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ドキュメント内 『宗教研究』233号(51巻2輯) (ページ 64-70)

  

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蓮如の無常観 

‑ 証 

︵ ︶例えば︑松野純孝﹁親鸞 | その生涯と思想の展 開 過程 |ヒ二 一省重昭四八︑森首肯﹁親鸞 | その思想 史 ﹂三一書房 昭 

日大︑家永三郎﹁日本思想史に於ける否定の論理の発 連ヒ新見在 昭 四四など︒ 

︵ ︶丸山真男﹁思想史の考え方について﹂︵武田清子 編 ﹁思想史の方法と対象 ヒ 創立 社 昭三六所収︶ 

︵ ︶佐々木 斐夫 ﹁知識社会学の方法についての一考 察 ﹂宗社会学評論 ヒ 五八︶ 

︵ ︶唐木順二 一 ﹁無常ヒ筑摩書房 昭 四五︑亀井勝一 郎 ﹁無常観﹂ 零 日本文化研究 巨 新潮社︑昭三四︶ ︑小 林 智昭﹁無常感 

の 文学 ヒ 弘文覚︑昭四六︑益田勝美﹁日本人と無常 | 無常の系譜 | ﹂昌国文学﹂ | 解釈と教材の研究 | 一六 | 六︶などを 

参照のこと︒   8l Ⅰ ︵ ︶小林智昭前掲喜三頁︒   ︵ ︶水野弘元﹁原始仏教 ヒ平 楽手書店 昭 四六︒     ︵ ︶西尾 実 ﹁中世的なものとその展開 岩波書店 昭 四六︒  いろ︒無常観と超越の思想は本来栖矛盾する 理 念 ではない︒しかし︑武内民の記述にも見られる 無常観の内包する 意 

味は ︑現実への密着化を促し︑ひいては浄土教 的 超越思想の不徹底性へと繋がる要因になり得た と 考えられる︒さら  に ︑日本人の無常感覚の一貫した流れをも合わ せて考えると・蓮如の無常観の有する日本思想史 上における意味は ︑  重要なものと思われるのである︒要するに︑ 親 鷺の到達した超越者の思想が彼以後衰退していく という視点と︑無常  感 が日本思想史の持続 底 昔を成しているという 観点との交叉の中で︑蓮如の無常観の意味を考 ︐ える必要があるのでは  ないだろうか︒つまり︑布教者性により規制さ れる蓮如の思想の両義性︑特に無常観は︑日本に おける超越者の思想  が ︑その信仰内在的な真の創造力を減衰化され ァ ︑いく過程に位置づけられるのではないかという 想定を提出すること 

ができよう︒そして︑この仮説は︑日本宗教 思 想 史において無常感 と諸 住理無常観とが各々占め る 位置と意義の問題 

のよ り一層の究明を要請するものと考えられる のである︒ 

︵ ︶岸本英夫﹁宗教学ヒ大明堂昭三六参照︒ ㏄ ︵ ︶宮坂 宥勝 校注﹁仮名法語集ヒ︵日本古典文学大系 八三︶岩波書店 昭 四六一九一 | 一九二頁︒   182 ︵ 托 ︶唐木順三前掲善一五 頁 ︒   ︵Ⅱ︶唐木氏は︑認識哲学的無常観の例として親鸞を あげ︑無常の形而上学の例として道元を挙げている︒ 

︵は︶田村芳朗﹁鎌倉新仏教思想の研究 ヒ 手染寺書店 昭四 参照︒ 

︵ oa ︶田辺氏は同様の問題設定で蓮如の無常観につ い て 示唆に富む考察を行っている︒田辺正英﹁無常観 と 罪悪 観|親笘 と達 

如 をめぐって | ﹂ 宙 新潟大学教育学部紀要﹂一四︶ 

︵Ⅱ︶例えば﹁正像末法和讃 ヒの 愚禿悲歎述懐には 次 のような表現がみられる︒ 

﹁浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし虚仮 不実のこのみにて清浄の心もさらになし﹂﹁悪性 さ らにやめが  たしこころは 蛇掲 のごとくなり修善も 雑青 なるの へに虚仮の行 とぞな づ け たる﹂︵ 増 合文雄編﹁親鸞 集ヒ 筑摩書房 

昭 四三︶ 

︵ 騰 ︶稲葉 昌 丸編﹁蓮如上人遺文 法蔵 館昭四セ 一 三九 | 一四 頁ハ 以下﹁遺文 と略記 ︒ 

︵ 騰 ︶ 玖 紫朗 日 御文章講話口永田文 昌 

宣昭四五六 

九|セ 直参照︒ 

︵ け ︶﹁遺文﹂八四頁︒ 

︵㎎︶埴谷文雄﹁仏教とキリスト教の比較研究 ヒ 筑摩 書房 昭 四三︒ 

︵㎎︶ョ親鸞 集 ﹂ 壬ハ セー三一八八頁︒ 

︵⑳︶松野純孝﹁ 親驚 における無常観﹂谷中道 日 四四 ︶ 

︵ れ ︶ 円 親鸞 集 三八八頁︒ 

︵ 捜 ︶ 円 遺文 一九九 |二 00 頁 ︒ 

︵ 恭 ︶例えば︑山折哲雄司人間蓮如 目 春秋社 昭 四五︑ 杉浦助平門戦国乱世の文学 ヒ 岩波書店 昭四 ︑唐木 順三前掲書など︒ 

︵ 勿 ︶中村雄二郎﹁ 11= ロ語・理性・狂気 ヒ 晶文社 昭四 四 ︒ 

︵ 恭 ︶稲葉 昌 丸編﹁蓮如上人行実講法蔵 館 昭二三山 ハヰハ ーⅠ八七頁︒ 

︵ お ︶ 家 永三郎他校注﹁親鸞 ︵日本思想大系一一︶ 岩 波 書店 昭 四六の同氏﹁解説﹂その他︒ 

︵四︶武内義範﹁教行信証の哲学﹂ 宅 現代仏教名著 全 集 

大陸 

文館昭四 0  一 三八頁︶︒ 

ハ である︒そのために︑ややもすると︑宗教 学は他の学問たとえば︑社会学の一部として の 宗教社会学とか︑心理の   地学に基礎をおく宗教心理学などと混同 されるおそれがある︒それゆえに︑宗教学に志す ものは・絶えず宗教学と     現 他の学問との関係について注意を払わねば ならない︒でなければ︑宗教学そのものの実体が 明らかにならないのであ 

りヵ における宗教学 

神学︑哲学などの﹁規範的﹂︵ ZoH 日 at か き ︶ な学 問と ︑社会科学のような﹁記述的﹂︵ ロ のおふせ dw4 0 ︶な学問との︑中間 

に 位置するということができる︒幸か不幸か ︑ゐ 小 教学は人類の歴史に現れた宗教現象の全体の姿 を ﹁理解﹂しょう と 

する幅の広い学問であり︑宗教に関心をもっ 他 の 諸学問との間に明確な境界線がないのである︒ なぜならば・宗教学 

は ︑哲学︑歴史学・社会学・人類学・心理学な どの協力︑援助なしに孤立するということのでき ない学問であるから  当分は異った名称に従わねばならない現状であ る ︒それはともかく︑宗教学は人文学︵出口目 乱 ︵ すこの一つであり・  称を用いているので︑いつかは英語という同一 の 言語を用いている国々で用語を統一したいとい ぅ 声がありながら︑  乱 ののの ロ の 婁 ph ︵の意味でうけとられている︒イギ リス︑カナダなどではの 0 目 せ arPd 毛ののヰ岸 隼 Ⅱ 0 Ⅰ 日 川の 目四 0 コ㏄という 名  ﹁宗教学﹂については︑諸種の定義があるが︑ アメリカでは通常 エず ョ憶藍オ ︶ ぃ的ぃ コ のある いは︑ オのポ噌 目甲  ヒ 

川  三夫 

つぺ @ 

特別寄稿 

現代の 

ア  メリカにおける宗教学 

今日・アメリカにおける宗教学と他の学問との  関係について考えるときには︑まず︑﹁神学﹂と  ﹁人文学﹂との  複  雑  な関係について述べるべきであろう︒ここで  は ・それについて二つの具体的な例をあげて考え  てみたい︒第一の  側  は︑新約聖書を如何に学ぶかという問題であ  る  ︒昨年秋︑著名な新約聖書学者であるノーマ  ン  ・︒ヘリン︵  Z0  Ⅱ日の  コ  つめ  ︵〜 円コ  ︶が亡くなって以来︑シカゴ大学では︑  聖  書学  のあり方について討議が重ねられてきた︒  学者たちの中には︑ 

      

らないと主張する立場が一方にあり︑他方には︑  聖書は西洋文化の重要な要素であるから︑文化  的な文献として取扱  われねばならないと主張する立場がある︒この 

一 一つの立場は︑それぞれ︑宗教現象に対する﹁ 

神  学的﹂並びに﹁人文  学的  し  態度を代表しているに体ならない︒  同じことが︑キリスト教の歴史研究についてもい  いうるであろう︒今日・アメリカでは︑教  ふ 哀史  ︵の  す偉  Ⅰ︒ ず  イ出の  ヰ 0 Ⅱ  せ ︶  と  ︑キリスト教典︵  立互  OH  ぜ  O め  りず  Hp  の︵  pp  コプゼ  ︶  と  いう二つのアプローチが認められている︒目下  スタ  ソフォード  大  教団のために書いた︑キリスト教団の歴史﹂で  あり︑﹁昼間は批判的な歴史学と浮気を楽しんで  いても︑夜になれ  ば  ︑﹁神学  L  という本当の主人と同じ  べッド 

に 入る﹂とさえ断言している︒それに反して︑ 

キ  リスト敦史の目的は  キリスト教が﹁西洋文化の中で︑そしてまた︑  西  洋文化によって﹂どのように変化︑進展したか  を  研究することにあ  り  ︑それ故に︑キリスト教史学は人文学的な歴  史学に属すものであるとしている︒︵  毛  ぎず  日ト  の ︶のすの  0 〜 @@ ︒  ︑︑イ  ・ H 田の  don  Ⅱ  P 〜︶ @ ︶の  弗臣メ  @ バ @‑ ヰ  0 ︵Ⅰく肝︵︶  片 りののの︶  @. p  ︵︶Ⅰ  しビ 望ま︶の︵  PO  ︵︶の  ニい  円 薄めぎ  黛ヒり  ㍉  尽  〜〜 呵ぎミぎ  の Q  〜〜ぃぬ  湧  Ⅰ さ ㌔目さ〜  寸ぃⅠ  り 〜〜〜もめ・  づ 口コ  0 の 侍 0  臣  弓ふ  臣 0 のこ︒  コト  Ⅱ 目 出づのⅠ四ト  せ弔ド  e のの︒Ⅰの  日つ  ︒ ロ  ・ⅡⅠ・︶ 

(184) 

る ︒     

現代のアメリカにお け  円円め め 〜 ら Ⅰ ヒ Ⅰ き も つ ⑧㏄︒Ⅰ 吏 @ め叩ま 目 むめ 〜 n  〜か夷 市か驚 ⑧ も も 

喜色 

由ぎ 〜 0% ︒ ロ のぎの︵片田 目乙田 のす 仁屯 ︒ 韻 0 匹のせの 目 C 臣卜 せのⅡ㏄持せ  弔 Ⅱののの " トの の㏄︒ づ ・㏄Ⅱ・ り  もちろん︑ニュースナーの指摘する﹁文化的 プ 口 テスタ ソト ﹂の精神は︑アメリカの文化︑社 

   ム 耳 に長年に百一つて君の  臨 した﹁宗教的プロテスタ ソト ﹂によって裏付 げられていた︒そして︑今日のように︑﹁宗教的 

  

勢力が下火になった時代においては︑﹁文化的 プ ロテスタ ソト ﹂精神の土台も過去におけるよう な 堅固なものではな 

鮮  の諸大学における宗教研究を知るためには・  宗教的プロテスタ  ソト  ではなくして  コ 文化的  プ  ロテスタントしの歴史を 

鯨  考察しなければならないと思われる﹂とい  うことである︒︵  ざ  00  す 

の 目  当の  と  よ  巨主  の日  ぎ宙  0   日 4p@dO  お  ﹁  Oh   Ⅰ〜の︶一  ‑mPO  口の︒  " ︐ 

超教派的な大学では︑ユダヤ教に深い関心を示 した︒わたしの見るところでは︑教会が経営する 大学以外のアメリカ  要素についてのみ関心が示されてぎたのである︒ それに比べて︑プロテスタント精神によって 建 てられた︑一流の ︑  があり︑且つまた︑成熟したものであった︒ 少く とも︑アメリカやイスラエルのユダヤ系の大学 では︑新約聖書や キ 

リスト散史が組織的に取りあげられるということ がなく︑ただユダヤ教の発展に関係のある新約 聖書やキリスト教の  リカ の大学の学風を形成して きた プロテスタ ソ トの ヴィジョンは︑ユダヤ教 や カトリックのヴィ シ 日ソよりも包容性  く ︑ヒソ ズ Ⅰ 教 ・仏教︑イスラーム教などに 対 しても手を差しのべたプロテスタントである︒ また︑﹁最近まで アメ  も ︑その場合﹁フロテスタ ソト ﹂といっても・ 超 教派的であり︑自由主義的であり︑ユダヤ教 ︑ カトリックだけでな  簗旨浅 ︶は︑アメリカの多くの大学を今日あら しめたのは﹁プロテスタント精神﹂であると 述 べている︒もっと  右にあげた二つの例でわかるように︑アメリカ の 学界で宗教を語るとき︑﹁神学的立場﹂と﹁ 人 文学的立場﹂が 並 

立していることを見逃してはならない︒この 二 つの立場が並立して問題となるということは︑ ア メリ力 の一流大学の  歴史的な性格に 塞 いているともいい得るであろ う ︒このことについて︑著名なユダヤ糸の学者︑ ニュースナー︵ 目笘 n0 す 

ドキュメント内 『宗教研究』233号(51巻2輯) (ページ 64-70)

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