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ニ カ ラ ー イ ・ア レ クサ ン ドロ ヴ ィチ ・ニ ェ フ ス キ ー 小 樽 高 商 ロ シ ア語教 師

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ニ カ ラ ー イ ・ア レ クサ ン ドロ ヴ ィチ ・ニ ェ フ ス キ ー 小 樽 高 商 ロ シ ア語教 師

倉 田 稔

も く じ

序 ロ シアで 東 京時代 小樽 時代 大 阪ヘ ソ連 で

本 稿 は,小 樽 商 大 『 人 文 研 究 』 に か つ て 載 せ た2つ の 項 目 が も と に な り, そ れ を 合 体 ・加 筆 ・訂 正 し た も の で あ る 。 ふ っ う,ネ フ ス キ ー と さ れ る が,

こ こ で は ニ ェ フ ス キ ー と 表 現 し て み た 。

ロ シ ア で

ソ連 あ る い は ロ シ ア の著 名 な東 洋 学 者 とな っ た ニ カ ラ ー イ ・ア レ ク サ ン ド ロ ヴ ィチ ・ニ ェ フス キ ー(1892‑1937)は,1892年 に,ヤ ロ ス ラー ヴ リ県 ヤ ロ ス ラ ヴ リ市 に 生 まれ た 。 彼 の 父 は,県 内 の ポ シ ェ ホニ エ郡 に あ る地 方裁 判 所 の 予 審 判 事 で あ っ た。 ニ ェ フ ス キ ー が 生 まれ て 一 年 もた た な い うち に,す

ぐ母 に死 なれ,父 は後 妻 を迎 え,二 人 の 女 児 を も う けた 。 だ が また 父 に も死

な れ,一 家 は 四散 し た。 ニ ェ フ ス キ ー は,母 方 の祖 父 ・サ ス ニ ン の も と に引

き取 られ,祖 父 母 の 住 む ル イ ビ ン ス ク で 成 長 した 。祖 父 は聖 職 者 で あ っ て,

教 会 の 構 内 で生 活 し た。 だ が 祖 父 母 に も死 な れ,今 度 は叔 母 に育 て られ た 。

彼 は そ れ まで 学 校 に入 っ た こ とは な か っ た が,1900年 にル イ ビ ンス ク の 中 学

校 に 入 り,1909年 に そ こ を優 等 で 卒 業 し,銀 メ ダ ル を貰 っ た。 彼 は そ の 間,

タ タ ー ル 語 や ア ラ ビ ア語 を 学 ん だ 。 この 間,第 一 次 ロ シ ア革 命 と日露 戦 争 が

起 きた 。 ニ ェ フ ス キ ー は,東 洋 語 学 を 学 び た か っ た が,育 て て くれ た 叔 母 の

希 望 で,サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル グ工 芸 専 門 学 校 へ入 った 。 だ が 一 年 学 ん で,

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そ こ を辞 め て,1910年 にペ テ ル ブ ル グ大 学 の 東 洋 語 学 校 へ 入 っ た。 そ こで 中 国 語 ・日本 語 を選 ん だ 。

学 友 に は コ ン ラ ッ ドが い た 。 そ の ニ カ ラ ー イ ・イ オ シ フ ォ ヴ ィチ ・コ ン ラ ッ ド(1891‑1970)は,ソ 連 の 東 洋 学 者 に な る人 で あ る。 彼 は リガ に生 まれ, 1912年 にペ テ ル ブ ル グ 大 学 を卒 業 した 。 中 国,日 本,朝 鮮 の 言 語 ・文 学 ・歴 史 を専 攻 した 。そ の 後,キ エ フ,レ ニ ング ラー ド,モ ス ク ワ の各 大 学 で 教 え, 1926年 に教 授 とな っ た 。1959年 にア カ デ ミー 会 員 とな っ た 。ソ連 に お け る 日 本 学 の 創 始 者 で あ る。

そ して ニ ェ フス キ ー は,ア レ ク セ ー エ フ(1929年 か らア カ デ ミー会 員)や イ ワ ノ ブ に教 わ った 。 日本 語 は ク ロ ノ ・ヨ シ ブ ミ ら に教 わ っ た 。1913年 に, 2カ 月,日 本 に きて学 ん だ。 主 に東 京 で 日本 文 学 を研 究 した 。1914年 に,李 白 の 詩 につ い て の 卒 業 論 文 を出 し,そ の 標 題 は 「 李 白 の詩 一 五 篇 に つ い て 逐 語 訳 と意 訳 を行 な い,そ こ に見 られ る 自然 描 写 の 絵 画 性 を指 摘 し,さ ら に そ の数 種 の 外 国語 訳 に徹 底 的検 討 を加 え る試 み」 で あ った 。

大 学 で は 日本 語 の正 教 授 を養 成 す る必 要 が あ っ た の で,ニ ェ フ ス キ ー は, 教 授 候 補 者 と して さ らに勉 学 を続 け る こ とに な っ た 。 しか し第 一 次 大 戦 の 勃 発(1914年)で,大 学 の 予 算 が 削 られ,彼 は無 給 にな った 。 そ こで エ ル ミター ジ ュ博 物 館 に勤 め た(1)。

東京時代

ニ ェ フ ス キ ー は,1915(大 正4)年 に 日 本 に 留 学 し た 。 「教 授 資 格 取 得 」 の た め だ っ た(2)。2年 間 一 娘 ネ リ は,3年 問 と 言 う 一 の 日 本 留 学 期 間 に,「国 漢 文 学 な ら び に 日 本 民 俗 学 の 研 究 」を し た(3)。ち ょ う ど第1次 大 戦 の ま っ 最 中 で あ っ た 。 彼 の 民 俗 研 究 が ひ い で た の は,す ぼ ら し い 友 人 ・先 生 に つ い た こ

と で も あ る 。 ニ ェ フ ス キ ー は,柳 田 国 男(4),折 口 信 夫(5),中 山 太 郎(6)ら と 親 交

を 結 ん だ 。 柳 田(1875‑1962)は,民 俗 学 者 で あ る 。 彼 は 兵 庫 県 に う ま れ,

東 大 法 科 を 卒 業 し た 。 青 年 時 代 に は詩 人 だ っ た 。 役 人 に な り,1919(大 正8)

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年 に退 官 した 。 雑 誌 『 郷 土 研 究 』,『民 族 』 な ど を主 宰 した 。 折 ロ は,同 じ く 民 俗 学 者 で,歌 人 で あ り,釈 遣 空 の 名 で 有 名 で あ る。 大 阪 出 身 で,は じ め万 葉 学 者 だ っ た 。 柳 田 の影 響 で古 代 を民 俗 学 的 に研 究 した 。

ニ ェ フ ス キ ー の研 究 は,神 道 で あ っ た 。 予 定 の 留 学 期 間 が 終 る と き,1917(大 正6)年 に ロ シ ア革 命 が起 こ り,ロ シ アか らの 留 学 資 金 の送 金 が 停 止 した 。 彼 は初 め東 大 に いた が,生 活 の た め に商 社 で働 き も した 。 ロ シ ア人 ヴ ァ シ ー リイ ・ メ ー ロ ヴ ィチ が 経 営 す る東 京 の 明露 壱 商 会(7),あ る い は 「メ ー ロ ウ イ ッ チ 」 商 会 で あ っ た(8)。 ニ ェ フス キ ー は,こ の 機 械 商 メ ー ロ ヴ ィ チ の 書 記,外 交 員 と し て働 い た(9)。 大 正6年 に彼 は,東 京 市 本 郷 区駒 込 林 町25番 地 に い た 。

ニ ェ フ ス キ ー は身 体 を壊 して 病 気 に な った 。

彼 は,大 正7(1918)年 に は,「 農 業 に 関 す る血 液 の 土 俗 」 「 遠 路 の ま こな い人 形 」 「 相 模 の獅 子 舞 の歌 」 「あ つ な い の罪 」な ど を,『 土 俗 と伝 説 』に発 表 した 。

こ の 大 正7年 に,ニ ェ フ ス キ ー が 前 山 光 子 と の 問 に 女 児 ・若 子 を も う け た(10)と い う説 が あ る 。た だ し 桧 山 に よ れ ば,大 正8(1919)年 こ ろ だ と言 う(11)。

そ の 前 山 光 子 は,1897(明 治30)年1月8日 に,沼 津 に 生 ま れ,育 ち,東 京 日本 橋 に 出 て き た 。 そ の 父 が 日 本 橋 で 下 駄 の 花 緒 の 卸 屋 だ っ た か ら で あ る 。 父 は 前 山 嶺 吉 と い い,母 は よ ね,旧 姓 ・ 木 村 で,息 子4人 と娘2人 を 生 ん だ 。 彼 女 ・光 子 は,ニ ェ フ ス キ ー の 住 み 込 み 家 事 係 に 応 募 し た 。 そ の 時 同 じ く,

と き,は つ(12),が い た 。 コ ン ラ ー ド も そ こ に 暮 ら し て い た 。 光 子 は,ニ ェ フ ス キ ー の 単 語 ノ ー ト を 作 っ た り し た 。 中 山 や 金 田 一 京 助 が そ こ に き て い た 。 1917(大 正6)年 に,光 子 とニ ェ フ ス キ ー は 恋 仲 に な っ た 。 ニ ェ フ ス キ ー は 結 婚 を 申 し 込 ん だ 。だ が,彼 女 の 母 は,光 子 が ロ シ ア に 住 む の は 駄 目 だ と言 っ た 。 そ こ で,籍 に は 入 らず,式 だ け を あ げ た 。 そ の 式 に は,中 山,折 口 信 夫, 森 律 子(13)ら が 参 加 し た 。 大 正8年(1919年)だ っ た 。 ニ ェ フ ス キ ー は,さ し

み が 好 き だ っ た 。 若 子 が1919(大 正8)年10月21日 に 生 ま れ た が,ニ ェ フ

ス キ ー の 勉 強 の た め に,若 子 を 里 子 に 出 し た 。 そ の 先 は親 戚 で あ っ た ら し い 。

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光 子 は,ロ シ ア 語 と琴 を習 った 。 日光 や 那 須 の 温 泉 に三 人 で 行 った こ と も あ る。 ニ ェ フ ス キ ー は怒 っ た こ とが な か った 。 た だ し一 度 例 外 が あ っ て,彼 に 無 断 で 雑 誌 記 者 をニ ェ フス キー の部 屋 へ 入 れ た 時 だ け だ っ た 。

小樽時代

彼 は,1919(大 正8)年5月31日 付 けで,運 よ く小 樽 高 等 商 業 学 校 の ロ シ ア語 教 師 に な る こ とが で きた 。27才 だ っ た。 ロ シ ア語 担 当 の 教 師 ・田 中 乙(14) が 同年4月27日 に亡 くな っ た か らで あ る。 亡 くな っ て か ら一 カ 月 後 の採 用 で あ り,き わ め て 迅 速 で あ る。 小 樽 高 商 はで きて か ら8年 た っ て い た。 彼 は 小 樽 高 商 の渡 辺 龍 聖 校 長 の招 き に ふ た つ返 事 で 応 じ,5月31日 か ら勤 務 し た 。 これ に は東 京 外 語 学 校 の ロ シ ア語 教 師 ド ゥ シ ャ ン ・ ト ドロ ヴ ィ チ の尽 力 が あ っ た(15)。た だ し当 時 の 学 生 ・金 吉 に よ る と,ロ シ ア語 の授 業 は数 カ 月 な か っ た と言 う(16)。

小 樽 は まだ 小 樽 区 で あ っ た 。小 樽 高 商 で は,ニ ェ フス キ ー は,月 俸250円, ほか に 臨 時 手 当100円 で 契 約 した 。週 に10時 間 て い ど(後 述 の よ う に7時 間 とい う説 も あ る)ロ シ ア語 を教 え た 。 ニ ェ フ ス キ ー は,光 子,若 子 を伴 わ ず, 単 身 小 樽 へ 赴 い た,と 言 わ れ るが,加 藤 氏 は,小 樽 で 三 人 で暮 ら した,と 最 近 語 っ た 。 し か し,し ぼ ら くして 光 子 ・若 子 の二 人 は帰 っ た,と 。 だ が若 子 は,こ の 夏 に生 まれ て い る の で,3人 で 来 た とい う こ とは あ りえ な い。 光 子 だ け で はな い か。3人 だ とす れ ば,ニ ェ フス キ ー が 小 樽 に来 て か ら後,来 た と しか な ら な い。 また そ の別 れ た 原 因 は分 か らな い 。 光 子 は そ の 後,新 宿 で 喫 茶 店 を開 い た。 大 正13(1924)年 に斉 藤 薫 と結 婚 した 。 斉 藤 は,若 子 を 里 子 か ら引 き取 っ た 。 斉 藤 は新 宿 区 の 区 会 議 長 を や り,後 に金 融 機 関 の頭 取

を した ら し い。 若 子 は,長 じて 東 洋 英 和 女 学 校 に入 った 。 ニ ェ フス キ ー は後

に,帝 国 ホ テ ル で若 子 と会 っ た 。彼 女 が11才 の 時 だ っ た 。だ が,父 と名 乗 ら

ず に で あ った 。 若 子 は美 人 だ った 。 若 子 は,母 の喫 茶 店 を手 伝 っ て い る時,

美 貌 の彼 女 を 目 当 て に学 生 や 軍 人 らが 押 し 寄 せ た(17)。 真 崎 甚 三 郎 大 将 一

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二 ・二 六 事 件 で 有 名 一 の 息 子 ・秀 樹 が 彼 女 に惚 れ 込 み,婚 約 した 。 だ が 彼 女 は,20才 で 肺 結 核 で 亡 くな っ た 。 あ る い は昭 和13(1938)年,脳 膜 炎 で 東 京 で 死 ん だ。 彼 女 は,母 に 「 私 の父 は外 国 の 方 で し ょ」 と聞 い た こ とが あ る。

光 子 は,ニ ェ フ ス キ ー との 生 活 は生 涯 で 一 番 楽 しか っ た と言 った 。 ニ ェ フ ス キ ー は よ ほ ど魅 力 的 な人 だ った ら しい 。 光 子 は1994(平 成6)年 に亡 くな っ た 。

中 山 太 郎 は書 い て い るそ うだ 。「 ネ 氏 に は一 人 の 忘 れ形 見 が あ つ た 。わ か 子 とい ふ 美 しい,そ し て聡 明 の 麗 人 で あ った 。 私 の宅 へ も見 へ 聖 心 女 学 院 とや らへ 通 っ て い る と の事 で あ っ た … …」。 こ こで は 違 う学 校 名 が あ げ られ て い る 。 東 洋 英 和 が 正 し い(18)。

当 時 ニ ェ フ ス キ ー は,日 本 語 を 日本 人 同 様 に 流 暢 に話 し,古 典 に通 じ,数 力 国語 をマ ス タ ー し て い た,語 学 の 天 才 で あ っ た 。 小 樽 高 商 で は この 年,週 七 時 間 の 授 業 で あ った 。10時 間 と い う説 もあ る。二 年 生 の初 級 ク ラ ス は,8 人 で,授 業 中 は 日本 語 を全 く使 わ ず,説 明 は英 語 で あ っ た。教 授 法 はベ ル リ ッ ツ法 で,実 物 を使 っ て教 えた 。学 生 が 日本 語 で ノ ー トを と る こ と も認 め な か っ た 。 彼 は,「 日本 人 の教 授 た ち は,み ん な 明 る い好 人 物 ぞ ろ い」と,書 い て い る。 彼 は現 代 日本 文 学 に も関 心 が あ っ た 。 彼 は1919(大 正8)年 暮 れ に上 京 し,オ シ ラ様 の 研 究 を柳 田 に勧 め られ,翌 年 す ぐ,そ れ を 開始 した 。1920(大 正9)年 の 夏 休 み に は,そ の た め,東 北 調 査 旅 行 を した 。 彼 は,柳 田 の 『 遠 野 物 語 』(19)に 注 目 して,遠 野(と お の)に 旅 行 した こ と もあ っ た 。

柳 田 は,初 め1909(明 治42)年 に遠 野 に来 て い た 。次 に その 後,大 正9(1920)

年8月13日 に や っ て きた 。 『 遠 野 物 語 』 の 語 り部 は,佐 々 木 喜 善(ペ ンネ ー

ム 鏡 石)で あ るが,佐 々 木 が8月31日 に帰 宅 す る と,ニ ェ フス キ ー が 遠 野 に

来 て い た 。9月1日,ニ ェ フ ス キ ー は佐 々 木 を訪 問 し,3日 間 滞 在 した 。佐 々

木 は 日記 に 「 逢 う早 々 学 問 話 に耽 る 」 と書 き,互 い に 日本 民 俗 研 究 に つ い

て 意 気 投 じ た 。 ニ ェ フ ス キ ー は こ の こ ろ オ シ ラ サ マ の 研 究 に 関 心 を 示 し

た(20)。 オ シ ラ サ マ=オ シ ラ神 は,東 北 地 方 一 帯 の家 々 で 祭 られ て い る神 で あ

る。 た た り神 的 で,「 知 らす 」と い う意 味 か ら来 た と され る。 これ に は祭 りの

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日が あ る。佐 々 木 に よ る と,祖 先 が ま だ狩 猟 生 活 の こ ろ,こ の 神 が 吉 凶 善 悪, 仕 事 の適 所 方 角 を知 らせ た,と され る。

小 樽 時代 の ニ ェ フス キ ー の 関 心 は,東 北 の オ シ ラ 信 仰 以 外 に は,ア イ ヌ 語 と宮 古 島 方 言 で あ り,ア イ ヌ語 は 金 田 一 京 助 に 教 わ った 。 金 田 一(1882‑

1971)は,盛 岡 出身 で,東 大 を卒 業 した 。 言 語 学 者,国 語 学 者 で あ り,ア イ ヌ 語 を研 究 した 。 主 著 に 『 ア イ ヌ 叙 事 詩 ユ ー カ ラ の研 究 』 が あ る。 彼 は 石 川 啄 木 と も親 交 が あ っ た 。

ニ ェ フ ス キ ー は高 商 の休 暇 中 は,日 本 中 を隅 な く旅 し て,各 地 に住 む人 々 の 言 語,宗 教,慣 習 を研 究 した 。 口承 文 芸 を採 集 す るた め に,ど ん な僻 地 に も足 を延 ば した(21)。

彼 は家 で は和 服 を着,角 帯 を し,足 袋 を履 い て い た 。 時 折 は妙 見 町 界 隈 の 花 柳 街 に も姿 を見 せ る とい う噂 で あ っ た 。 緑 二 丁 目28に 住 んだ 。

彼 は初 め,日 本 の 古 文 調 で 会 話 を して い た 。 だ が,大 正9(1920)年,学 生 ・越 崎 宗 一(22)がニ ェ フ ス キ ー 先 生 の ロ シ ア語 を選 択 し て い る時 に は,日 本 人 と変 わ らぬ 流 暢 な 日本 語 を話 し,自 由 に 漢 字 を書 い た 。彼 は語 学 の 天 才 で, 数 力 国語 を 自 由 に話 した 。 越 崎 宗 一 と同 級 の悪 戯(い た ず ら)好 きの 学 生 が, 先 生 の 教 室 へ 入 っ て 来 る前 に,黒 板 に 「 寝 婦 好 」 と書 い て お い た 。 先 生 は 入 っ て くる な り,黒 板 掃 きで,一 語 も発 せ ず,消 して,ニ コニ コ と授 業 を初 めた(23)。「 寝 婦 好 」 とい う の は彼 の あ だ 名 だ と言 う人 が い るが,そ う だ とす れ ば,こ こか ら出 た の だ っ た 。

彼 は休 暇 のた び に上 京 して い る。 研 究 活 動 の必 要 で もあ っ た が,光 子 と若 子 に会 い た い た め の 東 京 行 きで あ っ た ろ う,と 言 わ れ る。 越 崎 が 「 初 め に官 舎 に訪 ね た 時 に は,顔 に ア ザ の あ る年 輩 の 女 中 が い た が,い つ の ま に か,こ の老 婦 人 は居 な くな っ て,代 りに,マ ン ド リ ン をひ く,女 中 と も奥 さ ん と も つ か ぬ 三 十 前 後 の 女 性 が 居 る よ う に な っ た 。」(24)こ れ は後 出 の 萬 谷 イ ソ(磯 子)さ ん で あ ろ う。

ニ ェ フス キ ー は,東 北 の オ シ ラ様 や,性 を シ ン ボ ラ イ ズ した 石 像 の 写 真 を,

度 々 学 生 に見 せ た 。 越 崎 は当 時,「 変 な先 生 だ な あ」く らい に しか 思 わ な か っ

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た 。

小 樽 高 商 の 学 生 に よ る外 国 語 劇 が,こ の学 校 で は催 され で い た 。1920(大 正9)年 の外 語 劇 に は,ロ シ ア語 劇 「 吝 沓 な る武 士 」 の 演 出 に あ た った ニ ェ

フス キ ー先 生 の熱 の入 れ よ うは,大 した も ので あ った(25)。 彼 が プ ー シ キ ンの この 作 品 を選 定 し た。 越 崎 が 「そ の 主 人 公 をや らさ れ た 。 平 素 は女 人 禁 制 の 校 舎 も,外 語 劇 の 日だ け は,学 生 の 姉 妹 家 族 や 下 宿 の 娘 に まで 入 場 券 が 配 ら れ,学 生 も張 り切 っ て 演 じた 」。 「爪 に火 を と もす よ うに して 金 を貯 めた 老 武 士 が,独 り寂 し くベ ッ ドで 臨 終 の 息 を引 取 る幕 切 れ で,今 は の際 に も金 庫 の 鍵 が 気 に か か り 「 鍵!」 「 鍵!」 と二 言 叫 ん で 息 が 絶 え るの だ が,ロ シ ア語 で は鍵 の こ とを クル ウ チ ユ と云 うの で,私 が 最 後 に 「ク ル ウチ ユ!ク ル ウ チ ユ!」 とベ ッ ドの 上 で虚 空 を掴 ん で 叫 び,倒 れ る とチ ンプ ン カ ンプ ン の ロ シ ア語 の 中 に 日本 語 ら しい 「 苦 しい!苦 しい!」 と聞 こ えた の で あ ろ う。 観 客 が ドッ と吹 き出 し て,悲 劇 が 喜 劇 に な っ て し ま っ た 」 。

「 先 生 は ,授 業 で は実 に厳 し く,宿 題 な ど もた くさ ん課 せ られ,い っ も尻 を た た か れ た。 忘 れ 難 い外 人 先 生 だ っ た 。」(26)

小 樽 で 研 究 の助 手 と して,ニ ェ フ ス キ ー は,同 僚 の ドイ ツ人 教 師 を介 して,

萬 谷 イ ソ(磯)を 採 用 した 。 ま ん た に,あ るい は,よ ろず や,と 云 う。 よ ろ

ず や,で あ ろ う。 小 樽 時 代 の後 半 ら し い。 そ うす る と,そ の 教 師 と は,フ ラ

ン ク か デ ー ゲ ンで は な い か 。 フ ラ ン ク は ドイ ツ人 で あ り,デ ー ゲ ン はス イ ス

人 で は あ るが 。 彼 女 は1901(明 治34)年6月10日 に,積 丹(シ ャ コ タ ン)

郡 入 胴(い るか,あ るい は,い りか)村(27)に 生 まれ た 。網 元 の長 女 だ った 。

イ ソの 父 は,萬 谷 幸 八 郎 で,イ ソに は妹 が い た 。 兄 は長 万 部 の 名 町長 とな っ

た 。 萬 谷 家 は そ の 後 衰 退 した 。 彼 女 は高 等 小 学 校 を優 等 で 卒 業 し,勤 め て か

ら,小 樽 に 出 て,外 人 教 師 の お手 伝 い を し,勉 強 し て い た 。 彼 女 は筑 前 琵 琶

を ひ い た 。ニ ェ フ ス キ ー の家 に い た 女 中 が 警 察 に供 述 させ られ た こ とが あ り,

警 察 に は そ の調 書 が あ る と言 う。 そ の 一 つ に は,イ ソ が看 護 婦 だ っ た とさ れ

る が,間 違 い だ ろ う。 ニ ェ フ ス キ ー はイ ソ と1921(大 正10)年7月 ご ろ深 い

仲 に な った と,加 藤 は推 測 す る(28)。

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娘 ネ リ は書 く。「こ う して 集 め た資 料 を整 理 す る助 手 が 必 要 と な っ た 。父 の 助 手 に と,ヨ ロ ズ ヤ ・イ ソ(万 谷 磯)と い う娘 が 紹 介 され て き た 。 イ ソ は19 才,父 は29才 だ っ た 。イ ソ は父 に 言 い つ か っ た 仕 事 を な ん な く こな し,貴 重 な 助 言 さ え した 。 ふ た りは協 力 し合 っ て どん どん仕 事 を進 め て い った 。 次 第 に親 密 に な り,深 く理 解 し合 い,愛 し合 っ て,結 婚 した 。 」(29)墓 目 は,彼 が1921 年 に結 婚 した し(30),これ は正 式 に神 戸 に あ った ソ連 総 領 事 館 に登 録 され て い

る,と 書 く。

1921年 に高 商 の校 長 が 初 代 渡 辺 龍 聖 か ら第2代 伴 房 次 郎 に代 わ っ た(30a)。

あ る時,校 長 は,ニ ェ フ ス キ ー に対 し,婦 人 関 係 の こ とで 信 用 を失 し た と さ れ る(31)。 そ うす る と,そ の校 長 は渡 辺 で あ ろ う。 そ れ が 何 に つ い て な の か は 分 か ら な い 。 ニ ェ フ ス キ ー が 小 樽 の 花 柳 界 へ お 忍 び で 出 か け る とい う噂 が あ った 。 しか し 当時 の 常 識 か らみ て,渡 辺 が それ を非 難 した わ け で は な い だ ろ う。緑 町 の 官 舎 に,初 め年 とっ た 女 中が い た 。 そ の後,「 マ ン ド リン を ひ く 女 中 と も奥 さ ん と もっ か ぬ三 十 前 位 の女 性 」 が い る よ う に な っ た,と す で に 書 い た が,こ の 人 が イ ソか ど うか は分 か らな い 。 渡 辺 が ニ ェ フ ス キ ー へ の信 用 を失 っ た の は,ニ ェ フ ス キ ー が イ ソ と同棲 状 態 に あ った か らで は な い か 。 あ るい は初 め 前 山光 子 と娘 が 小 樽 に い て,そ の 後2人 が 東 京 に戻 っ て,そ の 間 イ ソ と同棲 し始 め た とす れ ぼ,そ れ も仕 方 が な い。

募 目 は,椎 名 幾 三 郎(高 商 教 師)の 談 話 を紹 介 す る。 ニ ェ フ ス キ ー は 「 仲 々 優 秀 な先 生 で あ っ た。 掛 軸 の む つ か し い字 はす らす ら と読 む し,或 る時 上 京 す る 同 じ汽 車 の 中 で 何 処 に宿 を とる か と聞 い た の で 品 川 の 望 水 楼 だ とい った ら,そ の宿 は海 の側 で な く山 に あ るの だ ろ う,そ れ な ら望 水 楼 で な く望 翠 楼 だ な ど,非 常 に 日本 語 に通 じた 青 年 で あ っ た。 ネ フ ス キ ー を 日本 語 で寝 婦 好 な ど とい っ て い た っ け。」

ニ ェ フ ス キ ー は,1922年2月 に は ア イ ヌ人 か らユ ー カ ラ を聞 い て 筆 記 し, 研 究 を始 め た 。

ニ ェ フ ス キ ー は高 商 に三 年 間勤 めた 。 第 二 外 国 語 と して の ロ シ ア 語 を二 年

生 と三 年 生 に教 え た 。 小 林 多 喜 二 は(31a),1921(大 正10)年3月 に 高 商 に入 学

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した 。 そ して 彼 が 第 一 学 年 を終 る時,1922(大 正11)年3月31日,ニ ェ フ ス キ ー は退 職 して,創 立 した ば か りの 大 阪 外 国語 学 校 へ 転 勤 した 。 多 喜 二 は 一 年 生 だ っ た か ら ,授 業 で はニ ェ フス キー に は教 わ らな か った 。 彼 と多 喜 二 とが 高 商 で 重 な った の は,た っ た一 年 間 で あ る。 また も しニ ェ フ ス キ ー が 高 商 にい た と して も,多 喜 二 が 二 年 に な って フ ラ ンス 語 を選 択 す る の で,彼 に 教 わ る こ と もな か っ た で あ ろ う。 こ う し てニ ェ フス キ ー と多 喜 二 は授 業 で は 結 び つ か な い 。 た だ し廊 下 で 会 っ た 時 は会 釈 しあ っ た で あ ろ う。 少 しは 会 話 を した か も しれ な い 。 しか し今 の と こ ろ まだ,交 流 の記 録 は残 さ れ て い な い 。

ニ ェ フ ス キ ー と多 喜 二 との 関 係 で,考 え られ る点 は二 つ あ る。 当時 小 樽 高 商 で は先 生 と学 生 は仲 が よ く,兄 弟 の よ う に つ き合 っ て い た 。 先 生 の家 まで 押 し掛 け る学 生 が 多 か っ た 。 こ うい う中 で は,い ま想 像 で き る以 上 の付 き合 い が二 人 の間 で あ った か も しれ な い の で あ る。 加 えて 多 喜 二 が ロ シ ア文 学 に 興 味 を持 っ て い た し,ニ ェ フス キ ー が 日本 文 学 に興 味 を もっ て い た の で,そ れ を話 題 に して 多 喜 二 が ニ ェ フ ス キ ー 先 生 と会 話 を した の で は な い か,と い

う楽 しい 想 像 もで き る(32)。

ニ ェ フス キ ー が 小 樽 を去 る と同 時 に,伊 藤 整 が 高 商 に入 学 した 。 ニ ェ フス キ ー の後 任 は,C・N・ ス ミル ニ ツ キ ー で あ っ た 。

大 阪 へ

こ う して 小 樽 の 後,ニ ェ フス キ ー は,1922(大 正11)年 に専 任 とし て大 阪 外 語 学 校 の 講 師 とな り,ま た 京 都 大 学 文 学 部 で ロ シア 語 を教 え,ま た ア イ ヌ 語 の講 義 も し た 。大 阪 で は転 居 を く りか え した 。職 場 で あ る大 阪 外 語 学 校 は, 現,大 阪 市 天 王 寺 区 の 上 本 町 八 丁 目 に あ った 。 ニ ェ フ ス キ ー が大 阪 へ 行 っ た の は,関 心 の移 行 が 原 因 だ ろ う。 東 北 の オ シ ラ信 仰,ア イ ヌ の ユ ー カ ラ の研 究 か ら,宮 古 島 方 言,西 夏 語 研 究 に テ ー マ が 移 っ て い った 。

西 夏 語 は,11世 紀 か ら13世 紀 にか け て 中 国 内 陸 部 で 栄 え た 仏 教 王 国 西 夏

の言 語 で あ る。 中 国 の 宋 時 代 に 中 国 の 西 に あ る タ ング ー ト族(チ ベ ッ ト系)

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の 国 が,西 夏 で あ る。 甘 粛 に定 住 して い た。 漢 民 族 の 国家 で は な い 。 この 民 族 は元 来,遊 牧 や 狩 猟 を主 と して,騎 馬 と戦 闘 を得 意 と した 。 初 代 皇 帝 李 元 昊(生 没 不 詳)は,い くつ か あ る部 族 の 中 で も最 強 の一 族,拓 践 の首 領 で あ る 。 契 丹,吐 蕃,回 鵤,漢 な どの民 族 を征 服 し,黄 河 中流 域 を 中心 に 国 を建 て た 。 宋 と交 戦 し,た び た び 勝 利 した 。 彼 ら は支 配 下 に お い た 他 民 族 の 文 化 の長 所 を学 ん だ 。特 に漢 文 化 を吸 収 した 。宋 と接 して儒 教 文 化 に な りな が ら, 仏 教 を基 調 とす る独 自 の 民 族 文 化 を作 ろ う と した 。 征 服 した 多 くの 民 族 が 仏 教 を信 仰 して い た か らで あ る。 李 は景 宗(在 位1032‑1048)と 称 し,彼 の 世 に 西 夏 文 字 を制 定 した 。 西 夏 文 字 は,6千 余 あ り,表 意 文 字 が 主 体 で,碑 文 の ほか,仏 典,学 書 な どが 多 く発 見 され た 。西 夏 は しか し1227年 にチ ン ギ ス カ ン に よっ て ほ ろ ぼ され た(33)。

ニ ェ フ ス キ ー は,宮 古 島 に は,大 阪 へ 行 っ た す ぐの夏 か ら実 地 調 査 を し て い る。 古 老 か らの 聞 き取 り調 査 に も取 り組 ん だ 。 そ の後,台 湾 の ツ ォ ウ(曹) 族 の 言 語 な ど を,台 湾 山 中 に まで も行 っ て 実 地 調 査 し,日 本 語 とロ シア 語 で 論 文 を発 表 した 。 貴 重 な 資 料 が あ る と聞 け ぼ,北 京 まで 出 か け た 。 当 時 の 日 本 の 研 究 者 の 常 識 を大 き く越 え る行 動 範 囲 で あ っ た 。(34)「 ニ ェ フ ス キ ー の 行 動 力 と支 え た の は,つ ね に新 しい成 果 を追 い 求 め る研 究 者 とし て の 真 し な姿 勢 だ った 。」 ㈹

ニ ェ フ ス キ ー は大 阪 へ 行 く とす ぐ手 紙 を,実 家 に戻 っ て い た イ ソへ よ こ し,イ ソは大 阪 へ 行 くの で あ っ た 。 正 式 結 婚 は1929年 で あ っ た(加 藤)(36)。

日本 滞 在 中 は ど こで もニ ェ フ ス キ ー は刑 事 につ き ま とわ れ て い た 。 彼 が ロ シ ア 人 だ か らで あ る。

ニ ェ フ ス キ ー が 大 阪 へ い っ て か らの こ とで あ る。 あ る時,彼 は 上 京 す る か ら と,同 居 の イ ソ に 告 げ,千 円 を金 庫 か ら出 そ う と した ら,意 外 に も な か っ た の で,二 人 で 口論 した とい う,大 阪 知 事 の手 紙 が あ る(大 正14年11月)(37)。

彼 が 東 京 市 本 郷 区駒 込 東 片 町六 六 番 地 に い る前 山光 子 に送 金 した の か,イ ソ

が わ ざ とか くし た の か,わ か ら な い,と 。 小 樽 時 代 も大 阪 時 代 も,ニ ェ フ ス

キ ー は 研 究 会 そ の 他 の 用 向 きで 上 京 して い る。 ニ ェ フ ス キ ー に は,イ ソ,

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光 子 以 外 に も,二 木 静(東 京 時 代),ア イ ヌ女 性,鍋 沢 ユ キ(大 阪 時 代)が い て,警 察 は情 的 関係 が あ る と見 て い る が,実 際 は分 か ら な い。

ニ ェ フス キ ー は,妻 イ ソの里 で あ る北 海 道 との きず な を大 切 に し て い た 。 大 阪 へ 移 った あ と も,家 事 手 伝 い や ア イ ヌ語,ア イ ヌ文 学 研 究 の助 手 として, 妻 の妹 ミサ た ち や ア イ ヌ民 族 の 女 性 を 呼 び 寄 せ て い た 。 ミサ は,「障 子 越 しに ネ フ ス キ ー と話 を す る と ロ シ ア 人 と は ま った く思 え な い ほ ど 日本 語 が 流 ち ょ うだ っ た 。」 と話 した 。(38)

夫 妻 は1928(昭 和3)年5月3日,娘 エ レ ー ナ(愛 称 ネ リ)を も う け た 。 ニ ェ フ ス キ ー の母 と同 じ名 前 で あ る。 そ の 日,ニ ェ フス キ ー は友 人 に あ て て

「 今 朝7時 に娘 が 生 ま れ ま した 」と書 い て い る 。 エ レ ー ナ は4才 まで 日本 で暮 ら した 。 短 縮 名 は エ リで あ る。 彼 女 が 覚 えて い る の は,ニ ェ フ ス キ ー が 庭 で 日本 式 の お風 呂 に つ か っ て い る光 景 で あ る。 庭 に石 灯 篭 が あ り,池 に赤 い 魚 が 泳 い で い た 。 あ る時,地 震 が あ っ た。(39)

ニ ェ フ ス キー は,大 阪 で は石 浜 純 太 郎 と と もに西 夏(タ ン グ ー ト)学 の研 究 を始 め た 。

ニ ェ フ ス キ ー は,大 阪 外 語 で は1929(昭 和4)年8月 まで 勤 務 した 。 彼 は 1927年 に,帰 国 の 決 心 を した 。 そ の 理 由 は,ソ 連 に保 管 され て い る膨 大 な西 夏 語 の資 料 研 究 の た め だ っ た,と 加 藤 は見 る(40)。 西 夏 語=タ ン グ ー ト語 は12 世 紀 に は す で に使 わ れ な くな っ て いた 。 そ して 日本 に は そ の資 料 が ほ とん ど な か っ た。ロ シ ア=ソ 連 の 探 検 隊 が,中 国 で資 料 を発 掘 し,持 ち 帰 った 。ニ ェ フス キ ー は そ の頃,西 夏 文 字 の解 読 を試 み て い た 。そ の関 係 の 資 料 は大 部 分, ペ テ ル ブ ル グ(当 時 は レニ ング ラー ド とい う)に あ っ た 。 彼 は そ の 仕 事 に熱 中 し,そ れ を続 け た が っ て い た 。 そ して ロ シ ア に は,母 代 わ りに な っ て育 て て くれ た 叔 母 が 残 っ て い た 。 何 年 も前 か ら ロ シ ア に帰 ろ う と して い た が,ロ

シア 入 国 ビザ が お りな か っ た の で あ る。 そ れ が1929年 に な って や っ と〈 単 身

帰 国 な ら〉 と許 可 され た 。 彼 は胸 を痛 め な が ら,妻 と娘 を 日本 に残 し,出 発

した 。娘 工V・一ナ は1才4カ 月 だ った 。1929年 初 秋 に ニ ェ フ ス キ ー は単 身 帰'

国 した 。 彼 は 日本 に は14年 滞 在 した 。 「レニ ン グ ラ ー ド大 学 教 授 に任 命 さ れ1

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て 」 とあ る。 実 際 に敦 賀 か ら故 国 へ 向 か うの は9月7日 で あ り,主 だ った 知 友 に別 れ の挨 拶 を す るた め上 京 す るの は8月 半 ぼす ぎ で あ る。 東 洋 文 庫(大 正13年11月 設 立)は,『 東 洋 文 庫 論 叢 』を 出 し,そ こに ネ フ ス キ ー の 研 究 を 入 れ る 「 西 夏 学 研 究 小 史 」(N・ ネ フ ス キ ー 『 西 夏 文 献 学 』第1巻,モ ス ク ワ, 1960年 所 収)で,彼 は こ う書 い て い る そ うだ 。 彼 が 作 っ た 西 夏 文 字 の 一 覧 表 は 「 印 刷 の準 備 が な さ れ,日 本 か ら私 が 出発 す る前 に,東 京 の東 洋 文 庫 に手 渡 され た 。 東 洋 文 庫 は そ れ を刊 行 す る こ とを 私 に約 束 した 。 」し か し これ は刊 行 され な か っ た(41)。 彼 は そ の別 離 が ほ ん の 短 期 間 で あ っ て,i無 事 職 につ き, ア パ ー トを受 け取 っ た ら,す ぐさ ま妻 と娘 を迎 え に くるっ も りだ った(42)。し か しそ れ に は4年 間 か か っ た 。

ソ連 で

ニ ェ フ ス キ ー は,レ ニ ング ラ ー ド東 洋 学 研 究 所 で 研 究 し,レ ニ ン グ ラー ド 大 学 の 日本 学 科 で 教 え,西 夏 語 の研 究 を続 け た 。

日本 で4年 間,妻 と娘 はふ た り き りで 過 ご した 。 ロ シ ア か ら の送 金 は許 可 さ れ な か っ た。 イ ソ は就 職 が で きな か った 。 夫 が 「 赤 い」 国 ロ シ ア の 市 民 だ とい う こ とで,絶 えず 警 察 につ き ま とわ れ て い た 。 だ か ら彼 女 は,ビ リヤ ー ド屋 を開 い た り,琵 琶 を 弾 き なが ら古 謡 を歌 っ て,生 活 費 を稼 い だ。 一 方, ニ ェ フ ス キー は母 子 を 呼 ぼ う と奔 走 し た 。 そ して と う と う許 可 を と りつ け た(43)。

1933(昭 和8)年8月 に 妻 ・イ ソ と娘 もソ連 に渡 った 。 ち ょ う ど この 頃,

日本 も反 動 の 時代 に入 っ て い た 。 ドイ ツで ヒ トラ ー が 政 権 を と っ た年 で も あ

る。 母 子 は,船 で 行 っ た 。 そ し て レニ ン グ ラ ー ドへ 着 い た。 ア パ ー トは,静

か な ブ ロー ヒ ン通 りに あ っ た 。 す ぐそ ぼ に ウ ラ ジ ミー ル 公 寺 院 が あ っ た 。 こ

の建 物 に は昔,東 洋 学 研 究 所 が あ っ た 。 研 究 所 が 閉 鎖 さ れ た後,こ の建 物 が

先 生 方 に払 い下 げ に さ れ た 。 そ の た め,そ の アパ ー トに は た くさ ん の東 洋 学

者 た ち が 住 ん で い た 。3階 の第5号 室 に は,ニ ェ フ ス キ ー の か つ て の 教 師 で,

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中 国学 者,当 時 親 密 で あ っ たV・ ア レ ク セ ー エ フが 住 ん で い た 。ニ ェ フス キ ー が ひ と りで レ ニ ン グ ラ ー ドに戻 っ た 時,住 む と こ ろが が な か った 。 す る とア レ ク セ ー エ フ は 自分 の アパ ー トの2室 を 彼 に あ て が っ て くれ た(44)。そ し て ニ ェ フス キ ー は ア レ ク セ ー エ フ を尊 敬 した 。 一 家 水 い らず の 生 活 が 続 い た 。 夫 妻 は客 好 き だ っ た か ら,休 日 に は 必 ず 誰 か や っ て き た。 親 戚 や,彼 の 友 人 の 日本 人 や,東 洋 学 者 た ち だ った 。 彼 はた い へ ん忙 し い 日々 を送 っ て い た 。 1カ 月 に一 度 決 ま っ て親 戚 を訪 れ た 。イ ソ は翌 年1934年,教 員 に な っ た 。彼 女 は,琵 琶 の名 手 で,料 理,裁 縫,編 物 が 上 手 だ った 。 い つ も編 物 を して い た 。それ に絵 を か い た 。ニ ェ フ ス キ ー は,ル イ ビ ン ス ク にい る,育 て て も らっ た ワ ー リ ャ叔 母 の 生 活 を負 担 した 。 彼 女 は1935年 に85才 で亡 くな っ た 。

ソ連 で は1934年,レ ニ ング ラー ド党 書 記 ・キーuフ の 暗 殺 事 件(45)以降,粛 清 が 始 ま った 。粛 清 は,ス タ ー リン の独 自 の犯 罪 的 ・ 政 治 的 計 画 で あ る。キ ー

ロ フ事 件 の 後,ス タ ー リ ン は これ を,ジ ノ ヴ ィエ フ,カ ー メ ネ フ に結 び付 け, 裁 判 に か けて,1936年 に銃 殺 に も って 行 き,そ の後,粛 清 を ソ連 中 に 広 げて 行 くの だ った 。

ネ フ ス カ ヤ(=娘)は 書 く。 「こ うい う穏 や か な 日々 は そ う長 く続 か な

か った 。 ソ ビエ ト上 空 に も うす で に 暗 雲 が た ち こ め て い た 。 一 斉 家 宅 捜 査

が 始 まっ た 。 時 た ま私 た ち の家 の階 段 に,え りを た て 長 い コー トに身 を 包 ん

だ 見 知 らぬ 男 た ち が 現 れ る よ う に な った 。 彼 ら はふ つ う,こ ち らに 背 を向

け,窓 の 方 を向 い て 黙 っ て立 っ て い た 。 こ の不 動 の 暗 い人 影 は ぞ っ とす

る よ うな恐 怖 感 を 呼 び 覚 ま し,住 民 た ち は,彼 ら に気 づ か れ な い よ う す ば

や く脇 を通 り抜 け よ う と した 。 彼 らが現 れ て 後,こ の 家 の住 人 た ちが,ひ と

り,ふ た り と消 え て ゆ き,二 度 と再 び 姿 を あ らわ す こ とが な か った 。 父 は眉

を しか め て 歩 き 回 っ て い た 。 日本 人 や 東 洋 学 者 た ち が 次 々 と逮 捕 さ れ て い

た の だ。父 は毎 日職 場 か ら帰 る と,今 日 は同 僚 の○ ○ さ んが 職 場 に現 れ な か っ

た,と 話 した 。 何 の 罪 を犯 した わ け で もな い の に,自 分 も また逮 捕 さ れ るだ

ろ う と 予 測 し て い た 。 ア レ クセ ー エ フや ア フ ロ シー モ フ家 の人 た ち,そ し

て 知 人 た ち も そ れ を予 測 して い た 。」 ㈹

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多 くの人 々 が,ス パ イ 容 疑 で 内務 人 民 委 員 部 に捕 まっ た 。 内務 人 民 委 員 部 と は,要 す る に警 察 で あ る。 ソ連 で は スパ イ が い る わ けで は な か っ た 。

1937年 春,日 本 人 の 知 人 ・森 が逮 捕 さ れ た 。 ニ ェ フ ス キ ー も逮 捕 を心 配 し た 。 ニ ェ フ ス キ ー は,も し 自分 が逮 捕 さ れ た な ら,妻 と娘 は と うな るだ ろ う と,そ の こ と ばか りを 心 配 して い た 。 彼 が捕 ま る前,コ ン ラ ッ ドは,そ の さ い はエ レ ー ナ を育 て る と言 っ た。 コ ン ラ ッ ドは,若 き 日の ニ ェ フ ス キ ー の学 友 で あ り,親 友 で もあ っ た 。 ロ シア 語 日本 語 辞 典 で 有 名 で あ る。

ニ ェ フ ス キ ー は,小 樽 で も大 阪 で も 日本 警 察 の徹 底 的 な監 視 を受 け て い た 。 そ して ソ連 に帰 った 途 端,彼 は今 度 は ソ連 当 局 に疑 わ れ た の で あ る。 ス タ ー

リ ン は外 国 帰 りを嫌 っ た の で あ る。

1937(昭 和12)年10月4日 夜,ニ ェ フ ス キ ー は逮 捕 され た 。 彼 はア レ ク セ エ フ宅 の 一 部 を借 りて住 ん で お り,ま だ 机 に つ い て執 筆 中 で あ っ た 。 彼 は妻 の イ ソ に,「何 か の まち が い と思 うか ら心 配 す る な,二 時 間 く らい した ら帰 っ て くるか ら,机 の もの は 動 か さ な い で くれ」と言 っ た 。 玄 関 で見 送 っ た の は, イ ソ,エ レ ー ナ,ア レ ク セ エ フ夫 妻 の 四 人 で あ った 。 み ん な別 れ の キ ス を交 わ し,扉 の と こ ろ で 振 り返 り,ア レ ク セ エ フ に 「さ よ な ら(プ ラ シ チ ャ イ チ ェ)」 と言 っ て,コ ー トー 枚 を着 て 出 て行 っ た。 だ が,こ れ が 最 後 だ っ た 。 ニ ェ フス キ ー は戻 っ て こな か っ た 。

四 日後 に イ ソが 逮 捕 され た 。 そ の10月8日,今 度 は男 た ち が イ ソ を迎 え に,つ ま り逮 捕 し にや っ て きた 。部 屋 へ 背 の 低 い軍 人 と掃 除 夫 が 入 っ て きた 。 イ ソ はエ レ ー ナ を抱 き締 め,真 っ青 に な っ て立 って い た 。 彼 女 は娘 の エ レ ー ナ を あ ず け た い か ら,一 階 上 に住 む コ ン ラ ー ド(著 名 な 日本 学 者 ・中 国学 者) 教 授 を呼 ん で欲 し い と,係 官 に頼 ん だ 。係 官 は コ ンラ ー ドを呼 ぶ 必 要 は な い, 娘 は孤 児 院 に入 れ る,と 答 えた6イ ソ は こ こで 失 神 して倒 れ た 。 軍 人 は あ わ て て コ ン ラ ー ドを呼 び に,そ ば に い た 庭 番=掃 除 夫 を走 らせ た 。

罪 状 は,ニ ェ フ ス キ ー が レニ ング ラー ドに お け る スパ イ の 総 元 締 で あ り,

イ ソ も そ の手 先 とし て,ソ 連 在 住 日本 人 の森 と フ ワ ン ・イ ワ ン を 引 き込 み,

日本 人 大 使 館 の 阿 部 とい う女 性 に情 報 を伝 え て い る とい う も の で あ った 。 エ

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レー ナ に よ れ ば,ソ 連 当局 の資 料 で,阿 部 よ し(秋 田生 まれ)が スパ イ の元 締 め とさ れ た 。 しか し彼 女 に は ス パ イ 活 動 の情 報 は な い 。 ニ ェ フ ス キ ー にか ん す る書 類 は,内 務 人 民 委 員 部 第 三 課 第 二 班 に よ っ て,逮 捕 前 に作 られ た 。 ニ ェ フ ス キ ー が 自分 の 罪状 を知 ら され た の は,11月22日,銃 殺 の 二 日前 で あ っ た 。 連 日は げ しい拷 問 が 繰 り返 され た ら し く,ニ ェ フス キ ー は そ の 調 書 に,く ね くね 曲 が った 字 で認 め る サ イ ン を して い る。 ニ ェ フス キ ー は 大 阪 で 特 高 か ら スパ イ に なれ と言 わ れ た と,さ れ た 。 彼 を,立 っ た ま ま の部 屋 に い れ,殴 った,と 内 務 部 の役 人 は言 っ た 。 ニ ェ フ ス キ ー が 日本 の スパ イ を努 め た こ と は な い。 当 時 の ソ連 人 は,誰 で も無 実 の 罪 で スパ イ に デ ッチ あ げ られ

て い た の で あ る 。

イ ソの 逮 捕 後,数 日 して,日 本 語 学 者 ホ ロ ドヴ ィ チが や って き て,ニ ェ フ ス キ ー の 原 稿 や蔵 書 を整 理 した 。 ホ ロ ドヴ ィ チ は,か つ て ニ ェ フ ス キ ー 家 に しぼ し ぼ 現 れ,1934年 に は ヴ ォ ル ガ 下 り も一 緒 に し た 親 し い 仲 だ っ た 。 エ レ ー ナ は,カ ・ゲ ・ヴ ェ(47)(当時 の 国 家 保 安 委 員 会)の 秘 密 書 類 の 中 に,ホ ロ ドヴ ィチ が 内務 人 民 委 員 部 第 三 課 の秘 密 工 作 員 で あ っ た こ と を,最 近 見 た 。 第 三 課 は,ニ ェ フス キ ー夫 妻 を は じめ,処 刑 さ れ た 多 くの 中 国 学 者,日 本 学 者 を直 接 担 当 して い た 。

母 イ ソ は,調 書 へ の署 名 を拒 否 した 。 断 固 と して 否 認 を続 け,サ イ ン も し て い な い(48)。 エ レー ナ は これ に つ い て,「 この 強 固 さ は民 族 的 性 格 と強 い 夫 婦 愛 に基 づ く もの で あ ろ う」 と書 い て い る(49)。日本 女 性 は 強 か った 。

夫 妻 は,無 実 の 国 家 反 逆 罪 を宣 告 され,同 年11月24日,夫 妻 と も銃 殺 さ れ た。 レニ ン グ ラ ー ドの カ ・ゲ ・べ 本 部 で,計 七 人 が 銃 殺 され た 。 そ こか ら ネ ヴ ァ河 に大 量 の 血 が 流 れ 込 み,特 別 の 船 で そ の 血 を散 らせ た と,伝 え られ る。 エ レー ナ は まだ9才 で あ っ た。

コ ン ラー ドは1938年7月29日 に 逮 捕 さ れ,8月13日 の 訊 問 で,ニ ェ フ ス

キ ー夫 妻 が 日本 の ス パ イ で あ っ た こ と,自 ら もス パ イ と して 日本 人 上 田,鳴

海 と連 絡 を保 っ た こ と を拷 問 に よっ て 認 め さ せ られ た が,1939年1月4日 の

訊 問 で は い っ さ い 否 認 した との書 類 も残 っ て い る。 この時 代 は,悪 名 高 き 内

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務 人 民 委 員 エ ジ ョ ブ(ニ カ ラ ー イ ・イ ヴ ァ ノ ヴ ィ チ ・エ ジ ョ フ,1895‑

1938)(50)の 時 代 で あ る 。 も ち ろ ん ス タ ー リ ン は エ ジ ョ ブ の 仕 事 は よ く知 っ て い た 。 特 に1937年,38年 に は,粛 清 の 猛 威 が お そ っ た 時 期 で あ る 。 ソ連 で は 密 告 し な い で は 生 き られ な い 時 代 だ っ た 。 杉 本 良 吉 と 岡 田 嘉 子 が 樺 太 か ら ソ 連 に 越 境 し た の も,1938年 で あ っ た 。

エ レ ー ナ は コ ン ラ ッ ド に 育 て ら れ た 。 ニ ェ フ ス キ ー の 文 書 は 友 人 に 分 け た 。 エ レ ー ナ は,コ ン ラ ッ ドの 家 の 女 中 ア ニ ー シ ャ に 世 話 を し て も ら っ た 。 そ の あ と,親 戚 の 三 っ の 家 庭 を 転 々 と し た 。1940年 か ら遠 い 親 戚 の と こ ろ で 暮 ら す こ と に な っ た 。 そ の 後,独 ソ 戦 が 始 ま っ て か ら,ス ヴ ェ ル ド ロ フ ス ク の 遠 い 親 戚 の も と で 生 活 し た 。 っ い で ア ラ バ ー エ ス ク で,初 め の 親 戚 の も と で 生 活 し た 。 そ し て ウ ク ラ イ ナ,タ ー リ ン へ と移 っ た 。

エ レ ー ナ は,18才 に な っ て,両 親 を 捜 そ う と し た 。 カ ・ゲ ・ヴ ェ 本 部 を 訪 れ た 。 そ の 半 年 後,父 が1945年2月11日 に,母 が1945年12月12日 に死 ん だ と知 ら さ れ た 。 だ が そ の 日付 は 誤 り で あ る 。

1953年 に ス タ ー リ ン が 死 に,し ぼ し 権 力 闘 争 が 続 い た 後,ニ キ ー タ ・フ ル シ チ ョ フ 第1書 記 の 時 代 と な る 。1957年11月14日,白 ロ シ ア(現,ベ ラ ル ー シ)軍 管 区 軍 事 法 廷 で,ニ ェ フ ス キ ー ら の 無 実 が 認 め られ,名 誉 回 復 が な さ れ た 。 イ ソ の 名 誉 回 復 は,1958年2月28日 で あ っ た 。 ス タ ー リ ン の 粛 清 は, ほ と ん ど す べ て 彼 の ね つ 造 で あ っ て,無 実 の 人 々 の 受 難 で あ っ た 。 そ し て, ニ ェ フ ス キ ー の 『 西 夏 文 献 学 』2巻(1960年)な ど の 業 績 に 対 し,1962年 に 出 版 科 学 部 門 の レ ー ニ ン 賞 が 授 与 さ れ た 。す る と,「 ネ フ ス キ イ 事 件 」 と し て 調 査 が 始 ま り,「N・ ネ フ ス キ イ は1945年 春 心 臓 で,そ の 妻 イ ソ ・ネ フ ス カ ヤ は,晩 秋 に 腎 臓 で 死 ん だ 」 と い う 答 え を,エ レ ー ナ は 受 け 取 っ た 。 エ レ ー ナ は 父 母 の 本 当 の 死 因 に つ い て 噂 と し て は 聞 い て い た 。 だ が 正 式 に 知 っ た の

は,ソ 連 崩 壊 後 の1991年 だ っ た 。(51)

エ レ ー ナ(=ネ リ)は,医 者 に な ろ う と し て,モ ス ク ワ 大 学 医 学 部 を 受 け

た 。 し か し 「人 民 の 敵 」 の 娘 だ か ら,駄 目 だ っ た 。 そ の 後,1948年,レ ニ ン

グ ラ ー ド大 学 医 学 部 に 入 れ た 。 「人 民 の 敵 」 に つ い て は 言 わ な か っ た 。彼 女 は

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6年 間 学 ん で,そ こ を 卒 業 し,小 児 科 医 と な っ た 。 そ の 後,軍 人 ウ ラ ジ ミー ル ト フ と結 婚 し,マ リ ー ナ が 生 ま れ た 。 だ が 離 婚 し,医 者 と再 婚 し た 。 そ の 後 別 れ た 。 マ リー ナ は,医 大 の 先 生 と結 婚 し,娘 が 二 人 い る(52)。1989年 に 娘 エ レ ー ナ は 日本 を 訪 問 し,父 の 勤 務 し て い た 小 樽 商 大 も 訪 れ た(53)。積 丹,札 幌 に 住 む 叔 父 や い と こ の 歓 待 を 受 け た 。 し か し彼 ら は ロ シ ア 語 が 話 せ ず,エ レ ー ナ は 日 本 語 が 話 せ な い の で,お 互 い に,も ど か し か っ た 。現 在(2000年), 彼 女 は,ペ テ ル ブ ル グ(旧 レ ニ ン グ ラ ー ド)に 住 み,娘 夫 婦,孫 三 人 と共 に い る(54)。 ソ連 か ら ロ シ ア に 体 制 が 激 変 す る 中 で,年 金 だ け が 頼 りの 厳 し い 生 活 を 強 い られ た 。(55)

ニ ェ フ ス キ ー の 著 述 で,今 ま で 日 本 で 出 版 さ れ た も の に,『 ア イ ヌ ・フ ォ ー ク ロ ア 』(北 海 道 出 版 企 画 セ ン タ ー),『 月 と不 死 』(平 凡 社),『 宮 古 の フ ォ ー ク ロ ア 』が あ る 。 ロ シ ア 語 で は,ニ ェ フ ス キ ー に つ い て,ソ 連 科 学 ア カ デ ミ ー の 研 究 員 グ ロ ム コ ー フ ス カ ヤ(Gromkovskaya)女 史 の 二 つ の 研 究 が あ る。

(1)募 目,『 緑 丘 』59.9ペ ー ジ。

(2)エ レ ー ナ ・ネ フ ス カ ヤ 「私 の 小 ど も時 代(そ の1)」(『 カ ス チ ョー ル 』18号,2000 年10月,(以 下,ネ フ ス カ ヤ と略)。

(3)墓 目,『 緑 丘 』59.9ペ ー ジ。

(4)『 定 本 柳 田 国 男 全 集 』 全31巻 筑 摩 書 房,あ り。

(5)折 口(1887,明 治20年 一1953,昭 和28年)。 代 表 作 『古 代 研 究 』。 國 學 院 大 学 教 授,慶 応 大 学 で も教 え る。

(6)中 山(1876‑1947)。 民 俗 学 者 。 栃 木 県 出 身 。 新 聞 社 な ど に 勤 め る。 退 職 後,執 筆 活 動 。

(7)募 目 英 三 「小 樽 高 商 ロ シ ア 語 教 師 ニ コ ラ イ ・ア ン ド ロ ビ ッ チ ・ネ フ ス キ ー 氏 (寝婦 好)の こ と(NikolaiA.Nevski)」 『 緑 丘 』52,10‑11ペ ー ジ 。 た だ し,こ こで ア ン ドロ ビ ッチ は 誤 り だ ろ う。

(8)桧 山真 一 「知 られ ざ る ニ コ ラ イ ・ネ フ ス キ イ(一)」(『 窓 』ナ ウ カ1992年3月 80号)13ペ ー ジ 。

(9)同 「(二)」(同1992年6月81号)31ペ ー ジ。

⑩ 桧 山真 一 「ニ コ ラ イ ・ネ フ ス キ ー と橘 三 千 三 」(『な ろ う ど』28,1994年3月) 4ペ ー ジ。 こ の 資 料 は 南 里 氏 か ら提 供 を受 けた 。

(1D桧 山 「ネ フ ス キ イ の も うひ と りの 娘 を 探 して 」(『異 郷 に生 き る 』成 文 社2001年) (12)は つ,は,加 藤 九 柞 『 天 の蛇 』河 出 書 房 新 社1976年,81ペ ー ジ の 写 真 に あ る。

(13)森(1890‑1961)。 大 正 ・昭 和 の 女 優 。

(14明 治45・4・20小 樽 高 商 助 教 授,大 正8・4・27死 亡 。

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(15)桧 山,8ペ ー ジ。

⑯ 『緑 丘 』53,18ペ ー ジ 。

⑰ 『 北 海 道 新 聞 』2001年5月13日 朝 刊 で,「 も う1人 娘 が い た!」 で,ネ フ ス キ ー の 娘 ・若 子 が い た こ とが,こ の ほ ど明 らか に な っ た,と さ れ て い る 。 し か し 若 子 の 存 在 に つ い て は,桧 山稿(『 な ろ う ど』28)で す で に あ る。

⑱ 桧 山 「ネ フ ス キ イ の も うひ と りの 娘 を 探 して 」(『異 郷 に生 き る 』成 文 社2001年)

⑲ こ れ につ い て,拙 書 『現 代 世 界 思 想 史 序 説 上 』丘 書 房,で 簡 単 に 書 い て あ る の で,割 愛 す る 。

⑳ 山 下 久 雄 「 解 説 」(佐 々 木 喜 善 『 遠 野 の ザ シ キ ワ ラ シ とオ シ ラ サ マ 』宝 文 館 昭 和63年,所 収)270ペ ー ジ。

⑳ ネ フ ス カ ヤ,同 。

働 小 樽 高 商 か ら東 京 商 大 へ ゆ き,小 樽=に戻 り,実 業 人,同 時 に小 樽 地 方 史 家 と な る 。

㈱ 越 崎 の 稿,『 緑 丘 』59,5ペ ー ジ 。 (24越 崎 。

㈱ 目黒 「ネ フ ス キ ー先 生 と親 交 を 結 ぶ 」;越 崎 の 稿(『緑 丘 五 〇 年 史 』);な お,『 緑 丘 』No。60,61,62,69,72も 見 よ 。

㈱ 越 崎,45‑46ペ ー ジ。

⑳ 現,後 志 管 内積 丹 町 入 飼 。

㈱ 加 藤 『天 の 蛇 』 河 出 書 房 新 社1976年,144ペ ー ジ 。

㈲ ネ フ ス カ ヤ 同 。

(3① 募 目 「ニ コ ラ イ ・ネ フ ス キ ー の生 涯 に つ い て(2)」 『緑 丘 』60,8ペ ー ジ。

(30a)こ の 校 長 た ち に つ い て は,さ し あ た り,小 樽 商 科 大 学 ・高 商 史 研 究 会 『小 樽 高 商 の人 々 』 北 海i道大 学 出 版 会2002年,を 見 よ。

⑳ 桧 山 「(四)」(『窓 』 ナ ウ カ社,1992年12月,83号)50ペ ー ジ。

(31a)小 林 多 喜 二 に つ い て は,さ し あ た り,本 学 の 『 商 学 討 究 』 『 人 文 研 究 』へ の 連 続 拙 稿 を見 よ。

(32)ソ 連 科 学 ア カ デ ミs‑一 の グ ロ ム コ ー フ ス カ ヤ 女 史 の 指 摘 。

⑬ 貝 塚 茂 樹 『中 国 の歴 史 』 中,岩 波 書 店 。 (34『 北 海 道 新 聞 』2000・10・1,日 曜 版 。

㈲ 同 。

(36)し か し前 述 の慕 目 説 と違 う 。

⑳ 桧 山,同,48ペ ー ジ。

㈱ 『北 海 道 新 聞 』2000.10.1同 。 (39)ネ フ ス カ ヤ,103ペ ー ジ 。 ω 同 。

ω 桧 山真 一,ネ フ ス キ ー と東 洋 文 庫,成 文 社 ホ ー ム ・ペ ー ジ。

(42)ネ フ ス カ ヤ 。

(43)ネ フ ス カ ヤ,103‑4ペ ー ジ 。 (44)ネ フ ス カ ヤ,104ペ ー ジ 。

㈲ ロ イ ・メ ドヴ ェー デ フ 『 共 産 主 義 とは 何 か 』 三 一 書 房 。

㈲ ネ フ ス カ ヤ,106ペ ー ジ 。

㈲ ソ連 内 務 人 民 委 員 部,つ ま り警 察 で あ る。 正 確 に は,次 の よ う に名 称 が 変 化 し

た 。 反 革 命 ・サ ボ タ ー ジ ュ ・ 投 機 と闘 う 非 常 委 員 会(チ ェ ・カ)→ 国 家 保 安 部(ゲ ・

(19)

ぺ ・ウ)→ 合 同 国 家 保 安 部(オ ・ゲ ・ぺ ・ウ)→ 内 務 人 民 委 員 部(エ ヌ ・カ ・ヴ ェ ・ デ)→ 内 務 省(エ ム ・ヴ ェ ・デ)→ 国 家 保 安 省(エ ム ・ゲ ・べ)→ 国 家 保 安 委 員 会(カ ・ゲ ・べ)

(48)加 藤 九 柞 「 悲 運 の 東 洋 学 者 の最 期 」(『朝 日新 聞 』1992年4月6日 夕 刊)。

㈲ 同,加 藤 論 説 に あ る,エ レ ー ナ の 書 い た 「両 親 に つ い て 」 か ら。

㈲1936‑38年 の ゲ ー ・ペ ー ・ウ ー(国 家 政 治 保 安 部)の 長 官 。 そ の 行 き 過 ぎ で 罷 免 さ れ,発 狂,自 殺 し た と さ れ る。

㈲ エ レ ー ナ 聞 き が き,田 中 。

(52)こ の稿 は,加 藤 九 柞 氏 講 … 話(1994年12月13日,小 樽=商大)に よ っ て補 足 さ れ た も の 。 加 藤 は,朝 鮮 生 まれ,上 智 大 を 卒 業 し,平 凡 社 に勤 務 した 。 そ の後,上 智 大,国 立 民 族 博 物 館,創 価 大 で 教 え る 。 作,『 北 東 ア ジ ア 民 俗 学 研 究 』恒 文 社;

『シ ベ リ ア の 歴 史 』 紀 ノ 国 屋;訳 『シベ リア に つ か れ た 人 々 』 岩 波 新 書 。

㈲ そ の 時,筆 者 も会 っ た 。

(50そ の 他 資 料,天 理 図 書 館 報 「ビ ブ リヤ 」(昭 和46年6月 号)。 岡 崎 精 郎 「ニ コ ラ イ ・A・ ネ フ ス キ ー の 業 績 と生 涯 か ら」。

㈲ 『 北 海 道 新 聞 』2000年11月27日 朝 刊 。 『カ ス チ ョー ル 』18号 。

追 記:マ リー ナ ・ドツ ェ ン コ(エ レ ー ナ ・ネ フ ス カ ヤ の娘)「 私 の 子 ど も時 代 」(『カ ス チ ョー ル 』19,2001年12月)が 出 た 。

ニ ェ フ ス キ ー 略 年 譜

1892年 ヤ ロ ス ラ ー ヴ リ市 に 生 ま れ る 。 1901年 イ ソ,生 ま れ る 。

1913年 ニ カ 月,日 本 に 留 学 。

1914年 ペ テ ル ブ ル グ大 学 東 洋 語 学 校 を卒 業 。 第1次 大 戦 が 勃 発 。

1915(大 正4)年 日 本 に 留 学 。

1917年2月,10月 の,ロ シ ア 革 命 勃 発 。

1919年 内 輪 で,前 田 光 子 と結 婚 式 を あ げ る。 若 子,生 まれ る。

小 樽 高 商 ロ シ ア語 教 師 とな る。

1920年 東 北 調 査 旅 行 。

高 商 ロ シア 語 劇 で,学 生 指 導 。 1921年 イ ソ と結 婚,正 式 に は1929年 。

小林 多喜二が小樽 高商へ入学 。渡辺龍聖校 長が辞任 。

1922年 小 樽 高 商 を辞 任 し,大 阪 外 国 語 学 校 へ 。

(20)

22

人 文 研 究 第103輯

1928年 ネ リ ・=エ レ ー ナ,生 ま れ る 。 1929年 単 身 ソ 連 に 帰 国 。

1933年 イ ソ,ネ リ,ソ 連 へ 行 く。

1937年 逮 捕,つ い で,イ ソ も逮 捕 。2人 銃 殺 さ れ る 。

参照

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