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一説

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(1)

八 七 六 五 四 三 こ 二 ・ . ‑‑

はじめに検討の範囲と方法

法実証主義的自然権説の根拠

基本的人権の永久性

基本的人権の不可侵性

永久不可侵性と自然権

法実証ヽじ義的白然権説の不可能性

法 実 証 主 義 的 自 然 権 説 に つ い て

9, ', '  , '

9

9 9 9 9 9 9 9 1 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9  

一 説

{i

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9  

一 論

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9  

•99999999999999919999949

九七

14‑‑3•4 583 (香法'95)

(2)

説ではなかったのだろうか︒

なぜ

t ょ ︑

t

止韮

本的

人権

﹄ は自然権であるというのが通説である︒この学 その成立以来ほとんど挑戦をうけず︑戦後半世紀を支配した︒本稿は︑基本的人権は自然権であるという主張

が成立しうるかを再検詞しようとする︒

いまさらこのような検討をするのか︒それは︑

ているのに︑各論では︑ 日本の慮法学界では︑

ほとんどの憲法教科書で︑基本権の総論部で通説が述べられ それらが自然権であるという点について顧慮する記述はまったくといってよいほどない︑

いう不整合があるからである︒例えば︑財産権は自然権に属するということは︑通説の主張するところと考えられる︒

しかし︑二屯の基準学説によれば︑経済的な権利たる財産権は︑

いう︒公共の福祉という制約要因は︑後国家的な要請にすぎないはずである︒

それに対する公共の福祉による制約を強くうけると

そのような要請を排除するのが自然権

このような事態を避けるには︑石主本的人権﹄は自然権であるという立場を固守して︑

か︑あるいは︑自然権説を諦めることが必要になろう︒この選択のためには︑基本的人権が自然権であるという通説 が︑どれほどの説得力をもつ理屈であるのかを追試してみることが必要なのである︒

日本国憲法︱一条︑九七条の

は じ め に

そのうえで各論を組み立てる

九八

14 ‑3•4- 584 (香法'95)

(3)

法実証主義的自然権説について(高橋)

釈論にもとづいて証明しようとするもので︑ 第一は︑日本国憲法の して二つの異なった主張がなされる︒

検討の範囲と方法

日本国憲法の定める﹃基本的人権﹄

るかということを調べるには︑

E

として通説の形成者である宮沢俊義教授の理論をあっかうという簡易な方法を採り

うる

は自然権であるとする合理的な根拠づけが︑通説によって本当に与えられてい というのは︑通説を主張する大部分の論者は︑基本的に教授の思考様式に従うものであって︑全く異質の基礎

をもつ自然権説というのは︑

そこ

で︑

ほとんど見出し難いからである︒

なにはともあれ宮沢教授の理論構成を概観しよう︒教授の基本的人権論をみると︑

﹃基

本的

人権

九九

その自然権説の根拠と

は︑自然権と解釈されなければならないという主張である︒これは︑憲法解 いいかえれば法実証主義的な立場から自然権性を主張するのである︒本 稿では︑法実証じ義的自然権説と呼ぶことにしたい︒教授は︑日本国憲法の最初期の解説書以来一貫してこの説を主

張しており︑通説の基礎となったものである︒

第二は︑自然権の存在を︑日本国憲法と離れた立場から根拠づけ︑

って確認されているとする主張である︒これは︑本来的な自然権説︑

か つ

それが日本国憲法の﹃基本的人権﹄によ

すなわち超越論的自然権説というべきものであ

る︒教授は長い間この思考に否定的態度を持していられたが︑﹃憲法

I I

﹄以後︑抵抗権を認めるのに関連して肯定する

に到ったと考えられる︒

日本の憲法学界が︑基本的人権を超越論的自然権説であとづけようとする思考態度を受けいれているかは疑わしい︒

14--3•4··585 (香法'95)

(4)

教授は憲法の むしろ否定的であると見るべきであろう︒法実証主義的自然権説で充分証明しうるのであり︑超越論的自然権説を採るのはかえって間題を困難にすると考えるためと思われる︒

このうちの法実証主義的自然権説を検討しようとする︒この説こそが︑通説の基底をなすものだからであ

法実証主義的自然権説の根拠

宮沢教授の自然権に関する法実証主義的な根拠づけの思考枠組は︑次のようなものと考えられる︒

とする︒次に︑

汀基

本的

人権

人権

とは

間が当然もつべき権利であり︑ という言葉から出発する︒

まず

すなわち﹁人ならば当然もつべき権利﹂を意味する︒このように︑

したがって︑前国家的な権利で︑ それは

かつ国家を超える自然権であるとする︒自然権は︑

その性質上︑単に対立法部効力だけでなく︑憲法自身にも対抗できる効力をもつものとされる︒すなわち

権﹄は対憲法効力をもつというのである︒

この議論の検討にはいる前に︑使用する概念に莉

r

の約束ごとを加えておきたい︒

江基

本的

それをしておかないと︑

実定憲法規範を破りうるという点で︑法的観点からは最上級の権利そのものと認められる︒ る ︒

本稿

は︑

無用の

混乱を招くことになりかねないからである︒第一に︑五基本的人権﹂と﹁人権﹄は同じ意味のものと仮定して議論をす

すめる︒第二に︑自然権という観念を︑自然法の一部と仮定し︑その限りで︑両者の言い換えを可能なものとする︒

第三に︑自然権という権利を﹁⁝⁝するのを正晋とする主張﹂と仮定する︒これは一見法的権利にみえない︒しかし︑ ﹁基本的人権﹂とは︑人 ﹁人権﹂という言葉と同視しうるものである

1 0 0  

14  3•4~-586 (香法'95)

(5)

法 実 証

t

義的自然権説について(麻橋)

るのである︒

宮沢教授によれば﹃人権﹄という言葉は︑﹁人ならば当然もつべき権利﹂を意味するという︒この定義は︑

としてならば︑

そういう意味をあたえても不自然ではなかろう︒人権を道徳・政治的権利とみるアメリカの学説も︑

多くこの種の定義をあたえることは既に紹介されている︒

しかし︑憲法解釈においてまで︑

える

権利

そのような定義を無造作に与え︑

すなわち実定法を越える存在であるとじ張するならば︑

この根拠づけに︑

﹁基

本的

人権

それが国家以前に存在する︑

その証明は不

t

分と

なぜなら︑﹁人ならば当然もつべき権利﹂が前・超国家的に存在すると考えうるとしても︑それが実定法を越えると当 然に主張できるわけではないからである︒その権利は思想的な理念にすぎないとか︑道徳的ないし政治的権利にすぎ

このほうが自然であるとさえ言えよう︒

それほど重きをおいたとは考えられない︒

の永久不可侵性の宣言に求めて︑

﹁日本国憲法が宣言し︑保障する権利が︑﹃侵すことのできない永久の権利﹄だということは︑

をもって侵すことが許されないことを意味するほかに︑

に享有すべきものであることを意味する︒⁝⁝それらの権利は︑

かように︑国家や憲法に論理的に先立つものである

から、国家の権力によって—ー↓忍法改正によってすらそれを侵すことはできないとされる。」

﹁人ならば当然もつべき権利﹂であること︑さらにはそれが憲法改正権まで拘束しうるという結論を導こうとす

日本国憲法という特定の憲法が︑﹃基本的人権:を永久不可侵であるとすることが︑

る意味をもち︑

それらの権利が︑人間が人間たることにのみもとづいて当然 [基本的人権﹄を﹁侵すことのできない永久の権利﹂とする点を切り札として︑基本的人

いかなる結論を導くのかを詳細に検討する必要がある︒

した

がっ

て︑

権が つまり︑教授は︑憲法が

ある証拠としては︑憲法による

教授は︑実のところ︑ ないとの主張も可能なのである︒

むし

ろ︑

1 0  

いかな 日常用法

あるいは国家を超 むしろ︑基本的人権が自然権で

゜ < 

" 

それらを国家の権力

わざるをえないであろう︒

14  3・4‑‑587 (香法'95)

(6)

より明らかにするためには︑ る ︒

以下に︑憲法に永久性と不可侵性が述べられる場合︑

基本的人権の永久性

まず第一に︑この基本的人権の﹁永久﹂性ということはどういう意味であろうか︒

いわゆる時間的契機を取り

t

げる

場合

分けて考える必要がある︒特に︑

ることがある︒白然状態を歴史的な時間の中に位漑づけることが否定されるとき︑

えようとするのである︒

問題

は︑

それがいかなる意味をもっかについて分説しよう︒

それが論理的な時間であるか︑あるいは歴史的時間であるかということを よく知られているように︑社会契約説のある種のものは︑論理的な時間を間題にす

それに代わって論理的な時間を考

日本国憲法の韮本的人権に関する時間は︑歴史的時間と論理的時間の交錯する状況にあることである︒

︱一条は︑基本的人権を﹁水久の権利として︑現在及び将来の同民に与へられる﹂としている︒たしかに︑この憲 法規定は︑韮本的人権に論罪的性質として永久という刻印を押したと言える︒しかし︑この刻印は︑決して無条件に なされたものではなく︑歴史的時間のなかでなされたものである︒すなわち︑歴史的な日本国憲法の存在という環境

のもとになされたものである︒このことは︑﹁現在及び将来の国民に与へられる﹂という文言によって示されるのであ

︱一条の片割れと認められる九七条の五基本的人権は︑人類の多年にわたる自由獲得 の努力の成果であって︑⁝⁝過去幾多の試錬に堪へ︑現在及び将来の国民に対し︑侵すことのできない永久の権利と して信託されたものである﹂とする記述に着目する必要がある︒すなわち︑この規定は︑歴史的なある時点

1現在

1 0  

14 ‑‑3・4  588 (香法'95)

(7)

法 実 証l:義的自然権説について (r',谷橋)

最も打名な例は︑ ら

︑ザ

右の比較憲法的な例をみてみよう︒

F 五

結論

が︑

必然的にでてくるとは言えないであろう︒

すなわち本憲法制定時における性格づけを越えるものではない︒歴史的時間の推移を制約しうるものでないこと

そうであるとすれば︑

た論理構造をもつものではないとみなければならない︒

ないし超国家的性格が導かれるようであっても︑我々が現実に牛きる歴史的規範世界からみる時には︑

及び将来の国民に保障されるにすぎない︒ 憲法規範が基本的人権についてとる思想を表明したものにすぎない︒日本国憲法がこのような思想をとる限り︑現在

したがって︑憲法規範の推移を司る規定たる憲法改正権を制約するという

第二の間題は︑﹁侵すことのできない﹂という意味にかかわる︒基本権の保障には︑不可侵という言葉がときとして

また

し ︑

かし

日本国憲法は︑論理的時間のみをあっかうある種の社会招約説のような︑

基本的人権の不可侵性

そのように考えるのが︑

たと

え︑

これは言うまでもなく︑自然権としての所

それ自体で完結し

その論理的な帰結において︑基本的人権に前国家的

それは現在の

使われる︒ちょっと日には︑この言葉は︑その保障対象への絶対的な関与不可能性を示しているような印象を与える︒

8

わが国の通説の論理的帰結のはずである︒

そのような意味に解するのは適当なのであろうか︒不可侵という観念は︑周知のように翻訳起源であるか

フランス人権宣111けの財産権の﹁不可侵﹂規定である︒

有権︵一一条︶を﹁不可侵﹂とする︒その一七条は日く︒﹁財産は︑神聖で不可侵の権利

( d r o i t i n v i o l a b l e   e t   s a c r e )

で は明らかであろう︒

1 0

14 ‑‑3・4‑‑589 (香法'95)

(8)

それは︑不可侵とは侵害できないという意味であるから︑侵害とは考えられない関与を阻止する意味はないと考え られたためであろうと思われる︒したがって︑不可侵がいかなる意味をもつかを定めるには︑

にを侵害と考えているのかを知ることが必要不可欠なのである︒すなわち︑当該条文の趣旨やその保護する権利・手 続の性質を考察することなしには︑不可侵とされる領域や手続を特定することはできないのである︒不可侵という言 葉だけをてがかりに︑国家による関与の絶対的な不可能性を直接に導くことはできないのである︒

4 0

ろ っ カ

法律にも対抗できると︑じ張されたときであった︒

が異なるのではないかとされたのである︒すなわち︑憲法による 賦与され︑法律に対抗できる効力が与えられるに対し︑不可侵はそうではないと考えられたからである︒なぜであろ

この間題が真剣に議論されたのは︑

﹁保障﹂は憲法という最高規範により憲法的効力が

あるから︑何人も適法に確認された公の必要性が明白にそれを要求する場合で︑

﹁不可侵﹂性も︑決して絶対的なものではないことが明らかに示されている︒

一定の条件さえ備われば︑奪いうるとされるからである︒﹁不可侵﹂という言葉は︑

たとえ自然権説に もとづくものであっても︑絶対的に国家の関与を排除する意味をもっと考えられたわけではないのである︒

﹁所有権は不可侵である﹂とされたが︑法律に対抗できるものと は考えられなかった︒その理由は︑法実証主義にもとづいて法は国家により作られると考えたために︑︑法律に対抗で きないとしたのだと説かれることがある︒しかし︑それだけではなかった︒

ワイマール憲法一五三条の﹁所有権は憲法によって保障される﹂という規定が︑

そこでは︑憲法による﹁保障﹂は︑

また

︑ ドイツでは︑例えばプロイセン憲法九条で

蓋し

それ

は︑

ここでは︑自然権とされる所有権の

なけ

れば

これを奪われない︒﹂

﹁不可侵﹂とされることとは意味

まずもって具体的にな

かつ事前に正当な補償をしたうえで

1 0

14‑3・4  590 (香法'95)

(9)

法実証主義的自然権説について(高橋)

また︑以上の検討は︑ ならないように思われる︒

. . . . . .  

1 0

五 ワイマール憲法では︑

プロイセン憲法の事例においては︑端的に所有権は法律によって規定されるものという思考が前提となっていたと

考えることができる︒そうであれば︑法律による関与は侵害になるはずがない︒

民法典によらずに憲法レベルで所有権を定義しうるとされ︑

とされたのである︒

それ

に対

し︑

それを保護する趣旨とされたために法律にも対抗できる 注意してほしいのは︑以上の議論が決して法実証主義独自の立場からなされたものではないということである︒

たがって︑不可侵という言葉だけをてがかりに︑国家による関与の絶対的な不可能性を直接に導くことは出来ないと いう結論は︑解釈は理屈にもとづいてなさるべきであるという立場を堅持するかぎり︑自然法論をとるか否かに関わ

りなく妥当すると考えられる︒

永久不可侵性と自然権

以上の検討を前提として考えるとき︑永久不可侵という言葉の組み合わせも︑教授の期待した結論を導くことには

まず︑憲法に永久不可侵性を宣言することで︑﹃基本的人権﹄が﹁人として当然もつべき権利﹂と定義できるという

証明ができたとは思われない︒﹃基本的人権﹄という言葉のなかの﹁人権﹂という言葉を敷術した説明であるというこ

とに︑何か付け加ええたとは考えられないのである︒

﹃基本的人権﹄が永久不可侵であるという憲法の規定から︑国家をも拘束する自然権であると

いう結論を導き出すのは不可能であることを示すように思われる︒

14‑‑3・4  591 (香法'95)

(10)

しか

し︑

それは

﹁人

間性

とになりそうである︒

︑ ︑

とカ

﹁自

然法

い︑と解釈しているのであろう︒たしかに︑

ヽ ヽ

とカ

性﹂

とか

﹁自

然法

﹂と

か︑

さらには﹁神﹂まで登場させている点にしぼろう︒ いう問題を含む︒

しか

し︑

次に

より積極的に︑

日本国憲法が自然権説を採用していないことを示すような証拠があるかを考えることにした

い︒すなわち︑ここでは︑自然権説をとると憲法規定と抵触を起こす場合があるかを検討してみようというのである︒

その一っについて︑宮沢教授自身が疑間を提出し︑かつ自答しておられる︒口く︒基本的人権は︑﹁人間が人間たる

︑︑

︑︑

︑ ことにのみもとづいて当然に享有すべきものであることを意味する︒そこに﹃現在及び将来の国民に与へられる﹂と

︑︑

︑︑

か︑﹃現在及び将来の国民に対し⁝⁝信託されたものとかいう言葉があるが︑それは︑

与えられたという意味ではない︒

,1 r 

与えられたという意味である︒﹂

この見解は︑後で述べるように︑憲法規定自身を出発点にしながら︑

る︵

憲法

ここ

では

その解釈が牢恋法によって与えられたという意味でないとして︑

教授が憲法によって与えられたというのはおかしいと言うのは︑

権と同義で︑人ならば当然にもつべき権利であるとすれば︑

一条一文︶︒それにもとづいて︑憲法は︑

どんな意味であろうか︒それは︑基本的人権が人 この権利はすでに国家以前ないし超国家的に存在してい その基本的人権の保障を国民に与えている︵同条二文︶にすぎな こう考えれば︑基本的人権自体の賦与者は︑憲法以外の何者かというこ

﹁ 神 ﹂

壊が体験されたのではなかったのだろうか︒それとも︑

これらの権利が憲法によって ロ自然法﹂または﹃神﹄によって︶︑

その規定の解釈に合わない部分を否認すると

とかであろうか︒第二次大戦において︑

だからこそ︑

それらの神話の再構築が必要と考えるべきと言 うのであろうか︒後者であれば︑学間とは一体なんであるかという難問に逢着するであろう︒

それらの観念の崩

カ︑︶りこ

いわば了人間性﹂によって

︵も

し欲

する

なら

ば︑

1 0

﹁人

14‑‑3・4 ‑592 (香法'95)

(11)

法実証主.義的自然権説について(高橋)

のは抵触ではないかという間題である︒ 権﹄の内実は︑人間起源の人権思想なのである︒

憲法自身はどのように言っているのであろうか︒実は︑憲法九七条に︑この問題にとって注目すべき部分がある︒

憲法九七条は次のように述べている︒すなわち︑﹁この憲法が日本国民に保障する基本的人権は︑人類の多年にわた

基本的人権の一般的な記述であり︑ は︑基本的人権そのものが人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であるということが明らかである︒すなわち︑

その人間起源を説いているものと理解せざるをえないのである︒

さら

に︑

その権利の性格について︑同条の後半部分は﹁過去幾多の試錬に堪へ︑現在及び将来の国民に対し︑侵す

ことのできない永久の権利として倍託されたものである﹂と圭口っている︒ここで言われているのは︑﹃基本的人権﹄そ

のもののことであるから︑

1 0

︱一条一・ニ文に関する上述の解釈を許すようにはみえない︒ここで その本体が人権思想︑言い換えれば思想としての自然権であることを述べるものであるこ

とを知ることができるのである︒基本的人権が﹁永久の権利として﹂と述べられていることからもこれを知ることが できるし︑内容的にもこの永久性は論理的時間のそれとしか考えられないからである︒蓋し︑具体的な権利としての

基本的人権は︑誰も否定できないように︑﹁過去幾多の試錬に堪﹂えたという歴史的時間をもたなかったからである︒

憲法︱一条と九七条を整合的に理解しようとする限り︑以卜の結論は避けられないようである︒つまり︑﹃基本的人

二つ目︒基本的人権は︑自然権説からいえば︑国民たるの属性でなく︑人たるの属性によるから︑享有主体は﹁国

民﹂だけでなく﹁外国人﹂を含むことにならざるをえない︒ る自由獲得の努力の成果﹂である︒ここでは︑

とこ

ろが

︑ 日本国憲法がこれを﹁国民﹂に限定している 通説は︑基本的人権は︑人権である以上﹁日本国民

Lに限らず外国人にも認められるという︒これは︑上述のよう

に解する以上当然である︒ところが︑意外にも︑これには制限があり︑外国にいる外国人には認められないとされる︒

14  3・4  593 (香法'95)

(12)

て︑基本的人権の対象は﹁国民﹂

﹁国

民﹂

であると考える他ないのである︒基本的人権は日本国民を対象とするという見解を 明らかにされたのは︑佐々木惣一教授であった︒教授は︑その根拠として基本的人権を規定する憲法第三章の表題が

となっていることを挙げられたのである︒ところが︑通説は︑宮沢教授の見解によりつつ︑表題を問題にす

一貫して佐々木説を排斥して今日に至っているのである︒

たしかに︑佐々木教授が表題を根拠としたのは︑形式的にみえる︒しかし︑

ことではなかったろうか︒筆者はより実質的な理由づけも可能であると考える︒

まず︑憲法規定の表現レベルでは︑基本的人権とその言い換えとされる各規定のすべてにおいて︑﹁国民﹂が対象と

されている︒単に表題だけではない︒これについての釈明が通説には全く欠けている︒大体︑

一文にも﹁国民﹂という限定がついているのである︒

第二に︑解釈レベルで考えてみよう︒通説の論拠は︑

る言葉の解釈にまったく寄り掛かっている︒

するわけである︒しかし︑ る形式的論理であると︑

それは前述のように︑

で は

日本国憲法の規定からは︑

なぜ

なら

日本の憲法の妥当範囲にないからというのである︒これは︑

本的人権を前国家的な︑

どういう理屈によるのだろうか︒通説は︑韮 ないし国家自体を超越する権利と認めたのではなかったのか︒突然︑憲法の妥当範囲による 限定という︑後国家的要素を割り込ませる理由づけが可能であるとは考え難い︒在日外国人であろうと外国にいる外 国人であろうと︑基本的人権を前国家的・超国家的権利とみるという基準にもとづく結論であるから︑同一の結果が

でてこなければならないのである︒

この問題にどのように答えることができるであろうか︒それは非常に簡単であっ

そのような説明で充分と考えられての

どう説明するのであろうか︒ もっとも肝心の一

ほとんど基本的人権を﹁人ならば当然にもつべき権利﹂とす そこでは︑人間を無限定とし︑権利を思想的なるもの以上のものと理解

日本の外にいる外国人についての説明が不可能である︒すなわち︑

1 0

一 条

14--J•4-594 (香法'95)

(13)

法実

r t 1 E l :

義的自然権説について(高橋)

﹁基

本的

人権

の存在様式に対応しない無理な解釈と言われても︑

第三に︑自然権説レベルでも問題がある︒通説の解釈は︑

沢教授も﹃基本的人権﹄ 会契約説にも適合し難いのではなかろうか︒すなわち︑社会・国家を兜約の結果として説明しようとする学説││分柘

はこれに負うところがあると認められているは︑社会・国家成立後に参加する人間に︑

当然に自然権を賦与すべきであるという理屈は見出せないのである︒

員でない人の権利については︑当該社会・国家の定めるルールのもとに置かれることになりそうである︒これは︑社 会斐約説が世界を統一する社会・国家を作りだす理論でないことからする当然の帰結であるように思われる︒

このように︑自然権は︑

どうも自然権を構成部分とする社会・国家理論である社 それが社会喫約説の一環として理解される以上︑外国人については否定されるのが理屈の

示すところではなかろうか︒外国人にも人権が当然に賦与されるとする論者は︑自然権説を社会契約説と分離し︑独

立的に自然権を構想できると考えるのであろうか︒あるいは︑

うるとするのであろうか︒これについて説く者がないが︑

これらの諸レベルで間題を若えるとき︑戸基本的人権﹄の対象が﹁国民﹂に限定されるというのは︑単に形式的な文

字論にすぎないと一蹴しうるような議論でないことが分かる︒また︑通説では︑

拡張できるということを説明しえていないと思われる︒やはり正基本的人権﹄の享有主体は﹁国民﹂に止まると考え

るべきであろう︒

三つ目の問題は︑基本的人権を通説のように理解すると︑主権との抵触が起こることである︒宮沢教授は︑基本権 を自然権とすると︑憲法改正権はそれに制約されると述べる︒しかし︑憲法改正権どころか︑憲法制定権を制約する

はずである︒すなわち︑

1 0

九 しかたがないであろう︒

そこでは︑外同人すなわち当該社会・国家構成

典味あるところと言わねばならない︒

もし基本的人権が自然権で︑前国家・超国家的なものであるとすれば︑主権は基本的人権に

この対象を日本にいる外国人にまで

一貫的に理解しつつ外国人を含むという理論を構築し

14~-3•4-595 (香法'95)

(14)

それが疑われない理由は︑ >

ろ っ

カ われるはずのものである︒

七 法 実 証 主 義 的 自 然 権 説 の 不 可 能 性

主権に対する制約は︑実定憲法のレベルでは論じえない領域であって︑

と考えられる︒これは法実証主義的自然権論の射程外の間題だからである︒この抵触はついに︑

界に至るであろう︒

やはり超越論的自然権論に依拠する他ない ただし︑今回は通説側がノモス主権を擁護することになるであろうが︒

以上のような様々な抵触を︑通説は引き起こすとみられるが︑

ことの妥当性を疑わせるものと言わなければならない︒

とに求めていることである︒これは通常ならば︑自己言及に陥っていると判断され︑

ので

あろ

う︒

ノモス主権論争の但

ところが︑通説はこのような難点を含むだけではなく︑

根本的な論理上の背理を冒しているのではないかという疑いがある︒次にそれを見ることにしよう︒

より

法実証主義的自然権説に関するより根本的な不審は︑論理の出発点を︑憲法の規定自身においていることにある︒

すなわち︑憲法典を超越する自然権が存在し︑妥当していることの証明を︑憲法典がそのように言っているというこ

そもそも論理としての資格を疑 一般的には許されぬこのような証明を︑憲法においては認めうる特別な理由があるのだろ おそらく︑憲法が最高法規とされるためであろう︒すなわち︑憲法は最高法規であるか

ら︑すべてのルールは憲法によって決定されうるのであって︑自然権をめぐるものであっても例外ではないと考える

しかし︑筆者は﹁憲法を超越する自然権﹂に関する規範が存在することを︑憲法の規定にもとづいて証

0)   (2  

拘束されることになるからである︒

これらはどうも基本的人権を通説のように理解する

︱ 1

0  

14 3・4  596 (香法'95)

(15)

法 実 証

t

義的自然権説について(翡橋)

このようなことは︑間題の 法の効力をこえると指示する場合のみであろう︒

14 ‑3•4

明しうるとするのは︑憲法が最高規範であるという特性を考慮しても︑不可能であると思う︒

二つの側面から︑より具体的に検討することができそうである︒

法が上位規範を予定することは︑門該上位規範の存在を甘然に導くものであるかが調べられねばならない︒たとえば︑

法律が上位規範たる憲法の存在を予定している場合︑憲法は存在すると承認されねばならないのであろうか︒未だ憲 法が制定されていない場合にも︑存在するとされなければならないのであろうか︒そのようなことはとうてい若えら さらに︑上位規範たる憲法の内容が︑晋該法律にある程度具体的にポ唆されている場合︑

まず︑下位規範たる

その規定はどのように扱 その法律の効力の範囲内で解釈されるであろう︒法律の効 力を越える規定とされることはないであろう︒法律の制定方法では︑法律の効力をもつ︑あるいは法律におとる効力 をもつ規範を作り出しうるであろうが︑法律以上の効力をもつ規範を作り出す力はないのである︒

その理由は︑法律の効力は︑法律制定者の権威によって限定されるものと考えられることにある︒しかし︑

は例外があって︑上位法たる憲法によって︑その効力は左右されうる︒

t

位法

は︑

その権威によってド位法の効力の このことが正しいとすれば︑憲法についても次のようなことがいえるはずである︒憲法のある規定が︑憲法の効力

をもつ

( v e r f

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とはされないこともありうるが︑憲法の効力を越えることはできないということである︒

憲法の効力を越えることが

能n J

なの

は︑

その上位法︑

五基

本的

人権

すなわち自然法が存在して︑ 在り方を指示しうると考えられるからである︒ われるべきであろうか︒その場合でも︑当該法律規定は︑ れないであろう︒ この証明不可能性の問題は︑

そこで当該憲法規定の効力が︑憲

に関する規定についても言えると思う︒憲法の規定と抵触した場合に︑

こォし

597 (香法'95)

(16)

に言及しておこう︒ 権﹄が 用いての証明は︑原理的に不可能なのである︒

-~

あ その抵触部分を無効としてしまう効力をその本性とする自然権を︑憲法自身が作り出すことは不可能という他ないで

ろう

したがって︑憲法に︑

たとえ自然法と指定された規範が存在しても︑上述のように︑

えないと考えるが—|山忠法の効力の限界のなかで解釈すべきものである。

なにか憲法を越える特別の効力をもつもの ではありえないであろう︒憲法にそのような神秘的な力があると考えねばならぬ理由はないからである︒

この法実証主義的自然権説を︑認識論的観点から調べてみよう︒

するとしたならば︑ それは︑﹁憲法を超越する自然権﹂が存在

それは必ず憲法の規定とは異なった存在を通しても認識できるものであることを要請するであろ う︒なぜならば︑憲法を超越するということは︑明らかに憲法の可謬性を前提しているからである︒憲法を通してし

か認識できないものならば︑

憲法の可謬性の認識が得られず︑従って憲法を超越する法の存在という認識もえられな

いからである︒具体的に言えば︑﹁憲法を超越する自然権﹂を承認するためには︑憲法の規定と同じか︑

る か と い う 認 識 を え る 必 要 が あ る の で あ る

︒ 通 説 の 説 く よ う に

︑ 憲 法 改 正 権 正 確 に は 憲 法 制 定 権 さ え 制 約 す

るという自然権を︑現行憲法を通して見出すことはできないように思われる︒すなわち︑

﹁永久不可侵の権利﹂

かかる段階説を無意識的 ﹃基本的人権﹄はそうは言

あるいは異な

すくなくとも法実証主義を

ところで︑憲法規範の中に段階を認めて︑基本的人権の部分に優越的な効力を認めるという試みもある︒﹃基本的人

であることを根拠に︑憲法改正権の限界になるという学説は︑

に前提しているようである︒これは︑自然権説と通底した意図をもつ︒すなわち︑憲法改正権や立法権に対抗する効 力を自動的に基本的人権に与えようとする点で︑自然権説の機能を代替しようとするものだからである︒以下に簡単

14‑3・4 598 (香法'95)

(17)

法実証主義的自然権説について(高橋)

ここで問題としているのは︑法の一部としての

﹃基本的人権﹄という観念である︒すなわち︑ことの性質上かかるテ

また

この

この

説に

は︑

例は

﹃基本的人権﹄という上位憲法規範と抵触する憲法規定をどうするかという問題が生じる︒この抵触の

﹃基本的人権﹄に対する﹁国民﹂がそれに当たるであろう

部分によって否認するなど本当に解釈として成り立つのであろうか︒特に︑﹁人ならば当然もつべき権利﹂というのは︑

﹃基本的人権﹄のある種の解釈にすぎない︒

をもつとする主張の可能性もないではない︒

もち

ろん

﹃基本的人権﹄規定は︑

むし

ろ︑

すのが普通の態度ではなかろうか︒﹁国民﹂という明確な文言を無視するのは︑憲法制定者は合理的な思考をしている

はずだという解釈の大前提を疑うものであって︑

抵触が解釈によって調整されることは認めうるが︑

ないと考えられる︒ ﹃基本的人権﹄の解釈を﹁国民﹂と劃齢しないように解釈しなお

とうてい採りえない解釈であろう︒って︑憲法規定間の

一方の憲法規定を優越させ︑他の規定を無意味とすることはでき

その合理性を問題にすべきでない原規範︑憲法の究極的な源として絶対的効力 それを思考の絶対的出発点と措定することは︑禁じられているわけではないであろう︒世に行われる宗

教上の聖典やイデオロギー宣言文の場合︑顕著にこのような現象が認められることは言うまでもない︒

ールをこの世にもたらさんとしているわけではないのであるから︒ ただ︑我々が

クストは︑考察枠組たる法の一部として認めえなくてはならないのである︒特に近代法の特徴となっている法の脱神 話的理解の要請に︑いかなる形であれ調和しうることが必要なのである︒その一部たりえないというのであれば︑神

ぶ ︸ ︶

聖な思想として祀りあげる以外ないであろう︒蓋し︑我々は俗世のルールを云々しているのであって︑天上世界のル

いわ

ば︑

この規範を聖典のテクストに当たるとするわけである︒

一般

的に

︵例

えば

一条︶︒しかし︑同一条文の一部を他の

14--3•4 ‑‑599 (香法'95)

(18)

﹃基

本的

人権

﹄ さらに︑③そもそも︑憲法規範から法実証

t

義的な解釈方法で︑自然権を導出することはできない

ことを明らかにしえたように思われる︒

やはり︑自然権説を採用するには︑

不可欠なのである︒ 導きえないこと︑

以上︑田憲法のいう

八 む す び

それが国家自身をも拘束する自然権であるという結論は 憲法規範を離れて自然権の存在を証明する超越論的自然権説を呼び出すことが

"官野喜八郎ー抵抗権論についての若

r

の永久不可侵性から︑

同権の限界問題︐

1 9  

1•-

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1¥

( l

)

宮沢教授の抵抗権については︑

ド︑参照︒

(2)蠍山政道編〗新芯法講附•第一人巻」〔附和一尋―-〕二0八貞参照(宮沢俊義執惰)。

( 3

) 石主本的人権﹄を︑人権のうち且本的なものと解すると︑通説の体系が破れる︒そのために強く︑E張される︒例えば︑芦部信喜一人 権の観念﹂法学教室九四号︵昭和六

1 1

九貞参照︒1

(4)例えば、宮沢俊義『憲法II」〔附和一1一四〗一五一頁以ド、参照。

( 5

) 菅野・注

( 1

)

1

( 6

) 佐藤幸治﹁人権の観念﹂ジュリスト八八四号︵昭和六二︶二四四頁参照︒

( 7

)

宮沢俊義玉恋法︵改は版︶﹂r昭和三七︺一0

六ー七頁︒

( 8

) しかし︑これは通説ではなく︑むしろ相対的な保障と理解されている︒例えば︑芦部・注

( 3

)

二五頁は﹁憲法に実定化された了八

権﹄は無制約のものではない﹂と言う︒憲法によって切り詰めることのできる自然権とはいかなるものであろうか︒

( 9

) しかし︑この説明を今日的な日でみるとき︑国家自体に対抗できない︑すなわち憲法改正権や憲法制定権に対抗できないというの

二五五頁以

14  3・4・600 (香法'95)

(19)

法実証主義的自然権説について (高橋)

( 2 0 )

  ( 2 1 )  

( 2 2 )

  ならともかく︑

一 五

立法部の制作物にすぎない法律に対抗できないという帰結を導けないように思われる︒

( 1 0 )

結果的には︑﹁保障﹂の方も︑﹁不叶侵﹂と同じく︑条文の趣旨や権利の手続や性質を考慮しなければ︑その保護がどこまで及ぶか

は確定できないとされた︒例えば︑アンシュッツは同義であると言う︒

( G .

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11 . A

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1919 

14 .A u

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19 33 . 

S .  

70 6. ) 

( 1 1 ) 財産権に関する7

不可侵﹂の意味について︑拙稿﹁財産権不可侵の意義

(l

2

)﹂香川法学四巻こ号・五号︵昭和六0

( 1 2 )

宮沢・注

( 7 )

iO

( 1 3 )

法学協会糾●註解日本国憲法︵ド︶﹂︹昭和二九︺一四六四貞参照︒

( 1 4 )

宮沢・注

( 4

)

J i

︵い︶この基準がそもそも無理なことについて︑尾吹善人

0

( 1 6 )

佐々木惣一﹃改訂日本国憲法論︵補正版︶﹂︹昭和一︳九︺四六八貞参照︒

( 1 7 )

基本的人権が外国人にも及ぶかという問いの意義は︑肯定すると︑法律によっても︵通説によれば︑憲法改正によっても︶その享

有主体性を排除できないというところにある︒但し︑条約や法律によって︑憲法より阻く外国人を保護しても︑憲法に違反するもの

ではない︒佐々木・注

( 1 6 )

四七

01

( 1 8 ) 宮沢・注

( 7

)

10

1‑

( 1 9 ) 例えば︑芦部教授によれば︑人権の固有性・不

侵性と日本国憲法の国際︑義や︑人権宣言の国際化の動向を総合して考えると︑n J E

憲法の趣旨は原則として外国人にも享有させることにあると言う︒﹁﹃国民﹄という表現にはそれほど屯要な意味はない︒﹂芦部・注

(3 )‑

4

Th

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18 . 

A u f l

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19 71 , 

S .  

96 . 

清宮四郎玉憲法I

q

中川剛石基本的人権の考え方〗〔平成三〕ニ―-|'一八頁参照。

14‑‑3・4‑‑‑601  (香法'95)

参照

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