国語を正確に理解する能力を育成するための
指導についての考察
──文学教材の授業をつくる観点から──
森 川 拓 也
How to Cultivate the Ability to Correctly Understand the Japanese Language
—Focusing on Classes that Use Literature as Teaching Materials—Takuya M
ORIKAWA 1 問題の所在 現行の学習指導要領の目標は「国語を適切に表現し、正確に理解する能力を育成し、伝え合 う力を高めるとともに、思考力や想像力及び言語感覚を養い、国語に対する関心を深め国語を 尊重する態度を育てる」とある(1)。その中で「国語を『正確に理解する能力』とは、国語の使 い方を正確に理解する能力と国語で表現された内容や事柄を正確に理解する能力との内容を含 んでいる」とある。 この「正確に理解する」は、次期学習指導要領の中でも「言葉による見方・考え方を働かせ、 国語で正確に理解し適切に表現できることを通して、国語に関する資質・能力を次のとおり育 成することを目指す」と記されている(2)。当然のことであるが、「国語を正確に理解する」「国 語で正確に理解する」は、継続して国語科教育の重要な目標なのである。 しかし、これらの文言はかなり抽象的であり、結局「正確に理解する」ことの具体化はそれ ぞれの現場、教師一人ひとりに任されているといっても過言ではない。 では、「国語を正確に理解する」とは具体的にはどういうことなのだろうか。どうなったと きに「正確に理解した」と言えるのだろうか。また正確に理解する力を育成するためにはどう 指導すればよいのだろうか。現場の教員はその点をどう捉え、指導を行っているのだろうか。 ある学生が次のようなことを話していた。「国語って好きではない。先生はいつも『答えは 一つではない。どう考えてもよい。』と言ってるのに、でもテストになったら答えは一つ。な ぜ?って思う」この学生は特に文学の読みの授業のことを言ってるのであるが、この言葉は現 在の学校現場での実情を見事に言い当てているのかもしれない。先生たち自身もどうなれば正 確に理解したことになるのか分からないまま授業を行っていることが多いのではないのだろう か。学校現場で国語の授業を見ると、明らかにそうとは読み取れない考えが子どもから出され たときも、先生が「そうかもしれないね」と認める場面がある。これでは正確に理解する力を育成することにはつながらないだろう。 しかし他方では「文学は正確に読み取るものではなく、個々が自分なりの読みをすればよい」 という正確性を求めない考え方も多くある。これは「文学の授業の目的は何か」という課題を も含んでくる。 以上の課題を踏まえ、この研究では「国語を正確に理解する」をどう捉え具体化するか、ま た文学の授業で「正確に理解する」ということが求められるのか、という点について考える。 そして国語の授業のあり方について一つの方向性を示すことを目的としたい。 2 文学の授業の現状 まず学校現場で行われている授業は一般的にはどういうものが多いのだろうか。それを見る ために小学校国語の市販のテストやワークで取り上げられている読み取り問題を挙げる。市販 されているということは、一般的によく見られる授業内容を反映していると考えられる。 例えば「ごんぎつね」(4年 新美南吉)(3)の6場面で、A・B・Cの3つのテスト・ワーク とも「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました」の一文を取り上げ、問題を出 している(4)。 A 「ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。」とき、ごんはどんな気持ちだっ たのでしょうか。一つに〇をつけましょう。 ア( )なぜ、兵十は自分をうったんだろう。 イ( )くりなんか、持ってくるんじゃなかった。 ウ( )ああ、やっと分かってもらえたんだな。 B 「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。」とありますが、このと き、ごんは、どんな気持ちでしたか。一つに〇をつけましょう。 ア( )自分をうった兵十が、にくいという気持ち イ( )やっと分かってもらえて、よかったという気持ち ウ( )いたずらが見つかって、くやしいと思う気持ち C 「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。」とありますが、このと きのごんは、どんな気持ちでしたか。一つに〇をつけましょう。 ア( )うなぎをぬすんだつぐないの気持ちは、兵十には分かってもらえないだろう。 イ( )うなぎをぬすんだつぐないの気持ちを、やっと兵十に分かってもらえた。 ウ( )うなぎをぬすんだことぐらいで自分をうつなんて兵十はひどいやつだ。 問題の内容に大きな差はない。正答は、Aはウ、B・Cはイである。これらの3つを選べば
一応の理解はできたと評価するのであろう。これらは読解の問題であるが、しかしこれが「正 確に理解した」ことに到達したとは言えないだろう。いくつかの疑問点がある。 まずA・Bでは、「何を」分かってもらえたのかが示されていない。それは「何を」は明白 であるということであろうか。それはCにある「うなぎをぬすんだつぐないの気持ち」という ことなのだろうか。それともそれぞれが自由に考えてよいということなのだろうか。 Bを見ると「うれしい気持ち」とあるが、本当にごんに「うれしい」という気持ちがあった のだろうかか。また、3つ共通に「分かってもらえた」とあるが、そもそもごんは兵十に、何 かを「分かってほしい」と思っていたのだろうか。 「正確」ということは「基準や事実に照らし合わせてまちがいないこと」(5)であるが、前述の 「分かってもらえた」という読みを、正確だと判断する基準・事実とは何なのだろうか。つま り「分かってほしい」と思っていたと考える根拠が明確に示されない限り「正確に理解した」 とは言えないだろう。それを明確に示した参考資料は筆者の知るところでは見当たらない。 このように、正確に理解したとは言い難いかなり曖昧な理解で済ませている例は、他の教材 でもかなり多く見られる。 もう一つ市販のワークで取り上げられている読み取り問題を見てみる。「大造じいさんとガ ン」(5年 椋鳩十)(6)に関して、次のD・E・Fのワークの問題はともに「再びじゅうを下ろ してしまいました」の箇所に対して、その理由を問う問題を出している(7)。 D 大造じいさんは、なぜ、じゅうを下ろしたのですか。 が を と思ってやってきたことが分かった から。 E 「再びじゅうを下ろしてしまいました。」とありますが、それはなぜですか。一つ選 びましょう。 ア ハヤブサと残雪の戦いがおもしろかったから。 イ 残雪が、ハヤブサを救おうと必死だったから。 ウ 残雪と戦うハヤブサが、おそろしかったから。 F なぜ、大造じいさんはじゅうを下ろしてしまったのだと思いますか。 〔 〕 Dでは、「 が を と思ってやってきたことが分かったから。」 と埋めることができれば正解であり、Eの正答はイである。またFは正答例として〔仲間を救 おうとする残雪の姿が目に入ったから〕が示されている。多くの授業でもほぼそういう読みに なる傾向がある。 しかし、教材文をよく読んでみると、目の前を横切ったのが残雪と分かり瞬間的に残雪を狙っ 残雪 仲間のガン 救わねばならぬ
た大造じいさんが、その後銃を下ろすまでの間に、残雪がおとりガンを助けにきたと判断する ことが可能なのか、という疑問がある。ただ目の前を横切っただけの残雪の行為である。残雪 がいるという事実はあるが、それが仲間を救いに来た行為だとは分からないのではないか。そ の矛盾を解決しないと、これらは正確に理解したことにはならないのではないのだろうか。 もう一例として「やまなし」(6年 宮沢賢治)(8)での授業の分析を挙げる。 藤井(2010)は次のように述べている(9)。 以下は、クラムボンは何かをめぐっての授業のやりとりである。 C:クラムボンはクラムボンであって、他の何でもなくクラムボンはクラムボンで、ひ とが想像すればあわにもなるし、光にもなるし、虫にもなるし、クラムボンという のはクラムボン。 C:このナレーターになっているのは宮沢賢治さんが人間の目になったものを書いてい るんであって、クラムボンて出てくるのは会話の中だけだから、やっぱりかにには クラムボンとして見えているんだけど、人間の言葉で表せるようなものじゃないん じゃないか。 T:賢治のイメージしているものは人間の中にあることばで表せるものではないんだ。 ただ言えることは、かにたちは、このクラムボンのことを「笑った」とか「死んだ」 「殺された」って言っていることだね。 C:たまたま小さいものがいて何か笑っているようだとか言い合っていて、それで「分 からない」っていうのは、何かどこに行ったっていうか「死んだよ」「殺されたよ」っ て言うんだけれど「分からない」っていうのは、どうしてそこから消えたのかがわ からなくて、どうしていなくなってるのか何か理由っていうか C:私は、かにの目で見たということが大事だと思うんだけど、「なぜ殺された」って 言葉が何かすごい寂しそうって感じがしたんだけれど、……兄さんも自分の頭の上 で動いているものが「分からない」っていう、そういう気持ちがあると思う。 学習者は自分なりのクラムボンのイメージをもとに話し合いながらも、「分からない」 という叙述を根拠に、かにの目線において世界を描く賢治の思いまでに話し合いを発展さ せている。すべての子どもがもつであろう「クラムボン」についての疑問を根拠となる叙 述を拡げて読むことによって、かにの気持ちへと解釈を重ねている。授業全体が「賢治の 思い」に迫るというものであるが、一人ひとりの読みを重視している点が読者論的であり、 「語る」という活動が学習に頻用されていることからもうなずける。一般にこうした学習 ではイメージを集約したり、筆者の思いを収束してまとめてしまうことが多いが、そうなっ ていない点がこの実践のよさとなっている。
この授業記録の中にも出てくるが、「クラムボンは何か」という疑問は確かにほとんどの授 業で出される。しかしこの授業と同様に「あわ」「光」「ほこり」「微生物」などいろいろな考 えが出されるが、結論が出ないまま曖昧に終わらせることが多い。 これら3つの例を見れば、どれも正確だと判断する基準・事実が明確ではないことが分かる。 でもそのことはこれまであまり大きな課題として取り上げられていない。それは文学の授業に 対する考え方・指導方法に拠るところが大きい。 3 一般によく見られる文学の指導方法 まず文学の授業の目的について考えてみる。一般的に文学の授業では「情緒」「感性」「想像 力」の育成といった点が重要視される傾向にある。 「ごんぎつね」についての学習指導書を見ると、次のようにある(10)。 主な発問・指示とその意図 前の場面で「引き合わない」と思ったごんは、どんな気持ちで栗を持って兵十の家に 行ったのでしょうか。 予想される児童の反応 ・栗を置いているのは自分だと、いつかは分かってもらいたい気持ちがあったと思い ます。 ・自分が栗を置いていると分かってもらえなくても、償わないといけないと思って兵 十の家に行ったと思います。 ・いつの間にか兵十に友達のような気持ちをもっていたんだと思います。だから、つ まらなくても栗を届けたんだと思います。 教師の発問に対して、子どもからいくつかの考えが出されることを予想している。そしてこ の予想例は3つとも考えが全く違う。しかし、指導書ではこれら違った考えを解決する手立て も、解決後の結果も示されてはいない。これは、単元の指導内容の中の「登場人物の性格や気 持ちの変化、情景などについて叙述をもとに想像する」「文章を読んで考えたことを発表し合い、 一人ひとりの感じ方に違いのあることに気づく」に準じたものだろう。 読みの曖昧さが認められてしまっている原因は、ここにあるのではないのだろうか。つまり、 「読む」ことの結果を「想像すること」「感じること」としているところである。だから「一人 ひとりの読みを大切にする」「一人ひとりが豊かな想像をすればよい」という授業が多くなる。 つまり、読みの正確さは求めないのである。 前述の「やまなし」の授業に対する藤井の分析はまさにその立場からのものである。「国語は、 答えが一つではない」も、この立場に拠るものであろう。それは、日本語は曖昧なものであり、 当然日本語で書かれた文学は明確ではないという見地に立っている。文学を読むときは、正確
さは必要なく心情や情景を感じればよい、という考え方も多くある。 また1998年7月に出された教育課程審議会の最終答申の中の「文学的な文章の詳細な読解 に偏りがちであった指導の在り方を改め、自分の考えをもち、論理的に意見を述べる能力、目 的や場面などに応じて適切に表現する能力、目的に応じて、的確に読み取る能力や読書に親し む態度を育てることを重視する」という国語教育に対する改善案も大きな影響を与えているの ではないのだろうか。それはさらに、文学は味わうものであり、正確に読むことや論理的思考 は説明文教材で育てる、という考えにつながっている。 次に、文学の授業における指導方法、特に「読む」ことの指導について考える。 宮坂(2014)は文学の読みのレベルを指摘する(11)。宮坂によると、文学の読みには、主題 レベルの読み・全体(人物)レベルの読み・場面(人物)レベルの読み・段落レベルの読み・ 文レベルの読み・文節レベルの読み・言葉レベルの読みがあり、授業では、ほとんどが主題や 人物(全体・場面)レベルでの読みを指導する。言葉レベルの読みを指導する授業はほとんど ない。 さらに平野(2006)はこの言葉レベルの読みの価値を、「小説を読むとき、細部を捨てて主 要な筋に還元する読み方をやめて、むしろプロットへの還元から零れ落ちる細部にこそ、目を 凝らすべきである。差異とは、何か微妙で、繊細なものである」と述べる(12)。さらに「とに かく、大切なのは、立ち止まって、『どうして?』と考えてみることだ(13)」「会話の中で、聴 く気のない相手に対して、人が『この人に話しかけてもしかたない』とそっぽを向いてしまう ように、『なぜ?』という疑問を持たない人には、本は永遠に口を閉ざしてしまうだろう(14)」 という。 平野のいう「細部」とは宮坂のいう「言葉レベル」と一致すると考える。細部を読むことで 疑問が生まれ、読み解く行為が生まれるということだ。 しかし学校現場ではこのような言葉レベル読みの指導を行う授業が少ない。 表1は小学校教諭・保育職を目指す大学1年生の女子学生185名を対象にした、物語の読み に関するアンケート結果である。調査対象者から調査の趣旨、使用目的、個人情報に関する事 項に対して了解を得たうえで2016年10月にアンケートを実施した。質問は「あなたが物語を 読むときに、気をつけたり、意識したりしていることはありますか。あてはまる項目に〇をつ けてください(複数回答可能)」であった。 「登場人物の気持ちに着目して読む」(71.9%)「登場人物の行動に着目して読む」(56.8%) が大きな割合を占め、逆に「一つ一つの言葉に着目して読む」(13.5%)はかなり少ない。や はりこれは小・中・高の国語の授業で、登場人物の気持ちや行動を意識して読むことが繰り返 し指導されてきたことの一つの結果であろう。 そのような授業で特に大切な問題として取り上げられるものは、全体的な読みから、例えば、 「『スイミー』を読んでどんなことを感じましたか」「一番心を打たれた場面はどこですか。そ れはどうしてですか」「『モチモチの木』はどんなお話ですか。紹介してください」「作者は何 が言いたかったのでしょう」などである。また「このときの大造じいさんの気持ちはどうだと
思いますか。大造じいさんになったつもりで考えましょう」というような発問もある。 これらは個人の主観や感じ方を問うものであり内容の理解ではない。だから正確さを求める ことはない。また逆に言うと個々の感じ方なので、正確か不正確かは問題ではないという主張 もあるだろう。 表1 物語を読むときに意識すること n=185 人数(人) 割合(%) 1 作品の主題やテーマを分かろうと読む。 48 25.9 2 作品のあらすじを見つけようと読む。 55 29.7 3 登場人物の気持ちに着目して読む。 135 71.9 4 登場人物の行動に着目して読む。 105 56.8 5 場面や段落の関係やつながりに着目して読む。 40 21.6 6 一つ一つの文の内容に着目して読む。 59 31.9 7 一つ一つの言葉に着目して読む。 25 13.5 8 特に気を付けたり、意識したりすることはない。 12 6.5 また最近では、文学教材でも、読むことではない活動、いわゆる様々な言語活動が学習の中 心になる傾向も広がりつつあり、目的が「理解する」とは離れたところに位置づけられること も増えてきている。 4 言葉に対する認識の問題 もう一つ考えておきたいのは、私たちの言葉の認識の問題である。 例えば、今、自分の目の前を一人の人が走っているとする。それを見た時、私たちにはその 走っている姿しか見えない。つまり、なぜその人が走っているのかは分からない。具体的にい うと、その人が「ただ走っている」のか「何かから逃げている」のか「誰かと競走をしている」 のか、また「慌てている」のか「靴の履き心地を確かめるために走っている」のか、そのよう なことは分からない。どのような理由があるにせよ、見ている側には「走っている」ことしか 認識されない。 これと同じようなことが読む場合でも起こる。 例えば「ごんぎつね」に「ごんは二人のあとをつけていきました」という文がある。おそら くこの文を読めば、私たちは頭の中に、兵十と加助の少しうしろを行くごんの姿を思い描く。 そのときに私たちはその姿だけを認識する。「つけていく」ことを「ついていく」「おいかけて いく」「後ろをあるく」などと同じことだとオートマティック的に認識して、その姿だけを理 解する。つまり「つけていく」という言葉の意味を無視してしまうのである。「つけていく」 という意味は「行動を探ることを目的として相手の後を追う。尾行する(15)」であり、目的が あるし、尾行であるから気付かれないようにする意思がある。単に「ついていく」とは明らか に違う。だから「つけていく目的」や「気づかれないようにする理由」などを読む必要がある。
にもかかわらず、私たちはそういう言葉の意味を無視してオートマティック的に読み、理解し たつもりになってしまう傾向がある。このオートマティック的な読みを克服することも正確に 理解することの大きな壁になっているのではないかと考える。 5 「国語を正確に理解する」とはどういうことか あらためて「国語を正確に理解する」ということを考える。 「国語を正確に理解する」は抽象的な表現であるが、次期学習指導要領にある「言葉による 見方・考え方」がそれを具体的に考えるヒントを与えてくれている。「言葉による見方・考え方」 を「自分の思いや考えを深めるために、対象と言葉、言葉と言葉の関係、言葉の意味、働き、 使い方等に着目して捉え、その関係性を問い直して意味づけること」とまとめている(16)。 これを図で示すと次のようになるだろう。 対象―(関係?)―言葉 言葉―(関係?)―言葉 〈理解できない状態〉 対象―(関係づけ○)―言葉 言葉―(関係づけ○)―言葉 〈正確に理解した状態〉 言葉の意味 働き 使い方 対象と言葉、言葉と言葉との関係がよくわからないとき、言葉の意味・働き・使い方を知り、 それを適用することで、関係を明確にして意味づけることが「正確に理解する」方法なのだと 言える。 大切なのは、国語、つまり日本語で表現されているけれども、関係がよく分からないもの(理 解できないもの)があって、それを、国語(日本語の言葉の意味・働き・使い方)を適用させ て関係性を意味づけることで正確に理解することなのである。 つまり、言葉の意味・働き・使い方を知らないと正確に理解することはできないのである。 そう考えると、言葉に立ち止まり、言葉の意味・働き・使い方を適用させる言葉レベルの読 みが重要であることが分かる。言葉の意味・働き・使い方という点で興味深い指摘がある。 菅井(2015)は、アブダクションの教育的視点〔1〕から、前述の「ごんぎつね」の理解につい て次のように述べている(17)。 ごんは自分が栗を届けたことを気づいてほしかったのか」という問いを立ててみましょ う。もし兵十に気付いてほしいと思ったのなら、自分が置いていったとわかるように置い ていくだろうと推論できます。ところが、本文の記述では「こっそり置いていった」とあ
りますから、「こっそり置いていった」という結果から、その原因を推論すれば、「気づい てほしくない」という原因を導き出すことができるわけで、それがアブダクションによる 推論の帰結であります。(中略)「こっそり置いていった〔結果〕」→「(栗を届けたのが自 分だということに)気づいてほしくない〔原因〕」という心情の理解は、合理的に成立す るものと思われます。 つまり、菅井の指摘は「こっそり」という言葉から原因を考えれば、「分かってほしいとい う気持ちがあった」という考えは否定される、というのである。この場合、「こっそり」とい う言葉が、正確だと判断する基準・事実となる。 「こっそり」という意味は「秘密にしたいことがあって、人に気付かれないうちに事を運ぶ 様子」という意味である(18)。この言葉の意味を適用させて読むと、確かに気付かれないこと も目的になるのであるから、ごんは兵十に分かってほしいという願いをもっていないという読 みが生まれる。そうすると、うなずいたときのごんに「分かってくれた」という気持ちがある というのは否定できる。この読みのほうがより正確と言えるのに近いのではないかと思える。 このように言葉レベルに立ち止まって読むことで、文と言葉、言葉と言葉の関係性が見えて きて、曖昧な部分が少しでも明確になるのなら、文学の授業でも正確に理解することを求める ことが可能なのではないのだろうか。 さらに菅井は、物語の読解に「想像力」を持ち込まず、[矛盾][無関係][言い過ぎ]とい う反則から、読み取っていいことと読み取ってはいけないことを学ぶ重要性を述べる(19)。 その[矛盾][無関係][言い過ぎ]と言える基準をどう設定するかという課題はあるが、し かし本文の内容を正確に理解するという条件では、自由に想像してもよいという指導は避ける べきなのである。 6 文学の授業で「正確に理解すること」を求めること 次に文学教材の価値の面から文学の読みの指導について考える。大江(1993)は文学につい て次のように述べる(20)。 小説を書きはじめるにあたって、ひとつの語、ひとつの文節、文章を選んで紙に書きつ ける。それ以前にも、意識と無意識のかさなりあったところでの、その語、その文節、文 章にいたる筋みちはあったのであり、それが実際に書きつけられた語、文節、文章の奥行 き、構造をなしているものである。さていったんそこに、ひとつの言葉、ひとつの文節、 ひとつの文章を選んで、紙に書きつけたのであるが、それをまた乗り越えるように否定し て、次の言葉、次の文節、文章へ行く。その鎖のようにつながる、一連の文学的思考の展 開。構想という手がかりを用いることで、それを具体的に確かめようと思う。
文学には一度ぐらいの読みでは簡単には理解できない内容がある。その簡単には理解できな い内容を作ってるものが一つひとつの言葉であり、大江(1988)はそれを「仕掛け」とか「異 化的表現」「文学表現の言葉」という〔2〕。これは文学の本質的な特徴で、「仕掛け」がないと文 学とは言えないぐらい大事な性質である。そこに書き手の意図を考えるきっかけが隠れている と言える。大江は「むしろ小説や詩は、日常・実用の言葉の意味と音を生かしながら、文学表 現の言葉独特の鋭さ・重さを発見し、定着させる作業だともいえるだろう(21)」「ありふれた日 常・実用の言葉が、さまざまな工夫によるしくみを通じて文学表現の言葉となる(22)」と述べ ている。その「さまざまな工夫によるしくみ」は「知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形 式の手法(23)」とも記しているが、やはり簡単に理解できるようには書かれていないのである。 つまり文学を読むということは、「仕掛け」としてあえて作者が使った言葉の意味・働き・ 使い方を意識した言葉レベルの読みが要求される。これは前述のオートマティック的な読みの 否定でもある。 この文学理論を活かせば、言葉の意味・働き・使い方という力を育成すること、そして正確 に理解する力を育成する指導法を構築することが可能ではないだろうか。 7 言葉レベルの読みから始める指導方法の提案 前述の文学理論によると「仕掛け」は言葉であり、知覚に難渋であるということから、やは り特に理解が曖昧なところこそ、文学の「仕掛け」であると言えるのではないのだろうか。 先ほど例にあげた「大造じいさんとガン」「やまなし」の曖昧さを指摘した場面が「仕掛け」 であるとして、言葉の意味・働き・使い方による関係づけによって曖昧さや疑問を少しでも明 確にすることができるのでろうか。 まず「やまなし」については筆者(2016)の授業実践資料を挙げる。拙稿「国語科の授業づ くりについての一つの提案」の中において、教材の分析を次のように示した(24)。 「かにの子どもらも、ぽつぽつぽつと、続けて五、六つぶあわをはきました。」という一 文がある。その中に「かにの子どもらも」という文節があり「も」という言葉に目が行く。 この「も」は同様の事柄を列挙することを表す副詞である。例えば「あなたが帰れば、私 も帰る。」「本を買った。ノートも買った。」というように使われる。この「も」があり、「か にの子どもらも……あわをはきました。」とあるのであれば、かにの子どもらと同じよう にあわをはいたものが存在するはずである。それは誰なのか。ここまでの段落の記述の中 では、あわをはいた主はクラムボン以外に考えられない。そうなると、クラムボンは少な くとも生き物であることが明白になる。この「も」を使って読めば、クラムボンを「あわ」 や「光」と読むことを否定できる。 これは「も」という言葉の意味・使い方により文と言葉とを関係づけ、理解を明確にした一
例である。言葉が正確と判断する基準になっている。 次に「大造じいさんとガン」の「じゅうを下ろしてしまいました」についての授業を考える。 この場面においてはたくさんの実践例が見られるが、言葉の意味・働き・使い方による関係づ けによって読むという実践はほとんどない。そのわずかな実践の中で石井(2011)の授業を挙 げる(25)。石井は授業の展開を次のように整理している。 T:大造じいさんの「変だなあ、おかしいなあ」という言動を言ってもらいましょう。 C:前はあれだけ残雪を撃ちたかった大造じいさんが、一度はねらったのにじゅうを下 ろしたのはおかしい。 C:あれほど撃ちたかったんだから撃てばいい。 T:気になる言葉はある? C:かげ C:横切る C:いきなり C:不意を打たれる (ここで問題をつくる) C:問題ができたんだけど、大造じいさんは、なんでじゅうを下ろしたのかなあ? C:おとりを助けに来てくれたから〈1〉 C:おとりのガンを助ける姿に感動したから〈2〉 C:射程圏内に入ってまで仲間を救う姿に感動したから〈3〉 C:ここで撃ったらひきょうだと思ったから〈4〉 C:今まで入ったことのない射程圏内に入ったことにびっくりしたから〈5〉 C:整理・分類しよう。 (中略) Ⅰ 感動した・ひきょうだと思った〈1〉∼〈4〉 33人 Ⅱ 射程距離に入ったことに驚いた〈5〉 1人 C:「いきなり」はどういう意味かなあ。 C:「不意を打たれる」はどういう意味かなあ? (辞書で文節・単語の意味を調べる) C:「いきなり」は、「観察者や受け手にとって予想外の事柄を、相手が突然起こしたと 映る」という意味だから、大造じいさんにとっても、ハヤブサにとっても、残雪が ハヤブサを攻撃したことは予想外だった。 C:「不意を打たれる」は、突然相手に攻撃をしかけられるだから、ハヤブサは残雪に 攻撃されることを予想していなかった。 C:大造じいさんも、ハヤブサも、残雪がハヤブサにぶつかっていくことは分からなかっ
た。 C:感動したのでも、ひきょうだと思ったのでもない。 C:大造じいさんは、残雪が射程圏内にいることに気づいてびっくりしたから、「どう したのかなあ?」と思ってじゅうを下ろした。 C:何事が起きたか確かめるために下ろした。 C:もう1度人数とってみよう。 Ⅰ 感動した・ひきょうだと思った(1∼4) 0人 Ⅱ 射程距離に入ったことに驚いた(5) 34人 この授業では気になることばを挙げさせ、「いきなり」という言葉に立ち止まり、その意味 と働きと使い方(観察者や受け手にとって予想外の事柄を、相手が突然起こしたと映る(26)) を知り、それを適用させることで、「大造じいさんは、まだこのとき、残雪が仲間のガンを助 けにきたとは気づいていない」「今まで決して猟銃の届くところまで人間を寄せ付けなかった 知恵のある残雪が自分から射程圏内に入って来ることはあり得ないと、大造じいさんは驚いた」 「大造じいさんには今の状況が把握できていない」という理解に移っている。この授業である なら、大造じいさんが銃を下ろす前の一瞬の中に原因があることの整合性が生まれる。そして、 これも言葉の意味を証拠として使い、より正確な理解に近づいたといえるだろう。 この石井の授業例から指導手順を整理すると次のようになる。もちろん、最初は全体の読み をして、内容を知ること、自分のイメージをもつことは行った上で、改めて言葉レベルの読み から始める。 1 言葉レベルの読み(違和感・疑問をもつ) 文レベル(言動)の読み(違和感・疑問をもつ) ↓ 2 自分の理解と違う理解に出会う ↓ 3 理解・意見の対立状態をつくり、論証活動に入る ↓ 4 言葉の意味を証拠として適用し解決する ↓ 5 新しい読み(より正確に近い理解)に到達する ↓ 6 他の文・段落・場面・全体への展開 この指導手順なら、言葉の意味・働き・使い方を適用させることによって文と言葉とを関係
づけ、理解を明確にすることが可能になると考える。また、作品の「仕掛け」に立ち止まり読 み解くという文学本来の読みの方法も活かされていると思う。 8 国語を正確に理解することを目的とした文学の指導方法について考察 言葉レベルの読みから始め、曖昧な理解をより明確な理解に変える実践例を挙げ、そこから 「国語を正確に理解する」ための指導手順を示した。これは「言葉の意味・働き・使い方を適 用させることによって文と言葉とを関係づける」という点で、言葉の意味という基準・事実に 照らし合わせて、これまでに多く見られた授業での理解に比べて、より正確な理解へと近づけ ると考える。その授業を成立させる指導方法のポイントを整理する。 ⑴ 言葉への違和感をもつこと 「ごんぎつね」の例の「こっそり」、「やまなし」の「も」、「大造じいさんとガン」の「いき なり」はどれも立ち止まることが難しい言葉である。それは日常よく見慣れた言葉であり、特 にその意味など意識することがないからである。だからその言葉が読むことに重要な役割を果 たすとは思いも寄らないのである。これが前述のオートマティック的な読みを引き起こす原因 である。 しかし、大江が「ありふれた日常・実用の言葉が、さまざまな工夫によるしくみを通じて文 学表現の言葉となる(27)」と述べるように、そのような日常よく見慣れた言葉にこそ目を向け、 読むときに気を付けなければならないのではないか。 そう意識して改めていくつかの教材をみると、確かに違和感をもつ言葉がたくさんちりばめ られていることが分かる(28)。 「いつまでもそこにじっとしているわけにはいかないよ。」(スイミー) →「していられないよ」でもいいのに「しているわけにはいかないよ」と書く違和感 「『まばたきしちゃだめよ。』と、おかあさんが注意しました。」(ちいちゃんのかげおくり) →「言いました」でもいいのに、わざわざ「注意しました」と書く違和感 「においまでわたしにとどけたかったのでしょう。」(白いぼうし) →「においも」でもいいのに、わざわざ「においまで」と書く違和感 「大造じいさんが手をのばしても、残雪は、もうじたばた……」(大造じいさんとガン) →「手をのばすと」でもいいのに、「手をのばしても」という逆接の接続語を使う違 和感 上記の4つの例だけを見ても、日常よく見慣れた言葉が内容的にとても重要な意味をもって いるのではないか、それぞれが人物の心情や行動の原因に迫る入口ではないかと思う。このよ うに言葉への違和感をもつことが重要なのである。
⑵ 言葉の意味が客観的な証拠として適用され考えること また前述の授業例では「こっそり」「も」「いきなり」の意味をそれぞれ適用させることで、 読みを確かなものにしていることが分かる。正確性を求めるのであればやはり客観的な証拠が 必要であり、その証拠をもとにして誰もが納得する読みに到達させることが重要であろう。そ の証拠として言葉の意味を使うことは非常に意義があるのではないかと思う。 それは何より学習指導要領にある「言葉による見方・考え方」の基盤そのものである。「国 語を正確に理解する」つまり「日本語」を正確に理解するのであるから、日本語の正しい意味 と使い方を知ることが大前提である。また、客観性のある証拠を使った活動であるから、論理 的思考が引き出される授業を成立させる可能性もある。 ⑶ 言葉から文へ、段落へ、場面へ、全体へと関連づけていくこと どうしても言葉レベルの読みから入ると、教材の全体像がぼやけると感じてしまいがちであ り、また時間もかかるという印象をぬぐい切れない。 しかし、一つの言葉を考えることで全体像への読みに明確につながっていくことが分かる。 「ごんぎつね」では「こっそり」の言葉から「ごんには分かってほしいという気持ちはなかっ た」と読め、すると「ではなぜ『引き合わないなあ』と言った明くる日も栗をもって行くのか」 という問い、「何を聞くために兵十と加助の後をついていったのか」という問いに展開する。 また「大造じいさんとガン」の例では、銃を下ろした段階では仲間を救いにきたことを分かっ ていなかったという読みに至れば、場面の最後「強く心を打たれて」の原因は銃を下したとき ではないということが見えてくる。そして「強く心を打たれて」の原因をより絞って考えるこ とができるだろう。これはまさに正確に理解することに近づいていくことになる。 以上のポイントをふまえた指導方法の構築が、今後の国語の授業では必要であると考える。 そして正確に理解する指導は文学教材でも可能であると考えている。 9 まとめと今後の課題 これまで、「国語を正確に理解する」ための文学の指導方法について述べてきて、一つの方 向性を示すことができたと思うが、まだまだ多くの課題が残されている。 まず、今回取り上げた読みが果たして正確に理解した結果だと言えるのか、という点である。 言葉の意味という客観的な証拠を使うならば、その証拠はたくさんあればあるほど、正確性に 近づいていくのは当然である。とするなら、よりたくさんの言葉の証拠を集める必要がある。 しかしながら、今回の証拠となる言葉は一つしか取り上げていない。その文や段落近辺の他の 言葉の意味も使い、さらに関連づけることが必要であろう。 そこでさらに大きな課題にぶち当たる。それは授業を組織する教師の教材を読む力である。 教師も子どもと同様に、日常よく見慣れた言葉には気づかないで読む、いわゆるオートマティッ ク的な読みの傾向は強いはずである。指導する教師が子どもと同じ読みでは指導は成り立たな
い。教師が言葉レベルの読みができるようになるためにどのような学びが必要か。そして言葉 から考える授業を組織していく力をどうつけていくか。これらの課題の克服も検討しなければ ならない。 また言葉の意味を適用させた理解と子どもの成長段階との関連性の課題もある。言葉の意味 を使うという方法が使えるのは果たして何年生から可能なのだろうか。子どもの成長に合わせ た指導方法の構築も必要だと考えている。 これらを含めて、より多くの授業実践例から実証しなければならない。 もう一つ、言葉を学習するということについての大きな課題もある。渋谷(2008)は「国語 教育の本質は、言葉の妥当な使い方の学習であること」という(29)。その上で国語学習の領域 である「言語事項」という括りを廃止することを提案した。言葉の学習がもっと重要視される べきだということであるが、この考えに賛成できる。現在、学習指導要領では言語事項が単元 のつけ足しのような扱いではなく、[話すこと・聞くこと][書くこと][読むこと]それぞれ の領域の内容に位置づけられてはきている。そして[伝統的な言語文化と国語の特質に関する 事項]も設けられた(30)。しかし「言葉による見方・考え方ができるようになる」という点で まだ不十分である。今回の研究で文学の授業で言葉の意味や使い方を用いての学習は可能であ ることが見えてきたし、むしろ言葉の学習がないと文学を読み取ることができないとも思う。 学習指導要領にある領域自体をもっと総括的にとらえ、それらを切り離さない国語の指導を検 討する必要があるのではないかと思う。 註 〔1〕 アブダクションとは、結果から原因を導き出す仮説的な推論であり、日常でも科学でも用いら れる方法である。文学の読みに対する教育的意味として、単に「登場人物の気持ちを想像する こと」とは本質的に異なると菅井は説明している。 〔2〕 「異化」「異化作用」というのはもともと「ロシア・フォルマリズム」の考え方で、日常的に見 慣れたものを非日常的なものとして認識されるようにする芸術の手法をいう。大江らはこの異 化作用によって表現された言葉を「異化的表現」「文学表現の言葉」と呼ぶ。 参考・引用文献 ⑴ 『小学校学習指導要領解説国語編』(平成20年 現行版) ⑵ 『次期学習指導要領等に向けたこれまでの審議のまとめ(案)のポイント』(平成28年教育課 程企画特別部会資料) ⑶ 光村図書 『国語四下 はばたき』(平成27年度版/現行)掲載教材 ⑷ 日本標準、新興出版社、文理から出版された小学校用国語テスト、国語ワークを参考 ⑸ 角川学芸出版(1995)『角川必携国語辞典』「確か」の項より p. 835 ⑹ 光村図書 『国語五 銀河』(平成27年度版/現行)掲載教材 ⑺ 新興出版社、喜楽研から出版された小学校用国語ワークを参考 ⑻ 光村図書 『国語六 創造』(平成27年度版/現行)掲載教材
⑼ 藤井智弘(2010)浜本純逸編『文学の授業づくりハンドブック・授業実践史をふまえて・第3 巻』渓水社 pp. 117‒118 ⑽ 光村図書(2015)『小学校国語 学習指導書 四下 はばたき』光村図書 ⑾ 宮坂義彦(2014)「文学の授業方法」授業研究の会 講演資料 ⑿ 平野敬一郎(2006)『本の読み方 スロー・リーディングの実践』PHP 新書 p. 47 ⒀ 前掲⑾ p. 72 ⒁ 前掲⑾ p. 74 ⒂ 大修館書店(2010)『明鏡国語辞典 第二版』「つける」の項より ⒃ 前掲⑵ ⒄ 菅井三実 (2015)『人はことばをどう学ぶか─国語教師のための言語科学入門』くろしお出版 pp. 109‒110 ⒅ 三省堂『新明解国語辞典 第6版』 「こっそり」の項より p. 524 ⒆ 前掲⒄ p. 115 ⒇ 大江健三郎(1993)『小説の方法』講談社 p. 28 大江健三郎(1988)『新しい文学のために』岩波新書 p. 17 前掲⒃ p. 25 前掲⒃ p. 31 森川拓也(2016)「国語科の授業づくりについての一つの提案」 名張市教育研究会 講演資料 石井俊樹(2011)「楽しく読み深めができる『追求方式の授業』─『大造じいさんとガン』(5 年)を例に─」伊賀市教育研究会 講演資料 角川書店(1989)『基礎日本語辞典』「いきなり」の項より p. 110 前掲 光村図書 小学校用国語教科書(平成27年度版/現行)掲載教材 渋谷孝(2008)『国語教育はなぜ言葉の学習になりきれなかったのか』明治図書 前掲⑴ (受理日 2017年1月11日)