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昭 大 和 一 一 一 一 一

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(1)

戦後に於ける我国の出生動向に関する若干の考察

我国の人口は前大戦を契機として大なる変革を経験しっ1ある︒特にそれは人口動態に於て甚だしいものがある︒

本稿に於ては戦後に於ける出生の動向に焦点をしぼって︑その変動の統計的分析を行うと同時に︑その原因について

の若干の考察を行うこと1したい︒

我宙に於ける大正元年以降の出生数及び率を示せば次の通りである︒

戦後に於ける我国の出生動向に関する薯千の考察

(2)

和 一 一 一 一 一

九 八 七 六 五 四 三 二 元 四 三 二 一O九 八 七 六 五 四 三 二 兎 │ 永

年 年 年 平 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年

O一 一0 0 0 O O O A O九 九O七 七 七 七 七 七 七 七l

O六 八 七 六 二 四 八 七 八 二 五 七 一 六 七 九 九 八 九 四 二

八プ'¥AOO五 九 一 四 八 三 宅 一 五 六 八 一 八 二 五 六l

二 ニO六 七 七 四 八 二 五 三 九 五O六 七O四 五 五O01

八 六 二 O六 二 九 二 三 六 二 五 六 五 三 六 九 六 三 二 九 一 一 │ 数

O六 八 五O三 八 七O六 五O五 四 八 三O‑ 0七 五 │

̲1

δ二三三三三函三面主面王函主夫ご三三三三三三三l

O五 九 一 二 四 八 二 五 二0 0三 四 二 三 七 二 四 八 二 七 三 四 │ 率

昭│年

O九 八 七 六 五 四 三 二 一O九 八 七 六 五 四 三 二 一01

年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年

二︑一七四︑二九一

二 ︑

O

二︑一六回︑九四九一︑九一一︑九六六一︑八八五︑九五七

OO︑二ハ四二︑二六O︑二七O二︑二一六︑二七一二︑二三五︑四ゴ二

二︑六七八︑七九二二︑六八一︑六二四二︑三三七︑五O二︑一三七︑六八九

二 ︑

OO五︑二ハ二

OO一︑七六九︑五八O

︑六六一︑六一五 O︑六九二

子千 0- 子子手子子~

1 I I 

? ? ‑ ‑ : 竹 下 ? , ?

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I~

四 四O五 四 三 一O五 三 二 二 一O六 一 八Oi

(3)

我国の出生数は大正九年(一九二O年﹀に初めて二︑O一一︑六三四人と二百万台をマークしたが︑その後の推移 に於ては大休二百万を前後していた︒故上田貞次郎博士が日本人口の予測を行わるLに当って﹁過去十三ヶ年を通じ

て我国の毎年の出生数が多くの変化を見ることなく︑大体二

OO

万を上下していたことは︑今迄に見たことのない実

に顕一俳句なる事実であって︑私が今回の研究を始めた動機も実はこの事実に着服したところにあったのである︒﹂と云

われ︑二十年間は一二O万と仮定して推算を進められたのは︑昭和八年のことであるが︑確かにその時の状況は同博

4i  

士の云われた通りであった︒然るに昭和元年より同十二年迄一度も二

00

万代を割ることのなかった出生数が︑昭如

十三年には一︑九一一︑九六六人と二

OO

万を下まわり︑更に同十四年には一︑八八五︑九五七人と一段の低落を見

た︒我国人口はたえず増加し続けて来たのだから︑出生数が殆ど同じであることは︑出生数の相対的減退を示唆するも

のであるが︑前述の如くその数に於て害しい減退を見せたことは︑確に我国に於て一般的な出生減退の外に︑昭和十

二年七月に勃発した日華事変の影響であることは明白である︒出生の相対的減退は出生率に端的に現われる︒我国の

出生率の最高は大正九年で人口千につき三六三二︑爾来低下の一途を辿り︑昭和元年三四・二︑昭和五年三二・円︑

同九年三00︑同十年三二・七︑同十一竿三00︑十二一竿に一一七・一︑同十四年には二六・六と明治三十二年以

降の最低を記録するに至った︒昭和十四年は大正九年に比して実に二七%の減退であるが︑之は戦争の影響を受けた

事であるから︑之を除外して戦前の十一年に対しても一七ガの減退となっている︒而して此減退は一八七六年頃に始

qG  

まったイギリスの出生減退と殆ど歩調を合せるものであった︒即ち西欧靖国に於ける普遍的人口現象であった出生減

退が我園に於ても亦既に戦争前に始まっていたのである︒

前述の如く日華事変と共に我国の出生は急角度を以て低落を始めた︒人口増強ば戦争遂行の為に常に要請さるL ころであるが︑我国に於ても此例に洩れず︑政府は人口の増強の為に﹁人口政雫確立要綱﹂を発表し︑以て人口政策の

/)上回貞次郎編日本人口問題研究5

2)日本の人口,館稔 我国人口の現状"//5

(4)

強力なる推進に努力することになった︒その効果は確にあった︒昭和十五年の出生数は一二O万を越え前年に対して

二二万余を増加し︑昭和十六年には二二六万と我国に於ける最高の出生数を記録した︒併し出生率では昭和十五年二

昭和十六竿三一・一であった︒昭和十六年十二月八日日本は米英に対して戦を宣して︑本格的な全面的戦争

O

に入ることになった︒併し出生数は戦争中にも拘わらず昭和十七︑十八年は何れも一一一一O万代を記録し︑叉出生率も

O代を維持したが︑これは軍の動員計画に人口政策が加味された結果(未聞偶者の優先動員︑交替帰還制など﹀と

政府の出生奨励政策が奏効したためである︒云うまでもなく戦争によって幾百万の壮年男性は動員され︑遠く故郷を

離れた戦場に在って︑家庭生活を営むことが出来ず︑叉多くの壮丁は結婚することが出来ず︑かくて大規模の戦争の

場合には出生が減ずるのが常である︒而も圏内に於ても徴用その他によって家庭を離れた土地に働かざるを得ず︑此

点よりも出生は減ぜざるを得ない︒実際前大戦に於けるが如く︑中国満洲より東南亜細亜南洋に至るまで︑全面的戦

争を拡大していてかLる出生率を維持し得たことは且ての戦争経験に徴して殆ど在り得べから︑さることの如く考えら

L

昭和十九年︑二十年は動員数の激増に加えて空襲の激化と生活環境の悪化とによって︑人口動態特に

出生がその影響を免かれ得ないことは当然である︒併し此等の年次の出生数や出生率を示す正確なる数字が欠けてい

るのではっきりしたことは云えないが︑昭和十九年に於ける出生数は大休戦争中のレベルを維持したものと思れる︒

岡崎氏の﹁日本人口の実証的研究﹂中に示された三ヶ年の数字を示せば次の通りである︒

昭和十九年

0

O

O

二一年 一︑七五四グ

O

二二・四五

(5)

に対し昭和二十三年度時事年鑑に掲げられた数字は︑

と思わるLが︑その数を示せば︑次の通りである︒

但しこえ掲げられた数字は前年十月より該当する年の九月に至る期間に届出られたものである︒(珊九一時)

一月から十二月に至る期間に届出でられたものを表示したもの

昭和十九年

O

二一年

// 

OO

一︑六八八︑一

OO

一︑九四三︑五

OO

// 

戦局日に我に不利であり︑空襲の激化︑生活環境の悪化なる条件の下に在って︑昭和十九年の出生数が昭和十七︑

八年に比して︑それ程の減少を見せていないことは︑奇異の感があるが︑これは出生に及ぼすべき悪条件の影響は凡 そ九ヶ月後に現わるべきものであることを考えれば︑容易に了解し得ることであろう︒昭和二

O

年及び一二年度に未 上に掲げた二つの統計が︑そ 曾有の出生数叉従て出生率の低落を見るべきことは容易に想像さる

Lところであって︑

の信組脳性に於て疑わしいものがあるとしても︑示す傾向は間違いのなかことである︒昭和二十一年は終戦後の混乱の

さ中にあって︑食うや︑食わずの状態で︑遅配欠配の連続と云う極めて困難な事情の下にあったことを考えるならば 相当の出生の減少もうなづけない訳ではない︒前にも述べたように出生数に於ける影響は大休九ヶ月後に現わる

L

昭和二O年八月の終戦による平和生活の再開︑疎開家族の復帰︑更に陸軍三︑

軍一︑三

OO

000入︑計四︑四八六︑0CC人による復員や玉︑一

OC

0CC

人(昭和二十一年末まで)に及 ぶ在外邦人の海外よりの引揚による家庭復帰並に建設による出生の増加は︑二十一年の玉︑六月よりその影響が現わ

ること与が予想さる与が︑事実厚生省人口問題研究所の推計によれば︑終戦以来昭和二十一日ヰ四月まで年二二%に灘

000人︑海

減した出生率は同年五月より九月までに=二%となり︑十月より翌二十二年五月まで三三彪に増加したとのことであ

戦後に於ける我国の出生動向に関する若干の考察

(6)

‑'‑

(時事年鑑一九四八年)昭和二十二年には一躍二︑六七八︑七九二人と爆発的な出生の急増を見た︒出生率も亦

三四・三Oと大正末期より昭和初年の数字へと上昇した︒出生数はその後も昭和二十一二年二︑六八一︑六二四人︑昭 和二十四年二︑六九六︑六三八人と極めて高い水準を維持し︑所謂﹁ベイピl1ム﹂の時代を現出したが︑

O七人と相当の減少を示した︒ 昭和二

十五年には二︑三三七︑尤も出生率では二十二年の三四・コ一を最高として爾来三 三・五ハ昭和二十三年)︑三三・O(昭和二十四年)と僅かながら減退したが︑昭和二十五年には二八・一と格段の 低落を示した︒ところが此昭和二十五年の転落を契機として︑出生数並に率は或意味に於ては世界の人口史にその類

例を見ない減退の程度とテシボを示すに至った︒即ち昭和二十六年二︑一五七︑

CCC

入︑昭和二十七年一︑九九

九 ︑

000

人︑昭和二十八年一︑八六八︑

00

0人︑同二十九年一︑七六五︑

000

人︑同三十年一︑七三一︑CC

︒人と毎年低落しているが︑昭和二十二t二十四年の﹁ベイピプ1ム﹂の時代に対して凡そ百万人の減少であるし︑

叉昭和二十九年三十年の百七十万代は大正元年t八年の数字であることを思えば︑出生数は大正の初半期に逆戻わし

たことになる︒而も当時は人口五千万と称した時代であることを考えるならば︑出生率に於ては一一層の低落が想像さ

れる訳である︒事実昭和二十六年二五・三︑同二十七年二一二・四︑同二十八年一一一・五︑同二十九年二00

十年一九・四と毎年我国の出生率の記録更新の連続である︒我国の出生減退の速度が如何に甚だしいかを明かにする

為に︑独逸のそれと比較することにしよう︒

独逸の世紀転換期に於ける出生率は三五・七(一九O一年)であった︒爾来低誌を続け︑欧羅巴第一次大戦の前年

一九一二年には二八・三︑一九二二年には二七・三と下った︒戦争期を除いて︑戦後に於ける回復期に於ける最高は

O年の二五・九であった︒之によって独逸の出生率は戦争直前の水準に達することが出来なか寸たことが判る︒

ともかくも此率を分水嶺として︑出生率には所謂破局的出生減退が起り︑之が独逸の識者政治家の深憂を招くことtA

(7)

なり︑遂にナチの人口政策の樹立を促がすに至った︒ナチが政権を取るに至った一九三三年までの出生率を示せば次

: :

  = ‑ 0 五 四 一 一

二年一年一年 年九八年七年六年年年二年一年一年 O

一 一 一 一 一 一 四 五 六 七 七 八 八 九 0 0一 三 五 五 逸│

‑ 0五 九 六 四 五 七 五 ‑ 0三 九

とー九 逸

生[

五 五 六 六 六 九 七 七 七 七 九 七 九 八 八 七 九O

六 八 一 七 一 一 五 一 八

八 三 八 六 一 八O三 九 二 五 λ O

五五四五=五一一五年五O四 四 四

五年年一年一年年 八年七

  曙圃園田.  

O一 三 五 八 三 三 四 O五 四 三 一 O五 三

四 本

一 指数七 五 五 六 ー 六 七 コ 八 ー 九 九 O

六 八 一 七 一 六 七

五 三 四 九 八 九 二 七 O 如斯にして独逸の出生率は一九二O年の二五・九より十三年後の一九三三年には一四・七まで低落した︒之は一九

O年の出生率を一OOとすれば︑五六・八であった︒確かに此減退は驚異的なものであって︑出生減退の先導国と

(8)

云われている仏蘭西に於ても︑第一次大戦後の最高一二・四(一九二O年)より一九三三年には一六・二︑

年には一五・Oまで下ったが︑減退率は一九二O年の最高率に対して三O%に過ぎず︑独逸に比すればその減退の程

度に於て温かに少なかったし︑

此独逸の一九二O年以降に於ける驚異的な出生減退に対し︑我国の終戦後に於ける出生減退は更に鷲異的である︒

何となれば独逸が十三年間に示現した約四四%弱の減退を︑日本は僅かに八年にして之に到達したからである︒而も独

逸はそれを底として上昇に旋廻したのであるが︑我国の場合には未だその限界に何時到達するか︑どこまで下るかは

判らないのである︒第一次大戦後の出生減退は︑西欧諸文化国に於ける普遍的現象として︑仏蘭西は勿論イギりスそ

の其他の自由主義諸国に於てさえ民族減少セシセイシヨナルな云い方をすれば︑民族滅亡の幻影に脅かされて︑民

その動向に対して重大なる関心を払わざるを得なかったし︑独族生命の保持と云う形式に於て︑此問題を取り上げ︑

逸や伊太利の如き全体主義的国家に於て︑その政治的イヂオロギlと結んで︑強力なる人口政策の樹立によって出生

その増強を計らんとしたのである︒然るに我国が第二次世界大戦後急激なる驚くべき出生減退を経験減退を阻止し︑

Lあることは︑前述の如くであるが︑今までのところ我国の出生減退に対して殆ど大した関心は持たれていない

様である︒我国は敗戦によって'米国のカリフォルニア一州にも足らない狭障なる国土に︑而も大した資源を有しない

島国に於て︑九千余万の人口を扶養しなければならなくなった︒出生の減退にも拘わらず︑死亡の驚異的減退は︑我

国の自然増加を大ならしめ︑人口一億の線にも遅くも十数年内に到達することは必然として予測さるる時︑人口問題

は我国に於て喫緊の重大問題とならざるを得ない︒即ち巨大なる我国人口をどう処理するか︒悲に人口の増加の阻止

が我国人口問題の解決策の一として取り上げられ︑産児制限の形に於てその実践を見るに至った︒このことからは出

生減退は歓迎すべきことであり︑出生率の飛躍的減退とその持続とは︑正に我国の国策であり︑叉国民感情の希望す

(9)

るところでもあると思わるる︒かく考えるとき我国の出生減退は更に更に持続するものと云える︒かLる出生の飛躍

減退の原因が何であるか︑叉その結果が如何なる経済的︑社会的︑政治的意義を持っか︑次に此等の点について若干

の考察を加えることにする︒

出生減退で先づ問題となることは︑卑俗な表現を以てすれば︑それが子供を意識的に生まない為であるか︑それと

も民族的生命力の衰退と云う様なことによって子供を生む力が弱まった為であるか︑と云うことである︒此点につい

ては先づ

F2

2

ミの区別に触れて置くのが便宜である︒英語でも仏蘭西語でもなユロ2

OR

F2

E

はな立口︒︒口広g白色は大休同意語として互換的に用いられている様であるが︑学術語としては︑

F2

的な︑云はど女性の潜在的生殖能力を示し︑

F2 5q

は女性の顕在的生殖能力を指すものとされている︒逆に解す

る人もある様だが︑それは兎に角としてな己主与は何等の障碍もなく生殖が行われた場合に於てのみ︑向︒︒ロロ門出ミに

一致するが︑実際に於て何等の障碍もなく生殖が行わるLことはないから︑かLる事態の実現は到底あり得ないであ

ろう︒従つてなのロロ岳々はな

22 q

の極限概念として観念さるLものであって︑それが上昇したか︑下降したか︑

叉それがどれだけか︑と云うことは結局内

02

与を通じて之を推知するの外はない︒このことが問題となるのはE

向 ︒ ︒ ロ

z ロ の

q

そのものの減退と云うことは民族の生命力に直結する問題となるからである︒

永遠なるものであると云ったが︑情欲と生殖能力とは必ずしも一致するものではないが︑情欲が生殖に密接な関係が

マルサスは暗黙に両性聞の情欲と既に多くの生物学者や医学者の確立した事実であることを考える時︑

必然的関係を持つ生殖力も不変であり︑永久的と考えたと見るべきである︒実際ルl1は﹁増加の潜在的可能性た

円 ︒

る人間の生殖力はその種の生物学的特徴であって不変なるものと考えらるる﹂と云っている︒果して人類の潜在的生殖

3) E.B. Reuter, Population Problem P. 3/3 

(10)

O

カが不変か否かは早急に結論し得るものではないが︑以上で両語の区別は明かとなったと思う︒

そこで我国の出生減退特に戦後に於けるそれが戦後のベイピ11ムの反動現象に過ぎないか︑又は持続的現象で

あるか︑更に根本的に我民族の生物学的生命力に於ける変化であるかどうかが問題である︒特に生殖の商に表われた

民族生命力に於ける変化というが如きことは︑甚だ困難な問題であって︑只その片鱗を不妊や流産の割合によって之

を窺知し得るに過ぎない︒依って先づ蕊には不妊の問題について若干の考察を加えることにする︒

不妊は簡単に云えば夫婦問に子供のない状態である︒併し不妊と無児とは別個の概念であるc何敢ならば不妊は無

児を伴うが無兜は必ずしも不妊の結果ではないからである︒即ち流産や意識的受胎制限によっても亦無児を招来し得

るからである︒不妊は自然民族に於て併蔑視すれへきことであり︑叉恥辱と考えられる習俗があり︑古代ギリシャやユ

Hグヤに於ては無児は離婚の原因であった︒我国に於ても七去の一に子なきは去るというのがある︒不妊の原因は女性

のみに限らるLものではないから︑女性にのみ不妊の責を負わしめることは酷である︒とも角も不妊は民族に取って

不妊には人為的不艇と自然的不妊とがある︒前者は放射線の照射

或は断種手術叉は去勢等の手段によって意識的に不妊を粛らさんとするもので︑之に一時的なものと永久的なものと

があるし︑叉自由意志に基くものと強制的なものとがある︒人為的不妊について︑我国に於ては昭和十六年﹁国民優 も︑将叉家庭に取っても甚だ重大なる事実である︒

生法﹂が制定され︑悪質遺伝病の素質あるもの及び現に発病中のものに対する断種を決めたが︑之は優生手術を奨励

する為ではなく︑逆にその濫用を取締る為の規則であった︒従て此規則に基く優生手術の実施件数は甚だ少く︑同法

が魔止さるtAに至る昭和二十二年までの数字を掲ぐれば次の通りである︒

国民優生法による優生手術実施件数

lf) F. Prinzing, Handbuch der medizinischen statistik 5.32. 

(11)

昭和十六年十七年十八年十九年二十年二十一年二十二年

│ 六 八 四 二 三 七

δ│

OO

O

昭和二十三年﹁優生保護法﹂が発布され︑﹁国民優生法

L

は廃止された︒此優生保護法の目的とするところは︑﹁

優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに︑母性の生命健康を保護する﹂にあった︒而してその手段と して優生手術並に人工妊振中絶の二つを挙げた︒後者については後で述べることにするが︑優生手術は単に悪質遺伝 質を有するに対してのみならず︑妊娠叉は分娩が母体の生命に危険を及ぼす虞れあるもの︑現に数人の子を有し且分 娩毎に母体の健康度を著しく低下する虞れあるものにまで拡張するに至った︒従来の優生手術の概念より云えば︑数 人の子供を有する母にまでがその対象となり得ることは︑甚だ妙なことであるが︑恐らく母体保護に名をかりで人口 政策的社会政策的考慮に出たことは疑をいれない︒更に優生手術の施行も医師の認定により行い得ること︑なったの

で︑その実施件数も飛躍的増加を見るに至ったことは︑次友の通りである︒

昭和二十四年二十五年二十六年二十七年二十八年二十九年

O

O︑七九二

O

O

O

戦後に於ける我国の出生動向に関する若干の考察

一 一 一 一 一 一

OO

九 ・ ‑

O

000

五︑七五二

0 .

三一︑五五二

ニ 八

O

(12)

遺伝性の悪疾疾患や精神病者に対する本来の意味に於ける優生手術も相当増加しているが︑その飛躍的増加が主と

して母体保護を理由とするものであることに︑問題があると思う︒けだし従来﹁優生保護法﹂制定前に於ては母体保

護の為に行う優生手術は法的には認められなかったのであるが︑同法によって医師の認定によって母体保護の為の優

生手術を行い得ることになったのであるが︑それは多くの場合﹁経済的条件﹂が最も重要となるのであるが︑優生手

母性の妊娠を許さないほど経済的に貧困であるかどうかの認定を医師が行うところに間

題 術 が を

あ 受(5)

。ょ

2

民族の生命カが衰えたか否かの生物学的判断は云うまでもなく︑上述した人為的不妊ではなくして︑自由意志によ

らざる自然的不妊に主って決すべきことである︒夫婦聞に於ける無兜の状態が︑夫婦問の正常なる性的関係に何等の

干渉を行うことがないにも拘わらず︑子供を欲して子供のない場合である自然的不妊が問題である︒之には原初的に

全く子供が出来ないものと︑第二次的叉は後天的不妊とも称すべき︑例えば一兜不妊の如き︑一人子供を生んで後は

全く出来ない場合とがある︒

不妊の問題は元来医学上の問題であって︑之をそうした立場より取扱うことは︑到底私のよくするところでない︒

窓で之を問題とするのは︑それが人口の増殖にどの程度に影響しているか︒之が為にはその程度や大さを知る必要が

あるからである︒不妊の原因は男女共にあるが︑之を統計的に確定することは極めて困難なことであり︑叉その資料も

ない︒従て子供のない婚姻叉は夫婦の数や割合によって之を知るの外はない︒同して之が為には特別の出産力につい

ての標本調査を行うか︑叉はセシサスを行うことが必要である︒我国に於ては出産力の調査としては︑厚生省が戦前

(昭和十五年﹀及び戦後(昭和二十七年﹀に行った調査があるし︑更に昭和二十五年の国勢調査に於て︑結婚したこ

とのある女子について︑結婚年数や子供の数について調︒へた︒依って之に基いてその重なる結果について説明するこ

5)岡崎文規,日本人口の分析205‑206

(13)

先づ昭和十五年の出産力調査による数の年令満十五才以上の妊苧期間経過後の夫婦の不妊率を見るに︑小生兜O

は一四・五五%となっている︒之は相当高い不妊率を示しているが︑此点で考癒すべきことは︑不妊率は云うまでも なく︑妻の結婚年令や結婚継続期間に関係するものであるから︑他の事情にして等しい限り︑比較的若く結婚した夫 婦が長い結婚期間を経過する場合には︑不妊率は低くならざるを得ない︒本調査では結婚年令及び結婚継続期間を問

円 ︒

題としていないで︑妊字期間経過の夫婦を一括したところに︑不妊率を高からしめた理由がある︒不妊率なる名称を 用いたが︑此場合は無兜率であって︑その原因が本来の意味に於ける自然的不妊の測度でないことも亦注目する必要 がある︒向調査は職業別並びに都郁別による妊苧期間経過後の夫婦の出産度数分布を示しているが︑之による無兜率

の算定結果を見るに次の通りである︒

無兜の職業別並に都部別による妊字期間経過後の夫婦の割合 都市俸給生活者

0

% 農村俸給生活者

一六・四七%

一九・五O%

%

都市中小商工業主

一五・八九%

農村中小商工業主一二一・O七%

1

%

戦後に於ける我国の出生動広仁関する芳干の考察

6)岡崎文規,日本人口の実証的研究2811‑285

(14)

都会と田舎では同種の職業に於ても︑

叉全慢的に見ても都市よりも田舎が品い︒例えば都市俸給生活者の不妊率一0・五一二%に対し︑農村俸給生活者は一六・六四形︑都市労働者は二ハ・四七%に対し︑農村労働者は一九・五O%︑

都市中小商工業主は一五・八九鮮に対し︑農村中小商工業主は

1

••

・つ七%であ寸たο農業者の不任率は一三・一六

%で比較的低いが︑漁業者は一・

a e .

一一%と高い︒全慢的に云って農村が不妊卒に於て都会より高いが︑之は何故で

あるか︒前述した様に不妊平の高低は形式的には妻の結婚年令や結婚継続期間の画数たるもので︑妻の結婚年令が低

く︑且結婚継続期間が長い場合に︑不妊小平は低く︑逆の場合には︑反対であるの此点より農村が都会より結婚年令が

叉結婚継続期間が短かいと考えることは︑

/

¥

い︒そこで岡崎文規氏は不妊症の主要原因の一に花柳病があることから︑花柳病が都市より田舎の不妊率が高い原因 ではないだろうかと云っている︒農村の風紀が都市より一そう額廃しているというのではなく︑田舎が衛生思想の普 及度や治療機関の利用度に於て都市に劣っていることは事実であるから︑花柳病は何れが多いかは別として︑少くと も農村に於ける花柳病の治療が不徹底な為に︑不妊率が高くな寸ているのではあるまいか︑と想像説を掲げられてい

tるが︑かLる推測の正否については私は何とも云えないe産兜制限的考え片‑は都会に於てより多く普及しているL 叉都部ω出産力の比較に於て農村が犬であることを考えるとき︑農村の不妊率が高いことは矛盾と考えらるる︒

外国に於ける同種の研究︑例えばヒルによると

一九OO年のセンサス時に一

Ct

一九才及四五才未満で結婚せる

女性(彼の標本中に含まれた)の七・円%が子供はなかった︒彼は都会と田舎及び内地生れと外国生れとの聞に相当

の差があることを見出したc

l

プランドでは八・%であったのに対して︑オハイオ地区では五︑二戸であリ

6た︒ミネアボり入ではクリ1ブランドより梢高く八・五ガであソたが︑農村的︑Eネソグでは僅かに三%であった︒之は

移芯女性に関する特殊研究と云う点を考慮に入れても︑

昭和十五年の我国の都部に於ける不妊率と全く逆の関係にな

7)岡崎文規,日本人口の実証的研究288

8) W.S. Thompson. Population Pcoblems. lJ.thEd. P. 2/0. 

(15)

叉英吉利の一九一一年のセシサスに関聯して行われた出産力調査によるっていることは誠に注目すれへきことである︒

と︑四五才以上の結婚女性の一六・二鮮は子供を持ったことはなかった︒之は一圏全体として見る場合︑甚だ高い率

であるが︑英吉利が他国よりも都会化して居り︑叉都会地区女性に於ける無兜の割合が農村地区女性よりも︑一授に高

いことを想起すれば︑何等驚くに当らぬとトムスシは云って川が︒叉一九三一二年の独逸の資料によるも︑無兜の結婚

女性の割合が本世紀に入ってから増加しつLあること︑叉農村地区より都市地区に増加がより急速なることが確めら

れてい机︒此等は何れも不妊率が都会地区に於て農村地区よりも高いことを示すものであって︑我国の昭和十五年に

於けるそれと全く事情を異にせるものであることを物語るものである︒

次に昭和二十五年の国勢調査の結果によって不妊卒を見れば︑

の市部及郡部に於ける無兜率を示せば次の通りである︒ 四五才以上の結婚女性につき全国次の通りである︒

有配偶女性四十五才以上の無兜の数及率

千人

I

千人

四︑八O

7U

r¥TU4 . /

︑五九

O

O

此数字は結婚年令や結婚継続期間が考市服されてないか︑大まかに我国に於ける不妊率の高さを示すものと思わる

る︒次に結婚継続期間別に見た出生兜Oのもの乃数及び割合を示せば︑吹山通りである︒

9) W.S. Thompson, ibid.P.2/2.  /0) W.S. Thompson, ibid.P.2/2. 

(16)

不 一 一 一 一 一

O

年 五1O11 O

以 完 百 九 四 九 八 七 六 五 四 三 二 一 O l 詳 上 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 数

B jI

四 一 一 二 二、 、 、 、 、

三 六 九 O三 四 五 五 四 六 七 八 六 六O四 二 三 一 九 八O一 四 三 OO三 四 七 六 六 一

二 九 二 六 四 O O 七 四 三 五 四 四 六 一

L

九 一 三 三 七 三 四 四 三 六 七 T一四一三OOO O 

四 九 O六 五 九 O四 一 九 三 一 三 六

ノ、

三 六 七 七 九 一 二 二 一 二 二 三 二 二 一 八 一 一 三 六 九 七 八 二 O八 六 九 五 七 六 五 九

一 一 九 四 四 一 七 四 九 五 四 三 一 四 三 七 六

L 部 い 九 四 六 六 九 一 二 二 二 三 三 五 六 三 一 一 三 八 二 八 八 一 五 一 五 二 ニ O二 三 三 四 一 八 六

一 一 一 一 一、 、 、 、 、

0 0 =ー コ コ コ ー ー コ 四 五 コ コ ー コ O五 二 O三 五 O O九 五 八 八O一 九 五 四 二 一 八 三 二 九 九 九 五 ‑ 0  三 一 → 七 五

ミ供ま 部

O六 七 六 八 一 二 二 一 三 三 六O八 七O二 七 二 一 二 五 九 七 五 ‑ 0九 一 八 一 六

右表によって不妊率を計算すれば︑全国は一一・コ一七形︑市部は一二・九九︑

に入って何年を経過して子供がない場合に不妊と云うかについてほ︑或は五年︑

0

四年︑三年と各説がある︒我国の産

(17)

婦人科学界では一般に三年説を採るものが多い︒

る︒而して初妊娠の率は結婚経過年数と共に急激に減少し︑例えば五年を経たものではその五分の一乃至六分の一だ

ω 

けが妊娠し得るのみであり︑七年叉は十年と経過すればその大部分(%t%)が永久不妊に終る︒従て仮りに一O年以

上のものを取って︑その不妊率を計算すれば全国では六・九八%市部では八・一O%︑郡部では六・コ一一ガである︒

之によっても不妊率は市部が郡部よりも高いことが判る︒昭和十五年の調査結果について農村が高くなっていたと云

う結果が︑十年にしてその面白を改めたことについて如何なる判断を下すべきか︑前者が標本調査であるのに対して

後者が国勢調査である為に︑両者の比較が妥当を欠くことによるとも考えらるるので︑昭和二十七年の出産力調査結 我国の多数の調査では

結婚後三年以内に八割以上が初産してい

果によって不妊率を検討すれば次の通りである︒妻の年令四五才以上の夫婦に於ける無児者の割合は一四・O九ガと

なっているが︑之は昭和十五年の調査結果の一四・五五ガに対して梢々減っている様であるが︑大体同一水準と見て

よい︒叉農・非農別について無子の夫婦の割合は︑夫の職業が農業のもの一一︑五八拓︑夫の職業が農業でないもの

七一%で︑農業の場合が透かに低い︒叉職業によって無子の夫婦の割合が異ることも亦此調査に於て明かとな

一 六

無子夫婦の割合

O

俸給生活者

一七・三O

00

戦後に於ける我国の出生動向に関する若干の考察

F

/1)人口大事典58'1

(18)

農林漁業者

一一・五八

0

我国に於ける不妊率がどの程度のものであるかの概観を得た訳であるが︑

オスポ

l

yが妊苧期を終った無兜の女性六

O例を分析して︑

その不妊が総て自然的不妊ではない︒か

そのうも一二分の二t四分の一二は自然的不

1

妊であったとした︒対象となった女性は一九

OO

年頃結婚し︑

た︒徒て彼女等は一般女性よりも結婚年令が高かった︒結婚年令の報告はないが︑無意識的不妊女性の割合にはその 影響があったものと思われる︒之に反しポペノ1は不妊女性の調査によって︑その三分の二は意識的のものであると している︒此研究は前のより少し後行われたもので︑特に家族制限が他州よりも更に普及せるカリフォルニア州に行 われたものである︒併し此等の芽者は此によって直ちに結論を抽き出してはいない︒カイザ

1が五十才未満の白人の

普通の人々よりも一層高い教育を受けた人々であっ 妻で︑十年以上結婚せるものにつき紐育で行った調査によると︑妊娠の経験なき女性二九一人中一二七人即ち七七・

八%は全く避妊を行ったことなく︑そのうち一入七人即ち六六・八%は子供のないのに失望したと云った︒更にその

うち一五七名(五七・コ一%)はその不妊を克服する為に医師の助言を仰いでいる︒加うるに九O人の女は妊娠はした

かくて妊娠史が判明せるコ一八一名の無兜女性中二九一人即ち七六・四%は且て妊娠したことω 

五七がは避妊をしたこともない︒このことから直ちに避妊の慣行がどれだけ不妊率に影響を与えているかを

が子供は持たなかった︒

決論することは出来ないが︑カイザ

lは士︑したことはないとしているが︑トムスシは此結論を梢々行き過ぎだと批判

している︒バl

ルの避妊の効果についての研究によるも︑避妊が行われていない場合には︑結婚年令の相違によるも のを除いては︑経済的諸階級聞に於ける出産力の相違はない様である︒叉英国の資料によるも︑二十五才未満で結婚

せる場合︑無子女性の割合は︑半世紀に渉って大した変化を示していない︒叉インヂアナポリスの調査によるも無兜

/2) W.S. Thompson. ibid. P. 2/3.  /3) W.S. ThompD.ibid. P. 2/fI.. 

(19)

A夫婦の四

OM

は意識的のものであった︒実際不妊のうちどれだけが自然的のものであり

叉人為的のものであるか

は︑中々分るものではないが︑人為的な影響は大したことはないとする立場からは︑不妊の増大は必然的に子供を生

む力が減退したことを意味するから︑そ'﹂に人々をして不妊ならしむる生物学的叉は生理学的変化が起ったことを示

唆する︒之は従来スペY1やその他によって説かれた文明の准一歩と生活の複雑化に併って人聞の生殖力の衰退や民

われ/¥はかLる説を受入れ得ないように︑不妊の増大に対しても之を直ち族学説等の基本となる考え方であるが︑

に承認することは出来ない︒多くの資料の示すところによると︑基本的な生物学的叉は生理学的変化が︑此数十年来

の出生減退の期間に於て︑起ったとは云えないようである︒況や我国に於ける出生減退の現象は︑或意味に於ては始

まったばかりであって︑自然的不妊の程度並に事実についての資料が充分に存在しない時に︑自然的不妊に出生減退

を関係づけることは︑性急のそしりを免かれないと思う︒昭和十五年及び同二十七年の出産力調査を比較すれば︑不

妊夫婦の割合は却って減っている位である︒従って我国の出生減退に於て不妊の問題は︑此後残されたる研究問題で

あり︑断定的結論は為し得ないが︑今のところ此問題が出生減退の問題を開く鍵ではない︒

我国に於ける戦後の出生減退は︑我国女性の生殖能力の低下によるものでもなければ︑叉我国民の民族的生命力の

老衰化によるものでもない︒それは実に所謂産兜制限に基くものである︒之を広義に解すれば出生の意識的制限方法

であり︑之に受胎調節叉は避妊(狭義の産兜制限)と不妊手術及び人工妊娠中絶とがある︒本節に於ては人工妊娠中

絶について述べることにする︒

妊娠中絶とは妊卵を母体内に死亡せしめるか︑叉は之を母体外に排出することであるが︑同一現象は自然的に発生

戦後に於ける我国の出生動向に関する若干の考察

/1/.) W.S. Thompson. ibid. P. 2/1/.. 

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