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英 國 中 世 都 市 の 成 立

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(1)

英 國 中 世 都 市 の 成 立

重 藤 威 夫

︵こ 都摘生活に於ける農柴的要素.

中世時代の英国では︑商工業は英国人の経済生活に於いて第二次的意義しかもたなかった︒英国の富はその田園艦

見出され︑国民の天象数は濃業に従事していた︒中世社会の輿封的人士は工人や商人でわ放くて︑むしろ武士や澄

夫であった︒多くの都市が繁栄しつ1あったが︑農業的要素は依然として存続し︑多くの場合︑それが支配的であっ

た︒十三世紀の終に︑コルチェスターの住民の半分は盛業に従事して居り︑いたるところで都市生活の通常の仕事は

農業の重要性に比べると第二次的意義しか認められなかった︒ロンfyではハスティングの法廷は収接の時期には休

廷された︒十六些紀にノルウィッチの載物工は収穫の月にはその仕事に従事することを禁止され′た︒その理由は︑耕地が人手の不足のために荒廃もているから︑幾業の手助けとなるようにとの考えからであった︒近代経済生活の著る

しい特徴であるところの都宙と農相との鋭い対立は︑工業力の所産であるが︑中世時代にはその工業力は殆んど農村

に対して圧力を加えることがなかった︒

幾世紀にわたって︑英国の都市は大規模の農相に外ならなかった︒その優越性は主として武塗された城壁と堤とに

あ旬︑住民はその内にあってその保護と安全とを守られていた︒この城壁を越えて向う側には︑広い開放耕地と放牧

地とがあり︑それらは都市の住民の財産の一部であった︒中世都市の地図やその市民の経済生活に於いて︑都市内部

の耕地は市民の住宅や店舗が占めていた地域の広さと大差放く︑その重要性に於いてもあま針変りがなかった︒ライ

スクーでは城壁内の空間は一三〇エーカーであったが︑城壁の外側は大凡その三十倍の広さ紅占めていた︒この敵に

英国中世郡市の成立三五

(2)

一 ム ハ

都市の境界線を毎年踏査し︑巡況する乙とは重要注意義をもクていた︒何とたれば︑都市の牧草地で家畜を牧義する

権利は︑市民権の主要な内容を構成するものであったからである口一

O

八六年の調査にはオクスフォードの住民はす

べて城壁外に共同の牧場を所有している乙とが記録されている︒又乙の時代まで依然として自由民は彼等の家畜を︑

2可 ︒

g L2

司に送るととができた︒ノ

1ザムプ

では一五五三年の市条例は﹁何人も共有地に三匹以上の家蓄を 放牧するを禁ヂる﹂旨を規定している︒其他の都市でも共有地にあまりに多くの家高を放っ乙とを禁じている︒事実

︑中世時代を通じて都市はその回国的特色を決して完全に失クてい︑なかった︒牧牛若︑養豚業者及び牧畜業者K

関す る事務局は︑十六世紀に於いてすら︑都市の各種の制度の中に見出される口そして家蓄が符路にさまよい出るととを

禁十る訓令が度々発せられた︒

( )

1

英国の都市の初期の歴史は甚だ漠然としている︒ローマ支配時代を通じて︑都市生活は或程度の重要性を加えて来

Wチェスグ1︑リシカ

1 Y1︑グロ

1

︑ ヨ

1ク及びセyt・アルパシスが著名となった︒最初の四市はコロ

(g FE PC )

であり︑第五のものはミユエシピウム

(E gf J1 5H )

であクた︒そしてすべて特権的地位を得て

いた︒コロエアイはロ1

マ市の小なる模倣であクて︑ローマ市と同様な慣習︑法制︑称号を存していた?乙の住民は 大部分ロ

12

石兵から成立クていたらしい︒乙の種の都市には文官によって統治されていたものと︑軍事的統轄を

受けていたものとのこ種があった︒ごよ︐ニシピウムはコロニアイよりもある点に於いては俊秀た特権を有して居り︑

住民はロ1

マ帝国の法令の支配を受け宇︑ローマ市民の称号を有し︑彼等自身の長官を自ら選ぶ権利及び彼等自身の 法律を制定する権利を有していた︒り乙れらの諸都市の外に︑地方都市

( 8

5

55)がいくつか存在した︒そ

れらはケルト民族時代の刈

( 2

︒ E

5 )

の首府であクて︑ゥイYチェスグl︑ヵシグペリ

1)

シルチェスグ1︑ライ

1︑ロチェスグ

1︑シレγ

1等の諸都市がそれに属宇る白すべて比較的小さかったが︑その中でロ

γγ けが何等かの実際的危重要性をもっていたように思われる︒何れにしても少くとも三十の都市が国内の各地方で繁栄

していたが︑それらは︑帝国内のゴ1

ル地方や其他の地方の諸都市がもクていたようた重要性は決してもっていたか

(3)

った口初期に於けるそれらの諸都市の状態が如何にあクたにもせよ︑その多くのものが︑サクソシ民族による征服の

(

HS G

まで存続したとは考えられないのであクて︑ローマ支配時代の都市とすクソ

γ時代のそれ

との問に︑連続的な発展の過程が見られないのである︒

ローマの文化があたかも存在したととがなかったがのように︑英国の大部分の地域から沿え去クたのは︑戦争によ クて一掃されたのでわたくて︑長い期間にわたクて攻撃と返却とを繰返している聞に次第に泊え去クたのである︒ロ ーマ人の生活の中心は都市にあった口しかし都市は侵暮者に対してその地位を保持できなかクたロ侵日計者たるアン グロ・サクソシ人の数と軍事上の駆引とは有力でわなかクたので︑彼等はロ

1

マ軍の防衛陣地を一挙に亡ぼすととが

でき歩︑継続的に攻撃し︑みじめな状態にある住民を殺りくした︒年い代記

( k C

色 ︒ ・

FH

Mn

CH

MC

}g

HH

rr

〆 匂

h

‑ u c c

) に記録 されているアジデリダの運命が例外的である乙とは明かである

D

都市は防禦の安全た場所でわなく︑攻撃を支えるこ とができなかクた︒一侵答者がその周辺の農村を占領するや︑彼等は自軍えの供給路左絶たなかクたが︑商業を破壊す ることができた︒次から次えロ

l

マ人が建設した大きな都市は荒廃し︑壊滅したりそれがあった場所すら忘却された 都市もいくつかある

c当時最も官裕な都市の一であクたウリコニウムは全く忘却されていたが︑一八五七年に︑いたク

て発見された口シルナエスターは︑遠い昔から耕やされていた耕地の底から発掘された

d

その名称や地域が存続して

いる場合でも︑そ乙が商業や文化の中心地でわか仏くたクた乙との明白な証拠がある白もしずエル一フムが・ヂクと存続し

て来た注らぽ︑谷の向側に住民を移住さして︑そとに現在のセ

y f

・アルパシスをつくり上げる必要はなかクた筈で

ある︒チエJ

1の一城壁や街路が残クているとわいえ︑又ヨIク︑リγlyや一フイスグーがロ1マ支配時代の多く

の遺蹟を保存しているとわいえ︑これらの諸都市の何れも︑アシグロ・サクソシ侵入の時代に防衛の都市として役立 クた之は考えられない︒ローマ人の文化的生括の日常的な習慣やキリス

t

教の祭式の慣習が︑これらの都市でたえ歩 保持されて来たとは向吏考えられない︒ロ

Y F

Yがアジグロ・サクソシ人の支配下に入るまでは︑殆んど没落してし

まクた乙とは考えられ得るロ勾

いたると乙ろで都市が放棄された︒戦火で破壊されたかクたととろは︑住民が居住しないようになクたま

L K

英国中世都市の成立

(4)

された︒かふる運命は多年にわたクて︑ロンドシやカングペリーに於いてすら見られた︒アジグロ・サクソシ侵入者 とグル?原住民との問の長期にわたる闘争の間に︑ローマ的呉国的文化の産物である都市制度は容易に崩壊して

L った︒しかし英国の都市生活が中絶したのは一時的にすぎなかクた︒アジグロ・サクソシ人は︑彼等が征服した原住 民たるプリトシ人に対する深い憎思感とその後のデIン人の幼掠とによクてひき起された闘争の時に於ける安全な要

塞を必要とした口多くの場合︑彼等は昔のロ1マ人一が築いた都市の此に立ち帰クた︒それはロトマ人と同様に地理的

利点をねらクたものであり︑又同時に︑その近跡から城壁の復興に必要な材料を待られたからである

既に第七世紀o t

の初頭に︑サクソγ人は或る数個のロ1

マ成監を利用した証拠がある︒コルチェスグーは︑元来はプリTY人の要塞

であり︑又ロ1マ支配時代に建設された故初の都市であるが︑その城壁はロlマ時代の石造建築物の大部分から構成

されている︒ウイシチェスターでは︑貨幣や査︑付捺や石造建築物等がかクてロlマ植民地であクた乙との証拠とし

て今にいたるもな沿残存しているが︑その六ケの道路の交叉点として

ω

地理的使越性によクて︑完全なる荒僚から免

れ得たことは明かである口キりス・T

教宣教師め勢力が︑古の都市の巾心地に有利に作用したことが論ぜられているこ とや︑初期の司教達がそれらの地点に居住した乙と等は︑ローマ時代の都市がサクソシ人の侵暑によって完全に破壊

L尽くされたかクたことを物語るものである︒

︿ ) 使 '

他の諸都市の中にはロlマやプリty

的伝統とは全く無関係な地域で勃興したものがある︒それらのものは純粋に アシダロ・サクソシの定住地であクて︑その地理的使越性に基くものである︒昔は徒渉できる河にのぞむ場所はかな

り重要性をもっていた︒オクスプオ1

ドはその名称が示しているように︑牧畜業者が水流を容易に且つ安全に徒渉し 得る場所に発達したものである︒ケムプリツヂはニクの道路が合する場所にあって︑その隆起している土地に位置し

ているために河の運航を支配する乙とができた︒プイルスパリl

も亦道路の交叉点にあクたーそのためにロ

2H

月 三 ミ

g

r

での通行税

(Z 5

O

バウンドより功くたかクた︒プリストルはアヴオシとを橋によクて結ぼれている地

点に勃照じた︒その繁栄は港に負うものであクて︑西部地方での最大の商業の中心地であり旦ク海港となクている︒

(5)

又英国での第二番日の都会となった︒ヱクセグーは丘陵の上につくられているが︑その地理的使越性はエクセ河の河 口に位しているととであクて︑商船に碇泊地を与え︑叉英仏海峡での交通の要点になっている︒そ亡はそれ自身一ク

の類別をなしているのであって︑それはロ1マ人が築いた都市であって︑その初期の時代から中絶するととが紅かっ

た歴史をもっている口何とたれば︑そとはすクソシ人の征服に伴う暴行や破壊が京九るまで︑サクソシ人の守中に落

ちたかったからである口南東海岸にあるシγク・ポ1

ツが急速にその重要性をもクエうにたったのは︑大陸との直接 の交通路線上ピあるかるである口同様にリ

γ

1

yの重要性は︑北部地方と南部地方とを結ぶ大道即ち吋

gm ct 5q

の上にあるととに工'クて説明され得る

0

セヴア6

1

Y河は漁業で有名であるが︑その流域にグロスグーとウ

1

1

が勃興した︒ヤーマウス︑グリムスピ1とスカ1ポローは漁業の‑根拠地であった︒

( ) 都市の第三の部門は供院や城を中心として発達したものである︒それらの成壁の下で市民達は避難所と保護とを求 めるととができたり市民の必要に応守るために行政が施行された︒ダルハムは司教え会︿

GZ SH gH

会号

c r )

の所在

地であったロ其他の諸都市が僧院の門前に発達した︒例えば︑己

2H

Km

LP

U1

g

F

の示すととろによれば︑アピシグγでは教会の門前に一

O

人の商人が住んでいた︒一方︑セシT

γスでは四十六人が住んでいた︒彼等は市

場税

(E

口﹀や共位の諸料金を合せて毎年十二パウY

ドに相当する金額を僧院に対して納めた︒ロ

cE sp q

c c

r

最も者るしい例はパリ

1

・ セ

γt

・ヱ下ムシ下の場合であクて︑そとでは僧院の需要に応やるために︑その建物の周 回に都市が次第に発達して行った︒それらの市民の中には﹁パ

γ屋︑ピール醸造者︑洋服屋︑洗濯婦︑靴屋︑裁縫師︑

料理人︑運搬夫︑一代理業者があった口そしてとれらのものはすべて聖者や司教や信者の叫んめ忙働らいた︒﹂教会や有名

た霊場が多数の巡礼者や使徒︑従者︑商人を日常集めると去によクち︑都会生活の発展に貢献した乙とは明かである口

かかる影響はスコ

γ T

Y

Fでも見られる︒セ

γ T

γドリウスの教会は甚だ多数の人えを引き工せたので︑マー

ガレ

γ

T女王は巡礼者を牧察するためにフオ

1ス河の河ぱ︿子︒目

z r

丘町︒ユ}︼﹀の両側に宿泊所を建設し︑叉河を

杭断するために無料の輸送設備をつくクた︒

英国中世都市の成立

(6)

閏王の居城が都市の核心を形成した場合があるロロ︒

ES LP 可出

g

げではパークハムプスデヅドにその例を示して いる︒そとではそルテイシ伯は五十二人の市民を有しブ彼等は市場税(ぢロ)左して四パ守Yドを納めた︒玉城を中 心'どして都市が発達した例は特にヒヤ1フォードシャーに著るしい︒そとはイγ

グラ γドとウヱ1ルスとの同境地帯

であクたので︑危険を免札んがために︑市民達は城壁の周囲に集クて来た︒叉ウエールス地方の都市︿ヴ

22

Z

)

多くはその起源を城に発して︑いるといわれる︒多くの場合︑諸要因が綜合して働いているととは勿論である︒スT

一 フ

tフォードは僧院を中心として発達したのであるが︑そとからはロ1マ人が建設した道路がプヴオγ洞を横切るため

の徒渉点にまで続いている︒一方︑才ヅクスブ才

1 はその発達をその徒渉点である乙とにのみ負うのでわたく︑セF γ

?

・フりヂスワイドとオスネ1の犬僧院の存在にも負っている︒ケムブリッジは先に述べた地理的利点の他に︑東

部諸

州と

以出

品目

M F H H L との交通線が丁度河を横切る地点に位置していた︒叉それは・ロ1マ都市の地所であったが︑何れ に し て も そ れ は 明 ら か に こ っ の 具 ク た 都 市 の 結 合 に 基 い て い る 口 府 (五﹀守備隊説(ベロ

50 PE gH H

r s

q )

都市の起源を論宇る第四の説とゅうべきものに﹁守備隊説﹂として知られているものがあるが︑それに関しては多

くの異論が説えられている︒英国戸ヂ

1γ

人の劫掠を受けて︑その防街の必要から各州がそれぞれ一の城塞を建設し

て︑外敵の侵入に備えたととは当然あり符ぺきととであり︑叉ゲ

22 dr とゅう語義がドイツの出号ぬと同じく次第

に城壁でかとまれた場所を意味するようになったととから考えてもそのととは肯定される︒守備隊説とはかかる軍事

上の必要か

b

設けられた城郭左中心として都市が発達したと説くのである︒乙の説が起クたのは次の理由に基く口

り ︒ B g

L m H

g

r

中の多数の都市

(H E

g ‑

︼)は所謂﹁保有権的具質性﹂

(5 5Z HH HF 55

2

5 q )

と呼ばれる特

質をもっている口それは都市内の市民が保有する土地や家屋は︑その都市以外の多数のマナーの領主の所有に属する

とと

が︑

ロ︒

5 2 L M

H 可出︒︒}円に工クて明かにされたととを意味する司換一一目すれば︑多数のマナーの領主が都市内

K

土地

ぞ家屋を所有していた︒例えば︑チチェスグーには四十四のマナーの所有K属する一四二の家屋があった︒カシタペリ

ーには十一のマナーに属する一六一の家があった口又すツクスブ才

1 では﹁閏王が二

O

の家を所有している外に︑F

(7)

γグベサ1の'大司教が七︑ウイγチヱスグ1の司教は九︑ベヱイユ1の司教は一八︑リγヵ

l

yの司教が三

O

ウグYスの司教が二︑ヒヤアブ才1下の司教が三︑セ

γ T

γずの僧院長が一︑アピγグドγの僧院長が一四

︑ヱイシシヤムの僧院長が二ニを所有していた

D更に俗界の有力者も同様である︒即ち︑モルテイシ伯が一

O

が七︑ユウリイ伯が一︑ワイリイのロパ

1

t1が一二︑アイヴリイのロジャーが一五︑ウ才11・ギフォードが一

七を所有していた

nしかし乙

14

に更に長い去を繰返す必要は注いであるう︒﹂め即ち都市の中には国王に屈する家と 僧俗両極のノルマン領主に属する家とが存在していた︒しかし︑とれはノルマ

γ人の征服以後に行われた革新でわな

oE sr q

c c

r

中に征服以前の状態にク︐いて記して居るが︑その当時は国王︑若くは岳会ロ(註)に属する家

が存在していた︒例えば︑ォツクスフ才1

下州の岳会ロがウ才リシグフォードの都市中に家を所有していた去が存

¥¥ 在している︒句︒

g g L P

旬 ︑

g r

の中にマナーで都市に家を所有してりた事実が発見される口例えば下ツヂイ

γ

t y

のマナーはカYグペリーに五の出釈を所有していた︒更に征服以前エドワード王の時代にはカシグペリーにマナ1所属

の家が二五九︑地方の領地に屈するものが二ニを数えるにいたった︒又単に家ばかりでなく市民もマナーに殻屈して

いた乙とがぢクたc

例えばグ

γウイヅチでは市民八十名はイリ1のマナーに目前じていたし︑レスグーでは二十四名の

市民がアγステイのマナーに回附していた︒勾

︹註)自由民と世哀貴族との中間に位するもので︑ノルマシ征服伎の回日

g

又は官庁宮に相当する口

Eふる事実は如何にして説明され得るであろうか︒何故に国王やマナ1

の領主は都市に土地や家や人民を所有して いたのであろうか白乙の問に答えんとするのが守備隊説せある︒乙の説は次の工うに説く︒各州は一の要塞都市を有

しその市民は戦争の場合には武器をとクて戦う義務と要塞維持の義務(︑

H J U E F 5 2 z g a

﹀があクたが︑一度戦争が

起った場合︑各州はその州全体を防禦するために︑金川の領主達はその要塞都市内に守備兵を平常から沿いておく必

要から右のよう怠事実が生じたのであると説く︒かくてとの説から︑英国の典型的危都市っささ口同}じは︑﹁市場の

十字架

(BMWH]

γ 2 2 m )

の平和﹂から︑即︑市場中心から発達したもので伝く︑或は叉商人がその商品を突換するた めに集合する交通の中心から発達したものでもたく︑軍事目的の要塞都市から発達したものであるとの解釈が生宇

英国中世都市の成立

(8)

る 口 (六)守備隊説に対する反対論

守備隊説に対する反対論には次のこがある口

第一に或る都市内の家屋は他の州のマナーに所属している事実がある乙とである口若し前述のような軍事上の必要 から生じた場合には︑他州の者が所有する必要はない筈であろうとゅうのがその反対論の論拠である︒しかし乙れら の都市は辺境都市

3 2 L 2

3

1 5 )

であり︑従クてその隣接の諸州から戦時の場合援助を受ける必要があるから︑

右の事実の存在は︑守備隊説を否定するものでわたく︑かえって肯定するものと見られ得るであろう︒

第二の反対論は︑マナーに所属している市民の数がマ︐ナ1

の佃航と大さとに比例していないとゅうととである口例

えば︑ダシ九イツチではコ一二ハ人の市民中八O人位がイリ1

に於けるただ一つのマナーに属していた︒乙の事実を守 備隊説から見るとき次のよう友疑問が生やるであろう︒即ち︑如何にして少数のマナーのみが軍事義務を多犬に負担 し︑他の犬部分のマナーがその義務を免れていたのであるかと︒この点については守備隊説では合理的た解釈が符ら れない白とれに対して他の立場よりの説明が与えられている︒領主たちはその都市の剖宛てられた所有地からより多

くの地代を符んがために︑できるだけ多くの家を作ったのであると︒

守備隊説に代るものとして︑全く別の方面から解釈が注されている口︐それに工れば︑乙れらの都市の市民で地方の

マナーに所属している者は木来その都市の住民でわ友く

τ

地方民であるが︑都市門で自由に商栄をなし符んがために

市民権を買クて︑その都市内に居住しているのであると解釈する口﹁例えば先に挙げたがグγウイツチに於けるイリー

のマナーに所属する住民八十余名とゅうのはとの説に工クて巧みに説明される︒即ちとのマナーはイり

1

の寺院に属 するものである口そしてグ

γウイツチの港でとれらの寺院に必要とする腕︑を自由に購入せんがためにその市民権を猿

符していたのである︒﹂め都市内のマナーに所属する家も事実上︑これらの商人のための宿屋や倉庫として役立クてい

たのである︒ロ

γFY

の市民は彼等の商品を毎週ロγY

からヘジレーや共他の都市の市場に運ぶ︒彼等はそれらの

地点に貯蔵のために家をもっていた白

(9)

都市の起源にクいては︑結局

K

沿いて軍事的要素よりも商業的要素の方がより支配的になクたと解釈すべきである う︒要塞都市としての州都市

( 2

百三守

EJ E) は︑造幣局や裁判所を有する乙とと相まクて︑交通の地理的左中心地

であり︑又商人に対して特殊な吸引作用をもクていたのである︒

( ) 1

Y人とノルマシ人との影響

都市の起泌が如何にあろうと︑グ午

T

γ人は都市左﹁奴認の要塞であり︑自由の芸場﹂

であると考えた口そして開放耕地の中に住む乙とを好んだ口それ故︑英国での都市生話の発展は︑外国大の影山内いによ

クて大いに促進された︒これらの中でヂ

l

y人の植民地が第一番目であった︒彼等は商業の中心であるのみならやy

征服したしかも敵意をもク民放を服従させるための城塞としての都市の豆要性をよく知クていた︒英国に於ける彼等 の支配権は都市の連合体の上に依存していた︒その中で最も有名なのは︑ダービー︑リシカ

1

y

L Y

イスグ1︑スグ

今ォード︑ノツテイシガムの五都市の連合体であったむとれらの都市はメルシア(百

2c E)

を支配し︑その行政組

織と官と向業上の重要性で著名であった︒デ

1

人侵暑の影響はヘアルフレッド大王とその後継者達に対して夫われY

たかクた︒デlγ法(ロ

h H H E

J︿)は各要塞を通じて施行され︑彼等の進出を確実なものとしたF J

そして各地方に於け る初心が形成され︑それを中心として次第に初期の都市が発達して行った︒更にデ

l

植民地が英国の外国貿易に与y

えた刺戟によクて︑都市に対してより広い括勤の分野が与えられ︑都市の発展が促進された

D

その当時東部諸川の第一の都会であクたノルウイツチの勃興は︑か

L

る影響によるものであることを知り得る口ノ

ルマシ征服当時︑そとには教会の数は二十四位であクたが︑人口数はロシドジとヨ1クとに次いで多かづた︒又そ乙

は舟航の便あるヤール河にのぞんでいたので︑北部ヨーロッパとの商業路に当って居り︑スカシジナピア商人の居凶

地であった事情と相まって︑宮と繁栄こを符た口

ノルマシ人の侵尋と共に︑英国都市の歴史に新しい頁が聞かれた口その征服に引っづいて都市制皮は急速に発展し

た︒しかし征服の直接的な影響は都市の発展に不利であクた︒何となれば︑封建的な岐を築く地所を符んがために︑

家がひどく破壊されたからである︒侵答者の千によって主要都市で部分的に破壊されなかクたものは殆んどたく︑破

英川中世都市の成立

(10)

壊された家の数はしばしば著るしい数に上クた︒グムブリッジでは二七の家が破壊された︒カシグベリーでは一一の

'保

有地

(ず

戸司

雪山

. 2 )

が︑市の涼を作るために廃止されたりノ1ザムグ

t γ では宍Oの保有地中二四が廃止されたと

記録されている口ウオりY

グフォードですふ八の家が壊されたロイプスウイツチは手ひどく壊された︒エドワード俄

悔王の時代

( H Cl∞の﹀に五三八の市民が国王に税金お

( 2 2 2 U

﹀を支払クたが︑二

O

年後には一二

O

の市民が居るに

すぎなくて︑その中の一

O O人は大へん貧しく一人当一ペニーの納税しかなし符たかクた︒しかし︑築城がノルマシ

征服に引クづいて起クた荒廃の唯一の原因でわない︒リγヵ

l

yでは二四

O

の家が荒廃したが︑そのうちニハ六は築 域のために破壊され︑残りの七四は不涯︑貧困や火災のために荒廃した︒オックスフォードでは家の破壊は一部分は

O

六五年に出

LJ

︿百

と出

22

向円の下に於ける反判的軍の出現に工るものであり︑ダービーでは市民の数は二四三から

一四

Oに減少したが︑城の築造は全く見られなかクた︒

右の上うな破壊的な事情が見られたのにもかかわらや︑ノルマY征服は都市の発展に決定的な意義を有した︒それ

は君主権を確立し︑封建国家に介裂する傾向を阻止するととによクて︑大陸諸国よりも数世紀以前に英国を統一一国家

たらしめたnウィリアムの決断力とたくましい人格の力とによって不穏た諸努力は抑えられた︒しかし人格の力が如

何に偉大であクても︑・結局それは消え去るべき運命にあるのであって︑それだけでは封建制度内部に於ける破壊的要素を根絶するには不充分である︒ノルマγ征服者によってなされた英国々家組総の発展についての貢献は︑ヘシリ1

一世の時代になって制度化され︑行政組織として具体化された︒彼は司法と財政とに関する系統的た組織と封建的統

治の原則を打破すると乙ろの官僚群とを創設したが︑そのことによクて君主権を拡大し︑国内の隅々にまで国王の権

力をあまねく行きわたらせた︒中央政府の権力の強佑によって︑英国の都市はドイツやイグリ1の都市国家の同盟が

享受したような独立的地位は符られなかクたにしても︑他商において諸都市国家間に見られたようた紛争から免れる

乙 ハ ができた︒そのことは英国の都市に着実な発展と進歩の機会主与え︑強力な隣按都市の脅威左受ける乙となく︑ι

落若いて商工業の発展に全力を集中する乙とを可抱ならしめたのである︒

ノルマ討征服は︑英国の都市に対してその発展に不可欠の条件である国内の平和を与えた︒その影響はより直接的

(11)

な方面に於いて感ぜられる︒その征服の結果︑英国とノルマシデイーとは一人の統治者の下におかれた︒又大陸との

関係が一一回総接となり︑そのために貿易関係が活波となり︑ひいて都市の発展を促した︒商人であろうと手工業者で

あろうと︑外国人の来住は更にその傾向を促進した口Tマス・ベグツtの伝記作者は次のように述べている︒﹁ノル

マシの主なる都市であるル

1 7 yや カ 1 の市民が英国第一の都会としてロシドンに来往した︒何となれば︑そ乙はY

商業により適当な場所であり︑彼等が慣れていた商品がより多く貯蔵されていたからである︒﹂句乙れらの外国人の聞

にル

1 7 yの市民であるギルパ

1 であるが︑ロシドンの市長(句︒ユ

52

Tが足クた口彼はベケットの父親︒)の地位L

を符た︒他の外国人にはコロ1ニユのア1ナルドが居クた︒彼の孫は市参事会員

( P 2 2 5 5 )

になクた︒ノルウイ

ヅチは四十一人のブ一ブシスの市民︑サザムプtyは六十五人︑ウオりγグフォードの二十二の家はフランス人が住ん

でいた︒乙の移民運動はノルマシ征服以前から始クたが︑今や大なる永続的た刺戟を与えられた口

(八﹀初期の都市の組織

英国の初期の都市組織は︑後代の都市組織の複雑なのに比べると︑その主なる姿に・おいて比較的に簡単である︒そ

れは都市裁判所会

5 5 z t :

︒戸

立)

と市

( 5 0

︿ ︒

212

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Z

5

)

と左もクていたc市長は市の財政と軍事方面を司

ると同時に︑行政の面も支配した口彼は国王に帰すべき租税を集めたり︑すべての商取引に査証官(︒出計三

mL

J1

52

として立会クたりも敵⁝阜の来裂に対して防衛司令官の役目を引受けたりした︒﹁英国では早い時代からプシグロ・サ

クソγ法によクて︑盗品の取引を防止せんがために︑あらゆる売買に査証官が立会うととになクていた︒初期の時代

から秘結取引に対する禁令が繰返し法律として発布されている口すでに第七世紀にイシの法律は行商人に対して︑査

一説官の前で一般の人に対して売買すべきこどを命じている口エドワード

30

Hl

MU

)とエセルスグY3Mm18)は夏

に一歩を進めて︑何人も市の城壁外で売買する乙とを禁じ︑且ク市長か或は他の

EL 1H

戸時百三回の立会の下で取引をな

すべきことを命じ‑た︒ェドガ1381JG)は大都市では三十六人の査証官︑小都市や百人組(}戸

H E E L m )

では︑必

要な場合には十二人か或はそれ以上の査一副官を設ける制度をクくった︒かかる法律はウィリアム及びその後継者の時

代にもクづけられた︒﹂η

英国中世都

'

巾の成立t

(12)

市長は独立の地位でなく︑代官(乙三品

h )

に対して従属していた︒都市制度の中で裁判所は最も主要注要素であ・

A /

たが︑それは百人組裁判所とは別個の︑それぞれ独立した司法組織の単位をたしていた︒これに対しては本来百人組裁判所は都市から除外され友かクたとの反対論が起クて来た︒エドガ1の法律は都市の裁判は年に三回開くべき乙と

を規定しているが︑百人組の裁判は月に一間聞く乙とになクている口との不平均は︑もし市民が百人.組の裁判から除外されるとすれば︑彼等にとクて不利益在来すであろうと考えられる︒しかし年三回の都市裁判の外に︑軽い事件の

裁 判 の た め に

︑ 多 く の 小 裁 判 を 開 く 乙 と が で き た

実証官制度や貨幣の鋳迭に関する他の多くの法律がある︒十世紀に各都市は少くとも一クの造幣所の設立を詐され

た︒その官と主要性とで著名な多数の都市に詐可が与えられた︒ロγドンは八の造幣所があり︑ウイシチェスグーは六あクた口カ

y f yベリーでは四が国王に︑こが大司教(ミ乙宇宙

} 5

匂)

ーに

︑一

が僧

院長

(h

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G H

人の影山村を強く受けたと乙ろはもっと複雑な組織を示してい匂ペリシカy 与に所属していた︒ヂl)

1 yやスグ今ォードとグムブリッジでは

法律家

(7 55 HH ) の団体があクて︑都市裁判所えの陪恭判事会

ap

‑g mS M2

4

としての呉格に沿いて︑明らかに或 程度の司法上の権威をもクていた口乙の時代の市民の職業にクいては︑ドウムズヂイ調査の示すところによって︑多数の者が商業に従事していたととが解釈され得るにしても︑直接的な智識にクいては殆んE特がたいのである︒イプ

スウイツチでは五三八人の市民が︑彼等

ω

問で四Oエーカーの土地しか保有していなかクた︒従クて大多数の市民は

土地をもたないで︑手工業や商業で生活を維持していた口断片的な史料によクて次の事柄が知り符られるロデロイト

ウイツチには塩工場と製錆工場が︑グロlスグーでは製鉄工場︑カシグベリーでは靴屋と呉服屋があクた︒ヒアl

ォードでは六人の鍛冶屋が製鉄業に従事していた︒

ノルマγ征服以後の英国都市の経済史は︑その制度の発達と切はなしては考えられぬ︒都市の独立と自治権とを獲

得せんとする市民の努力は︑その経済発展と密接に結びクいて居り︑両者は互に原因となり或は結呆となクている︒

中世の封建領主たちが︑領地内にある都市に対して揮クていた権力は︑都市の進歩か或は退歩かを決定する有力及武

器であったが︑何れにしても予領地内の住民の勤勉と積百的活動とによって領主速は利誌を享受したロそれと同時に

都市は王格の地方に於ける代表としての代官(辺

54

山内向﹀の政治上の権力を承認せざるを符なかクた︒そして都市は国

(13)

王や代官の権力から次第に解放されて行ったロ ハ九)封建領主側よりの要求

都市の極めて初期の時代にも封建領主の詠求が行われた︒何となれば︑その発展の初期には市民は払阿の農民の地

位に止っていたので︑農奴階絞に附随的であクた各程の厄介注義務を負担していた︒彼等は杭地で農業上の夫役共他

の抵抗務を負担する上dに︑裁判所や製粉や醸造工場での各程の義務を負担した︒ヒア1フォードの市民が行った農業上 の負担はドウムズヂイに記録されている︒都市内の各市民は八月中に三日間をマルヂ

γ

で牧穫のために働き︑更に

代官が適当・・ど渇えた場所で乾草の刈取のために一日働かねば喝ならなかった︒その後市民は夫役労閣の代りに免役地代

(

5H HG

を納付する主うにたった︒その当リ時から領主は利潤の源泉として商業の軍要性を認識ずる工うになっ

た︒すでに十二世紀にグロスグ1の伯爵はカ1ヂイフの市民に対して次の工う友詐可を与えた︒即‑志︑彼等は工場に

対して何等の義務を負わないとと︒領主の許可を符ないで息子や拍肢を結婚させることができるどと︒自由に眠造した

り︑パγを焼くことができるとと︒取引税を約めないで牛馬を売却し得るとと︒鳩合会︒

2 ・

5 5 )

や粉強工場

や手臼工場を作り得る乙と等である口パり1

・セ

f・ェドムてヅでは住民は僧院の直領地で牧終時に働く夫役義務

を吋

︒守

山一

日︿

2

と呼ばれる貨幣代納制度に変えた︒そして僧院の計理係は︑貢納金を集めるためにいつも町を往来し 市 た ︒ 民 の 免 税 の 特 権 合

5 5 5

匂)は部八刀的にすぎなかった︒彼等は依然として旧来の奴隷的状態の遺風を保ってい

2

た︒十三世記

rh

・お

いで

すら

エグ

レ fytの市民は農業上の夫役を負担した︒﹁鋤をもク市民は毎年一日だけ領主のた

めに排さねばならたい︒﹂と︒マシチェスグーでは十九世紀の央まで荘園の桂枯から完全には解放されなかった︒それ

工の一世紀以前には︑その住民は依然として彼等の穀物や麦芽を領主の粉挽工場や醸造場に︑パγを領主のパシ焼が

まに運んだ︒他のすべての封建的負担が治減したやっ・と後まで︑領主によ合てそれらの工場が独占的に所有された︒

それらは甚だ莫大な利益をもたらした口そのためにチェスグ1

の 子

︒ ロ

2

2 2

は法外の利益という乙との諺にす

ちされた︒僧院は殊にその独占権に対して執劫に固守し︑その利益を決して手放そうとしなかった︒パルY

ステ

1

英国中世都市の成立

(14)

ルの市民が僧院に屈服した時に︑彼等は僧院所有の工場を利用すべきととを誓い︑その独占権を侵害し怠いために︑

彼等自ら工場を作らないとをを誓った︒封建経済が解体する時代にも︑加院はその独占的な工場から︑年収入の大部

分を得ていた口

(十)国王と貴族の領地にある都市

( A )

国王の直領地にある都市::・英国の都市が封建領主の支配から︑その自由を獲得した程度とその発民の速

度とは︑都市自身の活動と協同体意識に工って左右される工りも︑むしろ封建的支配の性格によクて左右された︒中

世都市には三の種類があった︒第一は国王の直領地にあるもの︑第二は貴挨の支配下にあるもの︑第三は教会に所属

しているもので怠る口その中でも国王の直領地には都市の数が設も多く︑しかも重要都市の犬部八刀がそ乙

r

あっ

た︒

従って︑都市の大多数は国王の直接の支配下にあった︒国王は寛大た領主であクて︑地方的諸貴族に見られる上うな

専制君主的傾向はなかった︒彼の関心事は広汎にわたって居り︑しかもその地位は重要であったので市民の小事忙拘

泥しなかった︒彼は市民が国王に対して租税を規則正しく納付しさえすればエいのであって︑都市の乙とは市民の自

治にまかせるととで満足した︒国王の妥協政策は政治的であったと言い符る口何とたれば︑都市は自治権を施行する

ために多数の下級役人の存在を必要とする/工うになり︑セの乙とは多数が治主に翠制し合う乙とから︑使込みの危険

を防止し得たからである口更にそれは国王の代官の権力を弱くするための国王の政策の一部でもあった︒その当時代

官の権力は強大に注目つLあって︑往昔の郡長

( P 5 2 5 P H H ) やノルマγ

征 服 以 後 の 貴 技 会 ミ

g )

の工うに王権に対

す る 一 の 脅 威 で あ っ た

︒ ー

(B)貴族の領地にある都市:・:国王の直領地にある都市はその侵越的友地位を誇って居り︑その特格的地位を

国王に対して間接的友地位にある他の都市に介与するととを欲しなかった口貴放の領地にある都市は右の不利な地位

とは別に︑その他の点に・おいて不利な地位にあクた︒何となれば︑貴族連はその権力を自己の手中に保持する乙とを

彼等の利益であると考えたからである︒如何喝なる都市も封建領主があらゆる機会にその権力を卸い符る地位にある限

り︑その繁栄色商業の発達とを期待し符なかった︒貴校と都市との争に・おいては後者が有利な地位に立った口彼等は

(15)

AH

放の財政困難に乗じ︑その苦境につけ乙んで諸税の特格をかち待た︒更に彼等は団体の力によクて︑伝統的な諸勢

力と戦い︑貴校個人の孤立的た力に対して根強く闘争を続けるととができた︒二一八六年にベ1クウエルの領主はそ

の市民に対じて自由を与える特許状を与えた︒︑ぞれは裁判所に関する負担と市場税

( S H C

の支払とを免除し︑市民

の保有地を売却︑譲渡︑遺贈によって自由に.処分するととを許したいそれから数年後の一二九四年にボシテフラグT

市は三

OO

銀マルクでロ1

ジャ

1・下‑一フシイから広範囲にわたる特権を買牧した︒

( 十 一

﹀ 教 会

K所属する都市

世俗的領主に属している都市に比べて︑司教管区や僧院の支配下にある都市は誌も不利な地位にむかれた︒ζ

の場

合には独立のための闘争は数世紀間クづいた口都市は共同団体としての組織の力をもクヵfリヅク教会かあ自由をか

ちとるととは殆んど不可能であるととを知った白教会は不屈の執劫さをもクて︑その特権を固守し︑本易に妥協を詳

さなかった︒しかし教会がすべての地域で頑固な態度をとクたわけではない︒例えば︑ウイシスチェスグ1

のセ

yt・

スウ

イ T の副僧院長(句12)は︑二一五二年にウェイマウスに特許状を与え︑各程の格利治︑免税の特松と共に︑そY

乙に

自由

都市

ノ(

2gg

兵ごの地位を与えた︒しかし僧院長

(P

Z5

F)

で自由主義的危進歩的な政策をとる久物は稀

であった口彼等の中で政治家的型の人物でも狭い保守主義の中にとじともクていた口僧院長のサムプソシがペリ1

セy

t‑

エド

Y︑ヅ市に特許状を与えた時に︑役の行為に対して修造的

(E 2F U)

の側から批離の嵐が持き起つ一た目

的院の金銭上の欠之に乗じて特詐状が与えられた場合すら︑その条件は決して究ぷではか仏かった︒

十三世紀の特詐状の中で︑世俗的領主と宗教的領主とによって与えられたものを対照するのは佃航がある︒ウイコ

ムプの領主のプラン・パセツTは一二三七年にウイコムプの市民に改のよう紅特許状を与えた︒﹁ウイコムプの全市

は地代︑市場︑定期市及び其他すべての事柄について何の保首もなく自由都市である︒﹂と口町ピ1グ1パ一31の僧院

長は︑その市に対してCLF向︒(註)熔姻税

(5 2c rB )

︑運搬と牧終の夫役を免除したが︑裁判所の負担︑パγ焼

炉の使用料︑市場税は免除したかった口又市民がその土地を売却したり︑譲渡したりす糸のを明かに禁止した口

︹註︺中世の租︑税の一屈で︑国王の知地にある都市に引附されたものであるロ巴き品内戸内凶を支払わなかった地方から貢納されたこと

英国中世都市の成立

(16)

n O 

に起源を発するようである︑後では国王のみならず僧院長もこの税を諒した︒町

教会当局が市民に対して僅かの自由すら許容する乙とを嫌忌したととは︑次の中世時代の年代記作者の言葉に活え

と現われている︒﹁副監督

28

ロ)

のハ

1

1F

ハパ

1ドγに風車小屋をクくクた口約院長が乙のととを聞いた時

彼は激怒のために殆んど食べるととも一一訪問も発する乙ともできなかクた︒翌日彼はミサの後︑役僧に命じ︑大工をそ

とにやって直ちに全部を取壊させた︒﹂そとで副監督は僧院長のととろにやクて来て︑それは合法的危権利の範囲内の

行為であるととを抗議した︒しかし的院長は怒クて叫合えた口﹁肖八六一はその建物が取とわされ.るまではパシを食べない

であろう︒君は老人であるから︑相院の支配地域内では︑僧院長と僧院との承認友しには国王や政府の大官といえど

も︑何物をも変更したり︑建てたりする乙とができか仏いのは知クている筈だD君がやクたととは如何怠る口実を作ろ

うと私の意思を害しない筈はゑい︒市民連は彼等が欲するままにその穀物を君の工場で粉にするだるうロ彼等は自由

民であるから︑彼等を合法的に阻止する乙とはできたい︒﹂乙のことはパリ1セ

γ r・

エ下

γヅで起クた︒同様の乙

左は二世紀半後の一四五五年にセシト・アルパシスで記録されている︒僧院の小作農が粉視小屋を廷で︑彼の大支を

挽き始めた︒僧院長は怒クて︑彼の役人に命じて白石を没牧させた︒役人が現場に到着した時に当の小作農は不在で

あクた︒彼の妻が出てきて女らしい呪の言葉を投げつけ‑ながら︑近所の女仲間を呼ぴ集め︑小屋の道具を奪い返した︒し

かし彼女の勝利は一時的であった︒結局︑かの不従順な小作農は際ま宇いて僧院長に赦免を乞わざるを符なく︑なクた︒

更に小麦を挽︿乙とすら許されたくたクた︒僧院長は彼の喫願に対して次の工うに答えたD﹁何人も知クているよう に︑人忙一吋談れば彼は一ヤ1下をとるであろうロ家

JK

戻クてやり方を改めたさい︒﹂と︒

(十二﹀自由獲符のための闘争

教会がその領土内の都市に対して︑あらゆる点に沿いて犬なる権力を部クた乙とについては豊富ゑ史料がある︒ピ

1ずアリーでは犬司教は司法行政を支配し︑法の侵犯に対して罰金を徴牧した︒彼の格力の行使にクいては如何たる 競争者をも認め訟かった口リ1ヂイシグでは僧院は市長を選任し︑ギルドの新組合員の加入を決定したロ叉ギルド組 合員から売買をなす権利に対して毎年租税を徴牧したロギルド以外の市民からは市場税

( g ‑ Z

﹀を強制的に取立て

(17)

たロブエパ

l yヤムでは僧院長は代官を任命し︑町や市場・定期市で訴願を裁いた︒叉陸路或は海路左通いして都市に はいクて来るすべての商品に対して先只権公

) 5

0

E g )

を要求した匂パリ1・司セyt・ェドムシマツの教会も同様 の権利をもっていた︒シレシスグ1の市民と教会との間の争は商業と裁判の面で教会が勝利を得た︒市民はその保有

地を売クたり︑近贈したりする乙とを禁ぜられ︑相続税・婚姻税左諜せられ︑牧穫時には夫役の義務があクた︒長年

月にわたクて市民は都市の自由を符んがために戦って来た口その闘争の歴史は甚だしい暴力とはげしさを示して来て

いる︒グγステーブルの剖僧院長は一二二九年に市民との問の苛烈た争を記録している︒結局︑市民達は出家を来てふ

市から退去する用意をした口教会から破門すると嚇されたのにも屈せやノ︑彼等は副伯院長の窓意的た課税を甘受する

︑よりはむしろ﹁皆一絡に地獄に下る﹂乙とを決心した口

教会と都市との問の争は数世紀間継続したが︑教会の支配に反抗しf て都市が蹴起した乙とは国内の騒践と政治的不

安の時代に特に多かクた口地方史は国民史の色調を反映して彩られるものであクて︑国家的危機の時代は都市におけ〆

る革命の好肢であク先口二一六四年にバリ1

・セ

T・ェドムシヅの市民はヘシリ1三世と貴故達との問の札撲を利

用して︑彼等自ら市の行政官

(E

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件︒)を選挙し︑僧院長に対して市の門を閉ぢた︒二二二七年に別の機会がや

って来た︒当時国内は援品のため忙分裂していた︒一の大なる暴動が起クて︑教会は無理にそのただ中に捻き乙まれ

教会で働いている人々は打郷され︑傷けられた︒そして僧院長と修道僧は牢獄に投げ乙まれた︒暴徒は牧場の草を勝

手に刈取り︑樹木を切倒し︑僧院の英仏小池の魚をとり︑要するに草と木とh況を奪い去った口かがる暴行はアピゾグド

ンで繰返された︒群衆が戦争のようた状態で僧院を取かとみ︑門戸を焼き︑教会の装飾品や特詐状を卒い去クた口僧

院長は間服し︑都市

K対して︑市自ら行政官つ・2410

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一 号 る を 選 ぶ 乙 と を 詳 し た 口 /

一三八一年の農民反乱

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では都市に於ける不平不満が重要な役割を演じた︒彼等はその反乱に

乗じて︑不平のはけ口を見出した︒パ

y 1

・ セ

YT‑エドムてツの市民は反乱に際して彼等が加担したという理由で

国王の特放から除外された口しかし一三八四年には僧院長に対して恭順である乙とを誓約したために特放を得たロリ

チヤ

1ド二世の廃位を契機として︑国内は再び令裂︑抗争の場と及クた︒シレγ

スグ

1の市民はヘシリ1四世の主張

(18)

に加担し︑代官(ず丘町母国)を先達として︑敵方の指導者であるグYトとサリスパリ1の伯爵を逮捕し︑裁判の手続定 経る乙とたく符頭で彼等の首をはねた︒と的手桶必ために大司教アルシデルの称誌を受けた結果︑僧院長に対して夫

役労働の負担から免れ忍乙とができ更に僧院長の工場に穀物を送る義務や市場税を免除された口国王の庇設を受けた

ために︑彼等は刑罰を受けたい特権を符て僧院長を無視することができた︒更に国王は彼等に商人一ギルドを許可し︑

商取引と市場を支配する乙とを許したり又紛争を裁くために裁判所の設立も許可した︒しかし︑その後僧院長は時節

の到来を符クて︑ヘシリ1五世の即位後︑ギルドの取泊を命じた︒かくて市民は再び従順となクた︒

(十コ一)教会の勝利

独立のためのN闘争に沿いて都市は孤立していたわけでわなかクた︒二ニ二七年のアピシグドγの寺院の製翠者逮は

オックスフォードシヤ1とパークシヤーから参加しており︑特に多数の者はオヅグスブオ1Fの市民でおクた口英国

の都市は太陸の都市のように相互扶助のために同盟を結んだというような乙とは見︑られたいのであるが︑時折偶発的

危共同行為の徴候が見られる口解放運動の過程に・おいて市民は北川向劫作の必要を知クたであろう︒パリ1・セYT‑

エド

γザの市民は僧院との悶争を継続するために必要な資金を彼等の問に割当てて介担した口共他の都市でも同様

陀情勢の緊迫によクて︑次第に共同定識が高まクて来た乙とを推察する乙とができる口教会とその支配下にある都市

との長期にわたる闘争に司おいて︑教会が絶え宇侵越的危地位に立クていたことは明かである臼都市は比較的に性力が

乏しかったので︑知識と経験とに官み︑しかも物質的友官と精神的勢力とを背誌にもク有力な協同体であるカt

リツ

ク教会に対抗するには甚だ弱体であった︒更に国王はしばしば教会の側に味方した︒市︑民は国王の命令に反抗する乙

とに対して跨賭せざるを待なかった︒あらゆるー地方で悶争は教会側に有利であった︒

サリスパリ1の市民と司教との聞の争は︑一四九五年に市民の完全な屈服に終り︑市設検屍官制度合

32

8 3 H E

吋)設置の許可を乞う場合に︑彼等は設もへり下った飴願の詳を用いねば私らなかクた口セ

γ T・アルパyス

の市民も同様の運命に陥クた︒彼等は既に一三二七年に布地を結紋するために彼等自身の工場を使用する乙との詰願

ーをしたが司教の拒絶に合クた︒そ︑とで彼等はその要求を貫徹するために寺院を十日間包囲し︑都市の裁判所をもっ格

(19)

利と市自ら行政官(玄庄内廿﹀を選任する権利を与える特詐状を司教からかちと夕︑たロしかし三年後に運命は逆転し︑

教会は再び諾権利を自らの手中に取戻した︒司教側の警備役人は争闘のただ中で殺されたが︑市民は特許状を放棄し

白石を司教側に引波さざ・るを符伝くなクた︒更にごニ八一年に市民は独立のために麟起したが︑それが失敗に終クた

後は︑市は寺院に完全に屈服するようになクたロとの状態は一五五三年までクづいたが︑遂に彼等は国王から独立を

承認する特許状を待たJ織物取引の繁栄せる中心地であるパリl・セyf‑エドムてツすら︑その不屈訟抵抗は三世

紀の長きにわたクたが︑一四七七年に都市の領主である役僧

( g s z

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﹀に対して︑識物工の組合

( c g F )

を許可

する法令を是認せん乙とを求めた︒宗教改革で宇ら︑英国では教会の支配下にある都市に対しては必宇しも自由を与

.えなかクた︒ピ11パラーでは副監督と僧会(の宮古

2 )

とは僧院による裁判権を引ク手ついて施行した︒そして十

九世紀にいたるまで市の行政官

( E

P

一 ふを任命する権利を保持した︒EEE (十四)教会と独立都市との関係及び共他の紛争 (A

﹀教会と独立都市どの関係:・:以上に沿いて教会と教会の支配下にある都市との関係を論じて来たのである

が︑次に教会と教会の支配

τーにない都市とが如何にして街突したかという乙とが問題に反る︒中世の教会は自らを

﹁帝国の中の帝国﹂(一

E M ) 2 E E E U 4 2 E )

と考えていたので︑あらゆる世俗的支配とその司法権とから治外法権

を主張して来た︑乙の主張は国王との街突を招いたのみならやノ︑自治権を獲得した都市との街突を招いたのは当然で︑

ある︒都市の自治維の範囲内から︑すべての教会の領地を否認しようとする企ては当然教会の反撃を捻き起し︑都市

の城壁内で敵対する勢力をクくり上げたJ

両者の争の中心点は)司法権と課税権のこで老クた口市民は教会の領地内

の居住民

( 5 2 E )

は市長(乙ユえ宮岳民るに服従すべき乙と︑市の裁判所に出席すべき乙と︑市の課税を負担す

べきととを要求した︒他方︑教会側では居住民に対して市の要求に服従する乙とを禁止した︒そとで困難な問題が生

じた︒市民の一一部分であるところの教会の領土内の居住民は市民としての義務を免れたのみたらやノ︑市長

( H E M

‑ 2

の権威は市長応対して思立を抱く市民であるととろの教会内の住民によクて無況されるととになクた︒

市民の財政上の不平不満は︑ドウムズヂイと共に古いのであクて︑その不平の原因は︑教会領主がその借地民によ

英国中世都市の成立

参照

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 貿易港であった博多を示す特徴的な遺構が一括大量廃棄遺構である。14

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越えるほどの、比較的短い歴史しか持っていないのである。

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