戦後のわが国における経営労使関係論の潮流(2)
その他のタイトル Labor Relation Theories in Post‑war Japan (II)
著者 高堂 俊弥
雑誌名 關西大學經済論集
巻 5
号 4
ページ 491‑532
発行年 1955‑07‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/15754
あろ
う﹂
されている︒すなわち︑ 論の新しい補強の途を知るうえに︑ われわれはさきに︑の
問題
を︑
八
﹁経
営﹂
﹁労資関係論﹂えの制度論的接近を示す︱つの例を︑古川教授の場会に見たのであるが︑
ぎに︑﹁経営﹂の﹁制度的維持と発展﹂という﹁経営それ自体﹂の立場を積極的に掲げて︑そのかぎりで︑
﹁組織論﹂を中核に解明していこうと試みられる占郡都美教授の主張も︑最近のわが国における制度理 戦
後 の
︱つの注目すべき立場であろう︒ちなみに︑
﹁経営を﹃生きた具体的全体﹄としてみるかぎり︑経営にとつて中核的なものは︑組織概念であろう︒経営者は組織の一部で
あり︑経営管理は組織の過程的側面をなしている︒そして組織を中核として︑経営の技術的構造︑経済的構造および社会的構造
が形成され︑またこれらの各部分構造は︑組織の機能によって経営という制度に統合化されるのである︒現在および将来の経営
が当面する困難な諸問題の解決に少しでも貢献しうるためには︑経営学は組織論を中核として新しい転期を画さねばならないで
︵占
部﹁
近代
経営
学﹂
序一
ーニ
頁︶
しからば︑教授の組織論的接近は﹁労資関係﹂の理解のうえにどのようなかたちで具体化され︑それはまた︑ど
わ が 國 経 螢 勢 資 関 係 論
に お け る
高
その全般的視点はつぎのごとく示
堂
の 潮 流
︵二
︶
俊
禰
つ
492
から区別し︑組織としての﹁経営﹂の目的を︑ 組
織﹂
を︑
用し
て︑
︵コモンズ︶という観点であろう︒ んな意義を担わされているであろうか︒われわれはもつばら︑
︵﹁
前褐
書﹂
一三
六頁
︶と
いわ
れる
︒
この点に問題を搾つて考察しよう︒
まづ︑教授の組織論的視角の基底をなすものといえば︑それは﹁制度とはゴウイング・コンサーンであり︑
イング・コンサーンとは組織である﹂
済雑
誌九
0巻一号五一頁また﹁近代経営学﹂一ーニー三頁参照︶と理解される︒
︵生
産お
よび
配給
︶﹂
ゴウ
つまりこれが︑﹁経営﹂を近代社会の﹁制
度的単位﹂をなす﹁生きた具体的全体﹂として捉える支柱となっているのである︒ところで︑教授はここにいう﹁
﹁二人またはそれ以上の人の意識的に調整された行動の体系である﹂というパーナードの一般規定を援
﹁組織とは要するに共通の目的実現のための人間の集団行為過程をさす﹂
︵﹁
協働
組織
とし
ての
諾営
﹂国
民諾
そこで︑教授はこの﹁共通の目的﹂という視点から︑﹁組織の目的﹂を各個人の﹁主観的目的﹂や﹁個人的動機﹂
﹁われわれの需要充足に必要な物質的生活資料︵経済的給付︶の調達
︵﹁
近代
経営
学﹂
︱二
0頁︶ということのうちに求め︑それを﹁社会的かつ客観的な目的﹂として
提出された︒このように﹁組織の目的﹂を﹁一定の給付生産というような︑なんらかの﹃対象﹄に﹃客観化された﹄
もの﹂において捉えることによって︑経営に﹁給付協佑体﹂としての本質を与えられるのである︒すなわち︑
営とは︑給付の継続的生産のための協佑組織
渋( g
l l " a
t i v e
sy
st
em
)
であ
る﹂
て、•このような見方は、明らかに歴史的な生産様式視点から離れて、もつばら技術的な労仇行程視点を押し出すた
めの論理的基礎をなすものであった︒しかしながら︑
れゆえ︑経営の目的を組織論的に︑ こうした技術的視点は単なる物質的生活資料の調達を指摘す
るにとどまり︑それは歴史的︑資本主義的な範疇をはなれて何よりも商品生産という本質視点を放棄している︒そ
﹁給付生産﹂に求める立場は︑商品生産の本質わけても︑価値増殖行程の移密
戦後
のわ
が国
にお
ける
経営
労賓
関係
論の
湖流
︵高
堂︶
八
そし ﹁ 経
経営指揮という給付機能の担当者﹂
八
< ヽ
義的企業
m a n a g e r i a l e n t e r p r i 咎 ﹂
それには 法則法性をもたねばならない﹂ ﹁経営﹂を機械的に﹁企業﹂から解放することによって︑間接的に利潤追求の正当性と価値牧奪
の自由を擁護するものとなる︒
こうした教授の見解は︑さらに明瞭に展開される︒それはまづ︑
もの︵﹁前褐書﹂三一三頁︶﹂となったことを跡.つける︒ ﹁所有と経営の分離﹂を拠りどころに︑今日で
は﹁経営﹂をめぐる﹁所有機能﹂が﹁生産槻能﹂から離れて︑単に﹁価値の配分過程における支配機能を意味する
そし
て︑
な協佑社会的秩序は︑企業過程における権力社会関係とは区別﹂
﹁経営内部的な社会秩序とそれにもとずく経営指揮は︑経営外部的な権力社会関係にたいして純粋に中立性と自己
盾の
解消
を︑
︵﹁
前褐
論文
﹂七
一頁
︶と
考え
られ
た︒
立性が積極的に求められるのである︒なおそこでは︑経営者が生産手段の接近を支配することによって﹁経営者主
︵﹁
公紐
営管
理﹂
一
0頁︶が成立すると主張されているようであるが︑
﹁公企業その他の社会的条件の媒介を必要とする﹂︵﹁前褐論文﹂註
1 4 )
といわれるだけで漠然としている︒
しかも教授によれば︑﹁近代企業社会の矛盾﹂は︑﹁生産手段の所有﹂と﹁労仇の分離﹂にのみ基くものではな
﹁個人行為﹂の﹁集団行為化﹂によって﹁利害集団﹂の利害対立が形成される点に求められる︒そしてその矛
これらの力関係の均衡に求めて︑
戦後
のわ
が国
にお
ける
経営
労贅
関係
論の
潮流
︵高
堂︶
から目をそらし︑
﹁労仇過程の自然経済的な給付目的のために必要
︵﹁
経常
参加
の経
営学
的前
提﹂
前褐
七
0頁
︶さ
れて
︑
ここに経営体の自己法則性と経営指揮者の中
いわば楽観的均衡論をうち出された教授は︑近代企業が各・﹁利害集
団﹂のこうした利害的矛盾を調和して給付生産を発展させるべき﹁本質的課題﹂を担つていると考えられた︒﹁︵近
代経常学﹂三二三ー四頁︶そこで教授はこの﹁本質的課題﹂を︑﹁給付生産の協佑過程の内在的必然性から要請される
︵﹁前掲書﹂七一頁︶としての﹁経営者﹂の新しい﹁指導性﹂の裡に与えられる
494
戦後
のわ
が国
にお
ける
経営
労資
関係
論の
潮流
︵高
堂︶
ので
ある
︒
このように教授は︑経営
11
給付協仇体の﹁所有機能﹂からの自由を基礎.つけながら︑その﹁給付協佑体﹂の構成者で
ある労仇者と経営者の協同を︑単に可能性としてよりも︑むしろ必然的なものとして積極的に求められるのである︒
︵﹁
経営
参加
の経
営学
的前
提﹂
﹁作業労佑の給付者である労佑者と同じく︑経営者は給付協佑体の構成者である︒この給付協佑体において︑経営者と労佑者
'は共通利害と危険を見出すのであり︑そこに生産性向上のための労使協同の場所が与えられる﹂
七一
頁︶
と︒
ところが︑皮肉にも︑こうした必然性を︑経営者の﹁倫理性﹂に求めざるを得なくなるのはどうしたことであろ
うか︒すなわち︑企業構造の変革にともなって︑﹁企業過程﹂の相対的縮小と︑﹁経営体﹂の相対的膨脹が現象し︑
そこに﹁市業的交渉過程﹂に代つて﹁組織的配分過程﹂が増大するから︑﹁経営過程﹂の指揮者であるとともに︑﹁組
( 1 )
織的配分過程﹂の担当者としての﹁経営者﹂は︑﹁経営﹂を制度として維持するための﹁指導性﹂において︑﹁所有
過程﹂と﹁労佑過程﹂の矛盾を調整すべき歴史的︑社会的な役割が問われるものと看倣されている︒
.二六ー八頁︶かくて教授は次のごとく結論されるのである︒すなわち︑
︵﹁
前掲
書﹂
三
﹁要するに︑資本主義の社会的環境において︑経営の制度的維持と発展は︑究極において利害調節者としての経営者の経済倫
理的機能に求めざるを得ないのである﹂︵﹁前褐書﹂三二九頁︶と︒
ここではすでに︑恣意的な﹁観念﹂えの後退がいとも簡単に行われ︑
ので
ある
︒
さて︑われわれは右の占部教授の論理的支柱として︑
︵﹁
前褐
書﹂
三二
四ー
六頁
︶
みずから非科学的な結論をえらびとられる
とりわけ﹁近代的経営の二重構造論﹂に注目しなければな
八四
過程﹂の﹁権力社会関係﹂を峻別し︑
こと
であ
る︒
すな
わち
︑
の二重性﹂に対応して︑ こうした点から﹁経営と企業をゴウイング・コンサーソとしての制度を構成
する明確に区別された部分的全体﹂︵コモンズ︶として前者に﹁給付機能﹂の性質を︑後者に﹁牧取機能﹂の性質を
二元論的に規定するものであった︒
低んらい資本制経営は︑何よりも商品生産にかかわる組織体として︑
﹁価値﹂は商品経済にのみ固有の歴史的カテゴリーである︒
かりか︑労佑力をも商品化する資本主義のもとでは︑この﹁価値法則﹂が人間労佑力に波及して﹁剰余価値法則﹂
( 2 )
を貫徹させる︒そして︑労仇力商品も他の商品と同様に︑﹁価値﹂と﹁使用価値﹂を﹁抽象的人間労仇﹂と﹁具体
的有用労佑﹂.の二重性格に対応して創出するのであるが︑労佑力はほんらい︑それ自体ではあくまで﹁潜勢力﹂で
( 3 )
あって︑諸手段の所有11資本のもとに現実に消費される時に﹁労仇﹂たりうるものであった︒さらに︑資本制生産
そのものは資本
l
労仇力の本源的蓄積を歴史的前提として︑労仇力商品を資本のもとに従属させる︒こうした労佑の資本えの従属化が歴史的にも論理的にも資本制生産の物質的基礎に低かならない︒ここに資本制経営は︑資本と
労仇の結合の場と考えられるのである︒しかも︑資本制経営の生産行程において︑労佑の生産物l
商品
は︑
﹁使用価値﹂を創出する﹁労仇行程﹂と︑
( 4 )
の﹁二重性格﹂をうみ出す︒したがつて資本制経営は︑右に見たような︑
性﹂に対応した﹁労仇行程﹂と﹁価値増殖行程﹂の︑
戦後のわが国における経鴬労賓関係論の潮流︵高堂︶ 係﹂によって貫かれている︒
八五
﹁経営学﹂にいわゆる﹁企業﹂と﹁経営﹂の弁証法的関係か
とこ
ろで
︑
労佑の生産物ば
﹁価値﹂を創出する﹁価値増殖行程﹂から︑そ
まさにその歴史的範疇の︑
﹁労
仇の
二重
﹁労
仇
そして労佑の生産物が商品となるのは︑それが使用価値ばかりでなく価値をも持つ らない︒ところで︑これに関する教授の理解はすでに見たように︑﹁労仇過程﹂の﹁協仇社会的秩序﹂と︑
とりわけ資本に媒介された﹁人と人との関
﹁企
業
いや
味して
t
る︒それゆえ︑ しての経営者に移譲されるに過ぎない︒それは機能資本家の機能を︑ 対象理解l l
現象論が露呈されるのである︒戦後
のわ
が国
にお
ける
経営
労賓
闘係
論の
潮流
︵高
堂︶
( 5 )
ら︑統一的に理解さちべきである︒そのゆえに︑
その歴史的︑物質的視点を放棄するものと言えよう︒
それにもかかわらず︑教授があえて﹁二元的論理﹂を推進されるのは︑﹁経営﹂の自已法則性したがつて︑また
﹁経営者﹂の﹁指導性﹂を基礎づける論理的前提として︑やがて︑資本制経営の歴史的な企業的側面が偽装され︑
ゴウイング・コンサーンとしての制度的全体が予定調和のうちに擁護されると言わねばならない︒たとえば︑教授
が経営者を﹁給付生産の協佑過程の内在的必然性から要請される経営指揮という給付機能の担当者﹂と見て︑
有とそれにもとずく支配権力なくしても︑経営秩序を形成する経営指揮は成立しうる﹂︵﹁軽営参加の経営学的前提﹂
前揚
七
0頁︶と考えられるとき︑
おも
うに
︑
内容と形式の統一の上に把握さるべき本質視点が捨てられて︑文字通り即自的な
( 6 )
﹁ヴァイオリツの独奏者は自分自身を指揮するが︑オーケストラは指揮者を必要とする﹂ように︑分
業にもとづく協業にともなって指揮・管理が必然化する︒しかも分業にもとづく協業はほんらい個別資本に媒介さ
れたものであるから︑指揮・管理の機能はまさに資本に属することとなる︒したがつて︑﹁所有と経営の分離﹂と
いうことは︑資本の私的資本から社会的資本えの発展の過程において︑機能資本家の右の属性が︑単なる機能者と
( 7 )
﹁特別種類の賃労仇者﹂が代行することを意
﹁指揮権力﹂は﹁所有権力﹂に従属するものとして︑経営者は決してそれ自体独立の意味
をもった機能者ではなく︑すぐれて資本の命令の下請人に性かならないと言えよう︒.
このように商品生産を貫く価値法則は︑資本制商品生産の場においては︑剰余価値法則としてあらわれ︑そこで
﹁ 所
﹁企業﹂と﹁経営﹂を機械的に切断する二元的論理は︑みづから
八六
戦後のわが国における経鴬労賽関係論の潮流︵高堂︶ 科学的﹂経営学に偽装され︑やがて資本の論理の補強に奉仕することとなるのである︒ここに︑経営理論の制度論的展開の本質は︑つとめて︑現象を客観化し︑これを彼等のいわゆる﹁科学性﹂によって基礎.つけようとする﹁経営学﹂的努力のうちに見出されるであろう︒ し
て︑ か
くて
︑
﹁経営を制度として維持発展せしめるという﹃経営それ自体﹄の立場﹂も︑実は﹁資本の立場﹂を隔離
﹁経営者の立場にも︑労佑者の立場にも︑また出資者や消費者の立場にも﹂とらわれないという﹁客観的な うの仕かないからである︒ 放
し︑
主性
と︑
八七
﹁企業﹂から解 は指揮・管理の機能はすべて資本の属性として︑この法則に規定されるから︑およそ﹁経営機能﹂が﹁支配機能﹂から﹁純粋に中立的な自巳法則性﹂を持つものではなト︒まして﹁経営体﹂は経営者と労佑者の﹁共通利害﹂の場でもない︒むしろ逆に︑資本制生産関係にあらわれる資本・労仇の矛盾・対立が︑搾取・被搾取の階級的対抗を露骨化して︑経営支配の存立的基礎を脅かし︑産業不安を高めてゆくから︑資本はとりわけ偽装された﹁経営体﹂の自
﹁経営者﹂の﹁経済倫理的機能﹂ないし理性的行為を防波堤して労仇攻勢の安全弁たらしめ︑﹁労資協調﹂
を実現する必要が生まれるのである︒ここに︑教授の追求された﹁労資協同﹂の必然性の論理は︑経営者の倫理の
うちに観念的に解消されて︑かえつて恣意的︑主観的な論理として破綻するのである︒
教授が組織論的接近を試みた意図は﹁経営﹂を﹁給付協佑体﹂として基礎.つけることによって︑
﹁経営者﹂の﹁指導性﹂に名を借りて︑その支配機能を正当化しようとするものであったが︑われわれは︑
教授の機械論的な﹁企業・経営﹂の二元論理のうちに︑まさにその﹁アキレスの腱﹂を認めざるを得ない︒何とな
れば︑所有なき支配と統制︑所有から離れた指揮・管理ということは︑資本制経営の本質に対する皮相的理解とい
‑ ‑ ‑ ‑ ・ 、 ‑ ‑ ・
ー・・‑‑‑‑.一・...·---··•-·- .. 一—ー・498
つぎに︑経営管理の自動的進行という制度的視点に拠つて︑もつばら﹁団体交渉﹂制度に﹁労資関係﹂の調整機
能を求め︑そこから全体の調和的発展を追求していくものに笛木・田杉・降旗等の諸教授がある︒
笛木正治教授は﹁雇用
(e
mp
lo
ym
g
t)ということによって生ずる雇うもの(e
mp
lo
ye
r)
と雇われるもの
(e
mp
lo
ye
e)
(7) (6) 戦後のわが国における諾営労賽関係論の潮流︵高堂︶
︵コ
ム・
アカ
デ︑
1網﹁経済学の諸問題﹂平館訳所牧︶
︵﹁経済理論﹂一四号︶参照︒
註いここに言う﹁指導性﹂について教授は次のように理解しておられる︒すなわち︑﹁ゴウイング・コンナーンは一つの集団 的意志をもっと解釈されるが︑その集団的意志は各人の多数決原理によってではなく︑経営者という少数グループによって 形成されるのである︒かくて経鴬者は制度を動態化し︑指導する役割をもつことになるのであって︑そこにいわゆる指導性
の概念が与えられるのである﹂︵﹁近代経営学﹂三六二頁︶と︒
そして︑こうした攘点から﹁経常者﹂を次のように把握される︒すなわち︑﹁経常者はゴウイング・コンサーンにおける集 団意志の有力な形成者として︑指導性をもち︑制約的要因に対するタイムリーな管理を行い︑所有過蘊において対立矛盾す る利害の調整を達成する役割をもつ﹂︵﹁前掲書﹂三七
0頁︶と︒
言うまでもなく︑こうした﹁指導性﹂概念ないし﹁経営者﹂機雛を基礎.つける論珊的支柱として︑﹁組織論﹂的謁点がえ
らばれているのである︒︵﹁組織論﹂と﹁制度理論﹂の関連については︑占部﹁近代的軽常の具体構造﹂p.R
五巻
三号
︑一
二頁参照︶
②ヴェ・セレプリヤコフ﹁労働の資本への形式的及び実質的従属﹂
九九頁
⑥ マ ル ク ス
﹁ 賓 本 論
﹂ 第 一 部
︑ 長 谷 部 訳 三 二 九 頁 囚 マ ル ク ス
﹁ 賓 本 論
﹂ 第 一 部
︑ 長 谷 部 訳
︱ 二 三 ー 三 一 頁 固 マ ル ク ス
﹁ 賓 本 論
﹂ 第 一 部
︑ 長 谷 部 訳 三 四 三 お よ び 三 五 三 頁
また︑これについては︑北川宗蔵﹁締営学と弁証法︵その一︶﹂
マルクス﹁賓本論﹂第一部︑長谷部訳五五五頁 マルクス﹁資本論﹂第一部︑長谷部訳五五七頁
八八
戦後のわが国における経営労贅関係論の潮流︵高堂︶ との関係﹂というヨーダー
(D
al
e
Yo
de
r)
の
^
I nd u
s tr i
a l
Relations
•
概念を援用して︑
理解する︒そして教授は︑今日では一方で︑
う事実から︑
合関
係﹂
質と
し︑
﹁出資と経営︵所有と管理︶の分離﹂と︑他方で労仇組合の発展とい
この関係を﹁組合幹部と経営者との関係﹂において具体化し︑
( la b
o r
r e l a 苦
n s ,
un
io
n , m
an
ag
em
en
t r
e l a t
i o n s
)
と考えられる︒
さらに教授は︑﹁労佑組合﹂の行動原理は︑低んらい労佑不安ないし労仇問題にたいする﹁労仇者的解答﹂を本
これに対して︑科学的管理の補足または精練化として成立した﹁人事管理﹂も︑なお依然として科学的管 理そのものの根幹を過信しているところに﹁経営者的解答﹂を出るものではないから︑その間にはむしろ対立する
︵﹁前燭書﹂'‑八ー九頁︶そして実際︑現実の団体交渉において︑
﹁労資関係﹂をひろく経営管理の問題として再検討する必
要があると考えられてその理論的究明と実証的観察を試みられるのである︒たとえば︑こうした視点を示すものと
して︑教授は次のように述べておられる︒すなわち︑
︵﹁
前褐
書﹂
ニ︱
頁︶
と︒
八九
これを広義の﹁労資関係﹂と
これを狭義の﹁労資関係﹂ないし﹁組
︵笛
木﹁
労資
関係
と締
営管
理﹂
一ー
五頁
︶
人事に関する問題
﹁労資関係の調和ということも︑経営管理の問題として再検討さるべきである︒
な原因はいわゆる利益の配分をめぐる労資の利害が一致しないからであるとみられている︒このことはおそらく事実であろう︒
しかしすべての場合において利害の配分のみが唯一の係争点であるとすることはできない︒問題はむしろ管理方法いかんに存す
そこでこのような意図のもとに︑教授はまづ労佑組合が経営管理に及ぼす影響を検討することによって︑
関係﹂と経営管理の問題として考察しようとする︒
るこ
とが
多い
ので
ある
﹂
がもっとも重要な位置を占めていることを見るならば︑ ものが認められるといわれる︒
﹁労
資
一般に労資関係が調和しえないもっとも大き
1500
れる
︒
丹冨1·•union)えと発展せしめられ(「前掲書」四五頁)、
さら
に︑
発展
︑
並に産業別組合の発
戦後
のわ
が国
にお
ける
経営
労資
詞係
論の
潮流
︵高
堂︶
これについて︑教授は第一に︑科学的管理から人事管理えの経営管理の歴史的発展を捉えて︑労仇組合の生成発
展は経営管理を発展もしくは剌戟し︑同時にその結果は逆に労佑組合を発展せしめるということを指摘される︒す
なわち︑科学的管理は﹁労仇者を集団としてよりは︑個人として取扱うことの必要と便宜﹂をなによりも意識し
て︑否定し得ない制度的単位としての労仇組合を理解せず︑かえつてこれを否定するような意図を持つていたこと
は事実であるが︑同時に労佑組合の側も﹁科学的管理の真の目的︑性格︑方法乃至効果について正しい認識をもた
このような﹁両者それぞれの誤解﹂も︑大戦を契機として︑経営者
の側が﹁能率増進や原価引下げということは技術的問題であると同時に︑すぐれて﹃人間的問題﹄であること﹂を
教えられ︑こうした点から︑人事管理えの歩みが促されたことをあげられる︵﹁前揚書﹂六一頁︶︒さらに教授は︑﹁戦
後恐慌に際し︑科学的管理を実施しているところの方が失業も少く︑労佑条件もむしろよいことが少からず見聞さ
﹁科学的管理に対する労佑維合の反対は︑次第に緩和︑もしくは修正﹂され︑そこに﹁科学的管理乃
そしてまた逆に︑﹁新しい生産方法や新しい管理方法︵たとえば科学的管理︶の採用による労佑者の熟練の退歩と︑
それに対抗する一産業全体の労仇者の組織化という事情﹂によって︑労仇線合が職業別組合から産業別組合
( i n d
u ,
︵﹁
前褐
書﹂
三九
ー四
0頁
︶︒
﹁科
学的
管理
の普
及︑
展によって職場長の権限﹂が脅かされるようになって﹁職場長組合﹂が結成されるにいたったことを述ぺておら
このようにして教授は︑経営管理に及匠す労仇組合の影響に注目し︑それが具体的に﹁団体交渉﹂を通じてあら 至管理一般に対する労仇組合の積極的な関心の増大﹂を指摘された︒
︵﹁
前掲
書﹂
六ニ
ー七
二頁
︶
れた
﹂か
ら︑
な﹂かった︵﹁前褐書﹂五六ー七頁︶︒しかし︑
九〇
われる点に問題の焦点をむけられる︒
すな
わち
︑
組合が発展していわゆる連合体を形成するか︑或は産業別組合が結成され﹂︑また﹁これに対抗するため︑或は他
の目的からその産業の経営者乃至雇主が組織をもつようになった﹂ために︑
業全体にわたって行われる﹂ようになる︒したがつて経営者は一方において︑﹁産業全体にわたる団体交渉の影響﹂
と︑他方において﹁その会社独自の団体交渉﹂を考慮すべき二重の制約をこうむるのである︒︵﹁前掲書﹂七七ー八〇
とこ
ろで
︑
労仇組合は﹁労佑不安乃至労佑問題に対して組合員の安全を確保﹂せんとする基本原理にしたがつ
て︑そのために①経済的安定︑R人事方針の合理化︑R支配領域の拡大︑を求めて団体交渉の範囲を拡大しようと
そこ
で︑
て﹂
おり
︑
九
﹁労佑組合の結成により労資関係は団体交渉を基礎として形成される﹂こととなるが︑﹁産業の労佑
﹁団体交渉は個々の会社より次第に産
︵﹁
前掲
書﹂
八三
ー五
頁︶
こうした問題をめぐる経営者のいわゆる﹁経営権﹂擁護の主張は︑①﹁組合の浸透﹂が︑経営者のほん
らい所有する経営管理上の﹁最終的な権限と責任﹂を破壊乃至妨害し︑⑨また﹁組合の浸透﹂は能率向上を脅かす
し︑③組合には責任感がなくて︑およそ権限を与えるに値しないばかりか︑④その動機はやがて現在とは異る経済
制度を招来する危険があると言うものである︒
︵﹁
前褐
書﹂
八七
ー九
頁︶
これにたいして教授は︑右のような﹁経営権﹂固執の立場には﹁経営者自身の心理︑もしくは感情が多分に佑い
の向上を著しく促進発展せしめる場合もあること︑ ﹁一部は明らかに誤解乃至認識不足に基くもの﹂であると見て︑①団体交渉の範囲拡大がかえつて能率
⑨組合の責任感を無視するのは一方的な判断であること︑Rイ
戦後のわが国における経常労査関係論の潮流︵高堂︶ して︑ここに﹁組合の経営浸透﹂が問題化するのである︒ 頁 ︶
-~ ヽ‑‑‑‑‑. ----ヽ•← ・ー‑‑‑・‑‑‑‑‑一・‑‑‑‑一
~02
そして︑教授がこの視点から選ばれた労資関係の理想型は︑﹁協同的労資関係﹂にほかならなかったのである︒ ﹁これを要するに︑労佑組合の発展はもはや否定すべからざる事実である︒その経営管理に及ぼす影響を否定的にみて︑そこ
から問題を考えることはもちろん意義のないことではない︒しかしそれには立法による統制と同じく︑限度があることを知らな
くてはならないであろう︒これに対し︑労佑組合の意義を肯定的に解し︑或は少くともその方向に発展せしむべきことこそ︑よ
り建設的であるというべきである︒ここにおいてこそ︑労資関係の動向が正に︑その国全体の動向を建設的たらしめる所以があ
︵﹁
前褐
書﹂
二四
六頁
︶︒
と る ﹂
﹂の実例をあげながら︑
係 目 t o n ‑
n u 居
g e
m g t8 o p
ne r a 苦
とつてむしろ歓迎され︑
てかえつて能率の向上を実現していることを高く評価されるのである︒
とこ
ろで
︑
こうした場合︑教授は︑
方よりみれば︑ ﹁経営権﹂などという主張はほとんど問題とされることなく︑経営者は組合の協同によっ
︵﹁
前褐
書﹂
第六
章︶
往んらい労資関係が﹁組合幹部と経営者との関係﹂であるから︑それは﹁一
いわゆる人間関係﹂として理解さるべきで︑﹁特に労資関係の調整という問題については︑それを 組合幹部対経営者の人間関係として認識﹂すべき必要を説かれる︒そして両者の側の感情的成熟という心理的側面
のみならず︑広い意味の﹁教育の問題﹂として考えられなくてはならないと述べられるのである︒
( 1 )
六—―二八頁)
︵﹁
前燭
書﹂
︱︱
かくて︑労資関係を経営管理の問題として︑わけても労佑組合の発展という事実の分析から接近された教授は︑
次のような結論に到達する︒すなわち︑ そこでは団体交渉の範囲拡大という組合の要求は経営者に デオロギー的恐慌は少からず感情的であることを指摘される︒ 戦後のわが国における経営労賓関係論の潮流︵高堂︶
︵﹁
前掲
書﹂
九
0ーニ頁︶そうして︑ 九﹁協同的労資関
戦後のわが国における経営労資関係論の潮流︵高堂︶
解と
︑ さ
て︑
こうした笛木教授の﹁労資関係論﹂を検討するにあたって︑われわれはまづ教授が︑A
i nd u s tr i a l relations
•
概念の基底をなす﹁雇うもの﹂の意味を︑
必要がある︒すなわち︑教援もまたゴードン流の﹁利害者集団﹂の視点を援用して︑すでに経営体の自主化過程を
認識
し︑
この﹁経営管理機能の担当者﹂を﹁経営者﹂と理解しながら︑もつばら彼を﹁利潤取得
p ro f i t receiving
﹂ の
︵﹁前掲書﹂二三ー三四頁︶この点については︑
価値視点を捨象した現象的な視点であると指摘したが︑わけても労仇組合の発展を否定しえない事実と見て︑これ
に建
設的
︑
い︒何となれば︑組合と経営との当初の対立が団体交渉の繰り返しによる相互の接近を通じて︑やがてそれぞれに
長期的利害を反省させる契機を生み︑そこに﹁協同﹂の自然成長的な﹁可能性﹂が成熟すると考えられるからであ
る︒そして︑このような視角から追求される積極的な教授の﹁労資関係論﹂は︑やがて労佑組合御用化・懐柔化の
政策論として﹁協同的労資関係﹂を理想化するにいたると言えよう︒
しか
し︑
﹁出資と経営の分離﹂によって︑資本家から経営者に移された点を見る
肯定的に対処しようとする論理も︑制度的調和に対する楽天的︑
こうした﹁労資協調﹂の論理を支えているものとして︑
九,
すでにわれわれは制度理論一般の︑
予定的な理解と言わなければならな
われわれは﹁経営権﹂に対する教授の楽天的理
一般組合員の存在を余りにも無視ないし軽視した﹁組合幹部﹂即﹁労仇組合﹂観を指摘せねばならない︒現
実の﹁労資関係﹂をとりまいている歴史的︑経済的諸条件の皮相的理解のもとでは︑
的に把握することが出来ないから︑われわれはこの点を検討することによって教授の理論の本質を見究めたい︒
すでに見たように教授は経営者の﹁経営権﹂固執の根拠を︑
足﹂をあげ︑かえつて思いきった譲歩のうちにも︑能率向上えの途がひらかれることを主張している︒しかしなが 目的から解放されるのである︒
とうてい﹁労資関係﹂を本質
とりわけ﹁感情﹂的なものとして︑彼の﹁認識不
"‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ I
ー 、 一..~ー 一・
504
の関係として理解する立場からは︑ しかもこうしたなかで︑ 調論﹂といわねばならない︒ ﹁経営権﹂の譲歩があるとしても︑それは経営協同の精華に目ざめて積極化した﹁産業民主主義﹂
.の実現ではなく︑下からの圧力に耐えかねた止むを得ざる後退であり︑渋々の妥協にほかならない︒まさにそうす
ることによって︑下からの破壊的エネルギーを交渉机の上で﹁労資協調﹂.の方向え﹁建設的﹂に転換させたのであ
る︒ここに﹁団体交渉﹂の機能を重視した教授の視点が︑中立的︑
ての制度的進化の裡に︑
( 2 )
︵﹁
経営
管躙
論﹂
一
0三頁︶として展開された意義もまた︑
かり
にも
し︑
戦後
のわ
が国
にお
ける
経営
労賓
関係
論の
潮流
︵高
堂︶
ら︑労仇組合の挑戦が﹁経営えの浸透﹂となる事実について︑
るにいたったのは︑もとより資本制経営の発展過程における︑資本と労仇との本質的な敵対関係が歴史的に成熟せ
しめた矛盾現象の反映にほかならない.︒すなわち︑資本の専制的支配期においては︑いまだ﹁経営権﹂に対する配
慮が日程に上らなかったとはいえ︑それはやがて労佑組合の組織化による労佑階級の拾頭の前に意識されはじめた
といえよう︒言いかえれば︑労佑の攻勢が経営支配の根幹を脅かすところに︑資本は支配体制の安定強化を苦慮し
はじめるのである︒かくてそれは︑とりわけ個別資本の利害に基く自已保存欲からでる必然的な抵抗であって︑決
して経営者の恣意的で時代おくれの﹁誤解﹂や﹁感情﹂のあらわれではなかった︒
﹁団
体交
渉を
︑
理性的な﹁制度経営者﹂を中心とする全体とし
組合の代表をして経営者の役割を果させるもの﹂
一方で労資の﹁自主的協力﹂を掲げて偽装的に接近する﹁協
﹁労資関係﹂を︑組合幹部︵目
i on
o f f i
c e r s
)
または組合指導者︵目
i on
l ea d
e rs )
と経営者と
一般組合員
(r
an
k a n d
f i l e )
の存在が無視ないし軽視されて︑幹部層の買牧によ その本質において︑ ﹁経営権﹂をめぐる論議が経営問題の中心課題とな
九四
戦後のわが国における経営労喪関係論の潮流︵高堂︶ 織の一層緊密な力の結集となって対抗していくのである︒ 注
入し
︑ し ︑
九五
︵﹁
綽営
一般組合員大衆は︑何より日常的︑短期的な経済的要求
に彼のすべての関心を集める賃金労佑者として︑もつばら彼の日々の生活を脅かす賃金切下げ︑労仇強化︑失業の
不安に抵抗する︒それは十九世紀末の組織的怠業
( s y s
t e m a
t i c
s o l d
i e r i
n g )
̲ ; らい一貫した立場であった︒
は︑この安全と改善を要求して組織化されたものに低かならない︒それにもかかわらず︑資本制経済の発展はその
内部に基本的矛盾を深化せしめ︑労佑者階級の一層の窮乏化を累積的に増大する︒そこでは組合の職場斗争が激化
﹁経営権﹂えの組織的挑戦が本格化するのである︒さればこそ︑この圧力の矛先をそらして秩序を調整するた
めに︑団体交渉制度の効果的利用が意図される︒それには︑なによりも組合幹部を買牧して︑彼に経営者的意識を
﹁斗争よりも生産向上﹂のスローガンをうたわせて﹁労資協調﹂えの牽引車とする必要がある︒まことに
買牧された組合幹部は︑一般組合員の日常的不安をよそに︑
も知れない︒しかしやがては現実の窮乏化過程のうちに︑ る組合御用化の方向が準備されることとなる︒おもうに︑
とりわけ﹁長期的な利害﹂を理解し﹁経営者の問題即
組合の問題﹂であると迎合する余裕はあろう︒そしてその結果︑一時的には組合そのものの御用化も可能となるか
かえつてこの偽睛がはつきりと認識され︑それが下部組
団体交渉を経営管理の一方法と見て︑そこに﹁協同的労資関係﹂を理想化した教授の立場は︑
﹂を積極的に追求する経営者的視角を示しているといわなければならない︒
註いこの点に関する詳細な主張は︑﹁労働組合と人間関係﹂︵藻利編﹁人間関係論﹂所敗︶
評論﹂七巻五号所牧︶などを参照︒.
② こ う し た 団 体 交 渉 に 関 す る
^
m a n a
g e r i
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/ J . つ
いて
は︑
の基本問題﹂所牧︶参照︒ ﹁労賓関係の基本構造﹂
また﹁団体交渉の管理理論﹂ ここに﹁労資協調
︵経鴬学会編﹁労使関係 労仇組合
~ ・・‑・‑・・‑‑‑‑・‑・・‑‑‑・‑・.. ー・‑‑・ . ‑‑・・・‑‑‑・‑‑‑‑