古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共 建造物 : トゥッガにおけるフォルム周辺部の景観 変化を中心に
著者 井福 剛
雑誌名 文化學年報
号 67
ページ 159‑183
発行年 2018‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027597
古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共 建造物 : トゥッガにおけるフォルム周辺部の景観 変化を中心に
著者 井福,剛
雑誌名 文化學年報
号 67
ページ 159‑183
発行年 2018‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027597
古 代 ロ ー マ 時 代 北 ア フ リ カ に お け る 景 観 変 化 と 公 共 建 造 物
│
│ ト ゥッ ガ に おけ る フ ォル ム 周 辺部 の 景 観変 化 を 中心 に
│
│
井 福
剛
は じ め に
︵1
︶ロ ーマ 支配 期北 アフ リカ の文 化を めぐ る研 究状 況 現在 のチ ュニ ジア のカ ルタ ゴ遺 跡か ら南 西約 一二
〇㎞ の地 点に トゥ ッガ
︵現 在の ドゥ ッガ
︶と 呼ば れる ロー マ都 市 の 遺跡 が存 在す る︒ この 都市 はも とも と古 代リ ビア 人の 集落 であ り︑ カル タゴ の勃 興後 はそ の影 響下 にあ った と考 え ら れて いる
⑴
︒そ の後
︑ポ エニ 戦争 期に ヌミ ディ ア領 とな るが
︑ヌ ミデ ィ ア 王 国が 滅 亡 し︑ 属州 ア フ リカ
・ノ ウ ァ が 創 設さ れる と︑ トゥ ッガ もロ ーマ 支配 下に 入る こと にな る︒ こう した 経緯 から
︑リ ビア
︑ヌ ミデ ィア
︑カ ルタ ゴ︑ ロ ー マと いう 複数 の文 化が 重な り合 って 形成 され てい る のが こ の トゥ ッ ガ とい う 遺 跡 なの で あ る︒ トゥ ッ ガ に 限ら ず
︑ ロ ーマ の支 配下 にあ った 北ア フリ カの 古代 都市 では
︑リ ビア やカ ルタ ゴな どの ロー マ以 前の 文化 とロ ーマ 文化 が程 度 の 差は あれ 折り 重な って 文化 が形 成さ れて いる
︒そ のた め︑ ロー マ時 代の 北ア フリ カを 研究 する 際︑ こう した 文化 の
― 159 ―
重 層性 を念 頭に おか なけ れば なら ない ので ある
︒ ロー マ支 配期 北ア フリ カの 文化 に関 する 研究 状況 は︑ こう した 文化 の重 層性 をめ ぐる 研究 者た ちの 解釈 の変 遷と し て 見る こと がで きる
︒北 アフ リカ の文 化に 関す る研 究は
︑長 い間
︑他 の属 州同 様︑ ロー マ化 を中 心と して 考察 され て き た⑵
︒ つま り文 化の 重層 性は 中心 的な 考察 対象 には なら ず︑ 覇権 的な ロー マ文 化 が い かに 浸 透 した か が 関心 の 中 心 を なし てき たの であ る︒ しか し︑ 一九 六〇 年代 以降
︑そ のよ うな ロー マ化 を中 心と した 読み の否 定 が 行 われ 始 め た⑶
︒ そう し た 批判 の 代 表 的 な研 究と して ベナ ブが 挙げ られ る︒ 彼は ロー マに よる 文化 変容 をロ ーマ 化に 対す る現 地の 人々 の﹁ 抵抗
﹂と して 読 み 替え を行 った
⑷
︒ベ ナブ 以降
︑ロ ーマ 化批 判が 行わ れて いく こと にな るが
︑近 年 で は ポス ト コ ロニ ア ル 理論 の 影 響 を 受け た属 州研 究者 がそ うし た批 判の 中心 を担 って いる
⑸
︒ 以上 が︑ ロー マ支 配期 北ア フリ カの 文化 に関 する 研究 の流 れで ある が︑ 次に こう した 研究 にお いて 本稿 にお いて 考 察 対象 とな る都 市の 発展 を主 導し たロ ーカ ル・ エリ ート はど のよ うに 位置 づけ られ てい るの かを 見て いく
︒ まず ロー マ化 研究 にお いて ロー カル
・エ リー トは ロー マ文 化を 受容 する だけ のパ ッシ ブな 存在 とし て捉 えら れて い る
︒彼 らは ロー マ文 化を 受け 入れ
︑そ れを 現地 に浸 透さ せる 伝道 者と して 位置 づけ られ てい るの であ る⑹
︒ 他方 で︑ ベナ ブは 現地 文化 の継 続・ 残存 に注 目し てい るた め︑ 都市 部の エリ ート はロ ーマ 文化 を採 用し てい る人 々 と して 研究 の中 心か らは 排除 され てい る︒ 彼の 主張 はロ ーマ 化研 究と は真 逆で はあ るも のの
︑ロ ーマ 文化 をパ ッシ ブ に 受け 入れ るだ けの 存在 とし てエ リー トを 位置 づけ てい る点 にお いて
︑両 者は 同じ であ る⑺
︒ 最近 のポ スト コロ ニア ル理 論の 影響 を受 けた 研究 にお いて は︑ ロー カル
・エ リー トの
﹁戦 略﹂ を重 視し
︑現 地住 民 に より 積極 的な 役割 を見 出す もの がで てき てい る︒ 例え ば︑ ミレ ット やウ ルフ は属 州に おけ る文 化変 容に 関し てエ リ
古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物 ― 160 ―
ー ト層 の果 たし た役 割に 注目 して いる
⑻
︒彼 らは
︑ラ テン 語や ロー マ風 の習 慣 を 採 用す る 際 に︑ エリ ー ト 層が 自 ら の 権 力と 地位 を維 持す る手 段と して 戦略 的な
﹁選 択﹂ を行 った こと を強 調し てい る︒ こう した 流れ を受 けて
︑北 アフ リカ の研 究に おい ても ロー カル
・エ リー トの 積極 的役 割を 強調 する 研究 が出 てき て い る︒ 例え ば
︑カ ル タ ゴ周 辺 地 域に お け る宗 教 に 関 して 研 究 をお こ な った リ ー ブ スが あ げ られ
る⑼
︒彼 は 一 貫し て
︑ 北 アフ リカ の異 種混 淆的 文化 がロ ーマ 化や 抵抗 によ って もた らさ れた ので はな く︑ 属州 民︑ 特に エリ ート 層の 戦略 的 な
﹁選 択﹂ の結 果で ある こと を強 調し てい る︒ しか し︑ こう した エリ ート 層の 戦略 を重 視す る研 究に 対し 批判 もあ る︒ 例え ばヒ ング リや ウェ ブス ター など は従 来 の 研究 が都 市部 やエ リー ト層 に集 中し てき たこ とを 指摘 し︑ 田園 部や 下層 民を 見る べき だと しロ ーカ ル・ エリ ート の 戦 略を 重視 する 研究 を批 判し てい る⑽
︒ 確か に︑ 今ま で研 究対 象か ら排 除さ れて きた 田園 部に 焦点 を当 てる 必要 性を 訴え るこ とは 当然 なさ れて しか るべ き こ とで ある
︒し かし なが ら︑ 属州 文化 を考 察す る上 で︑ 田園 部が 欠か せな いの と同 様に
︑都 市部 もそ れを 構成 する 要 素 であ るの は確 かな こと であ る︒ 彼ら の研 究は ロー マ文 化が 浸透 して いる 都市 部で はな く︑ ロー マの 影響 が比 較的 少 な いで あろ う田 園部 を重 視し
︑現 地文 化の 残存
・継 続あ るい は異 種混 淆的 文化 を見 出し てい くわ けだ が︑ そこ にこ そ ロ ーマ の影 響が 色濃 い都 市民 を除 外し てい く排 除の 意識 が反 映し てい るよ うに 思え る︒ また
︑ポ スト コロ ニア ル理 論の 影響 を受 けた こう した 批判 者た ちは ロー マ文 化/ 現地 文化 とい った 単純 な二 項対 立 を 避け る傾 向が ある が︑ 田園 部に こだ わる あま りに 都市=
ロ ーマ 文化
/田 園= 現地 文化 とい う二 項対 立が 回帰 して い る よう にみ える
︒都 市部 にお いて も市 民権 を持 たな い人 々の 存在 を考 慮す るな らば
︑田 園部 のみ に現 地の 人々 が存 在 し てい るわ けで はな い︒ また
︑本 稿で 扱う トゥ ッガ のエ リー トに 関し ても
︑多 様な 出自 や立 場を もっ てお り一 括り で
― 161 ― 古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物
き るも ので はな い︒ ロー マ化 とい う基 準が あい まい にな った 今だ から こそ
︑ロ ーマ 文化 に最 前線 でさ らさ れて いた ロ ー カル
・エ リー トと 彼ら が主 導し た公 共建 造物 の建 築に 焦点 を当 て再 検討 する こと が必 要で ある
︒
︵2
︶ト ゥッ ガ研 究に おけ るロ ーカ ル・ エリ ート と公 共建 造物 ここ でト ゥッ ガ研 究に おい てエ リー ト層 と彼 らが 担っ た 公共 建 造 物の 建 築 はど の よ う に扱 わ れ てい る か 見 てお く
︒ 後 述す るよ うに トゥ ッガ には 現地 人の コミ ュニ ティ のキ ウィ タス とロ ーマ 市民 から なる コミ ュニ ティ であ るパ グス の 二 つの コミ ュニ ティ が存 在し てい た︒ 一│ 二世 紀の トゥ ッガ の研 究に おい て︑ この 二つ のコ ミュ ニテ ィと エリ ート の 関 係が 問題 にな って きた
︒ まず 一九 五八 年に トゥ ッガ 遺跡 につ いて 詳細 に論 じた ポワ ンソ は︑ 二世 紀に おけ る両 コミ ュニ ティ の接 近と 新し く ロ ーマ 市民 権も つエ リー トの 存在 につ いて 触れ ては いる が︑ 二世 紀の 政治 的変 化と いう コン テク スト の中 で︑ この 新 し く生 じた エリ ート 層が 公共 建造 物の 建設 の多 くを 担っ たこ との 意味 につ いて は論 じて はい ない
⑾
︒ 新た な発 掘の 成果 が報 告さ れ始 めた 一九 九〇 年台 以降 にな ると
︑こ うし た新 たに 生じ たエ リー トに 関す る詳 細な 分 析 と彼 らが 担っ た公 共建 造物 建設 の意 義に つい て論 じて いる 研究 が出 てく るよ うに なる
︒例 えば
︑二
〇〇 四年 に最 新 の 発掘 成果 を駆 使し なが ら︑ 宗教 関連 碑文 につ いて 詳細 に論 じた サン
・ア マン は二 世紀 に登 場し たキ ウィ タス 出身 の 新 たな エリ ート 層が 行っ た公 共建 築の 建設 が都 市を 発展 させ たこ とを 指摘 して いる
︒ま たそ のよ うな エリ ート 層の 活 動 がロ ーマ とア フリ カの 神々 の共 同体 を創 り上 げ︑ 宗教 的・ 社会 的・ 法的 アイ デン ティ ティ の融 合を もた らし たと 主 張 して いる ので ある
⑿
︒二 世紀 に新 たな エリ ート 層が 生じ
︑そ のエ リー トが 新た な 宗 教 的ア イ デ ンテ ィ テ ィを 形 成 し た と す る 指 摘 は︑ 細 部 の 差 は あ る も の の
︑リ ー ブ ス や 近 年 の ト ゥ ッ ガ の 碑 文 研 究 の 成 果 を ま と め あ げ
たDougga,
古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物 ― 162 ―
fragmentsd’histoire
に も共 通す るも ので ある
⒀
︒ 筆者 もこ の主 張に 基本 的に は同 意し
︑本 稿に おい ても 類似 した 主張 を行 って いる
︒し かし なが ら︑ こう した 主張 を 行 って いる 研究 に決 定的 に欠 けて いる 視点 があ る︒ それ は建 造物 を見 る受 容者 側の 視点 であ る︒ こう した 研究 の視 点 は 基本 的に 文化 を形 成す る際 に意 味を 付与 する エリ ート 側の 視点 で語 られ てい る︒ しか しな がら
︑ロ ーカ ル・ エリ ー ト が担 った 文化 の意 義を 考え る際 に︑ 文化 に意 味を 与え る側 だけ では なく
︑そ れを 読み 解く 側の 視点 も取 り入 れる 必 要 があ るだ ろう
︒ もち ろん 古代 史に おい て受 容の 問題 を扱 うの は史 料上 困難 であ り︑ 場合 によ って は不 可能 な場 合も ある
︒し かし な が ら︑ 例え わず かな 証拠 から の推 測で しか ない とし ても
︑意 味を 付与 する 側と 同時 に︑ 受容 者の 視点 も念 頭に 置き 考 察 を進 める 必要 はあ るだ ろう
︒ また
︑エ リー ト層 も見 方を 変え れば 同時 に受 容者 であ る点 も忘 れて はな らな い︒ 彼ら も同 じ空 間で 生活 を行 い︑ 同 じ 景観 を受 容し てい たの であ る︒ つま り︑ エリ ート 層の 公共 建造 物建 設は それ まで 創り 上げ られ た景 観を 前提 とし た 上 での 反応 とし て捉 える こと もで きる ので ある
︒そ のこ とを 考慮 にい れる ので あれ ば︑ エリ ート 層の 意図 やそ の他 の 証 拠を 積み 上げ るこ とで
︑受 容の 問題 につ いて も一 定程 度の 指摘 は可 能だ と考 える
︒ 以上 のこ とを 踏ま えた 上で
︑本 稿で はト ゥッ ガに おけ るロ ーカ ル・ エリ ート が行 った フォ ルム 周辺 部の 公共 建造 物 の 建設 を考 察す る︒ その 際︑ フォ ルム 周辺 部が 急激 に変 化し た︑ トゥ ッガ が一 つの コミ ュニ ティ にな る直 前の 時期 で あ る二 世紀 に焦 点を 当て 分析 する
︒ もち ろん
︑こ れら の事 例だ けで は︑ 北ア フリ カの ロー カル
・エ リー トと 文化 形成 の関 わり につ いて 全般 的に 考察 で き るわ けで はな い︒ しか し︑ 先述 した よう にト ゥッ ガが ロー マ市 民権 保持 者の コミ ュニ ティ と現 地人 のコ ミュ ニテ ィ
― 163 ― 古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物
と いう 二重 のコ ミュ ニテ ィを 有し てい たこ と︑ そし て二 世紀 頃か ら両 コミ ュニ ティ と関 係を 持つ かた ちで ロー カル
・ エ リー ト層 が形 成さ れた こと から
︑こ の事 例を 考察 する こと で二 つの 文化 が接 触す る中 での 文化 とロ ーカ ル・ エリ ー ト の関 わり の一 側面 を示 すこ とが でき るだ ろう
︒ 1.
ト ゥ ッガ 概 略
︵1
︶二 つの コミ ュニ ティ 上述 した よう にト ゥッ ガは カル タゴ の南 西約 一二
〇㎞ の内 陸部 に位 置す る都 市で あり
︑比 較的 遺跡 や碑 文の 残存 状 況 も良 好で ある こと から
︑北 アフ リカ 研究 にお ける 貴重 な情 報源 とな って いる
⒁
︒ 先述 した 通り トゥ ッガ はカ ルタ ゴ・ ヌミ ディ ア時 代を 経て ロー マの 支配 下に 入り
︑ア フリ カ・ ノウ ァの 中心 的な 都 市 とし て繁 栄す るこ とと なる
︒二 世紀 には
﹁ロ ーマ 風﹂ の公 共建 造物 が続 々と 建て られ
︑二
〇五 年に はム ニキ ピウ ム と なり
︑二 六一 年に はコ ロニ アに 昇格 する こと にな る⒂
︒ ロー マの 支配 に入 って 以降
︑ト ゥッ ガに は現 地の 人 々の コ ミ ュニ テ ィ で ある キ ウ ィタ ス
︵civitas
︶ と︑ アウ グ ス ト ゥ ス治 世に 入植 した ロー マ市 民 権 保 持者 た ち のコ ミ ュ ニテ ィ で あ るパ グ
ス︵pagus
︶ の 二つ の コ ミュ ニ テ ィが 存 在 し て いた
︒こ の二 重性 はト ゥッ ガが 二〇 五年 にム ニキ ピウ ムに なる と解 消さ れて いく こと にな る⒃
︒ 政治 体制 に関 して は︑ パグ スは 正式 に認 めら れた もの では なか った ため
︑政 務官 等は 存在 して おら ずカ ルタ ゴ植 民 市 が間 接的 に管 理し たと いわ れて いる
⒄
︒こ のよ うに パグ スは カル タゴ 植民 市 の 外 部地 区 と して 扱 わ れて お り
︑パ グ ス のロ ーマ 市民 権保 持者 はカ ルタ ゴ植 民市 の市 民と 同等 の扱 いだ った とい える
︒そ のた め︑ パグ スの 市民 はカ ルタ ゴ
古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物 ― 164 ―
植 民市 の市 民が 保持 して いた 免税 特権
︵immunitas
︶ を同 じよ うに 有し てい た⒅
︒ こう した こと から
︑パ グ スは キ ウ ィ タ スの 現地 人と 同じ 場に 居住 しな がら
︑法 的に 完全 に別 のコ ミュ ニテ ィを 形成 して いた とい える ので ある
︒ 以上 で示 した よう に︑ 二重 のコ ミュ ニテ ィを 有し たト ゥッ ガは 都市 自体 が異 種混 淆を 促す よう な状 態で あっ たと い え る︒ こう した 都市 の状 況と 関連 して
︑ト ゥッ ガの 人々 がロ ーマ 市民 権を 獲得 する 経緯 と所 属す るト リブ スに 関し て も ある 種の 二重 性が 確認 でき る︒ どの トリ ブス に属 して いる かは カル タゴ 周辺 地域 にお ける ロー カル
・エ リー トが ど の よう な経 緯で 市民 権を 獲得 した かを 推測 する 上で 重要 な指 標と なる
︒ト リブ スは もと もと 共和 政期 のト リブ ス民 会 の 投票 単位 であ った が︑ ロー マの 市民 権が 拡大 され ると それ も拡 大さ れて いき
︑帝 政期 にな ると 市民 権を 獲得 した 属 州 民も 各ト リブ スに 属す るよ うに なる
⒆
︒ カル タゴ 植民 市の 場合
︑ア ルネ ンシ ス選 挙区 に属 する こと にな り︑ カル タゴ 植民 市と 同じ よう に扱 われ たト ゥッ ガ の パグ スの 住民 もア ルネ ンシ ス選 挙区 に属 して いた
︒他 方で クィ リナ 選挙 区は トゥ ッガ にお いて 後か ら市 民権 を得 た も のが 属し たも のと され てい る⒇
︒ つま り︑ もと もと キウ ィタ スの 住人 であ った も の が 市民 権 を 得た 場 合 に属 す る ト リ ブス がク ィリ ナ選 挙区 であ った と言 える
︒さ らに いえ ば︑ それ はキ ウィ タス から 台頭 して きた 現地 出身 のエ リー ト 層 を示 す指 標と もな る
︒
︵2
︶両 コミ ュニ ティ の保 護者 こ こで は ま ず一 世 紀 から 二 世 紀 にか け て トゥ ッ ガ の エリ ー ト の称 号 と し て 碑 文 に 頻 繁 に 登 場 す るpatronuspagiet
civitatis
︑パ グ ス とキ ウ ィ タス の 保 護 者に つ い て見 て い く︒ 拙稿 に お い てす で に 分析 し て い る た め 詳 細 は 省 く が
︑ 本 稿の 今後 の考 察に も関 わる ため
︑重 要な 部分 を中 心に 説明 を加 えて おき たい
︒
― 165 ― 古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物
一世 紀か ら二 世紀 にか けて トゥ ッガ のパ トロ ヌス は二 四名 が確 認さ れて いる
︒そ のう ち一 世紀 にお いて 登場 する パ ト ロヌ スは 九名 だが
︑片 方の コミ ュニ ティ のパ トロ ヌス が大 半で あり
︑こ の時 代の 両コ ミュ ニテ ィの パト ロヌ スは 一 名 しか 確認 でき ない
︒対 照的 に二 世紀 にな ると パト ロヌ スと して 知ら れて いる 一三 人の 人物 のう ち確 定で きる もの だ け でも 九名 がpatronuspagietcivitatis
︑ つま り両 コミ ュニ ティ のパ トロ ヌス とし て現 れる
︒ 先述 した よう に︑ トゥ ッガ の二 重性 が解 消さ れる のは ムニ キピ ウム にな る二
〇五 年に おい てで ある
︒そ の直 前の 時 期 であ る二 世紀 にお いて 両コ ミュ ニテ ィを 横断 する 形で パト ロヌ スが 出て くる こと から
︑両 者の 接近 を示 すも のと 捉 え るこ とが でき る︒ それ と 同 時 に︑ 片方 の パ トロ ヌ ス では な く︑patronuspagietcivitatis
と い う 両コ ミ ュ ニテ ィ を つ な ぐパ トロ ヌス のあ り方 が選 択さ れた とみ なす こと も出 来る だろ う︒ 両コ ミュ ニテ ィを つな いで いこ うと する 政治 状 況 がこ うし た選 択を 促し
︑patronuspagietcivitatis
とい う 両コ ミ ュ ニテ ィ の 名を 付 さ れ たパ ト ロ ヌス が 主 流に な る こ と によ って
︑両 者の 境界 を一 層弱 めて いく こと にな った ので ある
︒ 次節 で扱 うフ ォル ム周 辺部 の建 造物 の事 例で も両 コミ ュ ニテ ィ を つな ぐ パ トロ ヌ ス を 担う 人 物 が複 数 人 登 場す る
︒ つ まり
︑二 世紀 にお ける フォ ルム 周辺 部の 発展 とロ ーカ ル・ エリ ート の関 わり を見 る上 で︑ この 両コ ミュ ニテ ィの 保 護 者が 重要 な指 標と なっ てく る︒ 2.
フ ォ ルム 周 辺 部の 景 観 変化
︵1
︶一 世紀 にお ける フォ ルム 周辺 部 ここ では
︑二 世紀 にお ける フォ ルム 周辺 部の 公共 建造 物に つい て考 察す る前 に︑ 一世 紀に おけ るフ ォル ムの 主要 な
古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物 ― 166 ―
建 造物 につ いて 分析 して おく
︒ま ず︑ フォ ルム の東 側に マシ ニッ サの 神殿 と推 定さ れて いる ヌミ ディ ア時 代に 遡る 建 造 物が 存在 して いる
︒本 稿の 対象 とす る時 代で はな いの で︑ ここ では 詳細 に 論 じ ない が
︑後 に フォ ル ム にな る 地 域 が
︑ヌ ミデ ィア 時代 にも 中心 地で あっ た可 能性 が推 察で きる
︒ その 後︑ ロー マ時 代に なり この フォ ルム 周辺 部は 徐々 に整 備さ れて いく こと にな る︒ フォ ルム 近辺 から 発見 され た 紀 元後 三六
/三 七年 ごろ に年 代づ けら れる 碑文 から
︑パ グス の保 護者 であ るキ ウス が資 金の 提供 者と なり
︑フ ォル ム が 舗装 され たこ とが 判明 して いる
︒奉 献者 であ るブ ッコ とい う人 物は 二人 委員 で あ る こと な ど から 指 導 的な 市 民 で あ った こと が分 かる
︒ ま た︑ クラ ウ デ ィウ ス 治 世の 五 四 年 に︑ マル ク ス・ リ キニ ウ ス・ ル フ スが 主 導 して 市 場 の建 設 が 行 われ て い る
︒ こ のル フス は一 世紀 にお いて 唯一
︑両 コミ ュニ ティ の保 護者 であ る人 物で ある
︒つ まり
︑両 コミ ュニ ティ と関 わり の あ る人 物が この 市場 を建 設し たこ とに なる
︒た だし
︑こ のこ とが 記さ れた 碑文 には
︑市 場を パグ スに 提供 した と明 記 さ れて いる 点に 注意 が必 要で ある
︒つ まり
︑片 方の コミ ュニ ティ のた めに この 市場 を建 設し たこ とが 明確 に示 され て お り︑ 上記 のフ ォル ムの 舗装 の事 例と あわ せて 考え るな らば
︑一 世紀 にお いて はあ くま でロ ーマ 市民 権保 持者 に向 け て
︑フ ォル ム周 辺部 の公 共建 設が 行わ れて いた と推 察で きる だろ う︒ こ のよ う に ロー マ 時 代に 入 る と︑ パ グス の エ リー ト た ち を中 心 に しな が ら フォ ル ム の 整備 が 進 んだ と 推 察 さ れ る が
︑二 世 紀 に入 る と パグ ス と キ ウィ タ ス の橋 渡 し とな る よ う なエ リ ー トが そ の 担い 手 の 中 心と な っ て く る︒ 以 下 で は
︑碑 文に よっ てあ る程 度︑ 情報 が得 られ
︑遺 構も 残さ れて いる 二世 紀の 建造 物に つい て考 察す る︒
― 167 ― 古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物
︵2
︶二 世紀 にお ける フォ ルム 周辺 部の 発展 ここ では
︑二 世紀 に建 設さ れ た フォ ル ム 周辺 の 建 造 物に つ い て︑
︵a
︶テ ル ス 神殿
︵五
〇
│一 一
〇 年︶
︑︵ b
︶フ ォ ル トゥ ナ︑ ウェ ヌス
・コ ンコ ルデ ィア
︑メ ルク リウ ス神 殿︵ 一一 七年
︶︑
︵ c︶ コン コル ディ ア︑ フル ギフ ェル
︑リ ベ ル
・パ テ ル︑ ネプ ト ゥ ヌス 神 殿︵ 一 一七
│一 三 八 年︶
︑︵ d
︶フ ォ ル ムの 整 備︵ 一 三八
│一 六 一 年︶
︑︵ e
︶﹁ ダ ル・ ラ シ ュヘ ブ﹂ の神 殿︵ 一六 三│ 一六 四年
︶︑
︵ f︶ カピ トリ ウム 神殿
︵一 六八
│一 六九 年︶
︑︵ g
︶メ ルク リウ ス神 殿︵ 一 八
〇│ 一九 二年
︶︑
︵ h︶ メル クリ ウス のエ クセ ドラ と市 場の 守護 神へ の奉 献︵ 一八
〇│ 一九 二年
︶︑
︵ i︶ ピエ タス の 神 殿︵ 一五
〇│ 二三
〇年
︶の 順に 考察 を進 める
︒
︵a
︶テ ルス 神殿
︵五
〇│ 一一
〇年
︶ テル ス神 殿の 入口 上部 に掲 げら れた 五〇 年か ら一 三〇 年頃 に年 代付 けら れる 碑文 から
︑一 世紀 後半 から 二世 紀初 頭 に
︑テ ルス 神殿 が存 在し てい たこ とが わか って いる
︒こ の神 殿は
︑そ の 後
︑二 六 一年 に ボ トリ ア
・フ ォ ルト ゥ ナ タ な る人 物に よっ て増 改築 され たこ とが
︑別 の碑 文か ら判 明し てい る
︒ 碑文 から は こ れ 以上 の 情 報を 引 き 出せ な い た め
︑こ の神 殿が どち らの コミ ュニ ティ の主 導で 建設 され たの かな ど詳 細は 不明 であ る︒
︵b
︶フ ォル トゥ ナ︑ ウェ ヌス
・コ ンコ ルデ ィア
︑メ ルク リウ ス神 殿︵ 一一 七年
︶ この 神殿 はフ ォル ムの 東側
︑市 場の 脇に
︑ハ ドリ アヌ ス治 世期 に建 設さ れ︑ その 後︑ イウ リア
・マ エサ なる 人物 に よ って 二二 二年 から 二三 五年 頃に 修復 され てい る
︒ 以下 は建 設時 に関 する 碑文 の内 容で ある
︒ フォ
ルト ゥナ
・ア ウグ ス タ︑ ウェ ヌ ス︑ コ ン﹇ コル デ ィ ア﹈
︑メ ル ク リ ウス
・ア ウ グ スト ゥ ス に捧 ぐ
︒皇 帝 カ エ サル
・ト ラヤ ヌス
・ハ ド﹇ リア ヌ ス﹈
・ア ウ グ スト ゥ ス︑ 大 神官
︑護 民 官 職 権を 保 有 し︑ コン ス ル に三 回 就 任
古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物 ― 168 ―
し たる 者︑ 国父 の壮 健の ため に︑ クィ ント ゥス
・マ エデ ィウ ス・ セウ ェル ス︑ パグ スと キウ ィタ スの 保護 者の 名 と 彼の 娘﹇ マ﹈ エデ ィア
・レ ント ゥラ
︑終 身祭 司の 名に おい て︑ 捧げ ると 約束 した 七〇
〇〇
〇セ ステ ルテ ィウ ス と それ を増 額し て︑ 基礎 から その 神殿 を﹇ 建設 した
﹈︒ 装 飾を 施し
︑同 様に 奉献 した
︒ク ラト ル︑
﹇マ
﹈グ ニウ ス
・ プリ ムス
・セ イア ヌス
︒ この
碑文 から
︑ク ィン トゥ ス・ マエ ディ ウス
・セ ウェ ルス なる 人物 が︑ この 神殿 建設 を主 導し たこ とが 分か る︒ こ こ では
︑彼 がパ グス とキ ウィ タス の保 護者 を担 って いた こと が重 要で ある
︒次 の︵ c︶ の事 例と 同様 に︑ 両コ ミュ ニ テ ィと 関わ りの ある エリ ート が行 った 神殿 建設 の一 事例 とみ なす こと がで きる だろ う︒
︵c
︶コ ンコ ルデ ィア
︑フ ルギ フェ ル︑ リベ ル・ パテ ル︑ ネプ トゥ ヌス 神殿
︵一 一七
│一 三八 年︶ この 神殿 はハ ドリ アヌ ス治 世︑ 一一 七年
│一 三八 年頃 に大 ダト ゥス と彼 の息 子た ちの バッ スス
︑小 ダト ゥス の三 名 の 主 導 で︑ フォ ル ム から 市 場 を 挟ん だ 南 東部 に 建 設が 進 め ら れた
︒詳 細 に つい て は 既に 拙 稿 に おい て 論 じ て い る た め
︑こ こで は奉 献者 の経 歴を 中心 に分 析す る
︒ アウ ルス
・ガ ビニ ウス
・ダ トゥ ス︵ 以後
︑大 ダト ゥス
︶は クィ リナ 選挙 区に 属し てい るこ とか ら︑ ガビ ニウ ス氏 族 が もと もと キウ ィタ スの メン バー であ った とみ なす こと がで きる
︒ま た彼 は パ グ スと キ ウ ィタ ス の 保護 者
︑つ ま り 両 コミ ュニ ティ の保 護者 であ った こと が碑 文か ら分 かっ てい る︒ その 他︑ アウ グス トゥ スの 終身 祭司 とト ゥッ ガ地 方 地 所請 負人
︵conductorpraediorumregionisThuggensis
︶な る土 地 の 管理 に 関 わる 役 職 を 担っ て い たこ と が 碑文 か ら 確 認 でき る
︒ キウ ィタ スに 由来 する 家系 であ るに も関 わら ず︑ 彼の 代に はす でに ト ゥ ッ ガに お い て重 要 な 位置 を 占 め て いた こと が︑ 彼の 肩書 きか ら読 み取 るこ とが でき るだ ろう
︒
― 169 ― 古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物
また
︑彼 の息 子の 一人 のバ ッス スは 父と 同様 にク ィリ ナ選 挙区 に属 し︑ パグ スと キウ ィタ スの 保護 者を 担い
︑ア ウ グ ス ト ゥス の 終 身祭 司 で あ った こ と が わ か っ て い る
︒し か し
︑も う 一 人 の 息 子 で あ る ダ ト ゥ ス︵ 以 後︑ 小 ダ ト ゥ ス
︶は
︑父 や兄 とは 異な る経 歴を 歩ん でい る︒ 彼は パグ スの 植民 者と 同じ アル ネン シス 選挙 区に 属し てお り︑ カル タ ゴ にお いて キャ リア を積 んで いた こと がわ かっ てい る
︒ 碑文 から わか るカ ル タ ゴ での 彼 の キャ リ ア は造 営 官
︑神 君 テ ィト ゥス の祭 司︑ 卜占 官が あげ られ る︒ さら に五 審判 人団 に任 命さ れて おり
︑ハ ドリ アヌ スに よっ て騎 士身 分の 証 で ある 公有 馬を 保持 する 名誉 を与 えら れて いる
︒こ のよ うに 彼は カル タゴ でか なり の成 功を おさ めて いた が︑ 他方 で ト ゥッ ガに おい て父 と兄 弟同 様︑ パグ スと キウ ィタ スの 保護 者に なっ てい る︒ 以上 の奉 献者 であ るガ ビニ ウス 氏族 の三 名の 経歴 から
︑両 コミ ュニ ティ と関 係の 深い エリ ート が︑ 両コ ミュ ニテ ィ の 保護 者を 担い なが ら︑ この 神殿 を建 設し たこ とが 分か る︒
︵d
︶フ ォル ムの 整備
︵一 三八
│一 六一 年︶ アン トニ ヌス
・ピ ウス 治世 に︑ ガビ ニウ ス・ フェ リク ス・ ファ ウス ティ アヌ スに よっ てフ ォル ム周 囲に ポル ティ コ が 建設 され た
︒ これ によ って フォ ルム の東 側を 除く 三面 がポ ルテ ィコ に囲 ま れ る こと に な り︑ 円柱 や 天 井装 飾 な ど が 据 え 付け ら れ た
︒ ファ ウ ス テ ィア ヌ ス も︵ c︶ の神 殿 建 設 主 導 者 た ち と 同 様 に ガ ビ ニ ウ ス 氏 族 の メ ン バ ー で あ り
︑ク ィリ ナ選 挙区 に属 して いる
︒彼 の詳 細な 経歴 は明 らか にな って はい ない が︑ 少な くと もキ ウィ タス 由来 のエ リ ー ト氏 族出 身で あり
︑ロ ーマ 市民 権保 持者 であ る点 は指 摘で きる
︒
︵e
︶﹁ ダル
・ラ シュ ヘブ
﹂の 神殿
︵一 六三
│一 六四 年︶ こ の神 殿 は 長い 間
︑ラ シ ュヘ ブ と い うこ の 場 所の 以 前 の 所有 者 の 名か ら
﹁ダ ル・ ラ シ ュ ヘ ブ
︵ラ シ ュ ヘ ブ の 家
︶﹂ と 便宜 上
︑呼 ば れ てき た
︒こ の 建造 物 の 用途 は 明 確 には な っ てい な い が︑ 現在 で は 神 殿で あ る と考 え ら れ てい
る
︒
古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物 ― 170 ―
以 下に 引用 する 碑文 は︑ アー キト レー ブに 掲げ られ てい たと され る碑 文で ある
︒ 皇帝
カエ サル
・マ ルク ス・ アウ レリ
﹇ウ ス・ アン ト﹈ ニヌ ス・ アウ グス トゥ ス︑ ア﹇ ルメ ニ﹈ ア人 に勝 利し た る 者と
︑皇 帝カ エサ ル・
﹇ ルキ ウス
・ア ウ﹈ レリ ウス
・ウ ェル ス・ アウ グス トゥ ス︑
﹇ア ルメ ニ﹈ ア人 に勝 利し た る 者の 壮健 のた めに
︑ル キウ ス・ カル プル ニウ ス﹇
⁝⁝
﹈彼 の名 と彼 の父 ファ ウス テ﹇ ィヌ ス﹈ と兄 弟フ
﹇ァ ウ ス ティ
﹈ヌ スの 名と
︑彼 の息 子た ちの 名に おい て︑ 彼が 支払 いを 約束 した 一〇
〇〇
〇〇 セス テル ティ ウス
︑そ し て 五〇
〇〇
〇セ ステ ルテ ィ ウス を キ ウ ィタ ス へ の﹇ 愛﹈
︵[amorem]civitatis
︶ゆ え に 増額 し
︑自 費 で建 設 し た︒ 同 様 に︑
﹇ 奉仕 の﹈ 三﹇ 日間
﹈の 演劇 上演 の前 に︑ 都市 参 事 会員 に 対 して 施 し を 与え
︑す べ て の人 に ブ ドウ 酒 と 体 育 場︵ のた めの 油︶ を与 え︑ 奉献 した
︒ この
碑文 の内 容か らル キウ ス・ カル プル ニウ スな る人 物が 主導 して この 神殿 が建 設さ れた こと が分 かる
︒こ こで は キ ウィ タス への 愛ゆ えに
︑建 設の ため の費 用を 提供 して いる こと が明 記さ れて いる
︒こ のこ とか ら︑ 二世 紀後 半に お い ても
︑現 地人 のコ ミュ ニテ ィで ある キウ ィタ スの ため に奉 献を 行う エリ ート が存 在し てい たこ とが 確認 でき る︒
︵f
︶カ ピト リウ ム神 殿︵ 一六 八│ 一六 九年
︶ カピ トリ ウム 神殿 はマ ルキ ウス
・シ ンプ レク スと 息子 のマ ルキ ウス
・シ ンプ レク ス・ レギ リア ヌス によ って
︑一 六 六
│八 年頃 にフ ォル ムの 東側 に建 設さ れた
︒詳 細に つい ては 既に 拙稿 にお いて 論じ てい るた め︑ ここ では 奉献 者の 経 歴 につ いて 確認 する にと どめ たい
︒以 下に 引用 する 碑文 は︑ カピ トリ ウム 神殿 の 正 面 のア ー キ トレ ー ブ に掲 げ ら れ た 二人 の奉 献者 につ いて 刻ま れた もの であ る︒
― 171 ― 古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物
最大 最善 のユ ピテ ル︑ 女王 ユノ
︑ミ ネル ウァ
・ア ウグ スタ に捧 げる
︒皇 帝カ エサ ル・ マル クス
・ア ウレ リウ ス
・ アン トニ ヌス
・ア ウグ スト ゥス とル キウ ス・ アウ レリ ウス
・ウ ェル ス・ アウ グス トゥ ス︑ アル メニ ア人 とメ デ ィ ア人 に勝 利し たる 者︑ パル ティ ア の偉 大 な 勝利 者
︑そ し て﹇ 全て の 神 君 の﹈ 家族 の 壮 健の た め に︑
﹇ル キ ウ ス
・ マル キウ ス﹈
・ シン プレ クス とル キウ ス・ マル キウ ス・ シン プレ クス
・レ ギリ アヌ スが 自費 で建 設し た
︒ シン
プレ クス
・レ ギア ヌス につ いて は︑ 詳細 は分 から ない が︑ シン プレ クス の経 歴に つい ては
︑以 下に 引用 した 別 の 碑文 から 明ら かに する こと がで きる
︒ ルキ
ウス
・マ ルキ ウス
・シ ンプ レク ス︑ クィ ント ゥス の息 子︑ アル ネン シス 選挙 区︑ パグ スと
﹇キ ウィ タス の 保 護者
﹈︑
﹇ 終身
﹈祭 司︑ コロ ニア
・ユ リア
・カ ルタ ゴの
﹇神 君ア ウグ スト ゥス の﹈ 祭司
︑造 営官
︑皇 帝ア ント ニ ヌ ス・
﹇ アウ グス トゥ ス﹈ によ り五 審判 人団 に選 ば れ し者 に
︑彼 の 卓越 し た 気 前の 良 さ に報 い て︑ ト ゥッ ガ の パ グ スと キ﹇ ウィ タス
﹈が 都市 参事 会 の 決定 に よ って 公 の 費 用で
︵像 を 建 てた
︶︒ ク ラ トル
︑﹇ ガ イ ウ ス・ モデ ィ
﹈ ウ ス・ ルス ティ クス
︑ル キウ ス・ ヌミ
﹇ッ シウ ス﹈
・﹇ ホ ノ﹈ ラト ゥス
︑ユ リウ ス・ マケ ル︑ クィ ント ゥス の息 子
﹇サ
﹈ル ステ ィウ ス・ ユリ アヌ ス
︒ この
碑文 は一 六六 年か ら一 六八 年に 年代 づけ られ
︑ト ゥッ ガの 劇場 にシ ンプ レク スの 功績 を讃 えて 建て られ たも の と 考え ら れ て いる
︒こ の 碑 文か ら
︑シ ン プレ ク ス は カル タ ゴ にお い て 造営 官
︑神 君 ア ウグ ス ト ゥス の 祭 司 であ り
︑ さ らに 五審 判人 団︵quinquedecuriis
︶に 任命 され てい るこ とが 分か る︒ また
︑彼 はカ ル タゴ だ け でな く ト ゥッ ガ に お
古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物 ― 172 ―
い ても 終身 祭司 を担 って おり
︑さ らに はパ グス とキ ウ ィタ ス の 保護 者 に もな っ て い る︒ この 碑 文 の注 目 す べ き点 は
︑ 両 コミ ュニ ティ の保 護者 であ るエ リー トに 対し
︑パ グス とキ ウィ タス が共 同で 顕彰 して いる 点で ある
︒こ のこ とは 二 世 紀に おい て両 コミ ュニ ティ が接 近し てい たこ との 証左 とな るだ ろう
︒ ま た︑ シン プ レ クス と シ ンプ レ ク ス・ レ ギア ヌ ス がと も に 属 する マ ル キウ ス 氏 族は
︑先 述 し た ガ ビ ニ ウ ス 氏 族 同 様
︑キ ウィ タス 由来 のエ リー ト氏 族で ある
︒つ まり
︑両 コミ ュニ ティ と関 わ り の 深い 氏 族 出身 で あ ると 同 時 に︑ 両 コ ミュ ニテ ィの 保護 者を 担っ たエ リー トが 主導 して
︑こ の神 殿を 建設 した こと が確 認で きる だろ う︒
︵g
︶メ ルク リウ ス神 殿︵ 一八
〇│ 一九 二︶ この 神殿 は一 八〇 年か ら一 九二 年頃 にカ ピト リウ ム神 殿の 東側 に隣 接し て︑ 市場 の北 側に 建設 され た︒ 以下 に引 用 し た碑 文は
︑こ の神 殿の アー キト レー ブに 掲げ られ たも ので ある
︒ クィ
ント ゥス
・パ クウ ィ ウス
・サ ト ゥ ルス
︑終 身 祭 司︑ ユリ ア
・カ ル タ ゴ植 民 市 の卜 占 官 と︑ ナ ハニ ア
・﹇ ウ ィ ク ト﹈ リ ア︑ 終身 祭 司 が︑ 彼ら の 息 子 マル ク ス・ パ クウ ィ ウ ス・ フェ リ ク ス
・ウ ィ ク ト リ ア ヌ ス が 彼 の 遺 言 で
︑メ ルク リウ ス神 殿建 設に 捧げ るこ とを 命じ た五
〇〇
〇〇 セス テル ティ ウス とい う額 によ って
︑さ らに 増額 後 に
︑彼 らの 祭司 の名 誉の ため に加 えて 七〇
〇〇
〇 セス テ ル ティ ウ ス を彼 ら 自 身 が約 束 し︑ メ ルク リ ウ ス 神殿 と
︑ 像
︑ポ ルテ ィコ とア プス のあ る二 つの ケラ
﹇⁝
⁝﹈ そし てす べて の装 飾を 建設 した
︒ま た︑ 彼ら はポ ルテ ィコ と 市 場の 区画 を︑ 彼ら の故 郷︑ パグ スの ため に建 設し
︑装 飾し た︒ 同様 に︑ クィ ント ゥス
・パ クウ ィウ ス・ サト ゥ ル ス︑ 終身 祭司 は︑ トゥ ッガ のキ ウィ タス に対 し︑ その 金額 の利 益か らも たら され る施 しが
︑毎 年︑ その 都市 参 事 会 員 に与 え ら れる た め に︑ 二 五〇
〇
〇 セス テ ル ティ ウ ス を 贈る こ と を約 束 し︑ そ して
︑そ の 日 の 負 担 の た め
― 173 ― 古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物
に
︑彼 は演 劇と 施し を二 つの 都市 参事 会と すべ ての 人々 に提 供し た
︒ この
碑文 から
︑ク ィン トゥ ス・ パク ウィ ウス
・サ トゥ ルス とナ ハニ ア・ ウィ クト リア がこ の神 殿建 設を 主導 した こ と が分 かる
︒こ こで 注目 すべ きは
︑ポ ルテ ィコ と市 場の 区画 の装 飾と 建設 をパ グス のた めに 行っ てい る点 と︑ 後半 部 分 でさ らに キウ ィタ スの ため に二 五〇
〇〇 セス テル ティ ウス を贈 り︑ 演劇 と施 しを 二つ の都 市参 事会 に対 して 提供 し た こ と を記 し て いる 点 で あ る︒ つま り
︑こ の 神殿 建 設 につ い て 記 した 碑 文 には
︑二 つ の コミ ュ ニ テ ィ の 両 方 に 対 し て
︑恩 恵を 与え たこ とが 明記 され てい るの であ る︒ ま た︑ 研究 者 た ちは パ ク ウィ ウ ス 氏 族を
︑彼 ら の 名前 な ど を 手が か り に︑ 現地 由 来 のエ リ ー ト 氏 族 と 推 定 し て い る
︒ガ ビニ ウス 氏族 やマ ルキ ウス 氏族 ほど 情報 がな いた め明 白で はな いも の の
︑同 じ 時期 に 活 躍し た 両 氏族 と 同 様 に
︑キ ウィ タス から 台頭 し︑ ロー マ市 民権 を獲 得し たエ リー ト氏 族で あっ た可 能性 は十 分に 考え られ る︒ 先述 した よう に︑ この 神殿 は一 八〇 年か ら一 九二 年頃 とい うト ゥッ ガが ムニ キピ ウム にな る直 前の 時期 に建 設さ れ て いる
︒ト ゥッ ガが 新た な段 階に 至る 時期 にお いて
︑こ の神 殿建 設に 付随 する 碑文 が︑ 両コ ミュ ニテ ィに 目配 りを 効 か せる よう な形 式で 書か れて いる こと から
︑エ リー ト層 によ る両 コミ ュニ ティ を繋 いで いこ うと する 試み の一 事例 と し て︑ この 神殿 建設 をみ なす こと が可 能で あろ う︒
︵h
︶メ ルク リウ スの エク セド ラと 市場 の守 護神 への 奉献
︵一 八〇
│一 九二 年︶ メル クリ ウス のエ クセ ドラ は市 場の 南に 接し て建 設さ れて いる
︒こ の建 造物 の南 側で 発見 され た碑 文か ら︑ ガイ ウ ス
・モ ディ ウス
・ル ステ ィク スと モデ ィウ ス・ リキ ニウ スな る人 物が
︑メ ルク リウ スと 市場 の神 に奉 献し たこ とが 判 明 して いる
︒こ の碑 文に 記さ れて いる 奉献 者た ちが 何者 であ るの かは 詳細 が 記 さ れて い な いた め
︑こ れ 以上 の 情 報
古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物 ― 174 ―
は 得る こと はで きな いが
︑少 なく とも
︵g
︶の 事例 と年 代が 一致 して いる こと から
︑両 者の 建設 が連 動し て行 われ た こ とは 推察 でき るだ ろう
︒
︵i
︶ピ エタ スの 神殿
︵一 五〇
│二 三〇 年︶ この 神殿 は︵ b︶ の神 殿と 隣接 して 建て られ てい る︒ 年代 につ いて は不 確か では ある が︑ 二世 紀に 存在 して いた 可 能 性を 考慮 する ため に︑ 事例 とし て取 り上 げて おく
︒以 下に 引用 した 碑 文 は︑ こ の神 殿 近 辺か ら 発 見さ れ た
︑フ リ ー ズに 刻ま れて いた とさ れる もの であ る︒ アウ
グス トゥ スの ピエ タス に捧 ぐ︒
﹇ ポン ペイ ウス
﹈・ ロガ トゥ スが
︑彼 の兄 弟ガ イウ ス・ ポン ペイ ウス
・ナ ハ ヌ スの 遺言 の執 行し
︑総 額三
〇〇
〇〇 セス テル ティ ウス によ って
︑彼 の土 地に
︵こ の神 殿を
︶﹇ 建 設し
︑同 様に
﹈ 奉 献し た︒ クラ トル
︑マ ルク ス・ モラ シウ ス・ ドナ トゥ ス︑ ガイ ウス
・ポ ンペ イウ ス・ コッ スト
﹇ゥ ス﹈
︒ この
碑文 から
︑ポ ンペ イウ ス・ ロガ トゥ スな る人 物が この 神殿 を建 設し たこ とが 分か るが
︑そ れ以 上の 情報 は引 き 出 せな い︒ ここ では 一五
〇│ 二三
〇年 の間 に︑ ポン ペイ ウス
・ロ ガト ゥス とい うエ リー トが ピエ タス 神殿 を建 設し た こ とだ けを 確認 する にと どめ たい
︒
︵3
︶二 世紀 にお ける フォ ルム 周辺 部の 発展 と景 観変 化 ここ で前 節の 事例 につ いて まと めて おく
︒ま ず︵ a︶
︑︵ h
︶︑
︵ i︶ の三 事例 は︑ 情報 が少 ない こと もあ り︑ 両コ ミ ュ ニ テ ィ が ど の よ う な 形 で 関 わ っ て い る か は 不 明 で あ る
︒︵ e
︶は キ ウ ィ タ ス の み が 明 記 さ れ て い る︒ 他 方 で
︑
― 175 ― 古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物
︵b
︶︑
︵ c︶
︑︵ f
︶の 三事 例は 両コ ミュ ニテ ィの 保護 者が 奉 献 者に な っ てい る
︒つ ま り 両コ ミ ュ ニテ ィ と 関係 の 深 い エ リー トに よる 建設 とみ な すこ と が でき る
︒ま た︑
︵ c︶
︑︵ d
︶︑
︵ f︶ はキ ウ ィ タ スか ら 台 頭し
︑ロ ー マ 市民 権 を 獲 得 し て パグ ス の メン バ ー に なっ た マ ルキ ウ ス 氏族 と ガ ビ ニウ ス 氏 族が 奉 献 者と な っ て いる 事 例 で あ る
︒︵ g
︶で は
︑ 両 コミ ュニ ティ のバ ラン スを とる 形で
︑碑 文に パグ スと キウ ィタ スの 名が 記さ れて いる
︒ 以上 のこ とか ら︑ 不明 であ る三 事例 を除 いた 六事 例の うち
︑五 事例 が何 らか の形 で両 コミ ュニ ティ が関 わっ てい る こ とに なる
︒事 例の 総数 が少 ない ため 確実 なこ とは 言え ない が︑ 二世 紀に おい て︑ 両コ ミュ ニテ ィと 関わ りを 持つ エ リ ート 層が 中心 とな りな がら
︑公 共建 設を 行い
︑二 つの コミ ュニ ティ の橋 渡し の役 割を 果た した とい う拙 稿に おけ る 主 張は
︑本 稿に おい ても 同様 に妥 当な 指摘 であ るだ ろう
︒ では
︑こ の二 世紀 にお ける エリ ート によ るフ ォル ム周 辺部 の両 コミ ュニ ティ をつ なぐ よう な公 共建 造物 を創 り上 げ る 試み は︑ フォ ルム 周辺 の景 観を いか に変 化さ せ︑ そこ で生 活す る人 々に どの よう な影 響を 及ぼ した のだ ろう か︒ 図 1 と2 から 見て 取れ るよ うに
︑三 世紀 初頭 まで にフ ォル ム 周辺 部 は 新た な 公 共建 造 物 が 林立 す る 場に 変 化 し てい る
︒ そ の中 でも
︑特 にム ニキ ピウ ムに なる 直前 の二 世紀 後半 の変 化が 顕著 であ る︒ マル キウ ス氏 族の カピ トリ ウム 神殿 と ガ ビニ ウス 氏族 のフ ォル ムの 整備 は両 氏族 が共 同し て動 いて いた 可能 性が 指摘 され てお り︑ 二世 紀後 半の この 両氏 族 の 建設 事業 がフ ォル ム周 辺の 景観 に与 えた 影響 は大 きい
︒ま た︑ 市場 に関 し て も︑ 一 世紀 の 段 階と は 大 幅に 変 化 し て いる
︒二 世紀 後半 のメ ルク リウ ス神 殿建 設と メル クリ ウス のエ クセ ドラ の建 設は
︑市 場と その 周辺 の景 観を 一変 さ せ たの であ る︒ 以上 のよ うな 景観 変化 は︑ それ を見 るト ゥッ ガの 人々 に自 らの 都市 が新 たな 段階 に至 って いる こと を視 覚的 に示 す こ とに なっ たと 考え られ る︒ 少な くと も自 らの 都市 がか つて とは 違う 状態 に変 化し てい るこ とは
︑図 1︑ 2で 示さ れ
古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物 ― 176 ―
る よ う な急 激 な 景観 変 化 に よっ て 認 識せ ざ る を得 な か っ ただ ろ う︒ も ちろ ん
︑エ リ ート 層 が 抱 いて い た と 想 定 で き る
︑都 市を 発展 させ
︑ム ニキ ピウ ムへ 昇格 させ ると いう よう な具 体的 なヴ ィジ ョン を︑ すべ ての 人々 が共 有し てい た と は考 えら れな い︒ しか し︑ フォ ルム 周辺 部が 新た な建 造物 で占 めら れて いく 視覚 的︑ 物理 的変 化に よる
︑そ こで 生 活 する 人々 の認 識の 変化 は︑ トゥ ッガ をム ニキ ピウ ムに 至ら せる 要因 の一 つに なっ たと 考え られ るだ ろう
︒景 観変 化 に よっ て引 き起 こさ れた
︑自 らの 都市 が新 たな 段階 に至 って いる とい う認 識が
︑ム ニキ ピウ ムと して 一纏 まり の新 た
図
1 1 世紀末におけるフォルム周辺主要建造物
図
2 205 年におけるフォルム周辺主要建造物
(図 1、2 ともに S. Saint-Amans, 2004, p.15 の平面図をもと に、DFH の建設年代を参考に作成)
※建設年代が不明なものは省略している。
※ガビニウス氏族神殿群=コンコルディア、フルギフェル、
リベル・パテル、ネプゥヌス神殿
― 177 ― 古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物
な 都市 トゥ ッガ にな るこ とを 受け 入れ る土 壌と なっ たと みな すこ とが でき るの であ る︒ お
わ り に 本稿
では 二世 紀に おけ るト ゥッ ガの フォ ルム 周辺 部の 景観 変化 を中 心に 考察 を行 った
︒そ こか ら︑ 二つ のコ ミュ ニ テ ィと 関わ りの 深い エリ ート たち が中 心に なり な がら
︑フ ォ ル ム周 辺 部 を発 展 さ せ たこ と が 明ら か に な った
︒ま た
︑ 二 世紀 にお ける フォ ルム 周辺 部の 景観 変化 は︑ それ を受 容す る人 々に 自ら の都 市が 新た な段 階に 至っ てい るこ とを 認 識 させ たこ とを 指摘 した
︒こ うし た景 観変 化に よる 認識 の変 化が トゥ ッガ を一 纏ま りの 都市 トゥ ッガ へと 至る ため の 要 因の 一つ とな った と考 えら れる ので ある
︒ 古代 史に おい て受 容の 側面 を拾 い上 げる のは 困難 で はあ る が︑ エ リー ト 層 によ る 意 図 だけ が 文 化の 全 て で はな い
︒ 本 稿で は景 観変 化か ら︑ それ を見 る人 々の 認識 につ いて 考察 した が︑ 今後 も間 接的 な情 報の 中か ら︑ 受容 者の 視点 を 拾 い上 げ︑ 研究 を積 み上 げて いく こと が必 要で あろ う︒
※ 史 料 訳 文 に お け る
︵
︶ 内 は 筆 者 に よ る
︒
※ 碑 文 史 料 に お け る
﹇
﹈ は 欠 損 部 分 を 示 し て い る
︒ 訳 文 に お い て 欠 損 部 分 を 正 確 に 示 す の は 困 難 で あ る が
︑ 可 能 な 限 り 欠 損 箇 所 を 分 か る よ う に 記 し た
︒
※ ト ゥ ッ ガ の 碑 文 の 校 訂 は 基 本 的 に DFH
に 従 い
︑ 必 要 に 応 じ て S. Sa in t-Ama ns , 2004
を 用 い た
︒
古代ローマ時代北アフリカにおける景観変化と公共建造物 ― 178 ―
注