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― ― 自然との交わりの記憶

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(1)

『人文コミュニケーション学科論集』22, pp. 1-32. © 2017茨城大学人文学部(人文学部紀要)

―裸足と芋の世代が継承するムラの祭祀―

 

石井 宏典

要旨

 沖縄本島北部の一集落において代々継承されてきた年中祭祀の場を考察 することを目的として、

5

年にわたる参与観察を行った。そのさい社会心 理学の立場から行事が導く人と人との交わりに着目しつつ、人と自然の交 わりにも目を向けた。神々とつながる場所で芋神酒を供えて豊作・豊漁を 祈願するこの行事に参加するのは、おもに芋が主食の時代に育った人たち である。昔どおりのやり方で神酒を作り、昔と変わらぬ場所に供えて拝み、

昔と同じように共食し語らうという行為をとおして、過去と現在の重ね合 わせが幾重にも促され、連続性の感覚が醸成される。また、昔ながらのや り方を守る神人の姿勢は、農耕・採集、加工、料理といった自然から食に 至る過程をなぞることで、自然の恵みの有り難さと、「難儀の過程」を経 るからこそ訪れる喜びを共に味わいあうことの大切さを伝えている。

. フィールドと研究課題

1.

畑の稔りと海の恵み

 フクギ並木に包まれた備ムラには、年に

2

回、旧暦の

4

月と

6

月に大うぷう が ん願と呼ばれる神かみ行 事(年中祭祀)がある。ムラの神行事を司る神かみんちゅ人によれば、芋神み き酒を作って供えることから 芋(甘藷)を中心に豊作を祈願する行事だという。かつて芋はこのムラの主食だった。大御 願はまた、ミーウガンと呼ばれる離れ小島に渡って洞窟の竜宮神を拝むことから、豊漁と航 海安全を祈願する行事でもある。ムラの東には畑地が拓かれ、西にはイノーと呼ばれる浅瀬 が広がる。ムラ人たちは畑の稔りと海の恵みを受けて世代をつないできた。

 

1929

(昭和

4

)年生まれのトヨさん(

2015

年に

84

歳)と同級生の美代さんが戦前の子ども 時代をふりかえったつぎの掛け合いも、海と畑と結びついた生活を伝える1。芋を三食食べ ていた当時、ギシチュミ(ムラサキ貝)と呼ばれる二枚貝は芋との相性が抜群だった。

(2)

〈貝と芋〉[

2015-02-20

:福女会]2

トヨ:(薪たきぎを取りに)山行ったり、海行ったり。リーフの内側の海があるでしょ。昔は海洋 博(

1975

年開催)がない、自然の海が広がっていたもんだから、ウニ、いま本土にもこ んなおいしいウニはないはずよ、昔のウニ。ギシチュミといってもあった、親指の長さぐ らいの貝。あれは誰でもザル持って行ったら獲れた。

美代:また、おいしかったからね。

トヨ:そして獲ってきたらそれで終わりじゃなくて、毛(貝に付いた藻)をこするの。一生 懸命これ、

1

時間ぐらい、それ以上かな、石にこするわけ。貝に付いてる毛を。これをこ すって(とって)。それから蒸したりおつゆに使ったり、しよった。もうどこの家庭でも、

わたしたちの年代はみんなやっている。芋とこれがあればもう申し分がなかった〔笑う〕。

芋とこれがあれば、ほんと。

美代:芋が主食だからね、ご飯はないから。

トヨ:もうご飯はね、ヒチビ(節日、祝日)にしかなかったわけよ。年に多くて

5

回ぐらい かね、多くて

5

回ぐらい。米でもね、(炊くときに)ぜんぶ米使う家庭はエーキンチュー、

金持ち。何か粟混ぜたり、いろんなもの混ぜて、自分たちみたいな貧乏家庭は、何か混ぜ ていた。また、学校に行くでしょ、風呂敷に本は包んでこっちに腰に巻くでしょ。で、手 が空いてるでしょ。学校行きながらザルに肥やし入れて、頭にのせて、畑に置いておけば

(後から親が)やるよと。学校に行きながら腰に本は巻いて、頭にのせてザルは。そのま ま畑にポンと置いて学校に。そういう生活。

 ここには、芋を食べる日常と粟や米にありつける祝日という対比が語られている。また、

貝を獲って食べられる状態まで手を加えたり、登校時に肥やしを畑まで運んだりといった内 容からは、家庭の日常を支えるために子どももしっかりと役目を果たしていたことがわかる。

トヨさんより

8

歳下となる

1937

年生まれのチエ子さんは、小学

2

年のときに沖縄戦に巻き込 まれて妹を亡くしている。父や兄を亡くした同級生も少なくなかった。つぎの語りは終戦直 後のムラのくらしを伝える。

〈戦後の生活〉[

2012-09-05

チエ子:あの当時(終戦直後)の人、旦那みんな亡くしてね、ほんとに遊ぶことも知らんし ね、ただ子ども育てるだけが精一杯で、もうほんとにもう、子どもなんてほったらかしで すよ。畑行って、雨が降ればまたカズラ(芋の苗)の先切って植えて、そっから芋ができ るように。それするか、そんで前に植えた芋のほうは芋掘りに行って、それを炊いてやる か、もう食べるもんもほとんどないです。そやから子どもたちが海行って貝拾ってくると か、またその芋炊く炊きもんもないから、薪もないから、また山行って、それをまた子ど もたちが取ってくるとか。

(3)

  で、親はご飯こしらえたり、ご飯といっても、米(はない)。芋というの、炊くのに火 がいりますやん。長いこと、中まで炊こう思うたら、それがまたね、なんとか方法なかっ たのかね、あんな大きな芋炊くのには薪がいる。薪取るいうたら、山何里も、…何キロも 行って、炊きもん(薪)頭にのせて持って帰ってくる。持ってきたかて、こんな一日芋炊 いたらもうすぐになくなりますやん。それの繰り返しですよね、何十年かね。いつごろか、

こないちょっと進んだ世の中になったか、それがわからない。

 トヨさんもチエ子さんも、学校へは裸足で通っている。チエ子さんは中学生のとき(

1950

年代初め)、遠足で名護に行くからと買ってもらった靴が履き慣れず、けっきょく裸足で山 道を歩いたという。

 チエ子さんよりさらに

10

歳下の善久さんは

1947

年の生まれで、いわゆる終戦後の団塊世 代にあたる。ムラの同級生は男女合わせて

90

名以上もいたが、その

4

分の

1

ほどは中学校を 卒業するまでに中南部に転校していった。彼の記憶では、小学

5

年生(

1958

年)ごろまでは 裸足で過ごしていた。靴底がすり減ってもったいないからと靴を履くのは運動会のときだけ だったという。小学生のときは芋中心だった食生活は、中学生になると三食米飯となった。

このころ、自給用の芋や粟を育てる畑が減り、換金作物であるサトウキビの畑が広がっていっ た。

 裸足から靴を履くようになり、畑で育てた芋を食べる日々から購入米を食べる日常へと変 わってから、半世紀余りの月日が流れた。本稿では、この変化の渦中に身をおいた世代に着 目する。大御願の現在とこの行事を支える世代の記憶を重ねてみたい。

2.

研究の課題と視点

 かつて、神人たちが主導するムラの神行事の多くは、主要作物の稔りに対応していた3。 自給的生活を送るムラの人びとにとって、これらの作物の稔りによって命が支えられている のだから豊穣への願いは切実だった。暦(旧暦)の順に稔りに対応した行事をあげてみよう。

2

15

日後の吉日を選んで行われる二月ウマチーは、麦の穂が実を結ぶ時季にあたり麦穂を 供えてその豊かな稔りを祈願した。

3

15

日後の吉日に行われるウバンジュミは、収穫した トーマミ(唐豆、ソラマメ)と麦を炊いて供え、これらの稔りに感謝する。かつてはこの豆 で味噌を作った。

4

月と

6

月それぞれの吉日を選んで行われる

2

つの大御願では、芋(甘藷)

の神酒が供えられる。この期間は芋の苗を植え付けるのに最も適した時季にあたり、芋を中 心とした豊作と豊漁を祈願する。四月大御願では、芋とはったい粉(煎った大麦を挽いた粉)

で作ったプチムチーも供えた。

6

25

日の綱引きの翌日に行われる

2

度目のウバンジュミは、

収穫しはじめの粟やチミアワ(黍)でアワメー(粟飯)を炊いて供えた。七月に一週間続く シニグ行事では、芋や粟の神酒、芋とトーヂン(唐黍、タカキビ)の餅、粟のハシチ(強飯)

などが供えられる。

9

月の吉日に行われるミャーラ御願では、収穫したばかりのウチマミ(下

(4)

大豆、沖縄在来の大豆)を供えた。このウチマミで祝い事に欠かせない豆腐を作った。

11

月冬至前の吉日に行われるウンネー(芋折目)ではふたたび芋の神酒を作り、芋と牛汁とと もに供えた。牛の角のように大きな芋ができるようにとの願いを込めた豊作祈願である。こ うした農のサイクルを繰り返してきたムラには、収穫した穀物をヌルに捧げるという慣習が あった。

3

月ウバンジュミのトーマミ、

6

月ウバンジュミの粟、そして

9

月のミャーラ御願の ウチマミを各家から

1

合ずつ徴収し、それらをヌルブチ(扶持か)と呼んでヌルに献上し、

その労に報いた。しかし、この慣習も海洋博前に途絶えている。

 ムラの神行事の変遷と現状を把握することを目的として、

2011

年から現在まで行事の場 への参与観察を重ねるとともに、神人を中心とした担い手たちへの聞きとり作業を進めてき た。本稿に先立って旧暦

7

月に行われるシニグ行事をとりあげ、行事を取り巻く状況変化と 神人たちの対応についてつぎの

3

点を指摘した(石井

, 2014

4。第一に、ムラ人の多くが農 の営みから離れるなかで神人が担う神行事への関心が薄れ、

1975

年の海洋博覧会開催はそ の流れを加速させた。備瀬ムラのある本部町において第一次産業従事者の比率は、

1960

年 には

70

%を超えていたが

1975

年には

20

%に急減した(

2010

年は約

11

%)。第二に、海洋博 を契機にムラ外での賃労働に就く女性が増えたために、神酒づくりなど行事の裏方を支える 担い手が減り、その輪番制も崩れた。第三に、こうした過程で神行事はムラ全体で支えるも のから神人やその家族が背負う小さなものになった。それでも、神人たちは自ら裏方の作業 を献身的に担うことで行事を継続させ、ムラの豊穣と子孫の無事を祈りつづけていた。

 かつての主要作物のうち、今もムラの畑で目にすることができるのは芋のみである。その 芋も自給用というよりも、限られた農家が換金作物として栽培するものに変わっている。ム ラの神人は先にあげた神行事のすべてを現在でも遂行しているが、参与観察をとおしてわ かったのは、神人と手伝い役以外の参加があるのはシニグと大御願に限られることだった。

シニグはすでに報告を重ねており5、本稿では大御願をとりあげたい6。本研究の目的を定め る。年に

2

回の大御願に参加する人たちの多くは、芋が主食だった時代に育った人たちであ る。この行事では今もムラの畑で穫れた芋を用い、昔と変わらぬ手順で芋神酒を作り、聖な る場所に供えて拝んでいる。昔ながらのやり方で進められるこの行事は参加者たちに何をも たらしているのか。また、くらしの自給的側面が失われつつあるなかにあってムラの豊作と 豊漁を祈願するこの行事を続けることの意義は何なのか。これらの問いに迫ってみたい。本 研究は、社会心理学の観点からムラの伝統行事が導く人と人との交わりについて取りあげる が、それにとどまらず、人と自然の交わりにも目を凝らしてみたい7

 本研究では、

2012

年から

2016

年にかけての

5

年間で

10

回行われた大御願のうち、

8

回で参 与観察を実施した。そのうちの

2

回は前日の芋神酒づくりから参加し、それ以外は当日のみ の参加だった。記録手段については、フィールドノートへの記録を基本としながら、参与観 察では適宜カメラやビデオカメラによる撮影を行い、聞きとりではICレコーダーによる録 音を併用した。記録は随時許可を得ながら進められた。本稿の記述は、これら複数の媒体に

(5)

よる記録をもとにしている。また調査者は、記録をとることに専念する観察者という立場に とどまらず、人手が必要とされる場面では積極的に手伝うといった姿勢で臨んだ。拝みの場 では神人や参列者の後ろで一緒に手を合わせ、語りあいの輪にも入れてもらった。

. 大御願の現在

1.

行事の場所

 芋神酒づくりを含む行事の進行について、時刻、場所、担い手、行為内容を表

1

にまとめた。

この表からわかるように、行事はいくつかの場所を巡りながら進められる。アサギやヌンドゥ ンチ(ヌル殿内)以外の主要な場所について紹介する(図

1

8

a.

ナカリューグ(中竜宮)

 アサギ(お宮)前から浜辺に抜ける手前、海を望む高台にある拝所。浜辺からは坂を上っ たところにあるためサンケーバンタ(参詣坂)とも呼ばれる。コンクリートで弧を描くよう な形で固められた台座の中央には方形の祠と香炉が据えられており、神人たちが拝むときに は、海とは反対の山手の方角に向かうことになる。その後、区長を中心に男たちは海を臨む 場所にある香炉に移動して手を合わせる。このとき男たちが主導するのは、海に出るのは男 だからと説明される。昔は、税などの伝令舟がこの下の浜から伊江島に向かったという。ま た、

1960

年代半ばまで、神行事のさいに参加者を乗せた舟がこの浜からミーウガンに向け て漕ぎだした。以下は根に が み神である松枝さんとヌルさんとの掛け合い9

1 大御願の進行

日時 場所 担い手 行為

前日午前・午後 公民館の炊事場 神人と手伝い① 神酒づくり(芋を炊いてつぶす)

当日午前中 公民館の炊事場 神人と手伝い② 神酒づくり(練り芋を濾す)

当日14時ごろ ヌンドゥンチ 神人③ 行事開始の拝み アサギ 神人と参列者 芋神酒を供え拝む ニーヤーとヌンドゥンチ 神人④ 芋神酒を供え拝む 15時ごろ ナカリューグ 神人と参列者 芋神酒を供え拝む

ミーウガンに渡る 神人と参列者

16時ごろ 洞窟 芋神酒を供え拝む

墓所 重箱を供え拝む

ムンジュクイ浜 海に向かって拝む

17時ごろ クビール 神人と参列者 重箱を供え遙拝 18時すぎまで 神人と参列者⑤ 共食(直会)

(6)

〈舟でミーウガンに渡る〉[

2012-01-25

松枝:ほとんどここ(ナカリューグ下の舟着き場)から、わたしが(根神としてムラに)出 てからも舟で竜宮に渡したんですよ。…

ヌル:ここから舟出してね。

松枝:ここから向こうには、灯台の下の祠(洞窟のことか)のところまでは舟でみんな渡し よったんですよ。あのころの(備瀬区の)事務所で書記さんしている方々はちゃんとサバ ニを用意してね、行事ごとに。神人

5

名乗って行きよったかな。

3

名とおじい

2

人と、

5

名 乗せて。もう、いつも渡して。波の荒いときはおぶられて、あの人たち、このへん(膝)

まで波に浸かっていて。ちょっと舟がすぐ砂場まで着けられないときは、途中からおぶっ て、…渡してくださったんですよ。それだけ関心があったわけね。で、いまボートがあっ てもみんな仕事だし、関心も薄れたから

20

日の日取りとったのは(潮が引いて歩いて)

渡れるから。

ヌル:

6

月も

20

日、みんな(

4

月の大御願も)

20

日でしょう。このときには、…もう自分で渡 るように、それで

20

日に決まったのよ。

 松枝さんがあげた

5

名の神人というのは、ヌルと両根神、男性神役のスマンペーフとカジ トゥイのことを指している。ヌルさんによれば、舟で渡ったのは神人たちに限らず「はじめ は神人が行く。あとからは希望する人がぜんぶ行った」という。当時は、舟を寄せやすい満 ち潮のときに渡った。ムラ人たちの行事に寄せる関心が薄れるなかで、神人たちは自分たち

1 備瀨の拝所

アサギ

② ナカリューグ

③ ミーウガン(竜宮)

クビール

グシク山

イーグチ 大御願の順路:

①→②→③→④

国土地理院撮影の空中写真(1977年)を掲載

③ ④

(7)

で歩いて渡れる日時(各

20

日の干潮時)に行事を設定するという対応をとった。

b.

ミーウガン

 ミーウガンとは、備瀬崎の先端に位置する離れ小島をさし、海の神である竜宮神と交感す る聖域とされる。ムラ人たちは行事のとき以外にはこの島に足を踏み入れることはない。大 御願のときに巡るのは、①島の先に位置する自然洞窟の拝所、②島の中あたりにある、ヌル・

根神の先祖の遺骨が納められた墓、③ムンジュクイ浜と呼ばれる海に向かう岩の拝所である。

①自然洞窟の拝所

 洞窟の中には香炉が

3

つ並び置かれ、中央が備瀬の竜宮神、左手がさまざまな作物の種を もたらした唐(中国)、そして右手は航海安全を込めた大和(日本)を象徴している。備瀬 崎は波が荒く船の難所であった。ミーウガンの先にある大きな岩はヤマトゥンシ(大和石)

と呼ばれ、かつて大和からの船が付近で座礁したときに船員たちはこの岩に上って助かった との伝承がある。

 以前は香炉の奥に赤土が盛られており、これはシチガナシーと呼ばれる聖なる土であった。

神人は洞窟に入ると、はじめにこの土を

3

回盛りながら「今年も豊作でありますように」と 唱え、それから芋神酒を供えての拝みに移った。また、スマンペーフを務めていたニーヤー のおじいは、ムラ入り口の浜辺で拾った

7

つの丸い石をタオルに包んで持ってきて、その石 をムラの作物の七俵に見立ててシチガナシーのところに置いたという。作物を生み出してく れる土に感謝しながらの豊作の祈願だった。

 この洞窟はまた、旅立ちの御願(祈願)をする場所でもあり、シチガナシーは旅に出る人 のお守りにもなった。その例を

2

つ示す。

 〔事例

1

1910

(明治

43

)年生まれの具志堅実さん(故人)は、

1929

19

歳でフィリピン のミンダナオ島ダバオに渡り、麻を栽培する農園で働いた。ムラを離れるときから、ミーウ ガンの土を小さな袋に入れて首から提げてお守りにしていた。日米戦のさなかには、他の

び し ん ち ゅ瀬人とともに幼い子どもの手を引きながら山中を逃げ惑った。日本の敗戦後に引き揚げ船

で帰郷するとお守りの土をミーウガンに返した。

 〔事例

2

1929

(昭和

4

)年生まれの渡久地シズさん(故人)は、夫となる備瀬出身者に呼 び寄せられて

1956

(昭和

31

)年

27

歳のときにハワイに渡った。このとき、ミーウガンの土 をお守りとして持って行った。嫁ぎ先はホノルルの街でガソリンスタンドを経営していた。

土は自宅の庭に祀り、一日と十五日には備瀬の方角を向いて拝んでいた。しばらくして、子 どもの代になって放ったらかしになったら大変だからと、この土を返しに来た。このとき、

ヌルも一緒にミーウガンに渡り、土を返す御願をした。

 島(ムラ)を離れる者が、洞窟の土をお守りにし、無事に帰ることができたときに感謝の 拝みとともに元の場所に返す。かつてムラの人たちにとって、豊穣を祈るミーウガンは回帰 すべき母胎のように見立てられていたのかもしれない。

(8)

 現在、香炉の奥に盛られたシチガナシーはなく、陽石風の石が立てられている。神人によ れば各地から「ユーウガミ(世拝み)」に来た人たちが周辺にあった石を立ててしまったの だという。人びとの出入りが激しくなるなかで、いつしか聖なる土は失われた。

②ヌル、根神、ウミナイの先祖の墓所

 ミーウガン先端の洞窟から岩場を引き返すと、やがて砂浜に出る。アダンが密生するあい だの小道をやや上ったところにコンクリート造りの家型の墓がある。ここには、

3

人の神女 の遠い先祖の遺骨が納められていると伝えられる。それぞれ、ヌルの先祖(祖霊)であるカ ニバンカミチルー、

2

人の根神のうち女の祖霊に仕えるクバマウトゥラルー、そしてウミナ イと呼ばれる神役の先祖であるカネクウトゥラルーである。ウミナイの先祖はニーヤー門むんちゅう中 から具志堅門中に嫁いだとされる。墓の前に置かれた

2

つの香炉のうち、右手がヌルと根神 の先祖、左手がウミナイの先祖に向けられたものである。ここで神人たちは、手作りの重箱 を供えて拝む。ミーウガンには神女たちの先祖たちの遺骨を納めた墓があるのにたいして、

グシク山にはムラ立てとかかわる男性先祖の遺骨を納めたとされる墓がある。

 なお、ミーウガンにはニーヤー門中出自の神人たちにかかわる墓だけでなく、仲村渠門中 の神人たちが拝んできた墓所も

2

カ所ある。この門中出自の神人が不在となった現在では、

大御願のさいに門中元家の人たちが供物を供え、拝んでいる。

③ムンジュクイ浜

 墓所から砂浜に戻って少し進んだところに、海に向かうのに好都合なすり鉢状の岩場があ る。この付近はムンジュクイ浜と呼ばれる。神人たちはこのすり鉢の中に入り、海に向かっ て舟の安全を祈願をする。漁業を生業とするムラ人たちの安全と、備瀬崎の向こうを通って 日本本土を目指す船舶の安全を祈願する。

c.

クビール

 潮の引いた海を歩いて集落側に戻ってくると、ミーウガンを臨むクビールと呼ばれる広場 でふたたび手を合わせる。この拝所は、コンクリートを敷いた

2

メートル四方ほどの空間に 香炉が置かれている。悪天候などでミーウガンに渡れないときはこの場所から遙拝(お通し)

する。拝みを終えると、各自持参した重箱の包みを広げ、しばし共食の時間を過ごす。この 遙拝と共食の場所は戦後しばらくまで現在地よりも南に下った、ミーウガンがちょうど正面 に見える板干瀬(板状の岩盤)の上だったという。潮が満ちてくると座は流れ(お開き)と なった。ただ、満ち潮によって供物が流されるのを嫌って現在地に上がった。

 この広場はかつて白砂だったが、急増する観光客に対応するために

2010

年にアスファル トで覆い、駐車場としてムラが管理するようになった。その周囲はテント場とした。駐車料 金は

1

台あたり

1

500

円、テントは一張り

2000

円となっている(

2016

年現在)。ムラの老人 会メンバーのうち希望者が当番で集金兼管理係を担当している。

(9)

2.

芋神酒づくり

 ここからは、前日の神酒づくりから参加した

2013

年の四月大御願の様子を紹介すること とし、必要に応じて他の回のエピソードを添えて行事の現状を伝えたい。表

2

に、参加した

8

回の大御願についての概略を示した。

(1)

前日の下拵え

 旧暦

4

19

日の

9:00

すぎ 公民館に顔を出すと、炊事場ではヌルさん(

81

歳)がひとり、

たらい

の水に浸けた芋をたわしで洗おうとするところだった。「これ、私も洗っていいのですか」

と声をかけると問題ないとのことなので、土の付いた芋を洗う作業を手伝う。昔は芋

40

分の神酒を作っていたが、今は

20

斤にしていると教えてくれる(

20

斤=

12

㎏だが、じっさ いにはやや多めの

14

㎏)。芋はヌルさん夫婦が耕す畑で穫れたものとのこと。やがて手伝い のキクさん(

70

代)が現れ、洗った芋の皮をむきはじめる。

3

人でおしゃべりしながら手を 動かす。ヌルさんは、扇風機がなかった時分、夏(旧暦

6

月)に粟を収穫すると、晩には庭 でアワメー(粟飯)を食べたことを懐かしそうに語った。男たちは上半身裸で、夜空の月を 眺めながらの食事だった。「ふだんは芋ばかりだから、アワメーが楽しみだった」。こうした 習慣は昭和

30

年代まで続いたという。

 皮をむいた芋は盥の水に浸けておき、あくを抜く。たくさん出た芋の皮は、飼っている

3

頭のヤギの餌にするからとヌルさんがビニール袋に入れていた。

 

11

時前に美枝子さん(

77

歳)が来ると、ヌルさんが作業しているのを見て、「なんでもっ と早い時間に来るように言わないね」とキクさんを責めた。その語調から、神人に難儀させ ては申し訳ないという思いが伝わってきた。彼女は、神人の手足となって行事を支える役目 のサンナムを、

75

歳で引退するまでしばらく務めていた。美枝子さんはさっそく芋を玉切 りにする作業に取りかかった。やがてお昼になったので、

14

時に再集合ということで一時 散会する。

2 各回の概略

新暦・天候 当日午前の神酒づくり ミーウガン のべ参加者数

(男女内訳)

ムラ外からの 参加者

2012 六月 8月7日(火)・曇り ヌル、根神、他3人 水位下がらず渡れず 15(女8、男7) 0

2013 四月 5月29日(水)・晴れ ヌル、居神、他3人 渡る(神人含め12人) 24(女12、男12) 5

2014 四月 5月18日(日)・曇り 根神、他(未確認) 雨交じりの南風で渡れず 20(女9、男11) 3(うち男1)

2014 六月 7月16日(水)・晴れ ヌル、根神、居神、他3人 渡る(9人) 20(女8、男12) 2(うち男2)

2015 四月 6月6日(土)・雨 根神、他6人 雨のため渡れず 20(女13、男5) 7

2015 六月 8月4日(火)・晴れ 根神、居神、他4人 渡る(8人) 18(女8、男10) 2

2016 四月 5月26日(木)・晴れ ヌル、根神、他3人 渡る(16人) 29(女18、男11) 9(うち男1)

2016 六月 7月23日(土)・晴れ ヌル、根神、他4人 渡る(14人) 18(女10、男8) 4(うち男1)

(10)

 

14:00

すぎに炊事場に戻ると 美枝子さんとキクさんはすでに芋を炊き始めていた。松枝 さん(

76

歳)、トシさん(

83

歳)、ヌルさんと、神人の

3

人も揃った。芋が炊きあがると

2

の盥に半分ずつ移し分けて、すりこぎでつぶす。それぞれおしゃべりしながら手を動かす。

芋をつぶす作業が一段落すると、松枝さんが、かつて大御願のときに供えたという「プチム チー」を作ると言って、自宅にはったい粉を取りに行った。戻ってくると、すりつぶした芋 にはったい粉と黒砂糖を加えて混ぜ、水を少し加えて練り、それを丸めて団子にした。でき あがった芋団子は、芋に麦の風味が加わった素朴な味わいだった。このプチムチーは旧暦三 月三日の浜下りのときにもそれぞれの家庭で供えたと教えてくれる。

 みんなでプチムチーを味わった後は、明日に向けた準備として、米麹を水に浸し冷蔵庫に 入れておく。すりつぶした芋が入った

2

つの盥には布巾を被せ、魔除けの左縄(左縒りにし た縄)を巻く。

16

時、「今日はここまで、また明日」ということで解散する。

(2)

当日午前中の神酒づくり

 翌

20

日の

8:40

 炊事場をのぞくとまだ誰の姿もなかったが、ヌルさんがちょうどやって来 た。神人たちは当日の朝に行事で供える重箱の用意もしなければならない。彼女もその準備 を終えてきたのだろう。さっそく、水に浸けてふやかした麹と伊江島産の麦粉を、昨日つぶ した芋に加え、混ぜる。全体がまんべんなく混ざるようにと入念にしゃもじで返す。ヌルさ んによれば、麦粉を入れずに芋だけだと「湧く(発酵する)」のが早すぎてしまい、しかも、

おいしくないのだという。

 

9:30

すぎ 合流したトシさんとヌルさんとが向かい合い、ポリバケツの上に濾し網を置い て、ペットボトルに入れた水を少しずつ加えながら練り芋を濾し始める。やがて和恵さん

68

歳)と松枝さんの娘の枝美さん(

49

歳)も加わって、

2

人一組となって芋を濾す作業を 進める。和恵さんは神酒づくりに参加するのは初めてということで、わからない点を問いか

写真1 神酒づくり2012年六月大御願)

(11)

けながら手を動かしていた。練り芋を濾すと網の上には繊維の塊が残るが、それは取り除く。

丸めた繊維には粘り気があるためチューインガムのようだと和恵さんは表現した。作業を進 めるうちにやがて、和恵さんと枝美さんがヌルさんに神人としての歩みを問いかけるという 流れとなった。枝美さんが「神の道に入っていくのは怖くなかった?」と問うと、ヌルさんは、

出生のときの不思議な体験から始まって、

6

カ年皆勤をもらうつもりでいた小学

5

年生のと きに喘息になり、その後夢でお告げがあってこの道に入ることを決意したことなど、これま でのいきさつを

2

人に語った10

 

11

時ごろ すべて漉し終えると、最後に砂糖を加えて味を調える。昔は砂糖は入れなかっ たという。神酒ができあがったので、いったん解散となる。

 

2015

年の四月大御願のときには、母を亡くした和恵さんの語りが印象的だった。

〈エピソード:亡き母を送る〉[

2015

年四月大御願]

 

9

時すぎに公民館に顔を出したとき、先に来ていたのは和美さん(

60

代)だけだったが、

やがて松枝さん、枝美さん、和恵さんと加わる。松枝さんと和美さん、和恵さんと枝美さん との組み合わせで芋を漉す作業を進める。それぞれ手を動かしながらの四方山話となり、そ のうちに和恵さんは一昨年に亡くなった母親のことを語りはじめた。彼女は、病床にあった 母がシニグ行事のことをずっと気にかけていたこと、そして亡くなるときには母への感謝の 歌をうたって送ったことなどを止めどなく語った。母親の千代さんはシニグ節のウタムチ(歌 い手)として行事の場を長年引っ張ってきた人物だった。和恵さんはさらに、母親が亡くなっ た後に続いた節目ごとの儀礼や墓の準備など、やることがいっぱいで大変だったともらす。

他の

3

人は手を動かしながら、彼女の話に静かに相づちを打っていた。

3.

アサギとナカリューグ

 

14

時ごろ ヌンドゥンチに神人たちが集まり、平服のままで行事開始の拝みをする。ヌ ル火の神、ウタナ(御棚)、トコ(床)に線香を立て、この順に拝む。線香がある程度燃え るのを見届けるまで、しばらくその場で待つ。このときに、神人

3

人での語りあいとなるこ とがよくある。

〈エピソード:戦争で亡くなった兄〉[

2014

年六月大御願]

 

3

人の神人にとって共通の出自であるニーヤー門中についての話となり、ヌルさんは、戦 争中、実家とニーヤーの位牌を背負って離さなかったことを話した。終戦後に手相を見ても らったとき、「お兄さんは若いときに亡くなったね。あんたはお兄さんの代わりに長生きし て神信仰しなさい」と言われたという。じっさい兄は沖縄戦で亡くなっていた。ヌルさんの 口からはしばらく兄についての思い出が溢れ出し、喘息になったときに遠い病院まで付き 添ってくれたこと、妹である自分を神人になる人として敬っていたこと、戦没地でヌジファ

(12)

(抜霊儀礼)を行ってからは兄が夢に出てこなくなったことなどを語った。そして、「亡くなっ た人の思いが残っているときには(夢などで)見えるんであって、立派にその思いを叶えた ら、もう出てこない」と強調した。話が一区切りしたところで、お宮でみんなが待っている からということで

3

人は腰を上げた。

 

14:10

 ヌンドゥンチからアサギ(お宮)に移動すると、ヌルと根神は白い神衣装を着け

る。根神が殿とぅぬの中に入り、ローソクに火を付け

4

つの香炉に線香を立てる。芋神酒を注いだ

4

つの黒椀を膳に載せて火の神に供え、神人たちが手を合わせる。拝殿に座る他の参列者も 一緒に拝む。神酒の膳が殿から運び出され、今度はウタムトゥ木の前に置かれる。拝殿側に 移動してきた神人はその膳を前にしてふたたび手を合わせる。その後、神人は参列者のほう に向き直り、供えた神酒を下げて、頂く(この行為をウサンデーと呼ぶ)。

 つづいて参列者の健康願いの拝みに移る。健康願いの祝儀袋を出した者は線香を

2

ヒラ(平 御香

6

本×

2

)を受け取ると額の前あたりに捧げ、根神に手渡す。根神は殿の香炉にそれらの 線香を立ててから、ふたたび拝殿側に戻る。根神は、祝儀袋に書かれた名前を一つずつ読み 上げてからヌルに手渡す。ヌルは受け取った祝儀袋を捧げ、拝む。

 

14:40

 手伝い役が

11

の白椀に芋神酒を注ぎ、ニーヤーとヌンドゥンチに運ぶ。追って、

神人

3

人も移動する。他の参列者はそのままアサギに残り、神人たちが拝みを終えて戻って くるのを待つ。ニーヤーでは、火の神に

1

椀、門中のウタナに

2

椀、トコに

1

椀、仏壇に

2

と供え、それぞれの香炉に線香を立て、この順で拝む。このときの拝みは根神が主導する。

ただ、この日は連絡が行き届かなかったのか、鍵がかかっていて家の中に入って拝むことが できなかった。つづいて、ヌンドゥンチでは、火の神に

1

椀、ウタナに

3

椀、トコに

1

椀と供え、

それぞれの香炉に線香を立てて手を合わせる。火の神はヌル、ウタナは根神、トコは居神が 拝みを主導する。その後、ヌンドゥンチに供えた神酒を下げてウサンデーする。このときも 線香がある程度燃えるまでの間、

3

人の語りあいとなることが少なくない。

 

15:05

 神人たちがアサギに戻ると、待っていた他の参列者とともにナカリューグへと移

動する。祠の前に芋神酒を入れた

3

つの白椀を膳に載せて供え、香炉に線香を立てて拝む。

他の参加者も一緒に手を合わせる。それから、区長と手伝い役の男性参加者は海を見下ろす 側にある香炉の前に移動し、火の付けた線香と付けない線香を立てて拝む。その後ろで神人 をはじめ女性たちも海に向かって手を合わせる。その後、アサギ前に戻った一行は、それぞ れ車に分乗してクビールへ向かう。

4.

ミーウガン

 

15:30

ごろ クビールに到着した一行のうちミーウガンに渡ることを望む者は、それぞれ

歩きやすい靴に履き替えて、潮の引いた海を島の先を目指して歩き出す。この日渡ったのは 神人

3

人と区長を含めて

12

名だった。杖をついて慎重に進むヌルさんの足取りの後をなぞる。

(13)

引き潮で現れた岩盤の上を歩いて島に渡ると、はじめは砂浜で歩きやすいが、さらに進むと 周囲は岩場に変わっていく。拝所である洞窟の手前は大小の石が無数に転がっていてとくに 歩きづらい。昔は、このあたりは砂浜で歩きやすかったとヌルさんが教えてくれる。

〈エピソード:冬の夜のタコ獲り〉[

2014

年六月大御願]

 ヌルさんに寄り添いながらミーウガンの洞窟を目指して歩いているとき、彼女は、かつて 夫と行ったイジャイ(イザリ)について語り出した。潮の引いた冬の夜、ミーウガンの前を 通ってリーフに渡り、タコを探しながらイーグチまで行って帰って来るとちょうど

4

時間だっ た。三男と四男が小さいときにタコを大漁したことがあるという。「今も息子たちが大漁さ せてもらっているのだから、竜宮の神様のところには拝みに来ないと」と話した。四男はモ ズクの養殖業や潜りの漁を生業とする専業の漁師で、建築業に就いている三男も週末には四 男と一緒に漁に出ることが多い。

 

15:50

 夏の日差しが厳しく照りつけるなか、洞窟に到着する。体中から汗が噴き出すの

を感じる。洞窟の中に入った松枝さんは、はじめに

3

つの香炉の灰を丁寧に盛りなおしてい た。芋神酒を注いだ

3

つの白椀と御う ぐ し ー五水(泡盛)を注いだ

2

つの盃を膳に載せて香炉の前に 据える。御み は な花(米)も供えることになっていたが、持ってくるのを忘れてしまったことがわ かる。ヌルさんは、「いいよ、クビールで供えて拝めば」と気遣う。備瀬の竜宮、唐、大和 と

3

つの香炉に線香を立てた後、神人

3

人が拝み、他の同行者たちも洞窟の外で手を合わせる。

 

16:15

 一行は洞窟を後にして行きと同じルートを引き返し、島の中ほどまで進む。アダ

ンが密生する小道を入り、ニーヤー門中のヌル、根神と具志堅門中から出るウミナイの先祖 の遺骨が納められているとされる墓に辿り着く。このとき神人たちは各自用意した重箱を供 え、

2

つの香炉に線香を立てて拝む。他の参加者も一緒に手を合わせる。この墓所の周囲の 岩には丸い団子状の石がたくさん張り付いているようにみえ、それらはかつて供えたプチム チーのようだと松枝さんが教えてくれる。

 

16:30

 ムンジュクイ浜と呼ばれる砂浜まで戻ると、海に向かうにはちょうどよい中が窪

んだ岩場がある。神人たちはその中に入り、砂地に線香を立て海に向かって手を合わせる。

他の参加者も一緒に拝む。このとき、線香には火を付けない。拝み終えると神人をはじめ多 くの人たちはクビールを目指して歩き出したが、

2

人組の女性が近くにある仲村渠門中の墓 所への小道を入って行った。

 

16:50

ごろ 一行はクビールの拝所に戻る。

 天候によっては、ミーウガンに渡ることが叶わないときもある。参加した

8

回のうち、ミー ウガンに渡れなかったときが

3

回あった。そのうちの

1

回は判断に迷うような天気だった。

〈エピソード:できるだけ渡りたい〉[

2014

年四月大御願]

(14)

 曇天で南風がやや強く、ときおり小雨も混じっていた。ミーウガンに渡るかどうかの判断 が難しい状況だった。ナカリューグからクビールに移動した神人

3

人は、結局、渡らずにこ こからお通し(遙拝)をするとの決断を下した。そして、テントの下で芋神酒を供えて御願 をした。拝みを終えたヌルさんに「今日は渡れなくて残念でしたね」と投げかけると、「あ んたが残念だったでしょう」と返された。行事全体を終えてヌンドゥンチに戻ってきたとき、

ヌルさんは「今日は渡るつもりで杖も持って行った。だけど他の

2

人は渡ろうとは言わなかっ たから、ウチも強いては言わなかった。だんだん(体が)弱ってくるから、今のうちに渡れ るだけ渡りたい」と心中を漏らした。この年、彼女は満

82

歳を迎えた。

5.

クビール

 

17:00

前 ミーウガンに渡った一行がクビールに戻ってきたとき、拝所の前に立てたテン

トには

10

名ほどの男女が集まっていた。アサギやナカリューグでの拝みには参加したが、

ミーウガンに渡ることのできなかった高齢の女性たちも混じっていた。ここから参加する男 たちは区長に健康願いの祝儀袋を手渡していた。彼らは、手伝い役の女性から線香を

2

ヒラ ずつ手渡されると額の前に捧げてから戻し、神人が香炉に立てた。香炉前には御五水と御花 を載せた膳を据え、その周りに神人が用意した重箱と飲み物が供えられた。そして、神人た ちはミーウガンに向かって手を合わせる。他の参加者も持参した重箱を広げ、一緒に拝む。

供えた重箱の料理を箸でつまみ食べて頂くような所作が挟まれる。拝み終えると神人たちは 参加者のほうに向き直り、供えた御花をひとつまみ取って自分の頭にパラパラと降らせる。

御花の入った袋は参加者間を回され、それぞれが同じようにひとつまみずつ頭に降らせ、健 康を祈願する。

 その後、各自が持参した重箱や弁当などを広げ、会食の時間となる。この日の参加者は 写真2 ムンジュクイ浜で拝む2016年六月大御願)

(15)

20

名余りで男女ほぼ同数だった。テントの下に敷いたビニールシートの上に男女ごとの

2

の輪ができた。男たちは缶ビールや泡盛の入ったコップを手に、持参した料理をつまみな がらの会話を味わう。海うみんちゅ人(漁師)の正秀さん(

53

歳)は自分で獲ったイラブチ(ブダイ)

の刺身を味噌で和えたものを差し入れ、みんなに回していた。もう一人の海人の康民さん

53

歳)から、彼が獲った島ダコやシャコ貝の刺身を頂く。隣りに座った長老の源次さん(

90

歳)に戦前に南洋パラオの農業試験場で働いていたころの話を聞かせてもらう。やがて話題 が戦争のことに移り、彼の部隊は台湾に配備されたために無事だったが、沖縄の部隊に入隊 した同期は全員が戦死したと語る。そのなかにヌルさんのお兄さんもいた。

 共食の場がしばらく続くなか、頃合いを見計らっていた区長が立ち上がり、この日健康願 いの祝儀袋を供えた人たちの名前を読み上げる。数えてみると

23

名だった。これらは寄付 として扱い、ムラ運営のために活用されると伝えられた。その後、女性たちが三々五々帰 途につくなか、神人たちもアサギへと戻っていった。

18

時半ごろには男たちの輪も解かれ、

区長の車に乗せてもらって公民館に戻った。「お疲れさまでした」と挨拶を交わした松枝さ んは、「こんな大きな行事を終えるとほっとする」ともらした。

 

19:00

前 一言挨拶しようとヌルさんの家を訪ねると、晩酌をしていた夫の栄さんに手招

きされ、あげてもらう。コップに泡盛が注がれ、今日ヌルさんが持参した重箱の料理をすす められた。中には、ゆでた島ダコ、イラブチ揚げ、白身魚の天ぷら、三枚肉(皮付きの豚肉)、

揚げ豆腐、かまぼこ、揚げ芋餅という

7

品(品数は奇数にする)が詰められていた。豆腐と かまぼこ以外はヌルさんのお手製という。ご馳走になった島ダコは柔らかくて、噛むほどに 味が出た。聞けば、息子たちが獲ってきたものを行事のために冷凍保存しておいたのだとい う。このタコには、かつて栄さんと行ったタコ獲りの記憶が重ねられているにちがいない。

小一時間ほど会話を楽しんだ後、おいとまする。

写真3 クビールでの共食2012年六月大御願)

(16)

 正秀さんが差し入れたイラブチの味噌和えについては続きがある。後日、彼が語ってくれ たところによれば、ヌルさんはじめ神人たちは、ムラならではのこの漁師料理に舌鼓をうち ながら「六月(大御願)も予約しておくよ」と声をかけたという。彼は神人からのこの一言 がよほど嬉しかったようだ。「どれぐらい好まれるかわからなかったから今回はあまり持っ て行かなかったけど、あんなに喜んでくれるのなら次はもっと持って行く」と張り切ってい た。じっさいにこのとき以来、彼のイラブチの味噌和えは大御願の定番となっている。

 このようにクビールでの共食の場は男たちも加わって、身辺の出来事を伝えあったり昔話 に花を咲かせたりする機会となっている。参加者は以前に比べずっと少なくなっているが、

ムラの男性有志たちが顔を出してくれるのを神人たちはことのほか喜んでいる。他の回での 展開を

2

つ拾ってみたい。

〈エピソード:大御願の今昔〉[

2012

年六月大御願]

 参加者は

16

人、しかもそのほとんどがムラ在住者ということもあって、男女が一緒にひ とつの輪となった(写真

3

)。それぞれが持参した重箱や弁当を広げ、食べ飲みながらの会話 を味わう。勇さん(

64

歳)は缶ビールを片手に、かつてはおじいたちが泡盛の

1

合瓶を下げ てやってきたこと、当時酒は貴重だったのでおじいたちはムラが出す

1

升瓶

2

本を目当てに 集まってきたこと、輪は大きく二つになって月が出るまで会食が続けられたことなどを語っ た。そして、「そもそもこの御願は、経済(昔だったら豊作)が良くなるようにと拝むのに、

じっさいに良くなるとみんな出て来なくなるという矛盾がある」と続けた。ヌルさんは、「海 洋博が来てから大きく変わった。女の人が現金収入の仕事に就くようになったから」と強い 口調で話した。勇さんが「昔のように貧乏がいいんだ」と言うと、隣りの幸松さん(

68

歳)

が黙って頷いていた。

 勇さんはこのところ毎回のように大御願に参加しており、ヌルさんによれば、孫が生まれ てから熱心に参加するようになったという。つぎは、クビールの前に広がる海とのかかわり についてのエピソードである。

〈エピソード:常連の男たち〉[

2016

年六月大御願]

 クビールでの拝みのさい、強い西日を正面から受ける神人たちを気遣ってビニールシート で西日を遮る工夫が施された。伊江島に日が沈むまでにはまだしばらくかかる時刻だった。

拝みを終えると、集まった

7

人の男たちはテーブルを挟んでゆるやかに輪をつくり、酒を飲 みながらの会話となった。このうちの

4

人は昭和

22

年生まれで、今年数えの

70

歳を迎えると いう同級生どうしだった。その一人の義和さんが、夏至のころの備瀬崎には日の出と日の入 りの両方が見える場所があると熱く語り、その場所の方向を指さした。彼は、夕方

6

時に舟 を出して翌朝の

6

時まで夜釣りをしながら海の上で過ごしているからわかると得意げだった。

(17)

 

2015

年の六月大御願の折り、区長は挨拶のなかで「大御願は、海人が豊漁と航海安全を 祈願する行事」と話していた。大御願は、芋神酒をつくって供え、畑の豊作と海の豊漁と航 海安全を祈願する行事である。ただ、ミーウガンに渡って竜宮神を拝むこともあって、現在 では、海との結びつきが強い行事として認識されているように思われる。

. 自然との交わりの記憶

1.

主食の芋、夏の粟、正月の豚

 ここでは、芋が主食だった時代に育った人たちが、近くの畑や遠く離れた山々、そして西 側に広がるイノー(浅瀬)での営みを描写した語りを重ねてみたい。現在

70

80

代の人た ちの子ども時代なので沖縄が戦場となった時期を挟む

1930

1950

年代の情景ということに なる。なお、ここでとりあげる語りあいは、ムラでの聞きとりに加え、那覇や中部で編成さ れた同郷会の集いでの記録を含んでいる。

 自給的なくらしを営む家々にあって、子どもは貴重な働き手であった。かれらが担ってい たおもな仕事には、共同井戸からの水汲み、家畜の餌となる草刈り、芋掘りなどの畑仕事、

山への薪取りなどがあった。節子さん(

1928

年生まれ)の家は、自家用の芋や粟・麦だけ でなく、換金作物のサトウキビを植え付けることのできる畑があった。農の営みを支える日 常のなかで、彼女は時季ごとに作物を育てる周年のサイクルを身につけていった。

〈畑の作物と家畜〉[

2011-08-20

:福女会]

節子:まず芋でしょう。もう自給自足でしょう。売るものまでつくるから、売るものまで。

まずはサトウキビ、粟、麦、大豆、ゴマ、ソラマメ、エンドウ、あらゆるもの。時季的な つくるの、何月は何つくる、何月は何、〔笑顔になって〕だいたいわかります。

 彼女の家には牛も馬もいた。戦前のムラでは、豚やヤギを養う家は多かったが、牛や馬の いる家は限られていた。人も家畜も芋を毎日食べたから、芋掘りは欠かせない日課だった。

節子:わたし(の家)なんか、牛も、馬も、ヤギも、豚も、豚

4

頭(飼っていた)。芋がシン メーナビ(芋を炊く大きな鍋)、これだけ〔両手で山盛りの手振りをしながら〕毎日、こ れだけ炊きよった。芋掘ってくるのもザルの

2

つ担いで〔両手で丸い形を描き、また肩に 担ぐしぐさをしながら〕、掘ってこないと足りない。もう大変でした。

聞き手:それ、子どもたちが手伝うんですか?

節子:わたしたちも自分たちがやらないと、母が大変。ただシケームン(使用人)でした〔笑

(18)

う〕。もう、そうとう働いたけど〔笑顔で〕、…アラカチヤー(実家の屋号)財産いっぱい あったから、芋いっぱい炊いて。

 ムラにおいて「財産」ということばは、各家が所有する農地を指すことが多い。この用法 はおそらく、明治

30

年代に実施された土地整理事業によって私的土地所有が確立され、生 活の糧を得る農地が相続対象となることにより定着していったものと思われる。節子さんの 家は、財産すなわち畑がたくさんあったので、子どもが担う農作業も多かった。

6

人きょう だいの長女だった彼女は同年代の人たちよりも働いたと繰り返し口にする。毎朝登校時には、

勉強道具の他に農具や肥やしを途中にある畑まで運ぶため遅刻してしまうこともあった。学 校から帰れば妹と

2

人で芋を掘り、大きな籠に入れて運んだ。以下は、従妹の幸子さんとの 掛け合いで、

1940

年前後の様子を伝える。

〈毎日の芋掘り〉[

2014-07-20

:福女会]

節子:(学校に行くのも)イチャンジャーは(無駄には)歩かさん、もうほんと。ナーシは

(手ぶらでは)歩かさん。(親は)何かれ持って行けと。

幸子:学校の道具だけ持っていけるわけじゃない。「鍬持って行け、肥やし持って行け」と、

何か付いてるわけよ。ただは行かさない。

節子:ほんと悲しいくらいだった。あんなして学校遅刻して廊下に立たされて、あんなに苦 しい思いしてきた。だからわたしがね、言ったことばが、「ピンスーヤー(貧乏の家)に 生まれればよかったのに」と。パルアルヤー(畑のある家)に生まれてあんなに難儀して。

幸子:長女だったからほんと働いたはず。

節子:ほんとに働いた。芋掘りに行ったら、これぐらいの〔両手で大きさを示しながら〕、

あの芋を入れてくるバーキ(籠)、あれ何バーキと言ったか?

幸子:何バーキと言ったか?

節子:バーキの名? あのバーキの

2

つにいっぱい芋を掘らんと家に帰れないわけさ。毎日 それだけ炊きよったのよ。豚もいるし牛もいるし馬もいるし、人もいっぱいいるし。毎日 毎日炊くわけよ、シンメーナビで。大きい芋は人間が食べて、小さいのは牛馬の餌にし た。一緒に、

2

つのザルのいっぱい掘ってきた。〔急に声高く〕あ、クェーマチバーキ(芋 や肥やしを入れる籠)! 思い出した、思い出した。毎日妹と

2

人よ、いっぱいずつ掘って、

毎日よ毎日。シンメーナビのいっぱい。

幸子:おばあちゃんたちは

3

時ぐらいに起きてね、芋炊きあがるのはだいたい

5

時、

6

時。子 どもたちが起きてきて、そろそろお芋食べて学校に行くという。

 豚は、種付け用、換金用、正月に家族で食べる用と豚小屋を

3

つに区分して養った。餌は、

小さな芋と芋の葉(カンダバー)を煮たものを与えた。彼女の家では正月用として一頭の豚

(19)

を育てていたが、それほど余裕がない家では他家と共同で養った。彼女にとって

1

年という サイクルは、自分たちが毎日世話した豚が成長し太っていく過程としても実感された。つぎ の会話は、実家が近所だった信子さんと聞き手と

3

人での掛け合い。

〈正月用の豚〉[

2011-08-20

:福女会]

節子:あれは自分でじかで(直に)太らせよったから、

1

年かかって。これ、ショーガチャー

(正月用の豚)って。売るものとショーガチャーは違うわけ、自分の家庭用。もうこれは決 めておって。〈

1

年間?〉

1

年間。ショーガチャー、太るだけ太らせて、

1

年太らせよったわけ、

家庭のこれだけの力のある家は。ない家はまた何名かでブー(賦、労働の割り当て)して おって、分けて

4

分の

1

とかに、やりよったみたいだけど、わたしたちはもうこれ自分の もの、これ

1

年かけて、ショーガチャーはいました〔笑う〕。

聞き手:じゃあ、けっこう裕福なお家だったんですね。

節子:テーゲー(そこそこ)裕福でした。売る豚と、また子ども増やす豚とめいめい枠があ るから、ウヮーヤ(豚小屋)は

3

つも

4

つもあった。こっちは子どもつくる豚、これはショー ガチャー、こっちはまた売る豚、

3

つありました。…長いウヮーヤがあったから、

3

4

つ に分けて、〔嬉しそうに笑いながら〕だからショーガチャーはいちばん端っこに。

聞き手:豚は、餌は何を食べたんですか?

節子:芋グヮー(小さな芋)、お芋。

信子:お芋と残飯を。

節子:残飯といって芋しかないさ。芋とカンダバーと。カンダバーをおもに、カンダバーと 芋とたじらして(煮立てて)。

信子:カンダバーと芋をあげる豚はおいしいんだって、味があるって。

 正月用の豚は年末につぶすのがムラの慣例で、子どもも大人も指折り数えて待つ楽しみ だった。屠った豚はその血も活かすチーイリチャー(豚肉の血炒り煮)という料理となり、

それ以外の肉は塩漬けにして保存した。また、芋を食べる毎日にあって、夏に収穫するチミ アワ(黍)を炊いた「アワメー(粟飯)」も、家族みんなが持ち望むご馳走だった。暑い盛 りの夜に家の外に筵むしろを敷いてアワメーを食べたという光景は、三食芋を食べる毎日のなかで 育った人たちが口を揃えて語る共通体験である。それは、ムラの綱引きの記憶とも重なる。

節子:(旧暦)6月の綱引きは、粟の穫りはじめだから、チミアワの穫りはじまりだから。

アワメー食べるときに、綱引きよったよ。…あれは、あれもうほんと思い出す。庭でご飯 食べよったから、昔は、アワメー。

信子:筵敷いて庭でね、粟ご飯食べて、魚のおつゆとかね。

節子:お家の中では暑いから、庭に筵敷いて、そこでアワメー食べはじめしよったけど。

(20)

信子:〔笑顔で〕あのアワメーのおいしかったこと、ねぇー。

 子どもたちは、浜辺で芋を洗う作業も担った。節子さんとは

11

歳離れた妹の勝子さん

1939

年生まれ)は、

6

人きょうだいの末っ子ということもあって、姉のように芋掘りで苦 労した記憶はない。つぎの語りは彼女の芋洗い体験を描写しており、戦後

1950

年ごろの情 景である。芋洗いは、ほどよい潮のときを見はからって浜に行き、芋の入った籠の両端に付 けられた紐を手で持ち、籠を潮水に浸けながら足を入れて洗った。

〈浜辺での芋洗い〉[

2016-06-20

:福女会]

勝子:(家には)動物がいっぱいいたから、豚とかなんかいたから、(芋を)シンメーナビに 炊くわけ、朝、親が。親が用事のときは「(芋を)洗っておいで」って、行かされるわけ。

そしたら、担いで、足で洗って、護岸で。伊江島の夕日眺めながら座るわけよ、護岸に。

そしたらみんな集まってくるわけ、こんなして〔周囲に座っている人たちを指して〕芋の 周囲に。(そのうちに)ぜーんぶ食べてしまうわけ、これぜんぶ〔周囲が大笑い〕。…歌い ながら生芋食べるわけよ。そしたらもう、みんな(なくなって)。これ大事か何かわから んさね、わたしも。親が洗っておいでって言うから行ったけど。そして

8

時ぐらいになって、

暗くなってからみんなお家帰るわけ。「はい、帰ろう」と言って、(籠を)担いだら何もな いわけ〔笑いあう〕。あの虫食った芋よ、

10

個ぐらいあるわけ。食べられないものばっか り残っているわけさ。そして、空バーキ(籠)担いで行ったら、もう、うちのおっかあは 相当優しかったはず、怒らんかったわけよ。「あららららー、うぬやなわらばーたーやなー、

んむむるかーてぃねーん、でーじなっとんさー(このいたずらな子どもたちが芋をぜんぶ 食べてしまって大変なことになってるさ)」と言って、また(籠に)詰めて自分が洗いに 行きよった。

2.

裸足で山へ

 山が遠いムラでは、煮炊きするための薪を確保するのもひと苦労だった。芋を炊くのはソ テツやフクギの葉、芋のツルや麦ガラなどでもできたが、粟や麦を炊いたり汁物を煮たりす るには薪が必要だった。そのため、子どもたちは休みになると、連れ立って遠くの山へ薪を 取りに出かけた。片道一里半(

6

キロ)以上もある道のりを裸足で歩いた。節子さんの夫の 栄松さん(

1927

年生まれ)は、小学

1

年生のときから親に付いて薪取りに行ったと話す。

〈難儀でもあり楽しみ〉[

2011-02-16

栄松:(薪取りは)ぼくの母が大事に扱っていたもんから、ぼくは(小学)

1

年生からしか行っ てないんですけどもね。早い人はもう

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歳ぐらいから山に行きよったんですよ。それ で、行くといっても、これぐらいのちょっとしたもの(枝)を束ねてね、頭にのせたり、

(21)

男は棒でですね、両方に(束ねた薪を棒に)差して肩に乗せてきて、来よったんですけど。

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日ぐらいの夏休みの期間でですね、だいたいは

35

日から

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日ぐらい(行った)。…これ が楽しみでね、難儀でもあったんだけども。

  朝早く太陽が上がらんうちに家から出て、芋弁当をただ持ってですね。このときにはも う裕福ではないですから、コーレーグースといって、唐辛子の入ったもの、塩ちょっとあ れして、その上にゴマ、ゴマは自分(の家)で作ったものがあったもんですから、白ゴマ をちょっとまぶしたやつをおかずに持っていったり。それから備瀬はスク、アイゴ、あれ の稚魚、いわゆるカラスグヮーと言いますけど、あれを獲って

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年間ずっと味噌甕に漬け ておって、これがもう年から年中のおかずですから。それともうひとつはニンニクですね、

あれを

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月植えて

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月に穫れますので、ニンニクを黒砂糖で漬けたもの、あれもひとつの おかず。そういうものを持って山に行ってですね、水はもう山川の水がふんだんにありま すので。で、組をしてですね、…

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名とかあるいは

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名内外ぐらいのグループを作って ですね、あまりたくさん行きますと、枯れた枝がですね、(限りがある)。けっきょく山と いっても無尽蔵にあるわけではなくて、

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年ぐらいに(なった)枯れたものを選んで 取るわけですから。

 薪にするのはおもにイタジイやマツの枯れ枝で、火持ちがよいのはマツだった。栄松さん は、夏休みには毎日のように行き、家畜小屋の軒下などに薪が積み上がっていくのを見るの が楽しみだったと話し、「あれを見ると、もう燃やさせたくないわけ」と笑った。

 薪運びは、男は両端に薪の束を刺した天秤棒を肩で担いだが、女は頭にのせて運んだ。ハ ブサニと呼ばれる、藁などで編んだ丸い輪を薪の下に敷いてから頭にのせた。家が隣りどう しだったトヨさん(

1929

年生まれ)と

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歳下の幸子さんは一緒に山に行き、大きな木にも男 のように登ったという。遠い山から、

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㎏ほどの薪を頭にのせて運んできても、難儀さよ りもみんなで行く楽しさが勝った。雨の日には山道を滑らないように足の爪を立てて歩い た。つぎの掛け合いを受けとめながら、爪が捉えた地面の感触がこちらにも伝わってくるよ うだった。

〈裸足の爪〉[

2012-08-20

:福女会] 

トヨ:山も一生懸命、裸足で。…山に行くのはもう、簡単にね、(木に)登ったり下りたりこ んなにして歩きよった、裸足で。どんなに寒いとき、どんなに暑いときでも、一生懸命。

幸子:こんな大きな大木でも、ずっと上まで登りよったからね、枯れ木(枝)があったら、

ここ(腰に)鎌を差してよ、鎌を差して登っていってこれ(枯れ枝)を取って、もうパッ キンと折って、下に落として、ハァーもう。

トヨ:わたしは一生懸命登っていって、この木には

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本ぐらい取れるねといって、登っていっ たら、虫見たらすぅーと下りてきよった。取らないで〔笑う〕。

参照

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