12 HBr
前回は、アルケンへの求電子付加反応、特に
HBrとの反応に注目し、その反応機構 について学んだ。また、カルボカチオンの構造と性質についても学んだ。今回は、アル ケンへの
HBrの付加反応のさまざまな特徴について、カルボカチオンの性質と関係づ けながら学んでいく。
1.
前回の最後に、メチルカチオンの構造について学んだ。ここでは、エチルカチオンに ついて考えよう。エチルカチオンは、メチルカチオンの次に単純なカルボカチオンであ る。
エチルカチオンの2つの炭素のうち、正電荷を持つほうの炭素から出る3本の結合に ついては、特に変わったことはない。メチルカチオンと同様に、
sp2混成軌道を使った σ結合である。注目すべきなのは、隣の炭素(メチル基の炭素)の
C–H結合である。
3つの
H原子のうち、1つはカルボカチオン平面に対して「立って」いる。もう少し 正確に言うと、
H–C–C–Hの二面角が
90°になっている。
この
H原子を含む
C–H結合は、カルボカチオンの空の
p軌道と同じ方向を向いてい る。このため、
C–Hの結合性軌道と空の
p軌道が少しだけ混じり合って、下図の右の ような分子軌道が形成される。この軌道は、もとの
C–H結合性軌道よりも少し広がっ ているため、電子が存在できる空間が広がり、エネルギーが下がる。
C C H H H
H H
ethyl cation
カルボカチオン平面に対して
立っているH 二面角= 90
分子軌道ダイアグラムを使うと、下のように書くことができる。
C–H結合の電子の エネルギーが、わずかながら低くなっている(安定化を受けている)ことがわかるだろ う。
このように、軌道同士の相互作用によって電子が存在できる空間が広がることを、
delocalization of electrons と呼ぶ。エチルカチオンにおける電子の非局在
化はそれほど大きなものではない(大部分の電子は元の
C–H結合性軌道と同じ空間を 占めている)が、それでも電子のエネルギーに無視できない影響を与えている。
電子の非局在化にはいくつかのパターンがある。エチルカチオンの場合のように、σ 結合の電子が関与する非局在化のことを
hyperconjugationと呼ぶ。超共役とい う言葉はすでに紹介した(第8章)。今後もさまざまな形で登場する重要な概念である。
分子のエネルギーは、分子中のすべての原子核・電子のエネルギーの総和である。従 って、ある
C–H結合電子のエネルギーが低下することは、分子全体のエネルギーの低 下、つまり安定化につながる。このことから、エチルカチオンはメチルカチオンにくら べて、超共役による安定化を受けていると言える(注1)。
注1:本当は、メチルカチオンとエチルカチオンは構成原子の数が違うので、エネルギーを直接 比較することはできない。ここでいう「安定性」は、ある基準物質、たとえばアルカン(メタン、
エタン)と比較した場合の安定性の差と解釈する。
エチルカチオンは、メチルカチオンの水素原子を一つメチル基
CH3で置き換えたも のと見なすことができる。水素原子はあと二つ残っているから、順に置き換えてみると どうなるだろうか。
C‒H 結合性軌道 空のp軌道
+ +
電子の非局在化(=エネルギー下がる)
空のp軌道
C‒H
σ結合性軌道 相互作用によって
生まれた新しい軌道
エネルギー
エチルカチオンは 、イソプロピルカチオンは
、
t-ブチルカチオンは である。エチルカチオンは、超共役に 関与できる
C–H結合が1つ存在していた。これに対して、イソプロピルカチオンでは 2つ、
t-ブチルカチオンでは3つの
C–H結合が超共役に関与できる。
従って、これらのカルボカチオンの安定性について、次のように言える。
この傾向は、カルボカチオンに結合しているのがメチル基の場合だけでなく、アルキ ル基一般について成り立つ。つまり、下のように考えてよい。
このように、アルキル置換基の数が多いほどカルボカチオンの安定性が高まるという
CH H
H C C
H H H
H H
C C C H H
H H
H H
H C C
C C H
H H
H H H
H H H
methyl cation ethyl cation isopropyl cation t-butyl cation
カルボカチオン平面に対して 立っているH
C H
H
H C C
H H H
H H
C C C H H
H H
H H H
C C C C H
H H
H H H
H H H
事実は、カルボカチオンが関与する反応に重大な影響を及ぼす(注2)。
注2:「カルボカチオンのアルキル置換基の数が多いほど」というのを「カルボカチオンの級数 が大きいほど」と言ってはならない。世界標準では「級数」「級の数」という概念は存在しない ことはすでに述べた。
2. HBr
前回に付加反応の例として用いたアルケン(
trans-2-ブテン)は、二重結合の両側の 2つの炭素原子に同じ置換基がついている(メチル基が1つ、水素が1つ)。このよう なアルケンを
symmetrical alkeneと呼ぶ。今度は、
unsymmetrical alkene
、つまり2つの炭素原子に異なる置換基がついているアルケンに
ついて考えてみよう。たとえば、
2-メチル
-2-ブテンである。
HBr
の求電子付加反応では、二重結合の一方の炭素原子に
Hが結合し、もう一方の 炭素原子に
Brが結合する。対称アルケンでは、
Hがどちらの炭素原子に結合しても同 じものができる。しかし、非対称アルケンでは、
Hがどちらの炭素原子に結合するかに よって、異なる生成物が得られる。
2つの生成物はどのような割合で得られるのだろうか。どちらか一方だけが得られる
C CH3C
H CH3 H
trans-2-butene
C C H3C
H CH3 CH3
2-methyl-2-butene
C C H3C
H CH3 H
+ H Br
C C H3C
Br CH3
H
H H
C C H3C
H CH3 Br
H H
C C H3C
H CH3 CH3
+ H Br
C C H3C
Br CH3
H H CH3
C C H3C
H CH3 Br H CH3
のか、それとも両方とも生成するのか。また、両方とも生成するとしたら、同じ量ずつ できるのか、それとも一方が優先的に生成するのか。
反応機構に基づいて、結果を予想することができる。
2-メチル
-2-ブテンと
HBrの反 応の機構を考えてみよう。trans-2- ブテンと同様の反応機構で進むと仮定すれば、この 反応も二段階反応であり、第一段階は二重結合に対する
H+の付加である。(これまでは
「
HBrの求電子攻撃」と呼んできたが、生成するものは
H+とアルケンが結合したカル ボカチオンなので、これからは「
H+の付加」と呼ぶことにする。)
上の図にあるように、この段階ですでに二通りのカルボカチオンが生成する可能性が ある。このカルボカチオンの安定性を比較してみよう。上の方は「二級」のカルボカチ オン、下の方は「三級」のカルボカチオンである。先ほど学んだ通り、三級カルボカチ オンの方が二級カルボカチオンよりも安定である。
反応のエネルギー図を描いてみると、下のようになる。
C C H3C
H CH3 CH3
+ H Br
C C H3C
H CH3 H
CH3 + Br
C C
CH3 CH3 H
H
H3C + Br
C C
CH3 CH3 H
H H3C C C
H3C
H CH3 H
CH3
エネルギー
反応座標
(より安定)
C C H3C
H CH3 CH3
+ H Br
C C H3C
H CH3 H
CH3 + Br
C C
CH3 CH3 H
H
H3C + Br
安定な三級カルボカチオンを作る経路(実線)の方が、「越えるべき山」が低い。す なわち、活性化エネルギーが小さく、反応が速い。
第二段階はどうだろうか。実はこの反応では、第二段階の活性化エネルギーは小さく、
反応速度に大きな影響は及ぼさない。全体の反応速度を決めているのは、大きな活性化 エネルギーを持つ第一段階である。このように、多段階反応の中で「最も遷移状態のエ ネルギーが高い」段階を
rate determining stepと呼ぶ。律速段階は、多段階反 応の中で最も速度の遅い段階であり、反応全体の速度を決める段階でもある。
第二段階まで含めて、この反応のエネルギー図を描くと、下のようになる。
実線の反応の方が速く進行するため、生成物も多くなる。従って、下の化合物が
main product
である。上の生成物は少量しかできない。これは
by-productとなる。
以上をまとめると、次のことが言える。
HBr
3.
非対称アルケンに対する
HBrの求電子付加反応で、アルケンの置換基が飽和のアル キル基または水素のみである場合は、付加する位置について次の法則が成り立つ。
「求電子剤(この場合は
H+)は、より多くの水素が結合している
sp2炭素に結合す る。」
この法則を、提案者の名前をとって
Markovnikov’s rule と呼ぶ。マルコフニコフ則が提案されたのは
1870年である。当時は量子力学もなく、有機化合物 の結合の正体についてはほとんど何もわかっていなかったため、このような経験則を積 み上げて行くことに十分な意味があった。しかし現在では、カルボカチオンの安定性の
エネルギー
反応座標
(より安定)
C C H3C
H CH3 CH3
+ H Br
C C H3C
H CH3 H
CH3+ Br
C C
CH3 CH3 H
H
H3C + Br
C C H3C
H CH3 Br H CH3
C C H3C
Br CH3
H H CH3
主生成物 副生成物
違いについて量子力学の原理で明快に説明できるようになった。このため、このような 経験則を記憶することにはほとんど意味がない。また、機械的にマルコフニコフ則を当 てはめると誤った結果を導く例もある。従って、マルコフニコフ則は歴史的な経験則と しての認識にとどめ、あくまでも「カルボカチオン中間体の安定性」で反応性を理解す ることが重要である。
4.
ある種のアルケンは、
HBrと反応して奇妙な生成物を与えることがある。
2-
ブロモ
-3-メチルブタンは、「普通の」生成物である。末端の炭素原子に
H+が付加し て二級カルボカチオンが生成し、そこに
Br–が結合して得られる。ところが、これは副 生成物であり、実際に主生成物となるのは
2-ブロモ
-2-メチルブタンである。この生成 物では、もともと二重結合があった位置とは異なる炭素原子に
Brが結合している。こ の化合物の生成は、今まで学んできた反応機構では説明することができない。
この奇妙な反応は、
carbocation rearrangement によって説明することができる。カルボカチオン転位とは、カルボカチオンの隣の炭素原子に結合して いる原子または置換基が移動することによって、カルボカチオンの位置が隣に移る反応 である。
カルボカチオン転位は、下のように進行する。遷移状態では、移動する水素原子が2 つの炭素原子の両方と弱い結合を作っている。
CH CH CH3
CH3
CH2 + H–Br CH3 CH CH CH3
CH3 CH3 C CH2 CH3
CH3 +
Br Br
C C CH3
CH3
CH3 H
H
C C CH3
CH3
CH3 H
H carbocation rearrangement
C C CH3
CH3
CH3 H
H
C C CH3
CH3
CH3 H
H C C
CH3 CH3
CH3 H
H
カルボカチオン転位は、いつでも起きるわけではない。まず、転位は必ずカルボカチ オンの隣の炭素との間で起きる。これは、遷移状態が三員環構造であることによる。下 のように、1つ離れた炭素に転位が起きることはない。
また、転位後のカルボカチオンが転位前よりも安定でなければならない。先ほど示し た転位反応では、二級カルボカチオンから三級カルボカチオンが生成するので、転位後 の方が確かに安定である。下のように、転位後のカルボカチオンが元よりも不安定であ る場合には、転位は起こらない。
カルボカチオン転位を巻き矢印を使って表してみよう。反応に関与する電子は、カル ボカチオンの隣の炭素原子と、移動する水素原子の間の結合電子である。
この2個の電子が、新たな
C–H結合の電子になる。従って、次のように書くことが できる。巻き矢印の出発点は、切断される
C–H結合の真ん中付近でなければならない。
H
原子から出発してはいけない。
下図のように、新しく生成する結合を点線で描いて、その結合に向かって巻き矢印を つけてもよい。特に、転位反応ではこの表記法の方がわかりやすい。この場合も、巻き 矢印の出発点は
C–H結合の真ん中付近である。
C CH2 CH3
CH3 C H
CH3 H
C CH2 CH3
CH3
C CH3 H
H
H2C C CH3 H
H2C C CH3 H
H H
C C CH3
CH3
CH3 H
H
C C CH3
CH3
CH3 H
H
C C CH3
CH3
CH3 H
H
C C CH3
CH3
CH3 H
H
カルボカチオン転位では、水素原子ではなくアルキル基が転位することもある。次の 例では、メチル基が転位している。
7.
・ カルボカチオンの安定性
・ 非対称アルケンへの求電子付加
・ 律速段階、遷移状態、活性化エネルギー
・ 位置選択的反応
・ カルボカチオン転位
【教科書の問題(第6章)】
カルボカチオンの安定性:
3, 4a非対称アルケンへの求電子付加:
6, 7カルボカチオン転位:
16, 17C C CH3
CH3
CH3 H
H
C C CH3
CH3
CH3 H
H
C C CH3
CH3
CH3 CH3
H
C C CH3
CH3
CH3 H
CH3