の旗を かかげて戦い、戦争をあらゆる角度から批判し、戦争が資本家の利益であることを暴露し、勝敗にかかわらず、国民 多数の生活を破壊する戦争をなくするためには、社会主義の実現が必要であることを絶叫した。このため、 ﹁有楽町 の露探殿﹂ ﹁露国を亡すに先ち予輩は先づ汝等の首を刎ぬべし﹂という恐迫状が舞い込むようになり.また﹁平民新

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      ︵23︶ 聞﹂の売れ行きも減少の傾向が現われ、財政状態も困難を加えてぎた。  このように困難が加わってぎたなかで、 ﹁平民新聞﹂は、明治三七年三月;百の社説で、 ﹁与露国社会党書﹂を 掲げ、 ﹁今や日露両国の政府は各其帝国的慾望を達せんが為めに、漫に兵火の端を開けり、然れども社会主義者の眼 中には人種の別なく地域の別なく、国籍の別なし、諸君と我等とは同志也、兄弟也、姉妹也、断じて闘ふべきの理 有るなし﹂とし、共通の敵たる愛国主義と軍国主義にむかってともに平和の手段によってたたかおうと呼びかけた。 これにたいして、 ﹁pシア社会民主党﹂はその機関新聞﹁イスクラ﹂に回答をのせ、それが﹁平民新聞﹂︵明治三七年 七旦西日号︶に訳載された。﹁イスクラ﹂は日本の社会主義者の困難と勇気とに敬意を表し、pシア社会の特殊事情 は、 ﹁力に対するには力を以てし、暴に抗するには暴を以てせざるを得ず﹂として、平民社の平和的手段を批判しつ つも、﹁今我等の最も重大に感ずるは、B本の同志が我等に送りたる書中に於て現したる一致聯合の精神に在り。﹂と して、社会主義者の国際的提携を歓迎した。こうして﹁平民社﹂は、運動の国際的拡大をはかった。  さらに、八月には万国社会党︵第ニイソター︶の第六回大会がアムステルダムで開催され、片山潜がわが国を代表 して出席し、pシアの代表プレハーノフとともに副議長に選出されたが、全世界の社会主義者の代表の前で、二人は        ︵忽︶ 握手をかわして、日露両国の社会主義者の団結を示し、 ﹁是れ実に世界の社会党発達の歴吏に於て、永く特筆大書せ        ︵25︶ ざる可らざる重大の一事実﹂であるとされた。  戦争のさなかにあって、国民が連戦連勝の歓喜に酔っていたとき、 ﹁平民社﹂は﹁平民新聞﹂によって活発な反戦 思想を展開し、また社会主義の国際的連帯をもはかっていたが、さらに、大小の演説会、社会主義研究会などを開き、    開治期における社会主義政党運動 口      七

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   東洋法学       八

また地方遊説も行ない、その結果、各地に﹁平民新聞﹂を中心とする読書会、研究会がつくられ.社会主義運動は全       ︵26︶ 国的に浸透していく傾向を示した。これにたいして、政府はようやく圧迫的な態度をとりはじめるにいたった。  明治三七年三月一七日の﹁平民新聞﹂は、 ﹁鳴呼増税﹂と題する社説のために発売禁止となり.発行兼編輯人であ       ︵解︶ る堺は起訴され.禁鋼ニヵ月の判決を受け.社会主義者の最初の入獄となった。五月二七羅には.警視庁は新聞記者 を集めて.今後大いに社会主義を取り締る方針であると発表し.叢・の階級論は皇室の尊厳を傷つけるおそれがあ静.       ︵撚︶ また全国の社会主義考のなかに二名の刑余者がいることを.その主な取り締参の理由とした. これにたいして勿論 コ平民新聞﹂はその不当なることを反論したが、だがこの時から.政府の弾圧.干渉は本格化していったのである.  このように.政府の弾圧がきびしくなるとともに. ﹁平民社﹂にはさらに困難な間題があった、その財政が窮乏化       ︵29︶ したことである、 ﹁平民社﹂は.設立直後からβ露戦争が開始されたまでの時期において.素人の発行する週間新聞        ︵30︶ であったにもかかわらず.予想以上の成績でスタートしたが、はじめから経営は楽ではなく.明治三七年三月になる       ︵瓢︶ と.社員の給料を二割減じたほど.諸経費を切り詰めなくてはならなくなった。さらに四月になると.ついに社員は        ︵鎗︶ いっさい無給として. ﹁平民社﹂を支えねばならなくなり.七月末には﹁平民社﹂の維持金募集の発表をせざるをえ     ︵33︶ なくなった。  こうした政府の弾圧と財政の窮乏との非常に困難な状況のなかで.﹁平民社﹂は﹁平民新聞﹂の発行に、﹁平民文庫﹂        ︵誕︶ の発行に、演説会に、地方遊説に、伝道行商に、社会主義および反戦思想の啓蒙宣伝に活躍したが、明治三七年一〇 月一六藏の﹁平民新聞﹂の社説は、﹁先づ政権を取れ﹂を掲載し.﹁社会運動の第一着手﹂は﹁唯だ︸般平民をして議

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員選挙の権利を得せしむるに在り﹂とし、﹁社会主義協会﹂、﹁普通選挙期成同盟会﹂と協力して、全国の同志が普選 運動に奮起することを要望し、依然として、平和的な手段による戦いを提唱している。だが、政府の弾圧はさらに一 層深まり、演説会はほとんど中止、解散を命ぜられ、﹁平民新聞﹂明治三七年コ月六β号は、﹁小学教師に告ぐ﹂ ﹁所謂愛国者の狼狽﹂﹁戦争に対する教育者の態度﹂の三論説をもって、わが国の伝統的な忠孝道徳を攻撃したものと して、発売禁止となった。ついで創立一周年を記念して、最初の邦訳﹁共産党宣言﹂を掲載した﹁平民新聞﹂ 二月 ご二日号も発売禁止となり、また同じ二月二二日、一周年を記念する園遊会を滝の川紅葉寺で開催する計画であっ たが、これも政府によって中止された。また同じころ、二月一六日、 ﹁日本社会主義の急先鋒として多大の貢献﹂        ︵35︶ をしてきた﹁社会主義協会﹂は﹁安寧秩序に妨害あり﹂とされて、治安警察法によって結社を禁止された。        ︵36︶  かくて﹁平民社は事いよいよ多くして費いよいよ多からんとするの形勢﹂にあり、すなわち﹁平民社﹂は政府の度 重なる弾圧とそれに起因する経営難という状況のなかで、一一月六日号の事件で発行禁止の判決をうけていた﹁平民 新聞﹂を、その判決の執行にさきだって、みずからついに明治三八年一月二九日号をもって廃刊した。反戦運動に、 社会主義運動に輝しい足跡を残した週間新聞﹁平民新聞﹂の終刊号は、マルクスの﹁新ライソ新聞﹂の終刊号になら って、赤刷りをもって﹁吾人は涙を揮ふて、弦に平民新聞の廃刊を宣言﹂し、一年ニヵ月の短い生涯を閉じたのであ る。 ﹁但だ平民新聞の刊行は廃すと難も、社会主義の運動は是より益々活溌ならしめざる可らず﹂として、 ﹁平民新 聞﹂にかわるものとして、原霞外、白柳秀湖などが発刊していた月刊雑誌﹁直言﹂を明治三八年二月五日号より週刊       ︵37︶ 新聞に改め、後継紙として、社会主義の中央機関たらしめ、社会主義運動は盛んに続けられた。    明治期における社会主義政党運動 口      九

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   東洋法学      一〇

 政府の弾圧は依然としてきびしかったが、小懸頼造.山p孤剣、荒畑寒村らの伝道行商が続けられ.東京では﹁社        ︵錫︶ 会主義伝道隊﹂が組織されて.四月二購の街頭での社会主義のデモ.宣伝が行なわれ、警官隊と衝突するにいたり、 運動がラデカルな色彩を帯びるようになった。五月一六βの東京市における衆議院補欠選挙には.﹁社会主義同志﹂の        ︵39︶ 候補者として木下尚江が推薦され、木下は﹁普通選挙﹂を唯一の主張としたが、選挙演説会はすべて解散させられ.一       ︵憩︶ 回も開くことがでぎず.政府の干渉のため.結局.得票数わずかに三二票にすぎなかった。さらに同志中の加納豊の       欝︶      ︵馨 秘密探偵嫌疑事件があり.五月中ごろから.政府のはげしい弾圧のため.また幸徳と西川の入獄とい弓事情もあって.        ︵お︶ 東京における運動は縫を追って下火になっヅ、いき. 讐此分では暫く公開演説も出来ますまいしという状況になった、  こうして運動が窒息させられていたころ、 ﹁平民社﹂内部の改革の間題がおこり、幸徳.西川不在中の堺.石川の        ︵艇︶      ︵妬︶ ﹁平民社﹂運営にたいする不平がおこったのである。幸徳が出獄後.堺.石川のために弁明したにもかかわらず、同       ︵蕊︶ 志間の融和を回復することはむつかしかった。それに加えて財政がいよいよ欠乏をつげてきたので. ﹁平民社﹂は協 議のすえ.九月三鶏発行の﹁直言﹂に﹁今後の平民社﹂という記事をのせ、今後は.改めて石川、幸徳、木下.堺の        ︵貯︶ 合議と連帯責任によって経営されることにぎまった。こうして. ﹁平民社﹂の改革がようやく軌道にのりはじめた脚︶ ろ.ほ露戦争はすでに終結しており.八月末にポーッマス講和条約の内容が明らかになると.条約に不満をもつ群衆 が・九月五溝、日比谷公園に集まり、その流れは焼打ちにまで発展し、政府は戒厳令をしいた。これにたいして﹁直 言﹂は九月一〇藏号において.社説﹁政府の猛省を促す﹂をかかげ、この暴動の責任は政府にあると攻撃したため、 発行停止を命ぜられ、いつ解除されるか予測がつかなかった、そのうち九月二六β.西川が出獄したので.前記四名

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と西川を加えて協議した結果、﹁平民社﹂を解散し、﹁直言﹂を廃刊することに決定したのである。        ︵弼︶  そして一〇月九日の夜、 ﹁平民社﹂楼上において、七〇余名が集まり、悲壮な解散式を行なった。二年にわたる社 会主義運動の拠点であった﹁平民社﹂は、日露戦争の終了とともに、その息を断ったのである。  以上述べてきたように、 ﹁平民社﹂の解散は、複雑な要因がこれをもたらしたものということができよう。明治三 〇年代初期の社会主義者は、かならずしも一致した見解をもって結束していたのではなかった。そのなかには、唯物 論的マルクス主義の立場のものもあれば、キリスト教的社会主義の立場のものもおり、その間にはいろいろな色彩の 相違が認められた。だがその意見が異なっていても、日露戦争にたいしては社会主義ないし反戦の立場から一致して 反対し、また政府の弾圧にたいしてもたがいに結東してこれに対応していくという必要が、同志を団結させていたの である。ところが、運動がいろいろの障害でなかなか進まず、幾度も裁判事件はおこり、財政は欠乏し、新聞の維持 もなかなか難しいという困難が重なってくると、とかく同志の間の感惜もこじれ、運動にたいして厭気がさす艶︺とに もなり、したがって同志の問の意見の相違や感情の衝突などが起ってくることになる。そこへさらに戦争が終了して、 大騒擾が勃発した結果、 ﹁直言﹂が無期発行停止になるという事態が起ったので、いままで同志を結束していたきず        ︵弱︶ なが断ち切られたという状態になり、そこに、 ﹁平民社﹂解敵という結果がもたらされたのである。こうして、 ﹁平 民社﹂は日露戦争とともにおこり、日露戦争とともに解散したわけである。 ︵1︶ 赤松克麿 ﹁聞本社会運動史し  魍治期における社会主義政党運動 =)八   六   頁   参   照

  o

  岸   本   英   太   郎   渡   辺   春   男   小   山   弘   健   一   片   山   潜   第   部 一   一 九五頁参照。

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 東 ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵ぞ︶ ︵8︶ ︵嚢︶ ︵鐙︶ ︵難︶ ︵鴛︶ ︵爲︶ ︵爆︶ ︵焉︶ ︵驚︶

 洋法学       一二

隅谷三喜男 ﹁片山潜﹂ 二〇頁参照。  隅谷三事男 前掲 二〇頁参照。  片山潜  ﹁縫本における労働運動﹂ ︵岩波文庫版︶ 三三六頁参照、  隅谷三喜男 耳労働世界﹄とその後継誌﹂ ﹁思想﹂一九六二年二号 二四五ー六頁参照。        一九〇三年四月一八顕讐参照 なおこのほかに﹁吾人は社会主義を以て人類被会の改善を計るものなり﹄ ﹁社会主義の成功を期するには万麟同主義嚢の一致協力を要すしと決議している・         ﹁難本社会主義文献解説﹂ 四五t八頁参照、  細州嘉六 前掲 二五頁参照、  片爵潜 荊掲 三一 、頁参照。  ノ揖潜 前掲 三三四頁。  由路愛山  ﹁現時の社会間題及び社会主義灘﹂ ﹁明治文化全集 六巻 社会篇﹂ 三八五頁、  賑露戦争前のこの時期が.第工次世界大戦前のわが国において、社会主義の宣伝啓蒙がもっとも円滑にすすめられた時 期である。  古屡哲夫 ﹁欝露戦争﹂ 七二−四頁参照。  ﹁理想団﹂については、 ﹁明治文化資料叢書 第五巻 社会主義篇﹂ 解題六∼九頁参照。および﹁理想団主意書獄に ついては同書 二〇三ー一二〇頁参照。  荒畑寒村 ﹁欝本社会主義運動史﹂ 五三頁参照。  [予等二人は不幸にも対露問題に関して朝報紙と意見を異にするに至れり、予等が平生社会主義の見地よりして、圏際 の戦争を目するに貴族、軍人等の私闘を以てし、国民の多数はその為に犠牲に供せらるる者と為すこと、読老諸君の既に 久しく此紙上に於て見らるる所なるべし。然るに斯くの如く予等の意見を寛容したる朝報紙も、近欝外交の事局切迫を覚 ゆるに及び、戦争の終に避くべからざるかを想ひ、若し避くべからずとせば挙濁一致当局を助けて盲進せざる可らずと為

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  せること、是亦読者諸君の既に見らるる所なるべし、此に於て予等は朝報紙に在って沈黙を守らざるを得ざるの地位に立   てり。然れども永く沈黙して其所信を語らざるは、志士の社会に対する本分費任に於て欠くる所あるを覚ゆ。故に予等は   止むを得ずして退社を乞うに至れり。予等の乞に対し、黒岩君は寛大義侠の心を以て切に勧告せらるる所ありたれども、   事此に至りては亦如何ともすること能はず、予等は終に黒岩君其他社友の多年の好誼に背きて一たび此に挟を分つに至れ   り。﹂ 全文は、荒畑寒村 前掲 五三ー四頁参照。 ︵17︶ 退社してから、﹁平民新聞﹂発行までの経過について、詳しくは.中村勝範  ﹁明治社会主義研究﹂ 一六三ー四頁参   照。 ︵18︶ 山路愛山 前掲 三八六1七頁参照。 ︵19︶ 隅谷三喜男 前掲 一二三頁参照。 ︵20︶ ﹁宣言﹂の全文はつぎのとおりである。       宣  言    一 自由、平等、博愛は人生世に在る所以の三大要義也。        ヤ  ヤ  ヤ  ヤ    一 吾人は人類の自由を完からしめんが為めに平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の差別より生ず   る階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。        ヤ  ヤ  ヤ  ヤ    一 吾人は人類をして平等の福利を享けしめんが為めに社会主義を主張す、故に社会をして生産、分配、交通の機関を   共有せしめ、其の経営処理一に社会全体の為めにせんことを要す。       ヤ  ヤ  ヤ  ヤ    一 吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱道す、故に人種の区別、政体の異同を間はず、世界   を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。    一 吾人は既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす、故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範   囲に於て多数人類の与論を喚起し、多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如   きは、吾人絶対に之を否認す。  明治期における社会主義政党運動 口      ニニ

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ハハハモハハ  ハ

2$ 27 2蔭 25 2盈 23 22 2i ) ) ) ) ) ) ) )  葺ζ ︵謄︶ ︵30︶ ︵雛︶ ︵鎗︶ ︵33︶

洋法学

﹁平民新聞﹂ ﹁平民新聞﹂ ﹁平民新聞﹂ ﹁社会主義﹂ ﹁平民新聞し 荒鯛寒村 華 ﹁平民新聞し      “﹃寧荒畑寒村 鎌鶏 癒越えていたと 載せしめて以て祉会主義追害の県に供せんとする也.  ﹁平民社しの財政状態の変化については  ﹁平民新聞し  ﹁平民新聞﹂  コ平民新聞﹂ とは家族があるので、 神崎の諸君は、  ﹁平民新聞﹂     平民社維持金募集方法  募集総金額は二千円を以て目安と為す事  募集期限は向ふ一ケ年と為す事  一獄の金額の多少を閥はざる事 匹1 明治三六年二月一五β号︵一号︶ ﹁発刊の序﹂参照、 明治三七年一月一七獄号 ﹁吾人は飽くまで戦争を否認す﹂・、川. 明治三七年三屑七鷺号﹁平民社籠城の記﹂参照。 墾治三七年十月三羅号 片山潜﹁万岡社会党大会﹂参照。 窮治三七年九月一八鷺号 ﹁欝露社会党の握手﹂参照。 溝・ 六七頁参照、       、発行禁止だけは辛うじて免れ・堺は四欝二一羅獄に下吟た・ 明治三七年六月五溝号﹁難本之新聞篇参照。         郵.燕時.全国の社会主義者は三千人 いう。        ・髄に二人の前科あ婆しを知姶得ゾ、鬼鐙璽ぐも得たるが如く之を各新聞紙に掲       其心事、其の手段吾人は評する9欝なきに苦しむ也﹂        憾、申村勝範 前掲 第五章一六一頁以下参照、 の印綱部数は、創刊号が八千部、それ以後は四・五千部であった、山路愛溝 前掲 三八九頁参照.、  競治三七年三湾六欝号﹁平民祉籠城の記し参照。  明治三七年六月五臓号﹁籠城後の平民社﹂参照。﹁無給といっても.食はずには艦られぬ.格揖と秋水    巳むなく是迄通り淀橋に住ひ、実費だけを、否な実費に足らぬだけを持て行く、西川.石煩、柿内、 全く私有財産を絶滅して平民社内に一個の小共産社会を作った。﹂  明治三七年七月二四聞号﹁平民社維持の方策﹂参照。

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(  ( (  (  ( ( (  ( ( 42 41 40  39  38 37 36  35 34 )  ) )  )  ) ) )  ) )            47 46 45 44 43 )  その他に、木下、堺、幸徳は無給で働くこと、新聞の売捌と書籍の出版とを分離して、書籍出版に関する債権債務は一 ) )  荒畑寒村前掲 ニコ頁参照。   ﹁直言﹂ 明治三八年八月二七日号 ﹁同志諸君に諮る 平民社改革に就て﹂参照。 ) )  ﹁直言﹂ 明治三八年八月二〇β号 ﹁平昆社より 平民社の改革に就て﹂参照。   ﹁直言﹂ 閥治三八年九月三β号  ﹁同志諸君に告ぐ﹂参照。 月五日をもって、獄に下った。   ﹁平民新聞﹂明治三七年二月六瞬号の筆禍事件で、西川、幸徳ともそれぞれ禁鋼五ヵ月、罰金五十円に処せられ、三   コ醗言﹂ 明治三八年五星コ聞号参照。   ﹁直言し 明治三八年五月二一日号参照。   ﹁直言﹂ 明治三八年五月一四β号参照。   ﹁直言し 明治三八年四月九日号参照。   ﹁直言﹂の後継紙としての発行の事惰については、﹁直言﹂︵翻刻版︶ 解説 塩田庄兵衛参照。   ﹁平民新聞﹂ 明治三八年一月二二日号 ﹁社会主義運動基金募集﹂参照。   ﹁平民新聞﹂ 明治三七年二月二〇β号参照。  伝道行商は﹁平民社﹂時代の社会主義運動を大きく特徴づけるものである。中村勝範 前掲 二一八ー二一コ頁参照。  募集金は直ちに確実なる銀行に預け入れ厳重なる保管を為す事  現金受領済の上は金額及び寄附者の住所氏名を本紙に記し受領証に代ふる事  期限内数回或は毎月の払込は随意の事 切堺が引受けること、そして﹁平民社﹂は﹁直言﹂だけの取支をつけて経営していくということなどがきまった。また堺 は別に﹁由文社﹂を設けて出版によって生活をたて、また幸徳は病気︵獄中にて︶療養をかねて海外の見聞をうるために、 暫く外遊することが決定、発表された。 明治期における社会主義政党運動 口       一五

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東 洋 法 学 一六  ︵娼︶ 荒畑寒村前掲 二一二頁参照。  ︵鎗︶ 荒畑寒村 前掲 二藁  四頁参照。  その外にも同志の結束を分解せしめた原園があるといわれている。﹁というのは、夫を喪って平民社に来り投じ、台所方を引 うけていた故松岡荒村氏の未亡人文子が西川氏と結婚するようになり、また夫人の病褒後、社内に起臥していた堺利彦が、同じ く台所方を引うけていた延岡為子と結婚するようになったことが端なくも一部の同志.なかんずくキリスト教系の同志の問に、 非難の的となったからでもある。然し、かくの如きも所瀧は既に同志間の結束が分解状態にあったから起った現象であって.む しろ随伴的な原困にすぎないと思われるご       ︹未 完︶        ︵本 学 教

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