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英國中世の外國貿易

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(1)

貿

英国の初期に於ける外国貿易の特徴は﹁受動的﹂であることである︒輸入は殆んど例外な‑外国商人により・外国船

で英国の海岸にもたらされ'輸出は外国商人によ‑外国胎で行われた︒りこれは中世時代の英国薗人が未だ海外事情に

くら‑'外国眉易の経営に習熟していなかったからであ‑'これと同様のことは明治初期の我国や現代の中国に於Sても見られる現衆である︒

毎時の英国の都市商人は外国商人に封して極めて排他的であり'彼等の英国内に於ける活動を狭い制限内にとじこめ

ようとしていた︒外国貿易は外国商人に委せるが'国内商業に対しては彼等の介入を一切排除せんとした︒そのことは

次の外国商人に封する譜制限となって現われて5る.英国人自身の都市でのすべての取引に課せられた譜負担や譜制限の他に'外国商人の場合には'四〇日を限って取引の目的のためにのみ在留を許された︒叉宿屋に泊ることは禁ぜられ︑

英国人の豪庭にのみ泊ることが許された︒IJの目的は外国商人の活動を監視し,彼等の違法行為に封して証拠を明かに

せんとするにあった︒これは人質(hostage)の慣習と呼ばれている︒外国商人は小売取引は禁せられ︑卸売取引のみが

許された︒叉他の外国商人との取引も許されなかった︒

他方に於いて'国王や有力な貴族階級は外国商人に味方した︒彼等は大地主として大陸の商人達と直接に取引し,英国商人の中間的利益を排除せんJJ.欲していた︒その結果,政府から諸鐙の特権が外国商人に対して与えられたoその目

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ポルトガル︑ナパ11︑プロパンス︑カタロ一一ア︑アキテ1ヌ︑トウール1ズ︑クヱル

1︑フテンダ1ス︑プラパン及び他のすべての外国から英国に来る商人の平和と安全とのために与えられたものであ

る︒又その規定によれば︑外国商人は附加関税

22 RE s 2

O

的)を支払う代償として︑居住の明白及び場所に関すB

る以前の・制限や商品が売却さるぺき相手方に関する制限定すぺて廃止した︒又大多数の商品の小売はな沿英国市民が独

占を保持していたが︑次第に重要注商品と怠って来た香料及び絹織物の小売は特に外国人に許された︒都市当局は外国

人に討して︑︒

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によって速かに裁判すぺき義務を負わされ︑又それは外国人の訴えを聴くために王室

判事が特別に任命さるぺきととを規定している︒同時に厳格泣刑罰をもって︑外国人に封し裁判をたすととを担む都市

当局を威嚇した︒更に将来に於いて英国人と外国人との聞に生宇るよう泣訴訟の場合︑陪審官の一半は問題と怒った外

国人がやって米た都会の商人から成立つととを命じた︒め

若しこの法律が厳格に行われたならば︑従来の英国都市の商慣習の多くは廃止されたであろう︒しかし市民からの執

均且つ熱心注反封運動によって︑との法律の規定の或ものは廃止されたり︑或は無視されたりした︒かくて数世紀の問︑

英国の外国貿易の初期の歴史は︑市民と外国人との問の利溢の筒突に基く不断の争に満たされて居り︑その発展を妨げ

られて来たと一一一口い得る︒との抗争の過程については︑ピ宮

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回 目 的

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に詳しく︑その大要を以下紹介する︒

一︑英国民於ける外国商人の地位勾

初期の英国商業

第十世紀の後半に英国の海岸を訪れて来る海外からの商人は︑既にかなりの数に上っていた︒そしてその貿易を行う

ことは法律によって承認されていた︒ヱセルレγド二世円九七八lO

二 八

Uの記録文書は︑ピリシグスヂ1トで謀せら

れた取引税(件︒ロとを規定し︑英国に地歩を占め得た各種の外国商人の団体を列挙している︒﹁ぷHこう沼や乾燥魚をもっ

1

O商人は︑舵一隻毎に六シリングの税金を支払った︒フランダiス︑ピカルデイのポントウ︑ノルマン

(

(3)

ヂイ及びフランスからの尚人は︑彼等の商品を示すべきで︑且つ取引税を支払う義務があった︒ヒュl

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百丘町との商人は︑との国を通過する場合には

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宮問︒即ち外国商人に探せられる取引税を支払っ

た︒﹂英国と大陸との山に或程度の貿易が存在したことは︑七九六年にシヤルマl一二大帝からメルシア(宮2

)

(O

止とに送った有名た手紙の中で示されている︒﹁神の愛と霊魂の救済のために︑聖徒一の管区を巡礼せん

と欲する巡礼者については︑.彼等が平穏に旅をなし︑あらゆる障害から免かれ︑彼等の欲するものを入手し得るよろに

許可を与えている︒しかし彼等の中には巡礼者を装った商人が混っていることが発見されたο彼等は宗教上の奉仕をな

すのでわなくて︑利得主追求せんとするものである︒若し彼等の問に商人が発見されたならば︑彼等は正規の場所で一定

の取引税を支払わねば・ならない︒貴下は貨国の商人について我々に報知すべきである︒我々は昔時の商取引の慣習に従

って規定された通りの保護を彼等に到して与えるであろう︒万一彼等が不法な圧迫によって苦しめられた場合には︑王

室か或は裁判官かに訴えることができる︒我々は正義が彼等に均してなされるように命やるであろう︒我国の商人に封

しでも同様の思惑が与えられんととを︒万一彼等が貴国に於いて不法怠取扱を叉けた場合には︑貴国の裁判官に訴える

ととを許されんととを︒かくて我々一向因︒問に何等の不和も起ら泣いようにしたい︒﹂との手統は英国の設も古い通商条

約であってフランク王国と英国との間の貿易関係を健全且つ親密怠基礎の上に訟くととを目的としたものであった︒

(

ザハカンジナピア民族の企業心

ノルマン人

(Z R 各自

g )

が侵入して来るまでは︑英国の外国貿易は発展し泣かった︒との時代のスカンジナピア諸

民族は箸るしい企業心と品川動力とを現わしていた︒北方海賊の時代(JJE

0)は︑彼等が帆の使用を発明した七八九

年に始った︒彼等の勇敢た胃険的た精神は︑彼等が乗り越えた広い海によって示される︒ノルウェー人

(2 28 gg

)

γトランドとアイルランドの海岸に根拠地を有し︑それらの地方にノルウェーの鋳造貨幣を最初にもたらした︒デ

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(

82

﹀はノルマンデイとイングランドに侵入して来た︒

他方︑スエ1デン人

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g

)

は︑北はノずゴロドから市はド一一ヱプルにいたる地域に大スヱ1デン王国を建設し

英国中世の外間貿易

(4)

た︒アイスランドとグリーンランドが発見され︑そとに植民が行われた︒後者はヱリク(肘片山♂岳o何色)によって発見

された︒ヱリクの子リlフ

(F

丘町﹀はアメリカ大陸を発見し︑彼はそとをヴインランド門現在のノヴァスヨチヤ地方u

'

名づけた︒ィングランドでは︑ヌルマン人はノ1サンプリアとミッドラン'ドの諸地域を占拠した︒彼等の植民地が永続

したことは︑望︒

Z4

0

に献じられた諸教会が現在残っていることと地名とによって託され得る︒特にリンカーンシヤ

ーには彼等の占拠の記録が多い︒イングランドのデ

l

y人が居った地域には一三七三に上るスカンジナピア的危地名が

残っている︒その中の六O四は語尾が写で終っている︒例えば︑

UO HS

Z号可等︒リンカーンシヤーには古川尾が

芝で終る都市が二一二存在する︒

︿ )

1ン人の影響の重要性

lン人による英国の征服は︑初期の英国の尚業史に於ける故も重要注出来事であった︒北方の海賊は舶来だけでた

く商人でもあった︒彼等は海賊であると同時に商人であった︒彼等の墓には秤皿と共に戦斧と創とがゐかれている︒彼

等は英国の・海岸に欧洲の北方と西方地域との産物並に東洋の特産品をもたらした︒彼等は黒海及びカスピ海沿岸地方へ

の通商路を発見し︑又コンスクンチノ1プルやアジアとも通商関係主樹立した︒来印度への海路の発見やイタリア諸都

市の日勤より︑もっとけ十い時代に︑パルト海とアラビアとの同にロシアの大河(ドニヱアル河等)に沿って通商路が閃

かれていた︒かくてスカンジナピアは︑アラビアの産物とカスゼ海沿岸諸国の商品の主なる集散地となった︒英国が銀

貨ど鋳造するために佼った求方からの銀は︑スカンジナピア経由であることは明かである︒

英国とノルマン地万

2Z Z2

岳)との問に外国貿易が盛んに行われたことは︑ゴlトランドハの

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1

uにかたりの萱の初期の英国貨幣が発見されたことによって実証され得る︒デlン人の移住民が英国の貿易

に与えた功績の中で故も価似あるものは︑新しい通商路主附いたとゅうととよ・0も︑むしろ従米英国人が知らたかった

船乗としての智識と熟練とを彼等に伝授したことである︒アングロ・サクソン民政白身は本来航海に到しては殆んE

味を示すことがなかったのであって︑結束生活については不慣れであった︒事実︑アルフレヲド大王が海軍を制定した

(5)

(時に︑その釆組員は少くともフリーズランド人ハフリーズ一アシドはオランダの北部up使

によって︑海を越えて三度情海した商人は豪族ペ岳ぬロ

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の地位に列せしめるとゅう国王の勅命は︑その当時悦海に

ついての功絞が如何に高く評価されたかを示すものである︒スカンジナピア民族が造船技術上にもたらした諸革新は︑

彼等をして近代造胎術の建設者として仰がしむるに足るものがあった︒彼等によって尽の時や荒海の坑海に堪え得る姑

.舶の辻造が可能と怠った︒かくてデIン人の移住は英国の造船・菜に刺戟を与えたのみならや︑英国民に堅忍不抜た且つ

早川気ある要素を導入した︒かかる要素は海上C活動に沿いてその精力のはけ口を見出したのである︒かかるやり方で︑

lン人は商業上並に海上の回大国としての英国の偉大さの基礎を形成するに貢献した︒

( 四

1︿?lO

一 ニ 五 ﹀

ノルマン人の移住の結果として︑英国の外国貿易は急速に発展し始めた︒それまでは外国貿易は大陸の最も近い近隣

地方に限られていたが︑今や貿易関係はスカンジナピア地方ゃアイスランド︑グリーンランドとさえも閃かれ︑間接的

にはアラビアや極東地方とも問かれた︒カヌ1ト王は英国商人が海外旅行をなす場合の安全を確保するために色々の手

段をめぐらした︒彼は臣民に討する一文書中で次のように書いている︒﹁私は来フランク王国皇帝やロlマ法王やロー

マの貴族連に均して︑私の臣民である英国人やデンマーク人の希望がかなえられるように交渉した︒即ち︑臣民達がロ

ーマに行く旅行に於いて︑より以上の公平な正義とより以上の安全性とが与えられんととを要望し︑又彼等が途上での

多くの障害や不当の税金(件︒口白)によっ℃苦しめられるととがないととを要望した︒﹂

若しカヌ1ト玉が必設した大デンマーク王国が永続したならば︑英国は永久的にその運命を北方ヨ1ロヅパと共にし

たであろう︒そして南方ヨ1ロヅバ勢力と商業活動とから︑多くの世犯にわたって孤立したであろう︒若しそうなっ℃

いたら︑それは明かに不運であった︒何となれば︑スカンジナピア民放が発揮した輝かしい活力は問も友く消耗され︑

全く消え去ったからである︒しかも将来の運命は南方ヨーロッパと結びつけられていたからである︒ノルマン人の没落

と運命を共にするととから英国を救ったものは︑ノノルマン征服

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(6)

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が西欧諸国に遺産として伝えた大なる文化の華を英国も享石ずることを可能ならしめた︒

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英国に於ける外国商人

中世の一初刊切には英国貿易の支配権は主とし℃外国商人の子中にあった︒彼等は英国に永住するためにやって来たので

わたくて︑英国と諸外国との問の中間商人として来往した︒しかし乍ら︑彼等の歴史は英国の都市行政当局と長期にわ

たる不断の闘争の記録である︒市民連は彼等が英国の諸港に来るのを妨げようとはしなかった︒何と怠れば︑英国人が

輸出入貿易業を営み得るようにたるまでは︑英国の物産を外国商品と交換し得る方法が外に泣かったからである︒しか

し市民達は外国商人を特定の許可を得た英国商人

( g OHととの問の卸売取引にのみ制限した︒そして彼骨ちの宮白色可包

等を英国商人の問で取引するを許さ宇︑且つ英国の消費者との問︒小売収引を詐さたかった︒換一一一一目すれば︑園内商業は

英国人む手中に握り︑外国貿易のみを外国商人に詐さんとするにあったoとの政策は国王や貴族の利益と街突したo

等は大地主として大陸の商人と直接に取引し︑自国の物産を彼等に売り︑その代りに輸入品を彼等から購入することに

よって︑英国商人の中間的利益を排除せんと欲していた︒との利益の筒突は一二九O年のロンドン市民の請願書に討す

る国王の返答によって一不されている︒彼等は国玉に到して次のように訴えた︒外国商人はロンドンでの取引によって︑

本国商人よりも多くり利益をあげている︒何となれば本国商人は彼等や一貧困に陥れるととろのすべての財政上の主荷を

負姐せねばならないからである︒外国商人は問︒日以上英国に滞在すべきでわ泣く︑又市民に到してのみ売るべきでb

る︒かくて彼等がすべての利益乞英国から持ち去ら怠いようにし泣ければたらたい︒それに封ずる国王の回答は英国商

人に不利であった︒国王は彼等を排除するととに同意したい︒何とた札ば彼等は交族階級にとって便利で且つ布川だか

幾世紀の問︑英国の商栄は市民と外国人との問の利害の街突に基く絶えざる争によって︑その発民主妨げられてたた︒

小売商栄の独占権を確保し又外国商人と消究者との也接の接触を妨げんがために︑市民は一定の法泌を制定することに

努めた︒即ち︑外国商人は凶O日より長い期間英国に滞在しτわ怠らたい︒そして英国人の病舎に泊らねばたらぬ︒そ

(7)

の宿の主人は外国商人の商取引をすべて監視したければたらぬ︒外国商人は小売取引を許され宇又他の外国商人との以

引も許され泣い︒既に十二世紀の前半に︑外国商人は小売販売や伺一都市に問︒日以上滞在するととを禁止された︒一

00年にエドワード一世が外国商人の状態に関して報告を求めた時に︑ロンドンの市川町は次のように宣一一目した︒外国

商人はその商品を貯蔵するために借入れた家屋に住むことは詐されやノ︑又その家屋に他の外国商人を泊らせるととも許

されていたい︒彼等は市民の家屋に居住せねばたらや︑その期間は問O日を越えてわなら泣い︒その期間内で商品を売

るべきである︒

長一初市民の主校は成功し︑都市の特許状

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吋)中に自治権に関する条文を挿入した︒一一八八年のプリストル二Z

一九二年のダプリン︑一二三二年のウォーターフォード︑一二五三年のドロググの各都市の特許状は︑外国商人は問︒

日以内に商品を売さばくべきことや︑年市(同巳

2)

を除いて︑小売で布同却を売るととを禁宇るとと

‑ f ︑市民でたい者か

ら獣皮︑穀物︑羊毛を買っτわ訟ら訟いことを命令る条文を匂合している︒かくてロンドンのみが外国商人に釘して︑

取引の自由を制限していたわけでわ泣い︒その当時︑英国内で故

Jb

多く外国人が集中していたのはロンドンであった︒

( )

外国商人代対するエド

71

ド一世の政策

外国商人︒滞在期間についτは︑時々特定の外国都市からの商人に有利なように例外規定が設けられた︒ハンザ同盟

は特権的地位を享有した︒ヘンリ1一二世時代にロンドンは一二三七年に︑ノルウイγチは一二八六年に︑アミアン及び共

他一・この都市の大青染料︒商人と協約を結び︑彼等が欲するだけの矧問︑都市に滞在するととができ︑且つ外国人

たると英国人たるとを問わ宇︑何人にもその大青染料を売るととができるようにした︒再びへンリl三世は一二六O

にドウヱハロ

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C人々におして︑彼等がその商品を輸入することができ︑関税を支払った上で︑自由に英国に来住

し︑滞在するととができるように許可を与えた︒彼は又商人選が従来の関税を支払うことによって︑英国の如何怒る港

にもブドウ泊をもたらすための安全通行証を与え︑同時に(一二三六年)彼等のブドウ泊を国王自身の使用のために取

り上げ泣い旨を約束した︒又他の人々がそれと同じことを注すのを許さ伝い旨を約束した︒しかしエドワード一世は特

英国中世の外同貿易

(8)

四 国 亀

格的都市の独占権を破ろうと熱心に試みた最初の国王であ・った︒

彼の即位に討してロンドン市民は大たる喜びをあらわした︒﹁市民は窓から金や銀をばらまき︑誰でも欲する者には

拾わせた︒チ1プハ地名︺の一方の側の溝渠には白プドウ沼が流れ︑他の側には赤プドウ沼が流れたo﹂しかし国王はヱ

レアノlル女王の処置に封ずる反感によって或程度動かされて︑ロンドンの諸特権を停止し︑外国商人に封してかなり

の好意を示した︒父へンリlC在世中にずら︑エドワードは外国商人に封ずる彼の関心を示した︒そして一二六六

年に彼等をその保護の下に語いた︒しかしエドワードの行動は全く私心がたいわけでわ泣かった︒何とたれば︑外国商

人は彼の好意に封して代償を支払わねば注らたかったのであって︑その金額についてフランスの国王から抗議が発せら

れた︒又彼の即位後︑彼等は国王に封し℃金を貸した︒二一八五千に彼はロンドン市の支配権を掌握し︑十三年間に

わたって︑ロンドンの自由権を停止した︒それを後で復活したが︑その機会に外国人に到して大怠る程度の自由を与

えた︒彼の治世の末期に︑外国人と王室との問に新しい金融関係の基礎を樹立した︒有名訟の常Z

2g

ユ"は関税g

を定め︑同・時に外国人に釘して︑英国人たると外国人たるとを問わや︑それらの人々との問に卸売取引を結ぶととを許

し︑叉彼等が欲するところは何処にでも居住す右ととを許した︒とのととはロンドン市民の嫉妬心を刺戟し︑彼等は市

の新しい税関吏の任命を拒否するととによって彼等の不満を表明した︒

( )

1ド二世の政策

エドワード二世は父王の政策を︑父王の上うに強力に遂行するととは彼の力を以てしては困難であるととを知った︒

Uの管理の下に公かれ︑立法院会

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52 )

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52 BP

新関税制度)を非難し︑外国人は﹁古来の慣習に従って﹂支配さるぺきととを命じた︒この文一一一口は故意に漠(

然と苦かれたととは明かであるが︑ロンドン市民はその意味を明確に知っていた︒エドワードがスコットランド地方

(Z

岳)にガヴェストン門人名︺を救援するために引を進めている数坪・問に︑市ほんは玉の不在を利用して︑外国人が問2

︒日以上滞在するととを禁止し︑又ガスコ1一一ユの商人が︑他の外国商人にプドウ沼を売ったとC理由で︑そのプドウ

(9)

沼ヂ一波牧した︒一三二二年に議会はエドワードの下に王様を復活させ︑又Z04斜 ︒

52 gp

は復活した︒彼は治世の最

後の年に新しい産栄汁画に乗り出した︒しかし彼の計画の遂行に当つては︑外国商人は英国への出入国については国王

の保護を交け︑且つ何人ら彼等に生口を与えるととを禁止する旨を宣告した︒

( )

71

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一 一 一 一

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一 一 一 一

七 七

の政策

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エドワード三世の治世は英国の商工業の歴史に重要注地位を占めている︒その時代は政治上並に商業上の多数の実験

によって満ちている︒その時代は長い破滅的危百年戦争を開始したが︑英国貿易の発展.に著るしい足跡を残している︒

政治家の忠忽が彼の行動によって判断され得る限り︑エドワード三世は後代の重商主義の政治家達に北ぺて︑比較的門

戸開放政策的危出栄政策を採用したように忠われる︒彼は外国人に封して奨励を与えたとゅうのは.一一回に於ては諸外

国と向型炉一結び且つ大陸にまで英帝国を拡大せんとする彼の政策を有利たらしめんがためであり︑他国に於ては物資を

豊富にし︑且つ廉価伝らしめんがためである︒

彼の治世の最初の年に議会は外国人に不利伝詰願をした︒そとでエドワードは外国人は問O日以内にその商品を売り

且つ英国人の宿に滞在すべきととを命︑下る特許状をロンドンに与えた︒しかし一三五五年に一の法律が発布され︑商人

は特許地たると否とを間一わ宇︑すべての場所で自由に取引し得るのであって︑それに反するすべての﹁特許状や慣習﹂

は無視して差支えたい旨を規定した︒然るに二年後にはロンドンは﹁市の自由と慣習とを害する﹂法律の存在にもかか

わらや︑その特権を保護する特許状を得た︒それにもかかわらやエドワードは︑外国人は輸出入貿易のために必要であ

るばかりで伝く︑国内の資源開発のためにも必要であるととを確信していたととは明かである︒彼は外国の織物工の来

住を奨励した︒又外国の時計エも招聴した︒一三四七年には外国人であるF

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1

で錫の売買の独占格をもっていることが不平の根拠とたった︒四年後(一三五一年)に一三三五年の法令が更新され︑

取引の完全紅白山がすべての尚人にLAゴえられた︒ロンドンは市民が特権を喪失したために︑多くの人が市を立退いて他

︒土地に移位し・泣ければたらたく怠ったことを繰返し訴えた︒一三六七年に国王は外国人の小売取引を禁止するととに

貿

(10)

同意させられたが︑その翌年に彼はロンドンの奉行(回

ZZ

止)に一三五一年の法律を遜奉するように布告を発するとと

を命じたoとのととを奉行は敢えてなし得たかった︒ロンドン市民の怒は械度に達し︑或る男が外国商人は市民と同様

に自由に取引するととを許されたとの誤った報知を弘めたとゅう理由によって︑曝台に立たされる処罰を一党けたほどで

彼等の好機会は一三七六年のの00

弘吉長

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同(善良議会)に於いて到来した︒その時エドワード三世がつくり上げ

た政府の組織が崩壊し︑国内のすべての不平分子はその不平のはけ口を見出したo彼等はロンドンが貧困化されつつあ

り︑且つ外国のスパイによって英国の秘密が曝録されつつありと主陀抗したoとれは明かに単怒る口実にすぎたいのであ

って︑愛国的見せかけの下に彼等の目的をカ今ラージュぜんとしたものである︒しかし彼等はその目的を達した︒一

の特許状が彼等に与えられた︒そして彼等の敵であるジョン・オプ・ゴ1シトの影響の下に選挙された一三七七年の議

会でさえ︑彼等の独占権については何等触れることが泣かった︒

( )

η

1ド二世下のロの内託yy

リチヤード二世の即位と共に混乱した且つ面倒訟関係が生じた︒政府の政策は年一年時鈍化したように忠われる︒しか

しとの時代の中心点は明かに次の事実である︒即ち︑との時代を通じてロンドン市民間の党派的闘争は国民的性格を帯

びて居り︑しばらくの問︑議会の行動の方針を決定したことである︒リチヤードの治世中には︑ロンドンのギルド問の

争と議会の政策とを結びつ庁ない訳にわ行か友い︒食料品のギルドは国王の味方であり︑他方非食料品のギルドは自由

商業を主張し︑ジョン・オプ・ゴ1ントが率いる国王の反封党と結びついていた︒彼等が覇権を獲得ぜんとする闘争に

於いて︑その時代の勤格常泣き政策を理解するととができる︒一三七七年の九月に食料品商人の指導者であるプレムプ

ルが市長であった時に︑その商人達は国王に金銭を貸付けた︒そのために十二月に国王はロンドンとノルウイヅチとの

マ腕に応じて︑外国人主小売商業から除外した︒これらの特許事項を確保せんがために色々の千段がとられた︒市内に

商品をもって来た商人を取調べ且つロンドンの諸特権が彼等のために侵害され訟いように監視するために冨

52

(11)

住命された︒しかし数ヶ月後︑一三七八年の九月にゴlントがロンドンからはたれた場所のグロ1スターで議会を開い

た時に︑そとでロンドンの独占権が廃止された︒﹁多くの理由によって︑外国商人が王国内に来往するのは極めて有利

である︒﹂との理由にもとづいていた︒外国人はあらゆる種類の商品を卸売で売買する白山と︑小さい商品と食料品と

を小売で売買する白山を許された︒又外国人同志互に取引するととも許された︒

一三八一年と一三八二年にプレムプルの敵手であるノ1ザムプトンが市長になった時に︑議会は再び外国人の諸特権

を確認した︒魚煩商の憤怒の大さは︑一三八一年の恭勤の時に︑魚類商の指導者中の或者が︑ーその暴動を暗に奨励した

ととによって推測され得る︒彼等は市内に叛乱をひき入れたととによって告発されさえした︒外国人を有利に取扱うこ

とは︑市内に大き伝動格を捲き起した︒その反針運動の閉さは︑談会に提出された詰願書がそれを証している︒下院は

市民の聞に平和が回復するために︑ロンドンがその特権を完全に回復すべきことを願った︒議会からの返答は与えられ

た︒即ち︑市民はその特権を保持すべきであるが︑市長の支配に股さねば伝らない︒但し︑外国人に封ずる諸自由権は

除かれる︒ノ1ザムプトンが二年間その地位を保った後に失脚し︑一三八三年九月にプレムプルが市長に選ばれた︒そ

して彼の地位を﹁ロンドンの或程の子工業者の強い千によって﹂維持した︒その直後︑十一月にロンドン人は新しい特

許状によってその独占権を回復した︒

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o v p E E

ZB 02

は︑プレムプルや国王覚員の数人を処罰したが︑外国人に討する諸特権を回

復した︒それにもかかわらや︑風汐は外国商人に逆汐に向い始めた︒一三九O年に詰願寺が提出された︒それは英国に

来る外国商人は︑英国商人が外国で取扱われるのと同じ待記を一父くべきであると主民するものであった︒とれは十五世

紀を通じての排外党の以誇であった︒しばらくの問︑国王の回答は排外先にとっτ不利であった︒外国商人は﹁よく丁

寧に且つ正しく辺せらるべき﹂であるとした︒それ故︑彼等は英国により勇んで来たであろう︒しかし一三九三年に国

王は外国人に有利忽以扱を廃止する自信をもち︑彼等に到して一件び昔の諸制限を加えた︒ロンドンの商人は十四世紀ο

央以後︑宮と勢力とを次第に増大しつつあった︒彼等は国王の特許状を得るととによって︑その社会的地位を高め︑強

間訟ものにした︒今や彼等は事態が示しているように︑闘争を彼等に有利伝ように展開し︑国王に討して彼等の希望を

英国中世の外周貿易

一 一 一 五

(12)

一 一 一 六

強制し得る地位に達した︒

( 十

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1王朝の政策

1四世は財政困難のためにその権力を弱め︑商人階級の要求に到して抵抗することができたいようにたった︒

r問︒四年に︑外国商人は英国商人が他の国々で受けるのと同じ取扱を交くべきととが立法化された︒彼等は彼等相互

の問で商品を売買することを禁止され︑入国後三ヶ月以内に商品を売ることが要求された︒又彼等が儲けた金は英国口問

を買うために究さるぺきことが要求された︒しかし︑その翌年に︑三ヶ月以内にその商品を売るぺしとゅう規定は︑イ

タリア商人の詰腕によって廃止された︒ヘンリl五世は党玉の政策を遂行した︒そして一間一三年と一四一六年に外国

人を排斥する政策が確実にさ︐れた︒しかし次の治世には︑外国人を排斥する法律が実行され泣いとゅう不平を訴える請

願首の長い流れが見出される︒一間二七年に下院は︑外国人に関係ある諸法律がよりよく守らるべきととについて︑強

.

後期のランカスタI王朝の統治の不人気の原凶の一は︑外国商人を排斥する法律を実行するのを怠ったからである︒

その政策は商人階級を王室から離同せしめ︑ロンドン市の王室に到する愛渚を弱くした︒叶

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︒ ︒ 町 何

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‑ u吉宮は十四世紀以来︑繰り返し不平を述べている︒そしτ海外の英国人は英国内の外国人よりも悪い待迎を叉け︑

プラパンでは英国高人は十四日以内にその商品を売り︑物資を買入れねばたらたいととを嘆いている︒一四五二年に出

版されたヨlク王朝時代のバンフレγ

O

Bg Ra

gg回は︑商業問題が既に政治問題に影響するように怒っ

たととを示している︒﹁第二一の条項であり︑嘆くべきことは次のことである︒イタリア商人やハンザ商人等は長い間滞

在することが許されて庇り︑又彼等が欲するままにその商品を売るととが詐されているととである︒﹂

リチヤード三世は人気を得んがために努力を惜ま泣かったが︑一つの法律令一通過させた︒それは外人に討する小売取

引や滞在期間についての以前の制限を復治した︒この場合︑期間は問︒日から八ヶ月に拡張された︒ヘンリl

外国人が他の外国人に到して売買を禁やる旨の特許状をロンドンに与えたけれども︑たの法律を廃止した︒十六世紀を

(13)

通じて︑外人民封する不平の戸は絶え宇存在した︒一五一四年の商人及び手工業者からの請願書は︑外国人は英国に一

ヶ月だけ滞在すべきととを要求している︒ロンドンの靴工は︑彼等の競争相手である外国人の靴工を次のようたばかば

かしい理山で攻撃している︒﹁との王国内のすべての人民がまやかし物の靴を使用して︑大なる損をしているのを見る

のは甚だ憐むべきととである︒﹂

( )

外国人の宿合

外国人に反討する法律︒立法に封して運動するととは市民遠の計画の一部分にすぎ伝かった︒他の部分は外国商人を

英国人の宿主の管理の下に訟くととによって︑排外的訟法律を実行せんとするものであった︒その宿主は客人に封して

責任を有し︑彼等の向取引の全部について立会った︒宿主は﹁宿泊している外国商人がもっているすべての商品につい

て庇視すべきとと﹂を宣誓したo

との制度は古いものであった︒何と怒れば︑十二世紀にへンリ1二世はセント‑オマ

l( po gR )

て︑彼等がロンドンの宿を自由に選択でき旦っそO商品を役人の監視を受けるととたく自由に販売し得るととを︑例作

的危特権であるとして許可した︒叉ドイツ商人にとって有利訟例外的特権が与えられた︒﹁ドイツ皇帝の人民に共通す

る法活は︑彼等がロンドンの市壁内で自由に欲するととろに宿泊し得ることである︒﹂しかし︑とのととは実行するの

が困難であった︒既に一二六九年に二O人の商人が︑彼等が彼等自身の秤を使用したとゅう理由や市ほんむ住宅に泊ると

とを担んだとゅう理由によって︑一︑000ポンドの罰金を探せられた︒一二八五年に外国人

22 門 官 0

2ろは︑市民

(

o E N g ω )

や外来人

(2 Hg gg )

むために宿屋C主人にたるととを法律によって禁止された︒

( )

右の制度の実施の困難

ロンドンは宿舎の制度を強制的にたさんと欲し︑外国商人に封して︑﹁今より後は︑彼等自ら旅宿を経営するを禁じ︑

且つ自由市民

28

0

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の宿にのみ泊るべきであって︑然らざる場合には︑彼等の不動産全部を淡牧すべきとと﹂を命

英国中世の外国貿易

一 一 一 七

(14)

一 一 一 八

じた︒一三七七年に他の請願者は﹁外国人は王国内に旅宿を持つべきでないとと﹂を主訟した︒十五世紀ρ初期(一四

O四年)に︑外国人が来住ぜんとする各都市の行政当局に︑それらの外国人を受容すぺき宿主を選定すべき義務を負ね

ぜるととによって︑との制度を有効な基礎の上に確立十んとする熱心な試みが+ほされたo外国人は﹁或る有名な家﹂

(8 go gg rz Z5 0)

に︑但しその家主の承諾があった場合に︑宿泊すべしとする要求は︑一間一一年︑一四一三年

及び一四二O年の詩願書で繰返し主張されたととろの主旨であった︒

一方︑一四二五年には﹁すぺての外国商人は︑到涜後十五日以内に且つその商品を販売する以前に︑宿主を定むべき

こと﹂が要求された︒又宿主の下に来てから問OB以内に︑その商品を販売しなければならなかった︒市民速のかかる

努力のすべてが夫放に帰したために︑'一一四三二年に英国議会︒下院

2 r o s ︒ ︒

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(g as )

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に釘して︑彼等の管理下にある外国商人が自由な行動をとることを許した場合には︑外国人一人につき六0ポンドの割

合で罰金を課する旨の威嚇をなすにいたらしめた︒とれはあまりに行き過ぎであった︒翌年に議会は滞在の期間を三子

月に拡張し︑罰金主減額した︒即ち︑ロンドンの市長は監督不行届に到して四0ポンドの罰金を︑他の都市の市長はそ

の半額を課せられることになった︒しかし政府は依然として譲歩するととを担否し︑それに封する返答は常に﹁国王は

( F O B Z .

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とであった︒多くの犬敗の後に︑執劫な努力の給公︑一四三九年に下院は成功を牧めたよR

うに恐われるo下院は法典築の中に一四三九年度の次のような一法律を収めるととに成功した︒それによれば︑外国人

は八ヶ月以内のその商品を売らねばならないのであって︑しかも︑英国人の宿主の管理に服さねばならない︒その宿主

はすぺての取引について立会うべきであるとした︒との法律は大なる注目を浴びた︒それは八年間はよく保たれたが︑

その時代の人々はその法律が実行されたかったととを等しく認めている︒年代記編者ベlルは﹁諸法令は何等の効果を

もあげ得たかった﹂旨ω証言を書き加えている︒強制的宿主の制度はヨl

l

uとチユ1ドル王朝

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一 六 O

uの下でも残存し℃いた︒何と怠れば︑ノルウイッチは一間七五千に︑イプスウイッチは一同八二

年に︑ヤ1マウスは一間九一年にそれぞれ︑外国人は他の地方から来た外来者を病泊せしめては友らたい旨を命令して

0

(15)

(

外国人への課税

英国に居住している外国人の数は者るしい数に上っていた︒エドワード三世の一三間三年に外国人にも課税すべし

との提案がたされた︒との方法は反外人政策に一設するものであったが︑外国人にも国家財政の重荷を負強さすぺしと

泣す国民的感情によって促進された︒一四三九年に英国に滞在している外国人に封して︑一ヶ年十六ペンスの税金が探

せられた︒それから十年後には特別税

( E F

丸々)として︑外国商人に到して六シリング八ペンス︑そのす一同誌に二0

スが探せられた︒一四五三年には︑英国民居住している外国人は毎年間0シリング︑六週間滞在しているにすぎたい者

0シリング︑帰化した外国人は一0マルクが課税された︒

( )

金銀の輸出

外国商人が英国から金を流出させ且つ品位の低い貨幣を流通させることによって︑通貨の価値を減少さしているとゅ

う攻撃が︑彼等におして向けられるようにたった︒その不可避的危悪い結川市は︑既に一二九八年当時人々が英国内の通

貨を受取るととを担否し始めたことによって認められるようにたった︒そとで政府は何等かの釘策を立てねば怠ら泣く

たワた︒一二九九年の∞SEE

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80

2は︑エドワード二世時代のものと称される一つの法律によって補充

されたが︑それは何人も外国貨幣を輸入するのを禁宇ることによって︑右の弊害の根源を除かんとするものであった︒

しかし︑政府の主捻る目以は貨幣が英国から去るのを防がんとするにあった︒エドワード三世は鋳貨の輸出を防ぐ手段

fリズムを待じたG彼の行動は︑財宝の出品同積は国官の基礎であり︑その象徴であるとする後代の重商主義思想と何等関係が訟か

った︒英国は交換の千段として使用されるととろの賞金属︒蓄積が次第に失われて行くとゅう︐予忽によって驚いた︒何

とたれば︑アメリカの発見までは︑中世期を通じて黄金属の供給が不足していたからである︒

一三三五年に一法律は次のように規定した︒何人も﹁英国から金貨を持ち出してわたら泣い︒﹂又︑﹁如何怠る旅行者

ll経由以外の方法で︑王国から退去してわ伝ら訟い︒然らざる場合には一ヶ年の懲役に処せられる︒﹂と︒

英国中世の外国貿易

一 一 一 九

(16)

¥

一 一 一 一

O

その目的は彼等が金を国外に持ち出さ泣いようにするためである︒かかる法律の存在にもかかわらず︑貨幣O流出は中

絶すること泣く続けられたことは明かであった︒そのことが一三五一年にたされた抗議の根拠であった︒一三六四年に

他の法律が通過したが︑リチヤlド二世治下の一三七九年に︑国内で通貨が空にたりつつあるとの風評が一件び新にされ

た︒三年後に︑.通貨が国外へ流出して居り︑国内に残された通貨は品位が劣悪化しつつあるovbし針策が待ぜられなけ

れば﹁五シリング持って居ると思っている時に︑実際は四シリングも持たたい結果にたるであろうo

造局の役人が与えた︒岡山岳民仏﹀

u L o m z q

の忠告は次の上うであった︒英国から輸出される商品が良く正しく統制され

るたらば︑国内にある通貨は保持され︑海外から多量の通貨が流入するであろう︒即ち︑外国商品は︑国外に輸出され

る突国商品の価額よりも︑多量に輸入すぺきでわないとした︒それに応じて︑一三八二年に金銀の輸出を禁止する法律

が通過した︒リチヤlドの封策の動機は︑流通のために克分たる通貨の供給伊一得んとするにあった︒

通貨の輸出を禁宇ることは容易であるが︑それ乞防ぐことは困難であった︒一三九O年に一の安協策がとられた︒即

ち︑外国人は︑彼が収得した貨幣の半分は英国商品の購入に費やし︑他の半分は国外に持ち出してよいと定めた︒ヘン

リl四世門一三九九l一四二ニ︺は最初はこの計回を採用したが︑後では︑外国向人が英国内で叉取った貨幣は︑すべて

英国品の鯨買に費消すぺしと主張した︒ヘンリl五世の一四二O年に︑下院は再び貨幣の国外輸出禁止を訪腕した︒ヘ

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による支払を強制されや又銀による支払を担絶してわならないととや彼等は金設を英国から持出さ危いととについての

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を立つぺきととを命ぜられた︒その後の治世・(一四六五︑一四七八︑一四八九︑一五一O)

右の禁令は反覆された︒ヱリザペス女王の治世に於い︐てすら︑外国商人が与えられた三ヶ月以内に︑金銭を突って了う

ととが必やしもできるものでわないとの不平を訴えたととが知られている︒

(

外国人に対する迫害

外国人に封する敵意は多数の暴動や騒援となっ︑てあらわれた︒それらの暴動は主として利害の封立する敵手によって

参照

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