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第 六 章 富 山 大 学 経 済 学 部 の 成 立

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第六章

富山大学経済学部の成立

国運を賭した大東亜戦争は︑昭和十六年十二月八日に始まり︑緒戦の連戦連勝にも拘らず︑昭和十七年六月五日のミv

ドウェイ海空戦の敗退を機に︑戦局は逆転して攻守所を変え︑我国は進攻作戦から守勢に廻り︑一方︑同年八月十三日︑

米国は原爆製造のマンハッタン計画に着手︑ついに昭和二十年八月十五日を以て四面楚歌のうちに竜頭蛇尾の無条件降伏

を余儀なくされた︒日清・日露の両戦役以後のあらゆる戦果はすべて潰え去った︒国富の亡失も実に全体の四一・五克に

達した︒ただ右の無条件降伏が︑完全な無原則的無条件でなく︑ポツダム宣言の条項を枠組とする降伏内容を無条件で受

容したことを意味し︑それがせめてもの救いであった︒

ところで戦時のきびしい苦難にたえ︑祖国の急に赴いて︑或いは戦陣に︑或いは勤労動員に︑学業を拠って挺身した高

商健児は︑すでに終戦時には︑母校の本体を失って一年四カ月を閲していた︒校門に件み湧花と涙する土もあったに違い

ない︒当惑と悲憤の去来もまた当然であろう︒しかし母校跡に拠る工専生には何の責もなく︑責を負うべきは文政当局で

あり︑浅慮な政策判断であった︒却って初期の工専生は︑高商生と選ばぬ意気で戦末の試練期を共に刻苦し︑当時の追

懐を歓ぶ風がある︒従って高商健児の幻滅も︑外地引揚の学徒の味うような母校喪失の寂冥とは︑自ら趣を異にした︒沼

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に於て︑高商のアルマ・メータに結集する高陵会は︑激変する戦後の世相に母校回復を志向してその旗印に団結し︑それ に反対する各種勢力を相手に鏑をけずり︑たとえ一次的に事が不首尾でも敢て動ぜず屈せず︑累次にわたって堅忍不撰の

ついに前章で述べたように︑旧高専が新設の富山大学に昇格するのを待ち︑その一角に経済学科を誕生せし

めた︒続いてその学部昇格を達成し︑

は︑他の旧高商系経済学部と共に︑国立十大学の一として︑活気に溢れ充実と向上を目ざし︑ ついに母校復活という大義名分を成就に導いたのである︒その富山大学経済学部

不断に発展を続けている︒

その聞には深刻な紛争もあって難渋したが︑それらの過去をして過去たらしめる再建の軌跡は見事である︒以下その足ど

りを歴史的コンテクストのなかで辿ってみよう︒

わが国は米国を中心とする連合国の軍事占領下におかれ︑

たる米国との相互信頼を深めて行き︑昨日の敵を今日の友と変え︑対米和解の鮮を対外政策の大綱とし︑戦後三十年の平

しかも敗戦国でありながら亡国の憂目を免れ︑旧敵国

和と繁栄を築いて来た︒昭和二十七年四月二十八日の講和発効に至るまで︑国政の権能を連合国最高司令官の掌中に委ね

たが︑昭和二十年八月三十日にその厚木到着後︑同年九月二日の東京湾頭なる米戦艦ミズlリ号上における降伏文書調印

日本管理の基本法源が確立したことを契機に︑占領行政はスタートしたのである︒

のちに一部を英軍が担当した日本占領であったが︑それは間接統治を前提とする弛い軍政の大枠を意味

した︒そこで﹁法の支配﹂を中心とする米英民主制の理念と機構が我国に継受された︒かくて日本国憲法の制定となり︑

文教改革が占領下の国政の骨子として実現を見た︒日本管理の最高当局は極東委員会であっても︑具体的には米国の対日

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方針が大きな比重を占めた︒その方針が間接統治であり︑日本政府の存続をみとめつつ︑それに後見的規制を加え︑英米

流の立憲主義による日本民主化が進められた︒その一次的準則たるポツダム宣言には︑軍国主義の駆逐と︑民主主義の復

活強化に対する一切の障擬除去が掲げてある︒これに沿って教育制度の改革が意図せられた︒

総司令部は昭和二十年十月二十二日付で﹁日本教育制度運営の基本方針に関する覚書﹂

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そのなかに︑教育に関する占領目的ならびに

政策が述べられている︒その要点は︑

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教育内容を厳格に検討し改訂し規制する︒その場合の基準は︑川軍国主義的・過

激国家主義的なイデオロギーの伝播を禁じ︑軍事教育や教練を廃絶すること︑例代議政治︑国際平和︑個人の威厳︑およ

び集会・言論・宗教の自由のような基本的人権の観念を浸透させ︑それらと調和する慣行を確立すること︑であった︒

ω

教育機関に携わる人物にたはすべて資格審査を施し︑適格判定ないし罷免・復職・再教育・監視の措置を講ずる︒その場

合の基準としては︑川職業軍人︑軍国主義・過激国家主義の信奉者︑占領政策への積極的反対者を罷免すること︑同自由

主義的および反軍国主義的な意見や活動の故に︑免職・停職・辞職強要の処分を受けた教職関係者にたいしては︑直ちに

適格を宣言し︑適切な要件︑が具わっておれば︑優先的に復職させること︑け民族・国籍・信条・政治的意見・社会的地位

にもとづく教職者・学生の差別待遇はこれを禁じ︑それより生じた不正を改めるため︑迅速な措置を講ずべきこと︑村教

職者・学生は︑教育内容を批判的知性的に評価するよう奨励され︑政治的・公民的・宗教的自由を含む諸問題に関し︑白

由な忌閣のない論議が許されること︑同教職者・学生および一般大衆は︑占領の目的と政策を知り︑代議政治の理論と実

際をふまえ︑軍国主義的指導者やその協力者︑ならびに受身の黙従によって国民を戦争にかり立て︑不可避的な敗戦と苦

日本国民を現在の悲惨な状態に陥れた責任者の演じた役割について批判的認識をもつこと︑などで

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あった︒同教育過程の諸手段は︑厳重な検討を加え︑改訂し規制さるべきものとする︒その基準として︑

拠する︒川刊現存の教課課程・教科書・指導要領・教材にして︑緊急の事態に即し臨時的に使用を許可されるものにつき︑

能う限り速やかに審査し︑軍国主義的ないし極端な国家主義的イデオロギーを助長する部分を削除すること︑同教養が古川

く平和的で責任感に富む国民を作るため︑新しい教課課程・教科書・指導要領・教材を準備し︑すみやかに現存のものと

交替すること︑け正常に運営される教育制度の再確立を︑及ぶ限り速やかに実行すること︒施設の制限される場合は︑初 つぎの政策に準

等教育と教員養成に重点をおくこと︑などがその内容であった︒

以上の趣旨を敷桁して︑同じく十月三十日には﹁教員・教育関係官の調査・適格審査・証明等に関する総司令部覚書﹂

が発せられ︑これに応じ日本政府はポツダム命令により教職の資格審査を行ない︑やかて多くの追放該当者を出した︒高

岡高商教授だった大熊信行氏もその中に合まれた︒更に同年十二月三十一日付で﹁修身科・日本歴史科・地理科の停止に

米国教育使節団と教育刷新委員会

こえて翌昭和二十一年三月四日︑アメリカから第一次教育使節団が来日し︑崩壊した日本の教育制度再建に関して調査

を行なった︒これはジョージ・D

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を団長とするこ七名の教育専門家から成り︑

一カ月の滞日期間にわたって総司令部の民間情報教育局︑日本側については︑文部大臣任命の教育家より成る委員会︑学

校および社会各般の代表的人物と協議したのち︑三月三十一日に報告書を提出した︒これは﹁日本の教育の目的と内容﹂

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マックアli

元帥はこれを全面的に支持したので︑この使節団報告がわが国の教育制度改革の骨子となった︒そこでこ

のうち﹁高等教育﹂の部を要説することが必要となる︒それは次のようである︒

第一次大戦後︑日本の白由思潮は大学や専門学校出身の男女の子で発揚された︒人fや高等教育には再び自由思想・勇敢な研究・田氏のたのみとなる活動について︑その基準を設ける機会が訪れている︒これらの目的を成就するため︑高等教育は少数者の特権でなくて多数者の機会となるべきものである︒高等学校程度の一般教養をうける機会を増進するために︑大学に直結する予科︵

行きわたるであろう︒これは一方において総合大学の研究︑他方において単科大学の提供する準職業的水準の専門化した訓練に結びつ に専門化した学校︵専門学校︶の学課課程をかなりの域まで白山化することが望ましく︑それによって一般的な大学教育が一層広汎に L M 等学校︶や更

機関は︑高等教育営造物の設置およびこの部草に規定された要件が維持されるよう監督の責に任ずべきである︒申請された尚等教育施設の資格審査をその開設許可に先立って行なうこと︑その当初の要件が充比されるよう保障することを除き︑政府機関は実際上︑E

教育機関に何らの干渉や規制を加えぬものとすべきである︒これらの学校は︑ム什ら最善とみとめる方式にしたがって日的を迫求するも学生に保障さるべき自由は︑自らの実力を基礎にして︑あらゆる水準の高級な研究に親しみうる白山である︒また白分の財産で勉学問を身につける準備のととのったんよ女性には︑ただちに与えらるべきものである︒婦人の初期的訓練合改善する手段もまた講ぜらるべ

以上の使節団報告書に徴すれば︑

わが国の新制大学はその趣旨を体して構成されたものであることがわかる︒この報告

わが国の教育制度は再編成され︑六・コ了一ニ四制の単線方式が出現し︑これに即応した学室田に盛られた理念に立脚して︑

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課課程が採択されたのである︒

日本政府部内における新学制の推進母体は︑前一記の一教育山本委員会の後身たる教育刷新委員会︿委員長は安倍文相︑副委

員長は南原東大総長︶であった︒これは昭和二十一年八月十日︑官制と人事︑が発表され︑内閣直属の一訓査諮問機関として

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マックアlサーもいったように︑普遍的理念に貫かれ民主的伝統

に深く根ざしていたので︑勧告には別に理不尽な要素もなく︑世界平和の推進と基本的人権の尊重を契機に国際社会の一

員となるべき日木の前途にとり︑寧ろそれに不可欠な教育制度を示唆するものであった︒教育刷新委員会は︑ストダl

勧告に共鳴しつつ︑高等教育を多数者に向って開放するため︑旧制大学と旧制高専を一丸とした新制大学の設立を検討

し︑文部省もこれに同調して六・一二・三・四制の冠見をなす高等学府の編成に大童となるのである︒

そこで政府は︑教育刷新委員会の一答申にもと︑すいて︑新制の中学校と高等学校の発足を決定したが︑これは旧制の中学

校と高等学校がいわば特権的存在であったのを︑ひろく国民に開放する意味で︑新制度下の学校の名称として採用したも

のである︒ただ総司令部は︑前者にHKORFS

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0 日の英訳名を示し︑米国

基本的には昭和二十一年十一月三日公布の口本国憲法であっ

た︒六三制を日本側は十二年間の計画で実行しようと望んだが︑総司令部はそれを許さず︑中学校を昭和二十二年︑高等

学校を二十三年︑大学を二十四年から開設するという段取りが本極りとなった︒

教育ニ法と新制大学

同時に教育基本法と学校教育法の二法が︑第九二回帝国議会において上程可決された︒何れも昭和二十二年三月三十一

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日に公布され︑戦後における教育の理念と制度を明確に表現した︒新教育の理念として︑前者は真理と正義を愛する人間

性の開発・教育の機会均等の強調・男女共学・社会教育と政治教育の重視を挙げ︑前文で世界平和と人類福祉に貢献する

決意を述べている︒これが従来の教育勅語に代って︑わが国の教育を導く基本原理となった︒大学について学校教育法第

五二条はその目的を掲げ﹁学術の中心として︑広く知識を授けるとともに︑深く専門の学芸を教授研究し︑知的・道徳的・

応用的能力を展開させる﹂に在ることを明らかにした︒そこで新制大学は︑学問の権威を保ちつつ︑同時に広く学問的知

識を授け︑社会の発展に実効的な貢献を果す教育機関となった︒換言すれば︑一般教育の尊重・職業教育の重視・大学院

に連なる学問研究の推進の三点が︑その特徴とされる︒この点で︑旧制大学について大学令第一条が﹁大学ハ国家ニ須要

ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並ピニ其ノ麓奥ヲ研究スルヲ以テ目的トシ兼ネテ人格ノ陶冶及ピ国家思想ノ緬養一一留意﹂

すべきものとしていたのに比べると︑国家的制約がとり除かれ︑人類的普遍的理念に立つものとなった︒新制大学は︑一

般教養を充実して健全な良識ある社会人を養成すべき要請にこたえ︑人文科学・社会科学・自然科学にわたる基本的学識

を養なうこととし︑その一般教養の比重は︑専門教養と対等に重要視せられる︒これは旧制専門学校に欠けた分野の充足

を意味しよう︒職業人としての素養も︑学理の修得と同様に重視する︒さらに大学院は﹁学術の理論及び応用を教授研究

し︑その深奥を究めて︑文化の進展に寄与する﹂機構となった︒

かくて昭和十六年以降︑﹁皇国民の錬成﹂を目ざして国民学校を誕生させ︑その上に中等学校・高等専門学校・大学に

至るまで︑決戦体制を布いた異常事態は解消した︒今や国民学校は小学校の称呼に復し︑中学校を加え︑九年制の義務教

育体系が確立された︒これはわが国における史上最大の教育制度改革であった︒新制高校は︑新制中学の教育を基礎とし

て︑心身の発達に応じ︑官同等の普通教育・専門教育を施すものとし︑新制大学において専門的・職業的教育の完成を見る

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一方において︑大学卒業は医科系統を別とし︑小学校より通算して十六年間で成り︑父兄側は七年間の学

費を負担するのみで子弟に大学教育を与えうることになった︒

かくて富山県にも国立富山大学の新設が実現される運びとなるのであるが︑それは旧制度の三年制大学と自づから異な

る目的・性格を有することは以上の如くであった︒新制中学・新制高校につぐ矢次早ゃな新制大学の開設は︑しかし至難

のわざであり︑当局の腐心もただならぬものがあった︒

すでにして文部省のなかに﹁大学設立基準設定に関する協議会﹂が設けられ︑これに一O名の教育専門家が任命された

のは︑教育刷新委員会が内閣に設立されて二カ月目の昭和二十年十月のことであった︒これは当初︑旧来の大学問題を検

討していたが︑教育刷新委員会が四年制大学の構想に結論を見出した昭和二十一年十二月以降︑もっぱら新制大学の設立

基準の審議に終始した︒それはやがて﹁大学設立基準に関する要望案﹂としてまとまり︑改訂を重ねて現行の﹁大学設置

基準﹂となっている︒他方︑昭和二十二年七月に及び︑米国の流儀にならい非政府機関たる﹁大学基準協会﹂

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JUAA﹀が生まれ︑全国五十七大学のうち四十六大学の代表から構成さ

れていた︒私立日本大学にその事務局が置かれた︒JUAAは前記﹁基準設定協議会﹂の手に成った大学設置基準案を同

協会の定款に合致した大学基準として採択した︒ここに前記協議会は自然消滅の運命を辿った︒この経縄は総司令部の指

導によるものであった︒

昭和二十三年一月︑文部省側としても﹁大学設置委員会﹂を政令第一一号により設置した︒これが新制大学の設立如何

を左右する窓口となった︒この委員会の審査をパスすることなしには︑いかなる新制大学も発足が不可能となるからであ

る︒委員は四十五名で構成された︒うち二十二名は大学基準協会︵JUAA﹀のスタッフから選任され︑のこりの二十三

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一 一 六 六

名が高専関係者・学識経験者・官庁関係者で占められた︒のち富山大学の開設準備状況を視察に来富した上原専禄・神崎

顕一・山田良之助・小池隆一・武内貞義・篠原亀之助の六氏は︑篠原氏︵元教学官︶をのぞき︑すべてこの委員会の委員

当時の戦後日本には大学が帝国大学七︑官公立大学一五︑

さらに高等学校が官立

六・公立二・私立四の計三二︑官立専門学校が工専三一︑農林専門一七︑経専二二︑医歯薬専二五︑其他八に及んだ︒ま

た公立専門学校七一二︑私立専門学校一六八に達していた︒ところで旧制大学の一新制化は容易であったが︑高専の新制大学

への改編は難事であった︒しかし昭和二十三年四月︑公立一︑私立一一計一一一大学が戦後初の新制大学として︑大学設置

委員会の審査答申に基づき文部省により認可され︑血来日をあつめた︒同年は新制高校の発足した年であるが︑新制大学も

開設の幕を切って落したわけで︑右一二大学のケlスは翌年にひかえた新制大学一斉発足の魁をなすものであった︒

昭和二十三年十二月九日︑文部省は新制大学設置推進本部を設け︑目臨に迫った大学設置にそなえた︒総司令部の

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E︵民間情報教育局︶も︑大学設置に関する指導原則一一カ条を提示し︑文部省はこれにこたえて若干の原則変更を要請

すると共に国立新制大学の実施計画を策定した︒これにより諸説紛々と乱れ飛んで帰趨を定めかねた全国各県の新制大学

一挙に解決を見ることになった︒文部省の基本方針が確定したので︑①尚一地域に在る官立学校は︑これを合併

して一大学とし︑一県一大学を目ざす︑①新制国立大学の学部または分校は︑他の府県にまたがらぬものとする︑①各都

道府県には必らず教養および教職に関する学部ないし部を設ける︑④新制大学の名称には原則として都道府県の名を冠す

る︑などの諸条項が公表され︑これに準拠して︑全国の官立高専は新制大学へと移行するのである︒

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高専統合と富山大学

終戦時現在において︑本県には官立高専として︑富山高校・富山薬内・高岡工呼・高岡経専の凹校を数えた︒だが古川岡

経専は昭和二十年九月卒業の第一九間生を送ったのち︑昭和二十一年一一一月末には︑前年の勅令一六五号により︑制度的に

も工専に一本化することになっていた︒従ってそれ以後︑高岡高尚の残影が消え︑数のとでは同和一九年以前に同じく一一一

高専にまとまった︒ただし第四章で述べたように︑昭和二十一年四月を期し︑経存復活の運動が﹂円川まり︑高岡市や富山県

当局も若干の曲折を経て経存・工専の両校を高岡市に設置すべく︑占領軍や文部省に陳情したが奏効しなかった︒結局前

記三校と︑富山師範・富山青年師範の二校を合せた五校の間で︑新制大学化の気運を迎えることになった︒地元側は昭和

二十二年十一月︑県議会が大学設置準備会の設立を可決し︑それにより十二月七日︑大学設尻期成川出会が川町庁内におか

れた︒当座は各校独自に単科大学を構成する案︑総合大学案︑連合大学案︑複科大学案など様々の論議が交され容易に帰

II 

富山大学の開設と経済学科

エ専存続論と経済学科構想

昭和二十三年七月︑県下五高専の校長会・幹事会は︑富山大学設置認可申請書を起草し︑これを印刷に付し︑同年九月︑

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それを文部省に提出した︒それぞれ目的と性格を具にし歴史を別にする五高専が︑相よって同一総合大学のなかで四つの

学部にまとまろうとする努力は至上命令といいながら︑呉越同舟の矛盾を抱えていた︒しかも四学部案に見えがくれする

胎動は︑経専復活の呼び声であり︑経済学部設置の要請であった︒結局︑経専復活も成らず︑経済学部設立も見送られは

したが︑その代り︑文理学部のなかに経済学科という形で︑新制大学の一環に組み入れられ︑そのことによって長らく母

校復活運動に奔走し︑骨身を削った高陵会の関係者一同は︑はじめて怒眉を聞くと共に栄光の朝を迎えたといってよい︒

旧制富山高校が︑新制富山大学の文理学部に改編される方針に一決し︑その組織計画表を文部省に提出したのは︑前述

のように昭和二三年九月であった︒当初それは人文科学科・社会科学科・自然科学科の三学科が構想され︑一般教養課程

を含むことが明らかにされた︒しかし経済学科を設置する予定はなかった︒ただ同学部の図書として︑高岡工専の管理に

属する旧高岡高商の凶書約二万冊が算入されていた︒ところが同年一一月六日より十日にいたる問︑文部省の大学設置委

員会より︑第一審査会の委員六名が既述の顔ぶれを以て上原専禄氏を委員長として︑占宵岡山大学の設置申請に関する実情を

視察すべく派遣せられた︒その結果︑十一月七日午前におよんで文理学部の学科設置・講座編成などをめぐる助言と勧告

が土原委員長から伝達された︒この日を境に︑文理学部の社会科学科計画は︑経済学科にきりかえる方針に改まり︑申請

令官に一部修正を加えることになった︒かくて翌昭和二四年三月一八日付で︑ついに設置認可の朗報が届き︑経済学科の一誕

生が本決りとなったのである︒全国一五の文理学部を通じ︑経済学科は凡そ他に例を見︑ず︑さらに日本海沿岸諸県中でも

唯一の存在であった︒これはまさに白岡高商の事実上の復活に他なならず︑四年後の経済学部独立に至るまでの経過的形

態でもあった︒その意味で経済学科設置の成功は︑ぃ片岡高商から富山大学経済学部への歴史にとり︑限りなく重要な契機

を包蔵するものである︒

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旧高岡高商は全国より参集する向学青年の薫育のメッカとしてまたすぐれた学問研究を生み出すアカデメイアとして盛

名を馳せていた︒星霜が流れて独自の伝統も培われ︑雄遇な校風も閉まった︒母校出身の教授も向井・白川・高光の三氏

を数え︑卒業生も三千名に及び︑その同窓生を主体とする﹁高陵会﹂は︑校運の隆盛を映して有為な活動を展開し︑

母校愛を注いでその発展に寄与して倦むところがなかった︒咋門会にしても六万冊をこえ︑新進向商として遜色のない域

昭和十九年三月二十八日の勅令第一六五号は︑戦時文政の非常措置として全同一一の官立高商に学制改革を施すことに

なった︒かくて一一午前商のうち無傷で存続が認められたものは︑山口・福島・小神・高松・大分の五校にすぎず︑ただ校

名を高商から経専に変更されるにとどまった︒蓋し﹁商﹂の字を忌む戦時感覚の影響であろう︒また長崎・名古屋・横浜

工業経営専門学校に変ることになったが︑経営の一領域を主体とする以上︑学校の性質に著しい差を見なかっ

た︒この三校とも終戦と共に︑経済専門学校に復した︒ところが和歌山・彦根・高闘の三古川商は︑

工専に転換させられ最大の悲哀を嘗めたのである︒

下に︑その主権行為を甘受することになった︒その文教政策には戦時転換校の一戦前形態復帰が含まれ︑従って平時状態に

原状回復させる方針であった︒そこで文部省の態度も︑時の前田多門文相によって高岡・彦根・和歌山の三工専を解体し

経専に再転換させることに定められた︒ところが内閣は東久溜内問から幣原内閣に移り︑安倍能成氏が文相の座に坐るや

高岡工専の存続要望が版烈に燃え︑富山県当局も工業立県の見地から工専の本県存置を希望し︑あわせて由緒ある高岡経

専の復活を期待するという態度を一部し︑具体的には経専復活というオーソドックスな運動の成就を阻む方向に左担した︒

(13)

占領軍当局も間接統治の建前から文部省に方針を示すだけで︑その例外的処理については特に占領政策に影響しない限り

一々干渉せず︑高岡経専の復活が累卵の危機に瀕しても︑その釆配は文部省に一任する態度をとった︒高岡市当局の選択

も県に同調するものであった︒県政と市政の両当局が首鼠両端を持し︑しかも工専存続を固執すれば︑経専復活の旗色は

悪くなる︒そこで学校の増設を承認しない国の方針に照し︑地元の不一致を国側で当初の方針通り裁定する代りに︑文部

省は県市の態度に鑑み︑例外的に工専存続を承認することに方針を変更したのである︒廃校防止につとめた工専側の作戦

しかし前節で述べたように︑昭和二十三年を迎えて︑すでに昭和二十四年における新制大学の一斉開校が国の方針とし

てきまり︑大学への再編成に進むべき母体高専の問題をめぐり︑再び高岡工専に関して経専に転換するか︑工専のまま存

続するかが問題となった︒文部省はこの問題に関し︑最終的に高岡市あてに諮問を行なった︒これは高岡市が昭和二十三

年に直面した選択の試練であり︑工専か経専かの択一を迫られることになった︒もし経専に再転換する答申があれば︑翌

年の新制大学には経済学部が生まれる筈のものであった︒換言すれば︑昭和二十一年三月における本省の工専存続方針と

いうのも畢寛ずるに︑新制大学の工学部化を予想した最後措置でなかったことを物語っている︒けだし戦時末期の転換工

専として設備内容が極度に貧弱で︑大学水準に程遠いため︑敗戦まもない財政事情も考え︑

が︑とり残された唯一の転換校が具さに味う悲哀でもあった︒ この諮問になったのである

しかるに高岡市は又ぞろ工専と経専の並立を主張し︑新制大学としても経済学部︑工学部の両建を要望した︒むろんそ

れは国の容れるところとならず︑

一方︑高岡市議会は︑昭和二十三年八月二十四日に至り︑富

山大学に経済学部を創設しそれを高岡に設けることの必要性を再確認し︑その実現を期する趣旨の決議を︑満場一致で採

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択している︒客観事情の赴くところ︑工学部の開設に努力を払うことになったが︑その認可は最後まで危倶された︒工専

当局は教授陣容の編成に最も苦慮し︑難航を重ねた︒仮にもし経専から経済学部への線が選択されたとすれば︑事態が這

か順調に進展したろうことは自明と思われる︒長い高岡高商の歴史は白づから人材を輩出しており︑もし彦根・和歌山町

様に復活を遂げておれば︑直ちに馳せ参ずる士にも事欠かなかったのである︒当時は新制大学開設の前提として︑必らず

高専の一既存母体が要求された︒これには例外を認めないの︑が文部省の確固たる方針であった︒のち千葉大学に文理学部が

置かれ︑唯一の例外を成した︑が︑それはプレメディカル・コースを標傍し︑総司令部の特別承認をうけ︑文部省の認可を

得た異例のケlスであった︒この時点では︑高岡経専の復活なしに︑ハロ凶大経済学部の生まれる道理はなかった︒

高岡市が再び工専存続案を答申した以後は︑市当局も工専の工学部化に協力し︑県当局も支援の方針を表明した︒他

方︑刑牒の道を歩む経専復活運動は勢を殺がれたが︑これも戸市山市所在の富山高校が昇格して文理学部に改まる汐時を捉

え︑その一隅に﹁経済学科﹂が設置されることにより︑陽の目を見る結果となった︒文理学部に設けられた経済学科は︑

高岡山口同商の伝統と成果なしに生れる由もなかった︒奇蹟にも似た経専復活の形態であった︒ただ設置場所が富山市に移動

したことにより︑後年の学部昇格後も高岡市に舞い戻る公算がうすれた︒高陵会の進めた復活運動の主流は︑学科として

一時的に富山へ移っても︑やがて学部独立の上︑高岡の本陣に復帰することを期待した︒しかしそれはあくまで希望的観

測にす︑ぎなかった︒経済学科は成長し︑文理学部内での呉越同舟を切り上げて︑独自の経済学部に発展する段となった︒

設置場所をめぐり富山と高岡との角逐が出ぜられた︒それは後記に委ねる︒

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(15)

一般に文理学部については︑組織形態や名称に関し︑様々な構想が取沙汰された︒たとえば社会大学とか文化大学とか

を称し︑他の昇格大学と連合大学を作る案︑総合大学ないし複科大学の一学部として文化学部とか政経文学部を冠する案

などが議せられた︒やがて︑旧制大学の母体を欠く新制大学のなかに︑旧制高校が組み入れられる場合︑それを﹁文理﹂

学部と称する方針を︑文部省が統一的に指示したので︑富山高校も富山大学文理学部としてスタートすることになった︒

それは高岡高商の実質的復活体たる﹁経済学科﹂を含むことにより︑全国でもユニークな複合的文理学部が成立した︒

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当時の世相は敗戦なお日浅く︑極度の物資難が続き︑占領軍の指令第三号を基軸に統制経済が実施され︑人心は虚脱し

混迷するなかで︑教育界のみが学制刷新の生気に満ち︑六三制の冠見たる新制大学の実現を全国民に待望せしめた︒しか

し占領軍の後見的指導は厳しく︑文部省の設置基準の運用も厳格であった︒富山大学にしても︑当初計画の通り︑文理・

薬学・工学・教育の四学部が一斉開設に至りうるや否やにつき︑一抹の危倶が拭えず︑関係者の間では二学部でも三学部

でも内容のすぐれた学部の誕生を望み︑県民の関心もつのりつつあった︒すなわち︑昭和二十三年十一月における四学部

の教授申請者六九名の審査結果が︑八名の適格判定にとどまり︑大学発足の前途には赤信号が掲げられたからである︒そ

こで昭和二十四年二月末の大学設置委員会総会までには︑万難を排して教授陣容の強化を計り︑講座を大幅修正する必要

があった︒一方︑富山県民も六千万円を寄付し︑新制富山大学の門出に備えた︒この段階に及ぶと︑県下の高専校長側も

基金六千万円を以て富山大学設立までの諸経費に充てることをきめ︑その財源を県の協力に惇んだ︒その限りでつ名は国

(16)

立でも性格は県立に近い﹂と自認する情況であった︒文理学部の文学科・理学科は昭和二十三年十二月二十二日の第二次

審査にパスし︑経済学科については︑翌二十四年二月十三日の審査で合格した︒

経済学科の当初段階における講座と教官定数は︑経済学五講座・法律学ニ講座の七講座三O課目を予定し︑教授一O

名︑助教授九名︑講師二ニ名の計三二名の陣容をととのえ︑のち社会学講座を加え︑教授︑助教授各一名を配する計画

︵累計三四名﹀を提出し承認された︒大学設置委員会は三月十八日を以て富山大学の設置を認可することに決定した︒但

﹂付帯条件として︑図書の充実をはかり︑施設と設備の拡充を進めるよう通達された︒

富山大学は昭和二十四年五月三十一日を以て︑国立学校設置法︵法律一五O号︶により開設され︑経済学科が文理学部

内に誕生した︒大学設置期成同盟会としても日本海岸地方唯一の経済学科が富山大学に生れたことを︑異口同音に喜び︑

姿を変えた高岡高商の再生を寿いだのである︒

昭和二十四年度の入学試験は︑六月十六・十七両日に実施せられ︑七月一五日に第一回入学式が挙行せられた︒経済学

OO名のところ入学者は一O三名を数えた︒旧制高校の解体のため︑昭和二十三年度の入学生が一年修了の

資格を以て新制大学の入学資格を与えられ︑このうちかなりの人員が経済学科にも入学し︑経済学科のうちに旧制高校的

lドを醸し出すことになった︒それは文理学部自体が富山高校の系譜に立つ以上︑自然の動向でもあった︒昭和二十

OO名︑入学者は一一四名であった︒

蓮町校舎の牧歌的環境

高岡高商の衣鉢を継ぐ経済学科は︑文理学部の一学科として発足し︑初年度の一般教養課程に入るや︑校舎の環境から

(17)

しでも旧制高校的な気風が溢れていた︒哲学を論じ世界観を語り︑教養主義的な色調がゆたかであった︒富山市蓮町の文

理学部じたい旧制高校の伝統を存しており︑往年の牧歌的自然環境には幾多の変化を生じていたが︑いぜん富山市北郊の

静説な台地に田園風景を享受し︑紫銀にかすむ立山連峯の景観を旦夕にながめ︑新制大学の設立理由たる一般教養の形成

には︑すぐれた図書館と共に︑大なる効果をもたらした︒ただ敗戦後の占領体制下という制約のため︑やや気慨に欠ける

経済学科の専門科目の講義は昭和二十五年度になって開講されたが︑最初の講座は経済学︑法学および社会学から成つ

ていた︒経済学は六講座︑法学は二講座︑社会学は一講座であり︑計九講座によって編成されていたが学科目と単位数は

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(18)

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経済学科の専任教官としては︑昭和二十四年には法学の清水虎雄教授︑経済学の植村元覚助教授︑社会学の阿部政太郎

教授および石瀬秀治助教授が就任したが︑いずれも旧制富山高校より迎えられたものである︒昭和二十五年には経済学の

(19)

域宝正治教授︑小寺廉吉教授︑高光兼重助教授︑永森正治助教授︑法学の池田直視講師が着任した︒五氏とも旧高岡高商

の教官ないしは出身者であった︒この噴は教官陣容が十分に整わず︑九州大学の高田源清教授︵旧高岡高商教授﹀や教育

学部の新田隆信助教授などの兼任教官や他の非常勤講師によってかなりの講義が担当された︒

昭和二十六年秋ごろ︑経済学部への昇格運動が表面化してくるのであるが︑この年には専任教官として︑経済学の武石

勉教授︑本間幸作教授︑花井益一教授︑社会学の渡植彦太郎教授が着任したが︑社会学の阿部教授は新潟大学へ転任し

た︒一方︑学科目の編成は昭昭二十六年四月一日から実施された規程によって講座が一つ増えて一O講座となった︒従来

の経済学第二講座の中の経済地理学︑世界経済が新たに商業数学と演習を加えて独立の講座となったのである︒世界経済

論は後に国際経済事情と名称を変えたけれども︑この後︑学部の独立にいたるまで各講座内部の学科目の変更や単位数の

変更が毎年のように行われたのである︒

全国一五に及ぶ国立大学文理学部は︑千葉大学を除き︑悉く旧制高校が母体となっている︒つぎに文理学部には︑文学

科︑理学科に並んで殆んど社会科学科が設けられ︑経済学科を包含する例は︑富山大学に限られた︒棲述の如く経済学科

の設立こそ︑戦争末期に工専への転換を強いられた旧高岡高商の遺産を相続しえて︑その再生を示す成果に他ならない︒

(20)

高岡高商復活運動は︑戦後ただちに同窓会の高陵会が中心となって展開され︑占領下の本省折衝が奏効し一旦は他の二

校と共に経専に戻一る手筈であったのを︑本県の立地事情に籍口する反対勢力の拾頭により︑無念にも不首尾に果てた︒占

領政策の文教改革の進展に応じ︑新制大学設立の時運に際会し︑それを好機として文理学部経済学科の誕生に漕ぎ付けた

ことは︑何よりも高陵会関係者の功業であった︒その具体的立役者は︑曽ての細野・高田両教授であり︑上原教授であっ

た︒それは文理学部の一学科たる経済学科ではあっても︑旧制高校の分化した社会科学科と趣を異にし︑高商系要素の導

入により存立するに至ったものである︒教官構成の上でも当初は高校と高商の両系統の合作が見られ︑

の教官が主軸を占めて行き︑昭和二十六年以降は新たな人材登用により教官陣容が多彩に充実する︒かくて経済学部への

独立を成就することによって︑名実ともに母校の復活を完成したいとの悲願が︑自らにして昭和二十六年頃より再び高陵 ついで高岡高商系

会のイニシアチブの下に具体的運動となって燃え上るに至った︒この独立運動の核心は︑高岡高商系教官を含む全教官と

高陵会との緊密な一体化の上に形成され︑それが県市をふくむ地域社会全円の協力をとりつけ︑百万県民の世論に高まっ

て行き︑中央当局への熱烈な要請を重ねるのである︒とくに経済学科の部内では︑高光・池田の両教官︑それに高田併任

教官の︑真に献身的なチlムプレiは︑特筆大書されねばならない︒

まず経済学科の教官有志の執筆に成る経済学部独立の理由書には︑次のような諸項目が羅列されている︒

宮山大学経済学部の設置理由

(21)

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本学の文理学部は文学科︑経済学科︑理学科の三学科を以て構成する学部であるが左に掲げるような理由に依って昭和

二十七年度より経済学科の改組により経済学部を設置し文理学部は文学科及理学科の二学科編成とする計両である︒

一︑経済学科を有する事は︑薬学部を有する事と共に本学の重要な特色であって︑入学志願者の実情に於ても経済学科

OO名に対して大学開設の昭和二十四年度二三五名つ了三倍︶︑昭和二十五年度二六二名︵二・ーハ倍︶︑本 年度は五七O名︵五・七倍︶の志願者があり︑他の学部学科よりも多い倍率であったが︑将来益々志願者が増加する

趨勢にある事が看取され︑其の内容の充実及規模の整備が強く要望される︒

二︑日本海沿岸に位する各国立大学のうちで︑経済に関する学部又は学科を設置する大学は︑本学の他にはない︒中部

地方に於ても他に名古屋大学あるのみである︒そして立地的条件から言えば︑富山は日本海沿岸の中央であ一って︑企

業の最も活瀧な地方であるのみでなく︑電源にも恵まれているので︑経済に関する大学を置くのに最も相応しい場所

である︒終戦まで二十年間に亘って高岡経済専門学校が置かれていたのも︑かかる立地的条件によるものと考えられ

る︒然し広く学徒の進学の要望に応ずる為には︑文理学部の一学科という規模では不十分であり独立の学部としての

規模を持つ事が必要である︒

一二︑本学の経済学科が文理学部の一学科として置かれたのは︑本来文理学部が人文科学︑自然科学のみなら︑す社会科学

に亘る分野を包括する性格に基いたものであるけれども︑最近文理学部運営要領により文理学部の性格が学術の一基本

的諸部門に亘る綜合的教育及研究を使命とするものとされているのに対し︑経済学科は主として経済界に活動しよう

とするものの教育に重点をおくものであるから︑現在としては文理学部の一学科であるよりは︑独立の学部である事

がより相応しい在り方でなければならない︒

参照

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