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7. 臨床キャンパスの惨劇 - 2

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This document is downloaded at: 2016-10-07T00:31:56Z Title 7. 臨床キャンパスの惨劇 - 2 Author(s) 小路, 敏彦 Citation 長崎医科大学潰滅の日 救いがたい選択"原爆投下", pp.79-95 Issue Date 1995-11-15 URL http://hdl.handle.net/10069/23311 Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

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遺族の手記の中から

-内 藤 内 藤 幸 子 産 婦 人 科 教 授 妻 勝 利 光陰矢の如しとか、早いもので主人の死後二十三年目を迎えました。当時小さかった子供達も成人して、 長女博子は病理の奥平雅彦に嫁し、小学五年生の男児と一年生の女児の母親に、次女の享子は小学一年生 と幼稚園児の母親となり、長崎で生れた行雄も早や二十五歳、サラリーマン三年生となりました。 私も月給生活十七年、よくぞ働いて来たと思います 。 四人のおばあちゃまですが、元気一杯で、小さい ながらも永福町に我が城も出来ました 。 毎年正月元旦には皆集って賑やかに私を慰めてくれます 。 ﹁ 目 に 入れても痛くないよ﹂と申して可愛がっていた主人も、どこかで子供達の成長振りを眺めていて、口癖の ﹁上出来、上出来﹂を連発していると信じます 。 行雄の動作が余りに父親に似て来たので、幼くて全然記 憶のなかったのにと驚くこともあります 。 今、通信関係の会社に勤務していますが、好きな仕事なので夢 中で働いております 。 気だてのよい優しいお嬢さんをお嫁に迎えたいとそれのみ念願しております 。 幸い三人の子供達も私の苦労を知ってか 、 実に よくしてくれます 。 わが子ながら三人に助けられ、守ら れている唯今を有難く感謝しております 。 婿達二人もやさしくしてくれますので、きっと勝利が心配して こうしてくれたものと、遥かの人に感謝しております。私もこの六月に会社定年となりましたが、またこ れから先やりたいことが一杯ありますので、頑張っております 。 何万遍繰り返しても返らぬ過去ですが、八月九日の朝はいつもの通り元気に、私達親子に送り出された 79

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のでしたが、振り返って手を振ったのが 一 生の別れとなってしまいました。まだまだ勉強もしたかったで しょうし、生きていたかったと思います 。 長崎大学教授で大勢の学徒や職員と一緒に殉職したのは、私に と っ て余りにも大きな犠牲でした 。 唯々﹁私が責任を立派に果して後からいくまで待っていて下さい﹂と 思うのみです 。 待ちくたびれない内に、私も早く責任を果したいと念願しています。 ( 長 女 ) 奥 平 博 子 秋のお彼岸に、私共親子四人は多磨墓地の父の墓にお参りに出かけました 。 掃除をすませ揃ってお線香 をあげ、腰をおろして一休みした時、長男が﹁内藤のおじいちゃまはガムを食べたことある?お供えし ようか 。 ﹂といって、ガムとチョコレートを墓前に供えました 。 何気ない子供の言葉に私は胸がつまりま した 。 80 わずか十三歳までの記憶の中の父は、優しくまじめで勉強家、清潔でお酒も煙草も飲まず、子供心にも 聖人のように見えました 。 真白な手でお得意の手品をする時は本当ににこやかで 、喜ぶ私達に得意気に見 せてくれました 。 東京にいた頃は日曜毎に家族で連れ立って出かけました 。 ポパイの漫画やニュースはほとんど欠かさず 見たように覚えております 。 そして、痩せていた父は、ポパイのように強くなりたいとよく申しておりま した 。 昭和十六年春、長崎へ行くことが決った時、私はお友達と別れるのがいやで、大分駄々をこねたようで した 。 でも戦争が激化するまでは、長崎での生活も楽しい日々で、空気は よいし、食べ物も新鮮で、父は 入浴の度にお腹をたたいて、﹁太ったよ﹂とにこにこしていました。

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しかし平和な生活も八月 一 日には父の部屋近くに爆弾が落ち、原稿も図書も、研究資料も実験室もすべ て 一 瞬の中に灰燈と化して了 っ て 、 長 い間の研究が水の泡とな っ た時、父は学者としてどんなにつらか っ たことでございましょう 。 広島に続いて訪れたあの運命の日も、父はいつものようにカ l キ色の国民服に ゲートルを巻き、鉄カブトを背に出勤しましたが、長い石段を降り、坂を下 っ て振り返り振り返り行った のを、見えなくなるまで見送 っ たのが最後でございました 。 この 二 十年余り、九日という日は、父を偲ぴ、父に語りかけ、父に訴え、喜びにつけ、悲しみにつけ、 父を思う日でございます 。 私にと っ て、父の姿は理想の男性像でございます 。 今日まで強く生き抜き、私達を育て上げてくれた母には、感謝の気持で一杯でございます 。 今後は父の 分までも 幸 せな日々を送れますように、私共努力致したいと思 っ ております 。( 後 略 ) ( 昭 和 幻 年 4 月)︿ ﹁ 忘れな草﹄第一号より ﹀ 81 父子三名とも艶る 小児科学教室は 警 報下でも外来へ来る患児が少なくない 。 とくに栄養失調と消化不良症が多い 。 森重孝助教授(長崎医大卒)は、附属医専三年生の外来実習を十時半頃から始めた。被爆時、診察 室の壁が森助教授にくずれて来たが押し除けて立ち上った 。 しかし、暗黒の世界で呼吸も出来ず、額 の負傷部からは流血が頬を伝い死を覚悟したという 。 歩き出した時、床の陥没に落ち、ついで外庭に 墜落していた 。 よろめきつつ穴弘法の方へ歩き出した 。 病院裏門の近くで大腿部の動脈出血がひどく

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て倒れている川上アサエ生徒を見て、診察衣を裂いて大腿上部をしばり、背中に負って山の中腹の畑 に横たえた 。 強力に止血をしたが同女は夕刻死亡した 。卒 業試験組もどうやら脱出できた。しかし悪 魔の手は容赦なかった 。 附属医専 三年生 の大浦治君は朝から熱があったので十時頃いったん帰宅した。その後再び大学へ来 て小児科外来で被爆したが、負傷はなかった 。 十日、裏山で背中に無数のガラス片が突き刺さって苦 しむ父を発見した 。 父大浦浩講師は、看護婦養成所(昭和 二十年度 より厚生女学部と改称)の講師、ま た看護婦寄宿舎の舎監でもあったが、当日は附属病院に入院中であった 。 父を負って病院地下室の救 護施設に収容し、さらに即死した学部三年生の兄裕君の遺骨を集めたり、また救護隊員として活躍し た 。 まもなく原爆症を発病し、平戸に帰郷二ヵ月後死亡した。父、兄弟三名とも犠牲になったのであ 82 る 。 学部三年生の野口修君は、予診室で被爆、顔面と両腕に高度の火傷を受け、裏山に逃れ、翌十日病 院地下室に収容された 。重 症のため十二日郊外の治療所に転送されたが、翌十三日早朝息を引きとっ た 。自 宅も 一 家 全 滅していた 。 学部四年生の小児科卒業試験のグループは、翌十日が試験日になっていたので予診室で皆それぞれ に参考書などを開いていた 。 被爆の瞬間、今西章君はガラス片などで腰部に重傷を受け大出血で倒れ た 。学友 が病院の横穴に運び入れたが、十日死亡 。 今村喜人君は、火傷を受けたが経過良好で﹁また以前よりか良かニセ ( 美 少 年 ) に な っ た ﹂ と 一 一 一 日 つ

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て家族、友人を喜ばせた 。 しかし、八月三十日、容態急変し、九月一日﹁医者だから自分の体はよく 分かる 。 あとすぐ、だから父さん、母さん、しっかり手を握って下さい:::﹂と言いつつ息を引きとっ た 。 七高時代から水泳の選手で、 四人の男児中 二 人を戦死させ、 クラス 一 の張り切りボ

i

イ だ っ た 。 いままた末子を失った母は﹁すべては夢だった﹂と叫びつつほどな く病没した 。 岩切達君も火傷とガラス破片創を受けた 。 眼も辰口も腫れ上がる相当な重傷だったが、手厚い看護を 受け一時傷は快方に向かったが、結局八月二十六日急性原爆症により死亡した。七高時代は野球部の 名ピッチャーとして鳴らした。 古賀典志君は、耳鼻科の卒業試験組だったが、小児科近くの廊下で被爆、火傷が強く金比羅山をこ えて下宿へたどり着いた 。 ﹁水をくれ﹂を繰り返し、十六日死亡 。 梅原正幹君は、内科病棟二階で即死 。 頭冷やしに学友と予診室をはなれて間もなくであった。 このように、小児科で学生死亡が多かったのは、附属病院で最も北側にあり爆心地に近かったこと が無視できないと森助教授はふりかえった ( 六 三 ページ図参照) 。 助教授自身、三十五日目に夫人を原 爆症で失い、自らも約 二 ヵ月間種々の原爆症の症状に悩まされた 。 しかし幸いにやがて軽快すること ができた 。 中尾ナツ婦長は、看護 室 で被爆、耳、首、肩に深い切創を受けた 。 一 時快方に向かうかに見えたが、 八月 三十一日 、まわりの人に﹁ありがとう﹂を繰り返しつつ昇天した 。 婦長は敬度なクリスチャンで、 83

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上司、看護婦の信頼と尊敬を 一 身に集めていた 。 佐野保教授(東京帝大卒)は、日頃から﹁患者に土曜、日曜はないよ﹂と言って休日でも病室に顔 を出すことで有名だったが、九日は来客のため、たまたま自宅に居て難を免れた 。 奇跡、独り生き残る 皮膚泌尿器科学教室は外来本館で北村包彦教授(東京帝大卒)による外来診察が行われ、附属医専 三 年のグループが試験を受けていた 。 教授は患者を診察した後 、 学生に診断を尋ねた。 ﹁ ハイ、湿疹 です﹂﹁湿疹の中の何かね

?

L

と教授が学生に再び問いかけた時に原爆がか裂した 。 北村教授は頭部 顔面に負傷したが、無事院外へ出ることが出来た。 外来診察室には医師、看護婦合わせて七名が勤務していたが、死亡は新患介助の看護婦一名のみで あ っ た 。 これは診察室が廊下を介して南側にあったからで、北側の治療室、膏薬室では六名中四名が 84 犠牲になった 。 満島ユリ婦長も外来へ行くため 一 階廊下におりた時に被爆、二十八日死亡 。 その他全員ガラス破片 創を受け、医師二名も死亡した 。 学部四年生卒業試験グループは、病棟の研究室で被爆、グループは潰滅した。 新名清隆君は上半身の火傷が重く、一時穴弘法に避難し、さらに病院焼跡に設けられた救急治療所 で加療されたが十 三日 死亡 。天衣 無縫、鹿児島弁丸出しで話す好男子だった 。

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西憲治君も一頚部、背部、両腕に火傷を受けたが、徒歩で数キロ先の小学校に急設された診療所に行 った。﹁ゃあ君やられたよ。何か塗ってくれ﹂と学友にニコニコ笑いかけ、マーキュロと軟膏を火傷 の上に一面塗ってもらった。その夜から下宿で高熱を発し十六日死亡した。 奇跡的に助かったのは西森 一 正君(のち長崎大病理学教授)である。北村教授が外来へ行くのを見て たまたま同行したのである。外来で被爆時、部屋の隅へたたきつけられ、一時意識を失ったが、回復 後は屋上にはい上り、浦上全体と医大が受けた被害のすさまじさに傑然としたという。背中に三十数 カ所のガラス片創などを受けた上に側頭部の傷が骨に達していて出血が止らず、穴弘法の近くでつい に倒れ失神した 。 しかし救護班の治療で 一 応体力も回復、高知県の自宅に帰って専心治療に努め、一 年余を費して原爆症を克服した。 グループただ 一 人の生存者であった 。 西森君の血染の白衣は大学内の原爆資料センターに今も保存 されている 。 西森教授と血染の白衣 8う 所望の酒も飲めない 眼科学教室では、学部四年生グループが検眼実習室で二 日後の卒業試験に備えて眼科のノ

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トを調べながら勉強し ていた 。 被爆の衝撃は強烈で天井に張ったコンクリー ト が 落下し、窓ガラスは飛び散り、机や椅子の下敷きになり、

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山根浩教授(京都帝大卒、四十九歳)は、朝の講義を終り、教授室で読 書後ちょうど二階便所の扉を開けた時被爆した。ガラスの破片などで顔 面および下顎部、大腿部に重傷を負った。ただちに精神科下の防空壕に 避難したが、止血用の清潔なガ

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ゼ、包帯もなく一夜を過ごした。 翌十日、調教授らに発見され、学長と高木教授の収容されている防空 壕に担送されたが、教授は膜目したまま言葉も余り発せず極めて重態と思われた。十二日夜、滑石大 神宮の拝殿に学長とともに転送された。床は畳、障子、雨戸はなく小高い正で大木がこんもり茂った 涼しい環境だったが、十三日になって破傷風の症状まで加わり、トリスムス(そしゃく筋の強直痘撃に よる開口えん下障害)が現われ、次第に強度を増してきた。大神宮に戦勝のお詣りに来た人が鈴を鳴ら 山根浩教授 (1895-1945) そのまま死亡した学生も多い。 86 すと背中をそらす痘筆も起こるようになり看護は悲惨をきわめた。 角尾学長の指示で破傷風血清を注射した 。 死期を覚った教授は、酒を所望したが、清酒はなく、止 むを得ずアルコールを薄めて投与した。しかし口にふくむとトリスムスが起こってどうしても飲めな い 。 チューブで食道内に入れてくれと要望されたが、これもチューブがのどに触れると窪撃が起きて 不可能だった 。 ﹁どうしてもだめかね﹂と教授はいって淋しくあきらめた。十五日死去。 教授はアララギ派の歌人で、酒豪でもあり、学生からは臨床の三鬼門の一人として敬愛されていた。 病棟では、内田敏子婦長以下五名の看護婦が死亡した。内田婦長は モダンなセンスを身につけ、看

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護婦、生徒のあこがれの的であった。 耳鼻咽喉科学教室では、学部四年グループが病棟二階の長崎港に面した図書室内で被爆した。その わずか数分前に退室した古賀典志君(既述)を除いて幸い 眼科検眼鏡の実習 に全員が生き残った。 真っ暗な被爆直後の室内でドアが分らず、やっとドアの 把っ手を握って脱出に成功した時は皆歓声をあげた 。 上半 身裸で身体中にガラス破片創の学生が多かったが、穴弘法 に無事避難した。 附属医専三年生の大島喜八郎君は、耳鼻科外来で被爆、 どうして一階まで降りたか自分で分からなかったという。 87 夢中で金比羅山の方へ登って行く途中、家の下敷きになっ た子供に﹁助けて﹂と呼ばれ﹁よし兄ちゃんに任しとけ﹂ といったものの大きな梁は一人ではとても動かない。﹁や っと通りすがりの二、三人に加勢してもらい助け出したが、 皆負傷し疲労が強いのでずいぶん時聞がかかった ﹂ と翌日 帰りついた自宅で妹を前に笑った。九月一日以後、のどの

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痛みと血たんを訴え高熱が続き﹁まだ死にたくない﹂を繰り返しつつ他界した。 長谷川高敏教授(大阪医科大卒)は、午後の講義の準備を終えて便所に立ったところだった。被爆 の瞬間、入口から廊下へ突きとばされ意識を失った。気がつくと廊下の壁と落下した鉄管の間隙に倒 れていたが大きい傷はなかった。ガラス破片による無数の小さい傷と頭部と腕の小裂傷である。しか し被爆後は全身の消耗が速く、発熱、やせ、皮ふの乾燥、紫斑が出現し典型的原爆症を呈してきた。 しかし約一年間療養を続け、ついに克服して死の手から逃れることが出来た。 哀れだったのは建物の外で材木の釘抜き作業をしていた看護婦、生徒たちで、戸外にいたため全員 爆死した 。 病棟内でも四名の看護婦が被爆死した。 木造だった控室の惨 88 精神科学教室も、学生の犠牲が大きかった。学部四年生と三年生のグループ、附属医専三年のグルー プ計十数名が卒業試験の準備、臨床実習のため高台別棟の中の学生控室(木造)に集まっていた。し かし、警報下で交通事情も悪いためか外来患者が来ず、学部三年生は思い思いに午後の講義の待機の ため分散した 。 しかし、残り二グループはもろに被爆した 。 木造家屋だったので被害も甚大で、学部四年生五名、 附属医専 三 年生六名が即死あるいは数日後に死亡した。 附属医専三年生の有富重康君は、十日午後頭を包帯で巻き、血だらけのワイシャツ姿で杖をついて

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帰宅した o ﹁二人の友達は助けたが、あとはどうにもならなかった﹂と悲しい表情を浮かべ、夢でも﹁す まん、すまん﹂と口走っていた 。 原爆症は急速にすすみ、父親に﹁今夜は早く帰って下さい L という のがやっとで、十七日早朝息を引きとった。父は有富星葉氏(小児科医師、歌人)、グビロヶ丘の慰霊 碑には同氏による鎮魂の歌が刻まれている 。 学部四年生の清崎裕之君は、別館学生控室で学友とともに自習中に被爆、全身火傷の身で深夜下宿 にたどりつき十一日死亡。最後まで熊本の自宅へ帰りたいと言い続けていたという。真面目な努力家 で七高の卒業成績も抜群であった。 高瀬清教授(東京帝大卒、のち学長、一九七六年没)は、佐賀県鹿島市へ出張していたため難を免かれ た 。松下兼 知助教授 ( 長 崎医大卒)は、助教授室で被爆、全身に負傷したが裏山へ避難した後意識を 失った。その後三週間生死の境をさまよったが幸い回復に向かった。看護婦は六名が病棟で死亡 した 。 89

遺族の手記の中から

-有 富 重 康 医 専 年 生 母 有 富 玉 与 ︿精神科にて遭難後 、自宅(市内弁天町)に帰り死亡す﹀ 八月九日十一時を打った直後、空襲警報が解除になっているのに爆音がする。私は大声で ﹁ 空 襲 で す よ 。

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葉子ちゃんを下さい L と、ひったくるように抱いて自宅の防空壕にはいった。どこで遊んでいたのか、小 学五年の四男と愛犬ル l ズベルトは早くも壕にはい っていた。中学一年の三男は下痢で寝 ていたし、長男 は応召中、夫の星葉は来客と広島に落された新型爆弾の話をしていた。私に続いて防空壕にはいって来た 長女は、入口で熱い爆風に吹かれ、前頭部と左腕を火傷していた。二男の重康は本当なら今は夏休みなの に、今日も勉強や警備の任務があるといって大学に行っている。(中略) 重康は日頃元気で、柔道や空手をやっていたので、大学で人のお世話をしているに違いない、夜には帰 るだろうと待ちましたが帰らず 、翌十日の午後、頭を包帯で巻き顔は錆鉄色になり、白かったワイシャツ は汚れ破れて血がつき、杖をついてトボトボと半倒壊の家に帰って来ました。 聞けば穴弘法を越えて伊良林小学校で手当を受け、そこで一泊した由。帰るや否や具合が悪いというの に医学生らしく医書を開いたり、リトマス試験紙を口にくわえてみたりしていた。敵機が来ると壕に入り、 去ると出て来て寝ていたが、十日夜は夢にうなされているので、耳をそばだてて聞くと、﹁すまん、すまん、 もう駄目だ﹂といっているので、どうしたのかと尋ねてみたら、 ﹁ 二 人の友達は助けたが、あとはどうに もならなかった﹂と悲しみ嘆いているのです 。 その顔の表情は全く凄惨そのもので、余程つらかったので 90 し ょ 、 っ 。 翌十一日朝、私は子供三人を連れてもとの疎開先時津に行きま したが、その時重康に 一 緒 に行かないか と勧めたら、﹁傷の手当もあるし、疲れているので少しよくなったら行きましょう﹂と気丈にいうので、 死ぬとも思わず、夫や長女や看護婦に託して出かけました。 十五日長女が私を迎えに来て、﹁もう兄さんの看病は私に出来ないからすぐ帰って下さい﹂というので、 また三人の子を連れ、臭気鼻をつく原爆中心地を歩いて家につくと、重康の容態は十一日に別れた時より

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ずっと悪く、唇は腫れ、白い薬をぬられてガ i ゼが貼ってあり、口の中は岩にカキがついたようにガサガ サで何も食べられず、その上 一 日三、四十回にも及ぶひっきりなしの下痢があって、便の色は緑色を混え たどす黒い色で、臭気甚しく、塩酸を多量にまぜたような便でした。 た ち その苦しい中から私を見て、﹁お母さんは元気ですね、私の口が痛くなければ館のお婆さんの面白い口 真似をして聞かせるのだけれど﹂ともいった。そんなにひどい状態なのに、夫は毎日早朝から夜遅くまで 救護病院につめ、或いは方々の防空壕内の被爆者を往診して廻って、自分の子の治療も出来ない有様、医 者の姿を見るだけで有難がって喜ぶ被爆者達をみては、帰るにも帰れない、これが医者というものの宿命 だとつくづく感じました。 十六日朝、重康は﹁今夜は早く帰って下さい﹂とあえぎあえぎ小さい声でいいましたが、矢張り帰りま た つ み せん 。 巽 の 方 を 向かせて下さいと云うのが最後で、あとは静かに安らかに息を引取りました 。 それは八 91 月十七日午前三時三十分でした 。 医学の道に専念していた息子は、国の為にという名目で、勉学も中断して死なねばならなかったのでし た 。 しかし世界平和の為に払わねばならぬ犠牲の先駆者であったとなれば、霊も多少でも浮ばれるという ものでありましょう。 ( 昭 和 必 年 4 月)︿﹃忘れな草﹄第一号より﹀

リーダーシップの極意

物療科学教室は外来本館二階と内科教室の地下の 一 室に分散疎開していた。永井隆助教授が部長と して、教育、診療の指導を行っていたが、当日は休講で学生はいなかった 。 被爆時、永井助教授は自

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室でレントゲンフィルムをより分けていた。猛烈な爆風とともに吹き飛ばされ、破壊物の中に埋まっ た。隣室の看護婦に声をかけ、皆に助け出された時に側頭部の動脈が切れ顔中血だらけなのに気づい た 。左耳の 前である 。圧 迫包帯でも止まらず、手で抑えたまま、職員、学生を激励して安全な裏山に 皆を誘導した 。 そして学生や元気な看護婦らを組織して、すでに出火している外来本館をはじめ各所 から倒れて動けない重傷者を運び出させた。 久松シソノ婦長は終始助教授の血まみれの活動と行動を共にしていた。芋畑に横たわる角尾学長の そばに駆けつけた永井助教授は、拾ってきたシ

l

ツに自らの血で日の丸を描き、学生に持たせると大 声で﹁学長先生はここだ。大学本部はここだ。皆集まれ L と叫んだ。 たちまち、混乱は収拾を見せ、組織的な救護活動に一変した。久松婦長は後になってこれがリーダー シ ッ プ の 極 音 山 、 だ と 感 嘆 し た 。 しかし、永井助教授は出血多量のためとうとう畠の中に卒倒した。駆けつけた調教授は左耳の前に コッヘル(止血紺子)を幾つもぶら下げ蒼白な顔で横たわる助教授を見て驚いた。麻酔薬なしの止血 手術にも顔色 一 つ 変 えなかった 。 その後も本館に急造した救護所へ負傷者を送るなどの作業の中心と なって活躍した 。 自宅では、夫人と下宿人で安静中の保野正之附属医専教授が爆死していた。ほかに物療科の看護婦 八名が死亡した 。 影浦内科は、影浦尚視教授(東京帝大卒)が諌早市へ出張中で難を免かれたが、菊野晴二郎助教授(長 92

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崎医大卒)は出勤後所用のため帰宅途中爆死した。学生は附属医専三年生のグループが試験延期の交 渉を行っていたようだが、詳細は不明である 。 学部四年生のグループは影浦内科の卒業試験期間中の ため病棟の学生控室か図書室で自習していたと思われるが、そこでの死亡者数は確定できない。教室 以外で被爆したケ

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スも少なくない 。 学部三年生の花田紀君は、当日外来実習が休みのため北講堂で早目の昼食をとっていて被爆、頭部 に負傷し下宿までたどり着いた 。 十 三 日、福岡県稲築町の自宅に帰りついたが、典型的な急性原爆症 で九月十四日﹁たとえ死んでも犬死にはなりたくない 。 必ず世界平和の礎にならねば﹂と苦しい息の 中でつぶやきながら他界した 。 同じく学部三年の古川 一 郎君は、両腕に負傷したが学友に助けられて裏山に逃れ、翌十日死亡 。 米 国生れの米国籍を持つ学生だった 。 93 対空監視学生の悲劇 ある意味で一番無惨だったのは防空当直で戸外に立って監視していた学生たちである。 学部四年生の服巻勝之君、原田清己君は、汽健室大煙突下の見張所で被爆した。近くに青木武君も ー ' -o 、ν 手 人 服巻君が訪ねて来た母に話したところによると、 一 瞬ピカリと光ったがっ注意﹂と叫んだ後は人事 不省におちいった 。 気がつくと学友の姿はなく、とっさに伏せたのであろう洋服もズボンも背中側が

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焼け落ちていた 。 学友に助けられ穴弘法で一夜を明かし、眼科の防空壕に収容されたのである。母と 弟に見守られながら十 三 日死去 。 生まれつき健康、親思いの好青年で、京大で哲学を学びたかったが、 医師の父の願いで医大へすすんだ。母の嘆きは狂わんばかりであったが、嘆きを克服しつづけて二十 五年、勝之君の待つ泉下へ旅立った。 青木武君も重傷を負い、下宿の人が探し出し、連れ帰るため担架を取りに一戻った聞に絶命した。発 見した時﹁かばんを取って下さい 。 聴診器が入っているから﹂とつぶやいた。母は武君が日頃大事に していた懐中時計がガラスははずれ長針は飛び散り文字板は泥だらけになっているのを見て、被爆後 地面を腹ばいになって長時間下宿を目指したの 、 だろうと推察した。母は武君が日頃可愛がっていた妹 の三歳になる男の子を養子に迎えた 。 いま熱帯医学研究所の青木克己教授である。 原田清己君も、服巻君と同じ防空壕に収容されていたが十四日頃死亡したものと思われる 。 昇雅夫君は防空当直で建物の外に出ていて被爆し、学友の救助にあたるなど当初は元気一杯であっ た 。 鹿児島に帰郷後、原爆症症状があらわれ、十八日﹁お母さん泣くんじゃないよ。私が見守ってる からへまた四人の姉妹には﹁自分の分までお母さんを大事にしてね﹂といい残し、還らぬ人となった。 雅夫君の弟昭二君も附属医専二年生で基礎講堂で爆死していた 。 同じ防空当直でも、対空監視班ではなく医療隊本部の電話番をしていた尾立源和君は助かった。暑 い盛りであったが、黒の制服にゲートルを着け、外来本館患者係に坐っていた。机の上に貴重な弁当 箱(当時防空当直の学生にのみ支給されていた)を置き、その上に制帽をかぶせた 。 岩波文庫の 94 ﹃ 恋 愛 と

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結婚﹄を読んでひとり殺風景な心を慰めていた 。 閃光を感じ怒 譲 のような 轟 音を耳にすると本能的に机の下にもぐった 。 こわごわ眼をあけると周囲 はま っ 暗闇です っ かり観念したが、次第に 霧 が晴れるようにスッと明るくなった 。 眼前には天井の梁やたくさんの材木がめち ゃ くちゃに積み重なって落ちている 。 とっさに電話の受 話器をはずしたが、交換手は出ない 。 レバーをにぎったまま交換嬢は絶命していたのだが、その時は 分からない 。 これは大変なことになったと直感した 。 玄関を飛び出すと皆が血だらけで歩いてくる 。 眼下の浦上の町は火の海 。 この光景を見て初めてこれは例の新型爆弾に違いないと思ったという 。 尾 立 君のグループは精神科を廻 っ ていたのでそこに駆けつけたが、学生の本拠地である別館はペシ ャンコに壊れてしま っ ていた 。 人 声 もないので皆逃げたかと安堵したが、よく見ると 一 人下敷きにな 9う っ ている 。 しかし動かない 。 木片を払いのけて見ると久保哲雄君、だった。鼻や口から出血しすでにこ と切れていた 。 彼には妻子があり卒業試験がすむのをあんなに楽しみにしていたのにと一瞬膜目した。 尾立君はさらに久野君に会って万年筆を渡し、﹁包帯をくれ﹂という学生にはゲートルを解いてグ ルグル巻いてやり、﹁寒い寒い﹂という学生には上衣全部をぬいで渡し、気がつくと上半身半裸体に な っ ていた 。 ﹁何しろ病院がやられて救急薬、包帯 一 つ取り出せなかったのですから﹂というのが救 助に大活躍した尾立君の弁であ っ た 。

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