研究論文
近代における「虫」概念の変容と日本文化の持続可能性
-伊藤若冲「池辺群虫図」を通して考える-
Transformation of the Concept of ‶Insects" in Modern Times and
Sustainability of Japanese Culture
: A study from Jakuchu's Work ‶Chihenguntyu-zu"
清水 玲子*
Reiko SHIMIZU
Abstract:Edo period painter Ito Jakuchu has created a work called "Chihenguntyu-zu" depicting plants and insects. There, looks of insects that are invisible to the naked eye are depicted, and there is a reality as if a moment had been cut out. In addition to Jakuchu, many Japanese artists have created works based on insects. Japanese farmers have also built tombs for insects killed for agriculture. But, after the Meiji Restoration, when we began to interact with Western countries, Japanese people began to divide insects into vermin and beneficial insects and artificially manage them. As a result, despite the resistance at the time, the insects gradually turned into abominable beings. Today, people around the world are absorbed in sustainability. However, we need to rethink our traditional culture and think about what sustainability is. Thoughts derived from traditions different from those of Western countries must bring diversity to the world.
Keyword:Insects,Harmful insects,Culture,Tradition,Sustainability キーワード:虫、害虫、文化、伝統、持続可能性 はじめに 日本において持続可能性という言葉が目立つようになったのは、1987 年に「国連環境と 開発に関する委員会」が提出した報告書において、‘Sustainable Development’が人類の課 題として採り上げられたことに端を発する〔河口(2006)〕1。CiNii でタイトルに「持続可能 性」と入れ検索すると、2,301 本が検出されるが 2、ほとんどが 1990 年代以降である。持続 可能性に関する議論は、現代の重要課題として目の前の事象をもとに論じられる傾向が強 い。しかしながら、課題の解決を目指すのであれば、人類がここに至る過程、すなわち歴史 的、文化的視座を欠くべきではない。そこで、身近な問題である虫と日本人の共生の歴史に 焦点を当て、持続可能性について考えてみたいと思う。参考となる著書として、小山重郎の 2020年1月2日受付 2020年5月8日受理
『害虫はなぜ生まれたのか』と瀬戸口明久の『害虫の誕生』がある。小山は副題に「農薬以 前から有機農業まで」とあり、農薬史と呼べるもので、「早植え」が害虫を発生させている とし、人間こそが害虫発生の原因であると指摘する〔小山(2000)〕3。瀬戸口は「虫からみた 日本史」という副題が付いており、農業における日本人と虫の関係について文献資料をもと に解明しようとしたものである〔瀬戸口(2009)〕4。いずれも、農業によったものと言える。 また、美術史においては描かれたモティーフとしての虫に関する研究に止まっている。本稿 では、伊藤若冲(正徳 6(1716)年 2 月 8 日~寛政 12(1800)年 9 月 10 日、以下、若冲と記 す)の絵画を軸に、芸術や記録の少ない風習にまで対象を広げ、欧米の文明との接触の過程 における、虫に対する意識の変化の様相を明らかにする。それにより、何が失われ、何がも たらされたのかを、持続可能性の観点から考察する。 1.伊藤若冲《動植綵絵》と仏の教え 1854(嘉永 7)年 3 月、日本はアメリカと日米和親条約を締結し鎖国を解いた。いくつかの 万国博覧会を経て、欧米とは異なる文化を持つ、見知らぬ国日本に対する好奇心は、ジャポ ニスムとして結実する。美術工芸品を愛好するという表層的なものから、次第に芸術の根底 にある日本そのものを理解しようとする動きへと移行し、様々な論考が提出された。1888 年から 1891 年まで、『芸術の日本』という雑誌がフランス、ドイツ、イギリスの三ヶ国で 刊行された。そこに、アリ・ルナン(生没年不詳、Ary Renan)は、「日本美術のなかの動 物」という一文を掲載し、「私たちの最初の反応は、わが西洋の芸術の中ではささやかな役 割しか割り当てられていない“獣”を、日本人がこんなにも偏愛するということに対する驚 きであることは否めない」と述べている〔馬淵(1988)〕5。西洋では寓意や記録を除き、生き た動物を主たるモティーフとして描くことは稀であることに対し、日本では動植物を主役 とする芸術作品の少なくないことへの驚き、強い違和感を覚えたことへの正直な印象であ ったと言えよう。神話や為政者を描く歴史画というジャンルを頂点とする等、西洋の絵画に は主題によるヒエラルキーがあるが、日本には、神仏への崇拝は別として、題材による上下 はない。動植物をモティーフとした中国伝来の絵画ジャンルを「花鳥画」と称し、しかも、 「草虫図」や「藻魚図」などと サブジャンルに細かく区分されるほど、多岐に渡りいろい ろな動植物が主役として描かれている。源流の中国では、動植物に吉祥のイメージを付加し、 例えば、「鶏頭にキリギリス」は「立身出世」、「瓜(蔓性植物)に蝶」で「子孫繁栄」とい うように、縁起の良い図として描かれる。しかし、日本では中国とは異なる展開も見せ、喰 うものと喰われるものの世界、ありのままの自然の姿を描き出そうとする向きがある。 図 1 は、若冲の《動植綵絵》の一図「池辺群虫図」で、野における花卉・蔬菜と虫の類を 描く「草虫図」に該当する。1767(明和 3)年、相国寺の塔頭に建立した寿塔に、大典禅師(享 保 4(1719)年~享和元(1801)年)による、若冲に関する墓碑銘が残されているので、以下に 抜粋する6。
居士名汝釣、字景和、平安人、本性伊藤、改為藤 氏、父源、母近江武藤氏、以享保元祀二月八日生居 士干城中之錦街居士為人断ニ無他技、唯絵事是好 若冲は号で、姓は「伊藤」名は「汝釣」とあり、「錦街」 と、現在も賑わいを見せる、京都錦市場の青物問屋の嫡男 として生まれた。絵事と無縁な家に生を受けながら、他の ことに興味を示すことはなく、「唯絵事是好」趣向を持っ ていた。商売そのものに加え旦那衆との付き合いが苦手 で、40 才の時に弟に家督を譲り、絵画制作に専念する。 この「若冲寿塔」碑文の作者、大典禅師とは相国寺の僧 で、若冲を禅宗に帰依させ、生涯にわたって精神的な支柱 となった人物である。碑文には「不食葷肉、無妻子」とも あり、仏道修行の如く肉食を断ち妻帯もしなかった。 《動植綵絵》は、図 1 の一図のみではなく三十幅対か らなり、本作品に込められた世界観が 30 の画により表現 されている。家を譲った直後の 1757(宝暦 7)年頃から 10 年近くをかけて描かれたもので、 売る為の絵ではない。1765(明和 2)年に弟が亡くなると、《釈迦三尊像》三幅対とともに、 弟、両親、若冲自身の永代供養の為、相国寺に寄進された。相国寺では、《釈迦三尊像》の 本尊の「釈迦如来像」に代えて、他から持ってきた《白衣観音像》を中尊に祀り、両脇に「文 殊菩薩」(《釈迦三尊像》三幅対のうちの一幅)と「普賢菩薩」(《釈迦三尊像》三幅対のうち の一幅)、東の竹の間に《動植綵絵》十五幅、西の梅の間に残りの十五幅を掛け「観音懺法」 を行っている7。明治時代、廃仏毀釈により疲弊した相国寺は、《動植綵絵》を宮中に献納し た為、現在は《動植綵絵》の写しにより法会は続けられている。《釈迦三尊象》と《動植綵 絵》の両作品を合算すると三十三幅対となり、衆生を救うために観音菩薩が姿を変えるとい う三十三化身に符合する。仏教の法会「観音懺法」の際に、観音、文殊、普賢という菩薩と 同じく動植物の絵画が祀られて来たことを見逃してはなるまい。明治以降は、《動植綵絵》 の本図は相国寺にはないにもかかわらず、その写し、すなわちコピーを用いて、「観音懺法」 が続けられていることは、この法会において動植物を主役として描いた《動植綵絵》が必要 不可欠であることを示している。 「池辺群虫図」(図 1)を観ると、蛇、蛙、イモリと言った爬虫類や両生類も虫と共に描 かれている。「虫」という字は、『説文解字』によると「一名蝮」で「其臥形」とあり、臥し た蝮を正面から象った象形文字である〔諸橋(2007)〕8。「蟲」という字が正字であり、江戸 時代中期に刊行された百科事典『和漢三才図会』によると、「蟲」とは「裸毛羽鱗介之総名」 とあり、図 1 と同様に爬虫類や両生類等も蟲と分類されていた〔寺島(1970)〕9。つまり、 図 1 伊藤若冲「池辺群虫図」
ここに描かれているのは「蟲」である。図 1 には、生存競争という厳しい現実、蛇は蠅に 狙いを定め、巣にかかった蝶へとクモが間合 いを詰め、アリたちがミミズを運ぶ様子もあ る。更に、よく観ると、虫たちの一瞬の姿が 見事に捉えられていることが分った。 昆虫写真家の栗林慧氏(以下、栗林氏と記 す)は虫のはばたきについて、アゲハ蝶は一 秒間に 10 回、蜂や蠅は 200 回を超えること を知り、その動きを写す為に三万分の一秒以上のシャッタースピードが必要だとの結論を 導き出し、それを可能にするカメラ機材を開発した〔栗林(1981)〕10。そして、どんなに小 さな昆虫のはばたきにも反応し、自動でシャッターを切るカメラを使い、虫の飛翔を撮影し た。そこに写し出された虫の姿と若冲の描いた虫の様子が、似ていることに気づかされた。 図 2 は、「池辺群虫図」の一部を拡大したもので、バッタと思われる虫の少しおどけたよう な様子が描かれているが、栗林氏の撮影したバッタの飛翔の刹那に酷似していることから、 この表情は一所懸命に飛ぶ時のものだと知ることができた。人間の肉眼ではとらえられな い世界に、江戸時代の画家は挑んだ。そこには、少なくとも栗林氏以外、現在の我々の多く は失ってしまった、虫たちへの親しみを込めたまなざしが存在する。仏の教えを表現するこ とのみが目的であれば、ここまでの緻密さは求められないであろう。もっと本能的な、愛し い人を見つめるように、花を眺めるように、虫を愛でる心がここに存在する。 2.虫と共に生きる日本人 若冲だけが特別ではなく、虫を描いた画家は円山応挙、酒井抱一、喜多川歌麿等、近世で あれば描いたことのない画家を探す方が早いであろうし、近代では、新しい絵画ジャンル 「美人画」においても美人と虫がモティーフとなる等、日本絵画において珍しくない題材で あった。また、茶碗などの茶道具、文箱、女性が挿す櫛や簪の装飾品、着物に至る工芸にま で範囲を広げればその数に限りはない。 更に、文学における虫の扱いも見ておきたい。平安時代においても、虫は重要なモティー フであった。『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」は、虫の観察に興じる風変りな姫君の物 語であるが、現在においてもアニメや環境教育等に影響を及ぼしている。紫式部の『源氏物 語』や清少納言の『枕草子』も虫とは無縁ではない。前者では、その段の名称に「空蝉」「胡 蝶」「蛍」「鈴虫」「蜻蛉」などと虫の名が使われ、後者の第四十段には「虫は、鈴虫。松虫。 促織。蟋蟀。蝶。われから。ひをむし。螢。」で始まる一文がある〔金子(1942)〕11。「われ から」というのは、海洋に生息する小型の甲殻類で、海藻の表面等に附着して水揚げされる ことがある。歌に詠まれ、例えば、『古今和歌集』には、典侍藤原直子の「蜑のかる藻に住 図 2 伊藤若冲「池辺群虫図」部分
む虫の我からとねをこそなかめ世をば恨みじ」という歌が収録され、恋人が去ってしまった 心もとなさを「われから」に託しつつ詠んでいる〔吉沢(1930)〕12。虫を詠んだ歌をここに 列挙し始めたら、その数は膨大になる。なぜ、日本人の創り出す芸術の中には、これほどま でに虫が溢れているのだろうか。ジャポニスムに傾倒した西洋の文化人ならずとも驚かさ れるであろう。その理由を、『古今和歌集』の紀貫之(貞観 10(868)年頃~天慶 8(945)年頃、 以下、貫之と記す)の仮名序に見出すことができる〔吉沢(1930)〕13。 倭歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見る物、聞く物につけて いひ出だせるなり。 花に鳴く鶯、水に住むかわづの声を聞けば、いきとしいけるもの、いづれか歌を詠ま ざりける。 虫も含む動植物が文学の題材に用いられるのは、「花に鳴く鶯、水に住むかわづの声」な どの自然の姿が創作意欲を触発する為である、と自然観照が日本の芸術の源泉であると述 べている。更に、この世に生のあるものは、時に心を動かされ、すべからく歌を詠むに違い ないとある。つまり、「いきとしいけるもの」、人も虫も区別なく詩情を有していると貫之は 語っている。若冲が描いた世界観は決して若冲ばかりが有していたものではなく、日本人の 普通の感性であったと見做すことができる。 次に、庶民の習俗にも目を転じてみたい。京都嵯峨野の化野念仏寺は、空海が創建したが いつの間にか荒れ果てて、鎌倉時代に法然により再興され、真言密教から浄土宗に改宗した 寺である。この地は、平安京の風葬地の一つであり、誰にも供養されなかった亡骸が骨とな り雨曝しになっていた。その寺の一角に虫塚はある。残存するものは、戦後の 1950 年代に 建立され、碑文は画家堂本印象の筆による。毎年 9 月に、虫塚の前で鳴く虫の供養が行われ ると云う〔長谷川(1976)〕14。日本各地には、人間が生きる為に命を断たれた虫を供養する 為の塚が建てられている。昆虫研究者の長谷川仁は、虫塚には以下の 3 種があると述べて いる〔長谷川(1976)〕15。 ①害虫多発時の供養に関するもの ②虫送り・虫祭りの祈祷場を示すもの ③趣味や職業上・研究上の殺虫供養に関するもの ①と②は農業にまつわる供養碑で、③は農業以外にも関わりのあるものと言える。虫塚及 び虫供養塔に関する研究は、農学、昆虫学、民俗史、宗教学等という多岐に渡る分野におい て進められてきた。虫塚に残された碑文も、当時の状況を伝える貴重な記録として研究対象
にもなっている〔森川(2015)〕16。佐賀県嘉瀬町に残る「虫供養塔」は、建立年が確認され ている中で最も古く、1685(貞享 2)年のものである。方形の台座に塔は建てられ、高さは 2.2m と大きく、短冊形である。碑面には、以下のように陰刻されている17。 嵩 貞享二乙丑歳十一月十九日 謹奉讀大乗妙典壹萬部 為 五穀満田虫供養成就 「大乗妙典」とは衆生を迷いから救う法華経を指し、「謹奉讀大乗妙典壹萬部」とは「謹 んで大乗妙典を一万回読経し奉る」となる。各地に人間の為の大乗妙典供養塔もあるが、人 と同様に虫の為にも読経が行われていたことが分る。建立から約 150 年後の 1831(天保 2) 年に追善供養が行われている。『肥前聞書』によると「毎年六月に虫供養風祭と申す事有之」 18とあり、田植えの頃に虫を供養することで、その年の虫の大量発生を抑え豊穣を祈る「五 穀満田虫供養成就」を目的とした祭が行われていた。区分の①と②の両機能を備えていたも ので、1975 年頃までは塚の前に祠があったが、現在ではなくなっている。 ③については、先述の化野念仏寺が該当し、また、千葉県長生郡長生村に 1923(大正 12) 年に建てられた「虫供養碑」がある。江戸時代後期頃から鳴く虫の産地として栄えていたが、 次第に出荷数が減ってきたことから、虫の祟りに違いないと考え、捕まえた虫の霊を慰める 為に地元の業者たちにより建立されている〔長谷川(1976)〕19。高さ 1.8m、幅 75cm の石碑 で、現在も残存する20。更に、上野の寛永寺に、江戸時代の画家増山雪斎(宝暦 4(1754)年 10 月 14 日~文政 2(1819)年 1 月 29 日、以下、雪斎と記す)の意向で、その死後に、写生 した虫たちを供養する為に建てられた 1821(文政 4)年の虫塚がある21。江戸時代、博物学の 研究をする等、今時の言葉で表すなら進歩的文化人の木村蒹葭堂(元文元(1736)年 11 月 28 日~享和 2(1802)年 1 月 25 日、以下、蒹葭堂と記す)に就いて、雪斎は画を習っていた。 従って、旧来的な因習にとらわれた人物とは言えない。また、先に述べた大典禅師と蒹葭堂 は親交が厚く、若冲を伴い蒹葭堂を尋ねたことが日記からも知られる〔野間(1972)〕22。そ の他、様々な研究者や芸術家等が訪れており、蒹葭堂は上方における文化人サロンの様相を 呈していた23。このように、虫も人間も同じように魂を持っていると言う思いは、特異な芸 術家の思考でもなく、庶民の古い因習でもなく、日本人の幅広い属性にわたる、至極当たり 前の心情であったことが確認される。 3.文明開化がもたらした害虫 1869(明治 2)年 7 月、明治政府は各藩が治めている領土や領民の戸籍を返還させる「版籍 奉還」を実施し、藩主を知藩事とし、旧来の幕藩体制を解体し中央集権化へと歩み出した。 次は、「廃藩置県」へ進みたいところではあるが、急激な変化は摩擦をより激しいものにす
る恐れがある為、維新によって禄を離れた旧士族に生きる術を与え、不満を解消する必要が あった。同年、民部官開墾局が設置され、その理由は以下のように記されている24。 開墾局を設けられし要旨は漸次全国の荒廃地を墾闢して士族を土着せしめ其の産を授 けて其の家禄を廃せんとするに在り 即ち、士族を農民にすることで自立させ、 新政府からは無禄でも生活できるようにす ることが、勧農政策の一つの柱になってい た。一方で、農業は経験こそが生産性に直 結するものであるから、素人の士族に農業 を教える必要が生じた。図 3 に、明治初年 の全国の業種別有業者数を示しているが、 農業従事者が 8 割近くを占めていることが 分る。明治の殖産と聞くと、工業に目が行き勝ちであるが、維新直後、最も従事者が多かっ たのは他ならぬ農業であったから、国の礎となる農業の文明開化こそが富国の為の喫緊の 課題であった。1872(明治 5)年、日本は初めて国としてウィーン万国博覧会(1873 年 5 月 1 日~10 月 31 日)への参加を決めた。副総裁の佐野常民(文政 5(1823)年 12 月 28 日~ 1902(明治 35)年 12 月 7 日、以下、佐野と記す)は、ウィーン万国博覧会から帰国後の 1875(明 治 8)年に、16 部 96 巻に亘るウィーン万国博覧会に関する報告書を太政官に提出した。内 容は、博覧会の報告書というよりも、各国の現況、制度及び政策に関する調査結果報告の集 成であった。その各項目には、佐野の意見書が添付された。その中に、東京開成所で博物学 を教えていたゴットフリート・ワグネル(Gottfried Wagener、1831 年 7 月 5 日 ~1892 年 11 月 8 日)が作成した「農業振起ノ条件報告書」があった。「夫農業は諸術中最古最要のも のにして人民の生命邦家の富栄皆之に繋る実に国の大本たり」〔田中他(1897)〕25で始まり、 国民の命に直結する食を掌る農業が富国の柱であることを強調している。その為に、イギリ スやフランスに倣って農学校及び養蚕や農業の試験場を設立することを推奨している。ウ ィーン万国博覧会に参加する主たる目的は、殖産の為の調査にあった。とりわけ、博物館に 学校を附設することを進言する等、佐野は教育を重視しており、本報告書においても農業学 校の設置が提唱されたのである。翌 1876(明治 9)年、札幌学校を札幌農学校と改称し開校し ている。初代教頭は、マサチューセッツ農科大学の学長であったウィリアム・スミス・クラ ーク(William Smith Clark、1826 年 7 月 31 日~1886 年 3 月 9 日)であった。彼だけで なく、農学校で教えるお雇い外国人が日本に招かれている。江戸時代から続く日本固有の農 法が欧米式農業へと吸収されて行くのが、明治前半の農業の概観である。それは、下記の政
策により押し進められた〔小野(1941)〕26。
…前略…稲作を中心とした土地開発、病害虫の駆除、新肥料や新農具の輸入等は…中 略…続々と行はれたのである。 西洋から「病害虫の駆除」等という新しい方針が、旧来の農法に導入される中で、近世ま でのものの見方、虫も人間も同じように生きとし生けるものであるという暮らしまでもが 転換を余儀なくされた。田植えをする前に、田の神に豊作を祈り、虫が湧かないようにと希 ってきた生活から、「病害虫の駆除」という力による虫の支配へと変節を促すことになった。 なかなか浸透しない害虫駆除に業を煮やした政府は、法によっての更生を求めることにし た。1885(明治 18)年、農商務省達大 43 号「田圃虫害..予防規則」が、農作物の病害虫駆除の 最初の法令であったが、各府県に「田圃虫害予防規則」を制定するように促したものに過ぎ ず、地域により対応が異なったため効果を挙げることはできなかった。なお、東京府は「警 視総監 三島通庸」の名で翌年 5 月 12 日に発布している27。次に、罰則規定を設けた法律 第 17 号「害虫..駆除予防法」が 1896(明治 29)年 3 月に施行された28。 第 1 條 此の法律に於て害虫と称するは農作物を害する各種の虫類を謂ふ 第 8 條 土地所有者、管理者又は使用者は官吏及其の指揮を承くる者の其の地に入り 駆除予防に従事するを拒むことを得す 第 11 條 第 3 條の場合に於て地方長官の命令に従はさる者は五銭以上一円九十五銭以 下の科料又は一日以上十日以下の拘留に処す 条文の一部を抜粋したが、強制力を持ち実質的な罰金が科される等、否が応でも従わざる を得ないものであった。また、法律名の表記が「虫害」から「害虫」に変わっていることも 注目に値する。言葉としての「害虫」の用例が、いつまで遡れるかを確認しておきたい。『日 本国語大辞典』の「害虫」の項を確認すると「人間の生活に直接、間接に害を与える虫の総 称」とあり、対義語は「益虫」である29。そして、最も古い用例は、1905(明治 38)年の『風 俗画法』に記載された「害虫駆除」とある。また、『大漢和辞典』においても、「害虫」の項 に用例の掲載はない〔諸橋(2007)〕30。本書は通称「諸橋大漢和」と称され、発行元の大修 館書店によると「親字 5 万字、熟語 53 万語。古今の辞書、および詩経・論語・孟子・老荘 をはじめとする先秦の文献から唐宋の詩文、明清小説、歴代の史書などに至るまで、あらゆ る資料を渉猟参酌して収録した最大級の言葉の辞典」31とあり、膨大な言葉が蒐集されてい る。そこに害虫という言葉の用例が存在しないということは、概念そのものがなかったとい う証である。つまり、1896(明治 29)年の「害虫駆除予防法」は、公的な文書に用いられた 「害虫」の最も早い用例と見ることができる。それまでに存在しなかった言葉「害虫」とい う型を作り、虫を当てはめていく、それが、日本の近代化、欧米化であったと指摘できよう。 1944(昭和 19)年 3 月 15 日に『昆虫翁・名和靖』が刊行された〔木村(1944)〕32。奥付に
「出版会承認 い 310418 号」とあり、日本出版会の承認を受けていることが分る。戦時下 において限られた用紙を優良図書に配分することを目的とした出版統制が敷かれる中で、 子ども向けの図書として本著は発行を許されている。名和靖(安政 4(1857)年 10 月 8 日~ 1926(大正 15)年 8 月 30 日、以下、名和と記す)は、新種のギフチョウを発見したことで、 全国的に知られた昆虫学者であった。1896(明治 29)年、尋常小学校の教員であったが転身 し、私立名和昆虫研究所を設立、翌年 9 月に専門誌『昆虫世界』を刊行する〔長谷川(1967)〕 33。『昆虫翁・名和靖』の目次を見ると「第 4 節 研究所と其の事業」に「害虫駆除講習会」 という項目がある。研究所を設立した翌年、ウンカが全国的に大発生し、稲作は大変な被害 を蒙った34。この件が、害虫駆除の必要性を理解してもらう絶好の機会となった。1899(明 治 32)年より 1923(大正 12)年夏まで、36 回の「全国害虫駆除講習会」を実施している〔木 村(1944)〕35。講習会は全国規模だけでなく、各府県からの依頼もあったので、小さな会合 まで含めた実数を把握するのは難しい。違法行為を取り締まる側の警察官を対象にした講 習も行っていた 36。1911(明治 44)年から同研究所に補助金が支給されたが、それまでは私 費で活動を実施していたと考えられる。運営資金が潤沢とは言えない中、1894(同 27)年秋 に、助手をアメリカに派遣している。アメリカでは、1838 年頃から害虫に関する研究が発 表されるようになり、1854 年頃より中央政府の特許局農業部において害虫に関する報告が 出される等、応用昆虫学が推進されていた〔門前(1926)〕37。また、1867 年には、アメリカ のある農家で緑色の塗料に殺虫効果のあることが発見され、殺虫剤パリス・グリーンが産ま れた〔瀬戸口(2009)〕38。日本でも、1878(明治 11)年に熊本県で防除試験が行われ、1882(同 15)年頃、札幌農学校で大発生したトノサマバッタに試用されている〔小西(1984)〕39。 1906(同 39)年 6 月刊行の『農業雑誌』には、製法と注意事項が掲載される等、日本におい ても普及していったことが確認できる40。 4.虫にみる日本の伝統文化のあり様 維新により、家を失った者、命を落とした者、時代の変革の中で影響を受けた人間は少な くない。しかしながら、最も甚大なる被害を蒙ったのは他ならぬ虫たちであったとも言える。 虫塚については既に述べたが、日本では虫の害を減らす為に「虫送り」という行事が行われ てきた。初夏の夕暮れ時に村人が総出で藁製の人形や蛇などを持ち、松明をかざして、鉦や 太鼓を打ち鳴らして村の堺まで歩いて行き、人形を川に流す等して虫の害を収めようとす る呪術的な祭りである。村の境界まで追っていくが、隣の村に虫を追いやると諍いの種にな るので、立地によりリレー式で行われる場合もあったようである。平安中期頃から行われて 来たとの指摘もある〔梅谷(1985)〕41。図 3 の明治初年の農業人口の占める割合から考えれ ば、日本人の多くが関わっていたと言える。しかも、平安中期から近代まで、千年もの間続 けられた伝統的な行事である。つまり、若冲の「池辺群虫図」が描かれる、或いは、宮廷の
女房文学に虫が当たり前のように登場するの は、日本人に共通した虫と共に生きるという生 き様が存在していたことを示している。そのよ うな考えを持つ人々に対し、名和は「虫の種類 は極めて多い中にも、益虫と申して農家の大層 為めになる虫もあれば、害虫と申して大変の害 をなす虫もあります」〔田村(1944)〕42と説い た。機械的に虫を殺すことへの抵抗は小さいも のではなかった。そこで、虫に区別をつけ、人 間にとって悪い虫と良い虫がいると、すなわち、生産性を上げる為に「害虫」と「益虫」は 人為的に作られたのである。彼らは、農業において「害虫」という汚名を着せられたのみな らず、先述の『日本国語大辞典』の「人間の生活に直接、間接に害を与える虫の総称」とい う記述に見られるように「生活」においての「害虫」とされ、現在では、害虫益虫関係なく 虫は「人間にとって害(気持ち悪い)」と忌み嫌う人まで存在する。 図 4 は、『昆虫翁・名和靖』の「第二節 研究の端緒」の「ひめくろ・おとしぶみ」の頁 に掲載された挿図である〔木村(1944)〕43。オトシブミは、オトシブミ科に属する小さな甲 虫の総称で、筒状のゆりかごを作り、その中に卵を 1 個づつ産みつける。名前の由来は、こ のゆりかごが枝から落ちた様子と、直接言えない思いを認めた手紙を道に落とし、伝えたい 相手に拾わせる「落とし文」とを重ね合わせ名付けられた。歌にも詠まれ、夏の季語になっ ている。図 4 に関する解説は、「なかなかゆだんのならぬ害虫である」〔木村(1944)〕44で終 わっている。オトシブミの成虫の大きさは 10mm程度しかない。いにしえ人はこのような 小さな虫が作るゆりかごに気づき、「落とし文」という奥ゆかしい名を附したと言える。図 5 は、主菓子の「落とし文」である。茶席では 6 月頃に供される菓子で、これを見ると、夏 の到来が近づいていることを実感する。つまり、小さな甲虫が葉の一部を巻いて作ったゆり かごに卵を産み付けたものに、「落とし文」という風流な名を付すのみならず、黒餡で卵を 模し、こなしの葉で包み、葉の上に露をあしらった意匠の菓子を創り出した。和菓子は、不 要なものを削ぎ落とし、洗練に洗練を重ね、対象を抽象化したもので、日本の文化が凝縮さ れたものと言える。地球上に虫が現れたのは 3 億数千年前であり、その後あらゆる環境に 適応しながら地球上に広がり、動物の三分の二を占め るほどまでに勢力を拡げた。人間は、虫と比べれば地球 上の新参者に過ぎない。科学的知見は十分でなかった としても、古人はそのことを感覚的に理解していたの かもしれない。だからこそ、虫の卵に「落とし文」とい う雅趣のある名前を付ける等、自然との対話に喜びを 見いだす生き方を選んだと言えよう。 図 4 ヒメクロオトシブミ 図 5 落とし文
結び 現在、あらゆる場面に登場する「持続可能性」とは、意図的に作り出せるものであろうか。 人々の日常の暮らしの中で、良いものは伝えられ、そぐわないものは捨て去られ、時にいろ いろな方面へと伝播し、新たな技を加え改められ、異なる様相へと変化する。長い時と多く の人の手を経て、伝統文化は形作られていく。伝統は旧態を固守することで生まれるのでは なく、革新により生ずるのである。すなわち、伝統文化とはその民族の持続可能性を示す物 差しと言えよう。虫を害虫と益虫に分け、人間に害を為すとレッテルを貼り、殺虫剤で殺す ことを厭わない我々の中に、虫と生きてきた持続可能性はもはや伝えられていないのかも しれない。脳科学の研究者角田忠信によると、虫の音を言語半球で認識するのは日本人に限 られるそうである〔角田(1996)〕45。他の国の人々は虫の音は、劣位半球で認識し、雑音と して処理すると言う。2019 年、日本で開催された、ラグビー・ワールドカップで、日本は ランキング世界第 2 位のアイルランドを撃破し、世界中に衝撃を与えたことは記憶に新し い。その隠れた立役者は、アイルランドの選手が眠る宿泊施設の周りで一晩中鳴き続けたコ オロギであった。新聞では、アイルランドのある選手の「悩ませる唯一のものは部屋の外の うるさいコオロギだけ」という発言を引いているにもかかわらず、記事は「日本らしい自然 とコオロギの音色でリラックスした状態」と結ばれている 46。記者は無意識ではあるもの の、虫の音は心地よいものだと捉えており、日本人の中にある虫と培ってきた感性は間違い なく受け継がれている。欧州の芸術愛好家を驚かせた「“獣”を、日本人がこんなにも偏愛 する」という日本の伝統は今もなお健在である。本来の持続可能性とは何かについて、まず 自らの伝統的な文化を見つめなおし、その答えを探っていく努力が必要ではないだろうか。 そして、この伝統という形で連綿と受け継がれて来た日本型持続可能性を、積極的に発信す ることは、多様な文化が存在するこの地球の持続可能性を高めることに必ずや寄与するに 違いない。 【註】 * 本文中の年次は西暦を主に表記をするが、人物の生没年に関しては、旧暦と新暦が混在する為、旧暦部 分は和暦を主として記す。 * 本文中、下線は、稿者加筆、本文内の引用について、パソコン利用上の便宜から漢字は旧字体から新字 体に、片仮名を平仮名に改めたが、句読点及び仮名遣いは引用元のままとした。 1 河口真理子(2006)「持続可能性「Sustainability サステナビリティ」とは何か」、『DIR 経営戦略研 究』2006 年夏季号、VOL.9、大和総研、2006 年 7 月、p.1 2 CiNii<https://ci.nii.ac.jp/search?q=%E6%8C%81%E7%B6%9A%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6% 80%A7&range=0&count=20&sortorder=2&type=0>(2020 年 3 月 22 日閲覧) 3 小山重郎(2000)『害虫はなぜ生まれたのか-農薬以前から有機農業まで』東海大学出版会、2000 年 4 月 20 日 4 瀬戸口明久(2009)『害虫の誕生-虫から見た日本史』筑摩書房、2009 年 7 月 10 日 5 馬淵明子(1988)「ジャポニスムと自然主義」、西洋美術館編『ジャポニスム展』1988 年、pp.28-29 6 大本山相国寺・承天閣美術館(2001)『大典禅師と若冲』2001 年 9 月 1 日、p.68 7 前掲書(註 6)p.74 8 諸橋轍次(2007)『大漢和辞典』巻 3、大修館書店、2007 年 12 月 1 日、修訂第二版第七刷、p.10433 9 寺島良安編(1970)『和漢三才図会』上、東京美術、1970 年 3 月 31 日、p.571 10 栗林慧(1981)『昆虫の飛翔』平凡社、1981 年 10 月 9 日、pp.85-90
11 金子元臣(1942)『枕草子評釋』明治書院、1942 年 1 月 20 日、増訂二十八版、p.253 12 吉沢義則監(1930)『古今和歌集選』立命館大学出版部、1930 年 5 月 10 日、p.102 13 前掲書(註 12)p.1 14 長谷川仁(1976)「自然の文化誌 昆虫篇⑥ 虫塚と虫供養」『自然 1976 年 6 月号、中央公論社、 1976 年 6 月 1 日、pp.18-19 15 前掲書(註 14)p.18 16 森川千春(2015)「虫の供養-虫塚にみる科学と信仰」『Biostory = ビオストーリー : 生き物文化誌: 人と自然の新しい物語』23、生きもの文化誌学会、2015 年 6 月、pp.52-56 17 さがの歴史・文化お宝張<https://saga-otakara.jp/search/detail.php?id=5226>(2019 年 12 月 29 日閲覧) 18 前掲サイト(註 17) (2019 年 12 月 29 日閲覧) 19 前掲書(註 14)p.18 20 公益社団法人日本観光振興協会<https://www.nihon-kankou.or.jp/chiba/124231/detail/12423aj220 0026235>(2019 年 12 月 31 日閲覧) 21 エコが見える学校<http://www.kababon.org/_DB/_FieldResearch_DB_06_lite.pdf>(2019 年 12 月 29 日閲覧) 22 野間光辰監・水田紀久編(1972)『蒹葭堂日記』蒹葭堂日記刊行会、1972 年 4 月 23 蒹葭堂は、号であると共に書斎の名でもあった。 24 農商務省纂『大日本農史 今世』博文館、1891 年 7 月 15 日、p.60 25 田中芳男・平山成信編(1897)『澳国博覧会参同記要』中篇、清華堂、1897 年 8 月 7 日、pp.13-20 26 小野武夫(1941)「農村史」『現代日本文明史』第 9 巻、東洋経済新報社、1941 年 4 月 14 日、p.235 27 『官報』第 856 号、内閣官報局、1886 年 5 月 12 日、p.113 28 「農作物病害虫予防事務概要」『明治後期産業発達史資料』第 274 巻、1995 年 11 月、龍渓書舎、 pp.3-4 29 『日本国語大辞典』第 3 巻、第二版、2001 年 3 月 20 日、小学館、p.239 30 前掲書(註 8)p.3292 31 大修館書店<https://www.taishukan.co.jp/book/b197527.html>(2020 年 3 月 22 日閲覧) 32 木村小舟(1944)『昆虫翁・名和靖』童話春秋社、1944 年 3 月 15 日 33 長谷川仁(1967)「明治以降物故昆虫学関係者経歴資料集-日本の昆虫学を育てた人々-」『昆虫』 Vol.35,No.3 号、東京昆虫学会、1967 年 9 月 10 日、p.61 34 記録に 1 億円超で、日清戦争で得た賠償金の半額に相当大変な被害であったが、アメリカから米を 輸入することで飢饉を回避することができた(堀正太郎(1904)「作物病虫害予防法」(小西正泰編 『明治農書全集』12、農山漁村文化協会、1984 年 10 月 25 日、pp.399-400)) 35 前掲書(註 32)pp.228-232 36 『警察協会雑誌』第 62 号、1905 年、pp.131~136 37 門前弘多(1926)「欧米に於ける応用昆虫学界」『昆虫』1(2) 、東京昆虫学会、1926 年 11 月 25 日、 pp.117-118 38 前掲書(註 4)pp.48-51 39 小西正泰編(1984)『明治農書全集』12、農山漁村文化協会、1984 年 10 月 25 日、p.634 40 「駆虫剤パリスグリーン」『農業雑誌』第 953 号、1906 年 6 月 25 日、pp.284-285 41 梅谷献二編(1985)『虫のはなし』Ⅲ、技報堂出版、1985 年 10 月 25 日、pp.65-66 42 田村栄太郎(1944)『日本の産業指導者』国民国書刊行会、1944 年 9 月 15 日、p.289 43 前掲書(註 32)p.51 44 前掲書(註 32)p.53 45 角田忠信(1996)『日本人の脳』大修館書店、1996 年 8 月 1 日、pp.73-88
46 THE ANSWER、2019 年 9 月 29 日配信<https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190927-00085164-theanswer-spo>(2020 年 3 月 22 日閲覧) 【図】 図 1 伊藤若冲「池辺群虫図」 (《池辺群虫図》江戸時代中期、三十幅対、絹本著色、三の丸尚蔵館蔵) 図 2 伊藤若冲「池辺群虫図」(前掲 挿図 1)部分拡大「トノサマバッタ」 図 3 小野武夫(1941)「農村史」『現代日本文明史』第 9 巻、東洋経済新報社、1941 年 4 月 14 日、p.305 を もとに作成 図 4 ヒメクロオトシブミ(木村小舟『昆虫翁・名和靖』童話春秋社、1944 年 3 月 15 日、p.51) 図 5 落とし文(和菓子):稿者撮影