真の哲学と真の宗教について
パスカル的観点から
道 躰
滋穂子
パスカルの哲学的知見
物理学や数学は 「人間を知る」 に相応しい学問ではない. パスカルは《人間研究》[] 1 を 開始する. しかし, 既述のように,2結果は絶望的なものだった. 「人間学」 はパスカルにそれは, 《人間が所有すべき学問はないのではないか》[], 人間は《幸福であるためには》それに ついて《無知であるほうがよいのではないか》との思いを抱かせた. 人間のうちに《単一の主 体》[] には有り得るはずもない《多くの矛盾()》[] と《妖怪的混乱》 [],《不可思議な妖怪》[] を認めたからである. しかし《最も偉大な人間 ( )》[] と呼ばれ,《透視者的 ()》[] 洞察力を有する者な らば,人間の《逆説 ()》[] や人間性の不可思議な《縺れ》[] を解明し得る はずである. パスカルは《哲学者たち》の学説の《探求》[] に向かう. パスカルの 「護教論」 の骨格を示すとされる パンセ の 「第一写本」 に《哲学者たち》と題 された章がある. しかし, それが収録するのは断片的な七断章に過ぎず, そのほとんどが《独断 論者 ()》に関する言及である.3 「哲学者」 への言及は他の箇所にも少なからず存在 するが, プラトン, アリストテレスへの少数の断片的な言及――引用も原典からではなく, モン テーニュや, アウグスティヌス, そして神学注解者たちの書物からの転用――を除けば, 哲学史 的に主要な哲学者への論及は皆無である. パスカルが専ら言及するのは, エピクテトスとモンテー ニュであり, 両 者が形 成する《世界に最も名高い二学派》《他に類をみない理にかなった》4学 派, すなわち《独断論者 ()》と《懐疑論者 ()》の二 派である [. ]. しかし, 周知のように, 両哲学者はいずれも哲学史的には主要な哲学者ではない. 哲学に関するパスカルのこの態度は, 確かに, 狭隘で非学問的との謗りを免れまい. しかしパ スカルが 「哲学」 に求めるのは, 第一に, 人間性の不可解な 「逆説」 や 「縺れ」 の原因の解明で ある. それに直接拘わらない哲学学説は此の際, 無用である. 加うるに, パスカルが 「護教論」 の読者として想定するのは 「自由思想家」 である. 「哲学」 に過大の信頼をもつが, 哲学を専門 キーワード独断論, 懐疑論, 無神論, イスラム教, それ以外の宗教, 真の哲学と真の宗教とする者ではない. むしろ専門的な哲学釈義など煩瑣と感じる輩である. この者たちの関心を引 き留めることが目的ならば, パスカルの選択は当を得ないものではない.
独断論者の人間観
) 「人間」 と 「自然的知恵」 パスカルによれば, ストア哲学者エピクテトスを代表とする 「独断論者たち」 の人間観の特徴 は, 一言で言えば《人間の卓越性 ()》を強調する点にある. たとえば, エピクテト スは人間は《自然的知恵》[] を有し《精神》と《意志》という自由な《能力》を分有さ れたものと見て, 人間はこの《能力》によって《おのれを完全なものにし得る》と見なした. 6 しかしパスカルは論及しないが, 実際には, ストア学派の人間観はその 「形而上学」 と不可分 の関係にある. その形而上学は 「一元論的唯物論的汎神論」 と要約し得る 5 すなわち, 万物の 存在原理は, キリスト教と同様に, 「永遠の存在」 である. しかし, それはキリスト教的な神で はない. 「火」 である. つまり 「物質」 である. その 「火」 は世界を創造するのではない. 世界 (すなわち万物) に 「変様」 するのである. したがって, 世界が法則に則っているなら, その 「火」 は世界の法則をも内蔵する. 否, 「火」 は必然的法則そのものである. それゆえまた, 「火」 は 「理性」 とも 「神」 とも呼ばれる. 一方, 人間は 「神」 の 「最も卓越した」 様態である. 卓越 した神の性質を最大限に分有するからである. したがって, ストア哲学者は, 敢えてキリスト教 的表現を用いるなら, 人間を《最も卓越した被造物》[] と見なす. したがって, 人間の 「思惟」 にも限界を認めず, 《道理 ()》と《正義》についても, その《在りかを確実に知っ ている》[] と見なすだけでなく, 人間は《自然的知恵》[] を高めて行くならすべて の 「真理」 を知り得ると説く. 言い換えれば, 人間は《知らぬものなど何もない》[] ので ある. 当然, ストア 哲 学 者は人間に《おのれの力では不可能なこと》があることを《認めない》[ ].《人が時たまできることは常にできること》[& ] と結論する. 実際, エ ピクテトスは《堅 固なキリスト者がいる》という事 実 か ら《誰 もがかくのごとく堅 固になり 得る》[] と結論する他方《高度の知恵》に達しない者は《愚かで不徳》[] であ る. それゆえ, その者には《自殺》[] をも奨励する. つまり, エピクテトスは人間が《間 違った道 をっている》[] ことや《他の 道があることを示す》がそこに《導 くことはな い》. いわば《おのれを知らぬ人 間に向かって, 汝は 汝 自 身 で 神 のところに行けと叫ぶ》 [ ] に過ぎない. パスカルが《実にお見事 ()》[] な意見だと皮肉る所以で あり, またストア哲学の独断論を《常軌を逸した意見》[] と断じる所以である. 桜美林論集 第36号) 「人間」 と 「道徳」 人間が 「神」 と同じ《自然的知恵》[] を分有するなら, 道徳の遂行は容易である. 《神 に従おうと欲する》だけでよい. 言い換えれば《頭を高く》9 [] して生きるだけで, また 《目を神に向けて上げる》だけで十分である. 《知恵》が人間を《神と等しい位 置に置き》 10 [ ], 人間を《神と等しいものとする》[] するからである. 神に等しいなら, 人間にとっ て《安息はおのれ自身のうちにある》[]. 事実, 或るストア哲 学 者 は 述 懐 す る. 人間は 《汝自身と汝から生まれる善福に満 足すべし( )》11 [] と. 結局, 人間は《自分自身に帰る》だけで《そこにおのれの善福を見い出 し》[]《神に似たものとなり得る》[] のである. それゆえ, エピクテトス曰く. 人間は《神が絶 大な知恵なしには何事も行わない》との《確 信》13を有する. ゆえに《苛酷極まる試練にも安んじて耐えるべく馴致する》ことができ, 最終 的に《すべての徳を修め, 聖なるもの》となり得る,と. つまり《神の伴侶となる》ことさえ可 能である, と14 いわば, ストア哲 学 者たちは《情 念を放棄する》[] ことによって《神々 になろう》[] と試みたのである. 《ストア哲学者たち》の《提唱》が《困難》で《空しく》[]《無益である》[] こと は明らかである.《人間の卓越性を知る》が《その腐敗 () に無知》[] であり, 人間の《自然的脆弱》[] にも《腐敗》にも《完全に無知》[] だからである. この提 唱を受容する者は《高慢》を《避け》得ず《傲慢に堕す》[] 他はあるまい
懐疑論者の人間観
) 「思惟」 対するに,《懐疑論者》は独断論者が看過する人間知性の《脆弱》を見抜き《真理は人間の力 の及ぶ範囲にない》[] と主張する. たとえば《空間》《時間》《運動》《数》[] など, 人間がそれに取り囲まれて生存する 「自然的原理」 に関する観念も 15 あるいは《人間,存 在, 多数, 減少, 全体, 重さ》16という所謂 「生得観念」 も《真である》[] という確証は ない, と. また, それらに関して万人が《同じように理解している》[] と《仮定する》《根 拠はない》し,《いかなる確実性もない》[], と. なぜなら, それらはすべて《定義しよう とすれば, 却って不明瞭になってしまう》[] 観 念であるが「定義不可能」 と《証明不可 能性》[] は同義だからである. したがって, 人間には《どのような独断論も打破し得ぬ証 明への無力》[] がある. 幾何学の 「公理」 なども同様である. それらが人間に《真のものとして授けられたものか, 偽ものとして授けられたものか》は《疑わしい》. なぜなら, 人間を《創造》したのが, 欺くこと のない《善 き 神()》[] なのか, はたまた欺くことを好む《邪悪な鬼神 ( )》なのか, あるいは《偶然》か, これもなにひとつ《確実性はない》だけで なく17そもそも, 何者も《おのれ》が《目覚めているか眠っているか》さえ《確信がもてない》18 からである. パスカルによれば, この《自然本性的な明晰さ》[] への 「懐疑的態度」 は確かに《懐疑 論者たち》の《栄光》[;] である. しかし, 懐疑論者の誤もまた明白である 19 な ぜなら, 「定義不能」 で 「証明不可能」 な 「共通観念」 や 「公理」 の 「真」 なることを示す 「事 実」 もある. 幾何学や物理学は公理や原理的観念を基に成立しているが, それによって何の混乱 も不都合も生じていないという事実である. この事実によって人間は確信を得る「欺かぬ良き 神」 によって創造された《自然》が《みずから》, 人間に《無言のうちにその知識を与え》, それ らの観念や公理を《理解する》人間に《ごく自然に, その意味するところを表している》20と. また, すべてを懐疑し, また《おのれを含むすべてに対して態度を保留する》[] という ことは, いわば 「生きる方途」 を断つことに他ならない. たとえば, 火事で身を焼かれていても 《自分は目覚めているのか》《焼かれているのか》[] などと《疑い》《態度を保留する》 なら「死」 の回避は不可能である. しかし, 生命に拘わることにおいて, 身を守る決断をせぬ 者はいまい. 《いまだかつて実在の完全な懐 疑 論 者なるものが存在したためしはない》[] ことの証しである. さらに, パスカルは懐疑論の矛盾を独自の方法で暴く. 万事を《不確実》[] と主張する なら《万人が懐疑論者である》[] か否かも不確実である. つまり《万人が懐疑論者であ れば, 懐疑論者は誤っている》[] ことになる. しかし「懐 疑 論 者が誤っていない」 とす る事実, すなわち《懐疑論者の栄光のために適切な ()》事実がある. 現実に, 独断論者の ような《懐疑論者でない者が非常に多くいる》という事実がそれである. これ以上に《懐疑論》 の立場の正当性を《強化するものはない》[]. いわば, 懐疑論は《その敵》――すなわち 「独断論者」 ――の実在によって《いっそう強化される》[] のである. しかし, 実際には, この事実は懐疑論を完全に無効とする. 万事を 「不確実」 と見なす懐疑論の理論が, 逆に「正 当」 で 「確実」 となるからである ) 「人間」 と 「道徳」 人間に 「真理把握能力」 がないなら, 理性など無用の長物である. 懐疑論者は《理性》を《放 棄》[] し, 人間を《卑しい虫けら()》[] や《獣》と《同列に置く》[; ]. それはまた《情念》[] の赴くままに物質的快楽に生きることの選択に他ならない. それゆえ, 懐疑論者たちは人々に提唱する. 「人間の本質」 などについて沈思するよりは《外に 桜美林論集 第36号
出て》[] 《幸福を求め》, 《気晴らし》に身を任せることを. 事実《真の懐疑論者》を標 榜したモンテーニュは自分では《何ひとつ断定することを望まず》21 《判断中止()》 [] 22 すなわち 「思考放棄」 を旨とした. そして《真と善福の探求》については他人に任せ, 自分は《物 事 を押さえ過ぎて深入りしないように, その上を軽く流れ》,《苦しみと死を避け》 《習慣に押し流され》《すべてのことにおいて便宜と平安》を《行動の規準》とし《無邪気で, 心安く, 楽しく, 言わば, ふざけ》まくり《静かな閑暇に柔らかく横になり, 自分を楽しませ てくれるものに従う》という生を送った. 《無知と無頓着》と《怠惰》が彼の《心地よい枕》と なったのである23 確かに, 懐疑論者は人間の《低劣》[] と《虚弱 ()》[;] を《認識 している》[]. しかし《人間本性》の《腐敗》[] を《修理不可能》[] な ほど強調する. すなわち, 人間の《尊 厳に無知》[] であり, 人間が《より高く飛翔し得 る》[] こと《天使》[] に匹敵する者になり得ることを《知らない》[]. つまり, 懐疑論の《原理》は《真である》[]. しかしその《結論》は《偽である》. 人間 性の 「背反性」 に無知だからである. 懐疑論が, 独断論に劣らず《常 軌を逸した意見》[] であることは明白である. パスカルによれば, 人間の《過誤》[] の真の原因は《偽を追求 すること》にあるのではなく, 《もう一つ別の真理を追求しないこと》にあるからである. それ ゆえ《対立する原理もまた真である》[] という可能性を最初から無視する哲学は, たとえ その《原理》は《真である》[] としても《結論》はすべて《偽である》と断じざるを得 ないのである.
無神論者たち
厳密に言えば「独断論」 と 「懐疑論」 は完全な相反関係にあるわけではない. 懐疑論者とは 本来は, 何事に関しても断定しない者の謂である. 問題を 「神の存在」 に限定すれば, 独断論者 はそれを肯定するが, 真の懐疑論者は, 肯定も否定もし得ないはずである. したがって, この問 題に関して, 独断論者すなわち《ストア哲学者》と相反するのは《懐疑論者》ではない《無神 論者 ()》[] である. しかるに, 哲学者たる者が《主張すべき》は《完全に明白な () 事柄》[] のみで ある. しかし《無神論者》もしばしば《完全には明白ではない》主張をする. たとえば《魂》が 《物質的》なものであるか否かは《完全に明白なことではない》[]. しかし, 無神論者は 《魂は物質的である》と 「独断」 し, それに基づいて《霊魂の不死》[;] を否 定する. つまり, 無神論者もまた一種の独断論者である. 死後の《復活》あるいは《処女懐胎》 [;] についても同様である. 無神論者はそれらが《習慣》に反するという理由から 《あり得ぬこと》と独断する. しかし「習慣」 と 「真理」 は同一ではない []. したがって, これを駁するに《万事が不確実であるかどうか確実ではない》[] という《懐疑論》 の主張に優るものはあるまい.
プラトン哲学について
前述のように, パスカルはプラトンの哲学, とりわけその 「形而上学」 に論及することは皆無 である. しかし パンセ ではプラトンの名は五度挙げられ 24 プラトンが《おのれの個人的な 事柄を不正なく行なうこと》25[] を説いたことなどに対する冷淡な批評を別にすれば, ある 程度の敬意が払われている. また敬愛するアウグスティヌスにならって, プラトンが人々を《キ リスト教への気 分にさせるために》[] 役立つことを認める. たぶんプラトンが,《魂》の 「不死」 を説いた [] からであろう. パスカルにとって《魂が可死であるか不死であ るかを知ることは, 全生涯の問題》[] だからである. そして《魂が可死であるか不死であ るか》は《道徳に完全な違いを生じさせる》[] からである. したがって《魂の不死を 論じなかった哲学者たち》は《虚偽》[] であるが, ほとんどの哲学者たちは《このことと は無関係に彼らの道徳を導きだした》[] のである. 一方, アウグスティヌスの解釈に よれば, プラトンの道徳学の根源にあるのは「不動のものの必要性の意識」 と 「不死性の根源 的要件の意識」, 言い換えれば 「最高善福としての神の確立の意識」 であった 27 つまり, プラトン は 「おのれの道徳」 を 「魂の不死と神への欲求にしたがって導き出す」 ことに努めたのである28 したがって, プラトンは確かに《知恵者》[]《衒学者》[] である. しかしパスカ ルは, プラトンに,《おのれの腐敗を認識せぬ》[]《哲学者》の傲慢と「無能者」 の一面を 見ている [;]. 理由は明記されていない. しかしたぶんパスカルはそこに非キ リスト教的世界観を感じている. 確かに, プラトンは《魂》の 「不死」 を説いた. しかし, 彼を 育成した古代ギリシャの多神教的神話によれば「不死なるもの」 とはすべて 「神」 である. そ れゆえ, プラトンは人間の 「魂」 をも 「神」 と見なした29 しかし既述のように「魂」 は地上界 では 「身体」 と結合するために, 身体的情欲で汚され「神的諸真理を理解する」 ことができな い. 「おのれの魂を浄化する」 ことが必須となる.30 しかし, プラトンは 「魂の浄化」 を実 践し 得るのは《少 数の選ばれた学識者》[], すなわち《哲学者》[] だけとみなした.《大 衆()》[] は《財産》や《気晴らし》にのみ《幸福 ()》を 認めるが《哲学者》はそれらの《空しさ》[] を知り《神だけが愛され敬愛されるに値す る》[] と確信しているからである. この観点からすれば, 確かに, プラトンは民衆より優 れている. 反 面, プラトンは民 衆に《神に貞操と生涯を捧げること》や《快楽を捨てること》 [] の説得に努めない. むしろおのれ自身が民衆から《愛され敬愛されることを願った》よ うに見える.この観点からすれば, プラトンもまた《おのれの腐敗を認識せぬ》《哲学者》[] の一人であり, 高慢と空虚に堕した無能者である――確かに, パスカルはこの種の《哲学者》の 桜美林論集 第36号名を明記していない. しかし, ポール・ロヤイヤル版 パンセ は, ここに 「エピクテトス」 と 「プラトン主義者たち」 の名を記している32
その他の哲学者
パスカルによれば, 哲 学者に関して別の分類も可能である. 《真の善福 ()》[ ] を那辺に求めるかという観 点からである. そのとき哲学者は大凡三派に分類される. それ を《権威》[] に求める者《好奇心と学問》のうちに求める者《快感 ()》に求め る者である. それは《高 慢()》《目の邪 欲 ()》《肉の 邪 欲 ()》[] という《三 つの 邪 欲》[] の 発 現でもある.《権 威》とは《高慢》(すなわち 「支配欲」) の発現であり《好奇心と学問》は《目の邪欲》(すなわ ち 「知識欲」) の発現《快感》は《肉の邪欲》(すなわち 「快楽欲」) のそれだからである. した がって《三つの邪欲が三学派を形成》し《哲学者たちは三つの邪欲に従う以外のことはしなかっ た》[]と断じることも可能である. これもまた, アウグスティヌス 的 発 想 である. アウグスティヌス によ れば《支 配 欲 ( )》にもとづく学派は 「ストア派」 であり《知識欲 ()》にもとづく学 派は 「プラトン主義者」 と 「アリストテレス主義者」, そして《肉欲 ()》にも とづく学派は 「ピュロン派 (古代の懐疑主義)」 と 「エピクロス派」 である.33しかし, モンテー ニュの読者であるパスカルは, 哲学者たちの《至高の善福 ()》[] に関する 主張に一層の混乱を見る. すなわち,それを《快感 ()》に見る者《徳》に見る者,また 《真 理》に見る者《完全な無知》に見る者, また《自然に従うこと》に見る者《無関心 ( )》に見る者《34 外見への抵抗 ()》に見る者《何事にも感嘆せぬ こと》に見る者あるいは《勇 敢な懐疑論者 ()》アルケシラオスのように 35 《平静アタラクシア, 懐疑, 絶えざる判断中止》にそれを見る者, あるいは《他のもっと賢い人々》のように, 人間には《至高の善福》など《見いだし得ぬ》と説く者などである. つまりパスカルによれば, モンテーニュの分類だけでも,少なくとも《二百八十の最高善福》[;] が ある. これこそ 「至 高の善 福」 の《大 判 振る舞い》[]であり, 《哲学の狂気 ()》[ ] と言わざるを得まい. パスカルがモンテーニュの伝える故事に因んで《哲学を軽蔑するこ と, それこそまさに哲学することである》 36 [] と主張する所以である哲学の限界
パスカルは結論する. 哲学者たちは人間に関して《真理全体を見ることはなかった》[] と. 《人間には二つの魂がある》[] という誤推理さえ生むほどの《人間のこの非常に明白な二重性 ()》[]《あまりにも明らかな ()》[]《偉大》と《悲惨》 の《驚くべき背反 ()》[] を認識し得ず, 人間を《矛盾の主体》[] とし て把握し得なかったからである. 既述のように, パスカルが《他に類を見ない理にかなった》哲 学者と見なしたエピクテトスとモンテーニュの主張も, いわば完全な 「二 律背反」 である. 一 方は人間の《純粋な偉大の動きを鼓吹》[] し, 他方は《純粋な低劣の動きを鼓吹する》. しかし一方が人間の《偉大さを示すために主張し得たことのすべて》[] は, 他方には《悲 惨を結論する論拠として役立つ》に過ぎない. 言い換えれば, 哲 学者たちは人間性のうちに併 存する《偉大》と《卑小》の《どちらかを排除する》[] ことに終始し《二つの状態に適 合する感情を処方しない》[] のである. しかし既述のように《真理をことごとく見るた めに, 一緒に認識すべきこれら二つの状態》が《別々に認識される》なら, 必然的に《二つの 悪徳》すなわち《高 慢》と《怠 惰》のいずれかに導かれる 37 独 断 論 者は《怠 惰》は《うまく 避け得る》[] が《高慢》を《避け》得ず《傲慢に堕す》. 懐 疑 論 者は《虚栄》は《うま く避け得る》が《怠惰》を《避け》得ず《絶望へ飛び込む》. 哲学者はみな《常に過誤を犯し》 []《完 全 な徳》[] を指示し得ない. したがって, 哲 学 者たちが《彼らを追い求め る人》[] を逆に《悩ませる ()》ことは明白である. パスカルは自由思想家たち のもつ 「哲学」 への期待を幻想として粉砕するのである.
他宗教について
「人間性」 に関する 「哲学者たち」 の誤と無力が明白になった以上, つぎに向かうべきは別 の《最も偉大な人々》[], すなわち 「宗教者」 である. パスカルによれば《真の宗教》[;;;] の条件, あるいは《或る宗教 が真であるとするための》[] 条件もまた, 真の哲学のそれと同様である. 第一に《人間 の自然本性を認識している》[] こと,言い換えれば, 人間性を《偉大と卑小》《偉 大と悲 惨》[;] の 「背反性」 として把握していることである. 第二は, その背反の《双方 の理由》[] を《認識している》ことである. 「真の宗教」 にはそれ以上のことが求められ る. 人間の《高慢と邪欲》[]《邪欲と無力》[] の《治 療法 (`)》[; ;] あるいは《救済を得る方法》[] を教示することである. パンセ の 「第一写本」 には, 十八の断 章から成る 「他 宗 教の 虚 偽」 と題された章がある が,38そのほとんどはイスラム教への言 及である. パスカルはその一節に記す《マホメット》 [] に関しては, 彼が説く《天国》等によって《滑稽 ()》極まりないと《判断し てもらいたい》と. この言説はグロティウス (, ) の キリスト教の真理につい て に依拠するとされるが, それによればマホメットの説く 「天国」 とは現世では満たされぬ欲 望を満たしてくれる場に過ぎないからである. グロティウスの当該箇所を引く. 桜美林論集 第36号《もし (…) マホメット教徒たちの書物の諸話 () の, 誤点, 滑稽な点, 信仰に反 する点すべてをここに報告しようとすれば, 彼らを侮辱し混乱で満たす豊富な材料に事欠かな いだろう. (…) 彼らは言う. (…) 来るべき生においては, 食物は [豊富過ぎ] それを消費す るには大汗をかく必要があろう (). また各男性は, 情欲を満足 させるべく, 一団の女性をあてがわれるだろう, と》 モンテーニュの エセー にも同様の記述がある. それによれば《マホメット》が信者たち に約束する《天国》とは《[豪華な] 絨毯が敷きつめられ, 金や宝石で飾られ, 絶世の美女たち が住み, 美酒と珍味に満ちている》. しかし「天国」 のこの描写は 「享楽主義者」 モンテーニュ にとってさえ虚飾でしかない. 曰く《(これは) われわれ死すべき人間を籠絡し引き付けるため に, われわれの食欲に合致した意見と希望とによって,われわれの獣的愚昧 () に合致す べく撓められた愚弄物のように思える》 40 と. これにもとづいてパスカルは言う《マホメット教 徒たち》[] は《地上の快楽》を《永遠》においても唯一の《善福》と説くことによって, 人間を《邪欲》の虜にし, 人間と《獣と同一視した》のだ, と. しかし既述のように, パスカルは 「懐疑論者」 をも 「思考放棄」 によって享楽に身を任せた 「獣」 と見なしている. ならば, たぶんモンテーニュはおのれが批判するイスラム教徒と同族で ある. さらに, 両者の間には別の《滑稽な》[] 共通点がある. モンテーニュのような《異 端者たち》と《マホメットの兵士》――また《盗賊》や《論理学者》――は《神の法と自然法の すべてを放棄》し《正当で神聖な限界や障壁を踏み越えた》[] 者である. つまり, 彼らの 《放縦 ()》には《なんの限界も障壁もないはず》である. ところが, 不可思議なことに, 彼らは《自分たち自身で》独自の《法》を創案し《それに厳格に従っている》のである41 また, 彼らは皆, 道徳的な《固定点()》[] を見失い《無軌道(`) のうちにいる》[] にもかかわらず, おのれは《自然本性に従っている》と信じている. 反 対に《秩序のうちにいる人々》に対して《自然本性から離れている》と批判しているのである. 一方, 前掲の 「他宗教の虚偽」 の章には 「ユダヤ教」 への論及はない. しかし パンセ に は 「ユダヤ教徒」 への言及は少なくはない. パスカルは 「ユダヤ教徒」 を常に二分する. 《真の ユダヤ教徒 ()》[] と《肉的 ()》《肉欲的 ()》ユダヤ教徒で ある. 前者に属するのは, たとえば旧約の預 言者たちである. この者たちはいわば《真のキリス ト教徒》と同じ思想を分かちもつ. しかし 「肉的」 「肉欲的」 ユダヤ教徒たちは, イスラム教徒 と同じ批判に晒される. 《現世的な思惟》[] のうちに《肉的な誤》の生涯を送るからで ある. すなわち, 彼らが《愛する》のは《この世》[] だけであり, 彼らの 「神」 とは《人 間の生活と財産 () に摂理を行使し, 礼拝する者に幸福な年月を与える》[] 者の謂 に過ぎない. したがって, 彼らは 「マホメット教徒」 や 「懐疑論者」 と変わるところはない.
他の宗教も同様である. 歴史順に考察するなら《エジプト人》は《偶像崇拝と魔術に感染し ていた》42[] に過ぎず《ギリシャ人とローマ人》は《偽りの神々 () を横行 させ》, その《詩人たちは異なる神学を案出し》《哲学者たちは幾 百の相違する学派に分 裂し た》[;]. つまり《どの宗教》も《真なることを言わなかった》[] のである. この点で, 他宗教は《哲学者たちの諸学派》と同類である. この者たちに正当な 「道徳」 は望む べくもない. パスカルが他のすべての宗教を《等しく斥ける》[] 所以である. 当該箇所を 引く. 《私は世界の多くの場所に, またあらゆる時代に, 諸々の宗教の作り手 () を見るが, 彼らには私を満足させ得る道徳 () がない (…). したがって, 私はマホメットの 宗教も, 中国のそれも, 古代ローマ人の宗教も, エジプト人のそれも, [私がそれらの時代に 生きていたとしても] 以下の理由だけで, 等しく斥けていたであろう. すなわち, 一方の宗教 がもう一方の宗教以上に多く真理の印 () を有するわけではなく, 私に決 心させる () なにものをも必然的に有さないので, 理性はどれか一方に傾くこと ができないという理由によって》[]
キリスト教の真性
宗教者もまた哲学者も人間に関して《真理全体を見ることはなかった》[] こと, 言い換 えれば《人間のこの非常に明らかな二重性》[] や《驚くべき背反》[] を認識し得 ないことが明らかになった以上, 彼らにその原因の《説明》を求めても無駄である. 人 間性の 《縺れ》[] を解くことも,人間の真の《善福》と《義務》を教示することも [], 人 間をそれらから《背けさせる》《脆弱》とその《原因》を教示することも,逆に,《高慢と邪欲》 を《癒し得る救済》や《その救済を獲得する方法》を教示することも――たとえ彼らが《約束し た》としても――《不可能である》ことは言うまでもない. しかし《最も偉大な人々》[] にさえ 「人間とは何か」 が把握し得ないとなれば《人間 は人間を無限に超えている》[] ということになる. 言い換えれば《真理》は人間の《射程 範囲》[] にはなく, 人間の《獲物 ()》ではないことになる. しかし, パスカルは別 の箇所で記す. 人間は《光り》を有すれば有するほど《人間のうちに偉大と悲惨の両方を見い だす》[] と. この 「光り」 は 「自然的光り」 と称される 「理性」 のことではない. その無 能性は既に明白である. ならば, この 「光り」 は 「超自然的光り」 すなわち 「神の啓示」 を指す と考えねばなるまい. 事実 パンセ の別の箇所は記す. 人間の《真の本性》は《非被造にし て受肉した真理》[] に《聞く》しかない, と. つまり 「イエス・キリスト」 に 「聞くしか ない」 の謂である. 周知のように, イエス・キリストは 「神」 そのものでありながら「肉となっ 桜美林論集 第36号た御言葉」 であり「すべての人を照らす真 まこと の光り」 だからである 44 また, キリスト自身が 「私 の言葉にとどまれば (…) 真理を知り, 真理があなた方を解放する」45と宣しているからである. つまり, 人間に関する真理, すなわち人間の《真の状 態》は《主 しゆ 》である《神》に《聞く》 [] 他はない. 事実 聖書 には《汝らが知らずして求めるものを, [この] 宗教が汝ら に告げ知らせる》 [「使徒言行録」 , ] と記されている. したがって《イエス・キリスト 以前》の人間はおのれの真の状態を《知らなかった》[] のである. パスカルはイエス・キ リスト自身に語らせている. 《人間》の《光り》が《到達し得る》[] のはせいぜい次のこ とを《認識するところまで》[] である, と. すなわち人間は《真理》も《善福 ()》 も《おのれ自身のうちには見いだし得ない》と. もちろんこのような記述は 聖書 にはないが, パスカルはさらにイエスに 「哲学者の限界」 をも語らせる.《哲学者たち》は《治療薬》を約束したが《それをすることはできない》[], と. なぜなら, 哲学者たちは人間の《真の善福の何たるかも知らず》また人間の 「真の状態」 の 《何たるかも知らない》[] からである. パスカルはイエスの口を借りて続ける. 《[哲学者たちが] 目的として神を与えたとしても, それは汝の傲慢 () を発揮させ るに過ぎなかった. 彼らは汝に思わせた, 汝は本性から, 神に似たもの, 合致したものである, と. 一方, この主張の空虚を見た者たちは, 汝の本性は獣のそれと同等であると認識させるこ とによって, 汝を別の断崖に突き落とし, 汝の善福を, 動物の分け前である邪欲に求めるよう 仕向けた. (…) これらの賢者 () は汝の諸々の不正を認識しなかった》[] ならば, 人間が《何たるか》を人間に《悟らせ得る》[] のは, 人間を《形成した》者を おいて他にはない. しかるに, 神を万物の創造者と明言するのはキリスト教だけである. それゆ え, パスカルはまず, イエス自身に《私は汝ら [人間] を形づくった》[] 者であると宣言 させ, つぎに《人間の今日の状態》を《開示》させる. すなわち《盲目と邪欲の悲惨のなかに 沈み込み》, それが《第二の本性》となっているが《最初の本性の幸福への無力な本能》が《い くばくか》は残存しているという状態である. 言い換えれば, 今日の人 間がおかれている《偉 大と悲惨》[] の 「背反性」 の原因は, 「偉大なもの」 として創造された最初の人間の, 自 由意志による《神と人間とのがりの切断》[] にある. それが人間の《本性》に《腐敗》 [] が生じさせたのだ, と. 以下はイエスの口を借りた描写である. 《汝は, 現在, もう私が汝を形成した状態にはいない. 私は人間を聖にして, 無辜, 完全とし て創造し, 光りと知恵で満たした. 人間にわが栄光と驚異を譲渡した. (…) そのとき人間は (…) 暗闇のうちにも, 可死性のうちにも(…) 悲惨のうちにもいなかった. (…) しかし人 間はこれほどまでの栄光を, 思い上がり () に陥らずには保持し得なかった. 人
間はおのれをおのれ自身の中心とし, わが助けから独立することを願った. 人間はわが支配か ら逃れた.(…) その結果, 人間は今日では獣に似た者となった, そして私からかくも隔絶して いるので, その全知識は消されるか混乱させられ, 人間に残るはおのれの創造主についての混 乱した光りだけである》[] この言説が所謂キリスト教の《原 罪 ()》[]と《その遺伝 ( )》説 [] ― 聖書 には明記されていない―を基にしていることは言うまでもな い. 確かに,この説は《理論のなしの()》[]《理の欠如 ()》 [] した《人間の理解から最も離れた秘義 (`)》[] である. しかし, パスカ ルによれば, この説なしには《われわれは自身についての何の認識ももち得ない》[] ので あり《人間とは何かを言うこと》[] が不可能になるのである. 言い換えればこの説こ そ《全人類》を《かくも多様な感情に分割したかくも多くの背反》の《原因》[] を説明す る唯一のものである. その意味では, この教説は合理的である. それを暗示する 「パスカルの告 白」 を引く. 《私は告白する. キリスト教が人間本性は (…) 神のもとから堕ちているという原理を開示す るや否や, そのことは, いたるところに, この真理の痕跡 (`) を見るべく目を開い てくれるということを》[] この観点からすれば, キリスト教はいわば唯一の 「真の哲学」 である. すなわち《偉大と悲 惨》[] の 「背反性」 という人間に関する《真理》を《教える》[] と同時に, その 「背反性」 の 「原因」 をも合理的に教示するからであり, またこれは他の 「哲学」 には望むべく もないことだからである.
「原罪」 の 「哲学」
パンセ には「人間」 に関する別の規定が示されている. 「人間」 とは《幸福であること》 を《願い》[], それを《希求する》[] 者, またその 「理性」 はつねに《某かでも真 理を確保したいと願望する》[] というそれである. つまり, 人間とは《真理と幸福とを願 わずにはいられぬ》[] 存在者の謂である, と. しかし既述のように, つねに 「幸福を希求する人間」 の行く手を《死》と《悲惨》[] が 阻み, 「真理の確保を願う理性」 は《不確実しか見出し得ない》[]. しかるに《願いなが らもできぬ》ということ, また《求めるが成功しない》 [] ということほど《不幸》なこ とはない. つまり, 人間は 「真理と幸福とを願わずにはいられぬ」 存在者でありながら, 実 際に 桜美林論集 第36号は《確実性も幸福も獲得し得ぬ》という 「最大の不幸」 のうちにいるのである. 言い換えれば 「真理と幸福とを願わずにはいられぬ」 という人間の特性が, 皮肉なことに, 人間を 「最大の不 幸」 すなわち 「悲惨」 に陥れるのである. しかしパスカルによれば, この《悲惨》こそが, 逆に, 人間の《偉大》を証明するものとなる []. その証明は, この世界に《人間以外に悲惨なものはいない》[] という事実の確 認から始まる. たとえば《家屋》は《壊れた》としても《悲惨ではない》[]. 家屋はそれ を《感じること () がない》[] からである.《樹木》[] や《動物()》 [] も同様である. これらのものはいかに悲惨な状態にあろうとも《悲惨ではない》[]. 《おのれを悲惨と認識することがない》[] からである. ならば, この 「悲惨の意識」 の原因はなにか. パスカルはデカルトにも見られる比喩を用いて 暗示する. 人間は《口を一つしかもたぬ》[] としても, それを《不幸》と思う者はいまい が《目が片方しかない》としたら《不幸と思わぬ者はいまい》46とまた, 生来の平民はおのれ が《王ならざることを不幸と思う》[] ことはあるまいが《王》に生まれながら王位を《 奪された》[;] 者は, おのれの《王ならざるを不幸と思う》に相違ない, と. したがって「不 幸や悲 惨の感 覚」 は 「本 来 的なもの」 を喪 失した者の, あるいはおのれ本 来 の《真の場所 ()》[] から失墜した者の感情であると結論し得る. したがって, アウグスティヌスの主張するように《獣において自然 () であること》 が《人間において悲惨と呼ばれる》47なら,あるいは人間がおのれの《自然本性()》と《獣 のそれとが似ている》[] ことを 「悲惨」 と感じるなら, それは人間固有の 「本性」 が 「動物」 のそれより《もっと善い本性》[] であったが, それを 「喪失した」 ことの証しでしかない. しかも, なにものであれ《高所から落ちれば落ちるほどその悲惨は増大する》[] のである. ならば, 人間の《これらのすべての悲惨さそのもの》が, 逆に《人間の偉大を証明する》[] ことになる. つまり, 人間が抱く 「不幸と悲惨の感情」 が指し示すのは, 本来は人間は《大 貴 族》や《王》[] のような 「高い地位」 にいたが, そこから 「落ちた」 ということに他なら ない. 言い換えれば, 人間とは《過去の偉大の名残り》[をもつ者の謂である. 同様に, 現在, 人間は《虚偽》[] しか見つけ得ないにしても《真理の影像 ()》 を有し《幸福》に《到達し得ない》にしても《幸福の観念》[] を有する. この事実は人 間が最初から獣のような 「無知の幸福」 の状態にいたのではない [] ということを示 唆する. もしそうであれば, 現在の人間には《真理》や《永福 ()》に関する《観念》 は存在しないはずだからである. したがって, 人間は《最初から腐敗していた》わけではない []. 本来は《真理と至福を 確信をもって享受し得る》という《完全の段階 ()》を享受していたが, そこから《不幸にも堕ちた ()》[;] のである. なぜなら, もし人間が《堕落 しなかった》なら, 人 間は今も《無 辜の状 態》のうちに《真 理と至 福 ()》を安 心して
《享受し得るであろう》. 反対に, もし人 間が最 初から《堕 落》していたら, 現在《至 福の観 念》も《真理の観念》も一切《所有しないであろう》からである. したがって, 人間においてのみ 「最大の逆説」 が成立する. 《悲惨は偉大から結論され, 偉大 は悲惨から結論される》48 あるいは《人間の偉大》とは《おのれを悲惨と認識することにおける 偉 大である》[]《人 間の偉 大はその悲 惨からさえ引き出すことができるほどに 顕 著であ る》[] という逆説である. 世は,パスカルが「人間の悲惨」を強調し過ぎるとして「人間嫌いミ ザ ン ト ロ プ」 の名を与える. しかしここで, パスカルが 「人間の悲惨」 を強調する真の目的が判明する. それ は《おのれを悲惨と認識することは悲惨である》が, しかし《おのれを悲惨と認識することは偉 大である》[] こと, また人間は《おのれが悲惨であると認識しているがゆえに, 実に偉大 である》[] という 「最大の逆説」 を知らせることによって, 言い換えれば, 人間の《背反 性》を示した《後に》, 人間が《おのれの値打ち ()》を正当に《評価する》[] ことを 期待してのことに他ならない. パスカルはこれをイエス・キリスト自身の口から語らせる《[人 間よ] 今や, 偉大と栄光のあらゆる動き () に目を止めるべし. かくも多くの悲惨 の試練も, それを窒息させ得ないのだから》[], と. 同様の思想は既に《考える葦》[] にも暗示されている. 人間は 「宇宙」 から見れば 「脆 弱な葦」 に過ぎぬが, おのれが 「脆弱」 であることを《知っている》という点で, 「宇宙」 より も《崇高》であるという主張に――. これはまたすでに ド・サシ師との対話 でパスカルが 示唆したことでもある. すなわち, 人間性に関するエピクテトスの主張とモンテーニュのそれと は, 完全に 「二律背反」 であり, 互いに《真理を破壊し去ってしまう》 49 しかし《両者を提携さ せるなら》, 言い換えれば「懐疑論」 と 「独断論」 の 「総合」 が 「真理」 を齎し, それによって 「完全な道徳」 が形成し得る, と. したがって, パスカルにとって, 人間における 「悲惨」 と 「偉大」 は 「二律背反」 には終わら ない. キリスト教の 「原罪とその遺伝」 説によって, いわば 「弁証法的に総合」 される. 繰り返 さねばならない. 既述のように「原罪とその遺伝」 説は必ずしも不合理な説ではない. いわば 「独断論」 と 「懐疑論」 の 「二律背反」 を 「総合」 し得る教説である. パスカル曰く. 《人間の 前では原罪は狂気 () である》 [] が《この狂気は人間の全知恵よりも賢い》とそ して, たぶんこの整合性がパスカルをキリスト教信仰に呼び戻したのである. パスカルはそれを こう表現する《宗教というものを認めることから私を最も遠ざけるかに見えたこれらのあらゆ る背反が, 私を最も迅速に真の宗教へ導いた》[] と パスカルが パンセ において人間の《低劣と偉大》という《背反性》を過 剰なまでに《示 す》[] のには別の理由がある. 人間に《真理を見いだす》ことを《欲する》ように《仕向 ける》ためである. 言い換えれば, おのれの本来の 「値打ち」 が 「偉大と栄光」 に満たされたも のであること, そしておのれの 「悲惨」 がそこからの 「失墜」 にあるという 「真理」 を認識しさ えすれば, つねに《幸福であること》[] を《求める》[] 人間は, そこへの帰還を希 桜美林論集 第36号
求せずにはいないからである. 人間の《背反性》の認識は 「真の偉大」 への希求を促す 「契機」 となる.《背反》と題された断章にそれが暗示されている. 《人間はおのれを愛すべし. 彼のうちには, 善福 () が可能な自然本性があるからである. (…) おのれを軽蔑すべし. その能力は空になっているのだから. しかしそのためにこの自然 の能力を軽蔑してはならぬ. 人間はおのれを憎み, かつ愛すべし》[]
「真の宗教」 としてのキリスト教
一方, キリスト教が唯一 「真の宗教」 である理由は明白である. 人間の《義務と無力》《高慢 と邪欲》[] の《治療法》[;;] と《救済を得る方法》[] を教示するか らである. すなわち《すべてのものの唯一の原理 ()》[] である創造主みずから が《修 復 者》[] として《受 肉 し た 真 理()》[] として《到 来》[ ]し《その贖い》[] によって, 人間と神との《がりが修復されること》[], そ の結果, 人間の《至福 ()》[] が回復されことを説くからである. しかし, これら の点を《他宗教》[;;] には満たすことはできない. 《キリスト教以外に これらの点を満たすもの》[] はないのである. したがって「受肉した真理」 であるイエ ス・キリストの 「到来」 というキリスト教の教理も不条理なものではない. 人 間性の不可解な 《縺れ》を解消し, 人間の《背反を一致させる》[] 整合的理論でもある. パスカルはこれ をイエス・キリスト自身にそれを語らせている 《私は, これらの [人間性の] 背反を一致させるために, 我がうちなる神的な諸印しを, 説得 的な証拠をとおして明瞭に見せよう》[ キリスト教ほど合理性をもつものが他にないなら《不条理な () 人間》[] とは, 「非キリスト者」 の謂であり《説明し得ぬ ()》《愚 ( )》[] への信仰者であり, 反対に,《狂気》[] と規定されたキリスト者が 「合理 的人間」 であるという逆転が生じる. しかも, パスカルによれば, キリスト教においては 「非キ リスト者」 という《敵》の存在さえもが《キリスト教の真理を確立するのに役立つ》[]. キリスト教は 「人間本性は腐敗している」 と説くが「非キリスト者」 の《反自然的な () 気持ち》ほど, この教理が《真理》であることの証明に《見事に寄与する》ものは他にないから である人間の悲惨の原因
――プラトンにおける
既述のように, パスカルによれば, 哲学者のなかで人間の 「偉大と悲惨」 の原因を解明したも のはいない. しかし, プラトンはそれに言及しており, パスカルが敬愛するアウグスティヌスは, 後述のように, それを認めている. プラトンによれば, 地上界は 「イデア界」 (真理の集合世界) の写しとして造られた. そのた め, 地上界にはある種の不完全さが生じた. 一方「魂」 は元来 「イデア界」 を見る場所にあり, あらゆる真理を認識していた. しかし 「魂」 は 「悪い馬」 に引きずられて, 地上界に落ち, 肉体 と結合する. これが人間の誕生であるが, その瞬間「魂」 は 「イデア」 を忘却し, それへの 「郷 愁 ノスタルジア 」 だけが残る. したがって, 不完全な地上界にあって, 人間の 「魂」 はおのれ本来の場 である 「イデア界」 に 「郷ノスタルジア愁」 を抱き, 一種の 「悲惨の感情」 を持ちつつ, いわばさまよって いるのである 50 確かに, これは人間の 「悲惨の感情」 への一つの解答ではある. しかし, プラトンの説く 「悲 惨」 からの脱出方法はキリスト教的ではない. 厳しい 「哲学的訓練」 によって 「浄化」 された 「魂」 のみが, 死後「イデア界」 に帰還し, 真理を享有し得ると説くだけで51 「贖い主」 の必要 性など発想だにしないからである. しかし, アウグスティヌスはこの思想にキリスト教の 「原罪」 説を読み取る. 曰く. プラトン は 「神的諸真理を理解するために, おのれの魂を浄化することの必要性」 52 を理解していたのみな らず「プラトン主義哲学者たち」 は 「かつての失墜と現在の生の贖罪的性格を強調することに よって」, ある程度 「キリスト教の真理に近づいた」, と 53 アウグスティヌスがプラトン哲学に加担するのは, それなしにアウグスティヌスの哲学は成立 しなかったからである. 54 しかし, パスカルはプラトン哲学に何の恩恵も被っていない. キリス ト教的真理に接近したと見える 「非キリスト教哲学者たち」 を斥けるパスカルの言説は, たぶん プラトンにも該当する. パスカル曰く《彼らは》人間の 「悲惨」 という《現象 ()》[] は見たが, その真の《原因》を認識しなかったのであり, また, 彼らが《正義は地を払った》 [] などと主張したとしても《原罪を認めた》わけではない, と. さらに曰く. 彼らが《な にびとも死ぬまでは幸福ではない ( )》などと主張したとしても, キリスト者のように《死とともに永遠の本質的至福 ()が始まることを認めた》[] わけでない, と.人間の完全と不完全
――デカルトとパスカル
人間の 「悲惨の意識」 は本来的 「偉大」 の名残であるとする論法は, デカルトの所謂 「神の存 桜美林論集 第36号在証明」 の 「第一証明」 のそれにも通じる. 周知のように, 後者にとって, 「懐疑するおのれ」 は 「不完全な存在」 である. しかし, そう感じるのはおのれのうちに《完全》の観念があり, そ れと 「おのれ」 を比較しているからである. しかし《完全》の観念は 「不完全なおのれ」 には 由来し得ない以上, それは 「おのれ」 とは別の《全完全性をそれ自体のうちに備えている本性》 によって与えられたと考えるしかない. しかるに, その本性は《神》のみに許される. ゆえに 「神は存在する」56 この証明において, デカルトは確かに「不完全なおのれ」 の現存の確認をもとに「完全なる 本性をもつ存在者」 を証明する. しかし, デカルトはパスカルのように 「完全性からの失墜」 を 主張しない. 否, おのれの 「不完全」 の 「原因」 を追求しない. したがってデカルトは人間が最 初から 「不完全」 に創造されたと見なしているとも考えられる. また「不完全なおのれ」 が 「完全」 になり得るか否かを論ずることない. むしろ 「神の存在証明」 ののちに,《われわれが明 晰にまた判明に認識するものは真である》という命題を表明する. これはいわば 「不完全なおの れ」 の 「明晰判明な認識」 への 「絶対的信頼」 を宣言する. まことに根拠薄弱と言わざるを得な い. パスカルが《無益にして, 無用なデカルト》 [;] と駁す所以である. また, デカルトは人間の 「不完全」 の原因を, 「完全」 に近いものとして創造された人間の自 由意志による 「失墜」 と説くこともない. したがって「不完全」 からの 「救済」 を求めるよう 説くこともない. しかし, パスカルにとっては「有用」 とは 「まず第一に, 救霊にとって有用」 を意味する57 これに即応せぬなら《哲学》も《一時間の労にも値しない》[]. 「デカルト 哲学」 はやはり《無益にして, 無用な》[;] 哲学である. 註 1. パスカルの パンセ の断章番号は,, (以下と略記), , (所謂, 版) に従い, 「 」 の記号を前に 付して示す 2. . 拙論 「人間存在と思惟」 桜美林論集, 第35号, 桜美林大学, 2008年 3. . , , . , . 4.(以下, と略記), (以下 と略記), 5. シュテーリッヒ 世界の思想史 上, 白水社, 1967年, 192. 6. . , . 7.. , ;, , , , , (以下, , と略記), , 8. . , , ;, , 9. . , , ;,, , , . 10. . , ;, , , , . 11. パスカルはこの哲学者の名を挙げていないが, この言葉はストア哲学者セネカのものであり, ジャン セニウスがアウグスティヌスの ペラギウスの異端について から自書 アウグスティヌス (1652年
版, Ⅴ,, , ) で引用し, パスカルが再引用したものらしい;. ,, , , , ;` . . , , ;, , , , . 13. . , , 14. . , , . 15. . 拙論 「懐疑主義とパスカル」 「桜美林論集」 31号, 桜美林大学, 2004年 16. (以下と略記), , , , ;. 拙論 「懐疑主義とパスカル」, , . 17. デカルトの 省察 に由来すると見なされる一節. デカルトは記す:《私は常に誤を犯すほど不 完全である(…) それゆえ, 真理の至高の源泉たる神ではなく, 私を欺くために, おのれの全狡猾さを 用いる力強く狡賢い欺く悪霊 ( ) がいると仮定しよう》《しかし, たぶん 神は私がそのように欺かれることを欲しなかったであろう. 神は至高に善 () な りと言われているのだから》( (以下, と略記), : デカルト 著 作 集 2 白水社 (以下 著作集 と略記), 1993;. , , , , , . . . ;, , , , 19. . 拙論 「懐疑主義とパスカル」, 20. , ;. 拙論 「懐疑主義とパスカル」, , 21. , ;. 拙論 「懐疑主義とパスカル」, 22. , 23. . , , ;. 拙論 「懐疑主義とパスカル」, 24. , , . モンテーニュの《プラトンは (…) 各人に不正なしにおのれの個人的な事柄を行なうことを最も幸福 な仕事とみなしている》(モンテーニュ エセー , ) に由来する一節;. , & , , , 26. この一節はおそらく, アルノーによるアウグスティヌスの 真の宗教について の仏訳の第3章に由 来するものである:. , , , , 27. . , , ;. . , , , , 28. . . , , 29. . , :ジルソン 神と哲学 ヴェリタス書院, 1966, 30. . . , , , , , . 31. この言説もまたアウグスティヌスの 真の宗教について のテーマに依拠する−.., , . 32. . . , . 33. . , , , , , (また同書によれば,パスカルは《知識欲》に基づく哲学者にデカルトを加え ているという)., , (以下, と略記), : 真の宗教について アウグスティヌス著 作集 2 , 教文館 (以下, 著作集 と略記), 1979, p.357 & 358. 桜美林論集 第36号
34. . , , : エセー モンテーニュ 筑摩書房, 1987年, . , , , , 35. . , ;. , , 36. . , : エセー , :《ある古代人は哲学を職としながら哲 学をあまり大したものと判断していないことを咎められると, それこそまさに哲学することだ, と答え た》 37. , , . 38. . , , , 39. ;. , , ;[ ]内は引用者挿入. 40. : エセー , ,;. , , , , . 41. パスカルのこの見解にヒントを与えたのはモンテーニュの エセー の一節だという. しかし, モン テーニュが問題するのは 「極悪人たち」 である. しかも彼は自分自身がおのれの軽蔑する者たちに含ま れるということには思い至らない. モンテーニュの当該場所を引く:《フィリッポス王は, 彼が見いだ し得る最も悪賢く度し難い人々を一まとめにし, その人々すべてを彼らに建てさせた町 (…) に住まわ せた. (…) 彼らは悪徳そのものから, 彼らの間に政治機構を組み立て, 快適で正しい社会を組み立て た》: エセー , ,;. ,, , ). 42. この断章の源泉は《` 》であるとされる−. 43[ ] 内は引用者挿入. 44「ヨハネによる福音書」1∼3, 14 & 9 45「ヨハネによる福音書」, 31-32. 46《われわれは, おのれがもつ以上の腕や舌をもつことを望まない》( : 著作集 3 , 1993年;. ,, , 47《家畜 () においては自然であること》は《人間においては悪徳()である(, , :, : キリストの恩寵 と原罪 第 2 巻, 41章, 46: 著作集 29 , p.291);. ,, , , 48. アウグスティヌスは主張する《実に, 神は彼がそれに与えたすべてのものを自然本性から奪うのでは なく,あるものを奪い,あるものを残す. それは彼が喪失したものを嘆く存在者が存続するためである》 と (, , , , 著作集 15 , ;. , , , ) しかし, アウグスティヌスには 「悲惨の感 情」 が 「偉大」 の査証であるという逆説的表現はない 49. , . 50. 三小田/道躰 真理への旅−新・基礎の哲学 北樹出版, 1997年, pp.37-42;プラトン パルメニ デス ティマイオス パイドロス . 51. . 52. . . , , , , , , . 53. . . , ;アウグスティヌス ユリアヌス駁論 第 4 巻15章77: 著 作 集 30 ,
2002年, p.262. 54. . , :ジルソン, , . モンテーニュ エセー に記されたオヴィディウス (紀元1世紀頃のラテン詩人) の言葉をパスカル が要約したもの−, , , . . , :デカルト 方法序説 著 作集 1 , 1993年, 40-41 57. . . 桜美林論集 第36号