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コンヴィヴィアルな場としてのライブハウス―市場原理と贈与交換のブリコラージュによる価値創造―

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Academic year: 2021

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コンヴィヴィアルな場としてのライブハウス

―市場原理と贈与交換のブリコラージュによる価値創造―

A Convivial Small Music Venue:

Value Creation by Bricolage of the Market Principle and Gift

生井達也

 NAMAI Tatsuya(1)

It is difficult to categorize indie musicians’ activities as either a job or a hobby. Nowadays, indie musicians are rational and economically independent due to technological improvements in musical equipment and the Internet, which have individualized and de-localized musical activity. Indie musicians based in the “Livehouse” (a Japanese small music venue) sometimes judged as irrational actors, and Livehouse has been criticized as a closed space where performers are exploited by a ticket quota. However, such criticism is based on values of the market economy. My aim is to overcome the limitation of these biased criticism by analyzing the face-to-face interactions among people gathered in a Livehouse called “Heaven”. For that, the present paper demonstrates that even though this venue relies on market exchange to profit from customers, the core customers, known as “regulars”, use “Heaven” as a “ hang-out”. These regulars interact and mutually aid each other without using money and demonstrate their respect to-wards the music through money. Here we can find the bricolage of market exchange and gift exchange that trans-forms “Heaven” to a convivial place.

キーワード:市場交換、贈与交換、ライブハウス、ブリコラージュ、コンヴィヴィアリティ

Market exchange, Gift exchange, Livehouse, Bricolage, Conviviality

1.

はじめに

現代の社会では、民族、ジェンダー、家族、労働、世 代、そして個人と個人などさまざまな局面における分断が 進行していると言われている。それは換言すれば、人が生 きる総体としての生活の在り方の分断を意味する。特に、 ハンナ・アレントが指摘したように、近代資本主義社会に おいて我々の生活は基本的に労働と余暇、仕事と趣味など に分断された〔アレント1994: 189‒190〕。我々が為すこと は、アプリオリにそのような分断をもとに価値付けられ、 どちらかに振り分けられる。イヴァン・イリイチが指摘し たように余暇や趣味は、労働という中心に対して周辺化さ れ生産を支える消費や〈シャドウ・ワーク〉という形をと る〔イリイチ2006〕。そしてどちらにも振り分けられない ような残滓は「価値なし」として不可視化される。 このような労働と非労働の二元論的な分断と排除のディ スコースは、筆者がフィールドワークをしているイン ディー・ミュージシャンと呼ばれる者達の現在的な状況に おいても当てはまる。筆者は、自身も音楽実践者というこ ともあり、彼らの内在的視点に寄り添いながらフィールド ワークを行ってきた。そこで出会った者の多くは、ライブ をしてもギャラなどもらえず交通費と酒代が出て行くばか りで、CDを出しても当然のごとく赤字になるような非職 業的で無名のミュージシャン達である。筆者の話をすれ ば、もう15年近くもそんなことを続けている。そんなこ とをしているミュージシャン達によくかけられる言葉があ る。「メジャーデビューを目指してるの?」「音楽で食べて

論文

(1) 関西学院大学大学院社会学研究科 大学院研究員

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いきたいの?」「下積み大変だね」「売れないのにまだ音楽 やってるんだね」。そうした言葉に「いやあ、そうじゃな いんだけどねえ」、「まあ、売れること目指してないから ね」と答えるだろう。すると矢継ぎ早に「じゃあ趣味で やってるんだね」と言われてしまう。それに対して強く否 定するか、苦笑しながら「そうだね」と答えるかは人に よって異なるだろうが、ここで問題にしたいのは、そうし た音楽活動の捉え方である。 つまり、そこでは、非職業的に音楽活動を行うことが、 生計を立てることを目指す「夢追い」のためか、もしくは 単なる「趣味」かに振り分けられるものとされる。どちら のためでもない音楽活動は想定されておらず、人々の認識 から排除されている。それに対し筆者は過去の論文で、そ のような「夢追い」でもなく、しかし「趣味」とも言い切 らずに音楽活動を続ける者が少なからず存在していること をフィールドワークから明らかにし、上記のような労働中 心的な二元論がそれらのインディー・ミュージシャンの現 実を不可視化していることを指摘した〔生井 2013〕。し かも、1980年代以降の機材の発達に加えて起きた2000年 代のインターネットの普及によって、個々人が容易に音楽 を作成・発表できるようになった現在では、そのような音 楽活動に対する二元論的理解は一層強化されていると言え るだろう1)。「誰でもスターになれる、それで飯が食える 可能性がある時代に、なぜお前はそれをしないのか」と。 しかし、そのようなインディー・ミュージシャンたちはこ う答えるだろう。「スターになることや売れること、音楽 で飯を食うことだけがすべてではない」と。それに対し て、「じゃあ自己満足的な趣味なんだね。そうじゃないと すればなんで音楽活動なんかしてるの?」、このような問 いが繰り返され、彼らの答えは行き場をなくしていく。 そして、その行き場のなさは、そのような多くのイン ディー・ミュージシャンたちが音楽活動の中心拠点として いるライブハウスという場所の現在の状況をめぐる批判に よって、さらに増幅されているように見える。次章で詳し く述べるように、その批判では、ライブハウスという場所 は、チケット・ノルマ制度による出演者の搾取や内輪の閉 鎖的な空間と見なされており、金も時間も手間もかかるラ イブハウスでの音楽活動を中心にすることは、もはや非合 理的なこととして否定的に語られる。 それでは、これまでの言説では最も非合理的とされるよ うな、「夢追い」でも「趣味」でもなくライブハウスを主 な音楽活動の場としている人々が現在でも存在していると いう事実は、どのように考えればいいのだろうか。それを 単なる個人的で特殊なイデオロギーの問題として片付ける ことは、二元論による排除の思考でしかない。むしろ、そ こには「売れること」を目指すためか「趣味」のためかと いう現代に支配的なディスコースからは捉えることのでき ない価値が創造されていると考えることはできないだろう か。そのような価値を理解するための鍵として、市場交換 と非市場交換という概念を改めて取り上げてみよう。 たとえば人類学では、マルセル・モースの『贈与論』 〔モース 2014〕以来、資本主義的な市場交換とは別の贈 与交換があることを示してきたし、カール・ポラニー 〔2009〕の「実体的」経済人類学者によって市場原理に還 元されない土着の経済原理(「道徳経済」)の存在が指摘さ れてきた。それらは資本主義ディスコースの相対化を試み たものであり、それとは異なる価値があることを提示した ことが重要であった。しかし、それを単なる市場交換と非 市場交換の二項対立として理解をとどめることに対しては 多くの批判がある。たとえば、中川理が指摘しているよう に、市場と対立するものとして贈与という概念を措定し、 市場を同質的に見なすことにより、「市場と呼ばれるもの のなかにも異なる形態とさまざまな価値が含まれている」 〔中川2016: 287〕ことを見過ごすことになる。つまり、市 場交換が支配的な現代社会空間の中において、それとは異 なる価値の創造を見出すことが現実的に重要なのだという ことである。 本稿ではそのような創発的な価値の根拠を示すものとし て、イヴァン・イリイチの提唱したコンヴィヴィアリティ という概念を重視する。イリイチは、近代における産業主 義的生産性が支配する社会を「われわれが自力で生きる基 盤が掘りくずされ、生活に満足が感じられなくなり、経験 が平板化し、ほとんどすべての人の欲求が欲求不満におち いっている」〔イリイチ 1991: 64〕と指摘する。そのうえ で彼は、そのような産業社会が破壊した人間生活の基盤の 回復ためにコンヴィヴィアリティということばを「人間的 な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またその ようなものとして固有の倫理的価値をなすもの」〔イリイ チ2015: 40〕として概念化した2)。すなわち、コンヴィ ヴィアリティとは、「上から」の他律的な価値が支配的な 社会において、他者と共に生きながら個の実存を保証する 自律的な価値の創造を見出すための概念なのである。 加えて、コンヴィヴィアリティは「人間的な相互依存の うちに実現された個的自由」という点から「共愉」とも訳 されるように、他者と共にあることの〈楽しさ〉を含意す る。したがって、「他者と共に生きながら個の実存を保証

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する自律的な価値の創造」というコンヴィヴィアリティの 真意が実現されるためには、単に同じ場を経験・共有する だけでは不十分であり、「顔の見える関係」のなかでの対 話と働きかけの継続的な積み重ねを通じて生まれる包括的 な人間理解が不可欠となるのである3) 以上から、本稿では、コンヴィヴィアリティという概念 を、「他者との直接対面的な場での共生を通じて生成され る包括的な人間理解のなかで、個の実存を保証する価値が 創造される状態」と定位して使用する。それを通じて、非 合 理 と さ れ る 小 規 模 な ラ イ ブ ハ ウ ス で 活 動 す る イ ン ディー・ミュージシャン達による価値創造の実践を明らか にすることが、本稿の目的である。具体的には小規模なラ イブハウスに集まる人々のやりとりに着目し、彼らが支配 的なディスコースに相接しながらも、どのようにコンヴィ ヴィアルな場を作り出しているのかを探究していくことと なる。

2.

商業施設としてのライブハウス

日本の小規模なライブハウスを論じたものでは、宮入恭 平による『ライブハウス文化論』が代表的なものとしてあ げられる〔宮入2008〕。宮入は、1960年代後半に誕生し たロック喫茶を経て、1970年代前半に「ライブハウス」 が作られていったという過程を概観しながら、初期のライ ブハウスは商業空間というよりも、カウンター・カル チャーや新たな文化の発信地として機能していたとする。 しかし1980年代に入ると、バンドブームという時代の流 れを受けた大手資本のライブハウス事業への参入によっ て、都内を中心に次々と新しい大小さまざまなライブハウ スが誕生していった。そのような状況のなかで、経営に窮 した小規模なライブハウスがその経営の安定のために商業 化・システム化していったという。宮入は、「定期的なラ イブ・スケジュールが組まれ、カヴァー・チャージ(入場 料)があり、飲食を提供している」ライブハウスがシステ ム化したライブハウスだと定義づけている〔宮入2008: 21〕。そして、商業化やシステム化したライブハウスが導 入し、その後のライブハウスとそこでの音楽実践の在り方 にもっとも大きな影響を与えたものとして、宮入は「チ ケット・ノルマ制」を挙げる。チケット・ノルマ制とは、 ライブハウスが人数分のチケットを出演者に買い取らせる 制度のことを指す。ノルマの数はライブハウスによって異 なるが、多いところでは2000円のチケットを30枚分買 い取らせるなど、出演者に大きな金銭的負担を負わせるこ とも少なくはない。チケット・ノルマの導入は、ライブハ ウスにとって、出演者が客を呼んでも呼ばなくても経営を 安定させる手段だった。そして宮入は、そのようにシステ ム化されたライブハウスに出演する者たちが、ノルマ制に よってライブハウスに搾取されていること、またそうした ノルマを払うために出演者の身内や知り合いを客として呼 ぶことでライブハウスが閉鎖的な空間になってしまってい ることを指摘した〔宮入2008: 209‒210〕。そして、現在で はノルマ制をそのまま「出演するための料金」と受け入れ た人々がレジャー的に利用するという、ライブハウスの 「発表会化」がおこっているとし、「文化としてのライブハ ウス」から「文化産業としてのライブハウス」になってし まったと結論付け、かつてのカウンター・カルチャーの発 信地などの文化的な存在意義を失ったとしている〔宮入 2015〕。 また社会学者の永井純一も、チケット・ノルマ制の弊害 として、ノルマをバンドマン同士で買い合い、ライブハウ スの出演者がそのまま客になるような状況について「こう した身内だけのライブが繰り返されるうちに一般の客足は 遠のき、ライブハウスは閉鎖的な空間となってしまい、文 化的な停滞を招く」〔永井2016: 127〕と指摘をしている。 さらにメディア評論家の津田大介と音楽プロデューサーの 牧村憲一は、現在のライブハウスのノルマ制度は「悪」で あり「おそらくノルマありきのライブハウスは淘汰されて いくでしょう」〔津田・牧村2010: 138〕と強く批判し、従 来のライブハウスのシステムから脱却した新たな音楽実践 の 場 を 構 想 す る べ き だ と 主 張 す る〔津 田・ 牧 村2010: 141〕。 こうした小規模ライブハウスに対する批判的な見解は、 換言すればライブハウスという場やそれに関わる人々が共 に商業主義的なシステムに完全に取り込まれてしまったこ とに対する批判と言えるだろう。そこでは、ライブハウス (の経営者)、出演者、客という諸アクターの関係はノルマ という市場交換的な金銭授受によってつくられる「その場 限りの」関係として描かれる。そして、出演者同士という 「内輪」や家族や友人といった「身内」という人間関係も システム化の副産物としてしか見られていない。そこには 閉塞したライブハウスが描き出され、ネットなどを介して 誰にでも開かれた音楽の場が理想として掲げられている。 たしかに宮入らが批判するようなミュージシャンを搾取 するようなライブハウスや、身内や内輪だけしかいない 「発表会」を行うライブハウスも存在するのは事実であろ う。しかし、システム化されたライブハウスがすべてそう

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であるかというとそうではない。そこには単に〈システム 対非システム〉、〈産業対文化〉、〈閉鎖的対開放的〉といっ た二極的な視点からは語りえない現実が展開している。 筆者は2010年から現在にかけて、日本国内では札幌、 東京、大阪、京都、兵庫、福岡にある計30箇所のライブ ハウスでフィールドワークを行ってきたが、身内や内輪が まったくいない場所は皆無に等しかった。ライブハウスと いう場を作り出す基礎になっているのは、むしろそうした 人間関係なのだ。それにもかかわらず、これまでの研究に おいて、そのような人間関係は、ノルマを介した出演者と 店との市場交換的なものとして理解されたり、「身内」や 「内輪」による閉鎖性という言葉で非合理なものへと矮小 化される。その結果、従来のライブハウスを「悪」と決め つけ、そこから脱却すべきという議論に収斂されてしまう のだ。そのような議論は、「はじめに」で述べたようなラ イブハウスの持つ直接対面的な出会い・対話によるコン ヴィヴィアリティが作られる可能性を不可視化してしまっ ていると言えるだろう。ルース・フィネガンは、イングラ ンドのミルトン・ケインズの「アマチュア音楽家」たちに ついて、彼らが仕事や家庭、友人付き合いなどを含んだ生 活や日常という連続性ないしは全体性のなかで音楽活動を 行っていることに着目し、音楽文化の基層を支える多様な 音 楽 家 た ち の あ り 方 を 明 ら か に し た が〔フ ィ ネ ガ ン 2011〕、ライブハウスという場やそこで行われる実践をよ り深く読み解くためには、そのような「〈顔〉のみえる人 と人との〈あいだ〉の連鎖からなる日常世界としての生活 世界」〔小田2001: 15〕への着目が不可欠であろう。 そこで本稿では、ノルマなどのシステムや身内・内輪と いう人々の存在を否定し、新たな音楽の場を構想するので はなく、ライブハウスを直接対面的な人々の出会いや対話 からなる生活世界として見ることによって、コンヴィヴィ アリティを実現する潜在力を持つ場として考察していきた い。しかし、ライブハウスが直接対面的な場であるとして も、どこでもコンヴィヴィアリティが実現されるのかとい えばそうではない。一口にライブハウスと言ってもその内 容は多種多様である。これまで述べてきたような周辺化さ れた状況のなかで、それぞれのライブハウスは生き残りの ためにさまざまな戦略をとってきた。チケット代やドリン ク代、出演者へのノルマの値上げによって経営を安定させ ようとする店もあれば、飲食メニューを充実させそこから 収益を得ることによってノルマを撤廃するところもあっ た。しかし、そのような戦略においては、店−客、店−出 演者という二者間の関係を軸にすえており、そこに集う 人々の共通の〈楽しさ〉が実現されるとしても狭い範囲に 限られがちであった。実際に、筆者が訪れたライブハウス では、有名な出演者のライブ以外の日は客が2、3人しか いないようなところがほとんどであった。 そのなかで、決してほかのライブハウスとシステムや経 営状態が大きく異なっておらず、さらに決して経営的に儲 かっていないにもかかわらず、客―店や出演者―客という 役割を超え出たような関係が二者間ではなく複数のあいだ に作られており、常に15人ほどの客が入っているライブ ハウスに出会った。しかし、そこでは、店側が経営戦略を して店を維持しているというよりも、店と客と出演者がと もにシステムや金銭的な問題、また身内・内輪という閉鎖 性をどうにかやりくりしながら、自分たちの共有できる 〈楽しさ〉を作り出し維持している実践を見ることができ た。それが、本稿の目的に沿った事例として“HEAVEN” というライブハウスを取り上げる理由である。ここからは “HEAVEN”の概要を示しながら、“HEAVEN”という場 がどのように維持され活性化されているのかを、そこに集 う人々のあいだで行われる複数の実践から見ていく。そし て、そうした実践を、「上から」与えられた価値を変容し、 それとは異なる価値を創造する実践として読み解くこと で、どのような条件の下でライブハウスにおけるコンヴィ ヴィアリティが顕在化するのかを検討する。

3.

調査地―ライブハウス“HEAVEN”

今回取り上げるライブハウス“HEAVEN”は、関西圏 の 地 方 都 市A市 の 繁 華 街 に 立 地 し て い る。A市 に は “HEAVEN”のほかにもライブハウスが30軒ほどあり、 音楽が盛んな街として知られている。“HEAVEN”は飲食 店やアパレルショップ、雑貨屋などが軒を連ねるストリー トの一角に建つビルの地下一階に2005年から店を構えて いる。 本稿のデータは、筆者が2013年から2017年現在にか けて行っているフィールドワークに基づいたものである。 筆者は、出演者として、客としてフィールドに関わり、店 員、客、出演者たちと対話をし、聞き取り調査を行った。 なお本稿に登場する人物名や店名は一部を除いて全て仮名 である。 本稿では、フィールドで交わされる言葉に従い、ライブ ハウス出演者の演奏形態をソロかバンドかにかかわらず 「バンド」と呼び、個々の音楽実践者を男女ともに「バン ドマン」と呼ぶ。またインタビューの中に出てくる「ハコ」

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はライブハウスを指す専門用語である。「一般的なライブ ハウス」と言うときは、主に筆者のこれまでの他ライブハ ウスのフィールドワークから得た知見によるものである。 “HEAVEN”はライブをするステージとそれを見るフロ ア、入場の受付をするカウンター、飲物を提供するための バーカウンター、トイレ、出演者楽屋、店員が作業するた めの事務室から構成されている。客の収容可能人数は100 人となっており、小規模なライブハウスと言えるだろう。 現在では基本的に金土日祝の夜のライブイベントの開催を 主な営業としている。ライブイベントは椅子を置かない 「スタンディング」で行われることがほとんどである。 “HEAVEN”の入り口は商業ビルの一階にあるが、目立 つ看板などはなく、その日のイベントのポスターを貼った 簡易的な木製の看板がビルの入口に置かれているだけであ る。そのため初めてここにくる人は“HEAVEN”がどこ にあるのかわからず通り過ぎてしまうこともしばしばであ る4)。地下にひっそりとたたずみ、室内は薄暗く、タバコ の煙が充満し、大音量の音楽が鳴り響く怪しげな空間に、 ロン毛、金髪、ヒゲ、タトゥーなど「アウトロー」を思わ せるような人々がタムロしているという、人々が抱くライ ブハウスのイメージにぴったり合うところもある。しか し、「地下とか、ライブハウスっぽくしたいくせにライブ ハウスっぽくしたくないみたいな。もう黒一辺倒でみたい な、そういうのはおもんないし。なんかこう地下降りたら 別世界みたいなSF的なんはけっこう好きやって」と店長 の小林が語るように、壁の色に暖色系の色が使われていた りほかのライブハウスとは一線を画す内装になっている。 “HEAVEN”が主催する通常のライブイベントの入場料 金は、チケット代5)1,5002,000円と店内のバーカウ ンターで使えるドリンクチケット一枚の500円のセット である。またチケット代には前売り料金と当日料金があ り、当日料金のほうが300∼500円ほど高くなる。イベン トプロモーターが仲介しているイベントの場合は、交渉の 上で値段が決まる。 現在は、店長でありブッキングもする小林、主にPA (音響)、受付をする須藤、バーテンダーとブッキングをす る後藤と浜口という4人が働いている。バーテンダーと ブッキングの担当者は、当人の都合などによって数年間で 入れ替わる。店長以外は、ほかにアルバイトや仕事をしな がら“HEAVEN”で働いている。そして、店長を含め全 員がバンドマンでもある。 “HEAVEN”の音楽性を一言で表すことは難しいが、「ア ングラ」や「インディー」と呼ばれるようなメインスト リームからは外れている音楽や洋楽に強い影響を受けてい る音楽がよく演奏されている。これは主に出演者を決めて いる店長の音楽の好みが強く反映されている。メインスト リームで人気があるようなJ-POPやB系と呼ばれるヒッ プホップやR&B、クラブでかかっているようなテクノ、 EDM、トランスなどのダンスミュージックはほとんど演 奏されることはない6)。しいて言えば“HEAVEN”では、 ロック、ハードコア、サイケ、パンク、フォーク、ミクス チャーなどのジャンルに属する音楽が演奏され聴取されて いる。また日本語の歌詞よりも英語の歌詞で歌う出演者の 数が多いことも特徴と言えるだろう。“HEAVEN”の音楽 性は、大雑把にまとめれば「マイナー志向」・「洋楽志向」 と言える。 “HEAVEN”に出演するほとんどのバンドマンはレーベ ルなどに所属しておらず自立的に活動をするインディー・ バンドマン達である。音楽活動で生計を立てているのはほ んの一握りの人々であり、ほとんどのバンドマン達はほか の仕事で生計を立てながら音楽活動をしている。 また“HEAVEN”に出演するのは関西圏で活動をする バンドが多いが、そのほかにも国内のツアーバンドはもち ろん、海外からのツアーバンドも積極的に受け入れてい る。A市には数多くのライブハウスが存在しているが、 筆者のフィールドワークで得た知見や実感では、A市にあ るほかのライブハウスでは、どちらかと言えば、「メ ジャー志向」・「邦楽志向」と思われるバンドが多く出演し ていると思われる。そのためか“HEAVEN”に出ている バンドがA市のほかのライブハウスに出ることはあまり ないし、その逆もほとんど見られない。“HEAVEN”に出 ているバンドマンは「A市ではここ(“HEAVEN”)しか (音楽的に)合わない」と語る者も少なくない7)。またA 市にあるほとんどのライブハウスが参加するサーキット・ イベント8)7年前から行われているが、主催者から参加 の誘いがあるにもかかわらず“HEAVEN”はこれまで一 度も参加したことがない。そのことからも“HEAVEN” はA市のライブハウスのなかで特殊な立ち位置にあるこ とが推測できよう。 そのような特徴は出演者だけでなく、もちろん客側に とっても重要である。“HEAVEN”を含めライブハウスと いう場所は、料金を払えば誰でも客として入ることが可能 である。しかし、実際には、どんな出演者が出ているかや どんな雰囲気か、広さはどのくらいかなどは事前に口コ ミ、インターネット、雑誌などでチェックできるため、 “HEAVEN”を訪れる客の間ではある程度音楽の好みなど

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が前提的に共有されていると思われる。 以上述べてきたように、“HEAVEN”はライブハウスの なかでも、「ライブハウスっぽくない」内装にこだわった り、マイナーな音楽が演奏され聴かれる場所であり、その ような音楽を好む人々が多く訪れる場所であると言える。

4.

“HEAVEN”のシステムと出演者

4-1 ブッキング―出演交渉と人脈 先述したように“HEAVEN”では現在は基本的に金土 日祝にライブイベントを開催している。ライブイベントで は店側が何組かの出演者を選び、組み合わせる「ブッキン グ」という方法を採っている。ブッキングでのライブイベ ントでは一回につき4組か5組のバンドが出演する日が 多い。通常、金曜日は後藤や浜口、それ以外はすべて小林 がブッキングを担当することになっている。ブッキング は、担当者が呼びたいバンドや組み合わせなどを考え、そ の相手とのメールや電話での交渉を経て決定される。出演 依頼は必ずしも承諾してもらえるわけではなく、時に出演 者が集まらずイベント開催が危ぶまれたり、また一から組 み直すこともある。特に平日である金曜日には仕事の都合 などで出演を断られることも多く、出演者探しは簡単では ないという。その場合、ブッカーが自らもミュージシャン であるため出演者となることで枠を埋めたりもするとい う。 金曜日に呼ばれるのは、比較的活動歴が短く知名度の低 いバンドや海外から単独的にツアーにやってきたあまり日 本では知名度が高くないバンドなどが多い。土日祝など店 長のブッキングでは、比較的活動歴が長く知名度が高いバ ンドや「大物」のバンドが呼ばれることが多く見られる。 またイベントプロモーターが仲介するような知名度のある 海外からのツアーバンドが出演する日も店長の小林が担当 することが多い。 このようにそれぞれのブッカーによって、出演者の傾向 が異なる。また出演者の知名度の違いや平日か休みの日か ということもあり、集客人数や来る客の種類も異なる。 そのような出演者の傾向の違いには、ブッキングをする ブッカーの人脈の違いが大きく影響していると考えられ る。出演者を集める際には、それぞれのブッカーがこれま でバンドマンとして共演した相手や、ライブを見たことの あるバンドなど音楽活動のなかで知り合った人脈から選ぶ ことが多い9)。主に関西で活動してきた30歳前後の後藤 や浜口と、活動暦も長く知名度の高いバンドのメンバーと してこれまで色々な場所で活動してきた40代の小林で は、その人脈の広さが異なる。またそうした活動歴や年齢 に加え店長という立場もあり、「大物」を呼ぶことも可能 になっていると思われる。 しかし、このようなブッカー同士の人脈は必ずしも交じ り合わないわけではない。たとえば、後藤が金曜日の出演 者を探す際に小林が知っているバンドを推薦したり、土日 祝の日の出演者の一組を後藤や浜口が見つけてくるなどの 協働も見受けられる。さらには、後藤や浜口がブッキング したバンドのライブを小林が見て気に入り、自分のブッキ ングの際に呼ぶようになったり、その逆もある。ブッキン グはブッカー同士がお互いのお勧めのバンドを教え合うと いう機能も果たしており、人脈の混交と拡大を生んでい た。 4-2 チケット・ノルマ 一般的なライブハウスでは、店側のブッキングによって 集められた出演者には「チケット・ノルマ」が課されるこ とが共通認識としてある〔足立2016: 50‒51〕。2章で述べ たような宮入や津田、牧野らの「ライブハウス批判」の大 きな的となっているのが、そのような出演者がライブハウ スに「払う金」としての「チケット・ノルマ」である。宮 入らが指摘するように、ライブハウスは出演者からノルマ を取ることでその経営を安定させているという側面があ り、出演者がライブハウスの「客」であり消費者であると いう見方がなされている。では“HEAVEN”ではどのよ うなチケット・ノルマ制が採用されているのだろうか。店 長の小林は「うちはノルマっていうのがほぼない。まあ地 元のバンドで、まったく客を呼ぶ気がない人には5枚だけ もらうけど、それもほぼもらってない状態やねん。客が入 るともらわへん。全然客が入らなくて経営がやばいときは もらったりする」「(ノルマ取る取らないは)いっつも客で 見に来てくれてるとかやっぱりそっちを優先するけどな」 と語る。また後藤のブッキングでも、「店長のやり方を踏 襲」しつつ後藤が独自に判断し、集客が望めなさそうな出 演者には5枚のチケット・ノルマを課しているという。 このように“HEAVEN”では、ノルマ制は存在するもの の、固定的なものではなく、店の経営の状況、あるいは相 手が誰であるかによって取るか取らないかが決まっていく という柔軟性をもつものとなっていた。これまでの筆者の 経験と参与観察を踏まえれば、このようなノルマの柔軟性 は“HEAVEN”だけに限ったものではない。“HEAVEN” と同規模のライブハウス、“Side Walk”(東京都内)では

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基本的なノルマは10枚であるが、集客の数にかかわらず ブッカーとの関係性によって、ノルマがなかったり減った りすることもあるため、ほかのライブハウスとも共通して いると言えるだろう。 4-3 ギャラ 次に出演者が「受け取る金」としてのギャラについて見 ていこう。ノルマ制を採用しているライブハウスでは、ノ ルマの〇枚目以降の売り上げの何割かを出演者に戻す 「チャージバック」というシステムが多く採られているよ うであるが、ノルマが固定的ではなく、ノルマを取るとし ても5枚という“HEAVEN”ではチャージバックの明確 な決まりはないようである。ギャラを出すか出さないかは 店長の小林がすべて決めている。関西在住の無名のバンド であれば、ギャラは払われることはほとんどない。小林は ギャラの支払いについて、「客がたくさん入った時にはが んばってくれた地元バンドにも払ってやるし、遠方から来 たツアーバンド、大物バンドは客が入らなくても出して る」と述べている。また、客の入りが少なく知名度もない 地元のバンドでも、小林の「お気に入り」の出演者の場合 は払われることもある。このように出演者に払われるギャ ラについても、前節のノルマと同様に、その場その場に よって決まるものとなっている10) このようにノルマを取るか取らないか、ギャラを払うか 払わないかを決めているのは店長の小林である。たしかに 彼はこの店の経営者である以上、そのような金銭について の決定を下すことは当然のことであるように思われる。し かし、これまで見てきたようにそれはその場の状況や関係 性に大きく依存している。では、その場の状況を作り出す 大きな要因とは一体何だろうか。その一つがこれまで何度 も触れられてきた「集客」や「客」である。 4-4 集客方法と客の種類 一般的にライブハウスのイベント・スケジュールは、 一ヶ月単位で組まれる。同じ月に同じバンドが複数回出演 することはほとんどなく、ましてや同じ組み合わせでのイ ベントはほぼない。“HEAVEN”でもこのようなシステム によってスケジュールが組まれている。 “HEAVEN”の客層は、20代後半から40代後半くらい までの男女で、男女の内訳では男性が7割、女性が3割 くらいである。集客人数は、通常のブッキングイベントを 見てみると、金曜日が15∼30人、土日祝が15∼60人く らいの幅の間で変動している。知名度が高いバンドが出演 する日は満員の100人かそれ以上の集客がある日もある。 金曜と土日祝の集客数の違いは、平日か休日かということ も大きいが、誰のブッキングかということもかなり大きい と思われる。つまり、先述したように後藤や浜口のブッキ ングでは知名度が低い出演者が多く、小林のブッキングで は知名度が高い出演者が多いという違いである。また金土 日祝は、ほかのライブハウスでもイベントが行われてお り、そのような外的要因によっても集客人数は影響を受け る。 では“HEAVEN”の客はどのようにして集まってくる のだろうか。その経路の一つとしてイベント出演者による チケットの「取り置き」がある。「取り置き」とは、客が 店側やその日の出演者に事前にライブを見に行くことを伝 える(予約する)ことによって、前売り料金で入場できる ようになるという仕組みである。これはほかの多くのライ ブハウスでも採用されている方法であり、ノルマがある場 合はこの前売りを売った分がノルマの達成値にあたる。出 演者はオープン前までに、店が用意した前売りもしくは予 約客のリストを作り店に提出する。オープン後、店は受付 に来た客に「誰を見に来ましたか?」と聞き、そのリスト と照合の上で前売り料金を請求する、というものである。 ノルマがほとんどない“HEAVEN”でもそうしたリスト の作成は必ず行われる。たとえノルマがなくても、「誰が 何人呼んだか」という情報がそれによって得られ、その後 のブッキングの重要な判断材料の一つとなるためである。 “HEAVEN”を含め、ほかのライブハウスでもライブの 当日に通りすがりの客がフラッと入ってくることは滅多に ないが、あるとすればそのライブハウスや出演者を知った うえで予約をし忘れた、行くことが直前に決まったため予 約できなかった、などの理由で当日料金で入ってくる場合 であり、元々“HEAVEN”や出演者を知っている者が多 い。 月の営業のほとんどを占めるブッキングイベントでは、 来る客は出演者の「ファン」というよりはその出演者の 「知り合い」である場合ことがほとんどである11)。「知り合 い」というカテゴリには、大学・職場・地元という生活圏 での知り合いや音楽活動のなかで知り合った同業者的な知 り合いも含まれるが、ほとんどの場合、同業者の知り合 い、つまりバンドマンが多い。他方プロモーターが仲介に 入り50人以上の集客が望めるようなイベントでは、出演 者だけでなく店側やプロモーターが主に予約を受け付ける が多い。こうしたイベントのときに来る客の大半は、普段 からよく“HEAVEN”に来ている客ではなく、その出演

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者のファンであるという理由で“HEAVEN”を訪れる者 である。そのためトイレの場所がわからなかったり、室内 に充満するタバコの煙に顔をしかめる者も少なくない12) 店側にとってはあまり“HEAVEN”に馴染みのない客が 多く来るイベントが一番の「稼ぎ時」になっている。しか し、そのようなイベントは年に数回しかない。“ HEAV-EN”の日常的な営みを支えているのは、ブッキングイベ ントに来る「知り合い」の客ということになるだろう。 本稿2章において、ノルマ制がライブハウスの客を身内 や内輪に限定し、閉鎖化していくという指摘がなされてい ることを取り上げたが、先述したように“HEAVEN”に おいても、来る客はほとんど身内や同業者といった内輪的 な知り合いである。しかし、その身内や内輪と呼ばれる 人々はなぜ“HEAVEN”にやってくるのだろうか。

5.

「常連」の存在とその協働

5-1 「常連」であるということ 宮入〔2008〕が述べているように、「特定の出演者を見 に行くため」の場所となっているライブハウスであれば、 前節の最後で述べたような内輪や身内の内訳も、「出演者 が誰であるか」によって異なるのが普通である。しかし、 “HEAVEN”では「出演者が誰であるかにかかわらず」、 一週間に1回から3回、一ヶ月に6回以上“HEAVEN” にやってくる客が30人ほど存在する。彼らは店長の小林 から「常連」と呼ばれており、お互いにも「常連」という 認識がある。「常連」がいることは、ほかのライブハウス との差異を示す“HEAVEN”の特徴の一つともなってお り、ほかのライブハウスに“HEAVEN”の「常連」が何 人かいると、「“HEAVEN”組」や「“HEAVEN”勢」な どと呼ばれることもある。「常連」達は“HEAVEN”に行 く目的を「友達に会いに行くっていう感覚」、「飲みに行く」 などと語っており、「常連」にとって“HEAVEN”が特定 の出演者の演奏を見ることだけでなく、店自体に行くこ と、「常連」の誰かに会い、喋りに行くための「たまり場」 となっていることがわかる。 店長の小林と昔からの「常連」らへの聞き取りから筆者 が作成した「常連」リストが表1である13)。表1からわか るように、この「常連」たちのなかでも“HEAVEN”に 来る頻度は人によって異なる。そのため「常連」全員が来 ることはそれほど頻繁にはないが、どんなイベントでも 「常連」の中の少なくとも15∼20人は“HEAVEN”に来 ている。 表1からは「常連」のほとんどがバンドマンであること がわかる。「常連」となっているバンドマンは、3年以上、 月に1回のペースで“HEAVEN”に出演する「常連出演 者」でもあり、頻繁に客として店にくる「常連客」でもあ る。店にとって、彼らは出演者と客の両方の面をもってい ると言えるが、実際には客としてくる回数のほうが多いこ とが重要であると思われる。「常連出演者」となっている バンドマンはほかにも多数いるが、客として見に来ること はあまりない場合、その者が「常連」と呼ばれることはな い。つまり、バンドマンの場合、出演者としてだけではな く、客としてたくさん来ることが「常連」と呼ばれる条件 になっていると考えられる。 そしてそのような出演者であり客でもあるバンドマンの 「常連」の数が複数であるということは、彼らはお互いに 継続的にライブを見合う関係にあると言える。「常連」の うちの誰かが“HEAVEN”に出演する際には、ほかの「常 連」たちの名前を「自分の客」として取り置きリストに書 き連ねるということを相互に行っている。 客として見に来るバンドマンの「常連」が生まれる条件 では、4章で述べたような店長によるノルマの柔軟性にも 見ることができる。事例をあげて説明していこう。現在 「常連」となっているMMは、ブッカーの後藤とほかのラ イブハウスで共演したことがきっかけで“HEAVEN”の ブッキングライブのオファーがあり、最初はノルマありで 出演していた。その演奏を見た店長が音楽的に気に入った こともあり、その後、定期的に出演のオファーが来るよう になり、何度か出演するうちに、“HEAVEN”の店長やそ こで共演したバンドマン達、客、特にいつも居る「常連」 たちと対話を重ねて親しくなっていった14)。次第にMM は出演するだけではなく、仲良くなった「常連」のバンド マンや彼らがお勧めするバンドマンのライブを見るために 客として“HEAVEN”によく来るようになり、仲良くなっ た「常連」も“HEAVEN”でライブをする時には客とし て見に来てくれるようになった。するとそのMMの集客 が安定していくこととなり、ノルマを取られなくなったと いう。 一方で、店長やブッカーがライブを見る前から、何らか の方法でその出演者の音楽を聴き、気に入っていたりする と、初回からノルマがない場合もある。すると「ほかのハ コはノルマあるんであんまり思わないですけど、“ HEAV-EN”はノルマないし見に行ってたくさん飲もうみたいな」 (BB)と語るように、バンドマン側もノルマがない代わり に客として見にこようという動機が生まれ、“HEAVEN”

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に客としても根付くようになっていくという相互作用が生 じている15)。これは、「ノルマがあることが普通」という 一般的なライブハウス・システムの共通認識があることに よって、ノルマがないことが店から出演者への贈与とみな され、それに対する返礼という互酬性が存在していると見 ることもできる。 このように“HEAVEN”の「常連」であるということは、 店と「客」の継続的な関係が作られている状態を指す。そ して、それは単に貨幣とサーヴィスを市場交換する店と客 という形式的な関係だけに収まらないような実践をも生み 出している。たとえば、誰かがドリンクをフロアにこぼし てしまったときに、その近くにいる「常連」がすぐにバー カウンターの中から雑巾をもってきて拭くという光景は、 酔っ払いが多くなるイベント終盤では毎回のように見られ る光景であるし、ライブ中にステージの機材が何らかの衝 撃で傾いたりすれば、ステージ前で見ているバンドマンの 「常連」の誰かがすぐにそれを直しにいくこともよくある。 また以前“HEAVEN”でブッカー兼バーテンダーとして 働いていた経験を持つIIやJJは、店が忙しいときなどに 入場受付のカウンターで客の対応をすることもよくあるこ とだ。このように本来は店側がする仕事を「常連」の一部 が手伝うという実践が随所で見られる。これらの「常連」 は「店の勝手を知っている人たち」であり、より店との関 係が深い「常連」でもある。 店側から「常連」に対してなされることを挙げると、「常 連」は前節で述べたようなチケットの「取り置き」や予約 がなくても、前売り料金で入場することができる。さら に、多くの集客が見込まれ、チケットが売り切れる可能性 があるイベントの際などは、一般の予約とは別に「常連」 たちの分のチケットを取っておき、予約なしの「常連」が 当日に来たときに入場できるようにしていることもあっ た。 また表1を見ると、カップルで「常連」になっている者 の多さも目立つ。「常連」のカップルは、バンドマン同士 であるケースがほとんどだが、女性側がバンドマンではな いカップルもいることがわかるだろう16)。「常連」カップ ルはパートナーが出演しているときはもちろん見に来る し、どちらかが出ていないときも二人で客として見に来て いることが多い。またバンドマンではない恋人や妻が一人 でライブを見に来て、「常連」たちや店長と雑談などをし ながら楽しんでいる姿が見受けられる。カップルとしてと いうよりも、一人の客として店との「常連」関係が作られ ており、場そのものにカップルで根付いていると言えるだ 表 1 “HEAVEN”の「常連」リスト 名前 年齢 性別 属性 来店頻度 来店暦 AA 30 男 バンドマン 週310回、回以上 9年 BB 30 男 バンドマンDDの夫310回、回以上 9年 CC 28 男 バンドマン 週310回、回以上 9年 DD 30 女 BBの妻310回、回以上 9年 EE 33 男 バンドマン 週18回以上2回、 4年 FF 36 男 バンドマン 週28回、回以上 12年 GG 36 男 バンドマン 週28回、回以上 12年 HH 32 女 バンドマンIIの妻28回、回以上 11年 II 33 男 バンドマンHHの夫310回、回以上 11年 JJ 40 男 バンドマン 週16回以上2回、 12年 KK 62 男 バンドマン 週16回以上2回、 12年 LL 29 男 バンドマン 週28回、回以上 4年 MM 38 男 バンドマン 週28回、回以上 3年 NN 38 女 バンドマン店長の妻310回、回以上 12年 OO 33 男 バンドマン 週310回、回以上 5年 PP 36 女 客 週16回以上2回、 10年 QQ 36 女 音 楽 イ ベ ンター16回以上2回、 6年 RR 38 男 バンドマン 週16回以上2回、 11年 SS 34 女 バンドマン 週16回以上2回、 11年 TT 33 男 バンドマン 週16回以上2回、 8年 UU 32 男 バンドマン 週16回以上2回、 5年 VV 38 女 WWバンドマンの恋人16回以上2回、 12年 WW 38 男 バンドマンVVの恋人16回以上2回、 12年 XX 40 男 バンドマンYYの恋人16回以上2回、 7年 YY 36 女 バンドマンXXの恋人16回以上2回、 6年 ZZ 50 女 客 週16回以上2回、 12年

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ろう。 そのような「常連」カップルと店の関係を象徴するのが 「Wedding Party」(以 下WP) と い う イ ベ ン ト で あ る。 “HEAVEN”ではライブイベントだけではなく、不定期的 に、「常連」や“HEAVEN”に深く関係しているカップル が結婚した際に、結婚を祝うイベント(WP)を開店初期 から行ってきている。きっかけは店長の小林が結婚した際 に、「お金がなくて結婚式できなかったから、せめて “HEAVEN”でパーティをしたい」という小林の妻の提案 で始まったとされる。そこから「常連」の誰かが結婚した 際には、“HEAVEN”でWPをするというのが恒例となっ ている。「常連」リスト記載の夫婦(BBとDD、HHと II)もWPを行っている。WPでは、店長の小林が料理を 振舞い、カップルと親しい出演者によるライブやDJと いった音楽の催しのほかにもビンゴゲームやジャンケン大 会なども行われる。先述したように「常連」カップルには バンドマン同士も多いのだが、妻がバンドマンであるかな いかにかかわらずこうしたWPは行われている(たとえ ばBBとDD)。WPは、普段のライブと同様に誰でも入 場できることになっているが、そのカップルの知り合い以 外は基本的には来ないプライヴェートなものとなってい る。WPに来た客はライブの時のように受付カウンターで 参加費として数千円を払う。料理は食べ放題であるが、ド リンク代は通常と同じようにバーカウンターで注文し代金 を払うというシステムである。参加費はカップルへのご祝 儀として送られるが、カップル側もゲームの商品などを用 意するため、ある程度の費用はかかるようだ。 ほかにもバンドマンでも出演者の身内や知り合いでもな いが、“HEAVEN”で演奏される音楽に魅了され長年通う ようになり、ほかの「常連」とも親しい関係を持つように なっている「常連」もいる。そのなかでもZZは、オープ ン当時から“HEAVEN”に通っており、彼女を「ほんと うの常連」や「一番の常連」などと尊敬している「常連」 も少なくない。ZZのようにバンドマンでもなく、その 「身内」でもないという者は割合としては少ないが、決し て周辺的というわけではないようである17) 5-2 「常連」同士の協働 次に「常連」同士の関係について見ていくと、彼らは継 続的に“HEAVEN”で顔を合わせることもあり、店に入っ てくるとお互い挨拶を交わし、酒を片手に話をしている光 景をよく見かける。その話は音楽に関わることが多いが、 それだけではなく、お互いの仕事や家庭、音楽以外の趣味 の話なども含まれる。「常連」同士は“HEAVEN”やほか のライブハウスなど以外で会うことはそれほど多くないよ うだが、そのような“HEAVEN”での直接対面的な会話 の蓄積により、音楽以外の側面もよく知り合っているよう に思われる。しかし、相手によってはお互いの音楽以外の 側面、たとえば年齢、住んでいるところ、仕事などについ てまったく知らないということもある。「常連」同士のつ ながりの濃度も均一ではなく、個人同士の「仲の良さ」は バラバラであるが、“HEAVEN”という特定の場所で「よ く顔を合わせる」ことでの一定の共同性や親密性が生まれ ていると思われる。 たとえば「常連」のバンドマン同士では、楽器やエフェ クターといったライブに必要な道具の貸し借りや譲渡も行 われている。MMは、「ライブ当日に急にセミアコ(セ ミ・アコースティックギターの略)でライブしたくなっ て、LLくんにお願いしてもってきてもらった」と語った り、TTも「エフェクターほしくて誰かくれないかなと 思ってライブ中のMC(喋り)で言ったりとか。そしたら AAがいらないファズ(エフェクター)あるからって一個 くれて」と語る。さらには、ある「常連」バンドのドラ マーが一時的に脱退した際には、ほかの「常連」がドラ マーとして参加しその穴を埋めるなどの演奏の面でのサ ポートをしたり、レコーディングに参加したりといった協 働もなされているようである。また先述したWPにおい ても「常連」同士の協働が見られる。WPの準備は本人た ちが進めるのではなく、カップルが依頼した司会やWP をしてあげようと企画する人が必要となる。さらに会場の 飾りつけなどの準備にも人手が必要である。このような場 合は、「常連」のなかでも特に仲のいい者にお願いするこ とが多い。さらに、そのような手伝いをした者がWPを する際には、手伝ってもらった側が手伝いに回るなどの互 助的な協働も行われている。 「常連」だからといって全員が必ず何かしらのこのよう な助け合いに参加しているわけでもないが、“HEAVEN” という特定の場所で作られた「常連」同士という継続的な 関係は「何かあれば常連のなかで誰か協力してくれる、助 けてくれる人がいる」という互助の下地となる一定の信頼 や安心感を伴う共同性があることは確かであろう。以上の ように“HEAVEN”における「常連」は、店との継続的 な関係と「常連」同士の継続的な付き合いの二つの側面が あり、店と「常連」のあいだや「常連」同士のあいだでは 協働や互助的なやりとりがなされていることがわかった。 しかし、このような関係は、これまで批判されてきたよう

(11)

なノルマシステムがもたらすライブハウス内の「内輪」で 「閉鎖的」な関係と何がどのように違うのであろうか。

6.

「常連」間の金銭の媒介と内閉化の回避

「常連」バンドマンは「常連出演者」であり、「常連客」 であることによりお互いに継続的にライブを見合う関係に あることはすでに述べた。“HEAVEN”ではライブ終了 後に、バンドマン達が次の自分のライブを宣伝し合うとい う光景がよく見られる。その日に出演者だった「常連」に、 客として来ていたバンドマンの「常連」が「来週“ HEAV-EN”でやるから来てよ」とチラシを渡す姿は、「今日あな たのライブを見にきたんだから次はこちらのライブを見に きて」という返礼を持ちかけているようにも見える。ま た、ライブで販売される「物販」と呼ばれるCDなどの音 源作品を出していれば、「常連」同士でそれを買い合うと いう行為も見られる18)。それはその場で等価のものを交換 している物々交換にも見えるし、実際に作品と作品の物々 交換を行うこともある。しかし、多くの場合、その場で買 い合うというよりも、時間をおいて、買い合っている19) ライブを見合うという行為も、同じイベント内でその場で 出演者が見合うのではなく、ある日は出演者となり、ある 日は客であるという時間差を含んでライブを見合ってい る。そのようなライブを見合うことや物販を買い合うこと においては「ちゃんとお金を払ってライブを見ること」と 「ちゃんとお金を払ってCDを買うこと」がよいこととさ れている。先述したように「常連」バンドマンたちは互助 的な協働を行うような関係にあるにもかかわらず、なぜそ のような交換には金銭を介さなければならないのであろう か。同じものを交換するのであれば金銭を介する必要はな いように思われる。 また、出演者の恋人や妻という関係性にあっても、必ず 客として入場料を支払っている。なぜ「身内」と呼ばれる ような関係の間でも金銭を介する必要があるのだろうか。 その答えを導くための手がかりは、「常連」たちの語り にあるだろう。AAは、「(お金を払うのは)相手のライブ とか作品に対してリスペクトがあるんで。いいと思ったら 買うのが普通でしょ」と語り、LLも「親しければ親しい ほどタダでライブを見たり、CDをもらったりはしない。 そこはちゃんと払いたいし、お互いのためにならない」と 語る。また「身内」とされる関係にあるDDも、「嫁だか ら来てるとか思われたくない。ちゃんと音楽が好きでライ ブ見に来てるし、お金を払ってる以上ちゃんとしたものを 見たいと思って来てる」と語っている。 ここには、「ちゃんと」金銭を支払うことに対する価値 の重要性が共通して見られる。ライブを見ることや作品を 買うことが、親しいからという理由ではなく、一人の ミュージシャンとして、一つの作品として認めているとい うことを表すことになっているのだ。金銭を介入させたや りとりをすることで、「常連」は上述のような協働関係と 同時に、お互いの関係に節度や一定の緊張感を持った関係 を創り出しているのではないだろうか。ある「常連」は 「“HEAVEN”はほかのライブハウスより評価が厳しい」 と語っているが、実際に「常連」同士だからといって、ラ イブや作品を褒め合うとは限らず、時に「全然ダメだな」 と批判することもある。“HEAVEN”における「常連」の、 特に「常連」バンドマンのあいだではそのような相互的な 尊敬や承認と一定の距離感や緊張感の存在が伺える。 ここには、金銭と商品、金銭と作品の奇妙な関係が見え てくる。通常、金銭と親和性を持つのは、脱文脈化された 代替可能な「商品」である。そして作者と強く結びついた 代替不可能な「表現」や「作品」は金銭とは相いれないも のであると考えられている〔アビング2007〕。“HEAVEN” に出演するバンドマン達も「売れることや音楽で金を儲け ることに興味がない」、「メジャーは自分の音楽とは違う世 界」と語ることが多い。しかしながら、先述したような交 換には、明らかに金銭がその作品や表現への敬意や評価に 用いられている。その表現や作品が、金銭を支払う価値の あるものと示すことで、親しさや内輪的ではない「正当な 評価」や「本当の尊敬」を表現することになっているとも 言えるだろう。またバンドマン同士でも物々交換をするの ではなく、金銭という媒介物を通すことで、お互いの差異 を認め、その作品ないし表現の代替不可能性=単独性を保 証することにもなっているのである。このように商業主義 として批判されたり忌避されたりする金銭を支払うことの 意味が、対面的な関係を基盤とする生活世界において、敬 意や評価を表すものとして変容され流用されている様子を 「常連」 たちの実践から見出すことができるだろう。 またここでCDなどの作品とチケットは金銭の行き先 が異なることにも注意が必要である。作品の場合、支払わ れた金銭はその売り手の利益になるが、チケットの場合 は、ギャラの説明でもあったように基本的には出演者に渡 らず店の利益となる。つまりそこで支払われた金銭は出演 者に敬意を払いつつ、店に収益をもたらすものになってい る。それもこの交換に金銭を介入させる大きな目的になっ ている。OOは、ライブを見に行くことを「なるべくハコ

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に金を落としたいから」と語る。つまり店に払われるチ ケット代も単純にライブを見るためという目的で市場交換 的に店に払われるのではなく、お互いに金銭を払い合い関 係を強化すると同時に店の売り上げに貢献し経営を継続さ せることで、自分たちの好きな場を維持するという認識が 見られる。前章で述べたノルマの柔軟性やノルマがないこ とで客として見に来るという互酬性も、このような敬意と 場の維持という実践を支えるものである。 このように「常連」バンドマンたちのあいだでのライブ を見合うことや作品を買い合うことという一見すると互酬 的な交換にも見えるような行為は、金銭を介入させること により、相手への尊敬や承認を表すと同時に「内輪」にな りすぎない距離を生み出し、お互いの単独性を保証するこ とで場の内閉化を回避してきた。そして同時に、店に「金 を落とす」ことで店の経営を支えて“HEAVEN”という 自分たちが共に楽しめるコンヴィヴィアルな場を維持して いた。

7.

考察とまとめ

以上“HEAVEN”の概要から、その特徴である「常連」 について述べてきたが、そこには多様な交換の実践が存在 していることがわかった。この交換を整理していくため、 まずは小田亮が示した交換の4つのタイプを参照してみ よう〔小田1998〕。小田は、モースが『贈与論』で述べた 贈与によって生まれる「負い目」に着目し、交換には①負 い目を持続させる「贈与交換」、②負い目を無限にする「再 分配」、③負い目を曖昧化する「分配」④負い目を払しょ くする「市場交換」として4つのタイプがあることを示 し、どの社会においてもこれらの4つのタイプの交換が併 存しており、どの交換のタイプが主要なものとなっている かによってその社会の形が異なっていると指摘した〔小田 1998: 74‒100〕。そして、それぞれの交換によって作られ る関係性も異なるという。すなわち、贈与交換では相互が 受贈者になるという返済可能な負い目によってできる、対 称性をもった継続的な関係、再分配では負い目が一方向に 固定された階層的な関係、分配では、誰が贈与者で受贈者 であるかを不確定にし、特定の誰かに対する負い目をなく した流動的な関係、市場交換では、その都度の支払いに よって負い目を出現させず、誰もが誰に対してもよそ者だ というその場限りの無縁の関係、である。“HEAVEN”は、 毎回ではないにせよ出演者にチケット・ノルマを課した り、多くの集客が望めるライブイベントを行うことで安定 的に金銭を獲得し経営を維持していた。そこで作られる店 と客との関係は一時的なものになりがちであり、市場交換 的関係であるといえよう。もちろん、そこから継続的な関 係になることもあるが、それはその中の限られた者だけで あり、大半はその場だけの関係で終わる。その一方で店と の継続的な関係を構築している「常連」たちは、ノルマが 免除されていることに対してのお返しとして、客として訪 れて“HEAVEN”にチケット代を払うことによって場所 を維持しつつ、店も「常連」にはノルマを課さないという 贈与交換的な関係が作られていた。そして、その「常連」 たちが金銭を必要としない互助的な協働だけでなく、継続 的な関係が築かれていたり、身内と呼ばれるあいだにもか かわらず金銭を介してライブを見ることや作品を買い合う ことによって、内輪になりすぎず、適度な距離を保ち “HEAVEN”の内的空間を活性化していることが明らかに なった。一時的な関係しか生まない市場交換を友人間で行 えば水臭くなりすぎてしまう。しかし一方で、相手との距 離を近づけ継続的な関係を築く贈与交換によって、関係性 が内輪的になりすぎるのも避けたいという気持ちも生じて くる。そこで、市場交換という形をとった贈与交換、すな わち「市場交換に見せかけた」贈与交換とも言えるような やりとりが行われており、負い目は曖昧化されていた。ま たそのように「市場交換に見せかける」ことで負い目を曖 昧化することにより、小田が言う分配のように分離可能な 関係であることも示している。 つまり、“HEAVEN”においては、貨幣と商品(サー ヴィス)という交換が、負い目のない一時的な関係を作る 市場交換の形だけを取るのではないことがわかる。このよ うな貨幣と商品の多様な交換をより深く理解するために、 哲学者の内山節による「冷たい貨幣」と「温かいお金」と いう概念を参考に考えてみよう〔内山2009〕。内山による と「冷たい貨幣」とは「貨幣上の価値以外の何も付与され ていないお金」〔内山2009: 156〕であり、交換価値以上の ものはもたず、「温かいお金」とは「人と人との関係のな かで使用されるお金、あるいは人と人との関係のために使 うお金」〔内山2009: 156〕のことで交換価値以上の価値が 付与されたものとしている。 これまでのライブハウスをめぐる批判では、商業化やノ ルマ制度といった「冷たい貨幣」の側面しか見られておら ず、内山の言う「温かいお金」を担う部分は「身内」や「内 輪」として切り捨てられていたと言えるだろう。そして本 稿の事例では、その「身内」や「内輪」における金銭の使 用に関して「贈与・返礼」と「敬意」という側面が見えて

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