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『宗教研究』233号(51巻2輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

キュンクの『教会論』の論理, 森田雄三郎, Logische Struktur in “der Kirche” von Hans Kung, Yūzaburō

MORITA, pp.1-26.

2,

越後山伏と御内証:其の実態と教義内容, 菊池武, Echigo Yamabushi and the Gonaiesho Cult: Its

Doctrine and Characteristics, Takeshi KIKUCHI, pp.27-45.

3,

蓮如の無常観:その思想史的意味, 堀美佐子, On Rennyo’s Idea of Transiency, Misako HORI, pp.47-66.

特別寄稿

4,

現代のアメリカにおける宗教学, 北川三夫, Mitsuo KITAGAWA, pp.67-84.

書評と紹介

5,

武田清子著『正統と異端の“あいだ”―日本思想史研究試論―』, 山川令子, Reiko YAMAKAWA,

pp.85-88.

6,

櫻井徳太郎著『日本のシャマニズム』, 山折哲雄, Tetsuo YAMAORi, pp.88-92.

Posted in 1977

(昭和52)年

(2)

キュソク の る 正 そ だ し の が く 批 、 伝

判 押 え

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再 課 に

横 題 解

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原初の 「源泉」

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1@ (117)

歴史的本質の本質を意味し、歴史的本質を本質

として限定する﹁源泉﹂

C

おづ

︵ロロ

幅 ︶を指す。イェス・キリストの

福音がこのような﹁源泉﹂であればこそ、かか

性質のかつての

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(3)

解釈行為を通して過去を現在へと媒介するにと どまらず、さらにこれを将来へと媒介する。しか も 神学はただに教会 のためのみならず、人類と世界のために、将来の 可能性を現在へと呼び起こそうとする。この ょ 3 な将来への媒介な いしは将来の呼び起 , ﹂しは、神学者の主観的 希 望 ほとどまうない。それは神学者の主体的希望を 主体的希望として 成 立 せしめ、歴史の最終目標へと向かわせ、現在 および将来のより適切な宣教と行為へと駆りたて る ﹁源泉﹂、福音の 根源的作用にもとついている 0 その意味では、﹁ 源泉﹂としての福音は、過去から現在へと働き 入ってくるのみなら ず ・最終的な将来からも現在へと働き入ってく るとも言える。 一 ︵ 30 ︶ このような課題をにな う 神学は、キュン ク によれ ば ﹁下から﹂出発する。すな ね ち、歴史的現在 における人間の間 題 状況を問 う ことから始める。この﹁下から﹂の 出発を説明するために、キュン ク はまず自己の 立場を二つの他の立 場から区別する。一方では﹁われわれはその 弁 証法 神学的な言 表 にもかかわらず・伝統的な意味

において上方か

︵ 4 レ ら 垂直にコ弁証法神学口を推し進めたと、 非 難されることはないであろう﹂と語り、端的な 超越から出発するこ とを避ける。同時にまた他方では、彼の神学が ﹁伝統的なカトリック的意味において 司 自然神学 口を推し進める﹂も ︵ 5 ︶ のでもないとも語る。つまり信仰とは無関係な自 律 的な人間理性が存在して、この自律的な人間 理性がまず信仰の基 礎を証明するのではない。あるいは人間理性か ら伸 へと段階的に進展する理性的な通があるので もない。人間は神に 学者は福音の観点から教会の宜教を批判的に再 検討する働きを通して・確かに破壊的にではな く 、かえって建設的︶ ︵ 2 ︶ に、 ょり適切な宣教と行動を呼び起こしかりそれ らを善導したいと希っている﹂。つまり・神学 は神学者の主体的な︵ 鼻 のためではなく、人類のため、教ム二のため、 世 界 のためにその神学的学業にたずさわっている のであり、さらに 神

(4)

意味するかぎりでは、存在論的先行と呼べぬも のでもない。しかしこの場合の存在論的とは、 哲 学的存在論一般にも の 三ロ ぅ べきも ハリ であろう。したがって、キュン ク において先行する問いに先行する神の現実性 と 、先行する問いとの 関 ) ツ 係は、たんなる時間的な先行以上のものを 立 息抹 している。それは・神の現実性が享 埋 そのも のとして存在することを

細かか

ろ 意味において神学の﹁下から﹂の 出 発は 、すでに神の﹁上方から﹂の語りかげに対応 する。否むしろ・後に述 ウソ ぺ l ゼ ノ 会 ︵ り 1 ︶ ゑ べるよ う に、現実の人間の本質が否本質に からみつかれたものであるとすれば・この対応は 逆 対応における対応とも の 論理 の 語る﹁下から﹂の出発とは、﹁キリスト教信仰 の 先行する問い﹂を発することであり、その 県 体 的内容としては、 ﹁問題ある現実の現実性と神の現実性﹂を認識す ることである。つまり、啓示の理解に先行する 人間の問題状況の認 識は ・人間理性によって認識されるのではなく、 じつはただ神を﹁信じつつ信頼することないし は 信頼しつつ信じる こと﹂においてのみ認識され、神の現実にたいす る 人格的信仰においてのみ理解される。言いか えると、啓示の理解 に 先行する問 い そのものが、すでにそれに先行す る 神の側からの呼びかけ、先行する問いに先行 する神の語りかげに 対する人間の側からの応答の始まりであり、 神 の 現実性に対して人間が自己を開くことにほかな うない。またその 眼 りで現実の神の同一性・有意味性・有価値性を感 愛 することであり、その究極の根拠と目標を認 容 することにほがな らない。このように人間に対していっさいの中上 工 的立場を許さぬ神の現実性のゆえに、今日の人 間 が現に生きている 彼の場所において人間の問題状況を探し尋ねる 試みもまた、啓示の理解に先行する問いとして 戊 立 することになる。 ︵ 6 ︶ このような否定的限定に続いて、キュン ク はつぎ に 神学の方法を現実性から積極的に根拠づける ことを試みる。 彼 たいして要求できる権利や権限をなにひとつ 所 有しないし、理性の働ぎは﹁信仰の前駆﹂︵ 口 ra 0 ゅ 日ヴけす ト円 宙缶 ︶ ない。このように端的に﹁上方から垂直に﹂ 出 発する,﹂とも端的に﹁下から﹂出発する,﹂とも、 キュン ク にとっ 現実性の取り違えとして否定され、 退 げられる。 でも ては

(5)

とづいて存在論的という意味ではない。それは、 イェス・キリストにおいて神の現実性が啓示さ れているというキリ スト論的現実性へとすでに 向 げられているかぎり でのみ、理解可能な神の現実性の先行する先行 であり、人間の問題 状況の先行する認知であり、また両者の逆対応 的な対応である。それゆえ、キュン ク においては 、神学的探究が﹁ 下 から﹂出発するかぎりでは、すなむち歴史的 現 象の本質を問 う かぎりでは、キリスト論は後行す るが、本質の必然的 な 歴史的現象を論ずるかぎりではキリスト論は つねに先行するのである。 右に述べたような意味で、キュン ク は神学的論 述 に際して次の二点を前提する。 け 神はつねに 現 実性として経験さ ね 、隠れたさまで主導権をもっ。それゆえ神と の 出会いはつねに神からの贈与である 0 ㈲人間に は 中立的傍観的な立 場 をとり ぅる 余地はなにひとつ残されていない。 人間の神認識はつねに神の真理存在の自己開示 を 信頼しつつ信じる ことにおいて遂行される。㈱それゆえ・決定的 な 規準はイェス・キリストの福音である。福音 は 、人間が自力によ って自発的な認識として提起する問いに対する 答 以上のものである。それはすでに人間の問いそ のものを変質させて いるところの問い以前のもの、人間の問いを 現 実の問いたらしめるものであり、同時にまたこの 変質せしめられた 現 実の問いに対する答でもある。したがって、一方 では人間の求めるものを批判し、純化し、深め て 現実の問いたらし ︵ @ ︶ めるとともに、他方ではこの必要を満たすものが 、福音である。 以上のことからして、キュン ク においては・ 神 学は神の現実性からはじまって神の現実性におい て 完成する問 いと 答の進展と言えないこともない。しかしその 進 展 はたんなる時間的な前後関係ではない。むしろ 歴史的現象の本質を 探し求める人間の問いと、源泉から本質を歴史 的 現象化させてくる福音とが、二重に作用して 生 起する進展関係であ ると言えよう。神学における﹁下から﹂の出発 は 、﹁上方から﹂出発して﹁上方﹂へと帰って 行 く 福音の本質的作用 に 根拠 づ げられる。同時にまた、﹁上方から﹂ 出 発して﹁上方﹂へと帰って行く福音の本質的作用

現象形態にお け (120) 4

(6)

ゆたがって、われわれはまずキュン ク の問題 の 大著﹁教会論しに示されるかぎりの神学的論理 を 追求することにしょ 工 2 Ⅰ ぅ 。その上また、もうひとつの理由がある。 そ れは、キュン ク が司教会論白の序言の中で語って いるよ う に、たしか︵ キュ に 神学本来の問いである神についての問題は﹁ 教 会 についての問題よりも重要である﹂けれども 、現実に後者が前者 制教内のことがらに対象をしぼったならば、 その方が神学的方法を貫く神学的論理はより簡潔 な形姿をとって現われて 会 園 くるよ う に思われるからである。また純粋 な 神学的論理は彼の現実批判の基本的態度を明ら かにするからである。 し る 木質を求めて﹁下から﹂出発する神学的探究 を 通して、理解されてくる。 一 一 " じっ さいキュン ク の大冊㍉キリス卜者たることし の中では、彼はまず近代のヒューマニズムの 要 式 内容・ヒュー マ 二 ズムの観点から望まれるかぎりの﹁別の次元﹂ 世界の諸宗教の求めているもの、といった 現 在の ﹁地平﹂の分析 からはじめるが、そこでは﹁下から﹂出発するか ぎりの彼の神学の方法上の特色を明瞭 二 小して Ⅰいる。そして 二ヒリ の神論の間頭 は キリスト教の内の問題である ズム と無神論の問題という現代特有の問いを﹁ と 同時に 、 外の問題でもあると考えられるのにた 先行する問い﹂として把握し、同時にかかる問い いして、もしもキリスト を 神学的観点から 現 実の正しい問いとして設定する操作を通して、 先 行の先行としての神の語りかげと答を把握し、 これを解釈する方法 をとっている。そこではキュン ク の神学的方法 の 特色ばたしかに明らかに示されている。 だが・われわれの差しあたっての関心は、キュ ンク の神学的方法の特色を見いだすことにあるは 上に 、 彼の神学的 方法の特色を構成している神学的論理の特徴を 見 いだすことにある。この関心を満足させるため には、むしろ伝統的

理に

キリスト教内部の問題を取り扱った彼の 著作に目を向けた方が、便利であろう。なぜなら 、現代のニヒリズム と無 論

(7)

﹁本質﹂は﹁不変のも 歴史的形態のうちにの の関係について、キュ が、歴史的形態の背後 会が見えるようになる の ﹂、﹁同一のもの﹂・﹁連続性﹂、﹁恒常性﹂とも 表 現される。そして﹁本質﹂は、生成変化する み 現われるけれども、歴史的形態から由来する ものではない。このような本質と歴史的形態と ︵ I I ︶ ソク は二つの限定を行な う 。一方において﹁本質 と 形態は分離すべぎではない﹂。﹁教会の木質 でも、またその彼方でもなく、この形態のうちに 考察されるときにのみ、われわれは現実の教 ︵ 3 l ︶

る 。﹁本質と形態は同一視すべきではない﹂。 - い l し︶ 源泉︵ C ∼もⅠ 仁コ ③によって明確に定められてい るいわぬ・ るコ 本質目なのである﹂ 0 ここで変化す る 形態にたいして、 (122) 6

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(8)

祝 さる べ ぎでもない。肯定的に言えば、本質は 形態のうちに考察さる べ ぎであり、しかも区別さ れつつ、本質から 本 質 へと理解されなければならないということに なる。 ところで、われわれはここに二つの局面を見い だす。第一は本質が現象する局面である。これに ついてキュン ク は ﹁現実の教会の現実の本質は、歴史的な形態の う ち に生ずる﹂。 ハ 5 i ︶ と語る。だからこそ、分離すべき この場合・木質が歴史的形態のうちに持続すると はいっても、それは﹁静的に硬直したものでは なく、動的に形成し つつある﹂ことを意味する。キュ ソク によれば、 ﹁不変のもの﹂が持続するとは、変化における 存続であり、可変に おける同一であり、出来事における連続であり、 無常な現象における恒常性である。つまり、 本 質は歴史的形態を遊 離してそれだけで存在する静的な即自存在では なく、歴史的形態の変化流動のうちに持続し・ 動 的に生成しっ っ ある 原 運動とも呼べるものを意味する︵ただし、 キ ユノク の説明の中で、可変的な形態における﹁ 不 変 のもの﹂といった 理 表現と﹁動的に生成し﹂つつ﹁不変ではな いが永続する本質﹂といった表現が並存すること は 、不十分な説明との 芽 輪 難を免れぬであろう︶。 第二は、現象する本質を理解する局面である。 キュン ク は﹁教会の本質は常に歴史的形態のうち に 認識すべきであ

教り

・また歴史的形態は常に本質から、また

なね ち、あくまでも本質 会読 と 形態を区別しつつ・この区別にもとづい て ﹁本質から、また本質へと向けて﹂理解される のである。したがって 神 ツ 学的理解とは、歴史的形態のなかに本質を 弁別しつつ、木質から、また本質へと向けて理解 することである。 ところでこの二つの局面とはいったいなにの 局 面 であろうか。それは﹁現実性﹂である。すでに これまで引用した 7 ( Ⅰ 223) @ ま 現実の教会を見出すのである﹂。 ︵ 4 i ︶ す な ね ち、 本 質と 形態は。否定的に言えば、分離すべぎでは なく、さりとて同一 ﹁形態の変化の中に、不変ではないが永続する 教 会の木質が区別されたものとして認められると ぎ 初めて、われわれ

(9)

︵ l ︶ る 。それ しかし デル によ に下降で るのでは 源泉への エクレ シ 間から 成 ︵ 桟 ︶ はまさに へ| ゲル的表現である。 ながら・キュン ク はこのように へ| ゲル的表現 を 使用しながらも、この歴史的本質はいかなる 歴 史 哲学の モ っても十分に規定されないとも語っている。﹁ す なね ち、この出来事は上昇であるにもかかわら ず 常に同時 あり、また下降であるにもかかわらず・また 常 に 上昇である。しかも上昇と下降とは順次波状を なして生じ なく、一方は他方の中に分化してあるのである。 つまり再三再四いつも同じく弁証法的な振子 運 動 であり、 周期的回帰であると共に神学的に方向 づ げられ た 未来への前進である。⋮⋮われわれが教会論 教会論が ア そのものと同様、時間と世界の中で、不断に変 化している人間世界の一回限りの今の瞬間に存在 している人 るものであり、またこのような人間のためであ る 限りは本質的に歴史的であると 言 5 時、以 上述べた す すものと 会 読 的で ﹁教会の 動である ある。 そ 解されよ う 。それゆえ、教会の歴史的運動は 、教 会の自己理解としての神学の運動となる。数ム ムドはつねに 教 なければならないし、教会論はっねに教会的で なければならない。また教会史は神学的自覚を内 にふくみ・ ︵ 0 2 ︶ 始源から今日に至るまでの教会 史 と神学史とに おけるさまざまな出来事の現実的連関﹂の自覚を もふくむ 運 。﹁本質﹂は現実の運動としての歴史的本質であ る 。そしてこの歴史的本質は意味ぶかい思想の 具体化でも れゆえにキュン ク は﹁教会の概念はその時どき の 教会の史的形態によって本貫的に規定されて いるしと五曲 ︵ ば ︶ シ フ についての教会論もまた変化する﹂との キ ユノク の表現は、本質の現象として運動する現実 性の二つの局面を指 た 現象する本質の歴史的運動の一局面であると も言えよう。﹁変化しつつある現実のエクレシア においては、 ェクレ ︵は︶ 質から、また本質へと向けて理解さるべきでる﹂ 。それが現実の神学的理解である。あるいはま た 、神学的理解もま (12 表現の中でも・﹁現実性﹂とか﹁現実の﹂といっ た 表現が頻出した。キュン ク における﹁現実性 ﹂とは、現象する 本 ︵ W Ⅱ︶ 質を意味する。﹁現実の教会の現実の本質は・ 歴 史的な形態のうちに生ずる﹂がゆえに、現実性 として現象する﹁

本め

(10)

︵ 3 2 ︶ べてのことを意味している﹂。 右の引用が示す意味において、キュン ク にとっ て 教会論は歴史的である。エクレシアの自己理解 0 表現である教会 論は 、史的状況を基盤として外へ向かって語り かけるとともに、史的状況をみずからの場として 内に語りかける。 そ のかぎり、キュン ク にとって教会論は個人的観点 から考察さるべきものではない。むしろ、みず から世界の中の出 来 事として生起する教 ふ 云の自己理解なのである。 そこに教会論は教会そのものと共に﹁必然的に絶 え間ない変化にさら されており、またそれゆえ、絶えず新しく、 作 りあげられ ば げればならない﹂︵ % ︶教会の創造的決断 である。歴史的形態 のうちにみずから生起せしめられて生起しつつ、 歴史的形態を超えんとする創造的決断を通して 、過去と将来は媒介 されて現在として自覚されるのである。過去と 将来は現在において媒介されつつ、この現在は﹁ いかなる特定の情況 にも 囚 われてはならない﹂のである。 しかしながら、そうだからと言って、教会およ び 教会論の本質は、偶然の窓 意 的な運動ではなく 、キュン グ にとっ ては必然性をもった歴史そのものである。キュ ソク によれば、教会論はその﹁起源﹂、すなわち ェ クレシア の﹁源泉﹂ 理 によって必然的に規定される。この﹁源泉 ﹂はたんなる史的な事件でもなければ、史実の背 後にある原理でもない。 輪 ﹁むしろこの源泉は全く具体的に﹁与えら れ目﹁措定され 円 ﹁設立され﹂るものである。 す な ねち、人びとの間に 、 具体化されるのである﹂。︵ 、つまりイェス・キ リス ぁ ︶ Ⅰ u して与えられると同時に、決断を通して実現すべ き 課題として人間を行為 ツ へと駆りたてる。キュ ソク は﹁直説法﹂から ﹁命令法﹂が生ずるとしばしば語るが、その言葉 はなによりも、人間の信 仰的 決断を通して歴史的本質を限定しつつ創造 する﹁源泉﹂の作用を意味している。キュン ク に ょ れば・それは歴史 9 (125)

(11)

の 各瞬間全体を通して歴史的本質を限定し、歴史 的 本質としてみずからを具現する﹁源泉﹂の 作 用 である。同時にま たそれは人間を源泉へと向ける作用でもある。﹁ イェス・キリストにおける神の救いの業によっ て 定められたこの ェ クレ シ フ の源泉は 、 単に最初の瞬間ないしは最初 0 発展段階を限定するだけではなく、教会の歴 史 全体をそのあらゆ る 瞬間において限定する。つまりこの源泉は本 質を限定するものである。それゆえ、その源泉を 単に過去のものとし て 置き去りにしておくことはできない。最終的 にそれから遠ざかるべきではない。教会の源泉 か ら 、あらゆる歴史的 様栢 、あらゆる変化、およびあらゆる一回限り の 具体的なもののうちに、永続する真実なもの、 持続するもの・恒久 ︵ お ︶ 的なものが与えられる。教会にとってその本質 は 単に与えられるものではなく、任務として課せ られたものである﹂。 それゆえ、源泉と本質と形態の関係について、 っ ぎのように言えるであろう。歴史的本質は 、源 泉 みずからが有意 味なものとして自己実現し、形態化する歴史的 運動であり、同時にまたこの源泉へと回帰せしめ られっ っ 源泉の実現 を 目ざす人間の歴史的運動である。それは神の 救いの業にもとづくと同時に 、 救われた人間のぬ 万成 を目ざす実践的付 為 である。﹁教会は世界のために存在するが、 こ 0 世界の史的変化の中にあって源泉に基づく 本 質に 忠実であるとい ぅ ことは、動かないこと C 日日 0 す 日の日 0 ︶に よ ってではなく、変化しうること︵品性 0q 目ゅ 日の コ ︵。 ︶によって可能とな る 。すなわち・それは新しい 日 ︵ 咀 。 目 0 ︶のた めの常に新しいアンガージュマン、変化とわれわ れ 自身の変革を目差 ︵ 笏 ︶ しての常に新たな献身、そして絶え間なく更新 される改革、刷新、根源的反省などによって 可 能 となるである﹂。 と キュン ク は語る。ここにわれわれは・第一節に おいて暗示した源泉と神学的行為との関係を 、い っ そ う 明らかなしか たで確認することができる。 (126) 10

(12)

ところで、われわれは先に・歴史的本質は神の 救いの業にもとづくと同時に救われた人間の完成 を目ざす実践的付 為 であると述べたが、この関係をいっそ う 厳密 に 明らかにする必要がある。キュン ク によれば﹁ 教会の現実の本質は がが配の中に生起すお ザ 。現実の関係は本質と 形 態 によってのみ説明できない。歴史 像 において はょき 木質が現われ るだけではなく、現実といえぬ現実のもの、 悪 しぎもの、教会の﹁百本質﹂ ボ 浸透している。 否 本質は本質的なもの によって生きているにもかかわらず、本質にた いして矛盾関係に立っている。それは倒錯した 本質である。それゆ え 、キュン ク は百本質を﹁ 影 ﹂になぞらえてい る 。もちろん・この 香 本質は神から与えられる ものではない。それ は 、教会を形成している人びとの失敗によって 生 れる。教会が人間から成るかぎり、教会の本質 は否 本質と共存して いる。 ︵四︶ この ょう に歴史的な教会のあるがままをあるがま まに認知する態度をキュン ク は一実在論的﹂と

理ンク

にとって、教会の本質を否本質ととも に 実在論的に把握できるのは﹁信じているキ リ ス 卜者の眼だけである㌔ 輪 信じることなく 影 なぎ本質だけを見る賛嘆 者も、 形だけを 見 る批判者も 、 共に教会の現実を 把握しないのである。 剥 このようにキュン ク は歴史的本質が否 本 質 と共存する現実の認容からはじめる。しかしい かなる方法に よ るにして 会はも 、この百木質の根拠、あるいはもっと 厳 密 に言って、香木質の否根拠を徹底的に問い尋ね ることを行なわない。 あ るいはまた、キュン ク はこの香木質の主体的 実存的な克服を徹底しょうともしない。彼はた だ 本質と否本質との事実

ツ的

共存を前提 し 、この事実的並存にもかかわ らず信仰者は赦された罪人であり、最終の完成 へと 向 げられていること を 語るにとどまる。そして主体的信仰の側面が 歴史的本質の運動の 一 契機として本質の連動の中 に 包みこまれるよ う 11 (127)

(13)

め る か らの全体を委ねることである。したがって 、真 の 意味でひとが信仰し ぅ るの は 神のみである。 だ から人間を信仰す のではなく、人間からなる教会を信仰するのでは ない。﹁教会を信 ず ﹂とは、教会を聖ならしめ る 聖霊を信仰する であり、それゆえに教会が信仰によって成り立 っていることが信じられるのである。 信仰についての以上のような理解にもとづいて、 キュソク は信仰と教会との関係について以下の よう に論ずる。 第 ︵つり︶ 3 に 、教会は神ではない 0 ﹁教会は無から創造され たものであり、かつ常にそのようなものであり 続ける﹂。﹁教会は (128) 格 こ の 眼 て の う を 質 で ね 」 こ 」 い で で 、 は こ ら と こ と る

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(14)

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13@ (129)

(15)

︵ 3 4 ︶ より正確には、目に見えるもののうちに隠された 教会である﹂。この論述においてキュン ク が 強 謁 しているのは、 二 元 論的ないしは二世界論的に理解される教会 観 を 斥けることであり、教会の現実性、教会の歴史 的 本質を分裂させな いことである。したがって、第四節で述べた教会 の 歴史的本質と形態の関係をこ , ﹂で斥けてい るのではない。むし ろ 、教会の現実性にふくまれるいまひとつの局面 としての﹁目に見えるもの﹂と﹁目に見えない もの﹂との関係、 つ まり教会の信仰的性格を語ろ う としているもの と 解せられる。 この場合・﹁目に見えるもの﹂とか、﹁目に見え もの﹂といった表現は、ブルトマン ふう に @ えば、なお神話的 である。﹁目に見えるもの﹂と﹁目に見えないも の ﹂といった表現は、なにか二つの即自的存在を 意味するかのごとき 印象を与えるからである。たしかにキュンク 白 身 はこの危険を察知している。だからこそキュン クは 右に述べたよ う に 二元論的ないしは二世界論的理解を斥けようと 努力しているのである。しかし、彼の努力にも かかわらず、なお 神 諾約・思弁的との印象は払拭できない。 いずれにしても、﹁目に見えるもの﹂と﹁日に見 えないもの﹂とを区別することができるのは、﹁ 信じているキ リス 卜者の眼﹂である。キュン グ がここで語ろ うとし ているのは、信じる者の共同体としての教会の 歴史的本質である。 ﹁それゆえ、現実の教会とは以下のようなもので ある。それは歴史的な変遷のうちに立ちとどま る 教会、その香木質 にもかかわらず、自らも信仰し、かつ人びとの 信 仰の対象となる教会である 0 この現実の教会の 中でこそわれわれは ︵ 何 ︶ 生きることができるのである﹂とキュン ク は 語 る 。だが、このようなキュン ク の言葉の中に 、わ れわれはなおキュン クに 問題点のひそむことを認める。それはキュン クの ﹁信仰﹂という基礎概念である。先にわれ われは信仰と教会が 共にそれ自体のうちに根拠をもたず、共に神の 救いの 業 という同一源泉に因り、共に相補いあっ て 奉仕の働きをする ことを見た。この場合、信仰とは主として個の実 杯酌決断としての主体的行為と考えられていた 。だが、信じる者の (130) 14

(16)

共同体とか、信仰の共同体とか言われる場合の 共同体の信仰とはなにを意味するのであろうか。 共同体の信仰とは 結 局は個の実存に帰せられるものであろうか。 そ れとも個の実存的信仰とは異なった独自の構造と 意味をもつものであ ろ うか 。もしも独自の構造と意味をもっていると すれば、それはいかなるものであり・また個の 実存的信仰とどのよ う な関連を有するのであろうか。 このような問いにたいして、キュン ク は教会の信 仰を社会学的・心理学的に考察し、これを歴史 論的 ・神学的に解 釈して、教会の信仰的性格を取り出し・その 独 白の構造と意味を明らかにすることに、主な努力 を 傾けている。した がって個の実存的信仰との関連についても、つ れ に 社会学的ないしは社会心理学的観点から一方 的に言及するにとど まる。したがって共同体の信仰を問題に取り上 げた場合には、そこで実際に述べられるものは、 主体的実存的な信仰 を客観化しつつ把握された内容のものである。 以上第一 | 六節において解明して来たことがら は 、教会の歴史的本質に関するキュン ク の思考で あり、それを貫く キュン ク の神学的論理であった。それは、第一 | 二節に述べたキュン ク の神学的方法に対応する ものである。だが、 理 このような教会の歴史的本質は、第三節 お よび第四節に述べたよ う に 、 実は﹁先行の先行﹂ である﹁源泉﹂としての 輪 神の現実性によって限定されている。ある いはこの歴史的本質は源泉から生起し、また源泉 へと 向 げられている。 そ ぬ してそこにこそ、もっとも深い層に属する キュン ク の神学的思惟があり、キュン ク の教会本 買論 が 客観化する根拠も 会 教 ある。 七 キュ キユノク によれば、現実の教会の歴史的本質の批 判と 検討は 、 つねに教会の歴史的本質の源泉 へ の 反省をまって 、 15 (131)

(17)

と サま ず る ら

会 の は す 「 律 い ュ ュ 約 い 会 人 イ 土 のものである。それはあらゆる時代の信じる人び とを通して働く神のわざである。この源泉が キ ユノク にとっ ニ ス・キリストの出来事﹂、﹁ 福 土日﹂・﹁イェス・ キ リスト﹂自身であることは・舌ロうまでもない。 キリス卜者を びとから区別してキリス卜者たらしめるものは、 イェス・キリストである。 の 源泉を探り求めるキュン ク の神学的方法は 、す でに述べたところの﹁下から﹂出発する神学的 方法にほかな ︵ 巧 ︶ 。今日の教会の現状および過去の教会史の批判

福音﹂に関す 聖書学の成果をふまえつつ、キュン ク は教会の 歴史的本質の中に働く源泉を見いだそうとする。 われわれはま ンク の理解した源泉の具体的内容を聴くことにし よう。 ンク によれば、イェスの福音宣教は﹁神の国︵ 神 の 支配︶﹂の接近の告知にはじき る 。﹁時は満ち た 。神の国は ︵㏄︶ た 。悔い改めて福音を信ぜよ﹂ ハ マルコ 一 ・ 巧 ︶。 この﹁神の支配﹂とは、﹁神の終末論的支配﹂ を 意味し・ 人 法 遵守によらない﹁ 神 自身の最高の行器﹂、政治 的 支配ではなく﹁純粋に宗教的な支

﹂、

︵ 酉 己 8 A ︶ であり・ 因果応報では ︵ 7 ︶ 罪人のための救いの山山立木 ﹂︵ 呈 + 9 4 す し であり、神にたい して全面的に回心すること、﹁根源的決断をなす ことを人間に ︵ 0 ミ 5 ︶ る ﹂。 国を予告したが、到来したものは教会であった 、この終末論的な神の支配を宣教した ィヱスと 教会との関係はどのように見られるのか。キュン ﹂という ロ アジの言葉を皮肉たっぶりに引用しな がら、イエス クは ﹁イエス ︵ ll 5 ︶ ︵ 舷 ︶ の 関係をつぎのように理解する。㈱復活前の イ エ スはその生涯においていかなる教会も創設しな かった。復活 信仰する共同体の将来的決断へと媒介される。 , ﹂の源泉はたんなる史的起源を意味しない。歴史 的形態において 現わ ね 、百本質の現存にもかかわらず持続し 、 目に 見えるものにおいて目に見えないものとして実在 する教会の歴史的本の 質は 、その源泉からして、あらゆる時代におい ても信じる人びとの共同体として限定されている 。源泉はたんなる 史

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キュン ク の ニ 教会論 コ の 論理

会はその源泉を単に復活前のイェスの意図と使 命に 仰ぐだけではな ︵㏄︶ く 、キリストの出来事全体のうちに有するので ある﹂。﹁したがって 、ィュス の誕生、活動およ び 弟子たちの召集か ら ・ イヱス の死去と復活ならびに復活者の証人 たちへの聖霊の授与に至るまでの、イェス・キリ ストにおける神の行 ︵ 6 5 ︶ 為 全体が、教会の源泉なのである﹂。 さらにキュン ク は教会の源泉と本質の関係の主 体 的自覚を取り出す。キニンクによれば、復活の イヱス との出会い を 現実に体験した弟子たちの集団は、﹁時の終わ りの救いの共同体﹂として表明される。﹁この 案 団は 、イエスの到来 の事実を全く決定的な出来事として、真摯な終末 論的 事件としてますます明らかに、ますます 深 く 理解する。復活 信 仰によって、この集団は十字架の蹟きを克服し、 またイェスを選ぶ新しい決断によって 、イヱス の死を罪人のための 宛 であると認識する。復活した者への信仰に ょ って、この集団はの らぅ べき出来事⋮を救いの 出来事・すなわち 端

て 新しい弟子たちの共同体は 、 神によって召さ ね 、選ばれた、終わ りの時の共同体としての自覚を深める。このよ う な 自覚の根底に神の支配と教会の本質との関係 が 横たわっているこ とを、キュン ク は認める。キュン ク によれば、 い まや復活を通じてイエスの神の国の宣教は 、十 字架 にっげられ復活 させられ神の栄光の中へ入れられたメシア、 キ リストの宣教へと移る。それは神の支配の忘却で はない 0 そこでは・ 神の支配は栄光に高められたイェスの支配にお いて決定的な現実性となっていることを、新しい 共同体は理解したの である。その意味では神の支配は教会と同一視 バ 。。。 , @ 。。。, されてはならず、また分離せしめられてもなら ない。教会において 神の支配は考察されねばならず、しかも両者は 自覚的に区別され、神の支配から神の支配へと 教 会は理解され ば げれ ぼ ならない 0 ここに キェンク の叙述は急激に救 清史的終末論に傾く。キュン ク の考えでは、神の 支配の最終的到来ま 17 (133) ︵ お ︶ 以前のイェスは、その説教と活動によって﹁ 復 活 以後の教会の出現のための基礎を作り上げた﹂ 。㈱﹁教会は復活 信

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終末論へと移し変えられる。教会の歴史的本質 は キリストの支配から神の最終的な支配へと向か って進展する歴史的 進行として把握されると共に、その根底におい て 神の支配が起源かつ目的として作用すること、 神の支配の同一性が 頓 と世界への奉仕を課せられている。 右に取りあげた多くの引用が示しているよ う に 、キュン ク においては、教 ふ 本の源泉と歴史的本質 との関係は、ただ ちに時間的前後関係における教会とキリストに お げる神の支配および最終的な神の支配との関係 、すなわち救済史的 底的 忠実を基礎とし、神の最終的支配の先行す る しるしであり、暫定的な歴史存在であり・押目 身の権能ある行為に 支えられていかなる自己主張を行な う べきでは なく、罪人のための救いの出来事のあらわれであ り、 神の側を選ぶ 従 アは 罪人と義人とを包含する。 バシ レ イァ は 義 人と 聖者から成る王国である。 ェクレ 組織され ぅ るものであり、発展と進歩と弁証法 の 結果であり、一言で言えば決定的に 上からもたらされ、何ものからも 演継 できない 行為であり・予測できない出来事であ ︵ @ 5 ︶ 業 である﹂。この区別の中に﹁かえって、教会 は神の支配に向かって秩序づげられ、 ︵ 0 6 ︶ ﹁神の支配はこの共同体の起源であり、土台であ り ﹂、﹁この共同体の目的であり、 こ このような区別における関連から、キュン ク は 教 会の歴史的本質を理解しょうとする シア は下から成長し、この世で 人間の業である。 バシ レイアは り、一 @ で @ , えば決定的に神の へ 9 ︶ またそれに整合されている﹂。 ︵・ 6 , ︶ の 極限およびその審判である﹂。 。教会は、イェスの福音への 徹 なものである。 バシ レイ ァ は結局すべての時間 の 終わりにおける最終的な栄光であり、最後的 状 態である。 ェクレシ が ・しかし同特に決定的には未来のものである。 エクレシアは終わりの時の中間期を通じて進む 巡礼であり、暫定的 本質的に現在のものであり、また未来に止揚 さ れるものである。バンレイアは確かに現在にはい り

ことものである︵

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・キリストにるしである。

「 お ェ い ク て レ 現 ・ ン 存 ァ す は る 34) 18

(20)

ヘ / ︵㏄︶ キ キュン ク は教会の本質をなす基本構造として 三 つのものをあげる。第一は﹁神の民としての教会 ﹂である。キュン 『教会論 コ る

o ヤ @ ヒ

@

ム本 の

吐但 」 に関

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の 論述 を ふ か え る と Ⅴ @ し よ て

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歴史における教会の弁証法的進展を根拠づ けて いると、解されている。源泉と歴史の最終目標、 キリストの支配と神 の 支配、イエス・キリストと神とは神学的に区別 されながら、同一であるかのような表現が無批 判 になされている。 さらにまた、キュ ソク は﹁イェス・キリストの 出来事﹂をひとつの全体的な神の行為として理解 する反面・この出来 事を復活以前と復活以後の時間的前後に区別し・ この区別にもとっいて時間的前後の中に現われ る 緊張構造と意味を 救済史的に論じようとする。これらの問題はい ずれも、伝統的には、三一神論および神人両性論 として論じられてき たことがらである。キュン ク はたしかに客観化 的 ・神話的叙述を避けて、信仰の主体的決断をも う ちに含む意味での 歴史的出来事をあくまでも歴史的出来事として 論じようとし、そのかぎりで非神話化に努めてい る 。しかし・キリス ト および神に関する彼の叙述はただちに救済史的 な 、すなわち客観化的に論じられた時間の前後 関係へと傾く欠陥を 示すのである。この欠陥は、ひとつには日教会 論ヒ という主題に制限されているからでもあろう が 、キュン ク の神学 曲論理に見いだされるもっとも不明瞭な点であ る 。われわれのキュン ク に対する批判と要求は 、 キュン ク は数ム ム の 源 泉と 歴史的本質と歴史的形態の関係を論ずる だ けではなく、さらに一歩ふみこんで、この源泉 と 本質と形態の区別を 理 区別として成り立たせる根拠をもあわせて 神学的論理として示すべぎであるということにあ る 。そのことを果たさず 輸しては、神学的論理は、みずからにまとい つく悪しき意味の神話的な色彩を拭い き れないこ とだ らぅ 。われわれは 最 19 Cl あ )

(21)

つのからだなのである﹂ 姦衆 Ⅰ コりソ ト一 0, Ⅳ ︶ われわれにとって特に興味ぶかいのは、右の三 つの構造の関連についてのつぎのキュン ク の叙述 である。キュン にょ れば、﹁神の民﹂とは旧約における選びから 終末に至る途上にあることを示すゆえに、﹁時間 的な 範 肩が前面に ︵ 7 6 り らだ﹂では﹁空間的な表象が支配的である﹂。﹁ 問 題 なのは、教会が リストのからだであるという解釈は、抽象的な からだの理念から理解されるものではなく、キリ ストを基盤として 、 キ 田 ク る 。このような意味において﹁教会はその本質 において食事による共同体であり、コイノニア、 またはコムニオであ り 、キリストの共同体、そしてキリス卜者の共

ちは多くいても、 一 加 することによって主を記憶して感謝し、新し い 契約にもとづく共同体に属することを確認し、 終末の食事を先取す

。信じる者は洗礼によって聖徒の交わりの一員

とされ、聖餐に

御霊によって人間は神からの賜物として自由を 与えられているがゆえに、自由はまた人間の課題 となる。かくて、 教 会 には﹁終末の賜物としての 霊 ﹂が与えられ、 教 会は神の霊に満たされて神の業によって働く道 具 という意味で霊的 な 建物である。また教会は霊そのものではなく、 霊の下にある。さらに神の霊は自由の霊であり 、教会もまた自由の 霊を与えられている。そのかぎりで教会は ヵリ スマ 的 構造をもつ。教会のカリスマ的構造は イエ ス ・キリストの出来 事 に結びっげられる限り、統一ある自由の現 わ れであり、教会における奉仕のために存在する。

第二は﹁霊の被造物としての教会﹂︵

6 3 ︶

である。

イエス・キリストにおいて御霊によって人間を

罪から解放する。

断を通じて神の民となり、この人びとより成る 神の民は歴史的な民である。 で ・ ク は は 信 と じ っ る て

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(22)

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キ ユングは へ| ゲルを無造作に使用する のではなく・批判しっ っ 受容しょうとする。神の 歴史性については へ|ゲ 舘 Ⅰ ツルを越えず、 イヱス の歴史性については シュ トラウスを越えず、信仰的実存の歴史性につい ては キエ ル ケゴ 一かせ 越 ︵ ︵ 竹 ︶ キ えないというのが、キュン ク の基本的な態度で ある。しかしながら、右の書物の内容は﹁将来の キリスト論のための @@ 円 舗 リスト論であるけれども、キュン ク はこれ をもっぱら客観化的救済 史 としてしか論じないか らである。たしかに キュ

ほンク

は、大著﹁神の人間化 ヒの 副題が示す よ う に 、へ| ゲルを手がかりにキリスト論の究明 に努力して ぃ が。︵ 0 ︶もち ろ 歴史の中で理解された神の民としての教会を前 挺 するものなのである。神の民としての教会とい ぅ 理解は、どの点に ︵ 8D 6 ︶ おいても基本的なものである﹂ 0 右のキュン ク の 論述からして、キュン ク の教会論では、教会の 木質的な時間性が基 木 構造をなすと考えられている。 しかしながら、この教会の本質の時間性を解明 する場合に、キュン ク は時間性を本質的に表現す る 概念をひじょう に 無造作に使用する。たとえば、現在とか過去と か 未来とか弁証法とかいった基礎概念を無造作 に 前提 し 、これらの 基礎概念を使用してただちに神学的本質を構成 しょうと試みる。そのかぎりでは、教会論で忙 客 観 比約叙述が支配的 である。第六節においても触れた よう に、もち ろ ん キュン ク はつねに数ム其の本質の主体的信仰的 契機にも言及する が 、しかしそれとてもつねに教会の現実性の 一 契機として論ずるにとどまる。直説法のゆえに 命 令法が生ずることを

回帰せしめられる。聖書的表現がこのような直読 法への回帰と直結す るときには、神話的な救済 史 へと逆行する。 このような問題点に関しては、直説法と命令法の 区別を区別として成り立たしめる根拠がさらに 問われる必要があ 埋 る。それは、まさにわれわれが前節の終わ りに キュン ク の問題点として指摘したことがらと 関連する。なぜなら、 直 輪説法は源泉からの限定を意味し、また・ 命 令法は源泉への目標づけを意味し、両者を統一す るものが神論ないしは キ

(23)

Ⅰ 主 ︵ 1 ︶日出か コ の イりみ ︵︶㎎・トリ∼㏄ 日パ目 Ⅰ nh@ ぬ ・︵ 田 イ Ⅰ 出 す仁 Ⅱ 幅 ・ ロ がのの -. さ ど @@ のコ ヱ目 d ミ ・ p ま じ ・ い ㎝ 目 ・五 %. 角田・星野﹁教会 論口 新教出版社、 ︵下︶二八六 ぺ一ジ 以下。訳語の統一その他の理由で 、邦訳とは異なる訳語と仮名使いを使用する 場ムロ も ある。なお 田コの本 寸ロ 9. 寒く ゎむ ∼ 思 ∼﹁︵かぬ,︵Ⅱ あ ぎ ur ゆ田 織色 ムヌぶ臼 甲乙 縛 ・︶ ミ ③は﹁教会論 ヒの 抄本ともい う べき内容 のものである ので、ここでは引用しないことにする。 ︵ 2 ︶ ト ・ p.O :の・ 目け ︵ 3 ︶目なあ本む コゆ - の下﹁ 乙 ∼ 蒸ぎ ・Ⅰ㍗ ew 忘り仁の㎏ 生 3 ヨ洋の のコ の ゴヨ - 橿コ幅隼 。の 勾 ・ 弔トロ のⅠ鮒の 0. せり ユ が幅の・ 目ト ︶㌧ い すの コ ︵いの﹁ -@p. し胃ヨの ︵ ゅ口 ︵・ 旧ず コ @C ン ・ 沐 R 円のその r-a やトヨじ - 四 Ⅱ 5. なおⅠ

の 木日 憶 ・㏄ 0 づかぬ ほまハ ままの 下 ﹁∼ め ∼ め馬 ∼ n. ︵ ま串 おに コ @ 勾 コ 月ロ 先ド 9 せの﹁ -ag 、 ぢぷ ︶も本書の抄本ともいうべ き 内容のもの であるので、ここでは引用しないことにする。 序説﹂にすぎず・われわれが要求するような 神 学的論理として神論あるいはキリスト論を論ずる ことを、彼は今日に 至るまでまだ果たしていない。そしてこの事 こ そわれわれが彼に期待する点なのである。 そもそも、 へ| ゲル神学に見られる歴史の論理 は 古典的な神論およびキリスト論の非神話化にほ かならず、キュ ソ ︵ ク 自身も彼のへ | ゲル研究においてこの点を明ら かに自覚している。それにもかかわらず、キュ ソク はみずからの 自 覚 に反して神話的表現へと逆行する。たしかに へ| ゲル神学における誤りないしは行き過ぎ︵ そ れは根本的に神的 精 神と人間的精神の同一性に示されている︶は 是 正されなければならないけれども・この是正が 客 観 化的な救済 史 と結 びつくときには、是正どころかかえって逆行に なる。重要なことは、 へ| ゲルの体系的な行き過 ぎを是正しつつ、 へ | ゲル的思考になおも残存する神話的性格を徹底 的に非神話化することにある。もしもキュン ク がこのことを実行し ないならば・現代のキリスト教会にたいする キ ユノク の かず かずの 賞 質すべ き 、また勇気ある 問 題 提起も 、げ っきょ くは論争をひ き おこすだげにとどまり、神学的 に 実りある結果をもたらさ ね であろう。

(24)

︵ 4 ︶ ン ・ p.O : 0. ド包 ︵ 5 ︶ くの -.p.p.O :の・ ドの ︵ 6 ︶に め -.p.p.O.. の・ドウ ︵ 7 ︶本質と否本質については、第五節を参照された ︵ 8 ︶以上の三つの点については、 ぺ匹 ・ PPP ぴづ のヰ ︵ 9 ︶︵すお本田 褒 ・ 毘め木 ∼﹁ ぃ蕊 ・ 甲且 ・邦訳︵上︶ 五 トへ ーⅠ @ ア 。 ︵ 托 ︶ p.p.O.. の・ P か h. 邦訳︵上︶ 五へ|ジ 。 ︵は︶ p. が・ 0.-s.1 の・邦訳︵上︶ 六 ヘージ。 ︵は︶や・ p.o : 0.1 の・邦訳︵上︶七へ |ジ 。 ︵ c ︶ ヒ p.P ぴふ ・邦訳︵上︶七ぺージ。 ︵ u ︶ 下 ・ p.O. の・ 1 の・邦訳︵上︶八ぺージ。 ︵ 巧 ︶ P.p.O :の・ 1 の・邦訳︵上︶ - ハペ一ジ 。 ︵ 托 ︶下り P のお・邦訳︵上︶ 八 。 へ|ジ 。 ︵ Is, ︶ 注 ︵ 騰 ︶を参照。 ︵㎎︶ 注 ︵ 騰 ︶を参照。 ︵㎎︶ p.p.o, の ・ 2 か ・邦訳︵上︶ 一セ ヘージ。 論 @ 。 理 ︵㏄︶ 下 p.o : 臼輯 ・邦訳︵上︶一七ベージ。 ︵ 担 ︶ 注 ︵ 9 ︶を参照。 ︵ 銘 ︶ キュソク の大著 由がコ m 内田や 旨 0% 紹キさ も えま ぉ西 Qo ∼∼㏄ め ・ 車ミ芭ぎき も ャ まさめぎ 曲めめぬ ∼ め ∼ 蕊 。 き め∼ ひ い きめ も蓬かミ Ⅰ∼ めセャ Ⅰ 会 読 教 守下ミ ゃ 尽さⅠ z 悪 めぎ 驚ぺか 薄さよ∼ 的ぬさ の か ふ師 簿 0 入む 。 弓 おぎ け Ⅱ㏄ しレお 十目 ずコ @ 由の目Ⅰ q.P の㍉ うバ T 二心斗 9 ように、キュ ソク の 神学的思惟が 長年 に わたる へ| ゲルとの取組みから得られたことは 、周知のとおりである。 の ︵ nO ︶ 出餌あ 木む 掃 ・もむ浜やい か e. が ざ ・邦訳︵上︶ 一 八 。 へ一 J ン 。 ︵ 射 ︶㌢ p.o : 碑燵 ・邦訳︵上︶一九ぺージ。 キュ ︵ 篆 ︶ P.p.O, の ・ N 鍋 h. 邦訳︵上︶一一 0 。 へ一ジ 。

(25)

︵ t0 ︶ p.p.o :の・ ぎ ・邦訳︵上︶一一 0 。 へ|ジ 。 ︵ 折 ︶ 下 p.o :の ぎ ・邦訳︵上︶ 二 0 ぺージ。 ︵ 穏 ︶ p.p.O :の・ 4p. 邦訳︵上︶四二 へ|ジ 。 ︵ 恭 ︶ 下 p.o.. けお ・邦訳︵上︶四三ぺージ。 ︵㏄︶ 卸 p.o., のお・邦訳︵上︶四三ぺージ。 ︵ 綴 ︶ イ洩 -. 屈曲 コの木 ビ ︵ ︶ m. チ主めお おおき 馬ド田悪ぉ際 Q っよ もめ、の・ も 下 ㏄ 片ヰ ︵ 銘 ︶二 % あ 刃ロ コ 9. むざ 木 ∼﹁も キぬ、 の母・邦訳︵上︶ 四 四 。 へ|ジ 。 ︵ 鍵 ︶ ト ・ ダ 0 : 挨ミ ・邦訳︵上レ四八ぺージ。 ︵ 出 ︶ p.p.O :の・ ミ ・邦訳︵上︶四八 へ|シ 。 ︵㏄︶ p.p.O :の・ ミ ・邦訳︵上︶四八 へ|ジ 。 ︵。 0 ︶ 下 p.o.- 凹ミ ・邦訳︵上︶四八ぺージ。 ︵㌍︶せ %p.a.0..% ミ 目 邦訳︵上︶四九ぺ ー ジ 以下, 0 メ ﹁ 牲 ・ aUC ア 主ビ のパ 目垢、 卜 omN ∼∼ ま n 目づ Vh ∼ ぬへ ぬ ャぐ雨 ド寅 @ お @ 咬まお 膝 ・ 邑 Ⅰミも 武 ミ、っ @ さ入め ∼ の 力∼︵ ﹁∼ @ 一 ゃ @- ミ雨婁 ︶ き ㏄∼ @@- ︵ づ ︵ n- ぎ, ︶ お ・ m 一申 のの ハし ・ ミ ・ 曲 ヨ - 由の Ⅱ隼の l 、 P ゆの 0 ︶・の・の㏄ hh ︵㏄︶ エリ コの メ必握 。 む ∼も 未 ∼ 、 c かめ・けお 日 邦訳︵上︶ 五一ぺージ以下。 ︵㏄︶ p.p.o :の・ 篤 ・ 邦訳︵上︶ め 五 - ハ ヘージ。 ︵ 邸 ︶この場合の﹁信仰の対象﹂とは、信頼しつつ 信 じる人格的な相手によって保証されていると、確信さ せられているもの との意味である。 ︵ 姐 ︶ p.u.o :の・の 0. 邦訳︵上︶五三ぺージ。 ︵ 賎 ︶ p.p.o :の・ 総 ・邦訳︵上︶五一八 ヘ,ジ 。 ︵㎎︶と u.o : けお ・ 捧 邦訳︵上︶五九ぺージ。 ︵ 佃 ︶と p.0. 、の求 ・邦訳︵上︶五九ぺージ。 ︵ 巧 ︶ そ ㏄ -. ま いコ の本ひ ロ ︶ め 。 め Ⅱ ド ミ下ト 武 Ⅰ 馬ぉ 良馬Ⅰ 柚ハ ∼ ベもか e- ︵何 % り @% お・ ロがお - 。 圭 @ 雙 - 円ぺ der.P き め︶・この書物は﹁教会 論 ﹂研究の準備 手 続 ぎと言える。 ︵ 蝸 ︶︵ まコ の 杏ビの - むぎ 木 ∼ へうぎ ・ 0.o い h. 邦訳︵上︶ - 八九ぺージ以下。 (140)@ 24

(26)

キュン ク の F 教会論 ヨ の 論理 ︵ 仰 ︶ p.p.O, の ・ o の h. 邦訳︵上︶七一へ一 ジ 以下。 ︵ 穏 ︶ p. 。・ 0 :の・ 求目 邦訳︵上︶七二ぺ 一ジ 以下 ︵ 穏 ︶ 下ダ 0.- のきい邦訳︵上︶ セ五 。 へ|ジ 以下。 ︵㏄︶と p.0., ぴ ③ 田 邦訳︵上︶ 七セ ページ以下 ︵ 目 ︶ ヒ p.o,% ミ・邦訳︵上︶六二頁 |ジ 。これ はト ・ S@ の ¥・ ト ・ ふ va さ的 ∼ 驚ぬへ ∼・ 蘇吋 ∼ 沖め 。︵田口㌃︶の 毎め ︶・の 田からの引用 である。 ︵ 磁 ︶せ性・ダダ ヂ 0.. の 90 目 邦訳︵上︶ 一 0 九ぺ |ジ 以下。 ︵ 鰯 ︶ p.p.o :の・ 籠 ・邦訳︵上︶一一二一 へ|ジ 。 ︵ 駿 ︶ レ p.0.- 甲賈 ,邦訳︵上︶一一五ぺージ。 ︵ 鵠 ︶ p.p.o, の ・ 擦 ・邦訳︵ 上 い一一五ぺージ。 ︵㏄︶ p.p.o, の ・ 双 ・邦訳︵上︶一一五ぺージ以下 ︵ 駝 ︶ 下 p.o :が Po0 ︵・邦訳︵上︶一二四 べ|ジ 。 ︵ 兜 ︶ p.p.O :の・ 11 ム︵・邦訳︵上︶一四五 べ|ジ 。 ︵㏄︶と p.o :の トコ ・邦訳︵上︶一四八 べ|ジ 。 ︵㏄︶ 卸 p.O.. の︶︶ 7. 邦訳︵上︶一四八 べ 一ジ。 ︵㎝︶ チ a.0t. 四ト ぢ ・邦訳︵上︶一四九 べ一ジ 。 ︵㏄︶ セ仁 ・ p.p.0.. の トめ 円目邦訳︵上︶一六九 ぺ| ジ 以下。 ︵㏄︶セ % ザ p.0.- 脾トの Ⅰ 串 邦訳︵上︶二三九ぺ | シ 以下。 ︵㏄︶ セ住 p.p.0., が い駐宰 邦訳︵上︶ 三 二七 ぺ| シ 以 @ 。 ︵㏄︶ 下 a.0. 、

四堅

.W 邦訳︵上︶三五 ゼ ページ。 ︵㏄︶ p.p.O :の・ 26Q. 邦訳︵上︶三五九 へ|シ 。 141 ︵ 辞 ︶と u,P ぴ 269. 邦訳︵上︶三五九ぺージ。 ︵㏄︶ p.p.o..m.2 のの・邦訳︵上︶ 三 - ハ 0 。 へ|ジ 。 ︵㏄︶このような表現を キュソクは 無造作に使用する が 、この表現はあくまでも地楡的であり厳密な概念 規 定 をした上で使用

(27)

する必要がある。 ︵の︶ そ住 ・ p 由 り下︵ まコ のが 日相 ・の かふ巨 きぎ・の・Ⅱの・ 注 ︵ % ︶をも参照。 ︵ れ ︶㎏ 魑 ・ 由培あ 本む∼︶ ゆ - コへ もさき 苗き ㏄﹁も悪さ 陣 Q ち ∼定め、 ぴ何 Ⅱ㏄ (142) 26

(28)

今日修験道史の研究が、次第に中央から地方へ

研究に注目されて来ているが、そこには色衣

宗教史上の謎を

解く重大な鍵が隠されているからであろう。

、日本の宗教の根源・庶民信仰の心髄を見る事

出来るのである。

さて、近世の修験山伏の組織化と支配機構は進

して固定と類型の道を歩んで行くが、そこに

厳しい山岳修行に

勤しみ修行本位に生きる山伏もあったが、山麓

町・村の中に定住し、本来的な修験者としての

意識から遠退き、

徹底した

的山伏︵百姓山伏︶となって其々

地域政治権力に干渉と統制を受げながら百姓

に従事しつ

活動

する者もあ

つこ 。︵

︶十八つまり、神主として勤め、

1

寄せ等をする巫女を妻として持ったり、立派

・ 伽

藍も持たず普通の民

設けたりした。そしてそこに於て・村人の求めに

応じて細々と呪符や祈

セを

施したり、民間医療︵呪医︶

又は村落

同体の虫送り・雨乞い・天気祭等の種々の行事

にも関与していた。こ

越しみと尊敬を以て映る事が多くなったので

御して或る一定の土地に根付いて、言はば

﹂として人々の目に親

27 (143)

|其

宇内

菊池

(29)

1ヵ ヤ カベ 教 1 0 始祖は宗教坊という山伏で 現 在に 継承され、近年 其 心 に北陸一帯に広範囲に分布している秘事法門 でも、明治期に秀道と 途中麓の吉野道場 守 である 岩 之助字に民宿した 際 、秘事法門の種を下 一派 紫波恢 弘敦者として著名な飯岡 政立は 、修験 常法 院 に生れ白光 坊 ︵ 4 ︶ の総合的報土 口 が上梓された。 又 、現代金沢を中 い う 旅僧︵修験行者と思われる︶が白山参詣の ろしたという。更に、東北地方のかくし念仏の の役僧等を勤めたりして修験の流れを汲んだ者 と、 其の活 後 振りが判るのである。 又 、これか ら 紹介する越後地方では、諏訪・石勒・白山等の 多くの系統の修験 山 伏の分布の跡を見る事が出来、更に鎌倉時代か ら 羽黒山教団の傘下に入っている衆徒達も多かっ た 。 尚 、即身仏も山 形 ・山石手に次いで此の地方に多いのも・此の様 な 情勢から出来上がった事であろう。こうした 山 伏達を 、近世後期の 越後出身 Q 鈴木 牧之が ﹁北越雪譜 ヒ ︵中立春︶ の 越後秋山郷の条に、﹁八病あれば米の粥を喰せて 薬 とす。 重 ぎは山伏 な むかへていのらす﹂、﹁秋山の人は庖 瘡 をおそ るる毒死をおそるるが如し︵中略︶すこし 銭 ある ものは呈ょ り 山伏を たのみて祈らすもあり﹂と、紹介している。 そうした内に於て、江戸末期から終戦 頃迄 越後 ぬ 方の寒村に於て・山伏 達 が特に真宗の念仏 信 仰を取り入れて・ ﹁御内証﹂なる特殊信仰を創始して相当数の信者 を 有し、極めて封鎖的宗教活動を行っていた。 それを世間では、 ﹁異安心﹂だの﹁秘事法門﹂だのと呼称している が 、指導者を失った現今でも少数の信者達は細 々ながらも其の教え を 守っているのである。 尚 こうした事象は 、寛 改年間に越後長岡で 異 法義なるものが発覚し、 官 権 と教権の手によっ ︵ 3 ︶ て 処分された事件の継承・残存であるという事は 別稿で 考察した。 今 此の御内証と同様な事例は

禧 近

二 項 託 陰 シ 陽

亡 師

老 父

恐 山

倉 代

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せ せ

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口 之 々 不 災 居、 難

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筋 ハ を

弘 臥

侯 致

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武 左

(144) ︵ 2 ︶ 例えば・慶応四年六月の備後三次の触書﹁御用 諸控 L によると、

参照

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