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〈研究ノート〉中世都市ハンブルクの市民協定

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Academic year: 2021

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(1)中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. 中世 都 市 ハ ンブル ク の市 民 協 定. 蒜旧. 不. 目. 次. 1.学. 問 的 な対 象 と して のハ ンブ ル ク市. 2.ハ. ンブル ク史. 3.ハ. ン ブ ル ク 史 一 近 代 ・現 代 一. 4.「. 格. 兀. 中 世 ・近 世. 市 民 協 定(B廿rgerrezess)」. 5.市. 民 集 会(BUrgerversammlung)と. 6.結. び に代 えて. 1.学. 市 民 委 員 会(BUrgerausschuss). 問 的 な 対 象 と して の ハ ンブ ル ク市. 北 ドイ ツ の 港 町 で あ る ハ ン ブ ル ク 市 は,世. 界 的 に,そ. く知 られ た 都 市 の 一 つ で あ ろ う 。 特 に 大 阪 市 は1989年 は 友 好 都 市 の 関 係 に も あ る か ら,他. して わ が 国 で も よ. 以 来 ハ ン ブル ク市 と. の 都 市 に 比 べ れ ば,大. 阪 で は,ハ. ンブ. ル ク 市 は さ ら に 馴 染 み の あ る ドイ ツ 都 市 と も 言 え る 。 し か し,こ の こ と は, 多 くの 大 阪 市 民 が ハ ン ブ ル ク 市 の 文 化 や 歴 史 に つ い て 熟 知 して い る と い う こ と を 意 味 す る 訳 で は な い 。 逆 に,ハ つ い て 知 識 が あ る か と 言 え ば,こ ら,大. ン ブル ク市 民 の どれ だ けが 大 阪 市 に. れ も ま た 心 許 な い 。 実 は,恥. 阪 市 民 で あ る 筆 者 自 身 も ま た こ の よ う な 市 民 の1人. に 筆 者 は,1986年. 以 来,何. 度 も 彼 の 地 に 滞 在 し,現. い て か な り熟 知 して い る つ も りで あ っ た が,し ク 市 に つ い て の こ と で あ り,同. ず か しな が. で あ った 。 確 か. 在 の ハ ン ブル ク市 につ. か しそ れ は 最 近 の ハ ン ブ ル. 市 の 歴 史 に つ い て は 断 片 的 な 知 識 しか 持 ち. 合 わ せ て は い な か っ た 。 な ぜ な ら,筆. 185. 者 は,自. 分 の 研 究 対 象 で あ る リュー.

(2) 近畿大学法学. 第60巻第1号. ベ ック法 や マ ク デ ブル ク法 の 研 究 の た め にハ ン ブル ク市 に滞 在 して い た に す ぎず,そ. こ は,極 論 す れ ば,筆 者 に と って 情 報 収 集 と生 活 の 場 で しか な. か っ たか らで あ る(1)。 た だ し,ハ ン ブル ク法 につ いて の 筆 者 の 無 知 は,無 論,我 が 国 に お いて ハ ンブル ク史 研 究 が 全 く存 在 しな か っ た と い う こ とを 意 味 す る もの で はな い。 一 般 史,特. に社 会 経 済 史 で は,ハ ン ブル ク史 につ いて 着 実 に歴 史 研 究. が 積 み 重 ね られ て き た。 第 二 次 世 界 大 戦 後 で あれ ば,例 え ば,高 村 象 平 教 授 の ドイ ツ ・ハ ンザ 史 研 究 に代 表 され る よ う に,そ の 研 究 蓄 積 に は見 るべ き もの が あ り,現 在 で も,そ れ は斯 波 照 雄 教 授 に よ って 受 け継 が れ,教 授 はハ ンブル ク市 に視 点 を 据 え た社 会 経 済 史 研 究 を 着 実 に進 めて お られ る。 しか し筆 者 が 専 門 とす る法 制 史 の 分 野 に 目を 移 す と,最 近 で は 中世 都 市 法 研 究 の 退 潮 傾 向 も あ り,ハ. ン ブ ル ク法 研 究 は ほ と ん ど看 過 され て き た と. 言 って も よ い。 無 論,そ の 責 任 の 一 端 は,近 隣 で しか も法 的 な 関 連 も あ っ た リュー ベ ック法 研 究 に取 り組 ん で き た筆 者 に も あ る。 ハ ンブル ク法 研 究 に対 す る関 心 の 低 さ は,我 が 国 の み な らず,実. は ドイ. ツ に お いて も ま た妥 当す る よ うで あ る。 リュー ベ ック法 や マ ク デ ブル ク法 研 究 の 伝 統 と その 豊 富 な 研 究 成 果 に比 べ れ ば,ハ ン ブル ク法 につ いて の 法 制 史 的 な研 究 は多 くはな い よ うで あ る。 ドイ ツ の どん な片 田舎 の 町 で あ れ, そ こ に住 む 住 民 が 彼 らの 町 一 都 市 法 も含 めて 一 の 歴 史 を しば しば 自慢 げ に 語 る と い う話 は よ く耳 にす るが,ハ. ン ブル ク市 民 か ら,そ の よ うな 話 を 聞. くこ と は一 特 にハ ン ブル ク法 につ いて,そ. して 筆 者 の 経 験 で は一 あ ま りな. い。 後 述 す る よ う に,ハ ン ブル ク に は誇 るべ き市 民 自治 の 伝 統 が あ る に も か か わ らず,で あ る。ハ ンブ ル ク市 民 の謙 虚 さ と い うべ きな の で あ ろ うか。 で は,筆 者 は ど う して ハ ン ブル ク法 に 目覚 め たの か,と 言 え ば,正 直 に 告 白す れ ば,こ れ は偶 然 の 産 物 で あ る。 筆 者 は法 学 部 で 西 洋 法 制 史 ゼ ミを 担 当 して い るが,ゼ. ミの テー マの 一 つ と して 中世 都 市 法 研 究 を も っ と活 用 186.

(3) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. で き な い で あ ろ う か,と し ば,中. 常 々 考 え て い た 。 な ぜ な ら,法. ば. 頃)を. 世. 世 盛 期 に は ザ ク セ ン シ ュ ピ ー ゲ ル(1220-35年. 制 史 の 場 合,し. 末 期 に は 金 印 勅 書(1356年),近. 世 に は カ ロ リー ナ 刑 事 法 典(1532年),18. 世 紀 に は プ ロ イ セ ン ー 般 ラ ン ト法(1794年),近 (1850年)と,そ. 扱 い,中. の 対 象 が,そ. 代 に は プ ロ イ セ ン憲 法. の 成 立 す る 場 所 か ら見 れ ば,ま. る で ドイ ツ ・. オ ー ス トリアの あ ち こ ちを 彷 裡 って い るか の よ う に見 え るか らで あ る。 こ こ に 不 満 を 感 じて い た 。 ど こ か 一 定 の 場 所 に 視 点 を 据 え て,そ. こか ら法 の. 歴 史 を 辿 る こ と はで きな いか 。 いわ ば地 に足 の 付 いた 法 制 史 を 考 え て いた の で あ る(2)。ど の よ う な 田 舎 の 都 市 で あ れ,そ. の歴 史 は ど こか で 必 ず 大 き. な 法 の 発 展 と も係 わ って い る はず で あ る。 この よ うな 方 法 が 法 の 発 展 を 理 解 す る う え で は 有 効 な 手 段 で は な い か と 考 え て い た 。 た だ し,学. 部のゼ ミ. と して は ど う して も 解 決 して お か ね ば らな い 前 提 条 件 が あ っ た 。 参 加 す る 学 生 の 関 心 を 引 き つ け う る よ う な 魅 力 の あ る 都 市 で あ る こ と,す ① 中 世 に お い て 重 要 な 都 市 で あ っ た だ け で な く,② 様 に 重 要 な 都 市 で あ る こ と,で. な わ ち,. 現 代 にお いて も また 同. あ る。. こ う して 数 年 前 か ら,こ. の よ う な ゼ ミを 開 始 した 。 フ ラ ン ク フ ル ト ・ア. ム ・マ イ ン を 始 め と し,い. くつ か の 都 市 を 取 り上 げ た 後 に 一 ま さ に 一 た ど. り着 い た の が ハ ン ブ ル ク で あ っ た 。 ハ ン ブ ル ク の 魅 力 は. ① 中世 にお いて. 事 実 上 自 由 帝 国 都 市 と 同 等 の 自 治 が 展 開 して い た こ と,②. 現 代 で も1つ. 州(都. 市 国 家)と. な お か つ,経. して か な り広 範 な 自 治 が 認 め られ て い る こ と,で. 済 的 に 日 本 と の 関 係 も 深 く,上. 市 で も あ る 。 幸 い に して,我 家 も お られ る 。 加 え て,前 と して い る か ら,ハ. 述 の よ う に,大. の. あ る。. 阪市の友好都. が 国 に は斯 波 教 授 と い うハ ン ブル ク史 の 専 門 述 の よ う に報 告 者 は長 年 ハ ン ブル クを 研 究 拠 点. ン ブ ル ク に は そ れ な りの 人 脈 も あ り,い. ざ とな れ ば資. 料 の 入 手 も 容 易 で あ る 。 ゼ ミの 対 象 と して は 真 に 好 条 件 が そ ろ っ て い た 。 ゼ ミで は,中. 世 か ら現 在 ま で の ハ ン ブ ル ク に お け る 市 民 自 治(市. 187. 政)の.

(4) 近畿大学法学. 第60巻第1号. 歴 史 を取 り上 げ る こ と に した。 実 際 に 中世 か らハ ン ブル クの 歴 史 を 概 観 し て み る と,自. 分 の 無 知 も さ る こ と な が ら,ハ. ン ブル ク史 一 特 にハ ン ブル ク. 法 史 一 に 関 す る ドイ ツ 語 の 文 献 の 少 な さ に も驚 か さ れ た(3)。そ う で は あ っ て も,ゼ. ミ生 と と も に ハ ン ブ ル ク 史 を 調 べ て い く 中 で,筆. クの 歴 史 的 な 意 義 を,そ. 者 は,ハ. ン ブル. して ハ ン ブル ク法 の 法 史 学 的 な 意 義 を 再 認 識 す る. こ と に もな っ た。. ・王 昌冨口. (1)中. 世 の ハ ン ブ ル ク 法 に つ い て 多 少 言 及 し た こ と も あ る が,そ. れ は,リ. ュー ベ ッ. ク法 や マ ク デ ブル ク法 の解 明 の た め の補 助 的 な 史料 と して論 じて い た にす ぎな い 。拙 稿 「3都 市 法 史 料 に 見 る ドイ ツ 中 世 都 市 法 の 基 本 的 な 特 色 に つ い て 一1270 年 頃 の リ ュ ー ベ ッ ク 法,ハ. ン ブ ル ク 法,マ. 生古希記念論 文集刊行委員会 編. グ デ ブ ル ク 法 の 比 較 一 」,佐 藤 篤 士 先. 『法 史 学 を め ぐ る 諸 問 題 」,敬. 文 堂,2004年,. 127-151頁Q (2)例. え ば,現. 在 の ニ ー ダ ー ザ ク セ ン州 を 対 象 と す る,そ. の 法 の 歴 史 を 概 観 した. 著 作 と し て,KarlKroeschell,rechtundeunrechtdersassen,RechtsgescichteNiedersachsens,G6ttingen2005.が (3)ゼ. あ る。. ミお よ び本 稿 で は 主 に,WernerJoachimundHans-DieterLoose(hrsg,),. Hamburg,GeschichtederStadtundihrerBewohner:Bd.1,Vonden AnfangenbiszurReichsgrUndung,Hamburg1982,Bd.2,VomKaiserreichbiszurGegenwart,Hamburg1986.とJ.Berlin(hrsg,),Dasandere Hamburg,FreiheitlicheBestrebungeninderHansestadtseitdemSp註tmittelalter,K61n1981.を. 参 考 文 献 と し て 利 用 し た 。 従 っ て,こ. の 学 問 的 価 値 が 既 に 一 例 え ば,後 の で は な い か,と. か. れ らの 文 献. 者 は 市 民 の 自主 性 に少 し光 を 当 て す ぎて い る. 見 直 さ れ て い る の で あ れ ば,本. 稿 の 研 究 価 値 も少 し影 響. を 受 け る こ と に はな るで あ ろ う。. 2.ハ. ン ブ ル ク 史 一 中 世 ・近 世 一. ハ ンブル クの 歴 史 を,法 史 学 的 な 観 点 か ら,特 に公 法 を 中心 に して 概 観 して み よ う 。. 188.

(5) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. (1)1188年. の新建設. ハ ン ブ ル ク の 文 字 自 体 は 紀 元 後9世. 紀 の 史 料 に 登 場 す る(Hammaburg)。. 当 時 既 に 城 砦 が こ こ に は 設 け られ て い た よ う で あ る が,都. 市的な集落 と し. て の 発 展 は12世 紀 以 降 に 始 ま る と さ れ る 。 そ の 当 時 の 中 核 部 分 は 聖 ペ ト リ 教 会 か ら一 そ の 隣 に は1806年 dom)が. に 撤 去 され る こ と に な る マ リ ア大 聖 堂(Marien-. あ っ た 一 現 在 の 市 参 事 会 庁 舎 辺 りま で の,い. で あ る 。 こ こ は,大 る 地 域 で あ り,こ. わ ゆ る 旧市 街(Altstadt). 聖 堂 か ら も 推 測 で き る よ う に ブ レー メ ン 大 司 教 に 属 す. の 大 聖 堂 に 属 す る 聖 職 者 や 農 民 等 が 居 住 して い た 。 当 時. の 生 活 状 況 を 推 測 さ せ る 考 古 学 的 な 史 料 は 存 在 す る が,そ. れ につ いて 記 述. し た 文 献 的 な 史 料 は な い よ う で あ る 。 後 に こ こ は 聖 ペ ト リ(St.Petri)教 区 と呼 ばれ る こ と にな る。 この 地 区 の周 辺 地 域 は,1110年,ザ genburg:1106-37年)一. 後 の 皇帝 ロ ー タル3世(1133-37年)一. ウ エ ン ブ ル ク(Schauenburg)家 ドル フ2世. ク セ ン公 ロ ー タ ル(LotharvonSUpplin-. に授 封 され た。 シ ャ ウエ ン ブル ク家 の ア. ホ ル シ ュ タ イ ン伯(1130-64年)は,1143年,バ. 近 い リ ュ ー ベ ッ ク の 新 た な 建 設 を 決 意 し,こ 周 知 の 如 く,同. 市 は 急 速 に 発 展 し,こ. れ を 建 設 企 業 者 団 に委 ね た 。 の封主で ある. 目に とま る こ とに な った。. の 家 系 を 受 け 継 ぐ,神. 1世 赤 髭 王(1155-90年)と. ル ト海 沿 岸 に. の 繁 栄 は ア ドル フ2世. ザ ク セ ン 公 ハ イ ン リ ッ ヒ獅 子 公(1142-95年)の 彼 は 皇 帝 ロ ー タ ル3世. によ って シ ャ. 聖 ロ ー マ 皇 帝 フ リー ト リ ッ ヒ. も並 び う る 有 力 な 封 建 諸 侯 で あ っ た 。1156年. 頃 リ ュ ー ベ ッ ク 市 は ア ドル フ2世. の 支 配 か らハ イ ン リ ッ ヒ 獅 子 公 の 支 配 下. へ と 移 っ た 。 公 は そ の 強 大 な 勢 力 の ゆ え に 皇 帝 フ リー ト リ ッ ヒ1世 し,や. が て は1180年. と対 立. に その ザ クセ ン公 の 地 位 も奪 わ れ る こ と にな った 。 し. か し リュー ベ ック市 は 再 び シ ャウ エ ン ブル ク家 の支 配 に 服 す る こ とは な か っ た 。 同 市 は,1188年,皇. 帝 に直 属 す る 自 由帝 国 都 市 とな った 。 お そ ら. く そ れ が 原 因 の 一 つ で も あ っ た ろ う が,こ. 189. の 年,ア. ドル フ2世. の後を継 い.

(6) 近畿大学法学. 第60巻第1号. で い た 息 子 の ア ドル フ3世 ル ク の 新 市 街(Neustadt)の 新 市 街 と は,旧 あ り,後. ホ ル シ ュ タ イ ン伯(1164-1225年)は,ハ 建 設 を 企 て,こ. 市 街 の 東 側,エ. ンブ. れ を 建 設 企 業 者 団 に 委 ね た(1)。. ル ベ 川 と アル ス ター 川 の 河 岸 の 低 地 部 分 で. に こ こ は 聖 ニ コ ラ イ(St.Nikolai)教. こ の 地 区 の 幾 分 小 高 い 部 分 が ノ イ エ=ブ. 区 と呼 ば れ る こ とに な る。. ル ク(NeueBurg)と. 呼 ば れ,こ. こ に遠 隔 地 商 人 が 定 住 す る こ と にな っ た。 こ の 新 市 街 に は,リ 入 さ れ,1195年. に は,聖. ュー ベ ックの 建 設 の 場 合 と 同様 の 市 参 事 会 制 度 が 導 ニ コ ラ イ教 会 付 近 に市 参 事 会 庁 舎 も設 置 され た。. 市 民 自 治 が こ こ か ら本 格 的 に 始 ま っ た 。. (2)13世 1201年,デ. 紀 ン マ ー ク 王 ク ヌ ー ズ4世(Knud:1182-1202年)弟. ス ヴ ィ ヒ侯 ヴ ァ ル デ マ ー(Valdemar)一 2世 勝 利 王(1202-40年)一. の シュ レ. 後 の デ ン マ ー ク王 ヴ ァ ル デ マ ー. が 南 下 し ホ ル シ ュ タ イ ン 伯 領 を 攻 め,ハ. ンブ. ル ク も その 支 配 に服 す る こ と にな っ た。 ヴ ァル デ マー はハ ン ブル クを 含 む 伯 領 を ア ル プ レ ヒ ト ・フ ォ ン ・オ ル ラ ミ ュ ン デ(AlbrechtvonOrlamUnde) 伯 に 授 封 し た 。 後 者 の 支 配 下 で も,ハ れ る こ と は な か っ た 。1216年 た 。 伯 は 市 民 に,か を,再. ン ブル ク市 民 の 自治 の 発 展 が 阻 害 さ. に はハ ン ブル クの 旧市 街 と新 市 街 は統 合 され. つ て ザ ク セ ン 公 ハ イ ン リ ッ ヒ獅 子 公 が 授 与 し た 特 許 状. 度 付 与 し た と さ れ る(2)。. 1227年,デ. ン マ ー ク の 支 配 も 終 了 し,ホ. ブ ル ク 家 の ア ドル フ4世. ル シ ュ タ イ ン は再 び シ ャ ウエ ン. の 支 配 の 下 に 復 帰 し た が,ハ. ン ブ ル ク 市 民 は,ア. ル プ レ ヒ ト ・フ ォ ン ・オ ル ラ ミ ュ ン デ 伯 の 統 治 期 に 獲 得 して い た 特 権 を も 基 礎 と しつ つ,さ. ら に そ の 市 民 自 治 を 発 展 さ せ て い っ た 。1241年,ハ. ンブ. ル ク は リ ュ ー ベ ッ ク 市 と トラ ー ヴ ェ 河 口 か らエ ル ベ 河 口 ま で の 交 易 路 の 安 全 確 保 に 関 す る 協 定 を 締 結 し た 。 こ の 協 定 は,ハ. 190. ン ザ 都 市 同 盟 の 結 成(14.

(7) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. 世 紀)の. た め の 一 つ の 出 発 点 と な っ た と さ れ る 。1258年. に は,ブ. レー メ ン. 大 司 教 も ま た ハ ン ブ ル ク 旧 市 街 に 対 す る 支 配 を 最 終 的 に 放 棄 した 。 都 市 君 主 で あ る シ ャ ウ エ ン ブ ル ク 家 か らの 自 立 も,同 判 権 の 獲 得,1325年 ル ク は,こ. 様 に,1292年. の 立 法 権 と裁. の 貨 幣 鋳 造 権 の 獲 得 に よ っ て 進 展 して い っ た 。 ハ ン ブ. の 時 期 に は リ ュ ー ベ ッ ク の よ う な 自 由 帝 国 都 市 で は な く,自. 都 市 と して 留 ま っ て は い た が,シ. 由. ャ ウエ ン ブル ク家 が ハ ン ブル ク にそ の 支. 配 を 直 接 及 ぼ す こ と は も は や な か っ た一 市 内 に は 伯 の 城 砦 は な い一 か ら, そ の 市 民 自 治 は リ ュ ー ベ ッ ク の そ れ と 大 差 は な か っ た 。 た だ し,リ ベ ッ ク 市 参 事 会 は,そ. の 内 政 的 な 問 題 の 解 決 の た め に,し. 権 威 と し て 皇 帝 の 権 力 を 利 用 し た こ と が 知 られ て い る が,後. ュー. ば しば政 治 的 な 述 す る よ う に,. ハ ン ブ ル ク 市 参 事 会 は 市 民 の 要 求 に 譲 歩 し続 け た 。 そ れ は 彼 ら 市 参 事 会 員 が,近. 世 に 入 る ま で,市. 外 に 頼 る べ き 権 力 と 権 威 を 持 た な か っ た か ら,な. の か も しれ な い 。 聖 ニ コ ラ イ 教 区 と 聖 ペ ト リ教 区 の 南 側 に,商 ネ ン(St.Katharinen)教 ろ う が,聖. 区 が1250年. 人 定 住 区 と して の 聖 カ タ リ. 頃 登 場 し た 。 お そ ら く,同. じ頃 で あ. ペ ト リ教 区 の 東 側 一 現 在 の 中 央 駅 の 西 側 に 一 本 来 は 城 外 地 区 で. あ っ た 聖 ヤ コ ビ(St.Jakobi)教. 区 も 配 置 さ れ,中. 世 の ハ ン ブル ク市 の. 一 現 在 で も そ れ は 市 の 中 心 部 を な す 一 外 観 が 完 成 し た(3) 。 市参 事会庁 舎 も,1290年. 頃,旧. (Ness/TrostbrUcke)角. 市 街 と 新 市 街 の 真 ん 中 と も 言 え る ネ ス=ト に 移 築 さ れ た 。 こ の 建 物 が1842年. ロ ス ト橋. の ハ ン ブル ク大. 火 災 ま で 市 民 自 治 の 中 心 的 場 所 と し て の 役 割 を 果 た し続 け る こ と に な っ た 。 市 民 の 自 治 制 定 法 と し て,1220年,ハ 人 々(Wittigeste)」. ン ブ ル ク 市 参 事 会 と 「最 も 賢 き. に よ って 最 初 の ラ テ ン語 に よ る法 典 が 作 成 され た と さ. れ る 。 しか し我 々 が 容 易 に 目 に し う る ハ ン ブ ル ク 都 市 法 は,1270年. に市 書. 記 ヨ ル ダ ン ・フ ォ ン ・ボ イ ツ ェ ン ブ ル ク(JordanvonBoizenburg)が 纂 し た も の で あ り,こ れ は,1497年. に 当 時 の 市 長 ラ ン ゲ ン ベ ッ ク(Hermann. 191. 編.

(8) 近畿大学法学 Langenbeck)に. 第60巻第1号 よ って 編 纂 さ れ た都 市 法 法 典 の 中 に収 め られ て い る。 ボ. イ ツ ェ ンブ ル ク の都 市 法 に は,ザ. ク セ ン シ ュ ピー ゲ ル ・ラ ン ト法 お よ び リ ュ ー. ベ ッ ク 法 に そ れ ぞ れ 類 似 し た 条 文 が 収 録 さ れ て い る 。 前 者 は,本 メ ン大 司 教 区 に 属 す る,農 と さ れ る 。 後 者 は,リ. 来 ブ レー. 村 的 な 要 素 の 強 い 旧 市 街 に お い て 妥 当 して い た. ュ ー ベ ッ ク 市 に 倣 っ て 建 設 さ れ た,遠. 住 して い た 新 市 街 に お い て 妥 当 して い た と さ れ る 。 こ の,2つ. 隔地商人の定 の 異 な る法. を 含 む 法 典 は 市 民 の 間 で 一15世 紀 に は リ ュ ー ベ ッ ク 市 で も 一 広 く普 及 し た が ④,ハ. ン ブ ル ク 市 参 事 会 は,む. し ろ1301年. のdatrodeBookと. 別 個 の 法 典 を 法 源 と して 活 用 し よ う と して い た,と よ う な2つ. の 都 市 法 法 典 の 併 存 が1497年. (3)14世. も言 わ れ て い る。 この. の ラ ンゲ ンベ ック に よ る都 市 法 法. 典 編 纂 に も 繋 が っ た と さ れ て い る 。 な お,市 れ た 判 決 は 都 市 帳 簿(libercivitatis)に. 呼 ばれ る. 参 事 会 の 裁 判 所 に お いて 下 さ. 収 録 さ れ た(5)。. 紀. フ ラ ン ドル や イ ン グ ラ ン ド向 けの 交 易 に代 表 され る遠 隔 地 商 業 の 発 展 も さ る こ とな が ら,同 世 紀 後 半 か らは,ビ ー ル 醸 造 業 が 盛 ん とな っ た。 彼 ら 醸 造 業 者 一 お そ ら く手 工 業 者 層 に属 して い たの で あ ろ うが 一 は外 国,特. に. ア ム ス テル ダ ム向 けの 輸 出 ビー ル 醸 造 家 屋 を 聖 ニ コ ラ イ教 区 や 聖 カ タ リネ ン教 区 の 低 湿 地 帯 に建 築 して い き,ハ ン ブル ク経 済 の 発 展 を 支 え る こ と に な っ た。1375年 頃 の 住 民 数 は5,000人 程 度 と され る。 市 参 事 会 を 構 成 す る市 参 事 会 員 は,基 本 的 に,遠 隔 地 商 人 で あ る上 層 市 民 か ら 自己補 充 選 挙 に よ って 選 ば れ て い た。14世 紀 の市 参 事 会 員数 は18人 。 こ の 内 の12人 が実 際 に 市 参 事 会 職 に従 事 し,残. りの1/3の6人. は,お. そ. ら く緊 急 の 時 を 除 いて,そ の 職 務 を 免 除 され て い た。 市 長 は4人 。 彼 らは 2人1組. とな って 交 代 で 市 長 職 を 果 た した。 市 参 事 会 に よ る決 議 や,上 記. の市 参 事会 員 選挙 の 結果 が 公示 され る場 が市民 集 会(BUrgerversammlung) 192.

(9) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. で あ っ た。 この 集 会 に は,市 民 権 を 有 す る住 民,す な わ ち市 民 権 者 は参 集 す る義務 が あ った。市 民 権 を持 た な い住 民 も参加 して い た可 能 性 もあ るが, 彼 らに も 出席 義 務 が 課 せ られ て い たの か は不 明 で あ る。 1375年,彼. ら市 民 と市 参 事 会 の 間 で 最 初 の 紛 争 が 発 生 した 。 同 じ頃 ハ ン. ブル クの み な らず,他 の ハ ンザ 都 市 で も市 民 闘 争 が 生 じて い る。 例 え ば, リュー ベ ックで は1380年 に 肉屋 商 蜂 起(Knochenhaueraufstand)が. 勃発. した 。紛 争 の主 た る原 因 の一 つ は いず れ の場 合 で も市 財 政 の 悪 化 で あ った。 これ に伴 う増 税 に不 満 を も っ た,市 参 事 会 に議 席 を 持 た ぬ 市 民,特. に手 工. 業 者 が 反 市 参 事 会 闘 争 に立 ち上 が っ た。 リュー ベ ック にお いて は流 血 の 事 態(1384年)と. な っ たが,ハ. ン ブル クで は,市 参 事 会 は,商 人 と手 工 業 者. の 要 求 に譲 歩 し,そ の 代 償 と して 手 工 業 者 組 合 に市 参 事 会 へ の 忠 誠 を 誓 約 させ る に止 ま っ た。 この 紛 争 は と りあえ ず 平 和 的 に収 拾 され た(6)。. (4)15世. 紀. 1375年 の 市 民 闘 争 の 平 和 的 な 解 決 に よ っ て,財 質 的 に 解 決 さ れ た わ け で は な か っ た か ら,上 の 平 和 的 な 解 決 も,一. 政 悪 化 と増 税 の 問 題 が 本. 記 の 市 民 と市 参 事 会 との 間 で. 時 的 な 休 戦 を も た ら し た に す ぎ な か っ た 。1408年,. 再 び リュー ベ ック に お いて 市 参 事 会 に不 満 を 持 つ 市 民 が 立 ち上 が った 。 彼 ら は 彼 らの 代 表 と して60人 を 選 出 し,こ. の60人 委 員 会 が 市 参 事 会 に 彼 ら の. 要 求 を 突 き 付 け た 。 い わ ゆ る 「市 民 委 員 会(BUrgerausschuss)」 れ た の で あ る 。23人 の リ ュ ー ベ ッ ク 市 参 事 会 員 の 内 の,4人. が結成 さ の市長を含む. 15人 が 家 族 と と も に リ ュ ー ベ ッ クを 脱 出 しハ ンブ ル ク に 避 難 した か ら,リ ベ ッ ク の60人 委 員 会 は,独. ュー. 自 に 市 参 事 会 員 を 選 出 し一 そ の 選 出 方 法 は 不 明. で あ るが 一 新 市 参 事 会 を 組 織 した。 こ の よ う な リ ュ ー ベ ッ ク の 展 開 に 呼 応 す る か の よ う に,ハ 1410年,市. 民 が 立 ち 上 が っ た 。1人. ン ブ ル ク で も,. の 市 民 の 市 参 事 会 に よ る不 当 な 逮 捕 を. 193.

(10) 近畿大学法学. 第60巻第1号. き っ か け と して,市. 民 は60人 か らな る 市 民 委 員 会 を 組 織 し た 。 た だ し,今. 回 も ハ ン ブ ル ク の 動 き は リ ュ ー ベ ッ ク と は 異 な り,こ の 退 去 も な く,市. こ で は,市. 参事会員. 民 に よ る新 市 参 事 会 員 の 選 出 も行 わ れ な か っ た。 その 代. わ り,ハ. ン ブ ル ク の60人 委 員 会 は,市. 参 事 会 との 交 渉 に よ って 譲 歩 を 引 き. 出 し,手. 続 を 経 ぬ 市 民 の 逮 捕 禁 止(第1条),お. い て は 市 民 の 意 見 を 聴 取 す(h6ren)べ (Mitspracherecht)(第6条)等. よ び 税,開. し と い う,所. を 定 め た,全. 戦 と和 平 につ. 謂 市 民 の 共 同決 定 権. 部 で20条 か ら成 る 協 定 を 市. 参 事 会 と の 間 で 締 結 した(7)。こ れ が 一 般 に 「最 初 の 協 定(DerErsteRezess)」 と呼 び慣 わ され て い る協 定 で あ る。 リ ュ ー ベ ッ ク に お け る 市 民 闘 争 は1416年 の 市 参 事 会 体 制 も 復 活 し,同. に 市 民 側 の 敗 北 で 終 わ り,旧. 市 が 再 び ハ ン ザ の 女 王 の 座 に 戻 る と と も に,. ハ ン ブ ル ク で も,翌1417年,上. 記 の1410年. の 市 民 協 定 は 破 棄 さ れ,ま. 人 委 員 会 も 廃 止 さ れ る こ と に な っ た 。 しか し,15世 会 の 対 立 が 再 燃 す る と,1458年,両 中 で,1410年. 来. 紀 半 ば,市. た60. 民 と市 参 事. 者 の 間 で 新 た に 協 定 が 締 結 さ れ,そ. の 協 定 の 主 要 部 分 で あ る,税. の. と戦 争 と和 平 に関 す る市 民 の 共. 同決 定 権 が 確認 され る こ とに な っ た 。 こ れ は 「第2協. 定(derZweiteRezess)」. と 呼 ば れ て い る 。 市 参 事 会 は こ の 頃 手 工 業 者 の 代 表 を 市 参 事 会 員 と して 一 お そ ら く初 め て 一 受 け 入 れ た よ う で あ る 。 同 世 紀 末 に は,今. 度 は 穀 物 価 格 の 暴 騰 と そ れ に 伴 う 暴 利 の 疑 い か ら,再. び 市 民 が 市 参 事 会 に 反 旗 を 翻 した 。 当 時 の 市 長 は ラ ンゲ ン ベ ッ ク(Dr.HermannLangenbeck:1452-1517年)。 し た 法 学 者 と し て 有 名 で あ る が,同. 彼 は,上 述 の よ う に 都 市 法 法 典 を 編 纂 時 に政 治 家 と して も忍 耐 強 い人 物 で. あ っ た よ う で あ る 。 市 民 の 側 の 首 謀 者 は 醸 造 業 者 の ヒ ン リ ク(Hinrikvan Lohe)で. あ る。 彼 は 市 民 の 各 層 か ら幅広 い 支 持 を 得 た。 ラ ンゲ ンベ ック も. 一 時 故 郷 の ブ ク ス テ フー デへ の 逃 亡 を 余 儀 な くされ たが. ,ヒ. ン リクを 支 持. す る 反 対 派 が 暴 徒 化 す る と 形 勢 は 一 気 に 逆 転 し た 。 多 くの 市 民 が 反 対 派 か. 194.

(11) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. ら離 れ,市. 長 ラ ンゲ ンベ ック もハ ン ブル ク に再 び呼 び戻 され た 。 反 対 派 は. 処 罰 さ れ,ヒ. ン リ ク も 後 に 処 刑 さ れ た 。 こ の よ う な 事 件 の 後,1483年,市. 参 事 会 と 市 民 と の 間 で 締 結 さ れ た の が 「第3協. 定(derDritteRezess)」. で. あ る。 この 協 定 は市 参 事 会 の 主 導 権 の 下 に締 結 され た よ うで あ る。 上 記 の 第2協. 定 の 中 の 手 工 業 者 に 有 利 な 条 文 は 廃 棄 さ れ,市. 約 も 義 務 づ け られ た 。 こ の 市 民 誓 約 は,1844年. ま で,市. 民 に は新 た に忠 誠 誓 民権取得の際の義. 務 と して 残 る こ と に な っ た(8)。. (5)16世. 紀. 1517年 か ら始 ま っ た 宗 教 改 革 の 影 響 を 受 け,1528年,ハ. ン ブ ル ク の4つ. の 主 要 教 会 が カ ト リ ッ ク か ら福 音 派 へ と 転 向 し た 。 そ れ と と も に 市 参 事 会 も ま たル ター 派 の 占 め る所 とな っ た。 ル ター 派 の 神 学 者 ブー ゲ ンハ ー ゲ ン (JohannesBugenhagen:1485-1558年)が. 市 参 事 会 に よ っ て 招 聰 さ れ,彼. は ル タ ー 派 の 教 説 に 基 づ く教 会 令 を 翌 年5月 る1529年2月. の. に告 示 させ た 。 これ は後 述 す. 「長 い 協 定 」 に も 採 り入 れ られ た 。 宗 教 改 革 に よ っ て,俗. 人 と 聖 職 者 が 一 体 と な っ て 教 会 施 設,学 そ の 最 高 責 任 者 に は,市. 参 事 会,執. 校 な どを 維 持 す る こ と とな った 。. 事(Diakon),主. 任 牧 師(Hauptpastor). に よ っ て 選 ば れ る 教 区 監 督(Superintendent)が 民 も 教 区 毎 に 組 織 さ れ,さ. 立 つ こ と に な っ た(9)。市. らに は市 行 政 に も関 与 す る こ と にな った 。 市 参. 事 会 は そ の 自 治 を 教 区 委 員 会 に 委 任 し た が,こ ら組 織 さ れ て い た 。1563年,市. の 委 員 会 は主 に上 層 市 民 か. 参 事 会 は 莫 大 な 債 務 の 処 理 の た め に,さ. に 財 政 も 市 民 に 委 ね る こ と を 決 定 し,各. 教 区 か ら選 ば れ た2名. ら. の市民が市. 参 事 会 の 役 人 に 代 わ っ て こ れ を 担 当 す る こ と に な っ た ⑩。 こ の よ う な 市 政 へ の 市 民 の 積 極 的 な 関 与 に 先 行 した の は,宗 に ル タ ー 派 市 民 に よ っ て,教 と で あ っ た 。1528年,各. 教改革の間. 会 の 献 金 箱 を 管 理 す る委 員 会 が 組 織 され た こ. 教 区 か ら各 献 金 箱(12個)に. 195. つ き24人 の 市 民 が 選.

(12) 近畿大学法学 ばれ,彼. 第60巻第1号. らは全 部 で144人 か ら成 る委 員 会 を 組 織 した。 こ の委 員 会 は 献 金. 箱 の 管 理 団 体 で あ っ ただ けで はな く,同 時 に,行 政 的 な 組 織 体 と して も機 能 した。 この よ う に,市 民 自治 の 発 展 と い う観 点 か ら宗 教 改 革 を 見 れ ば, それ は,市 民 が 一 聖 職 者 に よ って 担 わ れ て い た社 会 福 祉 を 含 め一 市 行 政 に よ り積 極 に関 与 す る こ とを,促 す と い う役 割 も果 た して い た。 144人 委 員 会 と市 参 事 会 の 間 で1529年 に締 結 され た の が 「長 い協 定(der LangerRezess)」. と呼 ば れ る協 定 で あ る。 この協 定 は,市 参 事 会 と市 民 の. 間 の 対 立 と紛 争 を 平 和 的 に解 決 す る た め に締 結 され たの で はな か っ た。 市 参 事 会 もル ター派,市 民 の大 半 もル ター派 とい う状 況 の 中 で,こ の 協定 は, 両 者 に よ って,言 わ ば今後 の市 政 方 針 と して取 り決 め られ た もの で あ った。 全 部 で132条 か らな る。 市 参 事 会 の 自己補 充 選 挙 権 は存 続 し,市 民 の 市 参 事 会 に対 す る抗 議 行 動 も禁 止 され たが,し か し多 くの 共 同体 事 項 につ いて の 市 民 委 員 会 へ の 諮 問 と,戦 争 と平 和 につ いて の 市 民 の 共 同決 定 権 が 確 認 され て い た(ID。1529年の市 参 事 会 選 挙 で は,4人. の市 民 委 員 会 出 身 者 が 市. 参 事 会 員 とな っ た。 市 参 事 会 は,し か し次 第 に 「長 い協 定 」 を 必 ず しも重 視 しな くな っ たか ら,1603年. に は,市 民 委 員 会 と市 参 事 会 の 間 で 再 度 この. 協 定 が 確 認 され た⑫。 な お,経 済 史 的 に見 れ ば,こ の 時 期 に,市 は リュー ベ ック との 関 係 を 薄 め次 第 に独 自の 発 展 を 遂 げて い た。 既 に一 部 の 醸 造 業 者 や 船 長 も,イ ン グ ラ ン ド向 け交 易 商 人(Englandfahrer)と. と も に,上 層 市 民 層 の 中 に入 っ. て くる よ う にな って お り,彼 らも ま た市 参 事 会 員 に選 ばれ る よ う にな って い た。 さ らにハ ン ブル ク は1600年 頃 に はオ ラ ン ダか らの 移 住 者 と ポル トガ ル か らのユ ダ ヤ人 を受 け入 れ,そ. の住 民 数 も40,000人 を数 え る まで にな っ. た(③ 。 た だ し,市 民 権 者 は20%程 度 で あ り,残. りの 住 民 は市 民 権 を 有 して. は い な か っ た か らω,市 民 一 下 層 市 民 で あ って も一 は,他. の市民権を持 た. な い住 民 に対 して,少 数 の特 権 者 層 と化 した とい う こ と も意 味 して い た⑮。 196.

(13) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. (6)17・18世. 紀. 30年 戦 争(1618-48年)を あ っ た が,市 年 に は,市. 中立 政 策 に よ って切 り抜 け た ハ ン ブル クで は. 内 に お け る 市 参 事 会 と 市 民 の 対 立 は 顕 在 化 し激 化 した 。1663 参 事 会 員 選 挙 を め ぐ る 疑 惑 事 件 が 発 覚 し,そ. の 解 決 の た め に,. 4人 の 法 律 家 を 含 む48人 か らな る 市 民 委 員 会 が 組 織 さ れ た 。 こ の 委 員 会 が 着 手 し た の は 主 に 市 参 事 会 員 選 挙 の 改 革 で あ っ た 。 そ の 結 果,市 は12人 の 商 人 と12人 の 法 律 家 か ら成 る と さ れ,そ も 定 め られ た 。 こ の 選 挙 法 は,一. 参事会員. の 選 挙 方 法 と被 選 挙 年 齢. 部 変 更 が あ っ た も の の,1860年. まで 効 力. を 有 し続 け た ⑯。 しか し,こ. の 疑 惑 事 件 自 体 の 解 明 は 進 展 せ ず,1666年,市. トケ ン ス(PeterLUtkens)を. 民 は市 長 リュ. 解 任 へ と追 い 込 ん だ 。市 参 事 会 の 統 治 は神 と. 皇 帝 に 由 来 す る と 考 え て い た 彼 は 皇 帝 に 助 力 を 求 め,翌67年,皇 使(Kommissar)が. 帝の検察. 市 参 事 会 を 支 援 す べ く介 入 して き た が,市. の 自 治 権 を 市 参 事 会 に 委 ね て い る に す ぎ な い の で あ っ て,市 統 治 権 を 認 め る こ と は で き な い,と. 民 は,彼. ら. 参事会の単独. い う立 場 を 崩 さ な か っ た ⑰。 こ の 後 も,. 市 参 事 会 員 が 解 任 さ れ る と い う事 態 も続 き,混 乱 は さ ら に 深 ま っ て い っ た 。 反 対 派 で あ る市 民 委 員 会 内部 で も分 裂 も生 じた。 そ の 中 か らヤ ス トラ ム (CordJastram)と. ス ニ ッ トガ ー(HieronymusSnitger)と. 市 民 の 指 導 者 が 頭 角 を 現 し た 。1685年,中 Michaelis)教 組 織 し,ハ. い う2人. の. 下 層 民 一 特 に 聖 ミハ エ リ ス(St.. 区 の 住 民 一 に 支 持 さ れ た2人. は,市. 民 か ら成 る30人 委 員 会 を. ン ブ ル ク の 政 治 的 な 実 権 を 手 に 入 れ た 。 しか し,こ. の 体 制 も長. 続 き は しな か っ た 。 ハ ン ブ ル ク の 政 治 的 な 混 乱 を 利 用 して,1686年,こ. の. 2人 の 指 導 者 を 支 持 し て い た デ ン マ ー ク 王 ク リ ス テ ィ ア ン5世(1670-99 年)が. ハ ン ブ ル ク 市 に 攻 撃 を 開 始 す る と,市. 彼 ら は2人. 民 は 結 束 して こ れ を 防 衛 し,. の 指 導 者 と30人 委 員 会 も 逮 捕 し た 。 ヤ ス トラ ム と ス ニ ッ トガ ー. は そ の 後 処 刑 さ れ た ⑱。. 197.

(14) 近畿大学法学. 第60巻第1号. さ ら に,1690年. 代 に は,下. 層 市 民 を 巻 き込 ん だ 聖 職 者 間 で の 宗 教 論 争 が. 勃 発 した。 市 参 事 会 は この 問 題 も平 穏 に解 決 す る こ とが で きな か っ た。 市 民 は 市 参 事 会 員 を 解 任 し,新. たな 市 参 事 会 員 を 選 挙 した。 これ は市 参 事 会. の 自 己 補 充 選 挙 権 が 破 られ た こ と も 意 味 し た 。 こ の よ う な 市 参 事 会 と 市 民 の 不 和 と 対 立 は,1712年,皇 vonSch6nborn)伯. 帝 が 派 遣 し た シ ェ ー ン ボ ル ン(HugoDamian. の 仲 介 に よ って. 結 さ れ る こ と に な り,よ は 市 参 事 会(Senat)と. 「主 要 協 定(derHauptrezess)」. う や く解 決 に 至 っ た 。 そ の 第1条. に,市. が締 の統治権. 市 民 に 共 同 で 帰 属 す る こ と が 明 記 さ れ た ⑲。 こ れ は. 市 政 全 般 に つ い て 市 民 が 直 接 関 与 す る と い う こ と で は な か っ た が,最 要 な 外 交 ・財 政 事 項 に つ い て は,市 人)か. も重. 民 委 員 会 と各 教 区 か らの 代 表 者(計210. ら成 る 合 同 集 会(Konvent)一. こ こ に 市 参 事 会 員 も 参 加 して い た の. か は 不 明 で あ る が 一 が こ れ を 決 す る と い う こ と を 意 味 し た ⑳。 こ の210人 の 市 民 の 代 表 と 市 参 事 会24人 が 市 政 の 最 高 決 定 機 関 で あ っ た と す れ ば,も. は. や 市 参 事 会 の 単 独 統 治 が 失 わ れ て い る こ と は 明 らか で あ っ た 。 そ れ と 同 時 に,市. 民 も ま た 一 層 多 く の 行 政 分 野 に 参 加 す る こ と に な っ た ⑫1)。 換言すれ. ば,市. 参 事 会 と市 民 に よ る共 同統 治 が 現 実 の もの にな っ た と い う こ とで も. あ っ た 。 た だ し,こ. れ は,市. 参 事 会 員 と市 民 の 両 者 が ハ ン ブル ク市 内 に お. い て 一 特 権 的 な 一 少 数 者 に な っ て か ら実 現 さ れ た の で あ っ て,市. 民権を持. たな い多 数 の 一 般 住 民 は市 政 か らは排 除 され 続 けて い た。 な お18世 紀 中 に,ハ. ン ブ ル ク は ドイ ツ 最 大 の 港 湾 ・商 業 都 市 と して ヨ ー. ロ ッパ の 経 済 的 な 中 心 地 の 一 つ へ と 発 展 す る こ と に な っ た 。1768年,デ. ン. マ ー ク 王 が ハ ン ブ ル ク を 神 聖 ロ ー マ 帝 国 の 自 由 帝 国 都 市 と して 認 め た こ と に よ り,以. 後,ハ. ン ブ ル ク は 正 式 に 自 由 帝 国 都 市 の 一 つ と して 扱 わ れ る よ. う に も な っ た ⑳。. 198.

(15) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. (7)19世. 紀前半. 近 世 に お け る デ ン マ ー ク に よ る 軍 事 的 脅 威 は 大 き か っ た が,ハ. ン ブル ク. の 独 立 性 が そ れ に よ っ て 実 際 に 損 な わ れ る こ と は な か っ た 。 しか し1805年 に ラ イ ン 川 を 越 え て 神 聖 ロ ー マ 帝 国 に 進 軍 し た フ ラ ン ス 軍 は 翌 年1806年 ハ ン ブ ル ク を 占 領 し た 。1807年,ナ 年 に は,英. ポ レオ ン 法 典 の 施 行 が 命 じ ら れ,1810. 国 と通 商 関 係 に あ っ たハ ン ブル クを 始 め とす るエ ル ベ 河 河 ロー. 帯 一 リ ュ ー ベ ッ ク市 も含 め て 一 は,皇 年)を. に. 帝 ナ ポ レオ ン に よ る大 陸 封 鎖 令(1806. よ り実 効 あ る も の と す る た め に フ ラ ン ス 帝 国 に 編 入 さ れ た 。 こ こ で. は フ ラ ン ス 型 の 地 方 行 政 制 度 が 布 か れ,市. 長,市. と して の フ ラ ン ス 語 に よ っ て 表 記 さ れ,行. 政 ・財 政 ・裁 判 制 度 の 近 代 化 も. 図 られ た 。 そ して,す. 参事会等の用語が公用語. べ て の 都 市 住 民 に も市 民 権 が 与 え られ る こ と にな っ. た ㈱。 しか し,こ. の 体 制 も1814年. の フ ラ ン ス 軍 の 撤 退 と と も に 終 了 し,旧. 来の. 「主 要 協 定 」 に 基 づ く市 民 自 治 に 戻 っ た ⑳。 市 参 事 会 と 特 権 市 民 の み に よ る 合 同 集 会(convent)が. 再 び 開 催 さ れ る こ と に な っ た が ㈱,こ の よ う な 一 部. の 都 市 住 民 の み に 担 わ れ た 市 民 自 治 が も は や 時 代 に そ ぐわ ぬ も の で あ る こ と は 明 らか で あ っ た 。 す べ て の 成 人 住 民 に 対 して 開 か れ た 近 代 民 主 的 な 市 制 へ と 変 え て い か ね ば な らな い,と. い う改 革 の 必 要 性 は一 フ ラ ン ス 占領 期. の 経 験 か ら も 一 理 解 さ れ て い た 。 しか し19世 紀 前 半 に は,そ. の 改 革 は容 易. に進 まな か っ た。. ・王 一 冒■ 口. (1)彼 は,後. ら の 長 ヴ ィ ラ ド ・ フ ォ ン ・ ボ イ ツ ェ ン ブ ル ク(WiradvonBoizenburg) に1270年. のOrdeelbookと. 呼 ば れ る都 市 法 法 典 を 編 纂 した市 書 記 ヨル ダ. ン ・ フ ォ ン ・ボ イ ツ ェ ン ブ ル ク の 先 祖 と さ れ る 。 (2)WernerJoachimundHans-DieterLoose(hrsg.),Hamburg,Geschichte derStadtundihrerBewohner,Bd.1,S.68.な. お 個 人,事. て はWikipedia,diefreieEnzyklopadieも. 件,事. 項 につ い. 本 稿 作 成 に お いて 利用 して い る。. 199.

(16) 近畿大学法学. 第60巻第1号. (3)1685年,ア. ル ス タ ー 川 の 西 側 に,そ. 聖 ミハ エ リ ス(St.Michaelis)教 教 区 の 編 入 に 伴 い,こ. れ ま で の4教. れ ま で の4教. 区 に 匹 敵 す る 面 積 の 一 以 後,. 区 と呼 ば れ る一 地 域 が 市 に編 入 され た 。 この 区 が 旧 市 街 と 呼 ば れ,聖. ミハ エ リ ス 教 区 の. 部 分 は 新 市 街 と 呼 ば れ る よ う に な る よ う で あ る 。 蛇 足 で あ る が,聖 教 区 は,む 格の. 「聖 ミハ エ リ ス 」 の 方 が 人 口 に 膳 爽 し て い る よ う に 思 わ れ る か ら,後. 本 稿 で は そ の ま ま 使 用 し た 。 聖 ペ ト リ 教 区 等 の 他 の4教 (4)拙. ミハ エ リス. し ろ 「聖 ミハ エ ル 教 区 」 と 訳 す べ き で あ ろ う が,「 聖 ミハ エ ル 」 の 属. 著. 『ド イ ツ 中 世 都 市. 法的な分析. 者を. 区 の表 記 も 同様 で あ る。. 「私 」 法 の 実 証 的 研 究 一 中 世 リ ュ ー ベ ッ ク 法 の 不 動 産. 」,敬 文 堂,1996年,71頁. 以下。. (5)Hamburg,GeschichtederStadtundihrerBewohner,Bd.1,S.139. (6)こ. の 市 民 抗 争 と 並 び に 次 の1410年. の 市 民 抗 争 に つ い て,斯. ザ 都 市 の 研 究 」,勤 草 書 房,1997年,が. 波照雄. 『中 世 ハ ン. 詳 細 な 言 及 と分 析 を 行 って い る。. (7)JohannGallois,HamburgischeChronikvonden註1testenZeitenbis aufdieJetztzeit,Bd.1,Hamburg1861,S.345-351.な "Ni emehrwollenwiraufrUhrerischseingegendenRat",inJ.Berlin. お,UlrichWacker,. (hrsg.),DasandereHamburg,FreiheitlicheBestrebungeninderHansestadtseitdemSpatmittelalter,S,9-23.も. 参照。. (8)Hamburg,GeschichtederStadtundihrerBewohner,Bd.1S.195.な お,ラ. ン ゲ ン ベ ッ ク 市 長 の 法 学 博 士(Doctor)と. い う 肩 書 が 示 す よ う に,い. ゆ る 法 学 識 者 が 市 参 事 会 役 人 に 採 用 さ れ る よ う に な り,特 年 以 降,そ. し て1454年. 以 後 は3人. 内1人. は終身. わ. に 「法 律 顧 問 」 は1436. の 法 律 顧 問 が 任 命 され る よ. う に な っ て い る(ibid.,S.135-136.)。 (9)ibid.,S.214. q①ibid.,S.221. (IDibid.,S.199. ⑫1603年,都. 市 法 典 の ロ ー マ 法 的 な 改 訂(Revision)が. 模 範 と さ れ た の は1564年. 行 わ れ た が,そ. の際 に. の ニ ュー ル ンベ ル クの 改 革 都 市 法 典 で あ っ た。 これ に. よ って 都 市法 に欠 鉄 が あ る場 合 に は帝 国法 が補 充 的 に適用 さ れ る こ と にな った 。 い わ ゆ る 「ロ ー マ 法 の 継 受 」 が 進 行 し た 。 し か し 市 参 事 会 は そ の 後 も 裁 判 権 を 保 持 し,下. 級 裁 判 所 に お け る 単 独 裁 判 官 と,上. 級 審 と して の 市 参 事 会 裁 判 は制. 度 的 に も 存 続 した 。ibid.,s.244. q3)ibid.,S.239. q4)ibid.,S.266. ⑮. 他 方,ホ. ル シ ュ タ イ ン 伯 の 支 配 す る 近 隣 都 市 ア ル トナ(Altona)も. 的 な 政 策 に よ っ て,次 q6>ibid.,s.271. q7)ibid.,S.272. ㈹ibid.,s.280.聖. 伯の積極. 第 に ハ ン ブ ル ク の 競 争 相 手 と な っ て い っ た 。ibid.,s.240.. ミハ エ リ ス 教 区 に つ い て は 註(3)を 参 照 。. 200.

(17) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. qg)ibid.,S.286. ⑳ibid.,s.358.こ. の 合 同 集 会 の 実 態 につ い て の 解 明 は 今 後 の 課 題 の 一 つ で もあ. る。 (2Dibid.,s.360-361. ⑳. 既 に1510年. の ア ウ ク ス ブ ル ク 帝 国 議 会 に お い て,市. は ニ ー ダ ー ザ クセ ン管 区. の 帝 国 都 市 と して 承 認 さ れ て は い た 。G.K6bler,Hamburg,inHistorisches LexikonderdeutschenL註nder,MUnchen1988,S.200. ㈱Hamburg,GeschichtederStadtundihrerBewohner,Bd.1,S.422. 経 済 史 的 に 見 る と,こ. の 時 期,大. 陸 封 鎖 令 に よ りハ ン ブ ル ク は 重 要 な 交 易 相 手. 国 で あ っ た 英 国 と の 通 商 を 禁 じ られ た た め,そ ⑳. 同 年10月. ブ レ ー メ ン と 共 同 歩 調 を と り,そ こ の3自 「4ド. の経 済 は後 退 を余 儀 な くされ た 。. か ら 始 ま っ た ウ ィ ー ン 会 議 に お い て,ハ. ン ブル クは リ ュー ベ ッ ク と. の 都 市 国 家 体 制 を 維 持 し よ う と し た 。1820年,. 由 都 市 と フ ラ ン ク フ ル トの た め に 共 同 の 最 終 審 と し て リ ュ ー ベ ッ ク に. イ ツ 自 由 都 市 の 上 級 控 訴 裁 判 所(dasOberappellationsgerichtder. vierfreienSt註dteDeutschlands)」. と 名 付 け られ た 最 高 裁 判 所 が 設 置 さ れ た 。. (25>ibid.,s.434.. 3.ハ. ン ブ ル ク 史 一 近 代 ・現 代 一. 19世 紀 以 降 に 市 民 協 定 が 締 結 さ れ る こ と は な か っ た 。 こ れ に 代 わ っ て, 市 民 の 共 同 決 定 権 の み な らず 統 治 機 構 そ の も の に つ い て 規 定 した 憲 法(Verfassung)が 家 的 な,自. 制 定 さ れ る こ と に な っ た 。 ハ ン ブ ル ク 市 は,現. る か ら,近. 立 し た 地 位 を 保 持 し続 け て お り,独. 在 で もそ の 国. 自 の 憲 法 典 も ま た 有 して い. ・現 代 の ハ ン ブ ル ク 市 の 憲 法 典 も こ こ で 概 観 して お こ う 。. (1)1860年. の憲法. 1842年,ハ. ン ブル ク全 体 を 炎 に包 む よ うな 大 火 災 が 発 生 した 。 この 火 災. に よ り,市 参 事 会 庁 舎 と大 聖 堂 は焼 失 し,消 防 を 含 む 市 行 政 の 問 題 点 が 浮 き彫 りにな っ た。 さ らに1848年 の 三 月 革 命 は,ド イ ツ全 体 の 憲 法 の み な ら ず ハ ン ブル クの 憲 法 も制 定 す る必 要 性 を 人 々 に痛 感 させ た 。 そ の 際,彼. ら. が,憲 法 典 と市 民 協 定 との 制 度 的 な 相 違 を も認 識 して いた の か は判 然 と し 201.

(18) 近畿大学法学. 第60巻第1号. な い。 「主 要 協 定 」 が古 い体 制 の基 本 的枠 組 み で あ った とす る と,「 協 定 」 と い う用 語 自体 が 否 定 され るべ き もの あ っ たの か も しれ な い。 いず れ にせ よ,市 民 協 定 は も はや 締 結 され る こ と はな か っ た。 しか しな が ら,ハ ン ブ ル ク に お いて,す べ て の 住 民 の 代 表 機 関 と して の 市 議 会 が 登 場 し,こ の 議 会 の 多 数 派 が 市 参 事 会 を 組 織 す る と い う民 主 的 な 憲 法 体 制 が 確 立 す る まで に は,ド イ ツ全 体 も そ うで あ っ た よ う に,か な りの 紆 余 曲 折 を 経 な けれ ば な らな か っ た。20世 紀 後 半 の 第 二 次 世 界 大 戦 後 に この 制 度 は よ うや く確 立 した。20世 紀 初 頭 まで は,そ れ ど こ ろか,特 権 的 な 市 民 の 代 表 機 関 で あ る 市 参 事 会 が,市 民 の 代 表 機 関 で あ る市 議 会 に対 して 事 実 上 な お優 越 し続 け て い たの で あ る。 1848年9月8日,三. 月 革 命 の 最 中,22歳 以 上 の 男 性 市 民 に選 挙 権 を 認 め. るハ ンブル ク憲 法 制 定 議 会 の た めの 選 挙 法 が 決 定 され,10月. か ら12月 にか. けて その 選 挙 が 実 施 され た。 この 選 挙 に勝 利 したの は進 歩 的 な 「自 由選 挙 委 員 会(LiberaleWahlkomitee)」 制 定 議 会 に お いて,翌 年7月. で あ っ た。 引 き続 いて 開 催 され た憲 法 に は フ ラ ン ク フル ト憲 法 に近 い草 案 が 完 成 し. た。 しか し,こ の 憲 法 草 案 に市 参 事 会 は賛 成 で はな か っ た。 従 って,フ ンク フル トの 憲 法 制 定 議 会 と 同様 に,三 月 革 命 の 後 退 と と も に,そ. ラ. して 反. 革 命 派 で あ る プ ロ イセ ン軍 が ハ ン ブル ク に進 駐 して くる と,1850年5月23 日,市 参 事 会 と市 民 の 合 同集 会 に お いて,上 述 の 草 案 にか な りの 修 正 を 加 え た憲 法(5月. 憲 法)が 可 決 され たが その 施 行 は見 送 られ,最 終 的 に は憲. 法 制 定 議 会 自体 も ま た解 散 に追 い込 まれ た(1)。 1859年 に新 たな 一 か な り保 守 的 な 一 市 議 会 議 員 選 挙 法 が 制 定 され た。 こ れ に よ って,市 議 会 の 半 数 は特 権 市 民 か ら,残 りも一25歳 以 上 の,納 税 能 力 の あ る男 性 一 市 民(全 住 民 の5%)の. 選 挙 に よ って 選 ばれ る もの と され. た。 選 挙 は同 年11月 に実 施 され た(2)。翌1860年9月. に は,市 参 事 会 と市 議. 会 は新 たな 憲 法 を 可 決 した。 裁 判 権 は市 参 事 会 か ら分 離 され,独 立 した裁 202.

(19) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. 判 所 が 設 置 され た。 いわ ゆ る 「司 法 の 行 政 か らの 分 離 」 で あ る。 市 議 会 は 192人 の議 員 か ら構 成 され,そ の 内 の60人 は貴 紳(Notabeln)と 「財 産 と教 養 あ る」 人 々 か ら選 ばれ,そ. 呼 ばれ る. して48人 は土 地 所 有 者 か ら選 ば れ. た。 残 りの84人 の み が 上 記 の 納 税 能 力 の あ る市 民 に よ って 選 挙 され る こ と にな っ た(3)。市 参 事 会 は18人 の市 参 事 会 員 一9人. の 法 律 家 と,少 な くと も. その 内 の7人 は商 人 で な けれ ばな らな い9人 の 市参 事 会 員 一 か ら構 成 され, 彼 らの 終 身 官 的 な 特 徴 も維 持 され た。 確 か に,市 参 事 会 の 自己 補 充 選 挙 制 度 は廃 止 され,市 参 事 会 員 は,市 参 事 会 と市 議 会 の そ れ ぞ れ の 代 表 者4人 か らな る委 員 会 が 候 補 者 名 簿 を 作 成 し,最 終 的 に市 議 会 が これ を 選 挙 す る もの と され て は い たが,こ. こ に は,な おか つ て の 市 参 事 会 の 自己 補 充 選 挙. 制 度 が 影 響 を 与 え て い たq)。 1863年 以 後,非 市 民 に も市 内で の 不 動 産 取 得 が 認 め られ る よ う にな り, 市 民 権 の 取 得 は幾 分 容 易 とな っ た。 しか し1875年,380,000人 約34,000人 が市 民 権 者 で あ り,さ. の住 民 の 内,. らに そ の 内 の28,000人 が 市 議 会 選 挙 権 者. で あ る にす ぎな か っ た。 選 ばれ た市 議 会 議 員 全 体 にお いて 商 人 の 占 め る割 合 は次 第 に減 少 して い っ た(5)。1879年,憲 法 が 改 正 され,市 160人 へ と引 き下 げ られ,議. 議会議員数 は. 員 の 半 数 は市 民 に よ る直 接 ・秘 密 選 挙 に よ っ. て 選 ばれ る もの と され たが,選 挙 権 につ いて は憲 法 改 正 前 の 選 挙 権 資 格 が 存 続 して い たか ら,450,000人 の 住 民 数 の 内,選 挙 権 者 は22,000人 にす ぎな か っ た(6)。 1865年,営. 業 法 が 制 定 され,手 工 業 者 の 同職 組 合 で あ る ツ ン フ トと兄 弟. 団 が 廃 止 され た。1867年,ハ. ン ブル ク は北 ドイ ツ連 邦 に加 盟 し,翌 年,そ. の 軍 事 高 権 を放 棄 した が,そ. の 都 市 国 家 と して の地 位 を維 持 し続 けた(7)。. 1881年,ハ. ン ブル ク は さ らに ドイ ツ関 税 同盟 に も加 盟 した が,こ の 時 も,. 帝 国 宰 相 ビス マ ル ク と の交 渉 に よ って,自. 由港 と して の 地 位 を 守 った 。. 1897年 に は,焼 失 した 旧市 参 事 会 庁 舎 に代 わ って,新 203. しい市 参 事 会 庁 舎 が.

(20) 近畿大学法学. 第60巻第1号. 現 在 の 場 所 に完 成 した。. (2)1920年. の憲法. 1901年 の 市 議 会 議 員 選 挙 に お いて 労 働 者 政 党 で あ る社 会 民 主 党(SPD) 員 が 議 席 を 確 保 す る と,1906年,市. 参 事 会 と市 議 会 の 多 数 派 は いわ ゆ る三. 級 選 挙 制 度 に近 い選 挙 法 を 施 行 し社 会 民 主 党 を 排 除 しよ う と した。 しか し も はや 市 議 会 の 民 主 化 を 基 本 的 に阻 止 す る こ と は不 可 能 で あ っ た。 1918年11月,ド. イ ツ革命 が勃発 し,ハ ンブル クで も独立社会 民主党(USPD). を 中心 とす る労 働 者=兵 士 革 命 協 議 会 が 結 成 され た。 翌 年3月 の 市 議 会 議 員 選 挙 は,20歳 以 上 の男 性 と女 性 の普 通 ・平 等 選 挙 に よ って実 施 さ れ た(8)。 市 議 会 の 多 数 派(50.46%)を. 社 会 民 主 党 が 占 め,同 党 を 中心 と して 市 参 事. 会 も組 織 され た。1920年12月29日,市 イ ツ民 主 党(DDP)の. 議 会 は新 しい憲 法 を 社 会 民 主 党 と ド. 多 数 に よ って可 決 し,こ の 憲 法 は翌21年1月9日. か. ら施行 され た(9)。 これ によ って,統 治権 は,市 参事会 と市議会(BUrgerschaft) にで はな く,明 白 に市 議 会(Parlament)に. 単 独 で 帰属 す る もの と され た。. す な わ ち,市 議 会 が 立 法 権 を 行 使 し,市 参 事 会 は この 市 議 会 に よ って 信 任 され る行 政 府 とな っ た。 市 議 会 選 挙 権 者 も上 述 の よ う に20歳 以 上 の す べ て の 成 人 とな っ た。 これ は,ハ ン ブル ク に民 主 主 義 的 な 統 治 体 制 を も た らす こ と にな る はず で あ っ た。 しか し社 会 民 主 党 と ドイ ツ民 主 党 との 連 立 政 権 は急 速 に市 民 の 信 頼 を 失 って い き,早. くも1924年 の 市 議 会 議 員 選 挙 に お いて 両 党 は過 半 数 を 獲 得. す る こ と もで きな くな っ た。 彼 らに代 わ って,1932年 お いて 第1党. にな っ たの が ナ チ ス党(NSDAP)で. の市議会議員選挙 に あ った。 同党 は この 選. 挙 で は未 だ 単 独 過 半 数 を 制 して は いな か っ たか ら(51議 席/157議 33年3月8日,鉄. 兜 団,ド イ ツ国家 党(DSP),ド. 席),翌. イ ツ国 家人 民 党(DNVP),. ドイ ツ民 主 党 との 連 立 に よ って 市 参 事 会 を 組 織 した。 しか し12人 の 市 参 事 204.

(21) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. 会 員 の 過 半 数 は ナ チ ス党 と これ に近 い人 々 に よ って 占 め られ た 。 これ が ハ ン ブ ル ク に お け る ナ チ ス 独 裁 の 始 ま り で あ り,1919年. か ら始 ま った ワ イ. マー ル 共 和 国 体 制 の 終 焉 で も あ っ た。 同年3月31日. の 「画 一 化 法(DasVorlaufigeGesetzzurGleichschaltung. derLandermitdemReich)」. に よ り,ハ. ン ブ ル ク 市 議 会 で も,3月5日. の. ドイ ツ 帝 国 議 会 選 挙 の 投 票 結 果 一 ナ チ ス 党 の 獲 得 議 席 数 は288議 席/640議 席 一 に 基 づ く議 席 の 再 配 分 が 実 施 さ れ た 。 こ れ に よ っ て ハ ン ブ ル ク 市 議 会 は実 質 的 に ナ チ ス党 に よ って 掌 握 され た。 その 後 の ナ チ ス党 の 動 き は極 め て 迅 速 で あ っ た 。6月28日. を 最 後 と して 市 議 会 は 開 催 さ れ な く な り,10月,. 国 家 地 方 長 官(Reichsstatthalter)カ 1969年)は. ウ フ マ ン(KarlKaufmann:1900-. 市 議 会 自体 の 解 散 を 命 じた。. 1937年1月 Gesetz)」. ドイ ツ 政 府 は,い を 発 布 し,ハ. わ ゆ る 「大 ハ ン ブ ル ク法(GroB-Hamburg-. ン ブ ル ク の 都 市 国 家 と して の 法 的 地 位 を 剥 奪 し,. 1つ の 行 政 単 位 へ と 引 き 下 げ た 。 こ れ と と も に1921年. の ハ ン ブル ク市 憲 法. も ま た 廃 止 さ れ た 。 な お 「大 ハ ン ブ ル ク 法 」 と い う 名 前 が 示 す よ う に,ハ ン ブ ル ク の 規 模 は,同 年4月 ル ブ ル ク=ヴ. 以 降,隣. 接 す る 都 市 ア ル トナ(Altona),ハ. ィ ル ヘ ル ム ス ブ ル ク(Harburg-Wilhelmsburg),ヴ. ベ ッ ク(Wandsbek),ベ 人 口1,680,000人. ル ゲ ドル フ(Bergedorf)等. の 大 都 市 に 膨 れ 上 が っ た 。 他 方,そ. 飛 び 地 も 周 辺 の 地 域 に 編 入 さ れ,以. ー ァンズ. を 含 め て,面 積748km2, れ まで の ハ ン ブル クの. 後 統 一 ・画 一 的 な 行 政 は 可 能 と は な っ. た ⑩。 こ の 行 政 組 織 の 頂 点 に 位 置 して い た の が,上. 述 の 国 家地 方 長 官 で あ っ. た(ll)。. (3)1952年 1939年. の憲法. に 始 ま っ た 第 二 次 世 界 大 戦 は,こ. 既 に1943年. に は,ハ. ン ブ ル ク 市 は,7月25日. 205. の ナチ ス独 裁 体 制 を崩 壊 させ た。 か ら10日 間,昼. 夜を問わず米.

(22) 近畿大学法学. 第60巻第1号. 英 軍 の 空 爆 を 受 け,37,000人. も の 死 者 が 出 た と さ れ て い る⑫。 そ れ か ら2年. 後 の1945年5月3日. ギ リス軍 が ハ ン ブル ク市 内 に抵 抗 を 受 け る こ. と な く進 軍 し,国. 夕 刻,イ. 家 地 方 長 官 カ ウ フ マ ン も降 伏 した。 これ が ナ チ ス独 裁 体. 制 の 終 焉 で あ っ た。 カ ウ フ マ ン は翌 日 イギ リス軍 に よ って 逮 捕 され た。 同 年 夏,占 -1962年)を. 領 軍 は,経 第1市. 済 人 で あ る ペ ー タ ー ゼ ン(RudolfPetersen:1878. 長(ErsterBUrgermeister)に. 任 命 し ,彼. は暫 定 的 な 市. 参 事 会 を 組 織 し た 。 彼 は ハ ン ブ ル ク の 都 市 国 家 と して の 地 位 を 回 復 す る こ と に も 腐 心 し た 。 翌46年2月27日,市. 民 の 選 挙 に よ っ て で は な く,占. に よ っ て 任 命 さ れ た 市 議 会 議 員 か ら成 る 市 議 会 も 発 足 し,憲 業 が 開 始 さ れ た 。 市 議 会 議 員 は 政 党 の 他 に,経. 済 団 体,教. 会 団 体 か ら選 抜 さ れ て い た(13。 こ の 草 案 は5月15日. 致 して い た よ う で あ る 。 こ の 憲 法 に 従 っ て,同46年10月,戦 記 の,任. に よ っ て110議 席 の 内 の83議 席(得. 法草案作成作. 会,そ. の他の社. に 市 議 会 で 可 決 さ れ,. 暫 定 憲 法 と して 施 行 さ れ た 。 こ の 憲 法 は 内 容 的 に は1921年. 会 議 員 選 挙 が 実 施 さ れ,上. 領軍. 憲 法 と か な り一 後最初の市議. 命 に よ る市 議 会 は解 散 した。 この 選 挙 票 率 約43%)を. 社会民主 党が 占め るこ. と に な り,市 長 に は ブ ラ ウ ア ー(MaxBrauer:1887-1973年)が. 選 出 され. た。 本 格 的 な ハ ン ブ ル ク 憲 法 の 制 定 作 業 は1948年. 以 後 に 開 始 さ れ,1952年6. 月 に市 参 事 会 が 提 出 した憲 法 案 が 市 議 会 に よ って 可 決 され た。 これ が 現 行 憲 法 で あ る 。 こ の 憲 法 は 統 治 機 構 に 関 す る 条 文 の み か らな っ て お り,基 的 人 権 の 条 文 は 欠 け て い る 。 ハ ン ブ ル ク 市 憲 法 は,1949年5月23日 ツ 連 邦 共 和 国 基 本 法 の 後 に 成 立 し た か ら,基 ザ ク セ ン 州 と バ ー デ ン=ヴ で あ る 。 お そ ら く,ボ. の ドイ. 本 的 人 権 の 規 定 は一 ニ ー ダー. ュル デ ンベ ル ク州 と 同様 に一 不 要 と され た よ う. ン基 本 法 の 基 本 的 人 権 の 規 定 が ハ ン ブル クで も妥 当. す る と い う こ と に な っ て い る の で あ ろ う 。 な お,こ と 同 様 に,現. 本. の 憲 法 も,ボ. 在 に 至 る ま で に 何 度 も 修 正 が 加 え られ て い る ω。. 206. ン基 本 法.

(23) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定 ・王 一 冒口. (1)WernerJoachimundHans-DieterLoose(hrsg.),Hamburg,Geschichte derStadtundihrerBewohner,Bd.1,S.477-480. (2)ibid.,S.483. (3)ibid.,S.484. (4)な. お,市. 参 事 会 は ル タ ー 派 教 会 に対 す る 保 護 権 を 残 して い た 。WernerJoachim. undHans-DieterLoose(hrsg.),Hamburg,GeschichtederStadtund ihrerBewohner,Bd.2,S.77.教. 会 と 国 家 と の 分 離 も意 図 さ れ,1880年. の教育. 法 に よ って 学 校 等 の 教 育 施 設 が 教 会 か ら国 家 の 監 督 下 に移 され た。 しか し カ ト リ ッ ク の 市 議 会 議 員 が 登 場 す る の は よ う や く1913年. にな って か らの こ とで あ る。. (5)Hamburg,GeschichtederStadtundihrerBewohner,Bd.1,S.537. (6)HamburgischeVerfassung,inWikipedia,derfreieEnzyklop註die. (7)GerhardK6bler,HistorischesLexikonderdeutschenL註nder,MUnchen 1988,S,200. (8)Hamburg,GeschichtederStadtundihrerBewohner,Bd.2,S.160. (9)ibid.,S.167. ⑩. リ ュ ー ベ ッ ク 市 も 大 ハ ン ブ ル ク 法 に よ っ て そ の 自 立 性 を 失 い,プ シ ュ レ ス ヴ ィ ヒ=ホ 界 大 戦 後 も,リ. ル シ ュ タ イ ン 州 の1行. ロイ セ ンの. 政 区 画 に引 き下 げ られ た。 第 二 次 世. ュ ー ベ ッ ク市 の 国 家 と し て の 地 位 は 回 復 さ れ て い な い 。 同 市 は. シ ュ レ ス ヴ ィ ヒ=ホ. ル シ ュ タ イ ン 州 の1都. 市 に留 ま って い る。. qDHamburg,GeschichtederStadtundihrerBewohner,Bd.2,S.286. GroB-Hamburg-Gesetz,inWikipedia,derfreieEnzyklop註die. ⑫Hamburg,GeschichtederStadtundihrerBewohner,Bd,2,S.366. q3>ibid.,S.389. ωHamburgischeVerfassung,inWikipedia,derfreieEnzyklop註die.な お,1952年. の 憲 法 の 制 定 に際 して も国民 投 票 は 実 施 され な か った。 これ は ボ ン. 基 本 法 の 制 定 手 続 と同 様 で あ る。 この 限 りで 通 常 の 法 律 制 定 の 場 合 と. おそ ら. く手 続 は よ り 厳 格 で あ ろ う が 一 基 本 的 に 同 じ手 続 が と ら れ て い る 。 と は い え, ボ ン 基 本 法 が そ う で あ る よ う に,憲 き る,と. 4.「. 法 の 基 本 原 則 も法 律 と同 様 に容 易 に修 正 で. い う意 味 で はな い 。. 市 民 協 定(BUrgerrezess)」. (1)1712年. の. 「主 要 協 定 」 ま で の 市 民 協 定. 18世 紀 ま で の ハ ン ブ ル ク 法 史 の 概 観 か ら明 らか に な る こ と は,1410年. 207. の.

(24) 近畿大学法学. 第60巻第1号. 「最 初 の 協 定 」 を 始 め と して,中 世 末 期 か ら近 世 に か け て,市 参 事 会 と市 民 の 代 表 に よ って 締 結 され た 「協 定 」 が 繰 り返 し登 場 して い る,と い う こ とで あ る。 さ らに,本 稿 で は,紙 幅 の 関 係 か ら割 愛 した協 定 も一 特 に16・ 17世 紀 に は一 存 在 す るか ら,そ の 締 結 の 頻 度 は も っ と高 か っ た と い う こ と に もな る。 で は,こ の 協 定 と は何 か 。 本 稿 の ハ ン ブル ク史 の 記 述 個 所 に お いて か な り依 存 した 『ハ ン ブル ク史 』 第1巻 「協 定 は,合 意 の 基 礎,手. 段,さ. に は次 の よ うな 記 述 が あ る。. ら に シ ンボル で もあ り一 時 折更 新 され,. 現 実 化 され,補 充 され,回 を 重 ね る につ れ て その よ う に増 大 しつ つ 一(そ れ は)ハ. ンブ ル ク に お け る憲 法 生 活 の 独 特 の伝 統 を 形 成 した 」 と(1)。さ ら. に 『ハ ン ブル ク用 語 事 典 』 に よれ ば,協 定(Rezess)と. は 「市 参 事 会 と市. 民 に よ る,法 的 効 力 を 持 っ た共 同決 定 」 と され る(2)。 「合 意 」 の 当事 者 は, 市 参 事 会 と市 民,市 参 事 会 員 も市 民 と考 え る と市 民 と市 民,と. いうことに. もな り,市 民 た ちが 自 ら一 場 合 に よ って は,封 建 諸 侯 と その 代 理 人 が 第 三 者 と して 仲 介 した こ と も あ っ たが 一 締 結 した市 政 に関 す る取 り決 め と い う こ とで あ る。従 って,Rezessは. 字 句 通 りで あれ ば 「協 定 」 とな るが,市 民. の 間で 締結 され た こ とを考 慮 す れ ば,Rezessに. 「市 民協 定(BUrgerrezess)」. と い う 日本 語 訳 を 当て て よ いで あ ろ う(3)。 この 市 民 協 定 は,ハ ン ブル クで は,多. くの 場 合,市 民 と市 参 事 会 の 間 の. 対 立 と紛 争 の 平 和 的 な 解 決 の た め に両 者 の 間 で 締 結 され て い る。 確 か に, その 成 立 の 直 前 に は その よ うな 紛 争 もな く市 参 事 会 が 主 導 権 を 発 揮 し市 民 協 定 の 締 結 に至 っ た と い う場 合 も あ るが,そ の 成 立 過 程 を 子 細 に検 討 す れ ば,大 抵 の 場 合 に は,そ の 遠 因 と して 市 参 事 会 と市 民 の 間 で の 対 立 と紛 争 が あ っ た こ とが 読 み 取 れ る。 市 民 協 定 と は,市 民 と市 参 事 会 の 対 立 と紛 争 の 平 和 的 な 解 決 の た め に両 者 の 間 で 締 結 され た協 定 で あ っ た,と 言 って よ い○ 市 参 事 会 と市 民 の 対 立 と紛 争 は,後 述 す る よ う に,基 本 的 に は市 政 を め 208.

(25) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. ぐる対 立 で あ る。 それ ゆえ 市 民 協 定 の 内容 も市 政 に関 わ る もの で あ り,乱 暴 な 言 い方 を す れ ば,そ れ は統 治 にか か わ る憲 法 的 な 一 少 な くと も,こ れ と 同様 の 機 能 を 果 た した一 規 範 と い う こ とで も あ る。 周 知 の ご と く,近 代 的 な 憲 法 は主 に基 本 的 人 権 と統 治 構 造 か らな るが,市 民 協 定 の 内容 は大 体 に お いて 後 者 の 統 治 構 造 に係 わ って い る。 ただ し,市 民 協 定 の 中 に基 本 的 人 権 と関 係 す る条 文 もな いわ けで はな い。例 え ば,1410年 の 「最 初 の協 定 」 に は,法 の 適 正 手 続 を 定 め た 日本 国 憲 法31条 と33条 と似 た 規 定 も既 に見 出 され る(第1条)。 この よ うな 中世 都 市 法 と近 代 法 との 近 似 性 を め ぐる議 論 は,1970年. 代以. 降 に盛 ん に唱 え られ た言 説 を 思 い 出 させ る。 す な わ ち,中 世 都 市 を 周 辺 の 封 建 社 会 と は異 質 な,近 代 を 先 取 り した社 会 と捉 え るの は,19世 紀 的 な, 誤 っ た見 方 で あ り,都 市 を 周 辺 農 村 との 関 連 に お いて 理 解 す る こ と,む ろ両 者 の 持 つ 近 似 性 を 明 らか にす る こ と,さ. し. らに市 民 と住 民 を 含 めた 都 市. 住 民 の 内部 に あ る現 実 的 な 支 配 服 従 関 係 に も注 意 す る こ と,が 必 要 で あ る と い う言 説 で あ る。 これ らの 批 判 は,い ず れ も客 観 的 な 史 料 に裏 付 け られ た主 張 で あ り,そ れ らは間 違 いで はな い。 な ぜ な ら,こ の よ うな 批 判 は, 従 来 の 見 方 を 批 判 的 に検 討 した結 果 と して,後 者 に新 た な 視 点 を 提 供 し, こ こか ら中世 都 市 の 持 つ 歴 史 的 な 意 義 を さ らに実 証 的 ・多 角 的 に探 求 す る こ と を期 待 して い た と思 わ れ る か ら,で あ る④。 しか し この よ うな 研 究 動 向 が,少 な くと も 中世 都 市 法 研 究 の 進 展 に と って は,む. しろマ イ ナ スの 効. 果 を 与 え た こ と も否 定 はで きな い。 本 稿 に お いて 採 り上 げた 市 民 協 定 が, 中世 都 市 法 と近 代 法 との 関 係 につ いて の 問 題 も含 めて,今 後 の 中世 都 市 法 研 究 の 再 活 性 化 に繋 が る こ とを 期 待 した い。. (2)ハ. ンブ ル ク市 以 外 の 都 市 にお け る市 民 協 定. 市 民 協 定 はハ ン ブル ク以 外 の 中世 都 市 に お いて も締 結 され た の で あ ろ う 209.

(26) 近畿大学法学. 第60巻第1号. か 。 個 々 の 都 市 の 歴 史 を 子 細 に 検 討 す る と,実. は,思. 協 定 が 締 結 さ れ た こ と に 驚 か さ れ る 。 本 稿 で は,と よ く知 られ て い る,ハ. 様の市民. り あ え ず,我. が国で も. ン ブ ル ク の 近 隣 に 位 置 す る リ ュ ー ベ ッ ク 市,そ. ら ラ イ ン 地 域 の ケ ル ン 市,そ. 1)リ. い の 外,同. れか. して フ ラ ン ク フ ル ト市 に つ い て 見 て み よ う 。. ュー ベ ック市. リ ュ ー ベ ッ ク に お け る,都 (BUrgerrezess)の. 市 統 治 に 関 わ る 市 民 協 定 は1669年. み で あ る と さ れ る が(5),こ の 協 定 は,1665年. 定(Kassarezess)」. を 踏 襲 す る も の で あ り,後. の市民協定 の. 「金 庫 協. 者 は さ ら に16世 紀 前 半 の 宗. 教 改 革 に絡 む ブ レン ヴ ェー バ ー 騒 動 の 時 期 に既 に実 現 され よ う と した 内容 で あ っ た と も さ れ る 。 そ こ で,ま. ず ブ レ ン ヴ ェ ー バ ー 騒 動 か ら見 て い く こ. と に し よ う 。 我 々 は 本 稿 に お い て1529年 に 言 及 して い る が,リ. の ハ ン ブル クの. 「長 い 協 定 」 を 既. ュー ベ ックで も 同 じよ うな 時 期 に市 民 協 定 が 成 立 す. る余 地 が あ っ た と い う こ と は興 味 深 い。 1520年 頃 か ら,リ. ュー ベ ックで も急 速 にル ター 派 の 教 説 が 市 民 の 間 に広. ま っ て い っ た 。 当 初,市. 参 事 会 は,皇. 帝 との 結 びつ き も あ って カ トリ ック. 派 に 留 ま りな お 反 宗 教 改 革 な 立 場 を 維 持 して い た が,次. 第 にル ター 派 に譲. 歩 せ ざ る を え な くな っ て い っ た 。 市 民 と 市 参 事 会 の 対 立 は,宗 に 起 因 す る と 同 時 に,市. 財 政,特. に 対 外 的 な 債 務 と,そ. 税 導 入 の 問 題 と も 絡 ん で い た 。1528年,市 と,市. 員 会 は,商. の 返 済 の た めの 新. 参事会が新税の導入を提案す る. 民 は こ れ に 同 意 す る 見 返 り と して 税 収(金. そ し て,彼. 教的な問題. 庫)の. ら は そ の た め の 市 民 委 員 会 を 組 織 した(48人. 管 理 を 要 求 した。 委 員 会)。. この 委. 人 の 同 職 組 合 と 手 工 業 者 の 同 職 組 合 か らの 各24人 の 代 表 者 か ら. 構 成 さ れ た 。 彼 らの 大 半 は 既 に ル タ ー 派 で あ っ た 。 ル タ ー の 教 説 は 下 層 の 手 工 業 者 層 に も 受 け 入 れ ら,さ. らに市 内の 各 主 要 教 会 も次 々 にル ター 派 教. 会 に 転 向 して い っ た 。 こ の よ う な 状 況 の 下 で,市. 210. 参 事 会 も1530年. に48人 委.

(27) 中 世 都 市 ハ ン ブル クの 市 民 協 定. 員 会 の 要 求 を 受 け 入 れ る こ と に な っ た 。 す な わ ち,市 の 宗 教 儀 式 を 容 認 し,税. を め ぐ る 問 題 で は 市 民 の 同 意 を 求 め,税. 管 理 も 市 民 委 員 会 に 委 ね る,と. い う もの で あ っ た(6)。以 後,市. 市 民 を 代 表 す る 常 設 的 な 機 関 と 化 し,そ れ ぞ れ の 同 職 組 合 か ら各32人 委 員 会 は,市. 参 事 会 は,ル. の 構 成 員 は,商. の 代 表 者 と な っ た(64人. ター 派. の金庫の. 民委員会 は. 人 と手 工 業 者 の そ 委 員 会)。. 参 事 会 員 に よ っ て 独 占 さ れ て い た 市 政 に,一. この 市 民. 般 市 民 も関 与 す. る機 会 を 与 え る こ と にな っ た。 リュー ベ ックの 市 政 改 革 が 始 ま った 。 64人 委 員 会 の 中 に ブ レ ン ヴ ェ ー バ ー(JUrgenWullenweber)と 物 が い た(7)。翌31年 推 薦 し,そ. に は,市. い う人. 民 は 市 参 事 会 員 選 挙 に お い て9人. の 候 補 者 か ら市 長 が7人. の候補者を. の 商 人 を籔 に よ って 選 抜 す る こ と と. な っ た 。 市 参 事 会 の 自 己 補 充 選 挙 制 度 が 破 られ た(8)。5月31日,市 会 は 財 政 に つ い て の 管 轄 権 を 獲 得 し,そ. の 管 理 の た め に9人. し た 。 市 民 委 員 会 に よ る こ の よ う な 権 力 奪 取 の 過 程 で,委. 民委員. の市民を任命. 員 会 の 中で 急 速. に 頭 角 を 現 し た の が 上 記 の ブ レ ン ヴ ェ ー バ ー で あ っ た 。 彼 は,1532年4月 の コ ペ ン ハ ー ゲ ン で の デ ン マ ー ク 王 フ レ ゼ リ ク1世(1523-1533年)と 政 治 交 渉 に お い て,オ. の. ラ ン ダ 船 の ズ ン ド海 峡 航 行 禁 止 を 引 き 出 し,ハ. ンザ. の 特 権 の 擁 護 者 と して そ の 卓 越 し た 外 交 手 腕 を 発 揮 した 。 彼 を 支 持 した の は ノ ブ ゴ ロ ドや リガ と の 交 易 に 携 わ る 遠 隔 地 商 人 の 市 民 で あ っ た(9)。1533 年,64人. 委 員 会 の メ ン バ ー8人. が さ ら に 市 参 事 会 員 に も 選 ば れ,そ. の1人. で も あ っ た ブ レン ヴ ェー バ ー はつ い に市 長 に選 ばれ た 。 そ れ は 同時 に彼 の 政 治 的 な 絶 頂 期 で も あ っ た 。 こ の 後,リ 急 速 に 悪 化 して い き,こ た か ら,そ 年,彼. ュー ベ ック と北 欧 との 外 交 関 係 は. れ を ブ レン ヴ ェー バ ー は軍 事 的 に打 開 しよ う と し. れ は 市 民 の 市 政 へ の 不 満 を 一 層 募 らせ る こ と に も な っ た 。1534. は デ ン マ ー ク 王 の 継 承 戦 争(「 グ ラ ー フ戦 争 」)に も 関 与 し,こ. 軍 事 的 な 敗 北 を 喫 し た 。1536年2月,ハ. こで. ン ブル ク にお いて リュー ベ ック は. 敵 対 し た デ ン マ ー ク 王 ク リ ス テ ィ ア ン3世(1534-59年)と. 211. 平和協定 を締.

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