精神分析と教育に関する序論的考察
永
山 大
二
郎
鞘
精騨分析學によれば︑心的過程は本質上無意識である︒そして意識せ
る部分は軍に孤立した行爲で全精瀞生活の一部にすぎない︒無意識的精
紳過程の承認は世界並に科學に於ける新らしき方向へ一歩を踏み入れた
ものと断言することができる︒文明は生存競争の塵迫の下に原始的衝動
の満足を犠牲にして建設され︑且つ大部分は常に新たに創造されつつあるもので︑新海に就會に入ってくる個人は全休の者の善の爲に自己の本
能的満足の犠牲を反復している︒かように利用された本能的力の中で性
欲は重要な役目を演じた︒この場合に性欲は純化されたという︒換言すれば︑その努力は性的目標から外れて他の口的の方へ日向し︑最早性的
でなく耽會的に一二償値あるものに攣っだのである︒ ︵一︶ フロイドは﹁影⁝⁝欠乏から生する病氣に反抗するこの過程の一つは
重要な交化的意義をもつに至った︒それは性的衝動がその部分的衝動の
満足や生殖に件う満足に向けられた目的を棄てて↓他の瓶蛮生的に見れ
ば前の目的と關聯はしているが︑r最早性的なものとは考えられない︑就
會的とも呼ばるべき目的に向う事である︒この過程をわれわれは耽會的目的を根底に於いて利己的な性的目的よりも上位に置くところの旧般的 サプリノイレヨン評慣に從って﹃昇華﹄と名づける︒﹂といっている︒ 昇華なる語は元
來は周知の如く化物用語であるが︑フロイドによって次の如く定.義され
た心的過程を指すものである︒
﹁元弘性的の目的を有するものを︑ これと心理的には蓮齢しているが e﹁︶最早性的ではないところの他のものに交換しうる能力である︒﹂﹁個入的
精神分析と緻育に関.する序論的考察 の性欲から來る興奮があまり強すぎるのでそれが他の領域へあふれて用 ︵ヨ︶いられるようになる作用⁝⁝︒﹂ ︵四︶ ジョーンズは性的本能は一癖一般的な心的傾向や能力に尽して重要な貢献をなすものである︑といって次の暗黙をあげている︒第一に︑性的衝動と宗敏や藝術の如き活動との聞の密接な關連や類似すらは︑前者がこれらの債域に適用される多くの感情を供給するものであることは多くの識者の疑なく認めるところである︒とにかく︑零墨や宗敏やその他多くの一骨活動の衝動や興味の背後にある遷る推進力は性的本能から出るものである︒性欲が精瀞生活の推進力として非常に重要な影響をもつということはこの問題に圏係する人々のす.ぺてが異議のないとζろ.である第二に︑経験によれば︑種々な活動は高い程度に於て性的衝動を他に輻ぜしむる力及びかくして性的なものに起源する過度な不當な緊張を和らげる力をもつている︒一般に︑適度の生活を逸る者或は悪癖と・岡っている者に黒して︑その興味や衝動を運動や仕事に向けるようにとの示峻が コ エネルギ しばん\なされるのであって︑かくして性的領域より得られた精力は文化的牧園であり︑それは文明の進歩に最高の意義を有するものであることを讃するものであることは一般に認めらるるところであろう︒この昇.華ということについての普通の考は︑成熱学の正常な性欲が多かれ少かれ意識的に他の事柄への興味へ移行していく作用であるというごとであるが.この考え方は多くの重大な誤を含むものである︒昇華作用は性的本能の個入的部分にも正常な性欲に亀關逸しない︑叉大人よりも遙に多く子供に關係する︑それば意識的作用ではなくして無意識的作用であり
49
胴嗣
精神分析と教育に関する序論的考察 ︵五︶叉それは置換ではないというのである︒
昇華作用には四つの特性が考えられる︒
第︼︑原エネルギーを新しい方向へ韓ぜしむることであって︑一つの
傾向を他のものに置換えることではない︒原傾向を他の傾向の方へ且つ ︵六︶一塁満足な目的へ導入する事であって置換ではなく韓.移である︒われわ
れの︑願望は容易に衰経るものではなくして︑外見上は浩滅した︐如く見え
てもよく調べて見ると︑それは決して泊滅したものでなくただ願望の現われる形が鍵じたのみである︒性的本能を縣高せしめることによって他
の事柄に興味をもつようになった時には︑この新しき興味に費さるるエネルギーは原の性的本能より生するものであって︑新しき興味を起すの
はその原の奮い願望を満足せしむる聞接の手段にすぎない︒かくして種
々の根本的の欲望は殆どわれわれの一生を通ヒて存績するものであって
同じ形で現われて來ないたあに精霊分析によって始めて同じ欲望の糧謝
するものであることが分ることがしばん\あるのである︒
第二︑昇華作用は主と七て無意識的の作用であって︑則ち本人の知ら
ない中に行われるものである︒勿論それは故意に叉忠告を受けてなすζ
ともある︒すなわち或欲望を満足せしむることができない爲に︑運動や
勉強︑に耽る如きであるが︑この場合に於ても︑情緒の縛移は領導には︑
精榊分析によって分る檬に無意識的に行われるのである︒併しかかる現
象は昇華作用といわるるものの︼小部分にすぎないものであって︑多くの場合に於てはその全作用は全く無意識的である︒
第三︑教育の聞題に漏して特に重要な事實は昇華作用が大人よりも子
供の精瀞生活に一暦多く現われるということである︒大人の生活に起る
昇華作用は子供時代特にその前論に起る頗る廣廃園のそれに比べて非常に少いのである︒碁器︑子供が外部的肚會的興味へ向うことは敏育上非
常に重要なことであるが︑子供の︑自心的活動や興味は教育的努力の目的
とするところと全く異るので︑それなこれちへ韓何されねばならない︒ けれどもこれは前にも述べた檬に奮い自襲的の興味の代りに全く新しい敷育的興味をおくのではなく︑その同じエネルギーを別の方向へ攣化させて之を利用するのである︒ ︑. ﹁ こめ事實を知れば︑教育上の目的に自由に使用されるエネルギーの性質やそれが自磯的に貸船れる形式について︑これまでよりも一三深い研究を必要とするに至るのである︒教師は子供の興味に訴える如く敏材を提出することの重要ざを経験によって知っているが︑これまでになされた努力は子供の本來の興味は何に存するかについての不完全な研究の上 鳳に立っていたのである︒ 第四︑昇華作用は軍なる一般的狭義に於ける満足せられざる性欲にではなくして一三深い要因に關係するつ即ち昇華作用は狭義の正常な性欲に關評するのではなくして︑むしろ多くの他の興味と同様に︑後日愛情的欲求の基礎をつくる所の種々の幼稚な傾向に關係することが強く主張ぜられるのである︒この事たる明かに教育上非常に重要な事である︒何故ならば昇華作用は一つの興味の領域から他の領域へのエネルギーの正確明白な移行であることを意味するものだからである︒精帥分析を行うことによつて︑この昇華作用の機能及びそれがもたらす多くの力を洞察することができるゆ子供の有する初期の鍾々なる傾向は文明多良の就會的倫動的標準に容認せられない様な種類のものであり︑かくて叉環境の塵迫を受ける様になると即ち生心約六ケ月以後には子供自身の標準にも ︵七︶容認せられなくなるというのである︒この傾向とはジョーンズによれば自分の身体特に特別の部分に氣をとられる罪な傾向や特性は︑.種々の身体的機能特に排泄機能への興味や快感︑他人のことを考えない莉己的な行爲︑妨害されたり干渉されたりする場合の嫉妬や憤り︑﹂男女め差異や赤坊の起源や夫婦關係の様な質問についての好奇心等で︑これらの傾向の多くは現代の義者が廣く性的という言葉で表現するものであるといっ
ている︒ . ︑
50 一
一
これらの傾向は勿論成長するにつれて忘却される︑これを術語では抑
罐というが︑これらの傾向が大人から篤く無覗され又子供時代の磯逮に
封ずるその重要性が非常に過小評債される︼つの理由である︒併し乍ら
これらの傾向は決して浩失しないで攣形され盲暦適當な表現に出口を見
出しそして非常に贋値あるエネルギーを杜會的及び敏育的活動に供給す
ることになる︒これが昇華作用の過程である︒叉児童の日常生活に於け
る興味にも無意識の力が働いでいる︒この興味の問題は教育者にとって.重要なものの一つである︒興味は普通有意的と無意的に分けられるが︑
それはその物が直接にそれ肝身目的として或は聞物にわれわれの欲する
目的に關黙してわれわれにとって慣値を有することであって︑乱騰の意
識であるといえるが︑夢の研究は興味とはこれ早上のものを意味するこ
とを購える︒即ちわれわれは全然意識的に注意しないものにも興味をもつているのである︒例えば私がバスを降りてから前に座っていた人につ
いて聞かれれば︑﹁私はそれはできない︒ 私はその入を注意していなか
ったのだ︒﹂と答えるであろう︒それにも拘らす︑彼は私の夢の中には
つきりと現われ惹であろう︒彼を見て少しく考えれば︑私は彼がバスの
中で私の前に座っていた男だと云うことができるのである︒私のどこか
が彼にかかる注意をしたのは何故であろうが︒少くともその目的の一部
惑分は彼を夢に用いる爲であったかのように見える︒夢の目的は本能的願望を満足せしむること︑即ちその願望を満足せしめたものとして再現す
る事であると.いわれる︒
われわれは心の領域を三つに分けることができる︒即ち現窪意識して
いる所の内容をもつた心である意識︑或時には意識していたもので記憶
の力により意志によって再び意識せられる所の内容をもつ前意識︑及び
誰か他入によって分析されなければ意識することのできない内容をもつ ︵入︶無意識である︒このことについてグリーンは︑個人の意識の中に且て存 へ在したものはすべて降心㊨中に存在するのであって︑意識的な心は奈休
精神分析と教育に関する序論的考察 の實に小部分にすぎない様に患われるといっている︒ エネルギー保存の原理は一般に想像されてきたよりも遙に勤皇に精髄 リビド 界にも確立されるよろであ届︒即ち願望の保存墨形の理は精帥界にも行われるように見える︒このリビドーの流の源は意識の外すなわち無意識の領域にあるので︑ζの流の向う所が興味と呼ばれるものである︒興味のあるものは︑それを意識しているという意味で意識的で.あ砂︑あるものぱ意識的に方向づけられている︒然しこの流の方桐はそれが未だ無意識を横ぎる聞に既にその流を妨げ或は指向する所のものによって殆ど決定されるであろう︒ここに於て精美分析の目指す所は︑この心の無意識の領域を調査してこの流の妨害となるものを移動する事を可能ならしめることである︒かくすれば自由にされたリビドーは力嘆き河流の如く無意識から意識へと流れこむであろう︒その結果われわれは意識の標準に從って考えられた判断に從って行動することができる︑即ち爲さんと欲する事を全勢力を騙思して爲すことができるのである︒われわれは最早欲しない傾向によってその目的から冬向せしめられることはないであろ ︵九︶ ︑b胤b︑う︒グリーンの云う如く精憩分析の究極は自慢的自適である︒ ︑ 職業の選揮に塗しても︑誉れた傾向即ち無意識的の力が働き︑これが可なりの力をもつことも考えられる︒故に子供の有する根本的な興味や傾向に題する一様充分な知識は︑われわれが護感せしめんとする傾向を既に存在する傾向に結びつけていくという様な教育の種々な方法を工夫せしめるであろう︒かくしてこの根本的な興味を確實に方向傳蔑せしめることにより現在の維験的方法により達せぢれるよりも一翼聖なる効果を以て︑之を就會的教育的目的に利用することができるであろう︒ このように考えてくると︑これらの考が今日の集團教授の組織に全く矛盾しないものであるか否か︑反撃に一暦偶人的な細岡が主張されない ︵十︶か否かの問題が必ず起ってくる︒ジョーンズが︑ ﹁フロイドやレーエン
フエルドが云った様に昇華作用の行わるる範圃には一定の限界があるも
51
輯一
精神分析と教育に関する序論的考察
ので︑それは個人によって非常に絹違することを注意することは就中大
切なことであるL︒といっている様に︑ 個人の性質や傾向に封ずる注意
が一瓢佛わるべきであり︑文一暦洞察的の知識と結合する一暦寛大な態
度を持すべきである︒敏育の各方面に於て一暦緩い手綱と共に一旦慧眠
な.指導が必要である︒それによって個人がその途行すべき仕事に封ずる
回暦健杢な適.憲を來さしめ︑佃入の能力と能率は︼騰大きな爽達をなす
であろう︒といっても現在の教授整式が岡違っていると云うのではない
経験の敏える所によれぽ︑或る傾向が昇華されゐ形式は大抵.同一であっ
細て︑その根本的傾向も全く限昏れた数にすぎないから︑昇華の結果は大抵の個人に於て可なりの類似を示すにちがいない︒昇華作用の現われ方
は際限なく無数に見えるが︑實際について見るに︑大早臥の場合に於て
同一の難路が辿られる︒周園が略同一である時に覧て特にそうである︒
・かくして亭均より著しく離れている子供は今日そうであるように特別取
扱をなすことが許されるなちば︑一暦一般的の昇華作用に最も適益した
滑舌的方法が工夫し得られるのである︒
註︵一︶on・閃No&いH口質︒貸ξε還ド8酔葺φoづ℃昌80蓼芝︒・帥♂一旨ωリダN8
註︵二︶oo・津窪貸黎ヨBぎbσq内巨房困もα畠二hgロ温門2含3器5﹃冒ρHH・蟹︒済⑦匂
一℃O℃りOQ.一CO一
望︵三︶QQ・閏器&蜘b鼠﹀げげ鱒σ巳琶すq昌Ng望差響夢8殴帥ρ悼﹀ξぎ6δの・c◎ω
註︵四︶国・H8窃㎞団勢℃︒踊︒り℃堕6ぎ舞巴誘一・・u一総ρ頃・$N
註︵五︶労︒℃﹃oo§の暮
註︵六︶U昆℃冨60臼¢嵩
註︵七︶国・匂︒琴必 ト舖咄℃・ひO燈
註︵入︶ρ国●○羅︒蕊℃崎&o魯9︒一曳昏ぎ戸ぽ9器舞oo寧一℃卜∂一︾男一a
註︵九︶O・寓.O誘g噛 ﹂p誌珊 ℃6一Nひ
註︵十︶国・匂803 ト齢蜘 頃.ひ這 二 精憩分析學者は革供時代の精帥過程を重大観する︒子撰時代に輕験した精紳作用特に願望は無意識界の一勢力となり︑その後の蛮書に題して永久の基盤をなすものである︒総じて無意識界に作用する精瀞作用は極めて有力なもので特に無意識的に働く願望の力は一生消えない︒成長後の希望や興味も幼時の希望や興味と結びつ︽のでなければ意義あるもの乏はなちない︒但し爾志は勿論意識的に結びつくものではない︒幼時の精聯作用がわれわれに甚深の影響を及ぼすにも拘らす一般にその大切なことを知らすにいるのは幼時の維験の忘却より起るものである︒勿論忘却といってもその経験は無意識界に止ってたえすその働を意識界に及ぼしているのである︒ 精聯的出來事の正常と異常とは亡骸の上の旺別で質の上の相違ではない︒唖者とも同︼の心的機制によって先行されているという︒即ち国者の場合に点て無意識的精紳過程例えば願望のエネルギーは快不快の原理によって複羅な意識的通路に向けられるが爾者の主要な差違は異常な場合に於けるエネルギ1の獲射は正常の場合に比して多くの廻り曲った異
⁝常の通路を通るという事である︒
無意識の主な特微はその動的な性質である︒無意識界は受動的な心的
材料の貯藏場ではなくして最も活動的な作用の行わるる領域であって︑
その本質は欲求や願望を以て形づくられている︒これらの願望はたえす
想像的な或は實際の満足に向って努力しつつあり︑この活動的な努力に
よって無意識が外部に表示するのである︒これらは多くの願望・興味及
活動︒大部︑分の行動の流れ出る泉源である所の人格の心髄を形成するの
である◎ われわれ自らその存在を自畳しそして生活を動かす力を形づくる所の
かの欲求や動機ば︑常にそのエネルギーの若干をこの源に仰いでいるの
であって︑或る見地よりすれば︑これらの幼兇初期に於ける願望の無限
52 嗣
開
に攣容され手の込んだそして増嵩された形態であると考えられるであろ
う︒このことよりしても︑無意識についての知識の重要さが知られるの
である︒何となれば︑この知識なくしてはわれわれは如何なる箪一な精
愚行爲についても完全な理解を得ることはできないからである︒ 無意識の特徴ぱ更に︑その中に於ては如何なる道徳的或は論理的標準
も行われないということである︒これは個人の嚢蓮に重要な關係をもつ
無意識に診ては例えば蒔間髪間の限界は意識的な想像に於けるよりも常
に一縷大なる自由さを以て無量されるのである︒これらの理由によつて
願望は個人の意識中に行わるる標準とたえす衝突しているものであって
心のこの二つの領域は本首相容れないものである︒︐實にこのことが︑二
つの領域の互に分れている理由であり︑断言者聞に殆ど侵すべからざる
障壁の存在する理由である︒これらの無意識の思想を意識の中に持來さ
んとの試みが外部からなされるならば︑この刃傷を分つ障壁は︑この試みに封ずる反封の形をとって現われる︒この反乱即ち所謂抵抗は當に無
意識の思想が意識に入りこむことをたえす抑止する所の同じ力に直する
のである︒かくしてこの障壁は實に無意識の思想や願望の前進運動に鉗 う セする動的配力であることを知る︒これを抑墜というのであって︑この機
能は個人の意識にとって不豪快な苦痛を與える願望や思想が内より起る
ことをできるだけ避けることである︒
重要なことは︑意識によって抑墜されるこの心的過程は外部の不愉快
な事柄に關湿するものではなくして内部から起る願望や衝動であり︑し
かもそれらは本本の活動的な本能でありそれ故に力強逡ものであるとい
うことである︒この無意識は敏育の影響を受ける前の本組のままでは動
物的本能に最も遅争心である︒これらの影響による働が特に幼児初期に
着て如何に玄翁園のものであるか︐叉それが最後にその目的を達する前
に惹起する所の内的軋⁝礫が如何に烈しいものであるかは一般に考えられ
る以上σものである︒この内部の利己的な快樂年越の傾向を環境の要求
精神分析と敦育に関する序論的考察 へ調整する過程は想像以上に遙に苦痛ある困難なものであって︑著しき内的書画と屡々永綾する機能傷害なくして行われる℃とは稀である︒然るにこの作用が起らなければ人聞は︑他人の要求を考えす叉文明就業を推進する所の複雑な経書的倫理標準を心にとめないで自分本位の自惚の強い衝動的な攻撃的な下劣な不倫淺酷な自己中心的な動物のままに留まるであろう︒ 精脚分析の磯見するところによれば︑この昇華作用の結果は一般に想像される如く完全な事は稀であって文明の外為の背後には一生涯三宿な原始的傾向の隙薇された一等が残っていて︑これは常に外に現われようと闘争をつづけるもので︑入聞は適當な畿會さえあればこれに向って逆戻りする傾向があるのである︒その著しい例は職争であって︑口悪戦孚となれば︐入間は殆ど考えられないような動物的行爲を自ら犯すのである︒この心の内部に於ける永遽の軋⁝礫︑人間に於ける動物と紳との決して凝ることなき闘孚の相は暗黒の相を呈するのである︒ それにも拘らす精棘分析學は次の二つの著しい貢献をなした︒第一に原の抑塵される傾向は榊學者の教える如く直接に不道徳的なものではない︑即ち計 會的審美的標準に反封の目的を有するものではない︒それはただそれ自らの満⁝足という一つの事に蔵するのであって︑た糠複難な就會の標準を考慮しないのである︒幼児が手の届く所にある一箇の菓子を法律上の所有樺など考えることなく掴んだからといってわれくは彼を不道徳だとは云わない︒幼兇は盗人のなす方法によって所有樺の法律に反抗せんと思っているのではない︑彼は軍にその菓子を食い縫いという願望を満足せんと欲するだけであって︑た穿それだけなのである︒われく大人の意識の見地から制断ずる時にのみ彼は不道徳をなしているの ノンモロラルである︒それ自身め見地からはた穿非道徳にすぎない︒この例は幼児にとって叉無意識の心一般にとって典型的なものである︒この傾向は事實ではそうではないが志向に於ては無邪氣であって︑それ自身の見地から
53 脚
一
精神分析と教育に関する序論的考察
見るときには實に無邪氣でも叉罪あるものでもないのである︒
第二の貢献はこれらの抑墜された原本的傾向の運命に關起する︒これ
らの原本的傾向を見えない所に隙蔽することができれば︑これらの傾向
は活動の全勢力を剥奪される︑更にこのことは起り得べき最善のことで
あると普通信ぜられ或は想像されているが︑これはどちらも本當ではな
い︒ 抑腿された傾向は爾活動の全勢力を持曝して無意識の中に埋れてもた
えすこれを働かすもマのである︒術このことは甚だ都合よきことであって
われ一の生活を推進する全勢力の實に大部分はこれらの原本的本能か
ら出で來るものなのであるからである︒この機制の一つが昇華作用と呼
ばれるものであって︑ ﹁禁止された性的願望の原本的目的を︑それと蓮 ︵一︶關はあるが性的でない︼暦容認されるような目的に交換すること﹂を意
味するものである︒
例えば多くの幼兇は泥土を弄ぶことを好むものであるが︑この傾向の
根本は疑もなく排泄物への汚繊亨樂的興味である︒時がたつにつれて子
供はその興味の方向を攣えていく︒泥團子は砂にかえられる︒ここで初 コンシステンシセ期の材料の相合ということが保持されることは注意すべき事である︒
子供にとっては乾いた砂よりもこねまわすことのできる濡れた砂の方が
よい︒後年このような遊びに異常な興味と感情を捧げたこの子供ば一歩
進んで他のこねまわすものを好むようになる︒例えばコールタールのよ
うなもの或はもっとまじめな塑造や人体模塑など︒かくてその能力や機
會に鷹じて金工︑木刻︑彫刻など種々な方向へ向うのである︒ 一般に考えられているように︑この場合後の興味は始の興味と全く蓮
つた新しいものではなくして同ヒ興味が違︐つた形をとって現われたもの
暮すぎない︑同じ興味を満足させる違った様式にすぎない︒これを讐えれば木の多くの枝︑葉︑花を養うものは同じ樹液であって木の多くの部分は外からつけ加えられるので拡なく有機体の内よりの成長力のたえざ る嚢展である︒この見地の敏育への關係は自から明らかである︒子供は
一の興味から關係づけられた段階を通っての■み次の興味へ導かれなくて
はならない︑早急な飛躍を試みることは望ましくないことであるという
事を多くの教師は直畳的に知っている︒然し精紳分析は一暦詳細に︑そして心的過程は決して孤立的なものでも叉偶然的のものでもない︑常に
先行するものと密接に⁝關係していることは︑丁度連績せる外界の出來事 ︵二︶と同じであるとの強い信念を以てこのことを適用するのである︒.﹁全く
新しい形の興味や新しい型の心的反毛は四︑五才以後には心の中に入り ︵三︶こまないということを主張したい︒﹂とジョーンズはいい︑ フロイドは
﹁教育者は精紳分析學の成果によって︐ 教育の主要時期は乳幼兇期に置
きかえらるべきであることを認めるであろう︒子供はしばん\四︑五才
の時に既に完成されているものであって︑すでに彼のうちに横わってい ︵四︶るものを後年に至って徐々に現わすにすぎない︒﹂といっている︒性格の
傾向についても同じことが云われるので︑例えばアドラーは︑人聞の性
格は凡そ五才位迄の聞にでき上る根本傾向.によって決定さるるものとし ︵五︶之を原型と命名している︒
この陰れた無意識の傾向を解明してすべての意識的興味や活動を鼓舞
するならば︑種々錯綜せるわれ一の生活を通して流れる所の統︼ある
連綾性を認めるであろう︒この蓮績性は原本的で絶謝的であるに拘らす
主として無意識のものであって︑表面は關係あるようには見えないがそ
こには基をなす統一があるのである︒
昇華の機制についても少し深く考えて見る︒非道徳的な聖戦された本
能は人聞の有するエネルギコの最も債値ある源であることは前述した︒
これなき生活は全く考えることはできないのであって︑これに封ずる態
度は絡始︼貫積極的でなければならぬ︑即ち如何にして之かち逃るべき
でなく︑如何にして之を善用すべきかでなければならぬQ
師
54
一
ぬ の この無意識の原本的本能は︼見望ましからす見えようとも︑自然のま
まの生活の材料として考えらるべきであって︑これよりその獲達の形に
よって善い傾向ともな砂望ましからざち傾向ともなるのである︒
前述したように︑昇華の全過程が望ましく圓滑に起る場合は非常に稀
であって︑満足すべき昇華に失敗すれぱ次の三つの撃ましからぬ結果が
生するであろう︒ 第一は原本的傾向が影響を受けることがあまりに少いために後になっ
ても動物的な形を固執することである︒過度の残忍や個人的不潔などは︑
その典型的な形である︒
第二はこの正反謝で︑獅墜があまりに大であると原の傾向に封して極
端な反動が起のその結果︑望ましからぬ厄介な性格の特質をつくることになる︒例えば過度な内氣とか畏縮であって實際の生活關係に於て非常
な困難を生するのである︒ 第三の結果は多分すべてに共通することであろうが︑種々の瀞維的疾
患があらわれることである︒これはどちらも満足することのできない二
つの軋礫傾向の安協をあらわすものである︒瀞維症は常に解決されない
無意識の軋礫を意味するが︑精榊分析による治療ばこの軋⁝礫を解明して ︵六︶この疾患の根本的原因を取扱うのである︒昇華作用に於ては抑墜された
願望の満足は申し分なき方法に於て叉現實の世界に於て得られるのであ
るが︑憩経症の徴候に於ては一これは勿論想像の産物であるi現實の世
界に於ける外部の就會的機能に役立たない方法で満足は得られその個人にもその周圏の人々にも際限なく不幸と災害苦痛とをもたらすのである
すべての榊維疾患が無意識の心の解かれざる軋礫にその起源をもつこ
とは︑帥経疾患の根源が常に幼兜期から始まるという事と一致する︑勿
論それが外部に現われるのは殆ど如何なる時期にも起るものであるが︒ この事は敏育者にとって極めて重要なことであって︑この疾患の最も
初期の徴候を認めてそれが後に爽達するのを防ぐ手段を講ずるという問
精神分析と教育に関する序論的考察 題は今後惚々教育の仕事に於ける愈々甘い部分を占めるであろう︒ 最近に於ける教育心理學や精榊衛生の研究はこれらの問題を正面から取り上げて所謂個人の適慮の問題として一審深く解明し新らしい知見を示すようになったが︑それらについては別に論考することとして序論的な考察を一鷹絡ることにする︒
註︵一︶炉冒窪鴇団巷︒窃︒昏評署げ︒碧既岩飼一露ωuやひωco
註︵二︶これはフロイド説であって議論のあるものである︒ユングはこれに自由 の要素か入れている︒註︵ヨ︶国・冒ロ藷u ト謡咄 ℃・ひ認註︵四︶ω●津窪PH昌周︒μ鐸︒8蔓ピの9ξ窪︒ロ団遇︒ぎ§箆矯︒・冨℃一ゆト﹂G︒堕団・トこ℃c◎註︵五︶跨・︾臼g︾曽︒び︸oヨq・望薄oq8mぎ 一℃N℃い鋭﹀臼霞uqロ密雲鹸弩α言σq 出賃旨騨ロ署讐舞ρ這bQco参照 註︵六︶謹・国①巴審寓①算痒Ooロ葺9堕碧山呂認8ロ貸出︒ご這Nc︒ な始とする精神分
析に関する異母献i教育学i
55 脚
一