第八章
経営短期大学部と労学同帰 I
短期大学の創設と展開
学 制 改 革 と 短 期 大 学 制 度
敗戦後︑米軍の占領政策により学制の抜本的改革が実施され︑昭和二十二年より六・一−一体制下でまず新制中学が一斉に
誕生した︒こえて昭和二十三年︑新制高校の発足となった︒その際︑新制大学の魁として公立一校︑私立一一校の計一二
校もスタートした︒翌昭和二十四年︑新制大学が学校教育法の改正に伴って一六八校の一開設を見た︒即ち閏立七O校︑公
立一七校︑私立八一校がこれである︒それに前年開校の一二校を加えると一八O
校と
なる
︒
その際︑旧制高専校三五五校の新制大学転換に若干の問題を生じた︒国立八三校︑公立七一二校︑私立一九九校から成る
三五五校のうち︑大学に昇格するための大学設置委員会の審査基準を充さず︑昇格不能の学校を数えることも予想せら
れ︑その対策が考慮せられた︒結局︑右の三五五校のうち︑二一九校が四年制大学を標携し︑単科大学として︑或いは総
合大学の学部として︑設置申請を行ったのである︒そのうち私立高専が一七O校︑官公立が四九校という内訳であった︒
果して大学設置委員会は右のうち一六八校のみを許可し︑残る五一校を不許可とした︒当時の実情から︑教員組織や施設
四 七
四七 四
が実質的要件を欠き︑如何とも施す術がなかった︒又︑設立認可の申請を行わなかった一三六校についても何らかの善後
策が必要であった︒そこで大学設置委員会は二年制大学の構想を教育刷新委員会に建議した︒
昭和二十四年一月︑教育刷新委員会はその総会において大学設置委員会の建議を採択し︑これに短期大学の名称を付す
ることになった︒蓋しアメリカのジュニア・カレッジに照応する称呼として案出せられたものであろう︒文部省は昭和二
十四年五月︑学校教育法一部改正法律に従い︑暫定措置として短期大学を認知し︑二年ないし三年の大学を創設すること
になったのである︒即ち改正法はその付則第一O九条と第一一一条において︑修業年限の特例を認めると共に四年制への
編入規定を用意したのである︒
短 期 大 学 の 目 的 と 性 格
以上の沿革に照すならば︑短期大学は過渡的な暫定措置として出発し︑目的や性格もあまり明確なものとはいえなかっ
た︒大学設置委員会はやがて大学設置審議会と改まるが︑同審議会が短大設置に関しその認可基準を定めた﹁短期大学設
置基
準﹂
によ
ると
︑
し︑よき社会人を育成することを目的とする﹂と規定している︒ ﹁短期大学は︑高等学校の教育の上に二年または三年の実際的な専門職業に重きを置く大学教育を施
それは当分の聞の暫定措置であり︑四年制へのワン・
ステップであるというのが当時における文部当局の見解であった︒短期大学の発足は︑以上の経樟から昭和二十四年度
に間に合わず︑昭和二十五年度に持ち越された︒右の基準は同設置審議会の﹁決定﹂にとどまり未だ
﹁省
令﹂
では
なか
った
短期大学には︑学部を置くことなく︑学科を単位として構成され︑卒業の要件も︑二年制について六二単位︑ ︒
三年
制に
つい
て九
三単
位と
し︑
四年制大学の二分一ないし四分の三とされた︒だが内容的には︑
一般
教育
科目
が四
年制
大学
の一
一一
分
四年制大学とは自ら異った特徴の一の一一一単位︵三年制は二分の一の一八単位︶であり︑外国語は必修科目でないなど︑
を具
えて
いる
︒
短期大学の設置状況とその後の進展
昭和二十五年間校に備えて文部省に設立申請を行った学校は︑一八六校︵公立二一校︑私立一六五校︶であり︑その大
半が旧制専門学校を母体としていた︒審査の結果︑一凹九校が設立を認可され︑昭和二十五年度から発足した︒その内訳
は︑公立一七校︑私立一一三一校であった︒国立短大は後述の如く昭和二十六年度に認可された︒
そこで右の一四九校につき︑設立主体︑所在地︑定員︑学科をみると︑それは次のようになっている︒旧制専門学校を
四年制大学に併設されたもの四五校であった︒所
在地も大都市に集中し︑東京四九︑愛知二ニ︑大阪一二︑京都一一︑兵庫九︑神奈川七などであった︒東北の岩手︑秋田
をはじめ一六県には一校も設立を見なかった︒入学者定員は二万一五五人︑これに対し志願者は定員を割って一万七千六 母体とするもの六五校︑新制高校・各種学校を基盤とするもの三九校︑
一O人︑その八五%にすぎず︑実際の入学者は一万三千八三九人で定員の七O%にとどまった︒学科は︑合計二八五学科
︵公立三七学科︑私立二四八学科︶︑専攻分野は多岐に豆り︑語学・文学系︑家政学系︑商業・経済学系︑
体の九O%を占めた︒三年制短大は五校のみで︑美術・工芸︑厚生︑宗教など特殊な分野に限られた︒ 理工学系が全
国立短期大学は昭和二十六年度に二校︑が発足した︒一は︑旧高商系の学部を擁する国立十大学中の︑長崎大学に商業短
期大学部が︑他は︑京都工芸繊維大学に工業短期大学部が︑いずれも昭和二十六年に認可され︑ともに併設短大の唱矢と
四七 五
四七 六
いらい小樽︑福島︑和歌山︑香川︑滋賀の各大学にも夜間短大が併設せられ︑同じく富山大学にも経営短期大
学部が設けられたのである︒すべて勤労学徒を対象とし︑いわば労学問帰を理念としつつ︑夜間定時制の高等教育機関と
して機能する営造物である︒同時に母体大学と関係学部の協力と提携により︑合理的・効率的な教育効果と研究成果が期
待せられている︒併設短大に関する限り︑学部校舎の一部を利用し機器を活用し図書館・体育館その他の全学施設を共用
するなど︑享受しうる利便は少くない︒国の財政負担も独立短大に比べ蓬かに軽少で済むため︑文部省も工学部を中心と
する工業系の夜間短大︵一O校︶︑医学部に不可欠の医療技術者養成のため昼間全日制の医療技術短大︵現在一O
校︶
の
併設認可を意欲的に推進したようである︒独立短大としては図書館短大を数えるのみであるが︑その筑波移転を契機に四
年制に昇格する予定である︒ 工つこ
J 0
・7
ナ﹂
国立の併設短大では昼間制は医療系のみであり学生も大多数が女子であるのに比べ︑勤労学徒対象の夜間制は工学系な
らびに︑経済学系を中心とする社会科学系の短大に類別され︑両者とも学生の過半数は男子で占められている︒後者につ
いては︑件の国立十大学以外にも︑新潟大学と静岡大学が同じく人文学部を母体に︵前者は経済学科︑後者は法経学科︶
それぞれ商業短大と法経短大を︑併設した︒また埼玉大学の場合はやや毛色を異にし母体学部がなく︵文理学部は文学科
と理学科のみ︶︑大学自体を母体に経済短期大学部を昭和二十九年度に併設した︵なお埼玉大学では短大と別個に経済学
部を昭和四十年度に開設した︶︒何れも併設組織の利点を活かし︑管理運営面では自主性尊重を前提に母体学部ないし母
体大学との緊密な連携の下に︑併設短大として各自の特色ある校風を樹立しつつある︒短期大学一般については︑多様化
する高等教育機関の中でユニークな位置づけを確立することが時代の要請であると思われる︒
短 期 大 学 の 制 度 的 定 着
短期大学は暫定措置として発足し︑既に二O年以上を経過したが︑その問︑昭和三十九年三月の第四十六回国会におい
て︑学校教育法の一部改正法案が提出され︑同年六月の成立をまって短大制度の恒久化がもたらされた︒その理由として
は︑①学生や父兄の経済的負担の軽少︑①短期間に実務的専門的学識を体得しうること︑①女子教育にとり年限的に適切
であること︑などが挙げられている︒文部省が中央教育審議会に﹁短期大学制度の改善についてし諮問したが︑当初の専
科大学構想は公私短大側の反対で実らず︑恒久化への摸索が続けられた︒一方︑昭和三十七年度より工業技術者の養成機
関として工業高等専門学校が大量に創設︵更に昭和凶十三年度よりは海運技術者義成のため商船高等専門学校をも創設︶
され︑今日では工専四九校︑商船高専五校に達する︒それに触発されて短大関係者側から︑その恒久化がつよく要請さ
れ︑議員立法による暫定措置規程の削除さえ云為されるに至った︒そこで政府は学校教育法を一部改正して︵昭和三十九
年法
律一
一
O号︶︑第五章に第六九条のこを新たに設け︑
来の短大設置基準が大学設置審議会の決定にすぎず︑省令でなかったのを︑同審議会に短大設置基準に関する分科会を置
き︑昭和五十年三月の答申をまって同年四月二十八日付で省令化され︑改めて同年の省令第二一号として﹁短期大学設置
基準﹂が公布施行される運びとなった︒そこでは単に二分の一大学でない実践的かつ弾力的な性格が読みとられる︒同時
一般教育八単位︑保健教育二単位︑専門教育五二単位という柔軟な枠 短大の創設に関する現定を明らかにすることになった︒かつ従
に短大卒の四年制大学への編入も奨励される一方︑
組も存置されているのである︒
戸四七 七
四七 八
II
富山大学経営短期大学部の設置
夜間短大への時代的要請
戦前のわが国では︑勤労者教育のため︑中等学校に夜間部をおく例は少くなかった︒高専の一部︑大学についても特に
都会地においてその便宜を供与する私立大学が存在した︵国立では神戸大学にその例があった︶0
戦後の学制改革を機に︑夜間定時制の高等教育機関の設立が待望され︑それは全国的な趨勢でもあった︒戦前にも本県
では雄峰中学という勤労青年向けの中等教育機関が置かれ︑新学制に即して雄峰高校と改称せられた︒やがて富山県定時
制通信教育振興会が結成されるや︑それが母体となって夜間大学設立の気運が次第に醸成されて行った︒
すでに文部省は︑昭和二十五年八月︑国立夜間短期大学部の構想を明らかにし︑当時なお暫定措置と目された短大制度を
媒介として︑勤労学生に高等教育の門を聞く方針を示した︒それは国立大学に短期大学を併設ょうとするもので︑別個の独
立した学校であると共に︑母体大学名を冠し一連の読み下しによる固有名詞の称呼を付すると共に︑母体大学の学長が併設
短大の学長を兼ね︑その併任を義務づけるものであった︒短大学長の補佐に当る短大主事も別に設けられることになった︒
富山大学経済工業短期大学部設置期成同盟会の結成
本県においては昭和二十九年十月二十七日︑前述の富山県定時制通信教育振興会の肝煎で︑夜間大学設立世話人会と発
起人会が催され︑それが経営短大の設置に至る運動の皮切りとなった︒当日参集のメンバーは︑舘哲二県定時制通信教育
振興会長︵参議院議員︶︑山森利一富大後援会副会長︵県教育委員長代理︶︑宮川保太郎富山市長︑鹿野義一県町村会長︑
中田栄太郎元衆議院議員などであり︑ただちに夜間大学設立準備委員会の結成となった︒同席した石原富山大学長もこれ
に祝辞を呈した︒ここに地域と大学の協力体制の幕あけとなり︑設立運動へ始動するわけである︒それは更に十一月七日
に及んで︑富山大学経済工業短期大学部設置期成同盟会へと発展的に解消し︑改めて会長に館参議院議員︑名誉会長に吉
田県知事︑常任委員長に中田元代議士︑幹事長に雄峰高校長草野寛正氏が就任した︒つづいて中田氏は十一月三十日︑初
めて文部省に赴き︑当局の意向打診と陳情を行った︒そのことあって一年︑昭和三十年十月十八日に至り︑県議会は漸く
満場一致を以て︑夜間併設短期大学部設立の意見書を採択した︒その九カ月後の昭和三十一年七月には県高校PTA
連絡
協議会において︑また八月には︑全国高校定時制通信教育振興会北陸地区協議会において︑富山大学に定時制短期大学部
の設立に関する決議がなされ︑七月二十五日には舘︑藤井兼久︑富川︑山森︑中田の諸氏︑八月十七日には︑永森収︑
砂田英吉氏が之に加わって︑文相秘書官室に集合の上︑文部省首脳部へ陳情している︒昭和三十二年度の陳情関係記録か
らすれば︑二月を除いて毎月︑主として舘︑金原及び分家県議会議長︑富川市長︑浅地富山市会議長︑鹿野︑中田の諸民
を中心に設置要請が間断なく続けられており︑県選出代議士と共に︑時機を見ては松永文相︑稲田次官︑三木自民党政調
会長︑妹尾技術教育課長︑春山大学課長らへの陳情や折衝を行っていた︒
昭和三十二年十一月になると︑併設乃至独立短大のプラシが各地で具体化するに及び本県関係者も色めき立ち︑県から
分家議長︑富川︑堀︑斉藤︑五島各市長︑中田氏︑魚拐県高校PTA会長等三O余名の陳情団が十一・十二日︑松永文相︑
稲田次官らを訪れ改めて短大設置を要請した︒同文相は﹁短期大学を是非設置したいと思って大蔵省に予算要求をしてい
四七
九
四八
O
る﹂と述べ︑更に昭和三十三年度予算に五箇所の新設要求を行ったこと︑内訳は工学系三︑外語系一︑それに富山の経済
系短大であることを明らかにした︒富山の場合は富山大学の施設を全面的に利用できるため人件費三百万円で足るので有
望視されるが︑政府として工学部など技術系に重点をおく関係上︑大蔵省も五箇所全部を認めるか否か疑問であるが︑文
部省としては最善の努力を払いたいと約したといわれる︒
一方︑期成同盟会としては︑働く者の為に︑県内に夜間の大学を設置することがその根本の趣旨であったから︑はじめ
政府や県ならびに県内諸国体としては︑高度成長の経済政策から工業教育重視のため︑工業短大の設立をめざしたのであ
る︒しかし工業短大の併設は︑工学部自体が難色を示し︑母体学部となる可能性に乏しいことが明らかとなった︒そこで
昭和三十一年七月二十八日の評議会においては改めて経済学部を母体とする工業経営短期大学の設置案が合意された︒同
盟会としては︑官選知事時代の県当局が︑戦時転換工専からの高商︵経専︶復活という省議の路線に異を唱え︑工業立県
の見地に立って工専存続をリードした過去の経韓を肘度しつつも︑これに捉われず︑復活成った経済学部に母体の役割を
託することとなった︒かくて昭和三十二年に入って︑文部省は昭和三十三年度の概算要求の中に富山大学の併設短大の件
を組み入れ︑そのことが地元紙の記事にも報ぜられた︒しかしそれは大蔵省の査定を通過せず不発におわケた︒昭和三十
三年度に入ると短大の構想を成就するため土生経済学部長自ら犬馬の労をとり︑野崎経済学部教授らも︑概算要求の計画
書作成に関与した︒これは幸い省議をパスし︑文部省も再び大蔵省への折衝を開始した︒ついに十二月一目︑大蔵省の第
一次査定通過の朗報が︑就任まもない梅原学長のもとは届いた︒かくて短大開設は本極りとなった︒予算の国会を通過を
まひて開校となるわけである︒
これより先︑経済学部は併設短大の母体学部たる任務にかんがみ︑富山県の産業経済の現状分析を始め経営を中心とす
る実際的かつ専門的なカリキュラムの編成にとり組み︑又限られた短月日の聞に︑大学設置審議会が適格と認める教官候
補者を探すため︑その人選に東奔西走して短大開設に備えた︒遂に昭和三十四年三月三十一日︑学大一二三号を以て稲田
次官名による経営短期大学部設置認可の公式文書が梅原学長宛に到着した︒ここに五年間にわたる富山大学と期成同盟会
との協力一致がついに実を結んだのである︒稲田清助文部事務次官から梅原学長宛の文書には次の如く記されてあった︒
一︑
名
一一
︑尚 子
二一
︑位
四︑修業年限
五︑開設年次
六︑開設時期
七︑留意事項
言 己 称
富山大学経営短期大学部
科
経営科第二部
入学定員八O名総定員二四O名 置
富山県富山市五福二二九O
番地
年
第一年次昭和三十四年度ω教官︑図書室︑体育館その他構内の照明施設については︑計両どおり実現すること︒
一般教育に関する学生用の図書を更に増強すること︒
(2) (3.)
財務管理担当専任教員については︑吏に充実強化すること︒
学生用のための食堂︑その他厚生施設については︑
(4)
一層
留意
する
こと
︒ 四 八
四 八 開
品 岨寸圃
と 創 業
以上のように経緯を経て︑当初の工業経営短大は︑大学設置審査会の審査報告に従って単に経営短大と改まったが︑実
践的な学科目を中心とする短大の誕生は︑地域社会としても歓迎するところであった︒昭和三十四年四月一日︑梅原富山
大学長は初代学長に併任され︑又同日︑経済学部長の任期を満了した土生滋穂教授が初代主事に併任された︒また第一回
入試は四月二十六日に実施され︑入試委員には武石教授をはじめとする経済学部の教官が委嘱され︑一切の入試事務は経
済学部事務職員が担当した︒その結果八十八名の合格者を決定した︒五月六日︑経済学部の事務部局は︑併設短大の事務
をもつかさどるよう︑学長より指令された︒五月十日に第一回入学式を挙行︑同十八日には一般教養課程及び専門課程の
一部
の授
業が
開始
され
たの
であ
る︒
おもうに︑富山大学に夜間短大が併設され︑勤労学生のため︑労学同帰の理念の下に就学の門戸を聞き与えたことは︑ま一
ことに意義ぶかく︑旧高商系の経済学部を擁する国立大学の強味でもあった︒同時に地元の推進母体として活躍した富山
大学経済工業短期大学部設置期成同盟会の多年に亘る辛酸にたいし︑深甚の謝意を新たにするものである︒日本海沿岸に
おける国立の夜間短大としては︑新潟大学の商業短期大学部︵これは同大学の人文学部経済学科を母体とする︶が富大の
経営短大以外の夜間短大であるにとどまり︑而も両校は同時開校の沿革をもっ︒
昭和三十四年四月一日を以て開校せられた富大の経営短期大学部は︑同年度に関する限り︑学長と主事の発令が行われ
たのみで︑専ら全学的に委嘱された非常勤講師による一般教育科目の授業が実施せられたのである︒
しかし昭和三十五年度に入るや︑英語の水井謹作助教授︑労務管理の泰地靖弘助手︑工業政策の長砂実助手が着任し︑
経営短大は初めて専任教官を迎えることになった︒こえて昭和三十六年度には︑管理会計の飯田修三助手︑商法の田村茂
夫助手が就任し︑昭和三十七年度に財務管理の下川浩一講師︑昭和三十八年度に生産管理の藤本利弱助手の着任を見るに
及んで︑短大の専任教官陣は定員をフルに充足するに至った︒また助手として着任した専任教官は何れも翌年には講師に
昇格し授業を担当した︒専門教育課程のうち︑専任教官で賄いきれない授業科目は︑まず経済学部の教官にその担当方を
交渉し︑それが困難な場合に他学部教官や学外者に来講を願っており︑そのパターンは今日も変っていない︒但し演習
︵ゼミナール︶と外国経営学文献講読に関しては︑何れも専任教官のみで担当する定めになっている︒
左に昭和三十七年度までのカリキュラムを掲げるが︑現代社会の要請に応じ先駆的役割を目ざす意図を多少でも汲んで
頂ければ幸いである︒
短期大学部カリキュラム
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本川田村地砂井 上 岡
利 浩 修 茂 靖 謹
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藤藤下飯田泰飯水 藤 横 原本川田村地田井 原 山
I
I伊t利浩三修茂夫靖弘修三謹作 壮 辰
介| 雄
︵ 註 ︶
各学年度学科目担当教官名中雲で囲んでだものは主事をあらわし︑
〆ー、、
︶で阻んだものは専任教官である︒
短大開設と共に︑母体学部たる経済学部の校舎にも︑夜間授業用の照明が備えられ︑向上心に溢れた青年学徒︑が研学を
競い︑担当教官の懇ろな指導と薫化をうける光景が描き出されるようになった︒
III 短 期 大 学 部 の 発 展
学
長 と 主 事
初代学長の梅原真隆氏は仏門の名流として聞え︑勤労者の大学教育にも熱意を傾けられ︑昭和三十六年三月で退任され
た︒二代学長横田嘉右衛門氏も初代学長に劣らず︑勤労学生の味方であった︒松村元文相が本学の文化祭記念講演に見え
たのも︑氏の努力に負うところが大であった︒氏は昭和四十四年三月に辞任された︒竹内学長事務取扱のあとを承けた第
三代後藤秀弘学長は東北大学金属究研所より来任され︑母体大学の紛争激化の聞にも︑正常運営を続ける本短大の上に好
意ある配慮を寄せられた︒同氏が昭和四十八年六月に退任されたあとを︑現学長林勝次氏が本学の第四代学長を引きう
け︑本短大育成に余念なく努力されている︒昭和五十一年度予算等で本短大の経営学科の学生定員を八O
名か
ら一
OO名
に引き上げ︑経営管理専攻と経営・法律専攻に分離の上︑前者に六O名︑後者に四O名を充当したが︑この計画の実現に
学長は主輩と共に挺身され︑成功を導いたということができる︒
主事については︑初代の土生滋穂教授は嘗て福井県の定時制高校たる勝山精華高校の初代校長でもあり︑本学の経営に
最適の偉材であった︒学生のための施設や設備に関する各方面との折衝︑専任教官確保や研究体制確立へ向けての精力的
な活躍には頭の下るものがあった︒後援会の結成もその一環であった︒本学の学則・諸規程・学生守則などを︑母体の富
山大学とは別個に制定するため︑文案の作成に骨身を削られた︒法学者である土生主事の手で法文の措辞も要を得て美事
四八
七
四八 八
に出来上った︒土生主事はつねに温容をたたえて勤労学生に接し︑何事も懇切に導かれた︒学生からは慈父のような存在
として敬愛され︑今日も追慕をあつめている︒昭和三十六年三月退職の土生主事に代った第二代主事の城宝正治教授は︑
労学同帰の理念を銀のハンマーと古典書の模型に象徴せしめ︑これを新入生代表に渡して握手するのが︑入学式での同主
事のマナ!となったo勤労学生を慈しむ心の表われと解された︒同主事の時代に学友会誌﹁光タ﹂と﹁学友会報﹂発刊が 実現した︒昭和三十七年に第一回卒業生のために︑その熱望にこたえて︑経済学部越嶺会︵同窓会︶にたいし加入達成の橋渡し役を果されたoこれは新潟の商業短大が母体学部とは別に独自の同窓会を結成したのと︑対照的な選択を意味する
ものである︒また植樹や記念碑の類を︑入学や卒業の際に︑母校へ寄贈するよう学生に勧められたoこの頃になると短大
の専任教官の手で︑管理や運営を自主的に行おうとする気運が生れた︒他方︑創校以来︑経済学部の主導性においで短大
との合同委員会が置かれ︑運営の大枠が組まれる方式はその佳存続されていた︒昭和三十七年四月十日︑同十二月十二日
の学則・諸規程・内規の改正は︑短大の自立基礎の強化を示す指標となった︒卒業式も第一回は短大のみで挙行したが︑
第二回卒業式からは他の学部と合同で全学卒業式に参加することになった︒入学式も第四回から同じく全学入学式に列な
るこ
とに
改め
られ
た︒
第三代主事には花井益一教授が昭和三十八年四月に就任され︑早速︑これまで経済学部に依存していた事務部を︑短大
独自で設置することになった︒初代事務長に森田弘事務官が任命された︒創校四カ年にして短大事務部が開設されたわけ
ついで合同委員会規程や専任教官会議規程も手直しされた︒それは人事案件がすべて学部の人事教授会に付託さ
であ
る︒
れる代りに︑人事以外の事案を短大側の専任教官会議に委ねることが骨子であった︒さらに特筆に値するのは︑短大教官
に学長選挙権が認められるに至ったことである︒創設以来六年間︑短大教官は主事選挙権は元より︑学長選挙権も認めら
れていなかった︒そこで昭和四十年一月二十二日の評議会︵昭和三十九年度第十三回評議会︶において︑在四岡山大学長選考
基準
第一
O条第二項の選挙権有資格者中に︑短大の専任教官︵講師以上︶を含めることが﹁覚書﹂形式で合意されたので
ある︒これは花井主事より横田学長あての詮議申請書が検討された結果である︒その申請書には︑本学教官︵短大教官の
こと︶を加えられきたこと︑この件は経済学部教授会も同一意見であることが述べられてある︒叉当時の国立併設短大二
三校のうち半数以上が学長選挙権を賦与されていた︒母体大学の学長が併設短大の学長を義務的に併任する以上︑同一人
物たる学長の選挙権が短大教官に認められることは︑衡平の見地から常識にかなう措置といってよい︒そこで昭和四十年
十一月十九日の学長選挙には︑短大教官も投票権を行使し︑今日に至っている︒
昭和四十年四月︑第四代主事として再び城宝教授を迎えたが︑漸く経済学部も多事に赴き︑全学の風雲も緊迫する様相
を呈しつつあった︒同主事は昭和四十二年三月︑停年退職の日まで︑激動のあらしに奔弄される観があった︒短大教官は
教官の合議体を教官会議から教授会に改編し︑学部自治の理念に依拠して短大の自治権限を確保しようとしていた︒当
然︑合同委員会に掌握された権限の委譲を求めるものであった︒同主事は別異の動きに奔り︑ついに任期末に近く︑短大
教官の全員と深刻に対立し︑経済学部教授会とも布離し︑失意の離任ハ停年退職︶となった︒しかし同主事が短大のレl
ゾγデ1トルを﹁労学同帰﹂の四字にまとめ勤労学徒の座右銘に供した熱意は︑高く評価されてよいであろう︒
第五代主事には三国一義教授が登場した︒氏は直観的器量にすぐれ統計的思考に長じ︑よく短大の特質を伸すベく奔走
された︒短大では三国主事の支援を得て昭和四十二年六月六日に短大教授会規程を制定した︒この懸案規程の制定手続も
短大独自で可能であり︑あえて全学の評議会に付議するに及ばないとの確認に基くものであった︒合同委員会はこれを機
に解消し︑人事権を含む運営管理の自主性は教授人事を除き自づから短大教授会に帰することとなった︒
四八
九
四九
O
左に短大教授会規程ならびに主事選考基準を掲げておきたい︒
富山大学経営短期大学部教授会規程︵昭和四十二年六月六日制定︶
︵設
置︶
第一条学校教育法第五十九条に基づき本短期大学部に教授会をおく︒
︵権
限﹀
第
(1) 二
条
(2)
教授会は︑次の事項を審議する︒
学則その他重要な規則の制定改廃に関する事項
学科︑講座ならびに教育および研究に関する施設の設置廃止事項
(3)
学生定員に関する事項
学科目の種類および編成に関する事項
(4) (5)
学生の入学および卒業の認定に関する事項
(6)
学生の成績に関する事項
(7)
学生の厚生︑補導およびその身分に関する事項
(8)
学生の賞罰に関する事項
(9)
大学その他の機関との連絡調整に関する事項
(10)
教育公務員特例法その他法令の規定によりその権限に属せしめられる事項
︵構
成﹀
︶ − 1 ︵ 予算に関する事項
(12)
その他︑本短期大学部の教育︑研究および運営に関する事項
第三条
川主事
経営短期大学部教官選考基準に準拠する︒
第四条︵
議事
︶
第五条
第六条
第七条2
第八条 3
第九条2
教授会は次の職員で構成する︒ω教授同助教授
凶講
師︵
常勤
︶
ただし第二条第十号の事項のうち教官の人事に関しては︑富山大学
教授会は必要に応じて︑構成員以外の職員を教授会に出席させることができる︒
教授会は主事がこれを招集し議長となる︒
教授会は定例会および臨時会とする︒臨時会は主事において必要と認めたとき︑または構成員総数の凹分の一
以上の構成員から附議すべき事項を示して請求のあったときこれを開く︒
教授会は構成員の三分の二以上が出席しなければ︑議事を聞き︑議決することができない︒
議事は出席者の過半数をもって決する︒
必要緊急な場合には︑構成員の二分の一以上の出席をもって議事を聞き︑出席者の三分の二以上をもって決する︒
教官の人事を審議する会議は︑構成員の一一一分の二以上が出席しなければ議事を聞き議決することができない︒
教授会に幹事一名をおく︒
幹事は︑事務長をもってこれにあて︑議長の指示により庶務を処理する︒
四 九
四 九 附 1
日 ハ
この規程は︑昭和四十二年六月一日から実施する︒
この規程により︑富山大学経営短期大学部教官会議規定︵昭和三十五後七月一日制定︶は︑これを廃止する︒
2
富山大学経営短期大学部主事選考基準
︵昭
和四
十二
年六
月六
日制
定︶
第一条富山大学経営短期大学部主事︵以下﹁主事しという︒︶候補者の選考はこの基準により教授会の議に基づき学
長が
行な
う︒
第二条前条の選考は︑富山大学経営短期大学部ならびに富山大学経済学部の教授および教授予定者のうちから行なう
もの
とす
る︒
第 条
教授会は︑次の場合主事候補者を選定する︒
主事の任期が満了するとき︒
主事が辞職を申し出たとき︒
主事が欠員となったとき︒
第四条主事候補者の選考は︑前条第一号の場合は︑任期満了の二十日以前までに︑同条第二号および第三号の場合は
すみやかにこれを行なわなければならない︒
第五条教授会は︑次の方法により選挙を行ない︑主事候補者を決定する︒
無記名式単記投票とする︒
投票総数が選挙権者の三分の二に達しないときは︑再投票を行なう︒
有効投票の過半数の得票者を主事候補者とする︒
過半数の得票者がないときは再投票を行ない︑得票数の多い者を主事候補者とする︒
2
前項の選挙資格者は︑富山大学経営短期大学部教授会の構成員のうち専任教官とする︒
第六条主事候補者がやむを得ない事由により辞退したとさは︑再選挙を行なう︒
第七条教授会は主事候補者が決定したときは︑これを学長に報告する︒
第八条主事の任期は︑二年とする︒ただし重任を妨げない︒
第九条主事候補者の選定事務は︑教授会が管理する︒
2 主事候補者の選定事務に必要な細則は1
教授
会が
定め
る︒
附
﹂の基準は︑昭和四十二年六月一日から実施する︒
三国主事は任期半ばにして︑再び経済学部長に選任され︑経済学部の難局掌理の要務を帯びて主事の座を去られた︒つ
いで野崎富作教授が第六代主事となり︑短大教授会の議長としてその発展に尽された︒創設に功績のあった同主事は︑併
設短大の地位を史に安定せしめる方向で幾多の努力をいとわず︑よく短大の礎を固めるために貢献された︒
第七代主事に及び︑はじめて短大生えぬきの専任教官として水井謹作教授の就任を見た︒水井主事は戦時中に民間軍需
会社の中堅幹部をつとめた経験もあり︑労学同帰の学風を育てる上でも不可欠のスタッフであった︒同氏は英語教師のキ
JJLJ
7'L
四九 四
ャリアが長く︑貿易英語への関心も深く︑語学力の酒養を説いて倦まず︑スポーツを奨め︑学生の健康にも配慮を加え︑
在任
も二
期に
亘っ
た︒
第八代主事には再び経済学部から山崎佳夫教授を迎えた︒山崎主事は経営と経理に通ずる有為な職能人の育成に熱意を
注ぎ︑二期の在任期聞を貫いて︑経済学部との研究・教育面での提携を強化するところがあった︒とくに第二期目に当
り︑既述の二専攻分離を果し︑学生定員を八O
名か
ら一
OO名に増員し︑教官定員も一名を加える成果をもたらした︒
創立十五周年式典の挙行
山崎主事の在任中︑昭和四十九年十月九日︑経営短大は創立十五周年の記念式典を︑学生会館大集会室を会場として︑
来賓参加の下に挙行した︒来賓には県知事代理のほか短大後援会に関与する県下の代表企業の幹部が︑同副会長の金岡叉
左衛門氏︵富山相互銀行社長︶を始めとして臨席された︒同窓生も県下各地から参集した︒短大開校十五年の歴史は︑関
係者一同にとって限りなく深い感銘を呼び︑祝賀の宴に回顧の花を咲かせた︒経営短大ではこの日に備え︑
ゆみ﹂と題する小冊子を編み︑沿革を綴り︑短大卒業生名簿を添えた︒それを参会者に配付した︒そこに掲げられた林学
長と山崎主事の挨拶文を収録しておく︒
﹁十
五年
のあ
創立十五周年によせて
富 山 大 学 経 営 短 期 大 学 部 学 長 林 勝
富山大学経営短期大学部創立十五周年にあたり︑これが︑創立のために苦労された︑県政界︑財界︑教育界の方々の
次
ご努力を︑あらためて感謝申し上げるものでございます︒創立以来すでに十五年︑教職員︑学生︑後援会のたゆまざる
熱意と精進の結果︑わが国唯一の経営短期大学部として︑高く評価されていることを欣快に思っております︒卒業生諸
君も︑全国各地において︑経済界の中心的役割を果しながら︑存分の活躍をしておられることを︑衷心より喜んでいる
ものでございます︒今日︑経営短期大学部も︑元服の成人式を迎えたのですが︑ふり返って︑大学の設備その他を見る
とき︑旧態依然たる姿で︑大きな進歩がありません︒校舎も依然として︑経済学部の建物に間借している現状で︑新し
い独立校舎もなく︑夜間大学としての設備も不充分です︒これらの問題を︑速やかに解決して︑働きながら学ぶ人たち
に︑よりよい教育︑研究の環境をつくるべきだと思います︒今後とも︑一層のご指導とご後援をお願い申し上げます︒
富山大学経営短期大学部主事
山 崎 佳
夫
ここに富山大学経営短期大学部が︑創立十五周年を迎えるに至りましたことは︑誠に御同慶に耐えません︒社会で活
躍している卒業生の数も︑実に一︑
00
0名になんなんとしています︒彼等の社会に対する貢献にも顕著なもののある
ことを︑誇りに思っております︒これもひとえに先輩・諸賢の御尽力・御指導の賜物によるものと︑深く感謝申し上げ
ている次第であります︒また今年は︑母体学部である経済学部に経営学科が増設されました︒これを反映して︑わが短
期大学部︵経営学科︶の授業内容も豊富なものになることでしょう︒学科も定員も︑創立当初のままでありますが︑変
動する時代の要請や地域社会の要望に応えていかなければなりません︒
他方︑わが国教育制度の中にあって︑短期大学自体の存在が再検討を迫られている時期でもあります︒われわれは︑
創立十五周年を期して︑学科の増設と学部への独立に向って︑富山大学経営短期大学部発展のための︑新たな出発の年
四九
五