は じ め に 『 中 山 世 鑑 』 は 一 六 五 〇 年 に 成 立 し た 琉 球 国 最 初 の 正 史 で あ る。 編 者 は 向 象 賢 ( 羽 地 朝 秀 ) 。 時 の 国 王 尚 質 は、 摂 政 金 武 王 子 朝 貞、 三法司大里良安・宜湾正成・国頭重仍に命じて、政務の暇に古きを 知る「旧僚」を集めてその「議論格言」を収集させ、象賢に命じて こ れ ま で 撰 述 さ れ る こ と の な か っ た「 世 系 図 」 を 作 ら せ た。 「 序 」 にこのように記されている。 これまでの研究では、本史の成立には摂政金武王子朝貞や編者向 象賢の王府における立ち場や政治思想、また彼らの歴史観が大きく 関係したと論じられてきた。金武王子朝貞は琉球随一の薩摩通であ り、再三上国して島津家久や島津光久の知遇を受けた人物であると いう。島津家では、一六三八年に島津氏系図一巻を献上。これを受 け、金武王子監修のもと世鑑の編纂が行われたと、東恩納寛惇は論 じ て い る ⑴ 。『 訳 注 中 山 世 鑑 』 を 著 し た 諸 見 友 重 も、 象 賢 の 妹 真 松金は尚質の妃であり、その長男思五郎は後の尚貞である。即ち、 象賢は現国王の義兄であり、次期国王の伯父にあたるという「王家 の血脈の中枢に位置してきたこと」が、編纂の背景にあったと指摘 する ⑵ 。 あるいはまた、 田名真之は源為朝の渡来伝承を、 「元来別々 の話であったはずの舜天と為朝の話を日琉同祖論を主張する羽地朝 秀が結びつけ、舜天を為朝の子とする物語を作り上げたのである」 として、為朝渡琉と舜天王の物語は編者象賢の 「創作」 だとする ⑶ 。 金 武 王 子 朝 貞 や 向 象 賢 の 立 場 や 政 治 思 想 は 事 実 と し て そ の よ う で あったとしても、こうした解釈は編纂に関与した摂政や三法司、ま た編者という個人的な側面に引きつけられ過ぎていないだろうか。 歴 史 記 述 が 一 種 の 権 力 行 為 で あ る こ と は、 今 さ ら 言 う ま で も な い。歴史家は「誰か」のために歴史を書く。だが、正史が国家の修 史事業として完遂されるためには、国家の歴史意識や歴史認識、ま た歴史書の様式や叙述文体の獲得が前提とならなければならないこ と、 言 う ま で も な い。 『 中 山 世 鑑 』 は ど の よ う に し て 編 纂 制 作 さ れ たのか、また王国の歴史とどのように連動し、どのような歴史過程 のなかに位置づけられるべきなのか。本稿はこうした問題意識から 出発する。
﹃
中
山
世
鑑
﹄
の
成
立
保
坂
達
雄
一 歴 史 意 識 の 醸 成 いったい史書が誕生するためには、いかなる条件が整っていなけ ればならなかったのだろうか。まずこの点から考えてみよう。修史 意識は歴史意識 (歴史観) と歴史認識が醸成されて初めて生まれる。 やがて事業化されるが、その事業はどのようにして始められたので あろうか。ここで日本古代の場合を参照しよう。三浦佑之が指摘す るように、古代律令国家において、法と史書は「一体の国家事業」 で あ っ た。 天 武 紀 十 年 ( 六 八 一 ) に 発 せ ら れ た「 律 令 を 定 め、 法 式 を 改 め む と 欲 ふ 」 ( 二 月 二 十 五 日 ) と す る 詔 と、 「 帝 紀 及 び 上 古 の 諸 事を記し定めたまふ」 (三月十七日) とする二つの詔は、 〈法〉 と 〈史〉 の 編 纂・ 撰 録 が 並 行 し て 行 わ れ た こ と を 端 的 に 示 し て い る ⑷ 。 法 こ そは国家統治の基盤であり、歴史は国家の正統たる所以を主張する 証しであった。こうした法と歴史と並行して都市が造られ、文字に よって情報が伝達され、貨幣によって経済の循環が創りだされたの である。史書は、法・都市・文字・貨幣といったさまざまな制度が 整備されるなかで構想された。なかでも法は国家の未来を創り出す 礎であり、それと対となるべき史書は、国家の歴史的正統性を証す 正典だったのである。 翻って、琉球王国において法の制度化がもっとも可能となる時代 といえば、どの国王の時代だったのであろうか。十五世紀後半から 十九世紀後半まで四百年続いた第二尚氏王朝のなかで、そうした時 代 と し て も っ と も ふ さ わ し い の は、 第 三 代 尚 真 の 時 代 ( 在 位 一 四 七 七 ~ 一 五 二 六 年 ) で あ ろ う。 尚 真 王 は、 官 職・ 位 階 制 を 整 備 し て そ れぞれの按司に位階と官職を与え、行政組織のなかに位置づける制 度を創り上げた。これについては、尚真王の業績十一項目を記した 「百浦添之欄干之銘」 (正徳四年〈一五〇九〉建立) に、 其の五に曰はく、千臣のうち官に任ずる百僚には職を分かち、其の 位の貴賤上下を定む。帕の黄赤を以てし、簪の金銀を以てす。是、 後世尊卑の亀鏡なり ⑸ 。 (原漢文、私に訓読した) と刻ませている。 また『球陽』巻三も、右の銘文を踏まえて、 王、性質英明にして己を謙みて益を受く。其の長成するに及び、能 く先志を継ぎ善く父業を述べ、務めて治を精にす。百僚に職を分か ち群臣に官を授け、簪するに金銀を以てし、冠するに黄赤(俗に冠 を称して八巻と曰ふ)を以てして、貴賤上下の分を定む。朝儀を朔 望に設け、拝班を左右に列して大小朝儀の礼を定む ⑹ 。 (『球陽』巻三) と記述する。尚真王は官職と位階を定め、貴賤上下を服飾によって 標示する制度を始めることによって、ピラミッド型の組織体制を創 り上げたことが明らかである。 尚真王、制を改め度を定め、諸按司を首里に聚居して遙かに其の地 を領せしめ、代はりて座敷官一員を遣はし、其の郡の事を督理せし む(俗に按司掟と呼ぶ) 。 (『球陽』巻三) さらには、按司集居策として各地のグスクに居を構える按司を首 里に住まわせた。こうして在地勢力としての按司の力を奪い、反乱 の芽を摘んだのであった。 また、中央からの宗教的支配が地方にまで及ぶよう神女の序列化 と秩序化を図り、聞得大君を頂点とするピラミッド型の神女組織を も作りあげた。こうした一方、外に向かっては宮古島、石垣島の両
島を制圧し、さらに奄美大島をも征服した。 第二尚氏王朝が始まったばかりの時代とはいえ、位階制による序 列化と秩序化による中央集権化と地方統治の推進の背景に、何らか の法が準備されていたと見ることはあながち見当外れではないはず である。それとともに、自らの王権の根拠を過去の歴史のなかに見 出そうとする動きが起こったとしても不思議ではない。政治が新し い時代へと向かうなかで、王国の過去を歴史的に位置づけることに よって、そこに現在にまで至った国家の根拠を見出そうとする。歴 史を記述し歴史書を編纂しようとする修史意識とは、このように時 代が未来へ向かおうとするなかで引き起こされてくる運動だからで ある。ところが、尚真王の時代に史書編纂の動きを示す史料は見出 しがたい。これはいったいどうしたことか。だがしかし、歴史意識 の芽生えならば、わずかながら見出すことができる。 例 え ば、 こ こ に 一 五 二 二 年 に 建 立 さ れ た「 国 王 頌 徳 碑 ( 石 門 之 東 之 碑 ) 」 が あ る。 こ の 碑 文 は、 標 題 に「 首 里 お き や か も い か な し の 御代にミやこよりち金丸ミこしミ玉のわたり申候時にたて申候ひの もん」とあるように、宮古島より宝剣治金丸と宝石が献上されたの を祥瑞として、尚真王の事蹟と徳を顕彰したものである。そのなか に王が殉死を禁止したとする、以下のような一節がある。 昔年、舜天・英祖・察度三代以後、其余世主、雖遷化、不用同行。 其以後百年以来、 男女競進同行。 其数及二三十人矣。 以下人民応分、 斉死去。仙岩曰、非道義也。 当君曰、 朕惟此道凶事也。 不可用之。 聖母入滅日、 於国家具禁遏焉 ⑺ 。 (句読点、筆者) こ こ で 注 目 し た い の は、 「 昔 年、 舜 天・ 英 祖・ 察 度 三 代 以 後、 其 余世主、雖遷化、不用同行」とある一文である。舜天王統・英祖王 統・察度王統それぞれの始祖を初めとして、その他の国王が死んだ ときも、これまで殉死は行われなかったという事柄を記すのに、舜 天王統より説き起こしている。 続 く 第 四 代 尚 清 ( 在 位 一 五 二 七 ~ 一 五 五 五 年 ) の 時 代、 一 五 四 三 年 建 立 の「 国 王 頌 徳 碑 ( か た の は な の 碑 ) 」 の 表 の 碑 文 の 冒 頭 に も、 次のようにある。 首里天の御ミ事をかミ申、みちつくりまつうへ申候ひのもん 大りうきう国中山王尚清ハ、そんとんよりこのかた二十一代の王の 御くらひをつきめしよわちへ、天より王の御なをは、天つき王にせ とさつけめしよわちへ、御いわひ事かきりなし。王かなしハむまれ なから、むかしいまの事をさとりめしよわちへ、天下をおさめめし よわる事、むかしもろこしのていわうきよう・しゆんの御代ににた り ⑻ 。 (句読点、筆者) 「 首 里 天 の 御 ミ 事 を か ミ 申、 み ち つ く り ま つ う へ 申 候 ひ の も ん 」 と標題にあるように、この碑文は、首里城の東にある弁御嶽に通う 参 詣 路 を 修 造 し 松 を 植 え て 整 備 し た 尚 清 王 の 徳 を 頌 え た も の で あ る。そのなかで「そんとんよりこのかた二十一代の王の御くらひを つきめしよわちへ」と、尊敦より数えて二十一代目の王位を継承し た「中山王」として尚清を定位している。言うまでもなく「そんと ん (尊敦) 」 は舜天王の神号である。 さらに下るが、 一五九七年の 「浦 添 城 の 前 の 碑 」 に も、 「 り う き う こ く ち う さ ん わ う し や う ね い ハ そ んとんよりこのかた二十四たいのわうの御くらゐをつきめしよわち へ」とある。第七代尚寧 (在位一五八八~一六二〇年) は、尊敦 (舜 天 王 ) よ り 数 え て 二 十 四 代 目 に 当 た る「 琉 球 国 中 山 王 」 だ と 位 置 づ
ける。実は舜天王は伝説上の王ではあるが、これらの碑文ではその 舜天王を琉球国王の最初に位置づける歴史認識が定着しているよう に見える。 そうした歴史認識はこれ以後 『中山世鑑』 『中山世譜』 『球 陽』などの正史にも継承され、舜天王をもって琉球国王の始祖とす る系譜が記述されてきたのである。 これは即ち、琉球国王の初代を舜天王とし、そこから数えて当代 の国王を系譜化する歴史認識が、十六世紀の王府周辺で共有されて いたということを意味していよう。そうした歴史認識の始まりをさ らに絞り込んでゆくと、前掲の碑文が示すように尚真王の時代まで 遡 れ る の で は な い か。 「 国 王 頌 徳 碑 ( 石 門 之 東 之 碑 ) 」 の 碑 文 は、 円 覚寺第六代住持仙岩の撰になるが、仙岩は首里王府の意を受けてこ の碑文を記したものと思われる。尚真王の時代こそは、強力な中央 集権化によって、第二尚氏王朝による琉球王国の堅固な基礎を作り 上 げ た 時 代 だ っ た の で あ る。 そ う し た 時 代 に 王 国 の 基 礎 を 過 去 に 遡って検証しようとする歴史意識が醸成され始められなかったとは 考えられない。その結果が琉球国王を舜天から始める歴史認識だっ た の で は な い か。 こ の よ う な 内 発 的 な 理 由 が 確 実 に 醸 成 さ れ な が ら、にもかかわらず、尚真の治世下には正史の編纂というところま では至らなかった。歴史意識の醸成と実務としての正史の編纂撰述 との間には相当の径庭があったと考えるべきであろう。 二 古 琉 球 の 表 記 史 先にも述べたように、琉球王国最初の正史『中山世鑑』が編纂さ れ た の は、 十 七 世 紀 の 中 葉、 一 六 五 〇 年 の こ と で あ っ た。 「 国 王 頌 徳 碑 ( 石 門 之 東 之 碑 ) 」 か ら 百 三 十 年、 「 国 王 頌 徳 碑 ( か た の は な の 碑) 」 からも百年が経っている。 正史の編纂がここまで遅れてしまっ た原因は何だったのか。 正史の編纂にはまず何よりも書記するための文字が必要である。 ここで古琉球の表記史を振り返っておこう。まず十五世紀初めに、 仮名書き文の例がある。第二尚氏へと王朝交替する一つ前の第一尚 氏の時代だが、室町時代第四代将軍足利義持が「りうきう国のよの ぬし」へ宛てた書状が記し留められている。本文に「御文くハしく 見申。しん上の物ともたしかにうけとりぬ。応永廿一年十一月廿五 日 公方よりりうきう国のよのぬしへ」とあるので、この書状は琉 球 国 の 世 の 主 の 書 状 へ の 返 書 だ と わ か る ⑼ 。 応 永 二 十 一 年 ( 一 四 一 四 ) と い う 年 代 か ら、 こ の 世 の 主 と は 第 一 尚 氏 の 尚 思 紹 ( 在 位 一 四 〇 一 ~ 一 四 二 一 年 ) で あ ろ う と 思 わ れ る が、 尚 思 紹 の 書 状 は「 純 然 た る 漢 文 で は な く、 日 本 で 常 用 さ れ て い た 候 文 ( 和 様 漢 文 ) 」 だ っ たのであろう。それに対して、将軍からの返書は「御内書の様式で 女房奉書に類する」仮名文で書かれたのであった ⑽ 。 仮名書き文の例をさらに探すと、数多くの碑文に見出すことがで きる。最古の例は一四九四年の 「おろく大やくもい石棺銘」 である。 「 弘 治 七 年 お ろ く 大 や く も い 六 月 吉 日 」 と 刻 ま れ て い る だ け だ が、尚真王代の高官 「小禄大親雲上」 なる人物名を仮名書きする ⑾ 。 こ れ 以 下、 琉 球 に は 一 五 〇 一 年 の「 た ま お と ん の ひ の も ん 」、 一 五 二二年の「真珠湊碑文」 、一五二二年の「国王頌徳碑」 、一五二七年 の「崇元寺下馬碑」等、十三碑の碑文に仮名書きが残されている。 さ ら に は 田 名 家 が 蔵 す る「 中 国 渡 航 辞 令 書 」 ( 一 五 二 三 年 ) や「 南 蛮 渡 航 辞 令 書 」 ( 一 五 四 一 年 ) も、 「 嘉 靖 」 と い う 中 国 の 元 号 を こ そ 使え、辞令の内容は仮名書きで、のちのノロに対する辞令書と同じ
様式であった。 十五世紀の古琉球に見られるこうした仮名書き事例について、高 良倉吉は以下のように整理している。 ①仮名文字はおそらく十三世紀以後に日本から渡来した僧侶によっ てもたらされ、十五世紀初期には琉球の対日外交に参与した日本僧 たちにより仮名表記の文書が作成されるまでになった。②その後仮 名文字は琉球において定着し、十五世紀末から十六世紀には辞令書 を は じ め、 石 棺 銘 書、 碑 文、 『 お も ろ さ う し 』 の 記 述 に 多 用 さ れ る ようになり、明確に琉球内において漢文とともに公用文の位置を占 めるまでになった ⑿ 。 この背景に、高良は表音文字である仮名が琉球語を表しやすかっ たとし、日琉間には「お互いを一般の外国とは考えない一種の同文 同種意識に立つ同胞観」がその基礎にあったと指摘する。島村幸一 も ま た、 碑 文 や 辞 令 書 に 見 ら れ る 平 仮 名 を 基 調 と す る 表 記 は、 「 王 府の国内文書にあっては正式な表記」であったのであり、 この正書法は、少なくとも前代の王統である第一尚氏の時代(一四 〇 六 ~ 一 四 六 九 年 )) に は 成 立 し て お り、 お そ ら く、 そ れ は 王 都、 首里方言をベースにした共通語に基づいて作られたのもであったと 思われる。 と 論 じ て い る ⒀ 。 古 琉 球 社 会 に お い て は、 日 本 の 仮 名 書 き 表 記 が 王 府の公用表記として確実に定着していたといえる。 一方の漢文体についても、一四二七年の「安国山樹華木之記碑」 を 始 め と し て、 「 円 覚 禅 寺 記 碑 」 ( 一 四 九 七 年 ) 、「 官 松 嶺 記 碑 」 ( 一 四 九七年) 、「サシカヘシ松尾之碑文」 (一五〇一年) 、「真珠湊碑文」 (一 五 二 二 年 ) と、 古 琉 球 時 代 に お い て は、 尚 真 王 代 の 碑 文 が い く つ か 見られる。こうした漢文による碑文を始め行政文書や外交文書は、 久 米 村 三 十 六 姓 と 呼 ば れ た 中 国 人 移 住 集 団 が 作 成 し て い た の で あ る。このように見てくると、和文の仮名書き文体であれ漢文体であ れ、どちらでも歴史書を書記する表記法はすでに確立していたと見 るべきであり、いずれの表記を用いるにしても、表記法の上では正 史編纂の準備は十分に整っていたと見ることができる。 にもかかわらず、編纂撰述という段階まで至らなかった。それは なぜか。この点について参考となるのは、一七一三年成立の『琉球 国由来記』の序の一節である。 夫王者之治其国也、莫要乎礼。故周公制礼、天下為之法焉。蓋我中 山、自舜天王而来、明王更作、良臣交出。既至尚円王、而礼法大備 矣。奈何文契未盛、典記不備。是故本国、凡禁城諸公事、及毎年毎 月、所有儀式、其所由来者、至今無従考稽焉 ⒁ 。(下略) 我が中山王国では、舜天王以来、代々の明君が法を作り、良臣が 支えてきた。尚円王の時代に至り礼法大いに備わってきたが、奈何 せん文書にする習慣がなく、書物の形になっていない。それゆえ、 王城の公事や毎年毎月の儀式の由来について、今に至るまで考察を 加 え る こ と が な か っ た。 「 奈 何 文 契 未 盛、 典 記 不 備 」 と、 法 や 制 度 の文書化の遅れが指摘されている。これは歴史書の編纂についても 言えることなのではなかろうか。すでに述べたように、歴史書の編 纂に必要なのは、第一に歴史意識の醸成と表記法の確立であろう。 次に要請されるのは、歴史書の様式と叙述スタイルの獲得である。 範とすべき史書に基づき、歴史叙述にふさわしい文体の確立によっ て初めて記述が可能になる。十五世紀には日本から僧侶や海商、文 化 人 や 技 術 者 な ど の 交 流 が 確 認 さ れ る と は い え、 尚 真 王 代 の 琉 球
に、日本の史書がどの程度舶来していたのかどうか。その当時の日 本の文献となれば、いずれも写本であろう。 ま た 漢 籍 に つ い て は、 『 中 山 世 鑑 』 の 五 十 年 後 に 成 っ た 正 史、 蔡 鐸本『中山世譜』 (一七〇一年成立) の序に、 『史記』や『資治通鑑』 に 準 拠 し て 編 述 し た こ と が、 「 臣 蔡 鐸 等、 命 を 奉 じ 来 た り て 厥 の 職 を司り、敢へて固陋にして文無きを言はず、史記通鑑の例に遵依し て全部を編成し、恭しく上覧に備ふ」 (原、白文) と記されている ⒂ 。 正 史 の 編 纂 に は 範 型 と す べ き 史 書 の 存 在 が 不 可 欠 で あ る。 『 中 山 世 鑑 』 に つ い て も『 史 記 』『 資 治 通 鑑 』 そ の 他 の 史 書 を 参 照 し た こ と だったろう。だが、十六世紀前後の尚真王の段階でそうしたことが 可能だったのだろうか。十四世紀後半より中国明朝との間に始まっ た朝貢貿易や久米村三十六姓を通して、舶来されたことは十分に考 えられるのであるが、確証を見出していない。 こ の よ う に 見 て く る と、 琉 球 最 初 の 正 史 の 誕 生 を 遅 ら せ た 理 由 は、和文にしても漢文にしても参照すべき歴史書がなかったこと、 またそのために叙述すべき文体を創り出すことができなかったこと が挙げられるのではなかろうか。こうした点が解決されるために、 尚真王の時代から、さらに百数十年後の時代を待たなければならな かったのである。 三 ﹃ 中 山 世 鑑 ﹄ の 物 語 叙 述 『 中 山 世 鑑 』 は 琉 球 の 公 式 文 書 の 文 体 と し て は 特 異 な、 漢 字 カ タ カ ナ 交 じ り で 記 述 さ れ て い る。 全 五 巻 か ら な る が、 「 琉 球 国 中 山 王 舜天以来世纉図」と「先国王尚円以来世系図」の系図がまず掲げら れ、冒頭に「琉球国中山王世継総論」と題して本書の概要が簡潔に 纏められる。本文に入って、巻一は「琉球開闢之事」に始まり、舜 天王・舜馬順煕王・義本王の舜天王統の三代が、巻二は英祖王から 大成王・英慈王・玉城王・西威王・察度王・武寧王までの英祖王統 が、巻三は尚巴志・尚忠・尚思達・尚金福・尚泰久・尚徳と続いた 第一尚氏王統の事蹟が続く。巻四は第二尚氏王統第一代の尚円と第 二代尚宣威、巻五は第三代尚真を欠いて第四代尚清にもっぱら充て ら れ、 「 世 継 総 論 」 で は 記 述 の あ っ た、 そ れ 以 後 当 代 の 尚 質 ま で の 五代については、まったく触れられていない。 標題ごとに項目化されたそれぞれの王・国王について、先王との 続き柄、母妃、即位年と薨去年、在位年数、享年が記述される。こ れを基本の内容として、さらに即位前記を始めとする物語的叙述、 また冊封使の派遣、国王・王妃へ下賜された綵幣、明の皇帝からの 勅諭などが、編年体で記録されている。このような構成になる『中 山世鑑』の内容を日本古代の歴史書になぞらえて言えば、 『古事記』 の「帝紀」及び「本辞」に、 『日本書紀』のような編年体の「帝紀」 を 加 え た 構 成 と い え る。 と 言 っ て も、 物 語 的 な 部 分 は、 『 古 事 記 』 の「本辞」と異なり、説話というより明らかに物語の叙述になって いる。 また巻五は「前後に類のない盛代であるに拘らず」第三代尚真の 記 述 を 欠 き、 次 の 尚 清 一 代 に 充 て ら れ 終 わ っ て い る ⒃ 。 し か も こ の 巻は「尚清の項など、資料を羅列しただけの草稿であろう」などと 評される如く ⒄ 、 直接引用された史料のオンパレードである。 冊封、 綵 幣、 崇 元 寺 で 尚 真 王 諭 祭 ( 諭 祭 文 と 祭 品 ) に つ い て は 陳 侃 の『 使 琉 球 録 』、 冕 嶽 の 路 の 石 普 請 竣 工 は「 か た の は な 碑 文 ( 表 か な 書 き と 裏 漢 文 ) 」、 世 纉 石 墻 の 石 普 請 竣 工 は「 す ゑ つ ぎ 御 門 の 南 の ひ の も
ん」 、首里城内の石墻竣工は「添継御門北之碑文」 、やらざ森城の石 普 請 竣 工 は「 や ら ざ も り に た ち 申 ひ の も ん 」、 ま た 尚 清 の 即 位 を 祝 して天神キミテズリが出現したとする記事や大美御殿造営竣工の記 事では、 『おもろさうし』 が引用されている。 このように 『中山世鑑』 は整理も不十分なところがあり、全体的な統一感に欠ける。 そうしたなかで大きな特徴となっているのは、六国史などにはほ とんど見られない物語的な叙述であろう。その内容は、源為朝の渡 琉 と 舜 天 誕 生 譚 ( 巻 一 ) や 天 人 女 房 譚 と 炭 焼 き 長 者 譚 か ら な る 察 度 王物語 (巻二) 、尚円即位までの物語 (巻四) であったり、尚巴志の 山 南・ 中 山・ 山 北 討 伐 ( 巻 三 ) 、 尚 徳 の 鬼 界 島 出 征 ( 巻 三 ) 、 北 夷 大 島 の 謀 叛 制 圧 ( 巻 五 ) の よ う な 合 戦 譚 で あ っ た り す る。 こ れ ま で こ う し た 物 語 叙 述 に つ い て 一 部 の 物 語 を 除 い て 特 に 注 目 さ れ て こ な かったが、本史はこうした本辞部分と、編年体からなる冊封記事の 帝紀を交互に配することによって編述されているのである。世鑑に はなぜ合戦譚が多いのか。しかもその叙述の生成には、文字による 記述以前にいくさ語りの存在さえ窺わせる文体を残している。これ はいったい何を意味するのか。さらにはまた、こうした物語叙述は 何に範を求めて記述されたのか。 これら物語叙述のうち、源為朝の渡琉と舜天誕生物語に関して、 日琉同祖論を主張する編者向象賢の政治的思想的立場とも関連する こともあってか、日本中世の軍記物語との影響関係が早くから指摘 され、古活字本『保元物語』の本文をそのまま抜粋したものとされ て き た ⒅ 。 近 年 で は 小 此 木 敏 明 が、 利 用 し た 版 本 の 特 定 を 試 み、 寛 永元年製版本が「表記法や文体の面からも『世鑑』に極めて近い」 と 結 論 づ け て い る ⒆ 。 筆 者 も ま た 以 下 の よ う な 趣 旨 を 述 べ て い る。 即ち、十六世紀前半、五山僧の間で語り出された為朝渡琉伝説が琉 球の民間に流布し、在地の為朝伝承を生み出した。そうした伝承が さらに発展し、為朝が大里按司の妹と通じて男子尊敦が生まれたと する、漂着以後の伝承が巷間に広がるようになった。しかも、この 尊敦誕生と妻子を琉球に残して日本に帰郷するくだりは、もちろん 古活字本にはない部分であるが、文体的に齟齬するところがなく、 木 に 竹 を 接 い だ 感 じ が し な い。 『 中 山 世 鑑 』 の 編 者 が い か に 軍 記 物 語に習熟していたか窺わせる文体になっているのである、と ⒇ 。 舜天誕生物語に在地の伝承から歴史叙述の文体への生成を指摘し たが、この点は察度王の物語についても指摘できよう。 「察度王ハ、 浦添間切謝那村、奥間大親ガ一男子也。母ハ天女也」と始まるその 誕 生 譚 は、 「 ア ル 時、 田 ヲ 耕 シ テ、 帰 ル サ ニ、 手 足 ヲ 洗 ン ガ 為 ニ、 森ノ川ニ行ケルニ、年ナラバ、二八ト見ヘタル、紅顔美麗ノ女房、 只独、沐浴ヲゾシケル」と語り出される。衣裳を隠された女は奥間 大親と結婚、一男一女をもうけると、典型的な天人女房譚の語り方 である。後にこの男子は勝連按司のもとを訪ね、その女子と結婚し たいと申し込む。乞食の風体ながら男子の頭に「天子ノ蓋」がいた だ か れ て い る の を 見 た 按 司 の 娘 は、 両 親 に 懇 願 し て 二 人 は 結 婚 す る。男の荒れ果てた庵に行くと、燭台に使われていたのは、なんと 黄金であった。これが黄金なら私の「田園」の周りにはいっぱいあ る と、 女 を 連 れ て 行 っ て み せ る と、 「 案 の 如 ク、 園 ノ ホ ト リ ニ 有、 石 ト 覚 シ キ 物 ハ、 皆 黄 金 ヤ、 銀 ニ テ ゾ 有 ケ ル 」。 こ の 黄 金 で 倭 の 商 船 か ら 鉄 を 買 い 取 り、 老 若 男 女 を 選 ば ず 飢 え た る 者 に は 酒 食 を 与 え、凍えたる者には綿袷を着せ、耕農の者には鉄を与えて農器を作 らせた。すると、国人は男を父母のように思い、勝連按司として仰
いだ。この按司が即位して察度王となったというような物語である が、前半は天人女房譚、後半は炭焼き長者譚によって構成されてい る。このうち天人女房譚は、尚真王夫人の誕生譚となった銘刈子の 伝説を始め、コバダウ御嶽やヱボシガワ御嶽の由来伝承と首里の周 辺にいくつかの伝承が見られるばかりでなく、奄美地方でもさまざ まに伝承されている、琉球の伝承世界を特徴づける伝承である。察 度王の誕生譚もこうした伝承世界と共通する世界から生まれた在地 の伝承であることは、言を俟たないであろう。 尚 円 即 位 ま で の 物 語 も、 「 伊 平 也 嶋 伊 是 那 」 に 生 ま れ た 金 丸 が 島 を脱出するまでのストーリーは、第一尚氏の始祖佐銘川大主の伝承 を 記 し た「 佐 銘 川 大 ぬ し 由 来 記 」 と 重 複 す る が 、 国 人 に 推 戴 さ れ て第二尚氏第一代の国王として即位するまでの叙述は、尚巴志の山 南・ 中 山・ 山 北 討 伐 ( 巻 三 ) 、 尚 徳 の 鬼 界 島 出 征 ( 巻 三 ) 、 北 夷 大 島 の 謀 叛 制 圧 ( 巻 五 ) の よ う な 合 戦 譚 と 文 体 的 に 地 続 き の よ う に 見 え る。しかも、こうした合戦譚は、日本中世の軍記物語とも連続して ように思えるのである。 世鑑の物語叙述には、日本中世の軍記物がいったいどの程度まで 踏 ま え ら れ て い た の だ ろ う か。 『 中 山 世 鑑 』 と い う 史 書 の 成 立 を 考 えるうえで、非常に重要な視点であろう。そこで、軍記物との影響 関係についてだが、これを端的に証すのが合戦場面での装束描写で あろう。 赤 地 ノ 錦 ノ 直 垂 ニ 、 沢 瀉 威 ノ 鎧 ニ 龍 頭 ノ 甲 ノ 緒 ヲ シ メ 、 二 十 四 差 タ ル 大 中 黒 ノ 矢 、 頭 高 ニ 負 ナ シ 、 重 籐 ノ 弓 持 テ 、 金 作 ノ 大 刀 ヲ ハ キ 、 鹿 毛 ナ ル 馬 ニ 金 覆 輪 ノ 鞍 置 テ 、 門 前 ヨ リ 打 乗 、 懸 出 給 ヘ バ 、 近 侍 ノ 者 共 、 吾 モ 〳 〵 ト 馳 来 リ ケ ル 間 、 無 p 程 五 十 余 騎 ニ ゾ 成 リ ニ ケ ル 。 僅 其 勢 ニ テ 、 首 里 ノ 城 ニ 押 寄 、 時 ヲ ド ツ ト ゾ 作 リ ケ ル 。 (巻一「南宋淳煕十四年丁未舜天御即位」 ) 去 程 ニ 山 北 王 、 今 ハ 是 マ デ ゾ 。 今 一 度 、 最 後 ノ 会 戦 シ テ 、 心 ヨ ク 自 害 ヲ モ セ ン ト テ 、 赤 地 ノ 錦 ノ 直 垂 ニ 、 火 威 ノ 鎧 ヲ 着 、 龍 頭 ノ 甲 ノ 緒 ヲ シ メ 、 千 代 金 丸 ト テ 、 重 代 相 伝 ノ 太 刀 ヲ ハ キ 、 三 尺 五 寸 ノ 小 長 刀 ヲ 腋 ニ 挟 ミ 、 花 ヤ カ ニ 鎧 フ タ ル 、 兄 弟 一 族 、 只 十 七 騎 、 三 千 余 騎 ノ 真 中 ニ 懸 入 リ 、 面 モ 不 p 振 、 火 ヲ 散 シ テ ゾ 、 モ ミ 合 ケ ル 。 (巻三「永楽二十年壬寅尚巴志御即位」 ) 前 者 は 浦 添 按 司 尊 敦 ( 後 の 察 度 王 ) が 逆 臣 利 勇 を 討 伐 す る 場 面、 後者は佐敷按司であった尚巴志が山南、中山に続いて山北を攻略し 三山を統一した、まさに合戦譚そのものの即位前記のなか、山北王 の最後を語る劇的な場面である。日本中世の軍記物にあって、合戦 場面での一人ひとりの武将の装束描写は、軍記物語を彩るもっとも 華やかな描写であるが、合戦の彼我の違いを超えて、世鑑もまた日 本の軍記物の描法に依拠していたことが明らかであろう。これは、 江戸時代初期に刊行された『保元物語』 『平治物語』 『太平記』など の版本が、世鑑編者の机辺に備えられていなければなし得ないこと な の で は な い か 。軍 記 物 の 影 響 は 歴 然 と し て い る と い え る の で あ る 。 『 中 山 世 鑑 』 と 中 世 軍 記 物 と の 参 照 影 響 関 係 を 探 る う え で、 直 接 引用までは確かめられないにしても、使用語彙の一致からも両者の 関係を確認してゆくことができる。 例 え ば、 「 血 気 ノ 勇 者 」 と い う 語 彙。 世 鑑 で は 第 一 尚 氏 最 後 の 王 尚徳に対して、暴虐無道の政治に、鬼界嶋朝貢せざること数年。そ こで度々攻撃を仕掛けるも、自軍のみ討たれて、鬼界嶋の兵は一人
も討たれない。そのためますます勝ち誇って尚徳を侮ったとする文 脈 の な か で、 編 者 は 尚 徳 を「 血 気 ノ 勇 者 」 と 評 し て い る ( 巻 三 ) 。 この語彙の語誌については、先の小此木論文のなかに簡潔に要約さ れ て い る が 、『 太 平 記 』 に は、 「 是 誠 ニ 血 気 ノ 勇 者 ナ リ ト 云 ヘ 共、 飽 マ デ 其 心 ニ 欲 有 テ、 後 ノ 禍 ヲ 不 p 顧 」 ( 巻 四「 備 後 三 郎 高 徳 事 付 呉 越 軍 事 」) 、「 当 国 ノ 十 人 大 森 彦 七 盛 長 ト 云 者 ア リ。 其 心 飽 マ デ 不 敵 ニ シ テ、 力 尋 常 ノ 人 ニ 勝 レ タ リ 」 ( 巻 二 十 三「 大 森 彦 七 事 」) の よ う な 用 例 が あ る。 そ の 説 明 と し て は、 「 血 気 の 勇 者 」 と「 仁 義 の 勇 者 」 に相違を説いた次の引用個所が、もっとも適切な説明と言えるだろ う。 夫 兵 ハ 仁 義 ノ 勇 者 、 血 気 ノ 勇 者 ト テ 二 ツ ア リ 。 血 気 ノ 勇 者 ト 申 ハ 、 合 戦 ニ 臨 ム 毎 ニ 勇 進 ン デ 臂 ヲ 張 リ 強 キ ヲ 破 リ 堅 キ ヲ 砕 ク 事 、 如 p 鬼 忿 神 ノ 如 ク 速 カ ナ リ 。 然 共 此 人 若 敵 ノ 為 ニ 以 p 利 含 メ 、 御 方 ノ 勢 失 フ 日 ハ 、 逋 ル ニ 便 ア レ バ 、 或 ハ 降 人 ニ 成 テ 恥 ヲ 忘 レ 、 或 ハ 心 ヲ モ 発 ラ ヌ 世 ヲ 背 ク 。 如 p 此 ナ ル ハ 則 是 血 気 ノ 勇 者 也 。 (巻二十九「師直以下被誅事 付 仁義血気勇者事」 ) 続いて軍記物にしばしば用いられる「葉武者」という語。鬼界嶋 の「 逆 徒 」 か ら 侮 蔑 を 受 け た 尚 徳 は、 「 何 条、 サ ル 事 ヤ ア ル。 葉 武 者ヲ遣セバコソ、逆徒ニモ侮レケメ」と、二千余騎の兵を率いて自 ら大将となり、那覇の港を出船する。この時の尚質の言葉のなかに 登場する。この語もまた『太平記』や『平治物語』に次のような例 が あ る。 「 敵 ノ 馬 ノ 立 様・ 軍 立、 尋 常 ノ 葉 武 者 ニ 非 ズ。 小 勢 ナ レ バ ト テ、 侮 リ テ 中 ヲ 破 ラ ル ナ 」 (『 太 平 記 』 巻 三 十 一「 武 蔵 野 合 戦 事 」) 、 「 子 細 候 ハ ジ。 敵 ノ 大 将 ヲ 見 知 ラ ヌ 程 コ ソ、 葉 武 者 ニ 逢 テ、 組 デ 勝 負ナセジト、軍ハシニクカリシ」 (『太平記』巻三十九「芳賀兵衛入道 軍事」 ) 、「大将軍にてもなかりけり。は武者どもとゞめて何かせむ。 物 具 を ゝ き て、 そ の 身 を ば 助 て と を せ と い ひ け れ ば 」 (『 平 治 物 語 』 中「 義 朝 敗 北 の 事 」) 、「 端 武 者 共 に 目 な か け そ、 罪 つ く り に。 大 将 軍 重 盛 計 に 目 を 懸 け よ 」 (『 平 治 物 語 』 中「 待 賢 門 の 軍 の 事 付 け た り 信 頼 落 つる事」 ) と頻出する。 あ る い は「 得 タ リ ヤ カ シ コ シ 」 な ど の 慣 用 句 も ま た、 「 得 タ リ 賢 シ 」 も 含 め れ ば、 「 敵 ノ 楯 ノ 端 ノ ユ ル グ 所 ヲ、 得 タ リ ヤ 賢 シ ト、 ヌ キ ツ レ テ 打 テ カ ヽ ル 」 (『 太 平 記 』 巻 七「 船 上 合 戦 事 」) 、「 少 猶 予 シ テ 見ヘケル処ヲ、得タリ賢シト三千余騎ノ兵共抜連テ、大山ノ崩ルガ 如ク、真倒ニ落シ懸タリケル間」 (『太平記』巻十五「建武二年正月十 六 日 合 戦 事 」) 、「 定 範 得 タ リ 賢 シ ト、 長 刀 ノ 柄 ヲ 取 延 源 八 ガ 甲 ノ 鉢 ヲ 破 ヨ 砕 ヨ ト、 重 打 ニ ゾ 打 タ リ ケ ル 」 (『 太 平 記 』 巻 十 七「 山 攻 事 付 日 吉神託事」 ) 、「小林民部丞得タリ賢シト、勝ニ乗テ短兵急ニ拉ント、 揉 ニ 揉 デ 責 ケ ル 間 」 (『 太 平 記 』 巻 三 十 二「 「 神 南 合 戦 事 」) と 用 例 が あ る。 ここまで縷述したところから、世鑑の物語部分は叙述様式の上で も文体の上でも日本中世の軍記物語の影響下に生成されたことが明 白であろう。世鑑は軍記物の様式を学び、その文体に習熟すること によって物語を記述した。逆に言えば、軍記物に出会うことがなけ れ ば『 中 山 世 鑑 』 の 物 語 部 分 は 生 成 し え な か っ た と 言 え る の で あ る 。 お わ り に 『 中 山 世 鑑 』 は 正 史 の 範 型 と す べ き 書 物 を 発 見 す る こ と に よ っ て 誕生した。その書物とは、和書では言えば『保元物語』 『平治物語』
『太平記』 などの中世の軍記物、中国史書では 『史記』 や 『資治通鑑』 などであった。こうした書物を参考にすることによって、琉球最初 の正史は完成したのであった。 琉 球 王 国 で は、 『 中 山 世 鑑 』 が 完 成 す る と、 こ れ を 嚆 矢 と し て 正 史 が 次 々 と 誕 生 す る。 一 七 〇 一 年 に は、 紫 金 大 夫 ( 久 米 村 を 統 轄 す る 最 高 位 の 官 職 ) 蔡 鐸 が『 中 山 世 鑑 』 を 漢 訳 改 訂 し た『 中 山 世 譜 』 を 編 修 す る ( 蔡 鐸 本『 中 山 世 譜 』) 。 続 い て 一 七 二 五 年 に は、 蔡 鐸 の 子 で 父 と 同 じ く 紫 金 大 夫 の 職 に あ っ た 蔡 温 が 修 訂 す る ( 蔡 温 本『 中 山 世 譜 』) 。 さ ら に そ の 後、 王 家 以 外 の 社 会 事 象 ま で 書 き 集 め た、 一 七四五年編纂の『球陽』まで修史事業が続いている。一方、正史の 編纂に連動して、王府は士族に対して家譜の編集を命じる。一六八 九年に王府に系図座が設置され御系図官が選任されると、系譜座に 家譜の提出を求めたのである。地誌についても、一七一三年には、 王城の公事、 官職制度、 諸事の事始、 王城と首里の御嶽と年中祭祀、 国廟・玉陵、諸寺旧記、密門諸寺縁起、琉球全域の御嶽と年中祭祀 等が記録された『琉球国由来記』全二十一巻が王府の手によって編 集される。また一七三一年には、先に成った『琉球国由来記』を簡 約再編集して漢文体にした『琉球国旧記』が作られている。こうし て見ると、十七世紀後半から十八世紀前半にかけての百年間は、王 府が修史事業や地誌作成、及び各氏族の系譜整備に最も心血を注い だ百年間だったと言ってよいだろう。その魁となったのが『中山世 鑑』だったのである 。 『 中 山 世 鑑 』 の 成 立 に つ い て は、 こ れ ま で「 薩 摩 の 方 針 」 を 汲 ん だ 「一種の政策」 の書、あるいは 「島津氏とのより深い関係の構築」 を 試 み た 書 と さ れ て き た 。 島 津 氏 の 琉 球 侵 攻 か ら 四 十 年 後 の 成 立 を考えるならば、至極当然の視点と言えるが、正史が成立するため にはそうした政策的な面だけで解決できるものでもなかろう。本稿 では史書成立の前提となる諸要件を琉球史のなかに探り、考察を加 えてきた。なかでも日本中世の軍記物語と出会ったことは大きかっ た。漢字カタカナ交じりで本文を記述したのも、この影響だろう。 こうした書物との出会いがなければ、琉球最初の正史の成立はさら に遅れたことになったはずなのである。 注 ⑴ 東 恩 納 寛 惇「 中 山 世 鑑・ 中 山 世 譜 及 び 球 陽 」( 伊 波 普 猷 浮 遊・ 東 恩納寛惇・横山重編『琉球史料叢書』第五巻 一九四〇年 名取書 店。一九七二年四月 東京美術)八~九頁 ⑵ 諸 見 友 重 訳 注『 訳 注 中 山 世 鑑 』( 二 〇 一 一 年 五 月 榕 樹 書 林 ) 二一七頁 ⑶ 田 名 真 之「 王 府 の 歴 史 記 述 」( 島 村 幸 一 編『 琉 球 交 叉 す る 歴 史 と文化』二〇一四年一月 勉誠出版)一五頁 ⑷ 三 浦 佑 之『 神 話 と 歴 史 叙 述 』( 一 九 九 八 年 六 月 若 草 書 房 ) 一 五 ~一六頁 ⑸ 沖 縄 県 教 育 委 員 会 文 化 課 編『 金 石 文 ―― 歴 史 資 料 調 査 報 告 書 Ⅴ ――』 (一九八五年三月 緑林堂出版)二三五頁 ⑹ 以下、 『球陽』からの引用は、球陽研究会編『球陽 読み下し編』 (沖縄文化史料集成5 一九七四年三月 角川書店)に拠る。 ⑺ 沖縄県教育委員会文化課編 前掲書注⑸二三六頁 ⑻ 沖縄県教育委員会文化課編 前掲書注⑸二三六頁 ⑼ 京都大学文学部国語国文学研究室編『元亀二年京大本 運歩色葉 集』 (一九六九年十二月 臨川書店)七四頁 ⑽ 高 良 倉 吉「 琉 球 の 形 成 と 環 シ ナ 海 世 界 」( 日 本 の 歴 史 第 14巻『 周 縁から見た中世日本』二〇〇一年十二月 講談社)一八六頁 ⑾ 沖縄県教育委員会文化課編 前掲書注⑸一〇一頁
⑿ 高 良 倉 吉『 琉 球 王 国 の 構 造 』( 一 九 八 七 年 十 月 吉 川 弘 文 館 ) 九 二~九三頁 ⒀ 島村幸一「 『おもろさうし』と仮名書き碑文記」 (前掲書注⑶)三 〇三頁 ⒁ 外 間 守 善・ 波 照 間 永 吉 編 著『 定 本 琉 球 国 由 来 記 』( 一 九 九 七 年 四月 角川書店)一六頁 ⒂ 『蔡鐸本中山世譜』 (一九七三年三月 沖縄県教育委員会)二三一 頁 ⒃ 巻四の最後は「吾朝ノ尚宣威モ、徳、尚真公ヨリモ勝レタルモノ ナラバ、神モ如何デカ人望ニソムキ、尚宣威ヲバ廃給ンヤ。是尚真 公、一ノ聖瑞也」と、このあと巻を改めて尚真王の叙述に進む終わ り方になっている。 ⒄ 田名真之 前掲論文注⑶一五頁 ⒅ 東 恩 納 寛 惇( 前 掲 論 文 注 ⑴ ) 以 下、 田 名 真 之( 前 掲 論 文 注 ⑶ )、 末 次 智「 歴 史 叙 述 の 位 相 王 朝 の 歴 史 書 」( 『 琉 球 宮 廷 歌 謡 論 』( 二 〇 一 二 年 十 月 森 話 社 )、 池 宮 正 治「 歴 史 と 説 話 の 間 ―― 語 ら れ る 歴史――」 (『琉球史文化論』二〇一五年二月 笠間書院)など。 ⒆ 小 此 木 敏 明「 『 中 山 世 鑑 』 に お け る 保 元 物 語 の 再 構 成 ―― 舜 天 紀 を中心に――」 (『立正大学国語国文』 第四十六号 二〇〇八年三月) 七九頁 ⒇ 保坂達雄「 『中山世鑑』 、矛盾を孕む史観」 (『古代学の風景――折 口信夫・琉球・日本――』二〇一五年七月 岩田書院)一三頁 保 坂 達 雄『 神 話 の 生 成 と 折 口 学 の 射 程 』( 二 〇 一 四 年 十 一 月 岩 田 書 院 ) 三 二 ~ 三 六 頁、 同「 〈 型 〉 を 襲 う 物 語 ――「 佐 銘 川 大 ぬ し 由来記」の説話生成――」 (前掲書注⒇)一九~二二頁 小此木敏明 前掲論文注⒆八三頁 池宮正治によれば、島津氏の琉球侵攻の状況を記録した「喜安日 記」は、 「『中山世鑑』にほど遠くない時期」に纏め上げられたもの であるが、それには『平家物語』 『保元物語』 『平治物語』からの借 用が本文の二分の一の分量を占め、そのうち八割が平家からだとい う( 「『喜安日記』解説」 〈池宮正治前掲書注⒅〉三九一頁) 。 琉球王朝の修史事業については、末次智(前掲書注⒅)参照。 東 恩 納 寛 惇 前 掲 論 文 注 ⑴ 一 七 ~ 一 八 頁、 田 名 真 之 前 掲 論 文 注⑶一五頁 (ほさか・たつお/國學院大學大学院(非) ) 西 田 谷 洋 編 ﹃ 女 性 の 語 り / 語 ら れ る 女 性 日 本 近 現 代 文 学 と 小 川 洋 子 ﹄( 二 〇 一 五 年 一 二 月 一 七 日 一粒書房刊 八九頁 私家版) 川上弘美『センセイの鞄』論――語り手によ る 物 語 の 生 成( 上 野 未 貴 ) 現 代 か ら 反 戦 へ の語りを代行すること――立原えりか「アイ スキャンデー売り」 (舟橋恵美) 女語りと自 己 承 認 ―― 村 上 春 樹「 眠 り 」「 加 納 ク レ タ 」 「緑色の獣」 「氷男」 (西田谷洋) 周囲に目覚 めさせられた性――田村俊子「枸杞の実の誘 惑」 (高木佐和子) 千春の戦術――江國香織 「 藤 島 さ ん が 来 る 日 」( 高 田 雅 子 ) 孤 独 を 演 じるということ――江國香織「ねぎを刻む」 (山道貴代) / 小川洋子教科書教材を読む 物語による弔い――小川洋子教科書教材の世 界( 高 木 佐 和 子 ) 過 去 と の 邂 逅 ――「 ト ラ ン ジ ッ ト 」( 西 田 谷 洋 ) 例 外 状 態 の ゆ く え ――「バックストローク」 (高木佐和子) 虚 構の効用―― 「飛行機で眠るのは難しい」 (高 木 佐 和 子 ) お ぞ ま し き 距 離 化 ――「 果 汁 」 (西田谷洋) 過去を超えて今を見つめること ――「 リ ン デ ン バ ウ ム 通 り の 双 子 」( 高 木 佐 和 子 ) ポ ス ト・ ヒ ュ ー マ ン の 内 実 ――「 博 士の愛した数式」 (西田谷洋) 捏造する守護 天使――「巨人の接待」 (西田谷洋) カタス ト ロ フ か ら の 救 済 ――「 ハ キ リ ア リ 」( 西 田 谷 洋 ) / あ と が き ―― 江 國 香 織「 ね ぎ を 刻む」から(西田谷洋) 紹 介 新 刊