蓮如の無常観
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的 世
罪業感情の吐露はほとんど見ることができない︒ 親 俺の宗教において︑さらには浄土教において 根本的な信仰形成因 を 成す罪悪 観が ︑このように蓮如の中で乏しい 表現しか与えられていないということは︑蓮如の 宗教思想の構造を分 析 していく上で︑きわめて重要な問題を提起す る ︒つまり︑蓮如の思想の核と呼ぶべきものは︑ 無常観を手がかりに 解明できるのではないかと想定されるのである︒ 換言すれば︑無常観を究明することに ょ り︑ 彼 の 思想構造全体の性 格 が浮彫りにされてくると考えられる︒確かに 蓮如の無常観は︑前述した よう に御文の中で主要 部分を成していると は 必ずしも言い難いが︑処々に散見される無常 0 表現は彼の説法の特徴となっており︑かえって そこに蓮如独自の思 想 が垣間見られるのではないかと考える 0 した がって︑蓮如の思想の持つ意味を問題にする本稿 の 立場としては︑ 彼 の 無常観に照明を当て︑その本質を解明するこ ナ @ 必須の仕事となるのである︒
蓮如の無常観が ︑ 彼の思想の核に開わっている のではないかという想定は︑前述した よう に ︑相 き数の表現が御文
に 見られる点と共に ︑ 次の点にも依拠している︒ すな ねち︑量の面ばかりでなく︑その質的内容 においても・看過し 俄悔
・
櫛柏ハの感 @︒
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彼の罪悪観の深さを余す ところなく伝えている︒それに対し︑蓮如には︑ 心の底から送り出る 三 蓮如の無常観本節では︑第一節で述べた視点から︑蓮如の無 常 観の解明を試みていきたい︒考察を進めるにあ たり︑無常観 と罪 ︵ 鳴 ︶ 悪 観の比較という基本的枠組を設定しておくこ とにする︒というのは︑否定の論理を究極にまで 徹底させたといわれ る 親鸞においては︑無常という表現は彼自身の舌 口業としては文献の中で二回使用されているにす ぎないのに対し︑ 蓮 如 においては︑蓮如真筆と認められている御文一 一百数十 通 のうち約一割にあたる 二セ 通に無常に 関する表現が認めら れるからである︒また︑親鸞の場合︑無常につ いて語ることこそ少なかったが・㍉正像末法和讃 ﹂などに吐露された
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得ぬものをもつ点である︒御文に無常の表現が 現れるのは︑文明四年︵一四七二︶・彼が五八歳 のと ぎであり︑その 後︑文明五︑六︑七︑九︑十年に集中して書か ね ︑最後の記述は明応 セ年 ︵一四九八︶蓮如八四 歳 のときであった︒
文明四年から七年という時期は・彼が越前吉崎 に 本拠を置 き ︑飛躍的に教線を拡大した時期に当 たる︒その期間に ︑ 現存する期日の明確に記された御文のうちの 半 分 が出され︑しかも︑その御文の中に無常表現が 相当数見られるので ある︒この時期は ︑ 彼の人生において一つの 転 期 であった︒それ以前の本願寺は︑山門徒の迫 圭 口をしばしい 片体乎 入山川 し ︑ 寛
正セ 年 ︵一四一八 @ ハ ︶には大谷廟堂が破
徒を煩って転々と居を移した︒応仁の乱発生後︑ 即 された︒蓮如はこの事件を逃れ︑応仁の乱が勃
夷草寄りの立場をとり堅田門徒の所へ身を寄せ 発するまでの三年間・近江間
仁 二年二四六八︶に山門徒に攻撃され︑また もや彼は移転を余儀なくされ︑大津に移った︒ そ の後︑東国や高野・
吉野へ布教の旅に出かけ︑そして文明三年に 越一 刊国 河口座細目 宜郷 吉崎に赴いたわけである︒
︐ ﹂のように吉崎へ到る 以前は︑相次ぐ山門からの攻撃や戦乱によって ︑ きわめて不安定な生活を強いられていたのであ る ︒それに対し︑ 吉 時時代は・彼にとり︑布教の成果が目に見えて 上がり︑本願寺勢力の地盤が拡大され︑固められ ていった時期として 重大な意味をもっ︒彼がこの時代に御文を盛ん に 書いたことも︑彼の布教へかける情熱を示して いる︒そして︑当時 の 御文に盛られた無常の表現も・単なる修辞︑文 章 のあやではなく︑当時の変転めまぐるしい 世 相 や ︑蓮如自身の受 げた苦難を背景としたものであったことは・ 想 像 に難くない︒
例えば︑文明五年十二月八日付の御文では次の よ う に記している︒ 観 鮪 ﹁ことに在家の身は︑世路につげ父子孫繁田 目 なんどの事に︵ ょ そへて︶も︑ただ今生にのみ ふけりて︑これほどに︵は 藩胴や︶めに見えてあだなる︑人間界の老少小 定 のさかひとしりながら︑ただいま三途八難に
士 心バ
つま ん @ 事をば ︑つゆ ちり
ほども心にかけずして︑いたづらにあかしくら すは︑これ つ ねの人のなら ひ なり︒あさましとい ふも をろかなり︒ こ
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善知識として一念帰命の信心を決定し︑報恩金 仏を行えば︑課業往生は必定であると信仰への 勧 誘を説く︒彼女の往
生の際の様子についての描写をみてみよう︒
﹁されば︑看病人もまたたれやの 人 までもさりと もとおもいしいろのみえっるに︑かぎりあるい のち なれば︑ちから
なくて無常の風にさそはれて︑ 加 様にむなしく なりぬれば︑いまさらのやをにおも ひて ︑いかな るひとまでも感涙を らかにするこの御文は︑蓮如の無常観の一側面 を 伝えたものといえる︒
蓮如の感情の昂揚が窺われる無常表現の ょ 0 通 切 な何として・文明四年に れは︑彼の次女児玉 尼が 二五歳で逝去した際に 出されたもので︑その構成は 病弱の身であった貝玉 尼が ︑相次いで継母 蓮祐 と姉如 慶を失い︑悲嘆のあま
ている︒そして後半では︑彼女の安心決定せる 有様を描き︑ 死 際の瑞相につ 書かれた御文を挙げることがで 次の通りである︒まず︑前半で り 病床に臥し︑死に至った過程 いて述べ︑翻って門徒に向かい きる︒そ は︑自ら が
記され
︑彼女を で 感傷的表現と言えないこともないが︑無常に 翻弄されている有様を ︑
祝 し︑さらに﹁あさましといふもをろかなり﹂と 付け加えることによっ ﹁これ つ ねの人のなら ひ なり﹂と冷静に客観
て ︑無常に呑み込まれぬ宗教者蓮如の姿を明 0 表現を ︑ 彼らの死から受けた蓮如の感懐の吐 露であるとみることもできよう︒しかし︑その事 実の真偽を別にして
も ︑人間の生命のはかなさを切々と綴るこれら の 言葉は ︑ 確かに深い感銘を聞き手に与えずには おくまい︒ある意味 めにおこし給へる本願なれば︑まことにもて 仏 智の不思議と信じて︑ 我身 はわろ ぎ いたづらも のなりとおも ひ
つめ︵
︵ 5 l ︶ て︑ ふかく如来に帰入する心をもつべし︒﹂︵ 6 l ︶ この御文は道 林寺 父子の死を念頭に置いて書かれ たものともいわれるが︑仮にそれが真実である ならば・この御文
て れ
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又 よ