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英國中世の毛織工業

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(1)

︵一)毛織工業の初期の歴史

エドワード三世︹1327‑77︺の時代に'﹁この国の能も価値あり且つ最も豊富な商品﹂印としての毛械物の製造等

に対して最初の天なる判職が与えられたOしかし︑英国の羊毛工票の歴史は遠‑十四健紀以前に遡ることができるQ

へソリー1惟︹1100‑35︺とヘンリー二華︹1154‑﹂Uの時代に.︑すでに毛紙物職人はロソ下ソ︑オックスフォード'

で=税も著るしいのほロソドソのギルドで'その紙物職人達は大蔵省に十二︒ハウyFの税金 (farm) を納めていた︒

巽他のギルドはヨークの十パウソ下を最高としハどテインドンとノッチインガムの四十シりソグを故紙とする範囲 内で税金を負担していた︒更に毛紙物差の他の中心地はスタソフォードであった︒そこの染色工と払工とは二八二

年にスクγ︑フォードの領主とピーターバラーの僧院との間に締結された協約に記載されている︒スタンフォードが︑

オックスフォードやケムブリッジに対する好敵手として︑・大学都市として有望視された時代もある︒十二世紀と十三

世紀とを通じて︑国内いたるところ紅組軌的な毛紙物工票が発達しっ1あった︒その初期の歴史は明かにされてい疑

いので︑そのエ票が繁栄した土地に注目すべきである︒ヨークシャーで毛舐物取引の主なる中心地はヨーク宙である

が︑そこはしばしば考えられたように︑のその州で毛紙工業を独占していたわけではない︒ヨークシャ1のピーヴア

リーや冬カーボロー等の諸都市も毛胱物を製造していた︒羊毛工柴はウエスト・−フイデイソグ地方を通じて普及し姑

1

(2)

〆めた︒そして早い時代にウエ1クブイルド︑ハリファックス左ブ一フザドフォードでは既にウエスト・一フイヂイY

グと関 連をもっていた︒とのととは織物工業が部会のみならや︑農村地方でも発達しつつあったととを示している︒事実︑

一二六四年のライスグーでの商人ギルドの規則は︑段物工が近隣の村の織物を作るととを︑仕事が足り喝ない場合は別

として︑禁止していたが︑との乙とは都会と農村との工業上の競争関係が︑一般に織物工業史の研究家が考えるより

ももクと古くからあったととを物語るものであろう︒更に叉それは織物工業の犬きさと主要性とを一不す一つの証拠と

1羊毛工業がグロ

1シャI︑ソマ1セットシャーやハムプシヤ1の村唱えで普及しつクあクた徴候がある︒例え

ば︑クリヴリーとホ1

クスパワーに沈張工が居り︑チヱルデ

γハムとダγスグーに織工︑ワルグム︑サヅトγ︑プル

レスフォードに沈張工場.が見られる︒ノ1フォークでは毛織物取引業(当︒

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0)がウ1スデヴドとアイルス

ハムに成立もた︒ノルウイツチはまだ織物工業の土地にはなって語ら宇︑皮革と皮革製品の取引をしていたが︑フラ

γスの年代記作者ジヨルグγ

γ

トムの説明するところによると︑一一七四年の反乱によってその市が容易陀占 領されたのは︑ノルウイツチの市民が﹁犬部八乃は織物工であったために︑武器をとる術を知らなかった﹂ととに依る とされる︒それはともかくとして︑住民の或部介は羊毛工業の仕上の工程である洗張と染色に従事していた口サツフ

ォークではパリ1

γト・ェドマγ

ズに洗張工︑イプズウイツチに織物商︑染色工と織物工︑ブラックパ

1γ

に品物工が居った︒ラγカシャーに織布工業があった乙とは︑マγチェスグ1

7

11クやコルYやパlyリに沈張工場

が建設されたととによって知り符られる︒他方︑グルハ1のボルド

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γの染色工に

ついて記述している︒プルージュから渡来した織物職人が十四世紀の初期にエセックスに定住じたと伝えられバ又コ

ルチェスグーではその住民の犬部八万が織物工業に従事して居り︑コグスハルが他の中心地であったロオクスフォード

はその州で指導的地位を占めていた︒しかしウッドストックも叉織物工︑染色工︑裁縫工で侵れていたロ他方︑パー

クシヤ1のウオワγ

グフォードでは早くから市民の名簿の中で織物工が目立クていた︒英国の西部ですら織物業は確 回たる地歩を占め︑急速に発展した︒シュロプシヤ1のプヮジノ1スでは︑早くも一二

O

三年に陪審官が織物の量目

(3)

規定(自己NO)が都市内で定められていたい乙とに対して不服を唱えた口プ円リストルでは一=一一一一年の徴税簿

(E Zm o

g = )

によれば︑市民の大凡五分の一は羊毛工業に関係があり︑又市の大通の一部は呉服商路(巴

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た︒シレγスグーでは︑へYU1三世︹同凶日∞l

芯︺の時代に織エや染色工が住んでいたわ

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百四印片足立は染屋町3

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として知られるようになクた口又トウクスパりーには洗張屋町(匂己

] 0 3 . g s z )

があクた︒ワー

スターとイヴスハムには織工と染色工が居り︑ヵーヂイフにも織物業があクた二︑三の徴候が見られる︒

昔から英国内の大部分の地方で羊毛工業が営まれて居ったことを多くの史料が示しているが︑更にそれらの地域的

差具を見る必要がある︒十二世紀当時の英国内で各種の織物工業にクいての或程度の智識が与えられる︒一一八二年に

リシヵ

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1の代官

宮ミウが国王の御用品として毛布を購入した︒その勘定が記載されている記録文書

(EUO

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﹀によると﹁緋﹂の毛布一ヱル(四十五吋)にクき六シリ

Vグ八ベシス︑白毛布は三シリシグ︑禄三シリシグ︑

灰一シリング八ベシスである︒げ︼ω

WZ

の言葉が現れたのは︑従来考えられていたよりももクと古いのである︒

(二)毛織物の規格規定(ωgNO)と輸出

一一九七年のリチヤード一世の有名な規格規定は当時の英国政府の毛織物製造に対する関心の深さを一不すものであ

るロそれによると毛織物の法定規格を定め︑その規定を道守させるために︑各都市に四人或は六人の役人主任命し た︒しかし実際には︑乙の規定は

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円 ︒ m z w m w

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といわれる一種の罰金を支払う乙とによ

クて無侃された.︒更にジヨγ王の治世の一二O

二年にはノツテイシガム︑スグ今ォード︑ピヴア

1l︑リシカl

yを合む多数の都市が︑﹁ヘシリ1

二世時代に行われていた慣習に従クて︑染色せる毛布を売買する﹂権利を国王か

ら買収した︒しかしジヨシ王の治世の終頃の大憲章では更にこの規格規定が命令された白ーその目的は正規の商業を促

進するためであり︑家庭で門職による織物の販売を制限し︑織物の専門職人を保護せんとするにあクた白叉それは商 人が外同から色え兵った種類や品質の毛布を輸入することを禁じた︒∞当時毛織物を黒く染める唯一の原料としての 大古染料

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) 仰の輸入を促進せんがために︑ロシド

γ

︑ノルウイツチ︑プリストルの業者達の外国商

人に対する嫉妬を絞和しなければならなかクた白当時その大量が輸入され︑関税収入は多額に上クた︒

(4)

史料が乏しいのにも拘らや︑よドフード三世時代︹お凶日

11

13

︺にフラγ1ス職人の来往工りやクと昔に︑十二・

十三世紀を通じて︑同内いたるところで毛散物が家庭の刑業としてでわたく︑専門職人の千で製造・販売されていた

ととは明かである︒乙の事実は従来多.くの草者に宕遇されて来た乙とであるが︑

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1

既に早くから認められていた︒一六七七年に彼は次の工うに書いている︒﹁ヘシリ

1二世︹口忠

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1 F

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︺の時代に我国ではその技術が者るしく繁栄していた︒﹂その技術とは毛織物の乙とであり︑次の時

代には衰退したが︑エドワ1

下三世︹ロ

ω

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時代には﹁外人技術者を侭過するととによクて︑再びその技術が復

活した︒﹂ゆ高純品は明らかに愉入品であったが︑英同製品が輸出用に製造されなかったと考える乙とは誤である︒ス

グ今ォードの毛布は一二六五年当時ヴエニスに市場をもクていた︒ヴエニス議会が工一宮口

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に輸

入税を課したととは︑スグ今ォードの毛布が欧州で名戸を内していたととを示すものであり︑それ以来模造口聞が出 る上うに汝クた︒その他多くの地方製品が輸出されたのであって︑一二七二年にスペイジ商人が商品を盗まれた事件

1ヴプリ1︑ヨークの毛布が八円まれていた口乙の当時︑英同の毛布がスペイYに輸

出されていた乙との史料は他にもある︒イプスワイツチのり︒自

2 2 ω

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は︑英同の毛布の或麓のものを列挙し

ているが︑それらは各地方で買われ︑イプスウイツチの商人の千によって海外へ出すために輸出税を支払われた︒そ

の記録はピ1ヴアリ1とりシヵ

l

11yの染色毛布︑コグスハル︑コルチェスグ︑マルドy︑サドパリの毛布が合ま

れている︒これらの侵秀な英同毛布は悶王の衣服用に購入された口例えば一二三三年には国王はリ

Y

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y︑ヨー

ク︑ピ1ヴアリ1

1の毛布を犬萱に買入れた口

(三)十三世紀と十四世紀初期(エドワード二世時代)の保護政策

一一一五八年にオクスフオ

1

議会は羊毛の輸出を禁止し︑﹁国内の羊毛は英同で泊費すべし︑外国人に売るべからF

宇︑各人は同庄の毛布を使用すベし︒﹂との命令を出した︒当時の英同政府が却して如何たる点まで国内の毛織染者

の利誌を保護せんとする熱意をもクてかかる命令を出したのか︑或は又ブ一フシダース人に対する外安政策上の武法を

目的としてかかる羊毛輸出制限令を出したのかについてはそれを決定する乙とは困難である︒かくて一一一七一年に羊

(5)

毛の輸出は川び決仇されたが︑この勾介にはそのゆれは明らかに政治的であった口その前年にブ一フシダースの領主が

英国王から針︒求されたれ伏の弁済にあてるために︑ブラシグ1スに十代住中の英同市人の財産を没収した︒英国政府は

それに対する報復手段として︑フランダース地方えの羊毛の輸出を禁止したが︑依然としてその地方え羊毛が輸出さ

れていることを知クて︑小川作えの山山在全日間的に禁止したのである︒同時にそれは一クのそれと密接な関係がある政

策なもたらしたが︑その会両的な立味にクいてはエドワード三世の時代に漸く明かになる口その政策は次のことを規

定している︒﹁男女及びブ一ブシグ1ス人たるとその他の外国人たるとを間わや︑毛織物職人はわが国に安全に来往する

ことができる︒毛織物製造のために来往する者は︑五年間は市場税(ぎ己自弘

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を免除される︒﹂しかし︑国内産業を保護奨励せんとする計画は充介の効果をあげ得たかクたようである︒後年︑ブ

ラシス玉︑プ一ブパシ公及び其他の諸公の例に低みて︑その保護政策は明らかに放一架され︑羊毛の輸出はブ一フシダ1

を除い・て詐可されたD

それにもかかわら宇︑右のととは英国に外国人織物工を招来せんとする計画がエドワード三世

に初ったものでわなくて少くとも二世代以前の英国王の胸中にすでに抱懐されていたことを示している︒

初期に於ける英国羊毛工業の状態が如何にあクたにせよ︑十四世紀の初期にすでにそれが衰退し始めていたことの 明白な徴候がある︒ジヨシ王︹

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凶日∞︺の時代にオクスフォードの成物工は六十人左越えていた︒一二七五年にH

十五人︑一二九

O年に七人に減少し︑一三一一一一一年には一人も居ドりなくなった︒ヨークの織物工も同様の状態にあク

た︒エドフード一世及び同二世の下で十三人の自由農民(同

50 52 )

が毛布製造に従事して居るにすぎなかったが︑

役山山口十ポシドの織物工税(48︿O吋叱出向田)を支払い件︑なかクた︒リシカ

l y

の織工は二二四八年に︑ヘシリ1

二世の下で二口人主越えて足り︑毎年六ポンドの和税を支払い得る官める且つ有力な団体をなしていたことが宣午一目さ

れている︒二二一二年に彼等は支払不能に陥り︑それ以米︑同市とその近郊には械工は一人も見られないようになり︑

数年後の一三三二年当時に数人の紡糸工が復活したに止クた︒ヘシリ

1三世の時代にノl

ザムプトシは三百人の織物

工が居り︑彼等は巴円

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巴︹永代小作地代︺に対する貢納として︑毛布に対する担税を負担していたが︑一三一一一

四年には同市は和税を支払い得注いようになり︑それを詰負クていた役人は貧窮に陥クた︒ノ

1ザムプトシの場合に

(6)

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工︑呉服向は机税が過況であるためにそのれ机在比れ上うとして都市から退去したといわれている︒彼等が税を負 担し件ないという事は毛織業が衰退している徴候である︒ロンドシでさえ史料によれぽ三三二年の有名な

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裁判以前に織機の数は三八

Oから八O

に減少したことがある︒これはギルドがその組合員の数を慎主に制限せんとし

た排他政策ω

あらわれであった︒特殊な原凶があって衰退が促進された場合もあったが一般的にすべての都市で毛織

主が京巡の傾向を辿クていたととは明かである︒

エドワード二世の政府は毛織工業の衰退の傾向に対して無関心ではなかクた口ステーブル勅令

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中に︑後のエドワード三世によクて者るしい成功を牧めた工業政策の前抱が見られる

Dそれはイシグラン

1

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の共他の人々︑毎年地代所得の四0ポンドを使うの世俗人﹂を除いては︑

国内で買入を禁やる旨を規定している︒宮裕な世俗人のみが外国から輸入される一層高級の一織物の購入を詐されてい

る︒しかしこの勅令の故も主要注部分は︑国王が羊毛工業を奨励せんがために︑要求があクた場合にはいつでも縮鍛 工︑織工︑染色工及び共他主として毛織物の技術で生活している職人に対して︑適当なる特権を与えることを約束し たことであるロエドワード二世は外人職人が英国に定住する計画を明かに定めたように思われる︒そして彼の後継者

がその計画を治めたのである︒この勅令は外国の製造業者の不安を喚起した︒ブ一フシダ1ス人︑プ一フパシ人及び其他

の外同人が︑英同の毛布製造を妨寄せんがために︑突然英同全土にわたってけば出機やず日

ω︑茜草︑大官︑縮械土

及び毛布製治に関係おるすべてのものを川占め︑以クて英国の主要政物と利益とを妨府十一日せんとしクLある情報を英国

政府が知った︒そこで政府は毛布製造の材料の輸出を禁やることに着手した口

(四)エドワード三世及びその後継者連の保護政策

エドワード三世︹

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吋ーーゴ︺のお世は英同羊毛工業史上その発民に問者な貢献をなした時代であるが︑彼の治践を

五しく理併するためには︑彼がこの産業を新しく創造したのでわなくて︑在来のものを振興したのであることを凶意

し怠ければならない︒彼の政策は自ら述べているように﹁織物技術の低下に低みて﹂︑外国人技術者の移住を奨励し︑

(7)

彼等の技術を英国人に伝授せしめんとするのを目的としたロ助

役の企ては充令な成功を収めた︒一六二二年に一著述家は︑英同の毛紙工は﹁との技術に於ては完全﹂の域に達し

たと述ぺている口エドワードは外人間人の移住を怖い﹄励したのみ注んや︑外同からの就令に対して国内の産業を保護

し︑氾に以判の川︑伶在的保山叫んしじする政浪花とった︒二三三二年に伎は崎入毛倣物の使用禁止令を二年間を限って復

日じ火口川しニロマルクに相当する土地を所有するか或は二百マルクの地代を収得する肴は右の禁止令から除外され

kn

一一二三七年に外閃拠毛布の輸入は法律に上って禁止され且ク一人の例外なしに悶民全体に対して︑国産品の使用

が命令された口同時に羊毛の輸出が禁止された︒乙れらの諸制限令は同一法律内に規定されて居り︑叉その法律は外

人移住枠に対して究犬伝侵遇条件を規定している︒とれらの規定は政治上の危急を回避するための産物と見倣すべき

ものではなくて︑英国の毛織工業を確立せんとする広範開にわたる計画の一端であった︒

1

はその財政上の困難のために︑確固たる政策を維持するととができ友かった口右の法律の翌年に彼はルF

γ

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γダ︑プラパγ地方の一都市︺の商人に対して︑英国から羊毛を輸出し︑毛織物を英国に輸入する特

許を与えた︒一三四七年に羊毛の輸出は自由に評されたが︑治世の末期︑二二七六年の善良議会八の︒︒仏E

E B g σ

では再び毛糸は国内で毛布製造に使用すべきととと外同えの輸出禁止とが命令された︒一方︑二ニ七七年には毛布が

縮減される以前に輸送するととを禁止したロ要之︑エドワード三世時代には︑中世時代を通じて断続的に行われた保

護政資が︑と乙では全面的に適用された乙とを知り得るのである︒

リチヤード二世︹H

J 1 U 1

︺はプラγスを除いては羊毛の輸出を詳した︒エドワード四世ハ広∞1 3

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ω︺は︑中産階

級の杭社左前進せんとする努力に於いてはチユ1ドル王朝に先んじた訳で︑彼は保護政策に転換した口﹁何と友れば

英同の主要な物産は羊毛に存する︒叉英国の毛織職人の仕事に対して宅介に羊毛が供給されるためには1王国内に絶

mM

況に羊毛が存在し友ければ友らたいからである︒﹂次の年の一四六四年に外国製毛布の輸入が禁止された︒一

四六七年には多くの法令に上って︑生の未縮械の毛布の輸出が禁止された︒それは王室の租税収入を増加し且つ国内

の滅工や縮紋工に充八刀の仕事を与えんがためであった︒その禁令はその後へγ1

U 1 i H 8 3

とその後継者

(8)

達に上って受け継がれた︒とれらの色々の方法で毛織製品の輸入と原料の輸出とを禁止する乙とによって︑英国政府 は毛織工業の発展を助長した︒その手段︑方法は︑しばしば単たる試験的のものであったり或は全然政治的考慮に工

って指導されたとともあったが︑声明者保護政策の実施であったととは明かである︒それらは次第に有名な京商主義政

策と友って結実した︒との同家に上る古川業保諮政策は︑その木質に於ては︑中世の各都市の市民連をして他の都市に

対して商業上の障壁を作らぜた精神の拡張に外ならなかった口保護の本能が市民的から同民的になったのである︒

(五)毛級業の発民と都市の捻栄

エドワード三世は徒同を県小川向から工主同に転換させ工うと熱心に努力した︒同内の羊毛工業を発展させ上うとす

る伎の治41

巾に毛総工治が発民じたと止の一つの前拠に友るのは︑毛布の輸出が増大したために︑二二四七年に輸出

引いか九寸られ允乙ムである︒下院は﹁北近探せられた愉出税﹂が撤廃されんととを請願したが︑それは不結果に終づ

た︒それにもかかわらや︑毛布の山山小川ガは北大の利誌を得ていた口何となれば︑羊毛は結局に於いて三十三%の市

勾引っ︒ロ)をれ抗していたが︑毛布は二

M m 工り少かったからである︒十五・十六世紀を通じて︑毛織業の著るし︑い

発民が維持された乙とは統計が刊明じている︒エドワード三世の治世には三万袋の羊毛が毎年輸出されていたが︑一

世紀半後に喝なると増加するどとろか逆に問介の一に減少し︑一丸に幾年かの後には六八刀の一に減少した︒との具常た減

少は羊毛の生産に向けられている土地の減少に決くものではなかク穴︒逆にそれはその当時英国に流行していた︑穀 物畑をつぶして牧羊地に明換え工うとする農業革命運羽左時期を同じくしていた︒その別声された羊毛は国内市場に 向けられ︑国内の羊毛工業の需要を満すものとなった︒英同羊毛工業の発民は中世後期に於ける最も著るしい経済現

朱の一である︒毛織物工業の発展を一不す数字は︑羊毛工業のそれ上りも持るしく多い口一三五五年には約五千単位の

毛布が輸出されている︒

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O六一・主 (一単位当四Oシリシグ)

(クケ一六シリング八ペンス)

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O 九年に日毛布の怖山況は飛間的に川大して︑八四︑七八九単位となり︑一史に一王四七年には一一一一一︑

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ク十一円一五五問には総生向長は︑二五O000k

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織(瓶毛布)とは別個に︑一六

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加した口・右の波平は英同が工業国に転換しククある進歩の速度を明瞭に示すものである︒その主要輸出口聞はもはや

限れではなくて︑製造品である︒

製造工業に従事する階級の出現は未だ管てない上うな経済上の重要注意義を伴クた︒特にそれは都市の新しい勢力

とおとなもたらした︒一四一四年にライの市民達は数シリγグの租税負担力しかたかクたが︑その世紀の終頃には四

00

γドの負担力をもっ市民が五人も居る乙とを誇とした︒プリドボートでは一コ二九年に武装しようとの意見が

箆頭したが︑一四五七年に再びそのことが取上げられたロとのこっの時期を比較するとき︑乙の都市がその繁栄に於

いて著るしい進歩をとげた乙とが知られる︒間宮の増進については︑十五世紀の終頃苦かれたヴエニス商人の次の言

葉の中に力強く表現されている︒﹁セγト・ポールにいたるスト一フγド通には五十二の金銀細工商の庖があり︑皆富

裕で︑大小と友く銀器に満ちている白ミラγ

︑ロ1マ︑ヴエニス︑フロ1

γスの庖を全部合せてもロ

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で見ら

れる工うな交来さはない︒﹂いたると乙ろで市民中にぽ裕段階級が出現した︒彼等の邸宅や家財道具︑装飾品はすべ

てその物質的な山の射巡を物語クている︒二二七九年の階級別の人頭税

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の市長

(B

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には︑伯限並に阿ポγド︑ロγγの長老

(ω 52 58 )

左大都市の市長には男爵並にニポYド︑大商人に一ポγ

ド ︑

小向人に一マルク或はそれより少い初︑が課せられた︒彼等の繁栄は︑ローマ帝国設曜時代のように︑病院︑学校の建

設︑道路や橋の修復︑其他多くの介野に於ける公共招社施設の建設等︑公共精神の発露と注クたロ一織物業者が最初

γチェスグ1

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の建設を計画した︒一方︑一四五一年にグロ1

1

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の一市民は五

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Oγドを貧しい人や同市の若い商人に対する貸付貯金として寄附した口それより後の時代に一呉服

商人はプリストル市の織物ヱで勤勉な九日年を援助するために金を寄附したりγ1

ω

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︺の治世は宵裕なロγy市民の公共事業えの献金で有名である︒リチヤード・ウイテイ

γγとウィリアム・イーストフィールドは共に毛織物商ギルドの組合員であるが︑二人共自らの宮を公訴のために

献じた︒前者はギルド・ホールとその附印刷図書館及びニュ1・ゲートの再建のために私財を投じ︑後者は市民全体の

ために水道を建設したりも一人の市民のシモγ・アイルはリ1ヂシホールに︑飢僅の時に備えるために穀物の貯蔵庫

をは波した︒山川川俗な毛版活者にヱクて廷決された多くの壮大な教会堂が団関に見られる︒そ乙はかクては繁栄した土

地であクて︑それらの均会常はその偽栄の来匁であったが︑その繁栄の中心はそれ上り後に他の工業中心地に移動し

たのである白川沿上の日の災匁はあらゆる方河に見るととができる口教会堂や公共建造物︑市場の十字架や舗装道

路︑市の成門︑怖や沿的施設の池波得とれである︒都市は今や同主に金融し得る実力と地位を得たが︑それはその一

川の発民左示すものであるn

1ド二世は一一一二八年に平くもロγγから金を借りたが︑エドワード三世とそ

の後継守述は共他の都市から借りた口

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と毛布の況柊規定

中世紀の大部介を通じて︑商工業の管理は犬休に於いて地方行政当局の手中に残されていた︒毛織製造業は先づ第

一に同家の管理と統一的統制え度に服すべき工業部門であクた︒それは国王の財政牧入と同民の宮との源泉としての

主要性を物語るものである口十七世紀の著者︑ジヨシ・メイは毛織物検禿官代理

( ω

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であクたが︑

その当時羊毛工業で行われていた詐欺について列挙している︒杭矧の旦(る羊・毛の混入によクて毛布を凸凹怒らしめる

とと︒その他織物︑仕上げ︑糊付︑染色の諮工程に於ける各種の詐欺がある︒肘陀良紅白m質を維持させんとする目的か

ら︑既にエドワード一吠ハHM

lH ωO U1

︺の時代からあクた毛織物検杏の習慣が行政上の制度として成文化されるよう

になった︒初期の法作(一三二三年)は︑毛織物検禿官は毎年犬政当局に対して︑彼が王国内の毛布にクいて発見し

たあ九ゆる現引についての品伐を含むととろの記録勝本(日同

o g ‑ ‑ ω )

を提出すべき乙とを規定している︒

(11)

しかし乍ら︑政府の支配は商人階級にとクて不快であクた︒エドワード二刊がロジドシ市長に命じて︑毛織物検査

官ジヨy・ピコックの検在r

yる回日記心仙台せしめんとした時︑市民達は都市の自由主

侵害するものであるとして反対し︑その十仙台が公布されることを拒絶したn

閃陀の毛布が兆川内で大規模に生産され

u

Uは伯入毛以物の検花に当づていた︒彼の収柑は毛布の一氏似にその規格と品質と

な仇花し︑それにパスすれバ伐の印花抜し︑不良品の場合には没収するにあクた

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ついての比一

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似し川︑九九円以一初︑毛織物検在'官は国庫から給与を受けていたが︑エドフード三世の法作によって︑

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1

(2 20

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在れ牧する役目を負クていた︒伎は国王の承諾があクた場合には︑その仕事を代理人に委せることがで だたが︑代現人がなした行為にクいての責任は彼自らが負技すべき義務を有した︒検査官が不良品に捺印して︑﹁人

々を欺き口同玉の信用を大いに傷クけた﹂乙とに対して︑非難の芦が時々あげられた︒

政府の政策は一定していなかった︒リチャド一世の毛布の規格規定については既に述べたが︑その原則は大憲章の

中にも規定された︒エドフード二世はステーブル法令(︒五吉告︒︒︒内

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立ふ)中で︑毛布が如何なる長さにで

も製造し得られる乙とを規定した︒その法令は彼の治世の末年に起草され︑彼の後継者の手によって公布された口し かし︑覗年の一三二八には毛布の規格規定が復活した︒二二三七年には外国から移住した織工に与えられた特権とし て再び﹁何人も自己の欲するだけの長さに毛布を作り得る﹂ことになった︒しかし輸入毛布は依然として法定の規格

をもっ乙とが要求された︒何とたれば︑二二三八年にグ1

トシ︹ブラシドル地方の部会︺はエドワードから特権を与 えられ︑そこで製造され︑封印された毛布は検在官の検聞を免除される乙とになクた︑という事実があるからであ

る︒グ

1γ

トに対してエドワ1

下はその外交政策上から懐柔する必要があクたのである口引きつづいてエドワードは

合の制度に佼府し︑一三五一年に規格規程を復活した︒しかしロγ

ドシの呉服染者は︑明らかに長さと幅とが不適当 紅毛布が先れないで子許に残クている乙とを訴え︑法定規格に合わたい毛布でも売クてよいという許可を与えられん

ととを向附したn

二二五三年に下院は︑毛織物検査官の制度が同家に損害を与えるとの理由で︑その制度の廃止を詰

(12)

頗し︑国王の損失にならぬように賠償を支払う乙とを約束した︒

外国の商人はその毛布が法定規格に合わ唱なかった場合には︑没牧される危険があるので︑英同に来る乙とを拒んだ

といわれている︒国王は英国に設けられたステーブルの制度の成功如何を心配して居り︑外国商人が英図市場から遠 ざかる諸原閃を除乙うと苦慮した︒そのために毛布は如何たる大さであろうと没牧すべから宇と命令された︒検禿官

は毛布の犬さを測量し︑それに捺印するが︑それはその毛布の大さと価格とを一般に知らせるのが目的であった口

しかし外同商人に対する決歩は一時的の使立手段にすぎたかクたのであクて︑政府の態度を永久的に変えるものでな かクた︒一三七三年には法定規怖が白川し︑リチャ

l

二世の時代に数回それが確認された︒二二九四年に法定規格F

の伝統的政況が一時的に山止され︑何人も円己の欲する長さと幅とで自由に製造し︑販売するととが許された︒ヘン

1間世の下で川似た不安定た政策がとられたが︑迭に一四一一年にいたクて法定規格が復活した口

(七)プフックウエル・ホール

毛織物検十河口制皮とは別伺に︑毛布の肌完に川して特別な制度以V

ぷけられた口商品が間で売買された場合には︑国

主は税収入を夫クていた︒従って︑向山叩の収入を椛保社んがために︑公の場所が指定された︒すべて毛織物はそこに

貯蔵され︑釘週一定の日に販売のために取山されることになった

n

とれは叉都市の諸特権を侵害して︑詐欺的た取引 が行われる乙とを防ぐ乙とにも役立った︒勿論︑外同人が毛布立小完するととや︑市民にあらざる者に販売するとと に対する禁令と関係をもクものである︒ロンドシのブラックウエル・ホールはべ

1クウエル・ホ1ルから転託したも

のであるが︑そこは毛布取引の中心地として有名にたクた口そ乙で毎週︑田舎の毛織業者がもって来た毛布の販売の

ために市場が開かれた︒そのホールは一三九六年に﹁市長と市民﹂(ヨミ︒円包口弘

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1

れ︑次の年に外国人はその毛布をこのホールにのみ︑貯蔵すべきことを命ぜられ︑木曜日の午前十一時から︑土限日 の同十一時までの問な限クて︑販売する乙とを詐された︒それ以前には彼等は指定された三つの倉庫のうちのどれか

一クに毛似を引ける乙とに広クていた︒

O五年に呉川以前はそのホールの管理人を任命する権限を待たが︑その取締の慣習は法令によって定められた︒

(13)

しかも毛布が多くの秘密の場所で売比されることに対する非難の戸があげられている口間合の毛織業者が乙れら法令 に服従するととを如何に欲しなかクたかにクいては︑ロシドシとノルウイツチ市民との川で毛布の販売について行わ れた論争の品保に上って知りねられる︒一五七六年にロンド

γは︑ノルウイツチから米る氏物が私人の介印に版われ

ることな明じ︑それら以内ソ1スデヴド・ホ1ルに作込去るべき乙とを命じた︒又一定の日・刊にそのホ1ルのみで売只

され︑収引される山品川に引に一定の引の川令が川さるべき乙とを命じた︒ノルウイツチはその市民に対して︑ロ

γγ

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Oロロの口)忙訴えた口枢特院はノルウイツチの市民はロシドシ

市に於いて何等の的制ゃれ余白机の五務

ψばくして︑従来のは習通りにその商品を売買し件べき乙とを決定した︒ロシ

ドンのみなら?︑呉伯の都市でも︐フラック'ウエル・ホールに似た制度があり︑独立した場所が毛布の販売のために備

えられた口ノルウイツチにはウーステッド・セルドがあクてそこで毛布が毎日販売されたロプリストルにはトウカ1

・ストリートに土眼市場︑ヨークにはサ1スデイ・マーケット︑イプスウイツチにはそ1ト・ホール︑リシカ

1

Y

はクロース・マーケット︑サザムプト

Yにはクロース・ホ1ル︑ピ1ヴアリーにはコムモγ

1ル︑ヴエγ

1ザシプトシ︑ウイシチェスグーにはそれぞれドレエパリーがある︒

(八)外国人織物工

毛織工業の発足は経済組織に新しい問題を生ぜしめた︒外人以工は一三五二年に国王から彼等だけで独自のギルド

を机織する松限を与えられた︒そのギルドには主宰者として二人の長老(巧民品︒ロ

ω)

が居り︑ギルドの仕事を監替し 旦ク組合月に対して強制力ある裁決権を行使した︒彼等は都市の役人の権力に逆う考えは全くもたなかった︒何とた れば︑二二六二年に彼等は自らのギルドを支配すべき規則の認可をロシドシの市長と役員(自

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に対して市水したからである︒一三六六年に再び彼等はその諸規則の認可を求めた︒一三七

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γグ1スの滅

工は市長に対して︑両者の者るしい不和を理由に︑プ一ブパシの織工とは別個に︑使用人の傭入に関する集会を開くこ.

とを詰願した︒その結決として︑ブラシグ

1

スの織工で就職せんと欲する者は聖ローレンス・パウシトニ

1の教会に

行くべきであり又プヲパシのそれは聖メリ1・サマlセット教会に行くべきことが命令された︒更に︑右の二者のう

(14)

ち何れかの同氏に属する各使用人は互に他の国民の織工に傭われ得ペき乙とが附加された︒

かくの如く︑外来の織工は都市当局の権力に服従していたが︑彼等は土着人級エの支配やそのギルドに加入するこ

とを拒絶した︒土着人の織工が︑彼等の独占権を無促する新参者の敵対行為を憤クた乙とは勿論であって諸特権に均

てんせんと欲する者は当然義務を負担すべきことを主張した︒乙れが両者の軌諜の真の原因であった円英国人減工は王

室に対して毎年税金を負担する義務があクたが︑外国人はその負担から除外されていた︒そ乙で彼等は自分透もその

負担から解放されるか或はすべての滅工が彼等のギルドに加入して︑適当に負担に任やぺきととを国王に詰頗した︒

しかし︑国王は外人倣工の味方をして︑彼等の詰願に対して次のような文書を発した︒外国人織工は﹁如何なる理由

があろうとロγドシの若くは王同門の北ハ他の減工のギルドから排斥されたり︑或は加入を強制されたりする乙とがあ

クてはならない︑:::彼等の江に以して︑かかるギルドの故に如何なる金額なも負担する必要はない︒﹂∞一三七八年

に外同人に対する反抗迎引が比九州問に述した時に︑外同市人は者るしい窮境に陥クた口ロ

γF

γ

の織ヱはその椛会を

抑え︑外米汗は︑大部分その・不同な判るしい不行跡の故に食いつめて︑英国に波クて来た者である乙とをほのめかし

乍ら︑彼等をその支配下に服さしむべさことの却水を滑にした︒行政当局は合法的な理由がないために︑国王が外人

減工に対して与えた特詐状を公然とれ以市内することを日時する工うに見えたが︑外同人がその取引上︑不法行為をした

・場合には裁判にかける乙とを約束した︒しかし数ヶ月後に︑外人出工は︑本同人織工の要求に従う乙とが賢明である

とさとって︑彼等の機快の数の割合に従って︑帰化外人減工が王室に支払っているのと同種の税金を負担する乙とを

承諾した︒叉j帰化人織工と外人級工とのこ群は︑毎年ミカエル祭の第六週間前に会合して︑相互の群に所属する悦刷

物機械の数を調禿すべき乙ιが決定された︒

しかし外人織工は急いで妥協したことをすぐに後悔した︒そして一四O六年と一四一四年にロシドγの扱工は外国

人がギルドの税金に関して何等の負担も負わないことを議会に訴えた口数年後の一四一二年に外人織工はそれに対抗

して︑役与が英川人以工からひどく迫害されている乙とを宣一一一一目した︒別ち︑英人織工は彼等がその技術をロシドシや

北(他の都市で使うことな河川さないのであって︑それは外人織工に対して従来与えられている特詐状の趣旨に反するも

参照

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