︻論 文︼
シエナのサンタ・テレーサ礼拝堂の図像プログラム
甲 斐 教 行
シエナのサン・クイリコ通り三六番地に位置するサンタ・テレーサ女子寄宿学校附属礼拝堂は︑プリズモ宗教画の殿堂として一九世紀イ
タリア絵画史に特異な位置を占める︒筆者は永らく同礼拝堂の絵画図像の研究を試みてきたが︑現在閉鎖中の寄宿学校︵図1︶は係争の対象となっているため立ち入りが不可能である︒実地検証は後年の課題
として︑現在の知見の範囲内で礼拝堂の図像プログラムについて検討をおこなっておきたい︒
一︑礼拝堂の沿革 一八七七年︑シエナのレオポルド・ブファリーニ司祭︵一八四〇│ 一九一七年︶は ︵●︶︑良家の子女のためサンタ・テレーサ寄宿学校の設立 に着手した︒プリズモの建築家ジュゼッペ・パルティーニに委ねられた建設工事は一八八一年に終了したが︑前年にはすでに三部屋と開 ロッジェッタ廊
にグロテスク装飾が施されている︒続く一八八二年には︑より貧しい家庭の子女の寄宿学校に充てるため︑隣接するサンティ・クイリコ・
エ・ジュディッタ聖堂と接した建築に改築が施された︒しかし同聖堂の使用許可が下りなかったため︑ブファリーニは一八八五年四月に再
びパルティーニに依頼して︑この改築部分の内部に新たに礼拝堂を建設させた︒礼拝堂は同年八月には完成している︒
礼拝堂の格天井はバリッリーニが制作しジョルジョ・バンディーニ
が装飾を担当した︒大理石の主祭壇はレオポルド・マッカーリが担当した︒さらには寄宿学校および礼拝堂の守護聖人であるアビラの聖女
テレーサの生涯を扱った絵画一一点︵主祭壇画のプレデッラ三場面を含
む︶︑さまざまな聖人を描いた絵画一二点︑カルメル会の歴史に関わ る天井画三点︑合計二三点が︑一八八〇年から一九〇〇年にかけてのさまざまな時期に︑少なくとも六人の画家の分担によって制作された︒
本稿の主題となるこれらの絵画群について︑順を追ってその主題を概観してみよう ︵●︶︒
礼拝堂の天井︵図2︶には︑入口側から︑リッチャルド・メアッチ
の円形画︽エリシャ︾︵一八九〇年頃︶︑フランキの︽聖シモン・ストックに肩衣を授ける聖母︾︵一八八二年︶︑メアッチの円形画︽エリヤ︾
︵一八九〇年頃︶が配されている︒
入口壁︵図3︶の左右には︑ジュゼッペ・カターニ・キーティによ
る︽アレクサンドリアの聖女カテリーナ︾︵一八九〇年頃︶とメアッチによる︽聖女チェチリア︾︵一八九〇年頃︶が配されている︒
右側の壁には︑入口側から︑作者不詳の︑三人の幼児を連れた聖人の絵︵主題については後述︶︑ガエタノ・マリネッリの︽甥を蘇生させ
る聖女テレーサ︾︵一八八五年以前︶︑アレッサンドロ・フランキの︽聖ルイジ・ゴンザーガ︾︵一八九〇年︶︑窓をはさんでカターニの︽聖ヴァ
ンサン・ド・ポール︾︵一八九〇年頃︶︑マリネッリの︽聖女テレーサの死︾
︵一八八五年以前︶︑マリネッリの︽シエナの聖女カテリーナ︾︵一八八二
年︶が配されている︒
祭壇壁︵図4︶には︑向かって右から︑マリネッリの︽聖ヨセフ︾
︵一八八五年以降︶︑マリネッリの︽聖女テレーサ没後の最初の奇跡︾
︵一八八五年以降︶︑フランキによる主祭壇画︽聖女テレーサの法悦︾と三つのプレデッラ︑︽修道院に入る聖女テレーサ︾︑︽執筆する聖女
テレーサ︾︑︽修道院の建設を命じる聖女テレーサ︾︵一八八〇年︶︑マリネッリの︽聖女テレーサの列聖︾︵一八八五年以降︶︑フランキの︽カ
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ルメル会の聖母︾︵一八八二年︶が配されている︒主祭壇画の手前の聖体用祭壇は︑作者不詳の︽キリスト復活︾によって飾られている︒
左側の壁には︑祭壇側から︑マリネッリの︽聖ベルナルディヌス︾
︵一八八五年以降︶︑フランキの︽少年イエスの聖女テレーサへの出現︾
︵一八九四年︶︑フランキの︽聖女アグネス︾︵一八九〇年︶︑フランキの︽十字架の聖ヨハネに修道衣を授ける聖女テレーサ︾︵一八九九年︶︑レオー
ネ・レオンチーニの︽聖トマス・アクイナス︾︵一八八四年︶︑フランキの︽聖ペドロ・デ・アルカンタラの聖女テレーサへの出現︾︵一九〇〇
年︶︑メアッチの︽聖ジロラモ・エミリアーニ︾︵一八九〇年頃︶が配されている︒
なお一八八二年は聖女テレーサの没後三〇〇年祭に当たり︑礼拝堂
の装飾がこの機会に合わせて計画された可能性が高い︒
サンタ・テレーサ礼拝堂を飾る絵画群の図像に関する詳細な先行研
究は︑残念ながら存在しない︒次章以降︑天井画︑聖女テレーサ伝︑聖人図の順に︑また原則として表された物語の古い順に︑その図像を
検討していくことにする︒
二︑天井画 リッチャルド・メアッチ︽エリヤ︾︵一八九〇年頃︑図5︶ エリヤはカルメル山上に跪き︑空中に浮かぶ足形の雲を見つめ︑両腕を拡げて嘆賞している︒傍らの樹木には銘帯が絡み︑そこには 次の一節が記されている︒“ECCE NVBECVL[A]/ PARVA/ QVASI VESTIGIVM/ HOMINIS ASC/ENDEBAT DE MARI”︵﹁ご覧下さい︑足
形ほどの小さな雲が海から上がってきます﹂︶︒この出典は﹁第三列王記﹂ 一八章四四節で︑預言者エリヤに対する従者の返答を示すものである︒エリヤはバアル神を信仰するアハブに干魃の到来を預言していた︵同
書一七章一節︶︒干魃の到来より数年後︑エリヤはカルメル山上でバアルの預言者たちに唯一の神の権威を示し︑全員をユダヤの神に帰依さ
せた︵同書一八章二〇│四〇節︶︒こののち山頂に登ったエリヤが︑従者に七度海の方を観察させ︑七度目に従者が答えた言葉が銘文の内容
である︒エリヤは従者に︑﹁アハブのところに上っていき︑激しい雨に閉じこめられないうちに︑馬を車につないで下っていくように伝え
なさい﹂と︑長年の干魃の終焉を預言する︒この後︑激しい雨が降り︑預言は実現する︒
エリヤの視た雲は無原罪聖母の予型とされる︒後年アレッサンド
ロ・フランキはジェノヴァのキアッペート神学校壁画︽無原罪受胎の教義︾の中にエリヤを描き込み︑IN SEPTIMA AVTEM VICE ECCE NVBECVLA PARVA QVASI VESTIGIVM HOMINIS ASCENDEBAT
DE MARI ︵七度目に︹曰く︺︑﹁ご覧下さい︒足形ほどの小さな雲が海から上がっ てきます﹂︶︑すなわちメアッチの円形画と同一箇所を示す銘帯をもたせている ︵●︶︒
カルメル会の起源は︑一二世紀にカルメル山に住み着いた十字軍兵士たちにあり︑一三世紀には﹁エリヤの泉﹂周辺に僧坊を構えてエリ ヤの孤独な隠修生活を模範としたことに始まる ︵●︶︒カルメル会の伝承によれば︑カルメル山上で無原罪聖母の予型を視たエリヤは︑聖母誕生
以前に未来の救世主の母を崇拝する宗教結社を結成したとされ︑信徒たちはカルメル山上にエリヤが築いた礼拝堂に毎日集まり︑未来の
聖母への祈りを捧げたという ︵●︶︒カルメル会がエリヤとその後継者エリ
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シャを伝説的な創始者とする根拠がここにある︒ リッチャルド・メアッチ︽エリシャ︾︵一八九〇年頃︑図6︶
エリシャは地面に坐し︑右手の杖を支えに上体を起こしている︒左手に握る銘帯は中空に渦を巻き︑そこには次の一節が記されている︒
“IN DIEBVS SVIS/ NON PERTIMVIT PRINCIP/EM ET POTENTIA
NEMO/ VICIT ILLVM”︵彼は生涯どんな支配者にも動ずることなく︑誰か
らも力で抑えつけられることはなかった︶︒この出典は﹁集会の書﹂四八章一三節である︒エリヤの弟子で︑やはりカルメル山を拠点に預言を
おこなったエリシャもまた︑エリヤとならんでカルメル会士の崇拝の対象となった︒
アレッサンドロ・フランキ︽聖シモン・ストックに肩衣を授ける聖 母︾︵一八八二年︑図7︶ 雲の上で︑大勢の天使たちを左右に従えた聖母が︑自らの肩衣を聖
シモン・ストックに授けている︒聖人は頭を垂れて跪き︑恭しく両手で肩衣を受けている︒
肩 スカプラリオ衣(scapolare)とは修道士が服の上に︑肩から前後に垂らす外衣のことを指し︑肩胛骨(scapola)の上に置くところからその名が付いた︒フランキの画中に登場するのはまさにその種の簡略化された修道衣で
ある︒一方︑﹁カルメルの聖母﹂図像に見られるように︑二枚の布を二本のひもで肩から胸につるしたものもまたこの名で呼ばれる︒これ
は平信徒間での普及と使いやすさから︑最小限にまで縮小された修道衣に他ならない ︵●︶︒ 聖シモン・ストックの聴罪司祭ピーター・スウェイントンが伝えるところによれば︑一二五一年七月一六日から一七日にかけての
深夜︑カルメル会への庇護を求めて聖母に祈っていた聖人の前に聖母が現れ︑こう告げたという︒﹁おお︑こよなく愛する息子よ︑あなたの修道会の肩衣をお取りなさい︑それは私の信心会のしるしで
す︒あなたと全カルメル会士の特権であり︑これを携えて死ぬ者はみな︑地獄の永遠の劫火の中で苦しむことはありません︒これは
まったき救済のしるしであり︑危難からの逃げ道であり︑平安の約束であり︑私とあなたとの永遠の取り決めです︒私はつねにこの取
り決めを格別に庇護するでしょう﹂(Dilectissime Fili, accipe tui Ordinis
Scapulare meae confraternitatis signum, Tibi et cunctis Carmelitis privilegium: in quo quis moriens aeternum non patietur incendium. Ecce signum salutis: salus in
periculis, foedus pacis et pacti sempitern ︵●︶i)︒ ラテン語で示した聖母の言葉は︑カルメル会のモットーとして広い普及を見せた︒のちにフランキが手がけたラヴァーニャのカルミネ聖
堂天井画︵一八九〇│九三年︶のスパンドレルに描かれた六人の天使のうち︑四人がここから抜粋した四個の銘文の記された帯を携えている︒
聖母はさらにこう言葉を続ける︒﹁私の修道士たちよ︑この言葉を胸に刻み︑善行によってあなたがたが確実に選ばれるよう務めなさい︑決して罪を犯さぬよう努力しなさい︒目覚めていなさい︑そしてかく も大きなご厚意に対し感謝しなさい ︵●︶﹂︒
この伝承はさらに解釈を加える︒﹁福者シモンは︵中略︶同信会員た ちを慰める書簡の中で︑彼らに同じ話を伝えた︒︵中略︶それは祈りと善行の持続(perseveranza nelle buone opere) によって彼らに神への
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感謝をさせるためであった ︵●︶﹂︒
このように︑スカプラリオはカルメル会士に与えられた救済のしる
しではあるが︑それはあくまでも善行を前提としていることがうかがえる︒
一三二二年には教皇ヨハネス二二世が聖母の幻視の中で︑聖母からスカプラリオに関わる言葉を賜ったと伝えられる︒この伝承は教皇が 公布したとされるいわゆる﹁安息日の勅令﹂(Bolla sabbatina)の中に詳述されている︒
﹁このカルメルの聖母は︑ある日私が跪いて聖母に願い事をしていると︑全身から光を発しながら私の前に現れ︑次の言葉を述べた︒︵中
略︶﹃私はあなたをあなたの敵から救い出しましょう︑私の祈りはわ
が子に聞き届けられます︒ただし︑あなたが︵中略︶私の敬虔なカルメル会に︵中略︶広大にして寛大なご承認をなさるという条件があり
ます︒︵中略︶この認可によってあなたは︑服従︑貞潔︑清貧の誓願を遵守する者︑もしくは単にカルメル会に入っている者が救われる︵中
略︶ことを︑地上において承認するのです︒またもしまだ外部にいる者が信仰心のみによって同信会を通してカルメル会に入り︑私の修道
会の男女の会員と呼ばれてスカプラリオを携えるならば︑彼らは入会初日からその罪の三分の一を免責されるでしょう︒同信会員の義務は
以下のとおりです︒母なる教会が命じているように︑やもめはやもめとしての貞潔を守り︑童貞は童貞の純潔を守り︑結婚している者は
結婚における誠実を絶対に守ることです︒︵中略︶彼らが死んだ日に︑彼らはただちに煉獄に追いやられるでしょうが︑私は母として︑彼ら
の死後最初の安息日に無償でその場所に降り︑そこに私が見出した者 は私によって解放され︑永遠の生という聖なる山に導かれます︒しかし同信会員がこの恩寵に与るには︑聖アルベルトの戒律が定めるとお
り︑定時の祈祷を朗唱しなければなりません︒朗唱ができない者は︑教会の断食を守り︵中略︶︑クリスマスを除く水曜と土曜には肉食を
慎まなければなりません﹄︒こう言うと︑聖母は姿を消した︒さて︑私は︵中略︶この贖宥を受け容れ︑是認し︑地上において承認した︒︵中略︶
教皇六年目︑すなわち一三二二年三月三日アヴィニョンにて公布 ︵●︶﹂︒
聖母は﹁無償﹂といいながらも︑信徒に貞潔や祈祷︑節制といった
行動規範を課している︒救いは功績によって支えられるのである︒
なおフランキは前述したラヴァーニャの天井装飾において︑スパンドレルの残り二人の天使に︑上記の聖母の言葉からとられた二つの銘
文の記された帯をもたせている︒
三︑アビラの聖女テレーサ伝連作とその出典 アビラの聖女テレーサ︵一五一五│八二年︶の生涯については︑﹃自
叙伝﹄︵一五六五年完成︶を筆頭に︑フランシスコ・デ・リベラ︵サラマ
ンカ︑一五九〇年刊︶︑ディエゴ・デ・イエペス︵マドリッド︑一五九九年刊︶
による︑合わせて三つの伝記と︑テレーサの﹃創立史﹄が基本史料となる︒連作制作時までにテレーサの三つの伝記のイタリア語訳が出版
されており︑本研究でも画家たちが直接参照することのできたイタリア語版を使用する ︵●︶︒しかしサンタ・テレーサ礼拝堂の聖女伝連作には
上記三文献に含まれていない挿話も含まれており︑後年イタリアで出版された聖女伝諸版への参照が必要となる︒調査の過程で浮上したの
が︑ベルナルディーノ・ケックッチによる伝記小説︵シエナ︑一八八二
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年刊︶である ︵●︶︒聖女の没後三〇〇年に刊行された同書は︑連作の依頼主レオポルド・ブファリーニじきじきの依頼により書かれたと序文に 謳われており ︵●︶︑連作の制作開始年に出版されているため︑当然画家たちが参照したと考えられる︒とはいえケックッチの小説にもすべての挿話が含まれているわけではない︒基本三文献に含まれている挿話に
関しても︑画家たちがいずれの伝承を用いたかについては慎重な議論が必要であろう︒以下︑おおよそ聖女の生涯をたどるかたちでこの連
作を検討していく︒
アレッサンドロ・フランキ︽修道院に入る聖女テレーサ︾︵一八八〇
年︑図8︶
主祭壇画プレデッラの第一場面である︒一五三六年八月一五日︑テレーサはドメニコ会士志望の弟アントニオとともに︑父親に隠れて生
家を出て︑幼なじみフワーナのいたカルメル会エンカルナシオン修道院に入った︒テレーサはやがて同年一一月二日に修道衣を受けること
になる︒この挿話は﹃自叙伝﹄でも簡潔に記されているが ︵●︶︑ケックッチの小説にはさらに詳細な描写がある︒
﹁ついにテレーサは︑父親に打ち勝ついかなる望みも失い︑親友のフワーナ︹・スアレス︺に再会するためもあってその修道院に入ろうと強く望むと︑何があろうとそこに行くと決めた︒そして一六歳にな
る弟の︑やはり信仰心が非常に篤かったアントニオを自分のもとに呼んだ︒︵中略︶
│
私は明日密かにカルメル会の修道院に入って︑もう二度とそこを出ないつもりです︒お父様にはそこから手紙を書きます︒︵中略︶│
実は僕もドメニコ会の修道院に入りたいのだけれども︑お父様に何と言ったらいいかわからないのです︒│
いいわ︑一緒に出発しましょう︒│
はい︒│
内緒にね︑神様は御自分に従う者をお助けになります︑私たちもお助けになるでしょう︒︵中略︶
むろん彼女は︑修道女たちに受け入れてもらえるよう︵中略︶フワー
ナに手紙で自分の意図を告げた︒修道女たちはこの知らせを聞いて大きな慰めを得た︒一番年上の修道女が言い始めた︒﹃テレーサ?︵中
略︶テレーサと言えば︑何年も前︑見知らぬ金属採掘士が私たちの修道院に現れて︑預言者のような口調で言ったのです︒この館にテレー
サという名の聖女が住みにやってくるだろう︑と︒これは誰のことでしょう?すぐに︑すぐにおいでなさい﹄︒そしてフワーナはテレーサ
に返事を出した︒みんなが大喜びであなたを待っています︑と︒︵中略︶ついに修道院に着いて足を踏み入れるや否や︑諸悪から解放され︑喜
びに慰められる思いがした︒││そうよ︑彼女は言った︑私は満足だわ︒喜びと優しさに感動したアントニオは︑彼女に愛情のこもった別
れの挨拶をした ︵●︶﹂︒
フランキの画面では︑回廊の一角に跪くテレーサに一人の修道女が手を差し伸べている︒この修道女の後方にはさらに七人の修道女の姿
が見えるが︑そのうち前景の一人は前屈みになって遠くからテレーサの顔を覗き込むように注視している︒傍らの修道女はこの女性の方に
顔を向けている︒あるいはテレーサの名前にまつわる預言を聞いて︑特別な関心を寄せているのかもしれない︒一方︑テレーサの後方には
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まだ扉に手をかけたままのアントニオがおり︑帽子を取って足を踏み入れたところである︒
アレッサンドロ・フランキ︽聖女テレーサの法悦︾︵一八八〇年︑図9︶ 主祭壇画を飾る場面である︒テレーサを扱った絵画主題の中でもっとも人口に膾炙したもので︑﹃自叙伝﹄を筆頭にあらゆるテレーサ伝 に登場する ︵●︶︒ただ聖女の観想的生の極地ともいうべきこの幻視場面が︑三点のプレデッラ︵うち二点は彼女の活動的生を扱っている︑後述︶によっ
て補われていることに注意を促しておきたい︒
アレッサンドロ・フランキ︽少年イエスの聖女テレーサへの出現︾
︵一八九四年︑図
10︶ テレーサのイエスの幻視は数多いが︑それらはいずれも成人として
の出現であり︑少年の姿の出現は主要な三つの伝記のいずれにも含まれていない︒そこで後年の伝記をいくつか参照するうちに︑ケックッ
チの伝記小説が典拠であることが判明した︒この挿話は同書に二度繰り返し掲載されているが ︵●︶︑特に最初の箇所は︑直前にこの聖女の﹁イ エスのテレーサ(Teresa di Gesù)﹂という呼称の由来をも示しており︑重要である︒修道院に入ってから度重なるイエスの出現に︑心を乱さ
れたテレーサは自問する︒
﹁この出現を聴罪司祭に言うべきであろうか?あえてすまい︒信じ
てもらえるかどうか?また嗤われるのではないか?︵中略︶でも言ってみよう︒
│
神父︵と彼女は言った︶︑あなたがあの美しさをご覧になったなら! あの口調をお聴きになったなら!あの喜びをお味わいになられたなら!︒││どうしたのだ︑テレーサ?││今日私に主が現れたのです︒
│
しかし︑わが娘よ︑それはむしろ悪魔ではないか注意するがよい︒│
いいえ︑神父!イエズス︑イエズス︑イエズスです!なんという輝き!なんという穏やかさ!なんという愛!
│
そしてこう言いながら愛情に胸を焦がし︑叫んだ︒私は︑つねにイエズスのものでありたい︑ただイエズスのものだけでありたいのです︑私の生命でありすべてであるイエズスの︒私はもはやこの世のテレーサではなく︑イエズスのテレーサなのです︒
このあと︑彼女は修道院を通って行った︒すると廊下の真ん中で不意に︑白い衣服を着て頬を薔薇のように染めた︑愛らしい少年に出く わした︒これを見て驚いた彼女は︑少年に訊ねた︒
│
ここで何してるの︑坊や?│
ここにいるのが心地いいんだ︒│
どこから来たの︑可愛い坊や?│
すべての楽しみがある所から︒│
あなたの名前は?│
まず君のを言って︑そしたら僕のも言うから︒│
私はテレーサ・・・そう︑イエズスのテレーサよ︒│
そして僕はテレーサのイエズスだよ︵そう言って姿を消した ︵●︶︶﹂︒この美しい挿話は︑その後の聖女伝にはしばしば掲載されているが︑ 出典を明記したものは管見の限りでは見出せなかった ︵●︶︒ケックッチ
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の小説が初出かどうかは現時点で断言できないが︑礼拝堂の所有者ブファリーニ司祭じきじきの依頼で書かれたこの小説がフランキにとっ
ての典拠であった可能性はきわめて高い︒
フランキの画面では︑白地の衣服を着た少年イエスが両手を胸に置いて立っている︒とくに左手は﹁僕は⁝﹂と言うように自分を指差し
ている︒美しい金色の巻き毛をし︑輪光を伴ったこの少年に対し︑左手に書物を手にしたテレーサは︑右手を軽く挙げて驚きを示している︒
テレーサの身振りは少年を認めた瞬間の驚きを︑イエスの身振りはその最後の言葉に︑それぞれ対応している︒二人の間には回廊へと通じ
る扉が半開きになっており︑そこからアーケードと列柱︑突き当たりの壁の磔刑の祭壇︑その傍らで会話をする二人の修道女の姿が垣間見
える︒
アレッサンドロ・フランキ︽修道院の建設を命じる聖女テレーサ︾
︵一八八〇年︑図
11︶ 主祭壇画のプレデッラの一枚︒画面右手で︑テレーサは貴紳が拡げる設計図を指差して指示を与えている︒一人の修道女が聖女の傍らに
付き添っている︒画面左手では三人の大工が建築作業に専念している︒
この場面が聖女が最初に創立したアビラのサン・ホセ修道院に関するものか︑その後の修道院に関するものかは決定しにくい︒アビラの
サン・ホセ修道院の創立については﹃自叙伝﹄の第三二│三六章︑それ以降の修道院の創立については﹃創立史﹄に詳述されている︒
ガエタノ・マリネッリ︽甥を蘇生させる聖女テレーサ︾︵一八八五年 以前︑図
12︶ テレーサの﹃自叙伝﹄には言及がないが︑リベラとイエペスがとも
にこの挿話を扱っている︒カルメル会から独立して新たに跣足カルメル会を創設したテレーサが︑その最初の女子修道院であるアビラのサン・ホセ修道院を建設中に起きた事故であり︑奇跡である︒
﹁未来の修道院が建設中のある日のこと﹂︑外出から戻ったフワン・デ・オバッレは︑幼い息子ドン・ゴンサロが入口で意識を失っている
のを発見した︒フワンは息子を義姉妹のテレーサのもとに運んだ︒隣室にいた妻のフワーナは妊娠中であったが︑泣きながらテレーサに息
子のことを頼んだ︒テレーサは幼児を膝の上に抱きかかえ︑生命が救われるよう神に祈った︒﹁彼女の祈りはまもなく聞き届けられた︒小
さな息子は死の闇から呼び戻され︑普通の眠りから覚めるようにして起き上がり︑聖なる叔母の顔に手を伸ばし︑優しく彼女をなでた ︵●︶﹂︒
とはいえリベラは︑フワーナがその後に産んだ子が三週間しか生きなかったことも書き落としていない ︵●︶︒
しかしいっそう示唆に富むのはイエペスの伝記である︒リベラはテレーサの甥が死にかけた原因を明記していないが︑イエペスはそれを
はっきりと修道院建設に結びつけている︒少年が﹁おそらく五歳のとき︑壁の一部が落ちてきて︑少年に当たった﹂のである︒両親はすぐさまテレーサのもとに駆けつけた︒テレーサはギヨマール・ドゥロア
という婦人の家にいたが︑二人して少年のもとに向かった︒ギヨマール婦人は子供が死んでいるとテレーサに告げたが︑母親の願いを容れ
てテレーサは神に祈る︒﹁聖女はヴェールを前に引き上げ︑頭を垂れ︑子供に顔を近づけると︑内心はともかく表面上は黙ったまま︑モーセ
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かエリヤのような姿で︑神が仕事の斡旋人に選んだ人々が落胆したままでいることのないよう︑神に祈った︒このようにしてしばらく子供
を腕に抱き︑心を神に預けていると︑まもなく誰もが死んだと思っていた子供が︑まるで眠りから覚めるように甦ったのである﹂︒しかも
なお続けて︑﹁悪魔が企んだのはこれだけではなかった︒この子供の災難︑それだけですべてを妨げるに十分だったこの災難によっても︵中
略︶︑また聖女に与えた恐れによってもこの仕事を妨げることができなかったからである︒怒りは激しかったため︑修道院の壁と建築に矛
先が変わった︒︵中略︶これらのことのいかなるものも聖女を動揺させることはなく︑壁を再建し仕事を完遂するための新たな資金を探す気をなくさせはしなかった ︵●︶﹂︒
イエペスの記述からは︑子供の死が建設中の修道院の壁の落下によるものであり︑それは﹁この仕事を妨げ(disturbare questa opera)﹂よう とする悪魔の仕業であったことがうかがえる︒にも関わらず聖女は﹁仕事を完遂(perfezionar l’opra)﹂したのである︒
このように︑この挿話は単なる奇跡譚にとどまらず︑修道院建設という聖女のいわば活動的生の完遂という文脈の中でとらえることがで
きる︒
ケックッチの伝記小説ではここまでの明言こそないが︑﹁五歳の幼
いゴンサルボが︵中略︶石や建物の破片で遊んでいると︑壁が落下して︑子供を押しつぶした﹂とあり︑父親フワンがテレーサにこう毒づく場
面がある︒﹁さあこれが︑お前の姉妹とその夫がこの建設事業から得られた素晴らしい利益だよ︒息子を失って家に帰るというね!テレー
サ︑神は何でもおできになる︑さあ神に祈れ︑お前の甥を甦らせろ ︵●︶﹂︒ この挿話と修道院建設事業との関連性はもはや明らかであり︑イエペスの記述に見られるような含意は当時の読者にとって明瞭であったと
考えられる︒
フランキの画面左手には︑幼児を座らせて抱きしめるテレーサがい
る︒右手後方の窓際では︑頭から続く黒い衣服を着たギヨマール夫人が右手で口を覆いながらこの奇跡を見守っている︒観者に背を向けて
彼女にしがみつくようにしているのが幼児の母親フワーナ︑机に座って組んだ両手で顔を隠しているのが幼児の父親フワンであろう︒窓か
らは︑剥落の跡も生々しい建設中の修道院の壁が見える︒足場がひどく崩壊している様子がうかがえる︒
アレッサンドロ・フランキ︽聖ペドロ・デ・アルカンタラの聖女テレーサへの出現︾︵一九〇〇年︑図
13︶ 小型の十字架と燭台の前の書見台で読書していたテレーサは︑部屋の中に出現した聖人の姿を見て︑書物の右頁の上に右手を置いたまま︑
左手を軽く挙げて驚きを示している︒雲の上に立つ聖人は左手を胸の前に運び︑右手で上方を指し示している︒聖人の頭部の背後には光輪
のような光が見える︒部屋の右端の椅子の上には三冊の書物が置かれている︒下の二冊は横に︑上の一冊は縦に︑重ねられている︒
この挿話はテレーサの﹃自叙伝﹄にすでに含まれている︒改革派フランチェスコ会士ペドロ・デ・アルカンタラ︵一四九九│一五六二年︶
は数度にわたって聖女の前に現れているが︑フランキの画面はペドロの死の直後の幻視を表している︒
﹁亡くなる前の年︑私から遠いところにおられましたが︑私にご出
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現なさいました︒私は主から彼がまもなく亡くなることを知らされていました︒ここから離れた彼の住む土地に彼に宛てて手紙を書き︑そ
のことを注意しました︒最後の息を引き取った瞬間︑彼は私に姿を見せ︑休息に行くのだと私に言いました︒この幻視をすっかり信じたわけではありませんでしたが︑何人かの人々にこのことを知らせたとこ
ろ︑八日経って彼の死の︑というより彼が永遠の生を開始したという知らせが届きました ︵●︶﹂︒
﹁私が﹂︑というように胸に左手を当て︑﹁天に昇る﹂︑というように右手で上方を指し示すピエトロの身振りは︑死を告知するこの挿話を
表しているように見える︒
リベラとイエペスの伝記には︑筆者の見落としでなければこの挿話
は見当たらなかった︒しかしフランキが確実に読んでいたと思われるケックッチの小説には︑次のようにある︒﹁テレーサはこのときアビ
ラの自分の僧房にいた︒突然太陽の光をはるかにしのぐ光の球と︑空中を浮遊する一人の男を眼にした︒男は彼女に言った︒﹃私は永遠の
休息に向かうところだ﹄︒彼を見つめると︑それはピエトロ神父だった︒││神父!彼は姿を消した ︵●︶﹂︒
ペドロ・デ・アルカンタラはテレーサの最良の理解者の一人であり︑聖女の跣足修道院創立の大願を終始一貫励まし続けた ︵●︶︒テレーサはその﹃自叙伝﹄で︑死が間近に迫ったこの老修道士との交流がもつ
意味を次のように要約している︒﹁神は︑この︹修道院創立の︺問題の解決がつくまで彼を私どものために留めおかれたように思われます︒
もうずっと前から︑たしか二年以上前からと思いますが︑彼はたいへん健康がお悪かったのですから﹂︵東京女子カルメル会訳 ︵●︶︶︒老修道士は また︑﹃自叙伝﹄では死後の︑ケックッチでは生前の出来事とされる別の出現においても︑聖女の修道院創立を励ましている ︵●︶︒﹁がんばれ︑
おおテレーサ︑お前の仕事を!神はお前を見守り︑お前の熱意を祝福される ︵●︶﹂︒この連作にペドロ・デ・アルカンタラの出現が加えられたことについては︑単なる聖女の幻視の称揚ではなく︑むしろ修道院創
立という活動的生を意義づけようとする意図を読み取るのが適切であろう︒
アレッサンドロ・フランキ︽執筆する聖女テレーサ︾︵一八八〇年︑
図
14︶ 主祭壇画のプレデッラの一枚︒修道院の一室で机に向かい筆を執る
テレーサの視線は︑机の背後の小さな磔刑の飾られた祭壇を超えて︑高窓から来る光に向けられる︒聖女の顔はその光に照らされている︒
背後の椅子には縫いかけの衣服と糸紡ぎの棒が放置されている︒カーテンを開けて二人の修道女がテレーサの様子をうかがっている︒
テレーサは一五六二年八月以降︑ペドロ・イバニェス師に命じられた﹃自叙伝﹄の執筆を始め︑一五六五年末頃に書き終わってガルシア・
デ・トレド師に送ったという︒以後︑﹃完徳の道﹄︵一五六五│七九年︶︑﹃創立史﹄︵一五七三│八二年︶︑﹃霊魂の城﹄︵一五七七年︶といった主要著作を次々に執筆していく︒﹃自叙伝﹄にもこの執筆活動への言及が
ある︒フランキの画面に関わるのは第十章の次の記述である︒﹁私はいわば寸暇を盗んでこれを書いておりますが︑それでもなお心苦しい
思いをしております︒なぜなら︑この仕事のために糸紡ぎができません︒しかも私は貧しい修院におり︑用事は山のようにあるのです﹂︵前
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掲訳 ︵●︶︶︒糸紡ぎは活動的生の象徴であり︑聖女はここで活動的生を捨て︑高窓から来る光││恩寵に身を委ねている︒﹃自叙伝﹄は次のように
続ける︒﹁もしも聖主が私にもう少し才能と記憶力とをくださっていましたら︑私は読んだり聞いたりしたことを有利に使うことができた
でしょうに︑私はごくわずかしかそういうものを持っていません︒それで︑もしも何かよいことを言うのに成功するとすれば︑それは︑聖
主が︑そこから何かの善を引き出すために︑そのようにお望みになったからでしょう﹂︵前掲訳 ︵●︶︶︒また第三九章に曰く︑﹁私がここに書い
ている多くのことは︑私の頭から引きだしたものではありません︒私にそれらを書き取らせてくださったのは︑この天の師にましますのです﹂︒﹁私のうちには︑私の側からなんの功徳もないのに︑聖主が与え
ることをお欲みになったもののほか︑よいものはありません﹂︵前掲
訳 ︵●︶︶︒このように︑テレーサが活動的生を犠牲にして主の恩寵に導か
れつつ執筆をおこなったことが理解できる︒
他の幻視の挿話ひとつとっても︑テレーサが並はずれた神の恩寵に
与ったことは疑いない︒しかしテレーサの執筆活動が糸紡ぎと並べて表されていることは意味深長である︒聖女は執筆のために祈りの時間
がとられる︑とは言わず︑糸紡ぎや他の用事の時間がとられる︑と言った︒つまり執筆行為は観想的生の代替物ではない︒本人のためでなく
他者の救済のためによりよく役立つこの執筆行為は︑霊感に満ちたものではあるが︑むしろ活動的生の代替物と考えられる︒
アレッサンドロ・フランキ︽十字架の聖ヨハネに修道衣を授ける聖
女テレーサ︾︵一八九九年︑図
15︶ の聖ヨハネ︵一五四二│九一年︶らをアビラから八キロ程離れたドゥル 跣足カルメル会最初の男子修道院設立の許可を得た聖女は︑十字架
エロに最初の修道士として派遣することにした︒聖母は自らの手でヨハネの修道衣を縫う︒そしてその記念すべき最初の男子修道衣をヨハ
ネに授けるのである︒ドゥルエロの修道院は一五六八年一一月二八日に創設された︒のち一五七一年にエンカルナシオン修道院長に着任し
たテレーサは︑ヨハネを自分の聴罪司祭に選んでいる︒
テレーサの﹃創立史﹄およびリベラの伝記は︑十字架の聖ヨハネ らを最初の男子修道士として派遣した経緯には触れているものの︑修道衣への言及はない ︵●︶︒イエペスは修道衣に言及するが︑テレーサから十字架の聖ヨハネへの授与の場面を描写していない ︵●︶︒この挿話はピア
チェンツァで一八七〇年に刊行されたテレーサ伝の中で短く言及されているものの ︵●︶︑本格的な描写はケックッチを待たねばならない︒
﹁
│
院 マードレ長︑ただちに出発します︒│
ええ︑善良なヨハネ︑ぐずぐずしてはいけません︒あなたのために手ずから縫った衣服もあげましょう︒修道院を開いたらすぐに着てください︒
│
出発の前に︑失礼・・・︵そして跪いた︶︒│
何をなさる︑ヨハネ神父!│
あなたの足下にひれ伏し︑神の名によるあなたの祝福をお願いします︒│
いいえ︵彼女は動揺して答えた︶︑その務めは私ではありません︒どうかお立ちになって!│
院長︑まずあなたの祝福を受けなければ︑私は立ちません︒33
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